練馬稲門会 エッセイ同好会12月度(第114回)報告

師走の日曜日、真っ赤な山茶花の花に冷たい北風が吹きつける中、今年最後の例会に20名の元気な面々が集合し、力作を発表した。その概要は次の通り。
日時  2023.12.17(日)14:30~16:30
場所  生涯学習センター第3教室
出席者および作品(敬称略)
 石田真理   宮古島旅行記
 岡本龍蔵   テニスプレー中のミスは許されるか
 加藤厚夫   ドジャース余話
 古藤黎子   私の「会社遍歴」その1と2
 小林 士   和服のファッション
 小林大輔   私の決断
 小林康昭   自炊
 鈴木奎三郎  四季の記憶97 野沢菜
 高橋正英   新聞購読のこと
 谷川 亘   熟柿人生
 寺村久義   辰年
 照山忠利   人気スポーツ今昔
 富塚 昇   「早春スケッチブック」をめぐる一つの思い出
 鳥谷靖子   アネモネと青い空
 華岡正泰   年賀状
 古内啓毅   師走雑考
 星野 勢   2023.稲門祭
 松本 誠   傘寿になって!
 横山明美   相棒
 渡邊訓子   もっと勉強すればよかった

忘年会
 例会終了後、有志(12名)で「かごの屋練馬店」にて忘年会を行い、今年1年を振り返
 り来年に向けた抱負を語りつつ大いに気勢を上げた。
次回例会
 2月17日(土)14:30 生涯学習センター第2教室を予定
(照山忠利) 




 



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練馬稲門会 エッセイ同好会10月度(第113回)報告

金木犀の香りに包まれ爽やかな秋らしい天気に恵まれた日に11名の仲間が集合し発表を行った。その概要は次の通り。

日時  2023.10.14(土)14:30~16:00
場所  生涯学習センター第2教室
出席者および作品(敬称略)
 岡本龍蔵  先生亡き後の英語読書会の運営
 加藤厚夫  わたしの城下町
 古藤黎子  “パリは燃えているか”に涙?!
 小林康昭  スポーツの秋
 鈴木奎三郎 四季の記憶96 錦秋に誘われて
 髙橋正英  餃子を作ること
 谷川 亘  夫唱婦随
 照山忠利  今年こそ
 鳥谷靖子  花海棠
 古内啓毅  内外ともに心痛むことばかり
 松本 誠  日本寮歌祭

反省会
 ・例会終了後有志7名で練馬「香港亭」にて月見会を催し大いに談論風発、気勢を上げた。
(照山忠利) 




 



練馬稲門会 エッセイ同好会8月度(第112回)報告

“人命にかかわるような”猛烈な暑さが続く中、盆休入りにもかかわらずそれをかいくぐって元気に16名が参集し作品を発表した。その概要は次の通り。

日時  2023.8.12(土)14:30~16:30
場所  生涯学習センター第2教室
出席者と作品(敬称略)
 石田真理  小野浄土寺 浄土堂
 岡本龍蔵  昭和22年の石神井付近の航空写真からー石神井町1丁目町内会への寄稿文
 加藤厚夫  AI先進国ニッポン
 古藤黎子  渡辺美佐子さんに関連して
 小林 士  さらばオーディオタイマー
 小林康昭  浄土の人々
 高橋正英  朝顔のこと
 谷川 亘  古代ハスの分身
 寺村久義  寺院
 照山忠利  焼き鳥50本
 富塚 昇  2回目のビギナーズ・ラック
 華岡正泰  英語力
 古内啓毅  介護認定「要支援2」
 星野 勢  「世界一受けたい授業」のその後
 松本 誠  20年振りの高校クラス会
 渡邊訓子  友人のさんの話~「マザー・テレサ」後編~
 鈴木奎三郎 四季の記憶9「老人本を読んでみる」(作品参加)

その他
 ・例会終了後、有志9名にて暑気払いを「かごの家」で行い気勢を上げた。
 ・次回例会は10月14日(土)生涯学習センターで行います。
(照山忠利) 




 



練馬稲門会 エッセイ同好会7月度(第111回)報告

今回は練馬稲門会第45回記念総会が「リーガロイヤルホテル東京」で行われるのに合わせて、通常の6月ではなく7月に早稲田近辺で開催することとした。猛暑の中ではあったが18名の面々が元気よく顔をそろえ、力作を発表した。その概要は下記の通り。

日時   2023.7.9(日) 13:00~15:00
場所   毎日新聞早稲田別館会議室(新宿区大久保3-14-4)

出席者及び作品(敬称略)
  石田真理  ダイエットが必要
  岡本龍蔵  2023年全仏テニス男子決勝戦の感動的な観戦体験(ChatGPTによる)
  加藤厚夫  全国酒場文化論
  小林 士  日本よ沈没しないで
  小林大輔  私の体調
  小林康昭  都道府県
  高田翔子  アイスコーヒー
  髙橋正英  大連のゴキブリ
  谷川 亘  御年相応なのでしょうか?
  寺村久義  老化
  照山忠利  のぞみ会の10年(世話役人生考)
  富塚 昇  わが青春の一冊―「ショージ君の青春記」
  鳥谷靖子  人生の贈り物
  華岡正泰  五つの諭(さとし)と五つの訓(おしえ)
  古内啓毅  30年
  星野 勢  フラメンコを見た
  松本 誠  ユダヤ人埴輪について
  横山明美  わが家の“名画”

留意事項
(1) 練馬稲門会第45回記念総会 
当日16:00~19:00リーガロイヤルホテル東京で開催され183名が参加、漫画家 弘兼憲史氏(S45法)の記念講演「島耕作と早稲田大学」が行われた。エッセイ同好会から17名が出席した。
(2) 次回例会
8月12日(土) 14:30 生涯学習センター第2教室で行います。
9日例会時8/19とアナウンスしましたが会場予約できなかったため8/12としましたのでお間違いのないようにお願いいたします。
(照山忠利) 




 



練馬稲門会 エッセイ同好会4月度(第110回)報告

コロナ禍の厳しい制約も3月からマスク着用が「自己判断」となり、5月8日からは感染症法上の分類が2からインフルエンザ並みの5に引き下げられ見通しの中、新緑が映える季節となった。穏やかな日和に恵まれた一日、17名が参集し力作を発表した。概要は下記の通り。

日時  4月22日(土) 14:30~16:30
場所  生涯学習センター第2教室

出席者と作品(17名、敬称略)
  石田真理  舞台鑑賞
  岡本龍蔵  ある朝起きたら耳が聞こえないー突発性難聴の顛末記
  加藤厚夫  疫病神
  小林 士  星の観察と占星術
  小林康昭  プロ野球
  高田翔子  あこがれの人
  高橋正英  不眠
  谷川 亘  春爛漫
  寺村久義  83歳の未来
  照山忠利  柳洋子さんを偲んで
  富塚 昇  人生3回目のお伊勢参り
  鳥谷靖子  私のパートナー
  華岡正泰  朝めし
  古内啓毅  追い越し禁止
  松本 誠  IR
  横山明美  わが棲むところ
  渡邊訓子  マザー・テレサの「愛」の種子が着地した瞬間~中学校の道徳授業の現場
        から~

次回定例会 
 7月9日(日)13:00  毎日新聞社早稲田別館会議室
             新宿区大久保3-14-4 tel(3209)1743
             副都心線西早稲田5分、高田馬場15分
当日は練馬稲門会創立45周年記念総会がリーガロイヤルホテルで行われるのに合わせて早稲田近辺で開催し、終了後総会に出席のこととしたい。(詳細は別途連絡)

連絡事項
アンケートの例会を早稲田で行いたい。(6月または8月の例会をこれに充てたい)。別途連絡。
(照山忠利)  





 



練馬稲門会 エッセイ同好会2月度(第109回)報告

厳しい寒さも峠を越え春の訪れが感じられる日に、17名のメンバーが集結した。
概要は次の通り。

日時  2023.2.18(土) 14:30~17:00
場所  石神井公園区民交流センター会議室

出席者と作品(17名、敬称略)
  石田真理   今の世の中  
  岡本龍蔵   お伊勢参りと新幹線品川駅改札口のトラブル
  加藤厚夫   地名が致命傷
  小林大輔   家内の異変
  小林康昭   大学 ワセダ
  鈴木奎三郎  四季の記憶「冬の使者」
  高橋正英   自転車ドロボー
  谷川 亘   “新友?親友?”
  寺村久義   楽天家
  照山忠利   練稲45年とエッセイ同好会
  富塚 昇   子離れできない親の話
  鳥谷靖子   アゲラタムの花
  華岡正泰   東京に住まいして
  古内啓毅   新型コロナウイルスと三々会
  星野 勢   朝めし当番
  松本 誠   「竹島」について
  横山明美   時代屋

連絡事項
アンケート 会員名簿作成のデータおよび会への意見を求めてアンケートを行った。
年齢確認証 区民交流センター使用料減免申請のための資料提出を願った。
柳洋子さんを偲ぶ会
3月25日(土) 文化学園大学にて行われる会にエッセイ同好会から6名(華岡、岡本、寺村、横山、鳥谷、照山)が参加することを確認。
次回定例会 4月22日(土)14:30 生涯学習センターにて開催する。
なお、7月9日(土) 練馬稲門会の第45回記念総会がリーガロイヤルホテルで開催されるのでこれに合わせてエッセイ同好会の例会を早稲田で行いたい。(6月または8月の例会をこれに充てたい)。別途連絡。
(照山忠利)  





 



人気スポーツ今昔

照山 忠利  2023.12.17 

 わが家の隣の大泉第二小の校庭で休日に行われている子供たちの練習をながめていると、野球よりサッカーの方が元気があるようにみえる。我々の子供のころは何といっても野球ばかりだった。当時の少年たちの憧れの的は長嶋茂雄で、誰もが背番号3をつけたりサードを守りたがったりした。
 最近は大人気のサッカーだが、かつては一部のマニアの間で盛り上がっていたものの、常に野球の後塵を拝していた。一時人気が出たのは1968年メキシコオリンピックで日本チームが銅メダルに輝いた頃だ。西ドイツからクラマーコーチを招聘し欧州スタイルのサッカーを目指し、釜本や杉山など才能ある若手選手が活躍した賜物であった。因みに当時の日本代表には小生の母校日立一高出身の宮本征勝と鎌田光夫(いずれも後にサッカー殿堂入り)がいて懸命に声援を送ったことを記憶している。
 私の大学時代、級友にサッカー選手がいたため外国のクラブチームが来日した時には一緒によく駒沢競技場に足を運んだ。ブラジルのパルメイラス、英国のアーセナル、ソ連のディナモなどと対戦した日本チームはいつもまるで歯が立たず、観客席はガラガラだった。それがやがて実業団の日本リーグを経て現在のJリーグに発展するわけだが、今ではなんと60チームがJリーグを戦っている盛況ぶり。この原動力となったのは初代チェアマン川淵三郎氏の類まれなリーダーシップであった。氏は早稲田にとって誇るべき存在といってもいい。それにしても今の早稲田のサッカー部はどうなのか。Jリーグ人気で大学サッカーの存在感が薄れている中でも、関東大学の2部に落ちたままというのは寂しい限りだ。
 サッカーに次いで人気が出てきたのがラグビー。五郎丸らの活躍で南アを破った2015年W杯で3勝を挙げて世界の強豪国の仲間入りを果たした。自国ネイティブに限らず7か国出身の選手が「JAPAN」として「ONE TEAM」を作ったおかげであった。2019年の日本大会では準々決勝で優勝した南アに敗れたものの念願の8強入りを果たした。今年のフランス大会は惜しくも決勝トーナメントは逃したものの日本のラグビー環境が魅力を増したため、新しく発足したリーグワンには南ア、NZ、豪など強豪国の有力選手が加わって世界最高レベルの試合が国内で見られるようになった。かつてW杯は出ると負けだったのが隔世の感がある。来期は実績のあるエディ・ジョーンズがHCに復帰して指揮をとることとなった。2027年の豪大会の8強入りに向けて頑張って貰いたい。
 さて野球だが、今年3月のWBCで日本が世界一となって国民を沸かせた。夏の甲子園では慶応高校が「エンジョイベースボール」で107年ぶりの優勝を飾り、秋の東京6大学では兄貴分の慶大が早慶戦を制して優勝、大学日本一も獲得してさながら慶応イヤーとなった感がある。早稲田の悔しさを少しだけ慰めてくれたのはOBの岡田彰布監督率いる阪神タイガースの日本一。優勝を意味する「アレ」は流行語となった。最後に驚いたのがやはり大谷翔平のドジャース移籍と10年1000億円超の破格の年俸。並みいる大リーガーはおろかサッカーやNBA、NFLのスター選手たちをはるかに凌駕するものだ。不世出の日本人といっても過言ではない。これでまた子供たちの野球人気が盛り上がってくれればいいなと思っているのだが、わが家期待の小5の孫は似合わぬキックボクシングなどに精をだしている。誠に残念ながら所詮人気スポーツには縁がないのかもしれない。
 ともあれ何かと不愉快なニュースが多い世の中で、スポーツの世界だけは何とか国民を勇気づける感動をもたらしてほしい。特に早稲田スポーツの奮起には期待するところ大である。
(了) 

                                       


 



四季の記憶 97「野沢菜」

鈴木 奎三郎   2023・12・17

 秋がなくていきなり冬になった。そして早くも師走である。過ぎてしまえばもうあの暑さは過去のことだが、2023年の世界平均気温は観測史上過去最高となった。12万5千年前以来とのことである。やれやれこの先はいかが相成るのであろうか。自分の寿命を考えれば気にしても致し方ないが、これからの世代が心配である。

 この時期になると思い出すのは「野沢菜」である。これは多分に母の記憶と重なっている。「野沢菜」は長野県北部の野沢温泉村の特産品である。もうすでに漬け込みが終わっていて出荷がそろそろという時期だが、わが家もすでに注文済みである。家人は東京生まれだが、「野沢菜」と「山東菜」は無二の好物で、着荷を心待ちにしている。野沢温泉村のお湯は暑い。長野市在の長兄が元気だったころは、冬になると兄弟全員で温泉村の「住吉や」に二、三泊で行くことが恒例行事だった。

「住吉や」には、畦地梅太郎の版画がたくさん保管してあり毎年これをみるのが楽しみのひとつであった。畦地はここに長らく逗留して作品作りに励んでいたらしい。素朴な作風の山の版画家である。いまは小さいながら美術館もある。
 野沢温泉村は野沢菜発祥の地。11月の収穫シーズンを経てお湯洗いされて野沢菜はおいしい野沢菜漬けになる。観光協会加盟の旅館・民宿は200店超。ほんの10分も歩けば町を通り抜けることができるコンパクトで箱庭のような趣きである。これが魅力のひとつでもある。点在する共同浴場を巡るのも楽しみのひとつ。13の外湯はそれぞれ歴史や風情や趣が異なる。ただし、いずれの湯ももちろん調整はしてあるがかなり熱い。

 ハレとケ、新旧が入り混じっていて、歩いていても楽しい温泉街である。スキーシーズンにはスキー客でにぎわう。温泉街のすぐ上からリフトがあってあっという間にスキー場にいたる。ただしこのコースは難易度が高い。
「野沢菜」の記憶は母と故郷につながると書いたが、いつも12月になると母がひと樽の野沢菜を漬け込む。もちろんお手伝いさんも動員して同じ頃に味噌も作る。手前味噌である。年末になると今度は餅つきである。そうこうしているうちに年が改まる。
いまは野沢温泉の物産館から取り寄せている野沢菜は、どういうわけか若かったころの母の記憶につながる。ぼくは恐らく小学生。これに七味唐辛子を一振り。これでお正月の準備は完成である。

 進学のために東京に出てきたときに感動したのは、関東はいかに晴れが多いか・・である。生まれ育った長野市は、冬場はほとんどが曇りか雪模様であり、晴天の日は冷え込みが厳しい。母はよく「今度は暖かいところで暮らしたい・・」と言っていたがこれは最近の自分の実感である。


                                       


 



「早春スケッチブック」をめぐる一つの思い出

富塚 昇   2023年12月17日

 シナリオライターの山田太一さんが亡くなりました。そのニュースが流れた直後に立川高校の卒業生がインスタグラムで次のように投稿していました。
 「高校の授業で観た『早春スケッチブック』がなぜか無性に懐かしくなって、少し高い本だけれど思い切って注文したのがこの前の月曜日の夜。そして訃報を聞いたのが次の日の朝。なんだか不思議な気持ちです。大切に読みます」。
 山田太一さんが亡くなったことを伝える新聞やテレビのニュースでは、山田さんの作品として「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」「男たちの旅路」などが紹介されていましたが、あまり紹介されることがない作品に「早春スケッチブック」というドラマがあります。このドラマもすばらしい作品です。それは、7年も前に授業で観た『早春スケッチブック』を思いだした立川高校の卒業生が、その脚本の本を購入したということからもわかります。
 ドラマは子連れ同士、母親と息子(和彦)、父親と娘で結婚した4人家族を中心に、その母親とかつて付き合っていた男(竜彦)、そしてその男を慕う若い女性(明美)の6人を中心に展開される。竜彦が目の病気なるのだが、もう死んでもいいと病気を治そうとしないため、生きる張り合いを与えるために明美は和彦を探しだし、竜彦に合わせようとする。実は和彦の本当の父親は竜彦なのです。そしてドラマは動いていきます。
 和彦は竜彦が本当の父親であることを知ると竜彦の家を訪ね、「病気なら、早く治してください」という。すると、竜彦は怒り狂って次のようなセリフを吐きます(竜彦は山崎努さんが演じています)。
 「病気はなおしゃいいのか。長生きすりゃあするほどいいのか。・・・ありきたりなことをいうな。お前ら骨の髄までありきたりだ」と。
 そして、竜彦のこの言葉に衝撃を受けた高校3年生で受験生の和彦は、自分のこれまでの生活が何から何までありきたりに思えてきて、自分はありきたりな人間ではないのだということを周りに示すために、共通一次試験を途中で抜け出し試験を放棄してしまうのです。
 このドラマが放送されたのは私が教員になった1983年のことです。そんな昔のドラマを見せて今の生徒に伝わるだろうかと思いました。しかし、その不安はすぐに払拭されました。ドラマを見せた後、廊下ですれ違った生徒がこんなことを言ったのです。
 「先生、『お前ら骨の随までありきたりだ』は流行っていますよ」。
 さて、話は変わりますが、このドラマを見せた立川高校では、卒業式が終わると第二部といって、生徒主体でバンド演奏をしたり、全員で合唱をしたり、高校生活を振り返ったビデオが上映される会があります。その企画のために教員はスケッチブックに卒業生へのメッセージを書き、第二部の中で教員とメッセージがスクリーンに映しされます。メッセージはたとえば「卒業おめでとう。高校時代に出会った友だちを大切に」とか「感謝の気持ちを忘れずに」という感じです。私は「先生、『お前ら骨までありきたりだ』は流行っていますよ」と言ってきた学年の卒業式の時に、「ウケ」をねらってスケッチブックに3枚書かせてもらいました。1枚目ではただ、「おまえら!」とスクリーン一杯に映ります。これを見た生徒は「これは何?」と思ったはずです。そして数秒後に映った2枚目には・・・「骨の髄までありきたりだ!」と大きく映し出されたのです。やりました。これはかなり「笑い」をとりました。そして3枚目にスケッチブックを持った私が映ります。私は次の言葉を卒業生へのメッセージとしたのです。
 「ありきたりを生きぬくことで、ありきたりを超えよ」。
 

                                       


 



ドジャース余話

加藤 厚夫  2023.12.17 

 突然上司の広報部長から「来月僕の代理でロサアンゼルスに行くかね?」と言われたので、もち行きたいですと即答した。本社から通信機械工業会に出向した翌年の1979年33才の時である。本社に一応その旨報告すると海外出張手当10万円が支給されるので申請するようにと言われた。しかも工業会からも同額を支給するというので慌てて上司に相談すると「両方もらっとけ」との命令なのでそれに従った。LA出張の名目は「情報通信システム総合展示会データショウLA」事務局ということで出展メーカー20社の人たちに同道した。現地での行動は全く自由でカリフォルニア州の観光を堪能することにした。しかし初めてのアメリカだったので色々戸惑いもあった。まず日本式英語が全く通じないこと、食事のたびにチップを払うこと、人種差別なのかバスの中で老婆に道を聞いたらo-no-と言って逃げたこと、子供に見えるのか女給がコーヒーカップを置いていかないこと、治安が悪いので夜の遊びが出来なかったこと等々である。
 二日目R社のY課長代理が現地法人の社長に挨拶に行くというのでついて行った。話が済むと社長がなんと「明日ドジャースの試合があるので三人で見に行こう」と言うのだ。ドジャース球場に入るやさすが大国アメリカで、こんな広大で清潔な球場が日本にあるのだろうかと驚いた。また声援がやたらと静かで日本のような太鼓や笛で一斉にどんちゃんとやる応援がないのだ。そんな印象しか残ってないので、先日ドジャースというチーム名の由来を調べてみた。
 ドジャースはもとニューヨーク・ブルックリン地区が本拠地で、その時代路面電車が頻繁に走っていてそこの住人へのあだ名「路面電車をよける(dodge)する人たち」を表す「トロリードジャース」から名付けられたというのだ。確かに球をよけるゲームをdodge ballというから頷ける。また「エンジェルス」の本拠アナハイムのディズニーランド訪問もかなった。豊島園しか知らぬ者にとってはこんな素晴らしい発想空間があるのかと興奮した。なかでも印象に残ったのが「イッツアスモールワールド」だ。ボートに乗り館内を巡るあいだじゅうテーマ音楽が流れ、出る頃にはすっかりそのメロディーが頭に収まってしまっていた。この歌は面白いと売店でドーナツ盤を買って帰った。ランドを出てひとりになったのでタクシーを止め「ホリデイ・イン・アナハイム」と告げると運転手は頭を傾げた。昔の「サマーホリデー」の発音を思い出し「Hardy・イン・アナハイム」とやったら通じた。後日のことだがこんな幼稚園児以下の英会話能力がたたった渋い体験がこの出向期間中にあった。日本にもディズニーランドを開設するとオリエンタルランドが発表したときだ。これは絶対将来性があるぞと応募してみたが園児以下の会話能力ではどうしようもない。
 翌日はM電機のA課長とアムトラック鉄道の特急でLAに戻り展示会場に顔を出し、午後に右通行運転に慣れた彼が借りた車に便乗してサンタモニカビーチに向かった。夕食時二人でビールやワインをかなり飲んだが車でホテルまで帰らなくてはならないと気づいた。
どうすると聞くと、アメリカでは酔っ払い運転はOKよと言われビックリしたが無事ホテルに到着出来た。ともかくタダで色々体験をさせていただいた感謝の一週間であった。


                                       


 



自炊

小林 康昭  231217

 アメリカで勤務していた1991年から1993年の間、自炊生活を送ったことがあります。私は1963年に卒業して建設会社に入社し、東京で本社勤めをした後、1968年から24年の間、海外勤務を続け、土木工事の現場を渡り歩いてきました。土木工事は人里離れた山中、ジャングル、砂漠、サバンナの地帯が多いので、家族同伴は難しく、日本から赴任する社員や職人はすべて単身赴任で、現場宿舎で生活を送り、従業員食堂で日本人の料理人が提供する料理を食べていました。
 その時までは自炊する機会はなかったのですが、アメリカでは勝手が違いました。現地の不動産業者が、条例をたてにして、男ばかりがたむろする宿舎に家屋を貸さないのです。その結果、日本から赴任した社員たちは、市内の各所に個々に借家住まいをして、現場に通勤する生活を送ることになったので、自炊の必要に迫られたのです。自炊を始めるにあたって、まずは、基本知識の習得です。
*  *  *
 手持ちの蔵書を探ってみました。自炊生活をイメージしたものがあります。沢村貞子「わたしの自炊日記」(中公文庫)です。著者は、毎日、調理した献立をノートに記録し、その記録を参考にしながら毎日の献立を決めたということです。私は予め、調理の前に決めた献立を記録しておき、その献立を、次の献立を決める参考にしました。我が家の書棚には、千趣会のCOOK BOOKシリーズが並んでいます。さらに、書店で見かけた日本放送出版協会のNHKきょうの料理ポケットシリーズや、ベターホーム出版局の暮らしに役立つ本、そのほかの出版社の自炊ハンドブックなどを参考に、日本で調理器具と調味料を揃えて、現地に携行することにします。
*  *  *
 アメリカでは借家に、水道、電気コンロ、テレビ、オーブン、レンジ、冷蔵冷凍庫、食器洗浄機、鍋、包丁、皿を、家主が備える習慣になっています。そこで、足りないものを整えます。まず、炊飯器。小さめで予約と固柔の調節機能のあることが望ましいのですが、意外なことに量販店より成田国際空港の売店に恰好な売り物があります。鍋、まな板、包丁、研ぎ器。ボール、ざる、タッパウェアー、お玉杓子、ご飯茶碗、湯飲み茶碗、お椀、丼、皿、お箸、皮むき器など。調味料には、醤油、味噌、塩、酢、砂糖、味醂、出汁の素、辛子、胡椒、片栗粉、バター、油、ケチャップ、マヨネーズ、ウスターソースなど。と思い出すだに鬱陶しい限りです。
*  *  *
 準備が整ったところで、近所のスーパーに出かけて、食材の確認です。一見して野菜の種類が少ないですね。アスパラガス、カリフラワー、セロリ、パセリ、ピーマン、ブロッコリー、マッシュルーム、レタスなど。キャベツ、トマト、ホウレン草、人参、馬鈴薯、グリンピースはあるが、大根、南瓜、薩摩芋、ゴボウ、茄子、里芋、山芋、蒟蒻、白菜、小松菜、葱、分葱、水菜、豆腐、芹、韮、山葵、茸や海藻の類はないのです。魚や貝類の種類も少なくて、まったくないこともあります。レトルト食品がやたらに多く、客が気軽に買っていますが、わかったことは、とても不味くて食べられたものではありません。アメリカ人の味覚が日本人と違うのです。
*  *  *
 まずは、平日の5日間の献立を作りました。一日の朝食に1品、昼食の弁当に2品、夕食に3品、一日6品。5日間で30品です。この30品に5種類の献立を決めます。手持ちの本から手始めは易しいものをと、Aほうれん草のお浸し。B鯖の味噌煮、C肉じゃが、Dポテトサラダ、Eスクランブルエッグの5品を選びました。休日の土曜日は朝から調理で過ごし、出来上がるとタッパウェアーに入れて冷蔵庫に納め、記録しておきます。
*  *  *
 作ったものは、月曜日から食べ始めます。朝5時半起床。身支度して30分の散歩。帰宅して6時に、みそ汁を作り、前夜に炊飯器に仕掛けておいたご飯とEで朝食です。空になった炊飯器に3食分の米を研いで入れ、予約のスイッチを入れます。前夜に準備しておいた弁当をカバンに入れて、6時半に家を出て自家用車で職場にむかいます。職場は宿舎から100マイル、160キロ先の砂漠の地にあります。時速100キロで走って、1時間半かけて8時に着きます。始業時刻は9時ですが、職人が来るまでに管理職者は、その日の作業を決める必要があります。昼休みは携行した弁当で昼食です。みそ汁の匂いをアメリカ人が嫌うので、職場でみそ汁は御法度です。
*  *  *
 午後5時の終業時刻、即座に全員が帰宅です。6時半に帰宅すると、炊飯器がご飯を炊き上げてくれています。「よしよし、愛い奴じゃ」と風呂に入り、夕飯を取るまえに、翌日の弁当の準備です。おかずの器に、A、B、から6分の1づつ納めます。翌日は、CとDにします。みそ汁を作って、C,D,Eをおかずにして夕食をはじめます。みそ汁は、日本から持って来た乾物の若布、はるさめ、凍み豆腐、麩から2種類を選んで実にします。その後、浅漬けが加わりました。だし巻き卵、ハンバーグステーキ、ポトフ、ボルシチなどが献立に加わりました。そうなると、次の献立は、機械的に決めるようになって、何にしようか、と悩むことはなくなりました。並み居る本の中では、ベターホームが最も良き師範でした。

                                       


 



熟柿人生

谷川 亘    2023年12月17日

 いつもの早朝“よた歩き”。
 柿の大木。とっくに盛りを過ぎ、初冬の冷えに呼応して落葉を急き、見上げると、とどのつまりは鳥の餌食に、あるいは自ら朽ち果てるのでしょうか?誰もぎるともなく残された完熟柿の実二つ。秋色の空にあの橙色がひときわ冴えて見え、自慢げに何かを訴えたいような、それでいてどことなく哀れな風情。
 反射的に子供時代の我が家の柿を思い出しました。
 戦中戦後。食にも事欠く時代のこととて食生活も自給自足。小粒ではあったものの、甘味にあふれ、末成り(ウラナリ)と言うのだそうですが、一年おきに裏年と表年はあっても、揃って屋根に登っては、はしゃいで捥いだ思いが走馬灯のように蘇えりました。柿は果物とは言え、立派な補給食であったことに違いありません。
 盛りの季節は違うのですが、家まわりの背の高い垣根には自生した烏瓜(カラスウリ)が繁茂して、「ああ、あれが食べられたらなぁ・・・」。指くわえたのを思い出しました。
 話それますが、自給自足と言えば、熱でも出した時には、手入れ尽くして飼っている栄養源に相当する鶏をつぶす。素人の事ですから皮の部分には羽毛の取りそこない。あれを見たっ切り、鳥皮とモツ煮込の類はこの年に至っても苦手なのです。
 
 柿の大木の枝先に初冬のどこまでも抜けきった雲一片もない青天井。八十路半ばは正しく今生の黄昏。赤橙(アカダイダイ)色っていうのでしょうか?つくづく今のわが身を象徴するような、夕日に冴える熟柿のたった二つ。きっとあれは寒気に晒されて甘さ増す“渋柿”なのですよ。

ここで柿三昧。
「柿食えば鐘は鳴るなり法隆寺」。もはや一言も口はさむ資格はございません。
「隣の客は、よく柿食う客だ・・・」。あれっつ、間違えました。これは早口言葉でした。
「落柿舎」。嵯峨野にある名刹。俳人・松尾芭蕉の弟子だった向井去来の使用していた別荘跡だそうで、この名称の由来は、庵の周囲にあった柿が一夜にしてすべて落ちたことによるとか。松尾芭蕉もこの庵に滞在し『嵯峨日記』を著した場所として知られています。
 
 まあ、我が人生も完熟して、かすかに輝けるのもあとわずか。やがて時が熟すと地面に、こっぴどく、“ビッシャ~ン”とたたきつけられて、一巻の終わり。
 人の一生なんてそんなものですよ。


                                       


 



今年こそ

照山 忠利  2023.10.14 

 10月に入りさしもの残暑も影をひそめ、漸く秋らしい日和が訪れるようになった。それにしても今年の夏の暑さは尋常ではなかった。連日連夜の猛暑日と熱帯夜。本当にこんな暑さが来年以降も続くなら、生きていくのが嫌になるような気にさせられたほどだ。こんな感じを抱いたのは小生一人ではあるまい。あながち後期高齢者となったからでもないだろう。
 そんな厳しい気象条件の下でも、8月の盆過ぎまでは何とか体調を崩さずに来ることができた。「ヨシ、今年は大過なく1年を乗り切れそうだ」という自信が生まれた。しかしその自信が過信となり油断となった。盆が過ぎても酷暑の日々が続いていたころ、畑作業とゴルフを連日でこなしたのがいけなかった。秋野菜の大根、白菜、小松菜、ほうれん草ほかの播種と植付のため、狭いながらも耕地に一心に鍬をふるった。大いに汗をかいた後のビールは格別で、さほど疲労感が残ったようには思えなかった。翌日のゴルフを楽しみにしていたせいで疲れを忘れていたのかもしれない。そのゴルフは36℃の炎天下でのプレー。余りの暑さ続きでコースの木々や芝が茶色く枯れていた。さすがに後半はばてたものの何とか完走し(同伴者の一人は途中リタイア)、飯能駅前の居酒屋での19番ホールで冷えた生ビールをジョッキで流し込んだ。元気を取り戻したように思われたが、どうも様子がおかしい。一時的に耳が遠くなったような感じがするし鼻詰まりに喉詰まりが起きた。体力の低下に付け込まれて夏風邪にやられたらしい。寝床の冷房で寝冷えをしたに違いないと推測した。
 それからというもの、酒を飲んでもちっともうまくない。それにさほどの量を飲んだわけでもないのに二日酔いで頭痛がするようになった。思い切って酒断ちをすればよかったのかもしれないが、付き合いもあり毎日少量ながら飲み続けてきた。そのうち回復するだろうと高を括っていたのだ。ところがよくなるどころかしつこい咳と痰に間断なく襲われるようになった。風邪だかインフルだかコロナだかわからないが、不快な症状が1か月以上続いた。医師から咳止め薬(全国的に品薄状態とか)を処方してもらい節制に努めたおかげで、多少の咳は残るものの最近に至り漸く軽快した。でもまだ用心して酒は控えている。
 過去を振り返ってみると、一昨年は2月にコロナに罹患し、隔離期間も含めて1か月ほどやはり激しい咳と痰に苦しめられた。昨年は7月末に駅のホームで転倒し肋骨を骨折して1週間の入院を余儀なくされた。今年こそ何事もなく乗り切ろうと新年に決意を固め、慎重に日々を過ごしてきたつもりだったが、ちょっとした油断が思わぬ災厄として降りかかってきた。やはり高齢となり昔の若い時のような無理はできないということを思い知らされた。この一連の病気でまた体重が減り貧相にみられるのがつらいところだ。「やせたねというよりやつれたね」。綾小路きみまろのセリフが耳をつく。あと残された2カ月半、何とか今年を無事に乗り切りたいと願っている。
(了) 

                                       


 



N君のこと―あるいは「原子論」から「魂の不滅説」へ

富塚 昇   2023年10月15日

 私は「倫理」という科目の試験にこんな問題を出したことがあります。
 「『「死の恐怖』を超える方法としてギリシアの哲学には二つの対照的な考え方がみられる。その二つの考え方についてピタゴラス、ソクラテス、エピクロスという人物をあげて120字以上で説明しなさい」。
 二つの考え方の一つ目は「魂の不滅」を信じる考え方です。三平方の定理のピタゴラスは意外な感じもしますが、宗教結社を組織し「魂の不滅」とともに輪廻転生を信じていたということです。また、ソクラテスは、不正な死刑判決に対して友人が脱獄することを勧めるなか「毒杯」を仰ぎます。これについては死刑を受け入れた理由の一つに「魂の不滅」を信じていたことがあるといわれます。一方、ヘレニズムの思想家のエピクロスは「原子論」の立場に立ちます。原子論では原子が結合することで人間の感覚や認識が生まれると考え、さらにそこからエピクロスは「死」によって「魂」は消滅するため「死」を恐がる必要はないとします。以前の「大学入試センター試験」の問題では、エピクロスの考え方についてこんな記述で説明しています。「人間、生きている間に死ぬなんてことはないし、死んでしまえば空中のチリみたいなものさ、何も考えられなくなるだけの話じゃないか」と。教員になってからエピクロスを学んだ私は、どちらかというと「魂の不滅説」よりもエピクロスの「原子論」の考え方に惹かれていました。
 しかし、最近その考え方に大きな変化が訪れることになったのです。
 今から40年以上前にさかのぼります。私は大学を卒業し、大学院入試に失敗し続けて教員採用試験に不合格となりました。そして、教員になることと大学院で学ぶことの両方をかなえるために東京学芸大学大学院を受験し、入学することができました。そこで出会ったのがN君でした。当時学部の3年生で年齢は私より二つ下です。N君は今度早稲田からきた富塚という人はどんな人なんだろうと好奇心に駆られたようで、よく「院生室」にいた私のところに会いに来てくれました。私は翌年教員採用試験に合格し、大学院を1年で中退することになったのですが、その後もつきあいは続きました。
 お互いに結婚する前は、N君は「首都高をちょっととばしてみませんか」とか、正月に「湘南に行きましょう」などということでドライブをすることがありました。湘南のどこを目指したかは忘れてしまったのですが、渋滞とは反対方向に進みスムーズに運転できたことを覚えています。また、よく電話をくれて長電話をしました。話題は山田太一のドラマのことだったり、いろいろな情報を教えてくれたり、「こんな経験をしましたよ」などと話をしてくれたこともありました。彼との話ではユニークな発想に学ぶことが多くありました。
 そんなN君から7月に電話があったのです。病気になってしまったということでした。8月にも続けて電話があり、病名を教えてくれました。「膵臓ガン」ということでした。難しい病気です。そして、8月17日に、私も加えてもらっていた学芸大時代の仲間と会う機会を作りました。グループラインで連絡をしている中で、N君はこんな提案をしてきました。
「『余命半年と言っていたのに、1年後に元気に生きている』というのがガン患者あるあるであり、別名『ガンで死ぬ死ぬ詐欺』とも申します。Nが意図せずに『死ぬ死ぬ詐欺』をやってしまった場合、皆様に横浜中華街の高級料理店にご招待するという『罰ゲーム』を行おうというものです」。
すごいと思いました。N君の提案があったから、集まりでは、みんなで会って、そして「じゃあ、来年、中華街でおごってもらうことを楽しみにしているからな」と言って解散することができたのです。
 その時から1か月半経った10月初旬、N君の奥様からグループラインに連絡が入りました。スマホを見て一瞬目を疑いました。・・・来年、中華街で会うことができなくなったことが分かったのです。年齢としても、病気が分かった時からの時間としてもあまりに早い訃報でした。N君の葬儀は私にとって初めての親しい友人の葬儀になってしまいました。そして、私の考え方が変わったようなのです。それはこういうことです。いずれ、いつか私もあの世に行くことになります。その時にこんなことをいうN君が頭に浮かんでくるのです。
 「いやあ、富塚さん、久しぶりです。あの世っていうところも、いろいろ興味深いところなんですよ。皆さんが来る前にいろいろ探検をしていました。さて、どこからご案内しようかなあ」。 
 

                                       


 



わたしの城下町

加藤 厚夫  2023.10.14 

 94年の歴史ある豊島園が先年幕を閉じた。62年も近くに住み暮らしいろんな意味でお世話になったので感慨深いものがある。とりわけ夏に毎週催される花火大会は見事で、子どもたちは豪快に打ちあがる花火にいつも大はしゃぎであった。二階の窓から瓦屋根に座らせ見物させていたが42才で家を建て直した際、ゆったり見物できるように屋上を設けたくらいだ。また小学校が夏休みに入ると、仕事を終え家に帰っても誰もいない。夜間の納涼開園に連中は年間パスポートで毎晩豊島園に行ってしまうからだ。また夏休み、休日はもちろん人気のプール入場にも使えたからずいぶんと助かった。
 いっぽうで近所の住民が随分と迷惑を被った時代でもあった。休日には駐車場からあふれ出た車が道路両脇を占拠してしまい青空駐車などというノンビリ時代だから駐車違反取締りは全くない。そこで園は迷惑料としてか無料入園券を年間20枚ばかりを我々近辺住民に配り口封じをしていた。
 またこの豊島園は中高生時代の遊び場でもあった。もちろん親から小遣いを一銭ももらえぬ時代で闇バイトもないから自力で入るしかない。幸い近所の旧中大グランドで毎日鉄棒にぶら下がっているうちに自然と大車輪をこなすまで腕力がつき、鉄条網を張り巡らした高い塀など猿より軽く乗り越えられた。
 そんな仲間と下校途中はいつも空っ腹でおやつはもっぱら放置された畑のトマトやキュウリだった。しかしたまに甘いものが欲しくなる年頃だ。そこで銭をどうしたら得られるかを考えた末、園内に山積みのビール瓶の活用を思いついた。
 空瓶の入った木箱にひもを付け何箱も塀から吊り下ろし、外で一人が受けそれを酒屋に持って行く。一本10円で引き取ってくれたが、どちらの御宅ですかと聞かれ適当に答えその場は納得したらしいが、しょっちゅう持っていくものものだから怪訝な顔をしていた。その貴重な銭を握り、看板娘がいるあんみつ屋に飛んでいったものである。
 さてこの歴史ある「としまえん」がなぜ閉園に至ったかを聞いてみた。まずその前提に20年前から東京都が固定資産税を半額にまけていたという経緯がある。ここをいずれ災害時指定広域避難地区にする構想があったからだ。一方豊島園の入場者は年々減り続け最盛期には年間240万人だったが近年80万人にまで落ち込み赤字経営が続いていた。しかし名うての西武鉄道、この一等地を手放さんとゴネだしたのだ。そこで伊藤忠がワーナーブラザースに土地の3分の一を高額で買わせる仲介をしたことで決着したという。今年6月オープンしたそのハリーポッター館には平日にもかかわらず連日数千人が押し寄せ、閑散としていた駅前のスタバやドトールは連日盛況だ。西武も運賃収入が上がりホクホク顔だ。そのポッター館の奥に新都立公園が開園したが、いまだその3倍の広さが放置されたままになっている。これは東京五輪での都のズサンな計画と贈収賄で6千億円も使い果たしてしまったからだ。とはいえ自宅から5分という地の利から散歩には最適でいつも身体を動かしに行く。
 残念なのは都がせっかく練馬城址公園などという立派な名称にしてくれたのだが「誰が唄うのか子守歌 私の城下町」にはほど遠い情緒なき城下町ということだ。



                                       


 



日本寮歌祭

松本 誠    2023.10.14

今年11月26日(日)に4年ぶりに日本寮歌祭が開催される。
場所は日暮里駅前のアートホテル日暮里ラングウッド。午前11時から15時半まで。
コロナ禍のため2019年に開催後中止されてきた。日本寮歌祭とは
昔の旧制高校を中心とした学校群が、当時の寮歌を中心に放歌高吟する
歌のお祭りだ。1961年(昭和36年)に第1回が開催され、日比谷野外音楽堂や日本武道館などで50回を積み重ねた。このころはTV中継が全国放映となり、活況となっていた時期もあった。ところが旧制高校出身の学生が高齢化のため、継続が無理となり、一旦2010年に閉幕となった。8年ほど中止期間があったが、2018年に旧制も新制も含めて大学OBらが中心になって再開となった。我が早稲田もその再開に合わせて参加するに至った。同様にライバルの慶応も参加して寮歌祭での早慶戦となった。全国から参加校は約60数校、参加者は男女合わせて400名以上である。「ああ玉杯に、花うけて・・・」の名文句の第一高等学校寮歌はこの寮歌祭の華である。数名の東大OBたちが壇上に準備すると、会場から我も我もと壇上に駆け上がり、30数名以上の大合唱となる。
知っている歌は出身校に限らず、自由に歌うのが再開寮歌祭の流れだ。羽織、袴や高下駄を履いて大きな旗を振り回す者もいる。我が早稲田は東伏見に学生寮はあったが、世間に知られる寮歌はない。歌うのは「都の西北」だ。この時も会場から「よーし、俺も歌うぞ!」とばかり応援したい会場の参加者が壇上に駆け上がる。おいしい豪華弁当が円卓に並ぶ。あちこちでビールやお酒の交歓だ。途中で司会が女性たち全員壇上に上がってください、とアナウンス。会場の数十名の学校を離れての参加女性が歌うのは、「琵琶湖周航の歌」だ。旧制三高のボート部の歌であったが、きれいな合唱が場内を一掃して和やかな雰囲気になる。壇上の下部には100名を超える男性たちがボートを漕ぐように床に腰をおろして櫓を操るパフォーマンスだ。会場全体が一つの絵になる!早稲田は今回50名の参加を予定している。早稲田のまとめ役は私、松本がやります。11月5日までに事務局に会費事前登録が必要です。(男性8000円、女性7000円、学生6000円)前回も、前々回も早稲田は30数名が参加、練馬稲門会からは10数名が参加でした。練馬の場合練馬稲門会の法被を着ると雰囲気が盛り上がる。ぜひ楽しく朗らかに青春のひと時を思い出しながら大声で歌いましょう!


                                       


 



四季の記憶 96「錦秋に誘われて」

鈴木 奎三郎   2023・10

 それにしても7,8,9月は暑かった。細身の体型ゆえ、昔から夏には自信があり大好きな季節だったが、この夏の暑さにはいささか降参した。考えてみたら80才を超えているので、季節変化への対応力も衰えてきて当然である。お彼岸も過ぎて10月も中ごろになると、やっとのことで秋到来という感じになってきた。
 旧暦10月の節季は立冬である。現行歴の11月7日ごろに当たる。ここから来春の節分まで暦の上の冬の期間である。この頃になると空は青く澄んでいく。刷毛ではいたような白い雲が上空の早い風に流されて飛んでいく。暑さにあえいでいたのはついこの前のような気がするが、ほんとうに光陰矢の如し・・である。

 もうすこしすると、石神井公園のタイサンボクの巨大で分厚い立派な葉がパサリパサリと大きな音を立てて落ちてくる。紅葉はしない代わりに、黄褐色や褐色の葉には葉を喰ったなにかの幼虫の食痕が見える。その偶然のデザインは、まるで前衛画家の作品のようである。子供が小さかったころ、この公園で何枚か拾って居間に飾っておいた。子供が家を出ていく頃にはいつの間にか一緒にどこかに行ってしまった。そんな記憶がよみがえる。

 この時季は、秋の長雨、秋時雨、秋霖、釣瓶落とし・・・などさまざまな俳句の季語があって、金秋、白秋、という季語もある。季語にはないが、「錦秋」という言葉はとりわけ美しく、最も好きな言葉である。紅に染まる木々が錦の絨毯のように鮮やかに映える様子を表現したこの言葉は、四季の移り変わりを感じて生きてきた日本人の豊かな美意識を端的に示している。言葉は文化そのものである。日本語の美しさと深さは世界に比類のない言葉ではないだろうか。

 紅葉は主として、広葉樹の葉が冬に落ちる前に、緑の色素のクロロフィルが分解し赤い色素が形成されて黄色い色素が目立つようになったりして起きる現象だ。その変化の度合いは樹種や地域によって異なるようで、天気図に寒色系が増えてきて最低気温が8℃前後になると始まり、5,6℃で見ごろを迎えるそうだ。
 とりわけ神宮外苑の銀杏並木は、東京の紅葉スポットナンバーワンである。今でも2,3年に1回は行くことにしているが、会社に勤めていた頃もこの時期になるとよく行った。

 調べてみると、1923年(大正12年)に作られたこの並木は、青山通りから神宮外苑まで、背丈のそろった146本のいちょうが9メートル間隔で300メートルにわたって植えられている。紅葉は11月下旬から12月上旬が見ごろで、この時期にはいちょう祭りも開かれて、物産品や陶器の模擬店なども出ていた。今年はどうなるのであろうか。
 ヒトの晩年も紅葉に当たるかもしれないが、体力気力容姿も衰えて、最後にいちょうの紅葉のような有終の美を飾ることができないのが残念なところだ。


                                       


 



スポーツの秋

小林 康昭  231014

 練稲エッセイ同好会の10月、私の定番は「スポーツ」です。今回も、スポーツでご機嫌をお伺いします。
 今年の10月9日は、祝日のスポーツの日でしたが、手元にある角川や講談社の歳時記には、秋の季語にスポーツはありません。「スポーツ」の語は、今では、耳慣れた外来語の日本語であり、文部科学省にスポーツ庁と名乗る役所ができましたが、普遍化したのは、そんなに前のことではありません。今の時代でも、小中高校や大学にスポーツと名乗る教科はなく、該当するのは「体育」です。スポーツの全国大会は国民体育大会です。体育の名称は戦後になってから使われ、戦前は「体操」でした。旧制の学校の先生や生徒は「体操」の時間の記憶をお持ちの筈です。その前は、運動」と言っていました。その名残が、今も残っている「運動会」です。
 運動会は、俳句の秋の季語になっています。俳句の季語に現代語のスポーツが存在せず、明治時代の運動会が存在するのは、俳句の世界は明治の世界だからです。明治時代の教育は、ヨーロッパの国々に倣っていましたから、運動の時間には、武道と称されていた相撲や柔道に加えて、徒手体操、徒競走、跳躍など、外国から取り入れた競技を習ったのです。戦後の体育の時代になると、相撲や柔道は体育の教科から外されてしまいました。
 運動→体操→体育→スポーツとつながる経緯は、日本の運動競技の移り変わりを垣間見るようです。
*  *  *
 外国から取り入れた競技には、訳語が充てられました。Baseball:野球、Tennis:庭球、 Soccer:蹴球、Table tennis:卓球、Volleyball:排球、Basketball:篭球、Boxing:拳闘、などと。ですが、定着した訳語は、わずかに野球と卓球ぐらいで、ほかの競技は、原語がそのまま日本語になっています。ラグビー、ゴルフ、レスリング、フェンシングなどは、初めから訳語を作るのを諦めたのでは、と想像します。
 野球と卓球は、原語がかすんでしまうほどの存在感があります。ベースボールよりも野球、テーブルテニスよりも卓球、というように、原語よりも言いやすい訳語を作ったからでしょう。逆に、バレーボール、バスケット、ボクシングなどは原語の方が言いやすい。折角の訳語が広がらなかった所以でしょう。
*  *  *
 明治維新前の、日本古来の競技は、相撲、柔道、空手、合気道、剣道、弓道、薙刀、水練など、すべて個人競技の武道でした。団体競技は、すべて外国から入ってきた、ということです。
 その外国から入って来た競技の中で、虜にした競技が米国の野球でした。野球は一見、団体競技ですが、基本は、投手と打者の一騎打ちの積み重ねから成り立っています。一騎討は、個人競技の基本です。野球の勝敗の責任は、勝ち投手、負け投手と、投手個人が負います。打者が投手を打ち砕いても、勝ちの記録は付きません。野手が勝利につながるプレーを演じても、記録は付きません。投手中心である証拠が、代打と代走の呼称です。攻める側がチャンスに送り出す打者がピンチヒッター、代走がピンチランナーとは、投手にとってピンチであるからなのです。完全試合は野手の守備なくしてはあり得ないのに、その名誉は投手が独り占めです。9名全員を記録に載せて、名誉を分かち合うべきでしょう。現行の野球は、団体競技とは言い難い気がします。
*  *  *
 最後に、希望と言うか期待というか、提言を試みます。
 1.日本古来の競技のマナーです。言いたいことは、大相撲の力士の如くあれ、ということです。勝った力士がガッツポーズや喜びを露わにしない抑制した態度は、外国人の観客にも共感を与えるそうです。記憶にあるのは1964年東京五輪の柔道無差別級で優勝したオランダのヘーシンク選手です。彼が決勝で神永選手を破った時、驚喜した仲間が飛び出してきましたが、彼は冷静に当人を制止して場外に戻しました。彼は日本で過ごしている間に、柔道の稽古を通じて日本古来の美点を身につけたのです。翻って、山下選手は五輪大会の決勝で勝利が決まった瞬間、大泣きしながら飛び跳ねました。ヘーシンクとは大違いです。醜態の限りと言えます。
 2.運動競技のスポーツは、運動、体操、体育の様に、競技者の健康や体力を損ねるものであってはいけないと思います。粗野で原始的な古代の格闘技のような、脳震盪を与えて相手を倒すという、凄惨さを競うボクシングはあるべきスポーツの姿に反していると思います。頭部への打撃を禁じるようにルールを変え、選手のグローブに電気的測定装置を備えさせて、相手に与えた打撃力の記録結果で勝敗を決めるような改善をしたら如何でしょう。ボクシングを禁止する国が出てきませんかね。関係者やジャーナリストの良識をお伺いします。
 3.スポーツ庁の長官はハンマー投げの室伏さん、JOCの会長は柔道の山下さん。競技団体の長は個人競技の出身者が多いですね。組織を運営するリーダーには、団体競技の出身者のほうが、適性があると思います。サッカーの川渕さんやプロ野球の古田さんなど、期待に応える手さばきを見せてくれると思います。
 4.メディアやジャーナリストが、スポーツを興行的に扇動する風潮を懸念しています。古代ローマは、その末期に国の内外に内憂外患が山積しました。為政者が糾弾の矛先を逸らそうと採った施策が「パンとサーカス」でした。人々に美酒美食を与え興行を盛んにして享楽漬けにしました。その結果、ローマ帝国が外敵に侵されて亡びる遠因になりました。その轍を踏むな、との格言です。現代の為政者とメディアの鉾先に要注意です。



                                       


 



夫唱婦随

谷川 亘    2023年10月14日

 私も老いたのですよ。
 ここ数年来、しきりに小耳に響く言葉に辟易するようになりました。
 “老老看護”。どこの世界の話?余命はますます伸びる。長生きするようになったものです。こんな四文字熟語なんて一昔前にはあり得なかったのでしょうし、私にとっても他人事のように思えていたのですよ。
 夫婦にとっても、ともに老いて、相揃って心身に不調をきたしていたわり合う。それこそ、言い方変えれば“夫唱婦随”の間柄。自身の塩梅見ることは当然の責務であり、おまけに“相棒”の手助け役も買って出なければならない。お互いに弱き部分と言うか、欠陥を補いあい、いたわりつつ、共に延命すべく助け合っている仲間も散見されるようになっております。夫唱婦随とは、「夫が言いだし、妻がそれに従う」ことではなく、元は中国の思想書になるのだそうですが、まさしく男尊女卑の教え。でも、結婚生活の長い、長年付き添った、仲の良い夫婦を褒める時に使う言い回しになったそうで、今では“婦唱夫随”と、逆転著しいご時勢に変り果てたとは言え、“夫婦相和す”との意味なんですって。
 一方で、老友の中には奥様に先立たれ、「今更この年で、再婚なんて考えられねぇ~」なんて強がりをのたまい、虚勢を張って“独り身”を凌いでいらっしゃる方もいらっしゃいますが、面倒見るのはただ(自分)一人。そうですよ。二人分の面倒見るのでは無いのですよ。でも、四六時中孤軍奮闘を自らに課するわけですから、食生活から始まって、掃除洗濯、ゴミ出しの類まで全て自分。考えただけでももう耐えられない正気の沙汰とは程遠い余生となります。

 ここで、練稲エッセイの会のご長老でもあるH大先輩ご夫妻への賞賛の言葉。
 お二人は“夫唱婦随”の真骨頂なのです。いまさら練稲諸兄姉には瞬時に浮かぶお人にて、名指しさせていただいても良いのですが、やはりご本人を目の前にしては、なんとしても誉め言葉は照れ臭い。近くにお住まいでもあり、私の練馬稲門会入会へのお誘いを受けた古希以来のお付き合い。奥様もご健在そのもの。どこかへ同行させていただく際にも、虚勢を張っているのか男の沽券。奥様には結構厳しいお言葉。大男の彼は勝手に先に行ってしまう。あと追う我らは小走りで必死に追いかける。人前では暴君ぶりを発揮するが、それはそれでよいのですよ。外面上にはそう見せても相思相愛、人もねたむくらいの羨ましさ。
 例会には武蔵関駅で乗る電車の時間を事前に決めておく。しかし、老いたりと言えど杖に頼らず大股歩き。でも、もうちょっと早めに出ていただけばオよろしいのに、ぎぃりぎり。気がかりで電話すると奥様が「とっくに出てますよ」と、取り付く島もない。これまた杞憂に過ぎない。もうオトシなんですよ。慌てて階段下りて滑り込みセーフなんて、転んで怪我でもしたらどうするのですか?

 彼から、今月の例会欠席する故、“良きに計らえ”とのご指図をいただき、しめた!!とばかりに、あらかじめ作成してあった原稿を破棄し、直面してでは“言いずらい”、あるいは“こっ恥ずかしい”賛美の言葉。ご本人にとっても、ご立腹の向きあるやもしれませんので、“不在狙い”した次第です。


                                       


 



焼き鳥50本

照山 忠利  2023.8.12 

 世話役人生の一つとして小生が幹事をしているゴルフ会がある。名をMMCC飯能会という。場所は飯能パークCC、20年ほど前に先輩に入会を強要されて入ったゴルフ場だ。ここで2月、8月を除く毎月かつての会社の仲間を会員とする例会を開催している。毎回3カ月前にスタートを予約し、1カ月前に出場者を募集し、組み合わせを作り各人に連絡、帰りの飲み会をセットして実施に及ぶ。ここ10年同じことを繰り返してきた。
 いわゆるコンペではなく、毎回成績を集計はするが単に仲間とゴルフを楽しみ、懇親をして別れてゆく。それだけのことだが例外なく行っている所作はNo.19ホールのプレーだ。理屈をつけていえば飲みながらの反省会。だがここでは殆どゴルフの話はしない。言葉には出さずとも大体反省の意は共有している(つまり余り成績の良くない不本意のことが多いということ)。この伝統はコロナ禍の3年間でも続けてきた。勿論公式行事としての設営はできないので、あくまでも「有志」による懇親会としてだが、幸いこの場で感染者が出たことはなかった。
 6月下旬、梅雨の合間を縫ってこの例会を催した。集まったのは5組18名。希望者多数につき例月より一組増やした。スタート時には降らず照らずの好天に恵まれたと思いきや、ポツポツと降り出した雨が本降りとなった。昼食時には本降りが継続するのか快方に向かうのか微妙な成り行きに。ここで第1組の4人中3人は「やめる」との判断を下した。成績不振を雨のせいにしたようだ。あとの組はどうするか。続行希望が多数を占めたが問題は第1組にいた長老がやめるといったことだ。小生も本音を言えば天気の回復に期待して続行組に入りたかったが、やめた長老に「先にバスでお帰り下さい」とは幹事役としてとても言えたことではない。やむなく「俺もやめます」と宣言したらその長老が「これからどうするの」ときた。「所沢まで行って酒でも飲みましょう」と返したら長老も満足げにうなずいたのである。
 所沢には昼間からやっている老舗の居酒屋がある。昔からなじみの店だが、コロナ禍の荒波に抗しきれずしばらく閉店していた。ネットで検索してみたら再開したとのことで、そこへ繰り出した。ところが店構えは全く同じだが、経営は別人に代わっていた。店員も以前の顔ぶれからまるで知らない人ばかり。半地下式の店への階段を下りたらもうもうたる煙が立ち込めていた。排煙装置が壊れていたのか。とりあえず生ビール5杯と枝豆を注文して乾杯。その後注文取りに来たアルバイト然とした若い男に「焼き鳥二本ずつ10本」と頼んだら「焼き鳥計50本ですね」と復唱した。「違うよ、5人で10本だよ」と念を押して歓談していたら、いきなり軟骨10本が運ばれてきた。「おいおい、全部で10本だよ」と言ったら「全部で50本ですよね」と反論する。「焼き鳥を50本も頼むやつがいるもんか。何回も10本と言ったじゃないか」と押し戻したら店の責任者とおぼしき海坊主のような男が厨房から飛んできて「お客さんたち、俺もおかしいと思ってこいつ(バイト男)に聞きなおしたところ、3回確認したので間違いないと言ったんです。焼き鳥のお代は結構ですからほかの注文分を払って帰ってください」とのたまった。この店が10数年来の重要顧客を失った瞬間である。雨にたたられ、入った居酒屋で不愉快千万な扱いを受けストレスのたまった面々が飲みなおしたことは言うまでもない。
 ちなみにこの時のメンバーは89歳(熊本)、88歳(会津)を筆頭に水戸、函館、北九州と血の気の多いとされるところの高齢者であった。
(了) 

                                       


 



AI先進国ニッポン

加藤 厚夫  2023.8.12 

先月AI技術が戦時利用される恐れがあるとして緊急の国連安保理が開かれた。それをいち早く平和利用し国家予算1兆円の無駄を削った国が日本だというから素晴らしい。その第一が国家公務員の数を半減させたことだ。いままで総理の基調演説や答弁文は各省庁のエリート官僚が徹夜で作成したものを読み上げてきた。それをチャットでたったの1時間で作成出来るようになってしまったからだ。いっぽう内閣府はNHKのAIニュースからヒントを得て与野党議員の国会演説や質問をすべて音声AIに切り替えたのである。そうなると与野党の質問者はAI発声中、ただ横に立っていればよいことになる。国民からみるとそれは議員歳費の無駄遣いだと苦情が殺到やむなく議員数を半減させたのだ。しかし変化がなさすぎるということで女性野党議員の「そーり、総理!」の掛け声だけは本人の肉声を許した。第二の国費削減は国が賄う食材費を大幅に縮小したことだ。鳥インフルエンザが発生するたびに養鶏場で9千万羽を殺処分してきたが、AIにより非感染の鶏を完璧に判別できるようになった。危機感を抱いていた厚労省はそれを食用に供することを決断した。(そもそも鳥インフルは人に感染しないことが疫学的に証明されている)しかし風評がまだ残るので当面議員会館食堂と厚労省食堂、刑務所食堂に限定しその鶏肉と卵を提供することにした。それらの食堂では唐揚げ食い放題が評判で他省庁食堂が聞きつけ引く手あまたとなった。そしてタマゴの市場価格が100円台に戻ったのである。一番AI効果を発揮したのが刑務所だ。いまや3食昼寝付きのムショ生活が極楽化し、戻りたいと再犯入所する奴や、京王線無差別刺傷放火犯のように複数人を殺せば死刑にしてくれるなど気違い犯が増え続けたため刑務所が満杯となってしまった。懲役の懲らしめるという意味が全く欠落してしまったのである。困り果てた全国刑務所長は会合を開きAIによる様々な恐怖システムを開発した。平気で人を刺したり首を切断するなど考えられない犯罪が横行する時代だ。それを抑止するにはまず被害者が被ったその痛さ恐ろしさと同じ目に合わせるのがいちばんだという結論に達した。方法は簡単、犯人を縛り付け安全AIロボットが刺した同じ箇所すべてをズブリとやる。その苦悶の様子がお昼のワイドショーで流れたから一挙に刺す方が減ったそうだ。また子連れ離婚女と同棲男の児童虐待なぶり殺しが少しも改善されないので、最寄りの警察署に同棲事前登録を義務付けAI管理とした。それでもやる連中には定番の熱湯かけ、真冬のベランダ放置の体験をさせてから牢屋にぶち込んだ。また「黙秘します」がブームになり尋問浪費時間が増え警官も困ってきた。鬼平犯科帳には足爪の間に釘を打ち込み、熱いローソクを垂らし込むのが効果ある拷問だとあるが現代では難しい。そこで尋問を連日連夜音声AIに任すことにしたので白状効果が上がった。また強姦犯には寝る前に講堂に集合させ、女の恨み呪いの声を音声AIで脚色しお岩さんの大迫力画面を見せるようにした。その恐怖に耐えきれず頭がおかしくなる囚人が続出した。これらの施策で浮いた予算は犯罪被害者救済資金や物価高に喘ぐひとり親世帯の援助資金に当てたので内閣支持率は一挙に上昇した。


                                       


 



友人の裕(ゆたか)さんの話 ~「マザー・テレサ」後編~

渡邊 訓子  2023/8/12

 私には年の離れた友人がいる。「裕(ゆたか)さん」というその友人は、大阪に住んでおり、たぶん御年80歳ぐらいであると思う。知り合ったのは大学時代に遡(さかのぼ)る。もう25年ほど前の話だ。当時、大学生で、毎日時間が有り余っていた私は、一日の中の多くの時間をパソコンの前で過ごしていた。そのときによく訪れていたのが、とある「チャットルーム」で、そこで知り合ったチャット仲間の一人が「裕(ゆたか)さん」であった。チャットルームの住人とは、2回ほどオフ会をし、様々な人と仲良くなったのだが、いまだにつながっているのは裕(ゆたか)さんのみである。
 思い返せば、裕さんとは、25年の間、5回しか会ったことがない。ここ数年は、年賀状や年に数回の近況報告のメールのみだ。が、しかし、なぜか突然、昨年の5月より、彼から毎日、自作の俳句LINE が届くようになった。
 彼はコピーライターだったので、俳句や短歌を時折創作し、送ってくることはあった。私は、気が向けば返句をしたり、「おはようございます」の挨拶だけで終わったり、忙しいときは既読スルーをしていた。私は、人と交流する際、あまり立ち入った質問はしないようにしている。話の流れで質問をすることもあるが、基本的に相手が話したいことを話せばよいと思っているのだ。話しにくいと思っていることを無理に聞くつもりはない。そもそも人は、置かれた環境や誰と接しているかで、表に現れる「自分」を変える。作家の平野啓一郎はそれを「分人(ぶんじん)」と呼ぶが、本人さえも意図せず、私に対して現れる「彼の分人(ぶんじん)」を、私自身、尊重したいと思うのだ。それでも、たとえ短いメッセージでも、長くやりとりを続けていると、ぽろぽろと相手の近況というものはわかってくる。「奥様が長い間入院していること」「奥様と簡単に会えないこと」「今、一人暮らしなこと」「身体が悪く、思うように外出できないこと」「映画を見に行くにも誰かに連れて行ってもらわなければならないこと」……などなど。

 都心にも粉雪が降った1/27、裕さんからLINE がきた。
「『わぁ高い恵方巻き予約ためらいて』こんにちは」
「節分価格ですもんね。お正月のかまぼこみたいな感じかな?」と私。
「おっしゃる通り。『恵方巻きを家人に送るひとりの身』病院に行けないので。」
 私はおやっと思った。病院に行けない? 彼の事情か。病院の事情か。少なくとも奥様は恵方巻きを口にできるような身体の状態なのであろう。詳しい事情は知らないし、聞く気もないが、想像していた以上に彼は今、孤独であると思った。「裕さん、ずっとお家ですか?」
「そうです。なんとか三食作っていますよ。」
「毎日のお買い物は宅配ですか?」
「宅配あり。冷凍品との組み合わせあり。ヘルパーさん使わずなんとかやってます。15ヶ月目の迷板前でおます。」
 このとき、私の中のマザー・テレサがささやいた。「できない理由を考えてはダメ。今、あなたが感じた気持ちに素直になって、やりたいと思ったことをするのです。」
 私は言った。「ひさしぶりに裕さんに会いたいです。お家に行ったらご迷惑ですか?」
 40分後に返信があった。
「長い長い、一考中です。」
 5時間後に送られてきたLINE は、彼のセルフィーがついていた。今、撮影したのか、下からのぞき込むように撮ったアングルだ。そこには、Tシャツを着た普段着の彼がいた。頬はこけ、髪は薄くなり、照明の具合か、顔にまだら模様の奇妙な陰影がついている。
「爺はまだ悩んでいます。」
 そこで私が返信する。「私が決めてもいいですか?」
「ダメです。遠い親戚の奥様へ。」
 そこからまた1時間後。今度は先ほどとはちがう、ジャケットを着たよそ行きの彼の画像が送られてきた。場所はどこかのレストランだろうか。少し前に撮ったものだろう。暖かな照明の中、ベージュ色のソファに座っている彼は、血色のよい、笑顔だ。
「なんとか元気にしています。2月は無理ですね。お訪ねの気持ちとても嬉しく思います。」
 私の中のマザー・テレサは、「どうするの?」と言った顔で、成り行きを見守っている。私は返信した。
「まぁ、来月は裕さんの意思を尊重しましょう。」
 次の日の朝、彼からLINE が来た。「頻尿。眠り浅し。先生の有難き来宅台詞のせいもあり。

 マザー・テレサ。あなたなら、あのとき、すぐに新幹線に飛び乗ったのでしょうか。私は最近、そのことを、ふと考えてしまいます。


                                       


 



20年振りの高校クラス会

松本 誠    2023,8,12

一昨日の去る8月10日に20年ぶりの高校クラス会を開催。昭和36年高卒ということは今年は昭和98年だから62年前に青春時代の思いがあった高校時代。ボクは都立武蔵高校を卒業して、一浪して早稲田に入学。16歳から18歳までの多感な青春時代であった。
20年前還暦ということでクラス会を実施してから、今回20年ぶりの傘寿クラス会であった。武蔵卒というと、「立派な学校ですね」「すごいですね」とよく言われた。御三家の麻布、開成、武蔵と間違われた。いや~ボクは都立武蔵です!と言い訳が多かった。
その頃は東大への入学者は浪人生も入れて年に1人か良くても二人。ゼロの時代も多くあった。今回20年ぶりのクラス会は、当時52名ぐらいがクラス人数だったが、17名が黄泉の国に行き、35名が名簿上生き残っている。連絡不明も数名いるからまあ30名が生存ということになる。そのうちの15名、半数が今回の傘寿会に参加した。
お互い,え~と誰だっけ?なんていいながら、5分後には打ち解けて話の渦が大きくなる。あの頃一目ぼれした可愛いかった少女もすでに80歳。まあ見る影もない。(こっちもそう見られているのだろうが・・・)あの頃の写真など持ち寄ってきゃ~きゃ~言っているのはご愛敬だ。ところが東京都武蔵野市境にある我が母校は10年前から中高一貫校となり、地域の最優秀校の一つにのし上がって来ていた。東大の入学者は10名を数え、以前府立二中だった、都立立川高校が今は地域の中核校ではなく、三番手位に凋落している。それも東大入学がすべてではないが、現役入学者が多い!中高一貫という教育がいいのか、世界数学オリンピックという学問があるようだがこの部門の金メダルは都立武蔵が断然多い。
今は後輩たちのおかげで、都立武蔵卒です、と胸を張っています。中高一貫教育というのは都立高校を再生させる大きな要素になったような気がします。我が武蔵校は3年前から高校入学の受験は無くなりすべて中学からの入学制度に切り替えたようだ。中高の5年間ですべての教えを終了させ最後の1年間は徹底した大学受験対策らしい。まあ大学にストレートに入ることも悪くはないが、高校生活も楽しい思い出になるように人格形成をしっかりやってほしいと思う先輩老人の心境です。今夏の甲子園の野球の全国大会ですが、都立武蔵は単独チームができないほど野球部員が少ない。そいう他の高校と合同チームを形成しての大会参加らしいが、こういうことも、とても残念だ。
最近日大や東京農大で大麻や覚せい剤などの違法薬物がスポーツ部を中心に学生の間で拡がっています。早稲田にもこういう流れが来ないよう祈るばかりです。
ちなみに大麻草は成分がCBD(カンナビジオール)という体に有益な成分が確立されているためとても有益な部分があるが、現在の日本は戦後のGHQの指導の下、違法薬物となっている。現在国会の超党派特別委員会で先進国が許容している大麻草の製造、製品の活用などを審議中。学生たちがベランダ等で栽培するのは花穂、や葉の部分がマリファナ要素があるため違法。先進国ではマリファナ部分を分離した製法が確率したため、近い将来これらが認可される見通しだ。日本の製薬会社も世界に目を向けるべきだ。


                                       


 



小野浄土寺 浄土堂

石田 真理    2023年8月

 今年の夏も暑い。数年前に室内で熱中症になってから、毎夏、エアコンを愛用している。外に出れば「危険な暑さ」と言われるものの、室内ではスイッチ1つで快適に過ごせる。文明の利器の力に感心する。そんな中、ふと思い出した。
 昨年秋に、ずっと行ってみたいと思っていた兵庫県小野市の浄土寺に、思い立って行ってきた。以前、テレビで、西方浄土を表現した阿弥陀三尊像を報道していた。鎌倉時代初期に建てられたお堂の中、夕方に西側の窓を開け、西日を入れることで、東を向いて立つ阿弥陀如来像が、西方浄土からやってくる様に見える。特殊効果などない時代に、どうやって作ったのだろう。テレビカメラを通さない、自分の目で見てみたいと思った。
しかし、交通を調べたところ、あまり便利がよいところではなかった。東京方面からは、新幹線で新神戸駅下車、地下鉄に乗り換えて湊川公園駅へ行き、神戸電鉄の湊川駅から小野駅へ。小野駅からバスで15分くらい。バスの本数は少ない。往路だけで半日かかる。天気も晴れてなければ意味がない。簡単に行けるところではないため、いつか機会があれば行ってみたいと思っていた。
 2022年10月1日、15時頃にバス停に着いた。周囲は田んぼが広がり、昔からの風景が、そのまま残っているところなのではないかと思った。拝観時間は17時迄と思って行ったのだが、10月~3月は16時迄とのことだった。拝観料を支払って堂に入ると、拝観の人々が、時を待って座っていた。
 朱色の柱と梁、天井が貼られていない空間に、金色の阿弥陀如来と、左に観音菩薩(かんのんぼさつ)、右に勢至菩薩(せいしぼさつ)が立つ。後ろの窓から西日が入り、三尊像を輝かせる。宗教も仏像も建築も、専門的なことはわからないが、鎌倉時代にこの構想を立て、実現して、後世に残るものを造った人がいたということに驚いた。あとで知ったのだが、大仏様(だいぶつよう)という特異な建築様式で、日本には東大寺南大門とこの浄土寺の2つしかないようだ。
テレビの印象が強かったため、もっと輝く仏像を想像していた。堂内の案内の人が言うには、この季節の西日はやさしい光だという。夏の太陽は強い日差しで仏像を輝かせるが、冷房のない場所ゆえに、汗だくになって拝観することになるそうだ。
 真夏にまた見てみたいと思ったが、汗だくになるのは大変だ。
 暑い夏に、ふと思い出した。
※真夏にエアコンを使用せずに過ごし、室内で熱中症になることがあるそうですので、ご注意ください。


                                       


 



さらばオーディオタイマー

小林 士   2023.8.12.

 断捨離という言葉がある。捨てる思い切りのよさについては私は優等生とまではいかなくても、それに近い者と自負している。その私にも、捨てがたいものはある。例えばオーディオタイマーがそれである。持っていてもじゃまにならないからと言いわけをして、本棚の上に置いて時計がわりにしてきた。

 昔、FM放送が始まったとき、従来のAM放送より音の良いFM放送を録音して、レコードを買わずに音楽を手もとに集めようとした人たちがいた。折からのカセット録音ブームがその考えを後押した。放送局もそれに答えるかのように、クラシック音楽をずいぶんと放送していた。
 その録音マニアたちの必需品がタイマーだった。ラジオ受信のチューナー、オーディオアンプ、録音機など、自慢の高忠実度装置をセットして留守中にタイマーでスイッチオンにして留守録する。そこに使うタイマーが「オーディオタイマー」と呼ばれるようになった。ただのタイムスイッチなのに、すてきな名前が与えられたのである。
 私は録音はほとんどしなかったが、タイマーは便利なものなのでひとつ買っておいた。いまとなっては旧式な表示機構の時計がついている。電波時計のない時代だったが、そこそこ精度のよい時間表示をしていた。50Hzの電源をパルス化してそのパルスを数えて時計にしているのだろう、と勝手に想像している。
 そのタイマーの時間表示が、東日本大震災のあと微妙に遅れるようになった。
私がそのタイマーを使い出して初めての現象だった。
 あらゆる分野に大被害をもたらした東日本大震災だったが、困ったことのひとつが電力供給だった。従来通りに電力が供給できない。大きな工場は24時間をくぎって昼夜を分かたず交代で操業をやりくりする状態だった。電力供給がいちじるしく不足したのである。このとき私のオーディオタイマーの精度に異変が起きた。原因は供給電源の周波数の低下と見られる。日本の電気は世界一高価であるが、世界一優秀であると聞いていた。その品質に瑕疵がついたのである。しかし、これはまもなく回復した。その復旧の速さは称賛に値いするものだった。

 1,2年前から再び電力供給の窮状がうったえられるようになった。エアコンが使われる夏場がとくに問題であると大々的に警告された。現在、需要が多い地域へ、そうでない地域から電力を送りこんでなんとかしている。そのためだろうか、最近、私のタイマーの時間表示の遅れがひどくなった。東日本大震災のときよりひどい。とくに遅れがひどいときに、手もとの計器で周波数を計測したところ49.87Hzだった。通常はしっかり50.00Hzである。東日本大震災のときでもせいぜい49,98Hzくらいだったのに、そのときより状況が悪化している。
 これほど時間表示が遅れては実用にならない。最近の事態を経験して、私はようやくオーディオタイマー断捨離の決心がついた。


                                       


 



四季の記憶 9「老人本を読んでみる」

鈴木 奎三郎   2011・8

 立秋もとっくに過ぎたというのに残暑はますます厳しく、トシとともに暑さが身にこたえるようになってきた。暦の上では8月8日の立秋も、この暑さではとてもじゃないけどそういう季節感はない。幸いゴルフでも熱中症でダウンということはないが、3,4年前までは楽しみだった朝の愛犬の散歩も一苦労な仕事となってきた。若い頃から細身で身軽なため、夏の暑さには絶対的な自信を持っていたが、70才を目前にしてどうやらそれは自分も例外ではなく幻想であることが判ってきた。
 77才の長兄は、「70才を超えると間違いなく体力気力が落ちるよ。それに75才を境に一気に病人が増えてくるぞ」と言っていたが、それがまさに現実のこととして我が身に起こってきたのだ。
 
 暑さもピークの8月半ばの昼下がり。近くにある区立図書館が新しく建て替わったので、涼を求めて初めて行ってみた。高い区民税を払っているのでその視察も?兼ねたわけだ。
 エアコンの効いた館内は膨大な量の図書がキチンと整理収納され、ゆったりとしたテーブルや読書スペースに加え、パソコンも用意されていて、受験生らしい若者や夏休みの宿題に取り組む小中学生で一杯だ。中に何人かのお年寄りもいる。その方々をよく観察してみると、本や新聞を広げてはいるが、どうも大半の方はスヤスヤとお休みになっているようだ。中には雑誌とペットボトルのお茶を前にして、メガネをはずして机に突っ伏している方もいる。考えてみたら、入場無料で予約の必要もなく、誰にも邪魔されず、しかも涼しくて静かな空間はまさに居眠りにはもってこいだ。初めて入った身近な図書館の効用を学習することとなった。ぼくも近い将来、このラインナップに加わることになるのだろうか。

 本棚の一角には、ご年配向けに書かれた“老人本”(ぼくが勝手に命名)が何冊か並んでいる。これまで気にも留めなかったジャンルだが、新聞広告も急に目につくようになったのだ。昨年書店で求め1,2度読み返した曽野綾子の「老いの才覚」や「戒老録」をはじめ、「自分の始末」「老前整理」「老年の品格」「みっともない老い方」など、いろいろな人が書いている。哲学書や宗教書に代わって“老人本”という新しいジャンルを作るような勢いだ。
 曽野さんの本が契機となって売れ出したようで、6,7月頃には新書のベストセラーに必ず2,3冊が入っていたということは、全体でかなり売れているのだろう。

 曽野さんとはぼくが現役の頃、何人かの集まりで2、3回食事をご一緒したことがある。上品で穏やかな物腰なのに、おっしゃることははっきりとスジを通して的確にお話になる方という印象が強い。その著書は、“年の取り方を知らない老人が増えてきた”“超高齢化の時代を迎える今、わがままな年寄こそ大問題”と断じる。そして、“なぜ老人は才覚を失ってしまったのか”“老いの基本は自立と自律”“孤独と付き合い人生を面白がるコツ”“老い、病気、死と馴れ親しむ”“晩年になったら夫婦や親子との付き合い方も変える”などが重要なことであるとしている。そして「高齢であることは、善でも悪でもなく、資格でも功績でもない」と戒めている。

 現役後期の頃にはたまに会社の先輩OBが昼食時にやってきた。時間刻みの忙しいさなかに突然やってこられても困るのだが、同僚から後年聞いた話では、お昼を目指してやってくるのでご馳走をしないと後で「あの男は気が利かなくてダメだねー」と酷評されるのだそうだ。先輩は、よく昔はよかった・・というような話とともに、未だにかつての肩書にこだわったり、延々と自慢話をしてみたり、自分がなぜステップアップできなかったかとか、今になっても自分と他人と比べる人がいた。死に物狂いで働いてきた人ほど、会社での栄光がいつまでも忘れられないのであろうか。こういう人を反面教師に、そうはならないように人に頼らず自立して、謙虚に生きていくことが肝心なことではないだろうか。      2011・8


                                       


 



古代ハスの分身

谷川 亘    2023年8月12日

 聞き及ぶところでは、梅雨の奥手、蓮花の見頃は、紫陽花、菖蒲を引き継いで7月中旬から。 花の盛りも短くて、開花すると4~5日で散ってしまうとのことでした。しかも、開花時間は朝いちで、6時頃から咲き始め、9時頃には満開になっちゃうそうな。午後にはしぼんじゃうので、ハスが咲く時間に合わせて午前中に見に行くことをおすすめします。と庭園案内にもあります。
 都立「小石川後楽園」の小粋なご配慮。
 7月の盛りの時節、日にちは限られこそすれ、開園を一時間早めて午前8時にするとのこと。
関東甲信越地方の梅雨明け宣言は7月22日で、あたかも、繰り上げ開園時間となぜか一致。こころ弾んで早起きし、夏山気取りでカメラを肩にいそいそ気分・・・。なぁんて思いきや、この日はずし~んと押し殺されそう。多湿こそ見納め日だったものの、紛れもない盛夏の走りで、汗だくの格闘日となり果てました。
  ひたすら幽玄の世界を醸し出しているのですよ。荘厳で気品にあふれて一瞬手を合わせたくなる。蓮花はただ威厳あるのみ。ただ、つんとお淑やかにすましていらっしゃる。
 一通り写し終わって大樹のもとに日陰を求める。望むべくもないのですよ。熱風に紛れる“涼風”なんてありっこない。意識朦朧にして夢うつつの中とはこのこと・・・。
 十数年前の「古代ハス」との再会。2千年ぶりに光浴びたハスの輝きが、走馬灯のように眼前を再度よぎったのです。

 なんといっても「千葉公園」の大賀ハスにからむ記憶はひと昔前なれども鮮明です。「大賀ハス」とは千葉市の落合遺跡で発掘された、古代弥生時代のハスの実から開花したハス(別称「古代ハス」)とあります。一時は大賀一郎博士とともに、「世界最古の花、生命の復活」と、勇名を馳せたのを覚えていらっしゃいますか。
 その末裔と言うかご転生様と、なんと、わが社茨城工場の最寄り駅での御目文字。
 新設された片田舎の無人駅ではあるが駅名は称してでっかく「大和」。ことの経緯は不確かだが、新駅開設の金字塔として“お裾分け”を移植したと聞きました。
 帰路は田圃道を“よた歩き”しては小半時でその無人駅。池の小橋渡った真ん中に質素な祠(ホコラ)。ハス池を目の当たりにしてひと口ひと口かみしめて弁当ついばんでは、電車待つ間のまどろんだ気配に巻き込まれ、時の流れも虚ろがち?
 「大賀ハスの分身様よ!!沈黙の2千年ですか?」。オイルショックに遭遇し、“電気の缶詰”とまでさげすまれたアルミに一生を賭けたこの私。「西茨城から陽が昇る」なぁんて大口たたいたものの、「あなた様同様に、人様には言えぬ瀕死の挫折から立ち直りつつあります」。なぁんて抜かしたのも、他ならぬ大賀ハスのご分家様々なのでした。
 一瞬でありとも、たじろいでいるのかよたっているのかさえ分からぬ、混沌とした時の流れ・・・。
 もう15年近くも前に交わした古代ハスとのやり取りが、今更のように蘇りました。

  しばらく工場とも無沙汰の限りだなぁ~。今年はきちんと開花したのかしら?
 でも、駅の周りはそのまま旧態依然であっても、工業団地は区画整理が進み工場南側の谷戸地の田圃は変身して沼地となって、歩道には“いっぷく茶屋”まで建つ有様。
 変れば変わったものだ。でも、無人駅の古代ハスさんよ。今のままで良いんだよ!!
 これからも、“生き証人”として、ひっそりながらえて行ってください。


                                       


 



英語力

華岡 正泰   Aug.12 ‘23

 貿易の仕事に就きたいと商学部を出て 商社に就職した。然し入社と同時に 中学から10年以上も学んだ英語が何の役にも立たない事を思い知らされた。その上 海外で仕事をするにはその資格が必要、 とあり 大方一年間 給料の殆どを叩いて外人から生きた英語を学んだ。日本の英語教育在り方の問題だった。
 でも10年程前 世田谷に住む双子の孫娘の長女が 中学を代表して英語弁論大会に出場するというので一家で会場に赴いた。ところが順番が迫るのに本人が現れない。心配極に達していると次女が「心配ないよ 私がやるから」と。本気だった。度胸の良さに驚いたのと“英語を語る”こと自体 それ程大事でなくなっているのかと感心した。長女は間に合って 世界でブームになっている日本の寿司について語った。内容も立派だったが孫を含めた出場者全員の英語が私達のそれとは違っていた。発音 言い回しが日本人離れしていたのだ。会場には英語教師と見られる多くの外人が居たが 彼等から 生きた英語 を学んでいるのだろう。素晴らしい事だと思った。
 ところが今月1日の新聞を見て驚いた。この4に実施された全国学力調査の中学3年“英語話す”の正答率が僅か12.4% 何と60%が0点だったと言うのだ。日本の英語教育は変わってはいなかった。
タイのバンコクで現地社員を採用したことがあった。大卒は全員 英語の読み書き 会話が出来た。高卒でも会話は出来た。日本とは教育の違いだった。
暇を持て余して今一度英会話の勉強をしようと思い立った時があった。その面白い教材“ Speed learning”に出会った。 聞き取れない言葉は喋れない。それには先ず聞き取れる耳をつくること、と言う。。その為 普通会話の2倍速 3倍速の会話を流して耳を慣らそうと。又 日本人が英語を聞き取れないのは 日本語が世界で最も低音域 125~1500ヘルツを主体とした母音主体の言語に対し 米英語は900~12800ヘルツの音域を主体とする子音中心の言語。この違いが聞き難く 喋れなくしている。と説明する。無料のサンプルを取り寄せたら3倍速の会話。簡単な会話で全て聞き取れたが ふと、思い出した。我々の学生時代 まだテレビはなく ラジオだけ。その一局に進駐軍放送があり朝か番まで英語ペラペラ。勿論意味はわからないが 音楽を聴く様にその局を流し放し 英語の抑揚を楽しんでいた。教材、納得。
 今や英語は世界の共通語、どうしても必要だ。幅広い教養としても。問題は英語教育だ。60%が0点には愕然とした。何とかしなければ、早く手を打たねば。
 *ヘルツ HERTZ(Hz)振動周波数:電波 音波等が一秒間に繰返す振動の回数

 

                                       


 



2回目のビギナーズ・ラック

富塚 昇   2023年8月12日

 8月6日の「朝日新聞」の「朝日俳壇」にこんな俳句がありました。
 「遠泳や勇気で越える波と風」。なんだか人生訓のような俳句で、「詩(POEM)」は無い感じだなあと思いました。そして、住所と名前は・・・(東京都)富塚 昇 とあります。そうなんです。私は以前のエッセイで、俳句を始めたことを書いたことがありましたが、な、な、なんと「朝日俳壇」に初入選することができたのです。2回目のビギナーズラックです。1回目のビギナーズラックは、昨年秋に投句し今年の3月に発表されたNHK俳句大会に入選したことです。その時は「千」という語を入れて俳句を詠むということで、私は「灯火親しむ答案に千の顔」という句を詠みました。試験の採点をしている時、生徒の顔が浮かんでくることがあるということを詠んだのでした。
 さて、今回の俳句についてです。7月22日、ドライブで館山に行き、以前勤めていた立川高校の「臨海教室」を陣中見舞いしました。そしてそこで行われる「遠泳」を思いだして詠んだ俳句が、2回目のビギナーズ・ラックになったのです。俳句にある「勇気」という言葉は俳句に合うのだろうかという気もしたのですが、ちょっとした思い出があったので、そのまま投句しました。まったく技巧もなく実体験を17文字にした俳句です。 では、「勇気」という言葉が浮かんだ思い出を書きます。それは今から9年前、私が初めて引率者として立川高校の「臨海教室」に参加した時のことです。1日目、2日目とOBGの指導の下、海でしっかりと練習し、緊張感のある生活を送り、目標であった3日目の午後に行われる「大遠泳」も無事終了しました。ちなみに、私は「大遠泳」では波と風に負けそうになりながら、何かあったときのために隊列の外側をボートを必死でこいで、生徒たちの泳ぎについて行きます(翌年の「大遠泳」では、私は、強い風で隊列について行けず沖に流されそうになり、焦ったことがありました)。
 さて、その日の夕食後の集会で、私は初引率ということで「臨海」の振り返りのスピーチをする役回りとなっていました。生徒たちは「大遠泳」を終えた達成感で晴れやかな表情です。私も、80人の生徒が一団となって隊列を組んで行う「大遠泳」を実現させる臨海教室は、とんでもなく凄い行事だと衝撃を受け感動していました。最初に班の代表の生徒たちのスピーチでは、この経験をこれからの学校生活で生かしたいという言葉が何回か出てきました。私は生徒のスピーチを受けて話をしました。こんな感じです。
 「君たちのスピーチにあった、この経験を生かすということは具体的にはどういうことでしょうか。それは二つの言葉で表すことができると思います。一つ目は波や風のある海で練習にしっかり取り組み、そして80分に及ぶ遠泳の成功に導いた君たちの『勇気』です。二つ目は仲間と規律正しい集団生活を過ごすことで培った『想像力』です。どうか『勇気』と『想像力』、この二つを今後の学校生活でしっかり発揮していって下さい」。そして、その時思いました。「今、もしかしたら、まんざらでもないスピーチができちゃったかもしれない」と。そんなことで、今回、俳句を考えている時に「勇気」という言葉が浮かんできたのでした。
 「朝日俳壇」で私の句を入選、しかも「三席」に選んでくれたのは、俳人の長谷川櫂氏という方でした。私は少し前に氏の著作である岩波新書の『俳句と人間』を読んでいました。他にも多くの著作があります。そんな方が、私の句にこんな評を書いてくれました。「最後には勇気しかない。困難を乗り越えるには」と。これから長谷川櫂氏の本を読み、そして勉強しようと思っています。
 さてその前に、明日の日曜日は「朝日俳壇」が掲載される日です。私はまた投句をしています。3回目のビギナーズラックはあるでしょうか。
 

                                       


 



浄土の人々

小林 康昭  230812

 蜘蛛の糸 芥川龍之介
 或る日の事でございます。御釈迦様(おしゃかさま)は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
 設問1:上記の文章で、間違いを挙げて、正しい表現に直しなさい。

 鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな 与謝野晶子  短歌集 恋衣より
 設問2:上記の短歌で、間違いを挙げて、正しい表現に直しなさい。
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 八月には、あの世からご先祖様たちが、子孫の私たちの家庭に戻って来られてひと時を過ごされます。それが盂蘭盆会です。盂蘭盆会は、年の初めの第一の月の睦月から数えて七番目の月、文月です。この月の名は、旧暦の呼び方です。旧暦は新暦と一か月以上のずれがありますから、文月にむかえる季節は、新暦では八月頃です。明治六年に政府が暦を旧暦から新暦に切り替えたときに、季節とは関係なく旧暦の順番をそのまま、新暦にしてしまいました。旧暦の文月だった盂蘭盆会が、新暦では七月になってしまいました。ですから、デパートの七月はお中元売り出しで賑わいますが、八月は関係がありません。でも、多くの人は季節感を大事にして、旧暦でお盆をお迎えします。私もそうです。
 盂蘭盆会は、明治前に行われていたように、旧暦の文月にあたる季節に、新暦では八月にすべきと思います。
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 ところであの世とは、浄土と呼ばれるところです。阿弥陀仏が居られる極楽浄土、お釈迦様が居られる霊山浄土、薬師如来が居られる浄瑠璃浄土などがあるそうです。生前に信心をしている人は、亡くなると成仏して天上に上って浄土に迎え入れられるのだそうです。それに値しない人は成仏できないで、地獄に墜ちたり、餓鬼や畜生になったり、修羅の振る舞いを余儀なくさせられるといいます。大座仏教の信徒は、生前の行いで、天上から地獄までの六階の間のどこかを巡り歩くわけです。これを輪廻というそうです。信徒は、南無阿弥陀仏、妙法妙法蓮華経、などと念仏を唱えるだけで、善男善女として天上の浄土に迎え入れて貰えるのだそうですね。
 だが、上座仏教の信仰に生きる人々は、生前中に善行を施さないと、その没後の先が好まぬ輪廻の先に行ってしまうので、虫けらなどにならないように、この世にいる限り、お寺に喜捨を、托鉢の僧侶や貧者に施しを心掛けています。
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 かくして、成仏して浄土に迎え入れられた人々は、ほとけ様になったのですから、俗人が、ほとけ様である死者を鞭打つことをしてはなりません。いわんや、その死にざまも、間違って死んだ、悪いことをしたから死んだのではく、死んで成仏した亡者を丁寧に扱うことが俗界の俗人のけじめであると申せましょう。その人々が年に一度、浄土から俗界の我々のもとに帰って来てくださるのが、盂蘭盆会なのです。
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 八月の、その盂蘭盆会に数日先駆けて、原爆で亡くなった人たちを慰霊する日があります。
 八月六日、広島の慰霊碑に詣でた人々は、慰霊碑に刻まれた「やすらかにおねむりください。あやまちはくりかえしませんから」の一文を目にします。
 広島の原爆で亡くなった人たちを、この碑は「あやまちでなくなった」と言っています。ですが、原爆で亡くなった人たちは、誤って死んだのではありません。世界中の人々が、原爆で死んだ人たちの姿を知って、原爆の恐ろしさを実感し、この犠牲を繰り返してはならない、と思ったはずなのです。誤って死んだなど、とは言ってはなりません。
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 思った人々は、広島の人々や日本人だけではありません。世界中の人々が、原爆の恐ろしさが分かったのです。原爆で死んだ人々はその身を犠牲にすることによって、核兵器の恐ろしさを世界中に知らしめたのです。それ故に、核兵器所有国が、核兵器を使うことができなくなったのです。広島や長崎の原爆の犠牲者が存在しなかったら、安易に核兵器を戦争に使うことでしょう。すると、相手側も核兵器で報復するでしょう。世界中に膨大な犠牲者を作り出し、世界が滅亡するような危機を迎えたかもしれなかったのです。そうならなかったのは、原爆の犠牲者のお陰なのですね。
 あやまちは繰り返しませんから、ではなくて「あなた方の死は無駄にはさせませんから」と書き改めるべきですよ。


                                       


 



人生の贈り物

鳥谷 靖子   2023年7月9日

 梅雨の雨模様の鬱陶しい日が続き外出も億劫になっている。気分も暗くなるっているが、道路脇や近所の庭先に青や白、紫色の紫陽花の葉を見かける様になった。雨上がりの紫陽花の花は一段と色鮮やかで、沈んだ気分を和ませてくれる。
 この花が大好きだという友達がいる。広いとは言えないが整然とした庭に、様々な種類の紫陽花が植えられている。毎年六月になると「紫陽花が咲いたから見にいらして。」とお誘いがある。彼女の名前は志野さんと言う。三十代初め息子のママ友として知りあった三歳年下で東京育ち。スラリと背が高くショートカットの髪と、澄んだ瞳は婦人雑誌の奥様モデルの様な容姿。一方私は背も低く、ずんぐりむっくりの地方出身で、気後れ気味だったが腕白坊主の子供達は仲良くいつも一緒にこうどうする。次第に親同士も親しくなった。志野さんは、二十歳の時に十歳以上年上のご主人と恋愛結婚した。結婚当初から七十代のお舅さんと同居だった。互いに行き来する様になると「義父のお昼の準備があるから帰るわ」そそくさ引き上げる。ママ友とのランチ会も度々欠席。「大変ね」と労うと、厳格そうな舅の愚痴一つ言わない。知り合って二十年近いある日、赤い目をした彼女に「どうしたの?」と聞くと「義父さんトイレの後始末がわからなくなり、下着を流してしまい、トイレが詰って水が溢れ大変だったの。昨夜二度も同じ事をしてしまったので、寝不足なの」と言う。舅を最後まで自宅で看取った。
 舅を見送り三十数年。優しさの上に我慢強さも備えた彼女は、八十代後半になった御主人に献身的に尽くす姿を見かける。
 彼女の庭で一際美しく咲くアナベルの花。アナベルは紫陽花の一種で、小さな純白の花弁が丸い手毬の形なって咲く花である。アナベルの花の花言葉は「ひたむきな愛」である。彼女はアナベルの花に似ている。半世紀近くそんな友人が近所にいるのは幸運だった。
 これ迄出会った志野さんの様な友人達。そして稲門会の仲間との出会い、楽しい時間と刺激を受け、時に支えられる日常の暮らし。ふと道に迷いそうな私の人生航路の羅針盤となっている。
 

                                       


 



ダイエットが必要

石田 真理    2023年7月

 2020年からのコロナ流行によるステイホームや在宅ワークにより、気が付いたら10キロ太っていた。もともと活動的でも社交的でもないので、引きこもりは得意であり、巣ごもりのストレスはまったくない。通勤もオフィスの階段の上り下りもない生活で、運動不足なのだと思う。
 一番の原因は、鏡を見なくなったことだ。目が覚めてから布団の上でゴロゴロし、就業開始時間が近くなったらパソコンを立ち上げる。仕事が終わればパソコンの電源を切って床にゴロン。日中の移動距離は、お茶入れとトイレのみ。生活用品はインターネットで注文して配送してもらう。太らないわけがない。だが太ったことに気づかない。
 そんな生活を送っていたのだが、4月にコロナのワクチンも普及してきたことだし…と、知人の誘いで小旅行に出かけた。そこで撮ってもらった写真の自分の姿に驚愕した。予想外に太り、化粧っけのなくなった姿を見て、これは私の知っている私ではない、とショックを受けた。
 早速、なんとかしなくてはならないと考える。運動は好きではない。ジムに行く時間はない。となると、食べるものを減らすしかない。頭ではわかるが、難しい。ある時の健康診断で、医師に「なぜ痩せないのでしょうね?」と聞いたら「食べ物がおいしいのだろうね。」と言われたことを思い出す。美味しいものが多すぎるのだ。しかし運動習慣を取り入れるか、食事制限か、どちらが2択なら後者しか選べない。では強制的に食事制限をしようと、数日間、ファスティング(断食)施設に行くことにした。
 インターネットでファスティングができる施設を調べ、茨城県のヘルスリゾート施設「天馬夢(あまむ)」に行くことにした。上野駅から特急ひたちに乗り、約1時間40分、高萩駅から施設の送迎車で30分、東京ドーム28個分という広大な敷地でのんびり過ごす3泊4日である。
 施設のプランで、固形物は口にせず、酵素ドリンク500mlを3日で2本飲むことになっている。その他に水分をとる。廊下に給水器とポットがあり、水もお茶も自由に飲める。あとは敷地内を散歩したり、館内の図書室、風呂などでのんびり過ごす。風呂は部屋から、歩いて1~2分かかる。これだけで運動になるのではないかと思った。酵素ドリンクのおかげか、おなかは空かなかった。4日目の朝、少しは痩せただろうと期待して体重計に乗ったところ、1キロしか減っていなかった。(体重は減らなかったが、その後の体調はとてもよかった。)今回のファスティング経験で、食事制限だけではやせないことがわかった。やはり適度な運動も必要ということだ。
 

                                       


 



のぞみ会の10年(世話役人生考)

照山 忠利  2023.7.9 

 2012(平成24)年9月、私は東京大学法文1号館25番教室にいた。あの大学入試のニュースで流される大教室。ここで「市民後見人養成講座」の第5期が開始されたのだ。受講生は約400名、北は北海道から南は九州まで全国から集まってきた。新幹線は勿論航空便で駆け付けた人も少なからず、中にはなぜか着物姿の女性もいた。まるで一大社会運動を起こそうかというような熱気に包まれていたのを思い出す。
 その頃、会社生活を終えた私はアフターをどう過ごそうか迷っていた。遊びたい気持ちは山々だし文化教養の類にも心は動いたが、自分がここまでたどり着けたのも多くの人に支えられたおかげ。恩返しの意味で何らかの社会貢献の道はないかと考えたときに、「おい照さん、東大で半年勉強すれば安田講堂で卒業証書をもらえるセミナーがあるぞ」と唆した先輩の口車に乗せられ、成年後見制度の何たるかも知らずに早速受講料7万円を払い込み、「市民後見人養成講座」の受講生となった。以降翌年3月の修了までの半年間、毎月の土日を利用して講義や演習、討論、見学など幅広い学習が行われた。
 当時の成年後見制度の利用者数は168千人だったが、認知症高齢者の増加で2031年にはこれが100万人になる。そのうち市民後見人は26万人が必要であるとされ、これを担う人材を養成することが何より急務と言われた。このため受講生は各地域でNPO 法人を設立し、市民後見の爆発的な需要に備えるべしとの指導がなされたのだ。私たちは練馬区と豊島区の受講生6名でチームを作り、NPO 設立の準備をすることになった。「のぞみ会」の誕生である。
 法人設立に並行して、成年後見制度の普及啓発活動にも取り組んだ。自分たちが習ったばかりの知識を他人様に教えるわけだから、まさに手探り。光が丘を皮切りに各地に出向いて辻説法もどきの説明会を重ねた。制度を理解しやすいように紙芝居を作ったり、日大の落語研究会を動員したり、今から考えれば滑稽なことも多々あった。豊玉リサイクルセンターの方々には第1回目の拙い説明会にお付き合い頂いた。いわばこの説明会、勉強会といったミニ集会がのぞみ会の原点である。
 2014年1月にNPO 団体として承認を受け、同年6月に第1回総会を開催して正式にスタート、今年5月末に第10回の総会を終えた。この間幾多の試行錯誤や試練を経て、今では練馬区を中心に少しはその存在を知られるようになったと思う。ともに5回を数える「成年後見人講習会」と「100人規模の講演会」は今では当会のメイン事業として定着した。法人としての任意後見契約にも進もうとしている。
 成年後見制度は改善を要する点が少なからずあるとはいえ、今後の高齢社会にとって有用なシステムであるには違いない。「後見人100万人」の見通しにはまだほど遠いものの、今後着実に増加傾向をたどることが予想される。制度の大いなる発展の礎となるべく努力していきたい。
 思えば人生の最終コーナーにおいてやっていることは世話役ばかり。のぞみ会活動を始め元の会社のOB会の幹事役、ゴルフ会は毎月4~5組編成の幹事、練馬稲門会でも「幹事」として広報とサークルで細やかながらお手伝いをしている。どうもわが家系は他人様のお世話をすることが宿命のようになっているらしい。7月26日は村民を救おうとして磔刑に処せられた先祖の382年忌に当たる。また別の祖先の一人は「私は何も持たないが人の喜びを喜ぶ喜びを持つ」とキリスト者らしい言葉を残している。このような先達の偉業や高潔さには遠く及ばないが少々の癒し酒を頼りに世のため人のためを旨として世話役人生を全うしたいと考えている昨今である。
(了) 


                                       


 



四季の記憶 93「住めば都・・」

鈴木 奎三郎   2023・7

 風薫る5月。さつき、つつじもそろそろ終わりで、新緑がいたるところに輝いている。先月ある句会で明治神宮を吟行したが、これだけの緑が都心に存在していることは奇跡的である。まさに都会のオアシスだ。すぐ近くの竹下通りは平日にもかかわらずすごい人出で、大半は外人さんのようである。歩くにも苦労するほどで、いよいよコロナからの脱出もそろそろ・・という気がする。もうこの先、さほど残された時間もないが、この時期だけは何とか少しでも長生きをしたい・・という意欲がわいてくるのはぼくだけではないだろう。

 1961年に上京してからすでに60年超になる。高校までは故郷の長野市で育った。生家はいま1998年長野冬季オリンピックの記念公園「セントラルスクエア」になっている。長野駅から2キロに及ぶ善光寺の参道のちょうど中間地点にある。ここでスキージャンプなどの表彰式が行われた。今はかなりさびれたが、市の随一の繁華街「権堂通り」のすぐ近くだ。市の中心部であったため、夏休みには多くの仲間が集まった。もう廃業したが、ここには「奈良堂」という有名な喫茶店があった。版画家の池田満寿夫がよく通った店として知られ、当時のナンパ高校生のたまり場だった。授業が終わると毎日のように通った。

 進学のため18歳で上京して以来、東京を離れたことはない。転勤の多い会社だったが、最初に入社した販売会社が日暮里で、ここに4年間。その後銀座の本社に転勤し、以来何度か移動はあったが本社内をぐるぐる廻って地方勤務の経験はない。
 大学1年の時、上京して下宿したところは、小田急線の下北沢駅から歩いて10分ほど。兄2人が下宿していたところで、下宿屋のおばさんには息子のように面倒を見てもらった。2Fの6畳間は居心地がよく、洗濯までしてくれた。後年、結婚式にも出ていただいた。何度か母が北信の山田温泉にお連れしたり、親族以上のお付き合いであった。先日思い立って下北沢を訪ねてみたが、区画や道路も変わりついに探し当てることはできなかった。60年も経つと町も人も変わっていく。

 東京に出てその秋に、東中野に小さいながら瀟洒な一軒家に住むことになった。サラリーマンの次兄と一緒だったが、そのうちに妹が上京してきた。妹は近くの美大に進学してきた。兄と二人の頃は、ぼくが慣れない“おさんどん”をやり、妹が出てきてからは妹が専任となった。この状況は3,4年続いたが、妹は長野に帰りぼくは兄の結婚を機に東中野を去ることになった。
 ここを出て、2年ほどは下落合のアパートに住んだ。駅までわずか1分というところで、便利ではあったが踏切のカンカンに慣れるまでは耳につき往生した。
 1969年に本社に転勤となった。以来45年間、銀座に通う日が始まった。28歳の時に結婚することになり、同時に石神井に小さな一軒家を買ってもらった。石神井公園まで歩いて5分。建売の一角で、安普請であったのだろうか、雨漏りしたり、あっという間にぼろぼろになった。20年ほど住んで建替えることにした。

 といっても貯金は全くなかったため、会社のメインバンクである銀座の勧銀から3000万を借りた。ありがたいことに担保もなく貸してくれた。「資生堂の方だったら無担保でOKです・・」とのことだった。やれやれこれで定年まで延々と返し続けるのか・・と憂鬱な気分になったが、長野在の長兄の支援であっという間に全額を返済することができた。長兄は「俺はサラリーマンの経験はないが、借金があるといいたいことも言えないし、やりたいこともできなのではないか。何も心配することはないよ、スジを通して思う存分やりなさい・・」とのありがたい言葉だった。父を早くに亡くしたため、長兄は親代わりの存在だった。そのことは、ぼくだけでなく、次兄も妹も同じ思いだったのではないか。

 建替えた家は、三井ホームのツーバイフォーで、地震に強い・・といわれていた。建替えてもう30年近くになる。屋根や外壁のメインテナンスをキチンとしているためほとんど新築間もないようにみえる。結婚して50年。あっという間に過ぎ去った年月だが、もう引っ越すこともない。この後の心配は、考え出すとキリがない。しかし人生の最終コーナーを廻ったことは確かだ。


                                       


 



御年(おんとし)相応なのでしょうか?

谷川 亘    2023年7月9日

 既に八十路の折り返し点も過ぎて“与太ジッツアマ”ぶりも良いところ。
脳天から足指の先まで、痛い、カユい、痺れるの大盤振る舞いです。それに、男の更年期(チョット遅め過ぎるかな?)にも当たるようで・・・。
 身も心も、言うなれば、陰鬱で重っ苦しい梅雨の陽気にも打ち負かされて、心身両面で落ち込んでしまい、後ろ向きな気分の蔓延しきっている毎日です。そうですよ!!絶えて久しい、Kさんからのメールの一通でも舞い込んでくれば、期待に胸ふくらんで“向春”の心地も高揚するのでしょうが、パソコン開いてみたとて旧友の医者通いのボヤキばかりです。
 でも、負けてたまるか!!「一日一万歩」の他に、月一ホームページ発行を合言葉に、「くじけてたまるか!!」。“老いの”一徹とばかりに挑んでいます。

 まあ、コロナ禍後遺症である、罹患怖さの“籠りっぱなし症候群”にどっぷりつかり、一日24時間はとてつもなく長すぎると感じるのに、馬齢重ねると一年過ぎるのはあっという間。これぞ、“光陰矢の如し”。だって焦りますよ。どの統計見ても、私の余命はあと6年くらいしかないのですよ。
 この疫病も沈静化の方向にあるのでしょうか?毎朝新聞で、一週間前の罹患状況と比較して増えたとか減ったとかの数字で一喜一憂してきたのが、当節は手法変って「超過死亡」なんて脅迫じみた学術用語。統計手法の一つだそうですが、難解な説明何度読み返しても、「コロナ」の文言ひとかけらも出てこない、理解に苦しむ上に脅迫感に満ちた文言と、ややっこしい数字に惑わされる昨今となりました。余談になりますが、コロナも遠因しているのでしょうか?「多死社会」なんて恐ろしい物騒な流行り言葉のこのご時勢。老いの身にとっては安閑とはしていられません。

 この三年間と言うもの、すっかりコロナ禍と言う漬物樽に閉じ込められて密封され、否、罹患恐れるあまり自ら率先して樽にこもり、何事に対しても没交渉を続けてまいりました。
 こもりっぱなしは、心身両面で「認知症」発症の時期を早めると、コロナ禍に席巻される前から耳にしており、“サンデー毎日”の身分となって後は、体を鍛え、人様との接点求めることを日課として取り込むこととし、朝一ラジヲ体操に参加してはジンジ・バンバと雑談にふけり、その後に公園を数周することに徹しております。当初はご婦人に声がけするなんて勇気のいる所作だったのが、今や“お馴染さん”と、あーでもない、こーでもない。とりとめのない話。これがボケ防止の秘策なんですよ。公園“よた歩き”も、「一日一万歩」目標。三年前は4周でも平気の平左。ゆとり見て貯金して11,000歩だったのが、歩幅が狭くなって3周で一万歩に成り下がり、今では休息タイムも含め、御年85にちなんで“妙ちくりん”。目標は8.5千歩まで落ち込む体たらくです。
 意地張って欠号なく続けてきたHomepageも、たとえここ三年はコロナ関連話題ばかりではあっても振り返ってみれば131号となり、これから先、“続かるのか・続けられるのか”?
 本心はここに!!!ゆったり気分。ひなびた温泉に湯浴みを求めては行脚したいのです。
 

                                       


 



わが青春の一冊-『ショージ君の青春記』

富塚 昇   2023年7月9日

 最新号の「早稲田学報」の「ワセダの漫画人」という特集の中で東海林さだおさんが紹介されています。東海林さんのマンガはもちろん新聞や雑誌で見ることもありますが、私は文筆家としての東海林さんのユーモアとウィットに富んだ文章にも魅せられます。東海林さん作品に『ショージ君の青春記』という文庫本があります。今も自宅にあるその本の奥付によると1980年8月25日に第1刷が発行され、私が持っているものは10月15日の第2刷となっています。1981年から83年までの間、私はこの本を何回読み返したでしょうか。その当時、この本は私にとって心の支えでした。目次には「初恋物語」「逆上の露文入学」「早大漫研の仲間たち」「漫画家家業始末記」「白昼堂々の家出」「漫画行商人」などの見出しが並んでいます。大学入試では東海林さんは最初第一文学部美術史専攻を受験するつもりだったそうですが、願書提出の直前に女の子にもてるかもしれないという理由で露文専攻に変更したそうです。
 さて、この本を読む前の大学4年の時、私の大学卒業後の進路希望は大学院進学でした。そのため就活はせず、教員採用試験も受けず、卒論と大学院受験の準備に時間を費やしていました。そして、1981年の3月に行われた文学研究科の試験に臨みました。しっかり準備したつもりでしたが実力不足で不合格となってしまいました。自分の力不足に直面し落ち込みました。自分は今後どうしたらいいのだろうか。大学卒業後の浪人生活が始まる中で自分の進路希望を高校の社会科教員へと変更しました。大学院不合格から4ヶ月後の7月に東京都の教員採用試験を受験しました。いまは教員の不人気は社会問題になっていますが、当時はそれなりに人気もあり採用試験の倍率も高い状態でした。大学院受験の失敗から4ヶ月は大学受験の勉強と同じかそれ以上の猛勉強をして、教員採用試験に臨みました。結果が郵送されてきました。合格ならば“G”、不合格ならば“F”と印刷された用紙が入っています。結果は・・・“F”でした。この時は本当に、本当に、本当にショックでした。不合格が続き、最近の言葉で言えば心が折れていました。毎日行かなければならないところもなく、将来の見通しも立たず自分はこれからどうなってしまうのだろうか。そんな時にこの本に出会いました。
 東海林さんの『青春記』のハイライトは子どもの頃からの夢であった漫画家を目指すところです。東海林さんは大学卒業が難しい状況となる中で家を出て漫画家を目指します。将来の見通しがある訳ではありません。東海林さんは漫画を描いて出版社に持ち込みを始めます。しかし、最初の頃はほとんど採用されませんでした。このように書かれています。「断わられても断られても何回も通った」。「僕には漫画の才能なんてないのかもしれない」。「とんでもない道を選んでしまったのかもしれない」。「もうあとには引き返せない」。東海林さんは出版社への持ち込みを続けます。そして、ついに編集者から「来年からはひとつ、連載でいこうじゃない」と声がかかります。連載が決まった時の文章は本当に感動的です。東海林さんの努力に比べれば、私のそれはたかがしれたものですが、東海林さんの執念、根性、精神力がつまった『青春記』に支えられ、私も翌年、教員採用試験に合格することができたのでした。

 

                                       


 



都道府県

小林 康昭  230709

 大学に職を得て授業を受け持っていた時には、通勤途上の車内で、その日の授業で喋る枕を考えることが日常の習いでした。枕とは、落語の噺家が口座で本題に入る前の前置きのことです。寄席で噺家が、枕を話しているうちに客席が落ち着いてきますと、頃合いを見計って噺家は、主題に入るのです。学生相手の授業でも、通じるところがあります。
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 休み時間の余韻が消えない教室に入り、教壇に立ちますと、まず、室内を見回します。そして、一人の学生を名指します。「おい、そこの学生、そう、眼鏡のアンタ。立って!」室内は急に静まります。「アンタの出身地はどこだ?」「滋賀県です」なぁんだ、と張りつめていた室内の空気は緩みます。「滋賀県の県庁所在地はどこだ?」「大津です」追い打ちをかけます。「県庁所在地が大津なのに、どうして大津県って言わないのか?」学生は絶句し、教室のなかは再び張りつめた空気に戻ります。そもそも、学生は私の質問の意味を理解していないのかもしれない。そこで、次の矢を放ちます。「滋賀県の隣の岐阜県、県庁所在地はどこだ?」「岐阜です」「もひとつ隣の福井県じゃ、県庁所在地はどこだ?」「福井です」学生は、いい加減にしてくれって表情です。「県庁所在地が岐阜だから岐阜県。福井が県庁所在地だから福井県。わかりやすい話だ。それなのに、滋賀県は県庁所在地が大津なのに、大津県ではない。どうしてか?」「わかりません」「疑問に思わなかったか?」「思いませんでした」不要領の表情で、学生は席に座ります。も一度、声を張り上げます。「このなかに、茨城県の奴はいるか?」手があがります。指名に応えて学生が同じ質問に「茨城県の県庁所在地は水戸」と答えます。そして「水戸県でない理由を考えたことがありませんでした」と手回し良く防線を張りました。
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 明治維新直前の日本は、274の大名領に分かれていました。1869(明治2)年、版籍奉還が行われて、274の大名領が新政府内や地域間、あるいは新政府と地域との対立を調整しつつ、試行錯誤を繰り返して統合整理し、20年を要して1888(明治21)年に愛媛県から香川県の分離を最後に、今の47都道府県(正確には、当時は道府県)に定まりました。
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 道府県庁所在地は、基本的にはその地域の格の高い都市、例えば鹿児島、広島、名古屋、水戸、仙台などに定められました。これをAグループとします。この中で、鹿児島県、広島県などの様に、府県庁所在地の都市名と府県名が一致する府県があります。これをA1グループとします。旧大名領が新政府の樹立に功があったか好意的だったのです。
 Aグループの中には、名古屋、水戸、仙台などのように、県庁所在地の都市名と県名が一致しない県があります。これをA2グループにします。県名には、県庁所在地の都市名を避けて郡の名を充てました。愛知、茨城、宮城は郡の名です。旧大名領が新政府に対して、支持する態度が消極的だったのです。
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 県庁所在地になって当然なのに、外された都市があります。姫路、彦根、小田原、川越、長岡、会津若松、米沢、弘前などです。県庁所在地は、神戸、大津、横浜、浦和、新潟、福島、山形、青森を押し付けられました。これらの県をBグループとします。Bグループにも二通りあります。県名と県庁所在地が一致していない県と一致している県です。
 一致していない県をB1グループとします。兵庫、滋賀、神奈川、埼玉、群馬などです。郡の名を県名に名付けた県です。旧大名領が新政府に拒否感があったのです。県庁所在地の都市名と県名が一致している県をB2グループとします。新潟、福島、山形、青森などです。江戸時代は、新潟より長岡、福島より会津の若松、山形より米沢、青森より弘前が格上でした。だが、戊辰の役で新政府に逆らったので格下の港町や宿場町に県庁所在地をさらわれ、これ見よがしに、格下のその町名を県名にされました。会津の若松は新政府に対して不遜にも刃を向けました。新政府は若松を嫌い、県庁は宿場町の福島に置かれ、福島県となりました。「会津よ、悔しいだろう、ざまぁみろ」と新政府は嘲笑ったのです。
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A1は新政府を支えた道府県でした。だから、その扱いは当然です。新政府にとって、A2は可愛げのない県、B1は憎らしい県、B2は、ざまぁみろ、という県です。廃藩置県の際、新政府はこのようにして、道府県に格差を設けたのです。このように蘊蓄を重ねると、幕末維新の論功行賞を反映した都道府県は、今になってもこのままでいいのか。特に、ざまぁみろ、とあしらわれた県は、誰かが何か言い出してもいいと思いますが、聞いたためしがありません。 そもそも、都道府県などと4種類に区分けすることが解せません。首都の東京は、都を名乗るのは当然としても、道と府は、北海道県、京都県、大阪県と名乗り、全国47都県でよろしいと思うのですよ。ところで、皆さんのご郷里の県は如何でしょうか? 私の郷里、長野県では、断じて長野県とは言わないし言わせない(信州と言う)人が居りますよ。


                                       


 



四季の記憶 95「必殺 仕掛け人」

鈴木 奎三郎   2023・4

 豊川悦治・片岡愛之助主演の「仕掛人藤枝梅安」は、1作目が3月に封切られ、2作目が4月7日に上映となった。2作目より1作目が期待にたがわず上々の出来で、さすがベストセラー作家池波正太郎原作のヒット作であり、食通として描く“食の情景”が素晴らしい。池波作品には、小説に仕込まれている食味や料理の風景が必ず登場する。このうちのひとつをまねて、昔々、アサリと大根の煮物を家人に作ってもらったことが何度かある。「仕掛け人」では、藤枝梅安が自ら包丁をふるって、よく小鍋や湯豆腐、煮物などをこしらえている。映画の節々にでてくるこの食のシーンは、「仕掛け」という凄まじい殺しの場面と対照的で、きわめて印象的である。

 グルメとしても名高い池波正太郎には「鬼平犯科帳」「剣客商売」「真田太平記」などのいまだに売れていて記憶に残る作品が数多くある。ほとんどの作品は映画やテレビになっている。
 「池波正太郎の銀座日記」には映画を見た後で食べ歩きするのが楽しみで仕方がないとして、そのうちの一店には「資生堂パーラー」が登場する。パーラーは1872年創業の資生堂が銀座に作った老舗レストランで、創業からほどなくソーダ水や日本初のアイスクリームなどを創りだした。

 池波さんは下町生まれで、洋食やいまでいう「町中華」などもこよなく愛したようだ。1965年、新入社員の入社式で、初めて連れていかれたパーラーは、生まれてこのかた満足なフルコースも体験したことのないぼくには、夢のような食事会であった。とりわけ記憶に残っているのは、コンソメスープとミートクロケット(コロッケ)だ。世の中にこんなにうまいものがあるのか・・とショックを受けた。食の記憶は、今になっても忘れることはない。

 池波さんには、一度だけお目にかかってパーラーで食事をご一緒したことがある。どういう案件でお目にかかったのか、記憶も定かではないが、たしかパーラーに関する歴史?資料?のリクエストがあり、上司に言われてたまたま席にいたぼくが、パーラーにいる池波さんにお届けした時だと思う。その時に一時間ほど食事しながらいろいろな話をした。話の中身はもちろん覚えていないが、寡黙ながらゆっくりした穏やかな話をする方・・という記憶は残っている。いまでもパーラーに行くたびにこの日のことを思い出す。当時ぼくは35,6才。池波さんは60才前後。一番あぶらの乗り切っていたころではないだろうか。1923年生まれで1990年に亡くなった。77才だった。往時茫々である。

*町中華:安い、おいしい、ボリューム満点・・町の人たちに愛される中華屋さんのこと。


                                       


 



柳洋子さんを偲んで

照山 忠利  2023.4.22 

 文芸評論家の平野謙は早稲田で教鞭をとっていた1965年の春、その教室に現れるなり、女子学生の姿を認めて言い放ったという。「政経学部は男ばっかりだったから、私は好きだったんだ。それが女も入ってくるようになって……不愉快だ」。先日の日経新聞コラム「春秋」が、コラムニスト中野翠さんの言葉として伝えている。確かに私が入学した66年の政経学部のクラスでも女子学生はたった一人、それも某女子体育大からの編入組。年上の同級生というわけだ。
 柳洋子さんが文化服装学院から早稲田に編入学したのも同じようなものだったと思われる。「洋裁学校出のお姉ちゃん」と言われたとかつて述懐していた。文学部だから女子学生はそれなりに多かっただろうが、それにしても男中心の大学の典型のような早稲田に編入して同級生たちに伍していくにはそれなりの覚悟と度胸、気力と努力が求められたにちがいない。学部から大学院で社会学を修めて卒業した後はかつての母校、文化女子大学に奉職し、多くの著作を残す傍ら大勢の教え子を世に送り出した。
 私が初めて柳洋子さんにお会いしたのはエッセイ同好会だった。今から15年前の2008年のこと。当時の例会は国産自動車の春日ビルにあった練馬稲門会事務所の横の従業員控室で開かれていた。粗末な会議机に古いパイプ椅子を口の字に並べて作品発表が行われていた。そのころ柳さんは唯一の女性として甲斐甲斐しくお茶を淹れたりしていたが、かなり鼻っぱしの強い方のようにお見受けした。
 ある日の例会が早稲田の大隈記念タワー会議室で開かれた帰り道、高田馬場の居酒屋で恒例の反省会が行われた。幹事の内藤雄幹さんから「照山さん、会計係を頼む」といわれて割り勘の集金に回った時のこと。柳さんに「半額でお願いします」と言ったら、とたんにカミナリを落とされた。「何言ってんのよ。この会はみんな平等なのよ。女だからと言って特別扱いをするなんてもってのほか」。だって柳さんはお酒は飲まないし食べる量だってそこそこなんだから半額でもいいじゃないかという思い込みが、きついお叱りを受けることとなった次第。というわけで現在の当会の飲み会でも女性陣に同額割り勘をお願いしているのはこの伝統を受け継いでいるからに他ならない。
 小生以外にも女史の逆鱗に触れた方がおられるようだが、叱責の後は案外さっぱりとしたもので、小生はその後何かと目にかけていただいた。10年前にNPO法人成年後見のぞみ会を立ち上げた際には「立派な活動だから頑張りなさい、応援するから」と言って物心両面からご支援をいただき、さらにバレンタインチョコの恩恵に与るまで格上の扱いを受けたのは望外のことであった。
 去る3月25日、冷雨が満開の桜花を濡らした日、母校の文化学園大学食堂で「柳洋子先生を偲ぶ会」が行われた。文化の教え子に早稲田側と縁者を加えた70名が集い、故人の思い出を語り人柄を偲んだ。夫君の柳次郎さんは「まるで家内がすぐそこで微笑んでいるような気がする」と言って愛妻への想いを口にされた。我々はエッセイ同好会創立時からの偉大な先達の功績を忘れてはならないだろう。今もきっと草葉の陰から我々を見守ってくれているに違いない。改めてご冥福をお祈りしたい。合掌
(了) 


                                       


 



わが棲むところ

横山 明美  2023 

 東京の西、西武新宿線の下井草が、私の生涯住むことになった落ち着き先の最寄り駅である。家は駅から徒歩15分ほどの距離にあり、途中も家の近辺も店は何もないから静かな住宅地、といえば聞こえはいいが、駅周辺に行くよりほかに日々の生活はなりたたない。
 西武系のスーパーと銀行と交番…を中心に、いま中年の域に達した子供たちのその頃には本屋もおもちゃ屋もあったし、畳屋も、呉服屋さえあった。呉服屋は「はね馬」という珍しい名だったが、その頃でも客があるのかしらと不思議に思っていた。女主人は若く大柄で髪をこんもり結い上げ、あでやかな着物美人だった。旦那は年配の渋い人だった。女将さん自身が“跳ね馬”だったのかもしれない。
 息子の野球仲間の桑野君のお父さんは畳屋だった。畳替えを頼むとお茶の時間に、和室がどんどんなくなって畳屋の仕事もそろそろおしまいだ、と言いつつ、皇居の畳替えを手伝ったときの話になり、菊の御紋入りのたばこをもらったことを懐かしそうに少し誇らしげに語るのだった。はす向かいにもう一軒畳屋はあったが、その後まもなく両方とも廃業した。
  おもちゃ屋の「モモタロウ」は、主人その人が桃太郎のように肌艶もよく目はぱっちり愛らしく引き締まった小太りで、子供を惹きつける店だった。それでもあたりの住人が年を取り子供も少なくなって、モモタロウは「おもちゃの病院」という看板に架け替えた。我が家も一二度壊れたおもちゃでお世話になったが、気が付くと店ごと姿を消していた。
 本屋は、町に一軒はあってほしいものだ。駅のわきにひっそりそれはあった、が子供向けの本や週刊誌、実用書が多く、どうも魅力に欠ける。それがあるとき隣駅の大きな書店の手に渡り、小さいながら、品ぞろえもよく並べ方にも工夫がある店に生まれ変わった。“店長“がいて頼んだ本を取り寄せてくれる。スペインのサラマンカという大学都市の分厚い写真集まで平台にあって驚いた。親しい友人の住む町である。駅周辺に行く楽しみがふえ、長く続くことを願ったが、二三年でその店も本店も共になくなり、どこにでもある飲食店に取って代わられた。
 踏切を渡ってすぐの銀行の前に文房具屋があり「杉並稲門会」の札が貼ってあった。ちらちらと見ていたが広い店内に人影はなく、やはりそのうち工事が始まり、合気道の道場になった。昔から袴姿に憧れがあったのでこの歳で即入門。早稲田の同窓生ということが弾みをつけた。大学で合気道部に所属していたらしい。その後近くに100円ショップができたから、その転身は見事だった。先代の頃の最盛期には上京した住み込み店員もいた、と聞いて感動してしまった。映画「3丁目の夕日」の世界ではないか。
 私は、見る間に成長していく少年たちや、やる気十分の若い女性に恐れをなし、三年でやめてしまった。臙脂色の袴が下井草のいい思い出である。
 下井草に不撓不屈で生き残ったのは和菓子屋だけかもしれない。失礼なほどその近くに名のある有名和菓子屋の支店が開店したが、一年ももたなかった。暖簾の奥での家族の手作りが、工場一括生産で美しいだけの和菓子に勝ったのだと思う。今でもここの揚げ饅頭は私の好物でときどき買いに行く。
 帰り道、昔からなじみの榎本電機の店を見上げると「お客様を困らせない…」というキャッチフレーズが大書してあった。家電はもちろん玄関灯の取り換えなどもお世話になってきた店である。あとどのくらいもつか心配だ。新興勢力のコジマのあとにヤマダ電機も環八沿いにやってきている。
 窮屈そうに走るバスの通り添い、バタバタとなくなった店のあとに、ユニクロやスポーツジムができた。ガラスの向こうでは年配者が汗だくでベルトの上を歩き、自転車をこいだりしている。我が家の近隣もみな歳を取って世代交代が激しい。
 路地を出た千川通り添いに広い場所を占めていた専門学校が移転し、高層マンションが何棟も建った。おかげで練馬や荻窪行のバスが走り、コンビニもミニスーパーもでき、内科小児科医院も開業した。そのマンション群を見上げるように昔から営営と続く大構えの農家があり、最近はとれたて野菜の販売が人気だ。みな下井草には行かなくなった。この辺においしいパン屋といい喫茶店ができれば十分…と近隣の人たちは言っている。

 町は老い、一方で新しい集落ができていく。我が家の踏ん張る路地も、もう半分が若い家族に入れ替わり、ボール蹴りする子供たちに「あら、上手」などと声をかける日々である。
 町は人間によって造られた一つの作品、と言われるが、わが町がどんな仕上がりを見せてくれるのかは想像もつかない。


                                       


 



「マザー・テレサの『愛』の種子が着地した瞬間」
~中学校の道徳授業の現場から~


渡邊 訓子  2023/4/21

 義務教育では、年間35時間の道徳の授業が必修となっている。そもそも、道徳の授業は、必要か、必要ではないか、議論が分かれるところだ 。しかし、多くの国民が特定の信仰宗教や絶対的な畏怖の対象ももたぬこの国の現状がある中で、子どもたちが、「正しく生きること」について考える授業を、1週間に一度ぐらいもってもいいのではないかと思う。 道徳は、何かを教える教科ではない。人の心の善なるものを自分自身で感じたり、考えたり、他者と共有したりする時間である。その中で、生徒の心が「より良く生きる方向」へ変容してい ってくれたらいいと思う。 だが実は、道徳の授業は、授業者である 教員自身の心の変容、生き方の変容をも引き起こしている 。それは文部科学省の人たちも 想定していなかったことであるに違いない。しかし、まぎれもない事実だ。

 最近、道徳の授業で、マザー・テレサの教材を取り上げた。舞台は1952年インド東部・コルカタ。強烈な太陽の熱がスラム街の地面をじりじりと焼いている。疲れ果てている人々が 、僅わずかな日陰を求めて路上をさまよっている。連日のように、多くの人々が路上で死を迎える、地獄絵のような風景。ある日、マザー・テレサは路上に倒れている老婆の亡骸なきがらを見つけた。他に道行く人で、老婆に目をくれる人はいない。コルカタのスラム街では、このような光景は日常茶飯事なのだ。マザーはひざまずき、彼女の前で十字を切った。立ち去ろうとすると、“死体の手がピクリと動いた。(まだ生きている!)そう思ったマザーは、すぐ さま 老婆を担ぎ上げ、病院へと急いだ 。病院の院長は以下のことを言った。「マザー。この病院にそんな余裕はありません。どうせ死ぬに決まっている人間は手当のしようもないし、収容するスペースもありません。この人はあなたがたまたま見かけた病人でしょう。あなたにとってはその人一人かもしれないけれども、 このコルカタには 、こういう人は何百人といますから…… 」
 このテキストを範読(はんどく)した後、私は、生徒たちに問いかけた。「マザー以外の人が老婆に『見向きもしない』のはなぜだろう 」
 生徒たちの意見は以下の通りだ。
  「どうせ死ぬ人間を助けても時間の無駄だから 」
  「同じように死にそうな人はたくさんいるから 」
  「自分が生きることで精一杯だから 」
 私は、生徒たちの意見をうなずきながら聞き、それを板書した。板書している間にふと、疑問を抱く。「私だったら、この老婆を助けるのか」。そして、また生徒たちに問いかけた。「 今は周りの人の気持ちになって答えてもらったけど、みんなだったらどうかな。自分自身がこの老婆を見かけたらどうだろう。マザーのように老婆を助けますか。それとも周りの人のように振る舞いますか 」
 一瞬、教室は静かになり、生徒たちは先ほどと同じ発言を繰り返した。
 「なるほど。先生自身も、こんな場面に遭遇したとき、みんなと同じように、この『見向きもしない人たち』と同じ行動をとるんじゃないかなって思いました」
 生徒たちは真剣に聞いている。私は続けた。
 「目の前に死にそうな人がいる。かわいそう。助けたい。でも『どうせ死んでしまう人だから助けても無駄だし、同じように死にそうな人はたくさんいる。この老婆だけが特別ではない。私だって生きるだけで精一杯なんだ。この老婆を助けている余裕はない。でも ・・・・・・ 。』そこで言葉を切る。
 「でも……不思議なんだけど、どうして私は最初にこの老婆を『かわいそう』『助けたい』と思ったのに、次の瞬間に『助けない理由』を探すんだろう。『助けたい』っていう気持ちは確かにはっきりと自分の中から沸き起こってきたのに、どうしてその気持ちを押し込めるように、助けない理由をいくつも考えて、老婆のことを見捨てるんだろう。私は、自分自身がなぜこういう行動を取るのか不思議に思ったし、そのような行動を取る、自分自身を恥ずかしいと思いました。マザー・テレサのように多くの人を助けられないかもしれないけど、これから、少なくとも、自分の身の回りにいる人たちだけでも、全力で彼らの力になり、助けてあげたいと思います。」
 生徒たちはじっと私を見つめていた。私が言ったことを、生徒たちも自分自身のこととして捉え、自身に問いかけているのだろうか。
 授業後の振り返りシートでは、彼らのこんなコメントが見られた。
「自らをかえりみずに他者を助けるマザー・テレサのように行動はできないが、他者に寄り添い、自分のことのように考えるなど、ささいなことではあるけれど、相手にとってはそれが救いになるような、そのような自分にできることから始めて、人に対して愛をもって接したい。」
「先生が言っていたとおり、友達に相談を受けたときは 、相手の気持ちに寄り添って全力で話を聞いてあげたり、心配したり、これ以上傷つかないように相談にのってあげたいです。意味のない行動はきっとないから、自分が相手にやってあげたい、やりたいと思ったことをする。」

 マザー・テレサが亡くなって、26年。道徳のテキストを通して、マザー・テレサの愛の種子は私の中で芽吹き、またその種子は数人の生徒たちの心に着地した。その種子が育つか、また発芽不良となり、朽ちてしまうかは、まだ誰にもわからない。


                                       


 



追い越し禁止

古内 啓毅  2023・04・22

 昨年末からこの4月にかけて、従妹の夫、伯母、友人の夫、友人の妻、会社時代の同僚、そして私の次兄と身近な人々の死亡が続いています。かっては、連絡がありますと可能な限り出かけて直接弔意を表しておりましたが、このごろはコロナ禍もあってうちうちで営む家族葬が多く、葬儀が終えた後に連絡を受けることが多くなります。

 昨年6月末、コロナ禍のまん延防止措置の解除もあり、3年ぶりに故郷を離れているきょうだいで故郷詣でをしました。私は、7人きょうだいですが、この日は、7年前に亡くなった長兄、欠席の次兄、次姉を除いた4人のきょうだい、それに現地のおい、めいも含め10人余での宴となり、久しぶりに故郷を味わいました。その場で、次は来春、桜のころに集まろうということになりました。が、今年の桜前線の北上が早く桜の時期を逸してしまいました。現地と連絡を取り、連休明けの5月初めの新緑の時期に変更です。次兄の死はそんな矢先でした。昨年は欠席でしたので今年の会合を楽しみにしていましたが、予想以上に体調がすぐれなかったようです。甚だ残念でした。
 
 長兄が健在だったころ、きょうだいかいと称して年に一度、それぞれの連れ合い、子供たちも含め、相当数の人数であちらこちらの温泉宿に出かけ絆を深めあっていたものです。長兄が亡くなってからは規模を縮小して開催してきましたが、きょうだいも歳を重ね動きも緩慢になってきて全員があつまることは難しくなります。しかも一人欠け、二人欠けになり人数も少なくなってゆきます。

 次兄が亡くなった時、末弟から電話があり,「姉さん二人は大変元気で白寿までも夢じゃない。となると長男、次男に続き、次は三男ですね。」と、三男の小生に冷やかし半分に宣う。私は、「順番から言えばその通りであるが、私を通り越して君が先に逝くようなことは御免被りたい、つまり、追い越し禁止だよ。」と応じました。末っ子のうらなりで、掛かりつけのドクターから、お酒を控えるようにとの忠告に従わず不摂を重ねているようで心配しています。


 ともあれ、5月の故郷詣でで、「ふるさとの山に向ひて言ふことなしふるさとの山はありがたきかな」(啄木)にならって、ふるさとの山に手を合わせ、世の安全、家族の安全を願うことにしたい。


                                       


 



大阪IR

松本 誠   2023.4.22

令和5年4月14日大阪IR国内初認定!大阪にIRが実現する!ほんとうだ!
統合型(Integrated)リゾート(Resort)の頭文字を取った略称

約35年前私と家内はアメリカのLAにいた。知り合いの家族とそのお嬢さんがアメリカの大学を卒業、その卒業式に参列するため、DENVERに行っていた。アメリカをドライブしよう、ということでLAからラスベガスまで約1500キロの真っすぐな高速道路をすっ飛ばした。そして夢のリゾート地についた。MGMホテルの玄関には大きな火山がそびえたち、30分おきに火山が噴火して噴煙が上がり、真っ赤な溶岩が流れ落ちる!音響も伴い大迫力のお出迎えだ!夢の島に来たようだ!そしてそのホテルの2階には大きなカジノがあった。その時は超円高で1ドル80円ぐらいだった。3万円ほどの日本円をドル換算して、スロットルマシンやミニスカートの洒落た女性が指揮を執る大きなルーレットテーブルに換算チップを配置する。、ダイスがコロコロ何回転もして、そしてうまくあたった!長い手先のへら状のかき集め装置でゴソッとわが手元に配当される。それを何回も繰り返す。ビールは係の女性が無料で運んでくれる。あっという間に数時間が過ぎる。明るく実にたのいしい!夢がある。希望がある。周りのお客たちも和気あいあい、いろいろな言語が飛び交う。男も女も、そしてお年寄りの老夫妻なども楽しげに参加している。そんなカジノのある一場面の体験をした。カジノで時間を調整して、ホテルが競って劇場ショーを開催している。あるホテルはホワイトタイガーの餌付けショー、またあるホテルはサーカスまがいの空中ブランコ。お客さんを飽きさせない、これでもか、これでもかというアイデアの催し物満載。そんなラスベガスの体験がこの大阪で実現!か!
令和11年(2029年)の開業を目指すという。事業体は海外で有名IRを手がけるMGMリゾーツ・インターナショナルとオリックスが中核株主。もともとはその地域のホテル、国際会議場、や大きな団体の大集会等のリゾート地域の1画に総床面積約77万平方mの3%のカジノだ。大阪湾の人工島である夢洲。ここは大阪万博が2025年に開かれる。昭和45年(1970年)に千里丘陵で開催の大阪万博はすごい人並みだった。当時大阪勤務だったので昼夜合わせて10回ぐらい見学した、パビリオンの基礎工事なども手がけたので思い出多い万博だった。ボクは第2回大阪万博もゆっくり見て、できるなら このIRもぜひ体験したい!
それにはあと6~7年老体に鞭打ってがんばろう!
もちろんこのIRには陰と陽がある。賭博依存症を増長させる、とか夢洲の地盤の沈下が心配とか反対意見もあるが、経済成長や雇用や、夢等を総合的に判断して日本初の実現にまい進してもらいたい。長崎県もハウステンボスに計画があるという。大いに日本独自の健康的な総合リゾートを展開していただきたい。発展こそ進歩であると確信する。
 

                                       


 



人生3回目のお伊勢参り

富塚 昇   2023年4月22日

 3月29日(水)、私はこの日の朝6時15分、東京駅八重洲北口にいました。これから1泊2日の伊勢志摩ツアーのスタートです。
 現在、私は2校で非常勤教員をしており、学期中は週6日に結構忙しく過ごしています。しかし、これまであった部活指導がなくなることもあって、春休みは久しぶりに旅行でも行こうかと思いたちました。一応、妻を誘ってみると、妻も行くと言うことで話がまとまりました。自分で計画するのも億劫なため、初めて旅行社が企画をするツアーに乗りました。新聞広告を見て選んだのは、1泊2日の伊勢志摩ツアーです。
 伊勢志摩に行くのは今回が3回目です。最初は今から44年前の夏休みのことでした。当時私は大学3年生、21歳でした。その時は小中学校の同級生、女子の同級生二人を含めて総勢10名、車三台連ねて行ったのです。参加メンバーは小学校1年生から中学3年生までの組替えをしながらの同級生で、いまでもつき合いのあるメンバーです。今回、その時の写真をいろいろと見返しましたが、よく思い切って行ったものだなあと思ってしまいます。その時は、的矢湾の海に面した貸し切り状態の民宿に2泊か3泊しました。
 2回目はいまから9年前、2014年の3月中旬のことでした。この時は青山高校の修学旅行の引率でした。修学旅行の1日目、新幹線で名古屋まで来て、近鉄とバスに乗り継いで伊勢神宮内宮を目指しました。この修学旅行の時、私は高校2年生の担任だったのですが、その後、すぐ異動になることが決まっていました。生徒たちと楽しく過ごしながらも、2年の担任が3年の担任にならずに異動になることはあまりないことなのですが、もうすぐ生徒たちともお別れなんだと感傷的な気分で引率をしていました。
 そして、今回のツアー旅行です。
 まず1日目、東京駅6時15分集合です。この時間に間に合わせるために、東京駅近くのホテルを予約し前泊することにしました。そして、東京駅6時57分発の「こだま」に乗り込み出発です。当日は天気も良く、富士山もきれいに見ることができました。浜松で新幹線を降り、バスで最初の目的地の豊川稲荷に向かいます。豊川稲荷は日本三大稲荷ということですが、本当はお寺ということでした。豊川稲荷からバスで松坂付近を目指し、昼食はすき焼き御前です。このバスの移動が一番長かったこともあり、この日は朝から水分控えめにしました。そして、伊勢・志摩に入り「夫婦岩」「猿田彦神社」を経て「伊勢神宮外宮」を参拝しました。
二日目は、最初に「真珠」の販売店を訪れ、今回のツアーの最大の目的地である「伊勢神宮内宮」を目指します。インバウンドの外国人旅行客も含め、賑わっていました。お昼は名物の「手こね寿司」と「伊勢うどん」。「伊勢うどん」はまったく「コシ」のないうどんで「うーむ」という感じです。それでも「おかげ横町」でおやつの定番「赤福」を食べ、伊勢に来たという「ザ・ツアー旅行」感に浸ることができました。そして、帰路はフェリーで伊良子岬に渡り、再び浜松からこだまで東京に戻ります。
 本当に久しぶりの旅行だったこともあり、ツアーから帰って家で寝る時に、ああ日常に戻ったなあと感じ、二日間、非日常の時間を過ごせたなあと思ったのでした。やはり、非日常の時間は生活に張りを与えるようです。そして、今回はそれだけでなく、青春時代の、また、働き盛りの思い出とも重ね合わせながらの旅行となりました。
 次は、高野山か熊野古道あたりを目指そうと思っているところです。

 

                                       


 



春爛漫

谷川 亘    2023年4月22日

  3月24日。今春の満開の桜花との再会。
たまたま、日本基督教大学の卒業式典にライブ参加させていただいた折に、その慶事に便乗してと言っては何ですが、広い構内隅々にまで咲きほこる花の盛りを満喫させていただきました。
 帰宅して夕刊見ると、当日は都心では今年初の真夏日で最高気温も25度。まさしく、気象庁が2日前に満開宣言を出したのもうなずける、夏の気配に思わず汗ぬぐう、蒸すような一日でした。
 満開日とは標本木で80%のつぼみが開いた状態となった最初の日を指すのだそうですが、当日は東京ではすでに「夏日」だったわけで、これは、実に10年振りとのことでした。
 桜花と言えば、ひと昔前までは校門際にあって新入生を歓迎する、入学式の象徴みたいな花木だったのですが、まあ、「地球温暖化」とひと口で片づけてしまいがちですが、花の季節も“前倒し”になっているようですね。
 
 天気予報に首っ引きで開花宣言に立ち会うべく、靖国神社の、外見は何ら変哲のない“フツー”のソメイヨシノなのですが、なんてったって東京の天下の「標本木」。開花を管轄する?気象庁は14日午後2時ごろ千代田区の靖国神社にある桜の標本木が開花したと“発表”しました。背広姿で太めの、ネクタイ締めたお役人が手話を交えて“開花宣言”。でも、「開花宣言」と「開花の発表」ではその威厳度合いには大なる差。天気予報には国家機関の気象庁の他にも民間の「日本気象協会(JWA)」も併存して、予報ではその正確さを争っているのだそうですよ。
 今年の開花宣言も、気象庁では開花の塩梅で一日前に発表するのか?と思ったりしたものの、一方で、日本気象協会では「開花数が4輪では(判断基準の)5~6輪に達していないので、本日の開花発表には至らなかった」とありました。たった一輪の違いなんて、素人には“どっちでも良い”のではありますが、自衛隊法の「反撃能力」に関わる政争の世界ならばともかく、権威争いはどこにも存在するのですようねぇ。
 一日遅れとはなりましたが、そこは男の意地。2番電車にどっしり座って、靖国神社の人影まばらな鳥居をくぐって“標本木”の開花を確認してまいりました。数年前までは開花の発表を待ちあぐねて、人だかりと報道やテレビの脚立が取り囲んだのですが、まあ、今となっては標本木の開花なんて新聞のスミッコ扱い。とはいえ、「最速の春」との見出しで、2020年、21年と並んで、最も早い開花発表だったそうで、しかも、都心が全国で最も早いとある。
  自宅の桜といえば、言うなれば“中年”に該当するのでしょうか?結構意気盛んで、昨年思い切って枝打ちされたものの、狭い庭で満開の盛り。新築の記念樹として植えたのですが、今や幹回り1.3mにして意気盛ん。二階のベランダからの花見は最高です。
 19日には国営昭和記念公園の枝垂桜とカンピ桜も堪能させていただきました。来春も花のかほりに誘われて、「標本木」の開花に巡り合い、石神井川に沿って桜吹雪に身をゆだねた“よた歩き”。たとえ人生の落ちこぼれになろうとも、続けることができるのでしょうか?


                                       


 



朝めし

華岡 正泰   Apr.22 ‘23

 「朝めし食べないのは絶対NG」今 盛んに言はれることである。人間の脳は夜寝ていても働いているので 朝起きた時エネルギーが不足している。だから朝めしから摂取する様々な栄養素が必要となるのだ。なのに今 20~40代の男性4人に一人は「もう5分寝ていたい、ダイエット中だから」と朝めし抜きだそうである。
 他人事ではない 私も現役時代 前夜の帰りが遅く疲れ果てて 朝めしどころではなく家を後にしたものだ。その私が2000年 完全に仕事から身いてからは 朝6時起床 7時にはきちんと朝食の生活を続けている。
我家の朝めしは
〇 前夜から仕込まれた生しいたけ浸しの コップ一杯の冷水
〇 小さな しまあじの干物 夫婦各3枚(私の担当 昔風のニクロム線電気コンロで 家内分は焦げ/ガンとうるさいので焦がさぬ様に 私分は魚臭消しで焦げるまで)
〇 コンロで焼く生しいたけ 各1枚
〇 サラダ:レタスの上にトマト、短冊 角切りのセロリ リンゴ、その上にカイワレ大根。ドレッシングはキッコウマンのサクサクしょうゆ アーモンド
〇 32~35Kcalのインスタント粥(ダイエット用 1年で10キロ減達成)
〇 自家製ヨーグルト:キウイ(テレビに出てくる “あきだい”に買いに行かされキュウリを買ってきて怒られ覚えた野菜)黄な粉 干しブドウ もち麦(植物繊維)など入り
〇 ゆでたまご(黄身が固まる直前の)
〇 バナナ 半分
因みに昼食までに さかなせんべい3枚 昼食は麺類 夕食、晩酌はなし。

92歳の私 至って健康。たまの酒席も堪能出来るし二次会 三次会を迷うだけ。時に健康の秘訣を問はれるが そんなもの在りはしない。でも前回 星野さんの“朝食当番”に感心して我家の朝めしを振り返ると 若しかして この家内心配りの朝めしが、少量ではあるが多品種栄養摂り続けているこの朝めしが、私の健康の源、基になっているのかも知れない。Thank you.
でも 今更 口には出せない 胸の奥に仕舞っておくか・・      おわり 
 

                                       


 



プロ野球

小林 康昭  230422

 我が家の二階の窓を開けると、三つのネットが聳えています。上井草ゴルフ練習場、早稲田大学ラグビー部練習場、杉並区立の上井草スポーツセンターのネットです。このスポーツセンターは、戦前は西武鉄道が所有するプロ野球専用の野球場でした。上井草は畑のなかに農家が点在する田舎だったそうです。当時のプロ野球はささやかな存在でした。
*  *  *
 日本に、今に続くプロ野球が誕生したきっかけは、読売新聞社がアメリカの大リーガーを招いたことにあります。主催者の正力松太郎は、この大リーガーの相手をする、全日本級の顔ぶれを揃えた野球チームを編成しました。その後、このチームはアメリカに渡って現地のチームと試合をしました。チーム名は大日本東京野球倶楽部。現地で世話をするフランク・オドールが、このチーム名では観客を呼べないと、一方的に東京ジャイアンツと名付けました。オドールは大リーグのジャイアンツの選手だったからです。今の読売ジャイアンツの誕生です。
*  *  *
 高校一年の夏、プロ野球を初めて後楽園で、巨人対中日のナイト・ゲームを観戦しました。入場券売り場のまわりにダフ屋が徘徊し、警戒する巡査が睥睨して、殺伐な雰囲気でした。試合中、スタンドからは絶えず、下品なヤジが飛んでいました。ヤジを飛ばした者の間で、どなり合っていました。スタンドには、私設応援団も女子どもの姿もなく、ヒーローインタビューもありませんでした。試合は、別所と杉下が投げ合って、巨人が勝ちました。
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 アメリカでは、サンフランシスコ、ロサンゼルス、アナハイムで観戦しました。日本の3倍ぐらい収容できる巨大なスタンドが満員でした。入場料は日本よりも安く1000円以下でした。テレビは、地元では放送されないので、人々は球場か有線放送のスポーツ・バーで観戦するのです。試合前に家族連れが、だだっ広い駐車場の一隅で、バーベキューをしていました。まことに牧歌的でした。日本に帰国した翌年、野茂が大リーグに登場しました。その後、イチロー、ダルビッシュ、大谷と続きます。傑出した活躍をするのは、何故かパシフィック・リーグ出身の選手が多いようです。
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 正力は、編成したチームを解消せずに全日本級の有力選手を独り占めしたので、その後に生まれたチームは弱体でした。その実力格差は、最近まで続きました。一旦、大日本東京野球倶楽部を解消し、全チームの実力の均等化を図るべきでした。今、チームの運営はオーナー任せにしていますが、リーグかプロ野球機構が運営するのがよいでしょう。例えば、フランチャイズは各チームが勝手に決めずに、リーグが計画的に決めるべきでしょう。日本の各都道府県に各1チーム、東京だけ2チームにして、48チームができます。それを8チームごとの6リーグにします。Aリーグに2つ。全国の政令都市から、新潟、静岡、北九州、熊本を選び出せば、Aリーグは16チームに増やせます。残る4つをBリーグにすると、日本全国を網羅する組織になります。日本のプロ野球は現状に甘んじてはならない、と思います。
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 長嶋茂雄を神聖化した結果、彼は巨人軍の終身名誉監督です。そんな功績があるのだろうか? 長嶋監督は、巨人軍を並みの弱いチームにしてしまいました。巨人を弱体化させた結果、全チームの優勝する機会が均等化しました。この功績を、リーグや連盟が顕彰しようとしないので、それを巨人軍が実行したのだ、と考えれば、納得、です。
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 1リーグだったプロ野球に毎日が加わろうとした結果、反対派と賛成派が衝突し2リーグに分裂しました。毎日に運命を託したチームは、パシフィック・リーグを結成しました。だが、盟主足るべき毎日は社内抗争が続き、パシフィック・リーグは弱体化してしまいました。毎日は、パシフィック・リーグの全チームに対して責任があります。長年、パシフィック・リーグの観客動員数はセントラル・リーグの4割強でした。2018年には8割強まで増やしてきました。ドラフトや交流戦などの効果もありますが、2004年に実施されたストライキの影響もあります。パシフィック・リーグを再編成してセントラル・リーグと合併する10球団1リーグ構想がきっかけでした。これに選手会は反対しました。そして古田敦也会長が先頭になって経営者たちと交渉を進めましたが、対立が解除されずストライキに入りました。ストライキで試合が中止になったのに球場にやってきたファンに、選手会はサイン会を開催するなどファンサービスを徹底した結果、選手とファンが触れ合う機会につながりました。ファンが選手側の主張を支持したことで、経営者側も選手会側の主張を受け入れました。「パシフィック・リーグをなくすな」の声は、リーグの浮上につながりました。中心人物の古田敦也選手の功績に、パシフィック・リーグは終身名誉理事長を以て遇するべきでしょう。

                                       


 



時代屋

横山 明美  2023・2月 

 ”白魚のような指”は憧れだったが、そんなことにはならないまま歳を重ねてしまった。手首だってほっそり白いほうがいいに決まっている。腕時計でもすれば何とかごまかせると思い、文字盤も見やすい大きなものを好んではめていた。夫が現役の頃していた親譲りの古い男物である。50年近くたっていたせいかある日まったく動かなくなったので、次は息子が使うこともなく放っていたものに目が向いた。就職が決まったときの義兄からのお祝い品だが、息子はそもそも時間に縛られるのが嫌で時計はしない。義兄は気を張る人でお洒落でもあったから、きっといいものなのだろう、ハンサムウーマンに見えるかも…などと妄想して使うことにした。文字盤をやわらかい金のうねりで囲み何やら模様も彫ってあった。
 しかしこれも動かなくなったから、最寄り駅近くの小さな時計屋に持ち込んだ。人けのない店で入りにくかったが戸を開けると、品のいい白髪交じりの主人が静かに一人。笑顔をつくるでもなく、いつもの調子という感じで小さく「いらっしゃいませ」と上目遣いに言う。身に着けているシャツもズボンもシャキッとし、おしゃれで身ぎれいである。
 「気に入っていたのでとても困っています」と言うと、「お座りください」のあと静かに、慎重に調べて「結論を申しましょう。電池交換していっときは使えますがすぐまただめになるでしょう…」。手を入れればまたきちんと用をなす、と言う。それには時間が必要らしくわが子を預けるつもりであと振り返りながら店を出た。二週間ほどたったころ、病癒えたその時計は1万3000円で親元に戻った。高いと思ったが使えるうれしさに「ご主人、いつもお洒落で素敵ですね」と言い添えると「いえ、とんでもない…」と初めて普通の人の笑みを見せた。帰る道みち、いなかの家によく来ていた時計屋の主人を思い出した。
 父は気軽に「ひとつ新しいのを買ってみるか」とよく言った。若いころは貧しくて好きに買えなかったのだろう。歳とともに袖口を飾る時計にも気を配るようになった。石浜時計店とは古い付き合いだった。野菜は八百屋、肉は肉屋で、電機は電気屋、時計は時計屋で買う時代だった。町の大通りの外れ近くにその店は変わることなく佇んでおり、電話一本でいくつもの腕時計を持ってきて見せてくれる。主人が来ると、母は知り合いが来たようにお茶とお菓子を出し、雷親父だった父も笑顔で世間話に興じる。ごま塩頭で細面の主人はいつもジャケットに折り目のついたズボン、糊のきいたシャツにネクタイ姿だった。若いころ銀座の服部で修業したのを誇りにしていた。主語はいつもワタクシだった。
 馴染みの電気屋も電話をするとすぐカタログ小脇にオートバイでやってきたが“もと憲兵“の眼光鋭い大男が今はやたらとへりくだって出入りするのは子ども心になじめず、母もお茶は出さなかった。
 石浜時計店も元憲兵の電気屋もすでに存在しないだろう。わが町の時計店にはいま少し長生きしてもらい、私の時計につきあってほしい。引き戸を開けると小さな店内に生きた“時代”があふれているのがうれしく安心なのである。デンキは量販店ですむ。


                                       


 



練稲45年とエッセイ同好会

照山 忠利  2023.2.18 

 練馬稲門会は今年、創立45周年を迎えた。これを記念して、開催される行事にはすべて「45周年記念」という冠がつけられることとなった。第16回ニューイヤーコンサート、新春の集い2023ときて7月9日の第45回記念総会に続いていく。今でこそ会員500名を擁する都内有数の稲門会となったが、ここに至るまでには先人のたゆまざる努力があったことを忘れてはならない。改めて諸先輩の功績に敬意を表したいと思う。
 私が練馬稲門会に入会したのは今から15年前のこと。還暦をすぎて会社生活の終盤となり、アフター60の過ごし方を考えたとき「稲門会」の存在が頭をよぎった。早速、当時の塩田事務総長のお宅にためらい気味に電話したらメイ子夫人が出て「あーら大歓迎よ。ぜひお入りなさい。楽しいわよ」との返事。聞けばいろいろなサークルがあり、余生を託すにはうってつけだという。それまで稲門会といえば年に1回の総会で酒を飲み懇親をするだけだと思っていたが、そうではない世界があることを知った。
 どのサークルを選ぶべきか迷ったが、当時はまだ宮仕えの身で平日の活動はできないので土曜日活動のエッセイ同好会に申し込むこととした。活動場所は練馬稲門会の事務局があった国産自動車の春日ビル。タクシー会社の整備部門の控室といった趣でお世辞にもきれいとは言えなかった。粗末な長机に古びたパイプ椅子を出して例会をやっていた。指定された日時に恐る恐る顔を出したところ、振り向いた先輩たちに怖そうな目でにらまれたような気がして大いにたじろいだ。真剣な雰囲気だったのだろう。「来るべきではなかったか」と一瞬後悔がかすめたことを憶えている。しかし例会を終えて練馬駅近くの「和歌里」という店で懇親会があり、その席で皆さんと懇談する段になると、やっとエッセイ同好会の一員として迎え入れて貰ったという実感が湧いてきた。
 先輩たちに伍して作品を書くには生半可なことではいけないと、例会が近づくと会社に休日出勤して苦心惨憺しながら原稿を書いた記憶がある。そのころ書いた作品に「初期水戸藩の一風景」という一文がある。わが家の祖先の照山修理という人は、常陸国多賀郡金沢村(現在の茨城県日立市)の庄屋をしていたが、水戸藩初代頼房公の治世に行われた検地という大増税策に反旗を翻し強訴力争したために捕らえられ、弟と次男とともに磔の刑に処せられた。今から382年前のこと。元々は徳川の前に常陸を治めていた佐竹家の家臣だったが、関ヶ原後に佐竹氏が秋田に移封されたのを機に帰農して村のリーダーとなっていた。村民の窮状を救わんと義挙に及んだもので、その辺の顚末を書いたものだった。
 これを読んだ元NHK記者の石岡荘十さんが、友人の古澤襄さん(元共同通信社常務)に「照山修理の出自を調べてほしい」と頼んだらしい。古澤さんは家系調査や古城の探索などを趣味としている人でほどなくして調査結果の報告があった。「照山修理は元をたどれば藤原家の子孫で、藤原秀郷の末裔になる」とのこと。これを聞いても私は別に驚きはしなかった。義民照山修理の顕彰碑は今も故郷の長福寺境内にあり、その碑文の中に「奥州藤原氏より出ず」とあるからだ。ところが石岡さんはこれを大発見とばかりに塩田事務総長ほかに吹聴してくれたおかげで「照山さんは藤原氏の子孫だそうだ」といわれ大いに困惑したことを憶えている。これは余談だが、藤原秀郷は平将門を討ったことで知られている。平将門は、企業のトップが年初に商売繁盛を祈願する神田明神の祭神の一人であり、私がもし秀郷の血筋に当たるとしたら、神田明神に参拝することはご利益を頂くどころか仇敵として逆効果を招くのではないか。私が社長をしていた会社はのちに業績不振から他社へ売却の憂き目にあったのだが、これもそのせいだったのかと埒もないことを考えてしまった。
 ともあれそんなこんなでエッセイ同好会はこれまで19年の歴史を紡いできた。この間に私は内藤雄幹さんの後任としてある日突然幹事役を指名された。まったく寝耳に水のことだったが誰も異を唱えてくれる人はいなかった。おそらく根回しがなされていたのだと思う。以来10年間、会の運営に微力を尽くしてきたつもりだが果たして役割が評価される働きをしてきたのか内心忸怩たるものがある。作品にしても以前は何日も前に推敲を重ねて万全の構えで臨んだものだが、この頃は前日にバタバタと仕上げて間に合わせる始末。加齢のせいもあるが生来の面倒くさがりとものぐさが災いしている恐れがある。こんなことでは人生100年時代を生きていくことはできないと自らを励ましているところだ。
 練稲45周年を機に次の10年に向けてエッセイ同好会の暖簾を守るため、皆さん方の一層のご協力をお願いする次第である。
(了) 


                                       


 



地名が致命傷

加藤 厚夫  2023.2.18 

 先日何とはなしにお昼のワイドショーを見ていたら、70年前にお宅に伺った人の名前と顔が映し出されビックリした。テーマは「歌舞伎町」で、なぜ歌舞伎とはまったく縁のない新宿に歌舞伎町があるのかであった。その名付け親が知り合いの石川栄耀(ひであき)氏だという。その経緯はこうだ。東京大空襲で焼け野原となった戦後間もないころ、新宿地区の復興構想は街の中心に歌舞伎演舞場を建て一帯を芸術の街にすることであった。しかし資金のメドが立たず断念、せめてこの荒廃した町の名を一新しようと当時東京都建設局長だった石川栄耀氏が歌舞伎町にしようとの一言で決ったという。
 その石川邸に小学生のころ親父に手を引かれ何度か伺ったことを思い出したのだ。行くと奥さんがわが貧困家庭では見たことがない菓子をいつも出してくれた。それをジッと眺めていると本当に可愛い子だことお食べと言われ、訳もなく恥ずかしかったのを覚えている。それはともかくこの歌舞伎町が我が国最大世界有数の繫華街になったのはこの町名がいかに寄与したか、もし角筈のままだったらこうもならなかったかもしれぬと。
 いっぽう京都は平安京名残の地名が多く情緒があふれている。4年の間住んだ所は京都市中京区高倉二条下ル瓦町何番と少々長いが、酔っぱらってタクシーを拾い「二条高倉」と言えば途中で、お客さんと起こされずに運んでくれる。そこでまず通りの名を覚えるのが生活の知恵だと悟り、京わらべ歌のCDを買ってきて何度も聞いた。京都の全園児が諳んじている歌で「丸竹夷二押し御池姉三六角蛸錦」と御所からの下ル通り名、東西の入ルの通り名全てをその日に覚えてしまった。交差点さえ覚えていれば徘徊老人も道に迷わないから安心だ。それにひきかえ後進県では平成の大合併で伝統ある地名の多くを葬り去ってしまった。市町村合併会議では人口の多い方の議員が小さな町村の市名にするなと短絡的発想で妙な市名に変えてしまうのが常だ。そんな市は令和に至っても国民に浸透せずかつ迷惑する。典型例が天平年間から存在した直江津(市)の地名消失だ。ナビがないころコロナ(トヨタ車の名前)に乗り長野から新潟に向かう途中、信号待ちしていたらトラック運転手が降りてきて直江津はこっちですかと聞く。そのまま行けばよかよと答えるとホッとして席に戻った。標識板には上越としかないから特定できずに焦ってしまうのだ。カッコ書きで(直江津)とあれば助かるのだが、お役所は利用者の便などは二の次だ。そもそも「上越」とは川端康成の「雪国」の上越国境を指し、新潟県が上中下越に分かれているなど土着の人以外存ぜぬことだ。こんな弊害は直江津市に限ったことではない。さらに土俗的発想なのが山梨県だ。世界に知られる葡萄とワインの名産地が勝沼市ではなく甲州市だ。JRでさえ勝沼駅を勝沼ぶどう郷に改名しPRに努めているのに肝心の市自らその好機を放棄してしまったのだ。同様八ヶ岳・清里の玄関口小淵沢が北斗市で、有名温泉地が石和市ではなく笛吹市だからあきれてしまう。信玄公が聞いたらよくもふざけた名前に変えてくれたなと、連中の硬い頭をより硬い軍扇で叩いてくるであろう。


                                       


 



子離れできない親の話

富塚 昇   2023年2月18日

 それは今から14年前の2009年、忘れもしない3月4日のことです。1時間目の授業が終わり職員室に戻り、携帯電話を見ると1通のメールが届いていました。当時、高校3年生で受験生であった娘からのメールでした。
私は特にたきつけたわけではないのですが、娘は「私は早稲田しか受けないよ」ということで、早稲田だけ5学部受験していました。娘の模試の結果などから見て、もしかしたら「政経」も届くかもしれない、少なくとも私が合格した「教育」は大丈夫だろうと思っていました。しかし、2月後半の発表では私の見通しは甘く不合格が続いていました。娘はもちろん私もボディブローを浴びノックアウト寸前です。もう後がない崖っぷちに追い込まれてしまいました。唯一、法学部だけが「補欠」に引っかかっていたのでした。その年、私は青山高校で3年生の担任をしていました。自分のクラスの生徒が「早稲田の文学部合格しました」「商学部合格しました」と満面の笑みで報告にきました。そんな時に私は顔を引きつらせながら「合格おめでとう、よかったね」といっていたのでした。
 そして、最後の最後に残された法学部の「補欠」の繰り上げ合格の発表が3月4日の9時に行われました。私は娘から来たメールを開きました。こう書いてありました。
「法学部合格!!!」。合格が決まったこの日は、子どもが生まれた日に次ぐ、人生で2番目にうれしい日となったのです。合格メールを見てすぐに家に電話をした時に、本当に涙が止まらなくなってしまいました。
 それから2年後、息子の大学受験も無事終了しました。
 娘が大学生になった年、私は仕事の面では、授業や部活もさらにパワーアップして行い、生徒部主任となりバリバリ仕事に集中したのでした・・・となるはずでした。しかし、なんだかおかしい、仕事に全く力が入らないような状態になってしまったのです。それどころか、いったい自分の人生とは何だったんだろうか、などという思いにもかられるようになってしまいました。いったいこれはどうしたことか。心理学の本などを読みあさり、「中年の危機」という言葉に出会いました。ある本にはこんなことが書いてありました。「中年の危機は・・・その個人にとって何らかの目標が達成された時に、危機が訪れることが多いようである。・・・子どもが入試に成功した時などの好ましい状態のところに危機が訪れるのである。」(河合隼雄著『生と死の接点』)
 私も、大学を卒業して就職をして、結婚をして、子どもが生まれ家庭生活を営むなかで、子どもの大学受験が紙一重で達成されると、ある意味「目標喪失」の状態になってしまったのでしょう。それは、言い方を変えれば、高校生まではこちらの側にいた子どもたちも、大学生になればそうはいかなくなる。そんな当たり前のことに頭ではわかっていても、気持ちがついていかないという「子離れ」の危機だったのかもしれません。
 あの時から14年。時に私自身アイデンティティの危機に陥ることがありながらも、月日が流れていきました。昨年、この場でもエッセイで書かせてもらいましたが、3月に娘が結婚をしました。そして、10月に同居していた息子がようやく家を出て一人暮らしを始めました。結婚をして独立するということであればもっとよかったのでしょうが、今の時代、それはまあいいことにしましょう。二人の子供が家を出て、一周まわって元に戻ったら、一層寂寞感にさいなまれるようになったりするのだろうか。ところが、これが意外にもそのようなことは少なくなりました。子どもが親離れをしてくれたおかげで、こちらも子離れができたということなのでしょうか。ようやく人生の一つの段階をクリアしたのかも知れません。
 これからは、子どもの幸せを祈り、現在も教師の仕事が続けられていることに感謝し、芽が出るか分からない俳句をやり続け、それ以外にも趣味を広げようと思っています。

 

                                       


 



新型コロナウイルスと三々会

古内 啓毅  2023・02・18

 年が明け、早くも2月も半ば過ぎ。Time flies(光陰矢の如し)。高齢者には時の流れが速く感じられます。また、記憶装置が劣化しものの覚えが悪くなります。年初に、昨年はどんな年だったか、今年はどんな年になるのか。老化したアタマで整理してみました。
 野球の大谷翔平、スピードスケートの高木美帆、将棋の藤井聡汰など、勝負の世界に生きる者たちのパフオーマンスには大きな感動を覚えました。一方、プーチン・ロシアのウクライナ侵攻後まもなく1年になりますが、一向に終わりが見えず、悲惨なニュースばかりが目立ちます。国内では、32年ぶりの円安、アベ元総理への銃撃事件と旧統一協会と政治の不透明な関係の露呈、1年遅れで開催された東京五輪をめぐる一連の汚職の発覚など激動とでもいうべき大変な1年でした。
 私にとって大きな問題は、高齢であるがゆえに罹患したら大変なことになると絶えずウオッチングしてきているコロナウイルスの動向はどうなっているでしょうか。ご承知のように、コロナウイルスは、2019年12月上旬、中国・武漢で発生し、感染が世界中に広がり、我が国で感染者が確認されたのは2020年1月16日でした。以来3年。最近の感染拡大の動向を見てみますと、昨年は年明けから3月にかけての「第6波」、7月から9月の「第7波」、10月からの「第8波」と断続的に続きました。「第6波」ではオミクロン株の感染が急拡大しました。現状はどうでしょうか。第8波のピークは過ぎたといわれています。この1月23日に開会された通常国会で、防衛問題、原発問題、少子化対策等々国の重要事項とともにコロナ問題も論議されています。政府は5月8日からコロナウイルスを、感染症法上の現行2類から季節性インフルエンザ並みの5類に引き下げる方針を示しています。これに対して、コロナの感染力が変わるわけではないのに、どういった点を機能的に動かしていくのか、浮き彫りになった医療機関の脆弱性をどう解消するのか、などの問題点が指摘されています。5類移行は、5月19日開会のG7広島サミットを諸外国並みにノーマスクで行きたいという岸田総理の強い意向の反映だといわれています。国民の命にかかわる問題を軽々に決めていいものか。疑問が残ります。マスク着用については5類引き下げより先行し3月にも見直す方向です。そういうことで、コロナに関わる行動制限やマスク着用の緩和が進みそうです。そうなると、海外旅行にでも行ってみようか、ホームや病院に行ってゆっくりお話しやお見舞いをしようか、縄のれんで気兼ねなく仲間と親交をはかるか、などの動きが出てくることが考えられます。が、果たしてそううまく行くのでしょうか。
 私は、昭和33年(1958年)3月に高校を卒業。毎年3月3日に「三三会」と称して同期会を開催してきましたが、コロナのために2020年、2021年、2022年と3年間中断。今年も3月開催は無理ですが、時期をずらして、桜のころにでもと模索中です。しかし、お互いにもう83歳、銀座や有楽町まで出て来れるか。今年開催できたとしてもあと何年やれるか。何とかあと5年、米寿まで、と考えていますが、どうか。今度会ったらそんな話をしてみたいと思ってます。


                                       


 



大学 ワセダ

小林 康昭  230218

 最近、3冊の本を読みました。1.小林和幸(青山学院大学教授)「東京10大学の150年史」(筑摩選書)、2.天野郁夫(東京大学名誉教授)「帝国大学 近代日本のエリート育成装置」(中公新書)、3.渡邉義浩(早稲田大学教授)「大隈重信と早稲田大学」(早稲田新書)の3冊です。これらの本を選んだ理由は、わが国の大学の成り立ち、特に早稲田大学が、今の姿(私学の雄と称される存在)にたどり着いた因縁・顛末を知りたかったからです。
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 1.は、明治初期に創設された学校に起源をもつ10大学(筑波:1872年5月創立、東京:1877・4、慶應義塾:1858・10、立教:1874・2、青山学院:1874・11、学習院:1877・10、法政:1880・4、明治:1881・1、早稲田:1882・10、中央:1885・7)の略歴と、その学校史の編纂の意義を記述しています。早稲田の創立は9番目で、伝統校では歴史が新しいことがわかります。その早稲田が、私学の雄と目されるに至ったのは何故なのでしょうか? 
戦前の私学では、文理双方を揃えた総合大学の規模と機能を持っていたのは、早稲田、慶応義塾、日大に限られたそうです。また、早稲田は慶應義塾とともに、昭和初期までに一定の大規模化を遂げていたそうですが、他の私学は戦後になって大規模化を遂げています。早稲田の歩みは多くの私学に先んじた原因はどこにあったのでしょうか。
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 2.は、官立の七つ(東京、京都、東北、九州、北海道、大阪、名古屋)の帝国大学を取りあげています。
 国家を支える人材の育成装置である帝国大学の、設立の経緯、学生生活、卒業後の進路、教授の研究と組織体制などを明らかにしています。早稲田は、帝国大学を先達として範をとり、倣っています。帝国大学は特定の地位、権威、特権を与えられました。帝国大学の名は消滅しましたが、今も「旧制帝大」の存在感は健在です。
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 3.は、大隈重信と前身の東京専門学校を含む早稲田大学を記述しています。この読後感は、学生に関する記述が殆どないこと、早稲田の体制にべったりで、客観的な姿勢が全くないことです。これは、既往の早稲田に関する本と、共通しています。大学の主人公は学生なのですから、学生数、応募者数、学生の出自、授業料、教育・指導方針、学生生活、学生の課外活動、就職活動、卒業後の進路先などの記述が不可欠です。学生不在の大学論は、要件を満たしていません。執筆者は、読者の期待に沿っていません。「人生劇場」「青春の門」は、主人公が学生だから読まれるのです。
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 何故、早稲田が私学の雄(実態は虚構かもしれないが)と称されるまでになったのか、納得できる記述が見つかりませんでした。そこで、我田引水流に解釈してみます。当時の私学(神田から市ヶ谷を中心に点在)は、殆ど全てが非常勤の講師(帝国大学教授か帝国大学卒業生の高級官僚)だった由。一方、当時は場末だった早稲田では、都心から通勤は無理だったのでしょう。結果として、早稲田は、近傍に移り住んだ専任教員が多かったようです。
学生にとって、専任と非常勤とでは心理的に大きな差があり、学校に対する愛着に影響します。早稲田は、学生生活の活発さと多様性に歴史的な特色があるとされていますが、その所以は、彼らの学校に対する愛着と言えます。その結果、学生文化が萌芽しました。スポーツ・文芸・芸術・学術などの課外活動(部活)です。
 それを生業とする卒業生が現れて学生と社会との接点が生まれ、学生の活動に世間の耳目が集まりました。野球部はその典型です。創設期の野球部で、安部磯雄や飛田穂州が競技に採り入れた倫理観は、社会的にも影響を与えました。
 大学当局が採った施策にコマーシャリズムがあります。例えば、他学と相違を持たせた角帽。そして1907(明治40)年に制定された校歌です。当時「あぁ、玉杯に」「紅燃ゆる」「都ぞ弥生の」を悠長に愛唱していた学生たちは、この革命的な旋律に仰天した筈です。長音階、ハイテンポの曲相(原曲はオールド・イェール:1868年)が如何に優れていたかは、115年を経た今も、まったく古びていないことでわかります。
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 わが国では、大学の価値づけは、教授の質ではなく、学生の進路先で決まります。大学を社会人になる通過点と割り切ると、大学とは勤め人養成所であり、良い大学の要件は、質の高い就職の実績です。早稲田は、早くから、事務当局と教員たちが、積極的に活動していたようです。新聞社や出版社などに進んだジャーナリストや言論人たちの、メディアを通した好意的な行為は、応援団となります。大隈重信が、後継者として庇護し取り立てた加藤高明は、岩崎財閥の女婿でした。その結果、早稲田から三菱財閥傘下の企業に、毎年多数の卒業生を送り込むことが出来たのでしょう。かくして、今に見る早稲田の存在感が出来上がったわけです。その恩恵を被る後輩たちは、以て瞑すべしですね。


                                       


 



“新友?親友?“

谷川 亘    2023年2月18日

 コロナ禍・・・。耐えて堪えて苦節三年。やっと、マスクの着用の可否について論議されると言う段階まで来ましたね。
 厳寒のなか、風防兼ねた帽子の深かぶり、おまけに顔半分隠すマスクのご着用。公園の早朝ラジヲ体操も、6時前ではまだ闇の中。野球帽とかベレー被って、大きいマスクで顔隠しの中高年が時間ギリギリに馳せ参じる。どこの誰様か分かりっこないですよねぇ。まあ、怠惰なもので、マスクに事借りて髭剃りなしの伸ばし放題。ご婦人だって然々左様。(間違いなく)口紅、化粧なんかはしていらっしゃらないのですよね。
 もう何年になるのでしょうか?仕事からは解放された半面、行動範囲が狭まって人様との接点が希薄になり、コロナ感染を懸念するあまり、外出も出来る限り控えてまいりました。そんなことよりも、恥を忍んで申し上げれば、本人の気づかぬ間に“老い”が忍び寄り、気力・体力共に“鈍化して”しまったようです。
 そこで、隠遁生活で心身衰えるに任せては一巻の終わりと心得て、拙宅近くの「武蔵関公園」の早朝ラジヲ体操に参加することを日課として定め、コロナ禍と共生して早や三年たってしまいました。「一日一万歩」が流行り言葉となった時期とも重なり、池が結氷して底冷えする暗がりの中、あるいは、汗噴き出して止むことのない真夏にも頑張り抜いております。昨年末までの三年間に歩行合計は850万歩。スマホによる計測で余分な歩行も加算されてはいますが、この間、大宗は公園“よた歩き”の実績値ですから、一日平均して8千歩近く。履き古したランニングシューズは片減りするや、穴が開くやでさんざんの体ですが、愛着すら湧いてなんとも捨てがたく、今でも、互いに“老いに鞭打って”頑張り通しております。実は、縁起担いで年初に新旧交代させようと思っていたのですが、愛情すら湧いてなんとも捨てがたく、老化防止の担い手ですもの。未だに履き続けております。
 それともう一つ。このような特殊事情の環境の中で、これまでの“生き様”では想像を絶するような、まさかと思わせるような奇縁にも遭遇しております。合縁奇縁と申しますが、同じ人様との出会いとは言ってもそんな“ご縁”ではない。この公園と言うか、コロナ騒動のもたらせてくれた出会いなのです。一例目はまさしく旧友との公園での七十数年ぶりの再会。もう一つは公園の近くにお住いの、本来なら旧友(であった筈)の友との対面でした。
 この公園にはカワセミが飛来し、それ専門に撮影する、大型一眼レフと大三脚。形振りもおそろいの迷彩服の集団が、たかが小鳥のお出ましを待つのですよ。なんと、中の一人に昔の面影を垣間見た。「誰だっけ」?もう一周、思いあぐねて回っても思い出せない。ふと、相手も気付いたと見えて、互いに手を交わしても、これじゃホントの他人様・・・・。そうですよ、小学校の同級生I君じゃないですか?
 もう一人はM君。マンモス付属高校同級生だったのに、一クラス50名としても私は11番目のKクラス。まあ、離れすぎて“旧友”なんて呼べる間柄である筈ないよね。でも、70才になったころ、版画家でもあった別の友人が銀座で個展を開いたときにM君を紹介され、一献交えて帰途につくといつまでも一緒。そこで“旧友復活?”と相成って、今では誰よりも近しい、古き親友をしのぐ“新友”となり、お付き合いさせていただいております。
 でも、いくら“復活親(新)友”の間柄であっても、出会ってから10年のお付き合いは決して短くはない。I君は他界されて久しく、M君は大事を見て早朝ラジヲ体操は目下冬眠中で、水ぬるむのをお待ちのようです。 


                                       


 



四季の記憶 追記「冬の使者」

鈴木 奎三郎   2023・2・18

 立春もとっくに過ぎたというのに、このところの寒さは厳しく、例年よりも寒いのではないだろうか。あるいはトシのせいかもしれない。加齢とともに季節への対応力が落ちていくのであろうか。ぼくの故郷の長野市は、内陸ゆえに、冷え込みは北海道の各地ほどでないにしてもかなりのものだ。冬場には最低気温が-7,8℃。小さかったころはこの寒さの中で風邪もひかずに元気に過ごしたものだ。しかし今やとてもじゃないけどあの寒さの街で暮らす気力も体力もない・・と言ったら寒冷地の皆さんに失礼かもしれない。

 いまだによく思いだすのは、12年前の正月に100才で亡くなった母は「暑さ寒さも彼岸まで・・」と言っていた。そして、トシをとったら暖かいところで暮らしたい・・と願っていた。
 お彼岸を待ち望んで寒さに耐え自分を励ましていたのだろうか。小さいころに聞いた言葉だが、今でも耳に蘇る。

 さて、ここ数年のことだが、寒い時期には早朝にわが家の猫の額ほどの庭に珍客がやってくる。ヒヨドリ、メジロなどが主なゲストだ。何年か前、家人が何かの拍子に果物を付けた割り箸を付けてみたところ、朝方に必ず飛来するようになった。たまに付け忘れると、近くの木や電線にとまってピーピーと催促する。ヒヨドリは単騎で来ることが多いが、メジロは大体がつがいだ。ヒヨドリが食べ終わっていなくなると、入れ替りにメジロがやってくる・・というパターンだ。慣れてくると、少々の人影があっても逃げようとしない。愛犬を失ってからのささやかな癒しをもたらしてくれる。
 この鳥たちが、昨年と同じかどうかはもちろんわからないが、冬になると忘れずにやってくるのは、きっと親から子へ、仲間から仲前へと情報が伝達されているのかもしれない。

 餌となる果物は、みかん、リンゴだ。ミカンは朝と夕方に2回付け替える。いろいろ試しているうちに面白いことを発見した。同じリンゴでも、リンゴの王様といわれる「サン富士」とスーパーで買ってきたリンゴを並べると、スーパーのものには見向きもしない。これはそのうちにカラスがやってきた割り箸ごと持ち去ってしまう。何かのテレビ番組で見たが、カラスの知能は鳩の数倍もあるのだそうだ。漆黒でがーがーとうるさく、いろいろいたずらをするので嫌う人が多いが、カラスもこの冬を生き抜くのに必死なのだ。石神井川の鴨たちは、この寒いのに水に頭を突っ込みエサ探しに余念がない。
 もちろん鳥たちのお世話をしているのは、ぼくではなく家人である。結婚してから50年、そのうち40年超を共に生きてきた4匹の仔。昨年最後の?愛犬を失った失意を小鳥たちのお世話で紛らわしているのかも知れない。
 生きとし生けるものすべてにとって、春の訪れを願う昨今だ。


                                       


 



東京に住まいして

華岡 正泰   2023.2.18

 1月17日 阪神淡路大震災から28年目を迎えた。忘れられない日だ。あの日私は 名古屋の主要取引先への新年挨拶に出掛けるべく 朝6時時頃迎えの車に乗り込んだ。東京駅に着くと何か様子が変。改札のストップで人だかりが出来ていた。30分程待ったが説明なく 出張を諦めて本社に出社した。昼過ぎになってボツボツ情報が入り始め 夕方になって阪神で大災害が発生したことを知った。私は関西学院の横、西宮市上ヶ原の高台 角地に建てた留守宅を失った。
 その為 定年で社宅を出る時の住まいが必要となり 墓のある和歌山、思い出多い佐賀に行くことも考えたが 練馬に住む家内の妹夫婦から「近くに売れ残りの家が一軒ある」との誘いがあり1996年 その家を今の住まいとし、‘98年練稲創立20周年式典の日に練稲に入会した。
 入会してからは 今は私と塩田さんだけになってしまったが 立野先輩を中心とする7人会に属し 週に一度は夜を楽しみ 当時の殆どのサークルには夫婦で入会 8回の海外旅行も夫婦連れで参加した。
 練稲に入会するまでの私を振り返ると、家のことは全て家内に任せての100%会社人間だった。東南アジアに居た頃は夜行便で帰国し昼間の会議を済ませ 家にも立ち寄らず その夜帰任するような典型的な日本人ビジネスマンを演じたり、喜怒哀楽の多くを会社に見出そうとした程の人間だつたが 今、会社の先輩は皆亡くなり 同期同僚は居ても元気なく 後輩は定年を迎える始末。あれ程会社人間だった私の 会社との縁が切れてしまった。私には練稲だけになってしまった。
 西宮の家を失ったことは大打撃だった。だから今、とても悠々とは参らぬが こうして大過なく人生最終コーナーを送れていることは 東京に住まいし 練稲に入会したからである。近くにお住まいの谷川さんは何かと心に懸けてくださる。エッセイ会,酒楽会、ウォーキング、木曜サロンの皆さん、その他 多くの方々に親しくして頂いている。嬉しいのは家内が私と全く同じ気持ちで練稲の皆さんに接し、それを楽しみにし感謝しているていることである。
 西宮だったら どんな老後を送っているだろう。地方勤務を終えた息子たちも東京に居る。
   東京に住まいして良かった。
   練稲に入会して良かった。早稲田で良かった。        おわり