アメリカで勤務していた1991年から1993年の間、自炊生活を送ったことがあります。私は1963年に卒業して建設会社に入社し、東京で本社勤めをした後、1968年から24年の間、海外勤務を続け、土木工事の現場を渡り歩いてきました。土木工事は人里離れた山中、ジャングル、砂漠、サバンナの地帯が多いので、家族同伴は難しく、日本から赴任する社員や職人はすべて単身赴任で、現場宿舎で生活を送り、従業員食堂で日本人の料理人が提供する料理を食べていました。
その時までは自炊する機会はなかったのですが、アメリカでは勝手が違いました。現地の不動産業者が、条例をたてにして、男ばかりがたむろする宿舎に家屋を貸さないのです。その結果、日本から赴任した社員たちは、市内の各所に個々に借家住まいをして、現場に通勤する生活を送ることになったので、自炊の必要に迫られたのです。自炊を始めるにあたって、まずは、基本知識の習得です。
* * *
手持ちの蔵書を探ってみました。自炊生活をイメージしたものがあります。沢村貞子「わたしの自炊日記」(中公文庫)です。著者は、毎日、調理した献立をノートに記録し、その記録を参考にしながら毎日の献立を決めたということです。私は予め、調理の前に決めた献立を記録しておき、その献立を、次の献立を決める参考にしました。我が家の書棚には、千趣会のCOOK BOOKシリーズが並んでいます。さらに、書店で見かけた日本放送出版協会のNHKきょうの料理ポケットシリーズや、ベターホーム出版局の暮らしに役立つ本、そのほかの出版社の自炊ハンドブックなどを参考に、日本で調理器具と調味料を揃えて、現地に携行することにします。
* * *
アメリカでは借家に、水道、電気コンロ、テレビ、オーブン、レンジ、冷蔵冷凍庫、食器洗浄機、鍋、包丁、皿を、家主が備える習慣になっています。そこで、足りないものを整えます。まず、炊飯器。小さめで予約と固柔の調節機能のあることが望ましいのですが、意外なことに量販店より成田国際空港の売店に恰好な売り物があります。鍋、まな板、包丁、研ぎ器。ボール、ざる、タッパウェアー、お玉杓子、ご飯茶碗、湯飲み茶碗、お椀、丼、皿、お箸、皮むき器など。調味料には、醤油、味噌、塩、酢、砂糖、味醂、出汁の素、辛子、胡椒、片栗粉、バター、油、ケチャップ、マヨネーズ、ウスターソースなど。と思い出すだに鬱陶しい限りです。
* * *
準備が整ったところで、近所のスーパーに出かけて、食材の確認です。一見して野菜の種類が少ないですね。アスパラガス、カリフラワー、セロリ、パセリ、ピーマン、ブロッコリー、マッシュルーム、レタスなど。キャベツ、トマト、ホウレン草、人参、馬鈴薯、グリンピースはあるが、大根、南瓜、薩摩芋、ゴボウ、茄子、里芋、山芋、蒟蒻、白菜、小松菜、葱、分葱、水菜、豆腐、芹、韮、山葵、茸や海藻の類はないのです。魚や貝類の種類も少なくて、まったくないこともあります。レトルト食品がやたらに多く、客が気軽に買っていますが、わかったことは、とても不味くて食べられたものではありません。アメリカ人の味覚が日本人と違うのです。
* * *
まずは、平日の5日間の献立を作りました。一日の朝食に1品、昼食の弁当に2品、夕食に3品、一日6品。5日間で30品です。この30品に5種類の献立を決めます。手持ちの本から手始めは易しいものをと、Aほうれん草のお浸し。B鯖の味噌煮、C肉じゃが、Dポテトサラダ、Eスクランブルエッグの5品を選びました。休日の土曜日は朝から調理で過ごし、出来上がるとタッパウェアーに入れて冷蔵庫に納め、記録しておきます。
* * *
作ったものは、月曜日から食べ始めます。朝5時半起床。身支度して30分の散歩。帰宅して6時に、みそ汁を作り、前夜に炊飯器に仕掛けておいたご飯とEで朝食です。空になった炊飯器に3食分の米を研いで入れ、予約のスイッチを入れます。前夜に準備しておいた弁当をカバンに入れて、6時半に家を出て自家用車で職場にむかいます。職場は宿舎から100マイル、160キロ先の砂漠の地にあります。時速100キロで走って、1時間半かけて8時に着きます。始業時刻は9時ですが、職人が来るまでに管理職者は、その日の作業を決める必要があります。昼休みは携行した弁当で昼食です。みそ汁の匂いをアメリカ人が嫌うので、職場でみそ汁は御法度です。
* * *
午後5時の終業時刻、即座に全員が帰宅です。6時半に帰宅すると、炊飯器がご飯を炊き上げてくれています。「よしよし、愛い奴じゃ」と風呂に入り、夕飯を取るまえに、翌日の弁当の準備です。おかずの器に、A、B、から6分の1づつ納めます。翌日は、CとDにします。みそ汁を作って、C,D,Eをおかずにして夕食をはじめます。みそ汁は、日本から持って来た乾物の若布、はるさめ、凍み豆腐、麩から2種類を選んで実にします。その後、浅漬けが加わりました。だし巻き卵、ハンバーグステーキ、ポトフ、ボルシチなどが献立に加わりました。そうなると、次の献立は、機械的に決めるようになって、何にしようか、と悩むことはなくなりました。並み居る本の中では、ベターホームが最も良き師範でした。
|