練馬稲門会 エッセイ同好会6月度(第105回)報告

梅雨の中休みで好天に恵まれたこの日、高齢者も含め17名が元気に会場に足を運び力作を発表した。その概要は次の通り。

日時  2022.6.18(土) 14:30~16:40
場所  生涯学習センター第2教室

出席者と作品(17名、敬称略)
  石田真理  遺産相続の不思議な話
  岡本龍蔵  最近ちょっと気になることども【閑話休題】
  加藤厚夫  危うきに近寄るとは
  小林大輔  南水 ひとり語り
  坂本 成  陽と径を辿る
  鈴木奎三郎 四季の記憶86 牛に引かれて・・
  髙橋正英  ラッキョウを漬ける
  谷川 亘  時に、安堵の涙した
  寺村久義  プーチンの戦争
  照山忠利  紫陽花と消防団
  富塚 昇  ある花嫁の父の話
  鳥谷靖子  新しい世界
  華岡正泰  関博之さんの一周忌に
  古内啓毅  ふるさとの山
  星野 勢  カラオケ解禁
  松本 誠  ダウン症の我が孫
  横山明美  笑うトナカイ

(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会4月度(第104回)報告

穏やかな陽春の一日、葉桜をなでるそよ風に誘われて旧臘以来の対面での例会を開催、17名が元気に集合し自信作を発表した。概要は下記の通り。

日時  2022.4.16(土)14:30~17:00
場所  生涯学習センター第2教室

出席者及び発表作品
  石田真理   ラーメンに目覚めた日
  岡本龍蔵   幻となった提案書
  加藤厚夫   蛇の道は蛇
  小林 士   気象予報士と液晶画面
  小林大輔   6月の朗読会
  小林康昭   ウクライナの教訓
  坂本 成   ときわ荘訪問記
  髙橋正英   成人年齢の引き下げに思うこと
  谷川 亘   Eye to Eye & Face to Face
  寺村久義   ウクライナ
  照山忠利   妖精の棲む家
  富塚 昇   上水高校での最後の授業で生徒に教わったこと、そしてこれから
  鳥谷靖子   黄色のクロッカス
  古内啓毅   ガーデニング
  星野 勢   ある先輩の死
  松本 誠   CBDって知ってる?
  横山明美   みつまめ
  鈴木奎三郎  四季の記憶85 石神井風景(作品参加)
(照山忠利)





 



練馬稲門会 エッセイ同好会2月度(第103回)報告

2月26日にエッセイ同好会の例会を開催する予定でしたが、コロナ感染状況が改善せずまん延防止等重点措置が継続されていたため対面での開催を取りやめメールにて作品を募集しました。

  鈴木奎三郎 四季の記憶84「ホールの終焉」
  田原亞彦  業界の世の中での存在感
  加藤厚夫  やすもの買いでボケ防止
  谷川 亘  物にはすべからく耐用年数あり
  富塚 昇  人生二回目の就活
  古内啓毅  三々会
  小林康昭  ボロニューの杜の館の宴
  髙橋正英  短波放送の話
  鳥谷靖子  負けず嫌い
  横山明美  この節デパートの午後
  照山忠利  梅むすめ
(照山忠利)




 



紫陽花と消防団

照山 忠利  2022.6.18

 雨に濡れる紫陽花(アジサイ)を見て、そういえば長崎のおたくさ祭りは今頃だったなあと記憶をたどってみた。長崎では紫陽花のことを「おたくさ」という。長崎出島の商館付医師として来日したドイツ人シーボルトが、最愛の妻お滝さんにちなんで、アジサイに「ハイドランゲア・オタクサ」という学名をつけたのが語源となっている。
 長崎の紫陽花の思い出に浸っていたら、福沢剛区議会議員からFacebookの来信があった。消防団のポンプ操法大会の練馬区予選が行われ、練馬消防団第7分団(春日町)が優勝し練馬区代表として東京都大会に出場するという。区議の送ってきた記事は、訓練された消防団員の見事なパフォーマンスを称えた内容だったが、当方から「昔長崎の離島の消防団で団長をしていたので消防と聞くと血が騒ぐ」とコメントしたところ、「先輩が消防のしかも団長をしていたとはおみそれしました」との返信がきた。
 長崎県高島町(当時人口5,000人)消防団の団長をしていたのは今から36,7年前のことだ。会社の総務課長になるとほぼ自動的に町の消防団長に就くことになるので、普通の市町村のようにたたき上げの有力者が消防団長になるのとはいささか趣を異にする。全島の住民の大半が会社関係の従業員とその家族であったから、高島町という自治体はいわば会社の事業所の中にあったようなものだった。従って従業員を束ねる立場の総務課長(勤労課長)が消防の元締めになることは全く違和感がなかったわけである。当時の顛末については2010/12の本例会において「年末警戒」の題で発表したので内容は割愛する。
 消防団とは119番の消防署とは違う存在だ。団員は本業の仕事を持ちながら消防団活動をする。消防署員をプロとするなら消防団員はアマチュアである。基本的にはボランティアで地域の安全・安心を守るために活動する。火災予防に努め火災発生時には消火活動にあたるほか、風水害や地震などの大規模災害時において救助活動や警戒、避難誘導などに従事する。昔は自営業や個人事業主が多く職住も近接していたので、火災発生時には初期消火の点で重要な役割を担っていた。近年は勤め人(被雇用者)の割合が多くなり、地域に根差した消防団はその存在感が薄れてきている。ピーク時には200万人を数えた全国の消防団員は現在81万人となっている。少子高齢化の影響を受けてもいるようだ。
 でも消防団の果たす役割は単なる消防・防災活動だけにとどまらない。団活動をすることにより規律を学び人格形成にも役に立つ。社会貢献をしながら地域社会の安定に寄与している。コロナ禍で拍車がかかった人間関係の希薄化を防ぐためにも必ずや資することになるだろう。若い人は積極的に消防団に参加してほしいものだ。
 今回もまた紫陽花を見、消防団を思い出し、つい長崎への追憶の念にとらわれてしまったことになる。
(了)

                                       


 



新しい世界

鳥谷 靖子  令和四年 六月十八日 

 「かおりさん、来る途中、この辺にない美味しいお菓子を買って来てくれないか?」と夫の実家から電話。「はい、わかりました。」娘が舅と姑のいる品川に通い始めて三年。午前九時前、練馬を出発。一日中働き、ぐったりして夜九時頃帰宅する様子。
 舅は九十五歳。少し認知機能が低下した妻の世話をしながら暮らしている。八十歳まで働き、田園調布のカトリック教会に通っていた、クリスチャンのご夫婦。会社を辞めてから教会の旅グループに入り、イタリヤの教会巡り、スペインの巡礼地を訪ねる旅等に二人で参加、お元気な様子を羨ましく思っていた。
 金婚式に、三人の息子と家族を雅叙園に招待。舅は五十本の赤い薔薇をホテルの花屋に注文、妻に贈るお洒落な方だったと聞いていた。
 九十歳直前、舅が両足に膝の手術を余儀なくされ、姑も骨折から、脳梗塞も併発。自由に体動かせなくなった二人だが、慣れ親しんだ環境を変える考えはなかった。三人の息子と嫁が交代で毎週通う日々。「良い方達だったから、行くのは当前よ。」と娘は言う。息子三人、嫁三人何とか融通し合って親元に通っている。行く度、娘は喜ぶだろう食べ物を持参する。管理栄養学を学び、元来食べる事が大好きだったせいか、珍しく美味しい食べ物探しは得意。「お父さんから【かおりさんは新しい世界を見せてくれる】と喜ばれたの」。と嬉しそうに言う。娘の義父はマスコミの世界にいた方だが、足が悪くなり、外出もままならず、夕食は宅配サービスだけの生活。子供達やお嫁さんの訪問が楽しみなのだろう。舅の感謝の言葉やメールは、娘に親孝行する意義や喜びを教えている。
 コロナ禍で、自宅周辺だけの生活が続いている五月のゴールデンウィーク、娘から「函館に行かない?雄一さん車を買ったから、私の運転で函館案内するわ。」と電話。
去年の暮から、函館に単身赴任中の娘婿。
 函館へは初めてだし、数年間の巣篭り生活から解放されると決心する。
 函館まで飛行機で約一時間余。六月上旬東京は梅雨に入っていたが、函館の空は快晴。彼方に海を見下ろす坂道の両側に、いくつもの異国情緒溢れる教会群。夕刻ロープウェイで函館山に。山頂から、壮大な夜景を眺める。夕食は海の幸を楽しむ。夫の家に行く娘と別れ、函館グランドホテルに泊まる。それも気楽。翌日、娘の運転で、トラピスト修道院、五稜郭、六花亭で海を眺めながらランチ。夕刻、仕事を終えた娘婿を交え夕食。三人で海沿いの温泉ホテル渚亭に宿泊。早朝、部屋のガラス戸に広がった津軽海峡。右端に函館山。遥か彼方に霞む下北半島。北国の荒涼とした海に泡立つ白波、海面すれすれに飛ぶ数羽のカモメ。広い浜辺には人影は見かけない。故郷の大分の海に思いを馳せた。
 三日目、三人で大沼国立公園へドライブ。遊覧船で大沼を一周。駒ケ岳が噴火、山の上部が崩れ、川を塞き沼「湖」を作り、落ちた岩石を木々が覆い、点在する不思議な景色。
 何時までも、子供と思っていた娘が、テキパキと行動する良き妻となり、体力の弱ってきた自分の母親に、気配りもする様になった。この旅は、娘から【新しい世界を見せて貰った】気がしている。感謝の気持ちを忘れずに伝えておこう・・・
今日を生きるシリーズ  函館への旅 


                                       


 



笑うトナカイ

横山 明美   2022年 6月

 娘のお下がりのコートを私は気に入っている。ベージュのごくありふれたデザインだが、シルクの混じった薄い生地なので季節が終えるころには袖口が黒ずんでしまう。近くのクリーニングのチェーン店に出すと、やがて戻ってきて驚いた。袖口の黒ずみはほとんど落ちてない。受け付けて、前払いの代金を受け取り、いらぬカードに勝手にポイント印を押すだけの人に文句を言ってもしょうがない。週に二度御用聞きに来てくれていた米川さんが懐かしく思い出された。
 米川さんはお兄さんと二人でクリーニング店を営んでいた。お兄さんは口数も少なくいかにも技術一筋という人、米川さんはそんなお兄さんに可愛がられて育ってきたに違いない。二人とも地域の父兄とともに、子供たちの小学校で少年野球の指導に当たってくれていた。我が家の息子は、ものごころついた時から父親どころか神戸の伯父さんたちに阪神ハンシンと入れ知恵され、すっかり野球少年になっていた。地域の学校との試合では大事なところに来ると「ミチオここで打てー!」などと米川さんは大声を飛ばしていたものだ。
 玄関先に現れる米川さんはさすがにいつも、気持ち良く糊のきいたシャツ姿で足元までぴしっと決めていた。少し恥ずかしがり屋のおにいさんという感じの人で、花瓶の花を見れば「これきれいだ。僕もこの間花の写真撮りに長浜さんと一緒に新宿御苑に行ってきたんです」などと言い、短い時間に花や写真仲間の話になる。それでもわきまえた人で、こちらの腰の浮かし具合で話にキリをつけて次の家へ回っていくのである。路地を向こうへ回ったところに写真家の長浜さんの家があり、いい飲み仲間でもあるらしい。師匠と弟子だ。
 私の部屋のドアの上の壁には、ちょうど人の顔ほどの大きさのトナカイの縫いぐるみの頭が掛けてある。とてもうれしそうに、ゆかいそうに歯をむき出して笑っている。ベッドに横になり入り口を見上げるといつでも大いに笑っているのである。これを見てつい頬の緩まない人はいない。「娘に子供が生まれるので何か・・・」と探していた知り合いを連れて行き銀座の博品館でこれを見つけたとき、薦めついでに自分も買ってしまった。気持ちが落ち込んだ時は寝る前にそれを見る。しかし飾りっぱなしでだいぶ黒ずみ老けこんできたので、ある日米川さんに相談してみた。彼は「えっ」と両掌をモミジのように空にかざしてどんぐり眼をさらに見開くと「そんなに大事なものならなんとかきれいにしてやらないと。しかし初めてだなあ」と首をひねりつつ胸に抱くようにして出て行った。しばらくするとお風呂に入ってさっぱりしたようにトナカイは若返って帰ってきた。
 それからのち米川さんは独立し、駅の反対側に小さな店を持ったが、その頃からあちこちにチェーン店ができ、手仕事の御用聞きは難しいご時世になっていた。その時を待ちぶせたかのように米川さんを癌が襲った。一人残されたしっかり者の奥さんの姿も見なくなり、店は今流行のマッサージ店に代わってしまった。
 夜ふと見上げるとトナカイは、来れば玄関先をパッと明るくしてくれた米川さんの分まで、老いてますます元気に楽し気である。明日がいい日でありますように!

 

                                       


 



四季の記憶86「牛に引かれて・・・」

鈴木 奎三郎   2022・5・1

 この4月で80才。もちろん待ち望んでいたわけではない。いつの間にトシを取ったのだろう。誰の断りもなしに・・・。ここまでくると、もう開き直りしかない。どう転んでもよくてあと数年。あなた任せ運任せの一年が始まっている。
 江戸時代後期の俳人、小林一茶が有名な「春風や牛に引かれて善光寺」を詠んだのは1811年。江戸に住んでいた一茶は、この年に善光寺で御開帳があることを知り、参詣者でにぎわう様子を想像して詠んだという。この句は今の長野県小諸市に住んでいた欲深いおばあさんが、洗濯した布を角に引っ掛けた牛を追いかけた先が善光寺で、そこで欲深さを改心したという昔話を踏まえているそうだ。ちなみに一茶の生家は長野県北部の柏原の片田舎である。身内との相続争いに加え、連れ合いを亡くして寂しい晩年だったそうだ。

 その善光寺では、8年ぶりに御開帳が開かれている。本来は7年ごとだが、昨年はコロナの影響で延期された。4月3日から6月29日までの期間には、多分700万人程度の参詣者が訪れることだろう。例年の5割増である。
善光寺の御本尊・阿弥陀如来は創建以来の絶対秘仏で誰も見ることができない。そのお身代わりとして「前立本尊」が本堂の前に設置される。秘仏からは白い綱が引かれ、これに触れていろいろな願をかける・・というものだ。早世した父に手を引かれて行ったのは、何才の時だったろう。ぼくが小学校3年の秋になく亡くなっているから、多分入学前のことだ。

 長野駅から善光寺の山門まで約2キロ。参道の終点は仁王門である。高村光雲作の巨大な一対の仁王像が安置されている。ちょうどその参道の中間に生家があった。ここを 1998年の長野冬季オリンピックの時に、市内の表彰式会場として明け渡すことになった。
当初はここに県下随一の高級ホテルを建てる計画があり、長野電鉄、第一生命、清水建設、鈴木土地などが出資者となり「セントラルスクエア」という会社を作った。出資者の一人であり地権者でもある長野在の長兄から、会社を辞めて新会社を手伝え・・との内示があった。しかしバブル後の経済状況は、高級ホテルどころではなくなった。市の中心部にしばらくは2000坪の空き地ができたが、ここは当面の措置として駐車場になった。その後長野市に貸し出すことになって、いまはオリンピックの記念公園になっている。

 「セントラルスクエア」と称しているが、まさに長野市の中心である。大学生のころは、夏休み冬休みにはこの家が仲間の集まりの中心であった。2Fには18畳の大広間があり、ここでよく徹夜マージャンをやった。母が用意してくれた朝食をみんなで食べた。おおきな塩にぎりと豆腐か何かの味噌汁であった。みんなで食べた後はお昼寝である。この4年間はこれという目標もなく怠惰な学生生活を送った。ほとんどの仲間も大同小異だったと思う。
家のすぐそばは「権堂」という市内随一の繁華街があり、山仲間には有名な「奈良堂」という喫茶店があった。ここには、女子高生が集まりナンパ高校生の聖地でもあった。授業が追わるとぼくもほぼ毎日のように通った。近くにはパチンコ屋も数店あった。大学の休みには昼間はパチンコ、夜はマージャンかダンスホールに通う日々。ほとんどの仲間がそうだったが、これという勉強もせずに遊民のごとき日々を送っていた。

 通った県立高校は善光寺の裏手、歩いて20分程度のところにあった。しばらくは自転車で通ったが、善光寺の登坂がつらくそのうちにバスに切り替えた。冬場の寒さはほぼ札幌並み。今のような温かいヒートテックもなく、よく寒さに耐えたものだと思う。善光寺の参道は長々と登っていくが、狭い平地や盆地の縁に山が迫る日本の地形には、一直線、ゆっくり、長々が組になる寺社はほかにないという。通りの両側に店が並ぶ門前町を過ぎると、その裏手にいくつかの宿坊がある。寺の運営に参画する僧の住まいで、もちろん仏も安置され仏事を営むことができるそうだ。高校の運動部の合宿はここが定番だった。

 桜が満開の今頃、御開帳効果で善光寺周辺はにぎわっていることだろう。退職してから7年に一度、欠かさず行っているので今回もいかなくてはならない。善光寺の本堂東側に立つ一茶の句碑には、「春風や・・」にならんで以下の句が刻まれている。

 「開帳に逢ふや雀も親子連」


                                       


 



関 博之さんの一周忌に

華岡 正泰  2022.6.18


    関 博之さんが逝って もうすぐ あっという間の一周忌。
    練稲での親友 早速 完さんの時と同じく一文を供したい。
  
 私は関さんの前の 塩田典男 事務局長の時代から どっぷり練馬稲門会に漬かっているが その塩田さんが「年を取った。誰か代わってほしい」と言い出した時には 塩田さん程の人に代われる者がいるのかと心配した。そんな時 関さんは私に「貴方同様 私の家も稲門一家。そんなこともあるから 私がやりましょう」と申し出てくれた。以来16年。“人の三井、組織の三菱”と言はれる三菱で仕事をしてきた関さんは 荻野会長の下 塩田さんの後を継いで 23区はおろか全国からも注目される 今の立派な練稲の組織を作り上げてくれたのだった。

 私は生徒、学生時代からの幾つかの会に属しているが どの会に参加しても「お前のとこの練馬は・・」と褒められ 羨ましがられ 私はそれを誇りにしている。
私は今の生活を「想像もしなかった老後」と表現しているが、私の予定表は練稲の行事、練稲有志の集まり それに私の病院通いだけで埋まっている。小学校、旧制中学、高校、大学、所属した会社の同僚先輩の多くは既に亡く、年次を問はない練稲での付き合いだけが今の私、つまり練稲あっての老後となっでいる。関さんは そんな練稲を作り上げてくれたのだった。
 “関さんを偲ぶ会”の時に配られたプロフィールを見て 驚いた。関さんは大学の4年間 柔道部に所属していたというのだ。そんな自慢話 長い付合いの中で聞いたことはなかった。関さんはそんな奥ゆかしい人だった。

 関さんを亡くしたことは練稲にとって大打撃。でも喜々津さん、平田さん以下事務局の方々、サークルの部長方がしっかり組織を守ってくれている。私はあと半年もすれば92歳になるがまだまだ元気。これからもずっと練稲と共に余生を送りたいと思う。
 関さん有難う。安らかに眠ってください。そしてご家族のことを見守られる時、どうぞ練稲のことも。  私のお願いです。  合掌



                                       


 



時に、安堵の涙した

谷川 亘    2022年6月18日

 “桑原桑原”。一時はあれだけ猛り狂ったのですから・・・・。
 時すでに終盤なんて思い込もうものなら仕返しが怖い。それにしてもこの所は悪戯も尽きつつあるのか?低位安定と言うのか、下げ止まりと称するのかはともかくとして、コロナ禍の方はやっと先が見えてきたようですね。
 何せ三年越し、“三密”がすっかり身についてしまい、“お人払い”と怠惰な毎日で心身ともに萎え切って、如何せん、慣れるとは怖い、それが至極当たり前の体たらく。
もともと、八十路を過ぎて体力・知力がそうでなくとも劣化しているのだから、蟄居三昧がごく“フツー”の毎日と成り下がっても平気の平左。
 感情がのっぺりして起伏が薄っぺらになり、コロナ禍が暗転しても、「アッッそう」とまるで他人事。何食しても“美味い”の一言が出ない。逆らわずに何事にも、じっと“我慢の子”であった。「この不況下、一致団結したのが実を結び好決算ですよ・・・」なんて言おうものなら、“大”会長さんからはお世辞でもお褒めに与れるかと思いきや、それこそ「アッッそう」の一言。もはや経営者として失格です。
 万事“良い方向”に進むなんてありゃしない。このままでは止まらない。陰惨まっしぐら。認知症もさらに歩を進めるという悪循環そのものなのです。

 話題転換。時に、ほんのり涙した話で失地回復させていただきます。
 5月20日、「武蔵関公園」に並行して流れる石神井川河畔で早朝“よた歩き”途上、生後間もない子連れカルガモ一家がそれこそ“束になって”移動しているのを見かけました。生後間もない密着移動は良くマスコミでも取り上げられますが、昔、三井物産の池辺を後にして内堀通りを一塊になって、「そこのけ、そこのけ要人のオ通りだい・・・」とばかりに通行遮断。必死の思いをして大手濠に着水して我がことのように胸撫でおろしては、思わず感涙ひとしきり。
 生まれたばかりの小がも7羽。親から離れちゃならんとひと固まりになって必死に追いすがる。親も親とて一羽たりとも失ったらお家の一大事。そこは親と子にしか分からない“絆”なのですよ。傍で見ると愛くるしい仕草なのですが、親も、そしてコガモだって必死の形相。
 千載一遇ではないですが、再度の逢瀬期待して馳せ参じては10日間に三度の出会い。団子状になって身を寄せ合っていたコガモは、たった数日の間に凛々しくなって親の前方を身勝手に泳ぎまくって、うち一匹は別方向に泳ぎだす。そうですよ。何度数えてもコガモは6羽。種の根絶防止すべく多産系はゆとり見ているのですよ。
 最後の御目文字は、シッタカメッチャカはしゃぎまわる。それこそものすごい水しぶき。親だって、水辺から上がって毛繕いするゆとりさえ・・・。あたしだって(まだ若い)。父カモの妻なのよ!!!







                                       


 



ある花嫁の父の話

富塚 昇   2022年6月18日

 4月30日(土)、14時発の新幹線「のぞみ」に乗った。車内ではもっていった小説「とんび」を読みながら過ごした。16時15分に京都駅に到着する。最初に娘が取ってくれたリーガロイヤルホテルに行く。荷物を置き本日の目的地、京都伊勢丹の和食店を目指す。伊勢丹の入り口で先に出かけていた息子と落ち合う。エレベーターで11階へ。約束の17時30分ちょうどにお店に着いた。そこには娘と娘の結婚相手が待っていた。そう、その日こそ娘の結婚相手との家族顔合わせの食事会の日だった。
 新幹線の中で読んだ重松清さんの「とんび」は父と息子の話であるが、父親の子育て、子どもの成長と親の子離れがテーマの小説で、子どもは男の子だが早稲田の法学部に進み、最後の方で結婚をする。男の子と女の子という違いはもちろん大きいが、その以外の2つの点で今の私と重なるところもある。重松清さんは早稲田の教育学部出身ということもあり、この点でも親しみがわく。
 話を元に戻そう。昨年の夏、仕事で大阪に住んでいる娘から「今度会わせたい人がいる」と連絡があった。最初にそのことを聞いたときに、私の気持ちとしては「やっとその時が来たか」という感じで喜びの気持ちが大きかった。私は1989年に31歳の時に結婚をして、翌年娘が生まれた。娘は私と妻が結婚をした年齢になっていた。7月の末に二人でうちに来た。娘とお相手は東京で勤めていた時に職場で知り合い、2年前に大阪の別の職場に転勤をして、それぞれが一人暮らしをするようになってからつき合いが始まったのだという。いかにもありそうな話だ。ちなみにお相手は滋賀県出身で大学は京都の私立大学を出ている。今年の1月末にもう一度会う機会が設定されそこで二人の結婚の意思を確認した。
 食事会は花嫁の父が荒れることもなく和やかに進んだ。お互いの子育てのこと、二人の勤め先のこと、お相手のお兄さんが小学校の先生をやっていることもあり、最近の教育のことなども話題に上った。関西に親戚ができることはあまり考えたことがなかったが、予想しないことが起こるのが人生というものだろう。ご両親もそこそこ飲める方のようであり、私としてはこの点もよかったと思っている。
 さて、二人は入籍を3月21日に済ませている。しかし、披露宴については、現状では行うことが難しい状況にある。実は今年の4月の転勤で二人そろって東京への転勤を希望していたのだが、娘は東京に転勤できたが、お相手は大阪に残ってしまった。新婚早々別居結婚の形になってしまった。そんな状況ではあるが、こじんまりした形でも「花嫁の父親」の役割ができる場を設定してほしいものである。「花嫁の父親」としての何らかの「通過儀礼」がないと前に進みにくい気がするのである。諦めの機会があればこそ、前に進めるのではないかと思うのだ。
 娘が結婚することになり、喜びの気持ちがある。ホッとした気持ちがある。しかし、「花嫁の父」は昔から寂しいものだと相場が決まっている。私は高校で哲学的なことや宗教的なことを教えてきたのだが、こんな時に先哲の思想家の言葉を実践しなければならない。アリストテレスは次のように言う。「私たちは自らを律することによって、自制心を身につけることができる」。そしてブッダも言う。「行動を制御することは善いことだ。心を制御することは善いことだ。すべてにおいて制御することは善いことである」。
 しばらくはお酒の量が少しばかり増えることはやむを得ないとして、大幅に増えることがないようにしっかりコントロールしていこう。
 

                                       


 



黄色のクロッカス

鳥谷 靖子  令和四年 四月十六日 

 朝、目覚めると二階の寝室の窓を開け「今日の天気は、どうかしら?」。と空を見上げる。青空が広がると、気分爽快に一日が始まる。窓辺に赤、白、ピンクのゼラニュウムの花。「元気、水飲みたい?」と触ってみる。
 二月中旬、立春が過ぎたと言え、まだ寒い日々が続いている。子供達が巣立ち、気持ちに余裕出来、小さな庭に草花を育てるのが楽しみになっている。庭の片隅の水連バチのメダカ達が餌を待っているが、寒さのせいか出てこない。
 ガチガチの地面から黄色のクロッカスの花が咲いていた。短く細い葉の中から、手の平程の可憐な花で、春の訪れを教えてくれる。
 何気ない平和な日常。コロナ禍も次第に収まり、桜の開花予想を楽しみな毎日だった。
二月二十四日、ロシアがウクライナに侵攻のニュース。初めは遠く場所もはっきり知らない国の話と思っていた。独立国家が他国を侵略する様子が連日テレビ画面に映し出され、二十一世紀なのにと、次第に不安になってくる。
 四年前の夏休み、息子の友人のポーランド人が二階の空屋にホームステイする。食事後に団欒したものだ。第二次世界大戦中、ドイツがユダヤ人居住地(ゲットー)を作り、アウスビッツの収容所もある彼の母国。驚いた事にドイツの人々について全く拒否感は無かった。彼は真剣な顔をして、「ロシアの国の方が、cruel(残忍)でcheat(ずる賢い)だった」と言った。実感は無かったが、何故か心に残る。彼は、ポーランド日本大使館の武官だった。翌日彼は「カチンの森」の本をプレゼントしてくれた。ロシアは終戦直前、宣戦布告もなしにポーランドに侵攻、文化人、警官、将校がカチンの森で、二万人を虐殺。事件が明るみ出ると、ナチスの仕業と映画まで作り、責任を転嫁した。占領した土地の住民をロシアの奥地に強制移住させた事が写真入りで書かれていた。恐ろしくもあり飛ばし読みした。
 ロシアは、千五百七十年、モスクワ公国のイワン四世は地方都市ノウゴロドに侵攻し、住民を大虐殺し、残った住民は強制移住させたのだ。中世から始まったロシアの残虐性は、ずっと繰り返えされてきた。ロマノフ王朝の時代だけは、トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーを生み出す自由な文化が花開いた時代もあったが、十九世紀には、スターリンは、自国民を弾圧、虐殺し、ウクライナに人為的大飢饉「ホロドモール」で計画的大虐殺を引き起こした。日本にも不可侵条約を無視、満州や、北方領土に侵攻し、占領している。
 情報が瞬間に世界中に伝わる現在、ウクライナの美しい平原に咲くひまわりの花々、豊かな小麦畑が広がる大地を、凄惨な戦場に変えた。マリウポリの初老の婦人は涙ながらに、「ここで生まれ、結婚し家庭をもった。もうすべてなくなった」。と訴えた。ロシアはこの地を絶滅させる計画をたて、残った住民は極東のシベリアへの移住を提案していると聞く。
 プーチン大統領や全閣僚は、世界に向かって平然と嘘をつく。同じ人間なのだろうか?自分の国の悪行が映像を通して世界中に知れ渡っても、全く意に返さない。
 大虐殺の起きた町ブチャの映像が流れた。色が失われた瓦礫の隙間に、綺麗な黄色のクロッカスが一輪咲いていた。何か懸命に訴えかけて見える。罪なき住民の日常を破壊する正義などあるはずもない。我々は、ウクライナの方々への募金に協力するしかないのだ。


                                       


 



ときわ荘訪問記

坂本 成  2022.4.16

昭和20年、夜毎の空襲が苛烈を極めていた新橋の田村町を逃れ、神奈川県の西の端にある小さな半島の村、真鶴に移った。戦後の東京の復興のエネルギーは200キロ離れたこの漁村にも華やかな風となって吹いてきていた。「リンゴの唄」、「鐘の鳴る丘」、「ミカンの花咲く丘」、「20の扉」がラジオから流れ、「少年倶楽部」、「冒険活劇文庫」、「少年王者」などの少年雑誌が次々に刊行され、江戸川乱歩、山岡荘八、佐藤紅録の連載小説、小松崎茂、山川惣治、伊藤彦造,椛島勝一の挿絵、福井英一、馬場のぼる、手塚治虫、の連載漫画などなどが田舎の小学生を広い未知の世界へ案内してくれた。昭和27年、再び東京に戻ってきたのは13歳の時であったが、当時「漫画少年」という月刊誌が一般の素人の描いた漫画作品の応募を受け付け、入選作品を誌上に掲載していた。審査員が手塚治虫さんということで、せっせと描いては応募したのだが初めて入選を果たした昭和30年10月、この雑誌の出版元である学童社が突然倒産し「漫画少年」は廃刊になってしまった。 すっかり意気消沈しているところに学童社からお詫びの手紙が来て「懸賞金の代わりだけど手塚先生に会いたいか?」と書いてあった。後日、訪ねたのが椎名町の木造2階建てアパート、「ときわ荘」であった。お目当ての手塚さんは不在だったが若き赤塚富士夫、藤子不二雄、馬場のぼる、等の面々がたばこの煙る車座の輪の中に私を招き入てくれて、お茶と団子をほおばりながらの夢のひと時を過ごした。ときわ荘は70年経った昨年、同じ地に復元され、漫画記念館として賑わっている。


                                       


 



ガーデニング

古内 啓毅  2022・4・16

 東京の桜は盛りが過ぎ、桜前線は北上中です。我が家の小さな庭は春爛漫の風情で大分賑やかです。クリスマスローズは寒い時分から咲き始め今を盛りに咲き誇っています。ボケはつぼみの時にムクドリに食い荒らされましたが残っていた花芽が咲き始めています。枯れてしまったように見えていた紫陽花は新芽を伸ばしています。丈が2メートルほどに伸び、白い大輪の花を咲かせるテッポウユリは今年も元気よく空を見上げ成長しています。開花時期が長く丈夫で育てやすいハーブのサルビアチエリーセージは赤い可憐な花をつけています。シラン(紫蘭)も芽を出し、まもなく美しい紫の花を楽しませてくれます。
 昨年4月、孫の小学校入学を記念して庭に梅の木を植えました。実をつけるまで3,4年はかかるといわれていますが、今年、つぼみを7個もつけ、3月13日、見事に開花しました。かって庭に大きな実のなる梅の古木がありましたが、花が咲くと、どこからともなく鶯がやってきて美しい声を聴かせてくれたものです。ところが、先日、梅が開花したその日に久しぶりに鶯がやってきて、あたかも開花を寿ぐように見事な鳴き声を聴かせてくれました。どこかで見ていたんでしょうか。不思議なものです。感激しました。翌日もやって来ましたが、それっきりでした。
 ドウダンツツジの白い小さな花がきれいです。これからは鉢植のばらやつるバラが咲きだします。ザクロ、百日紅も活発に枝を伸ばしています。
かように、庭の現状を文字にしてみますと改めて種々雑多な植物が生息していることに気づかされます。私は庭仕事が好きで、庭木の剪定や花の手入れ、草むしりなどすべて自分でこなしていました。楽しみだったのは、夏場に朝から庭に出て汗をかきながら作業をし、昼になっても家に上がらず縁に座って冷たいビールを飲み干すときのそう快感はなんともいえない至福の時でした。が、10年ほど前に腰を痛めてからは庭仕事がきつくなり、最近は近所の庭師さんや練馬区のシルバーセンターにお願いすることが多くなりました。楽しみだった庭ビールとは疎遠になっています。

 人々の生活において植物は重要な役割を担っています。空気をきれいにしたり、湿度を保ったり、人間に有益な効果を与えてくれます。植物の大半は緑色をしており、緑色は目の疲れを癒し大脳皮質の働きを活性化させる効果があるといわれています。植物に触れたり鑑賞することで、すがすがしさや心の安らぎを得ることが出来ます。

 現下の世の情勢に目を向けますと、なんともやりきれない状況に遭遇します。新型コロナ感染症に関わるまん延防止等重点措置の適用が解除されましたが感染者数は拡大の傾向です。コロナ禍の終息は全く見えません。プーチンが起こした戦争も停戦への展望は開けていません。

 <国追われ母の手握り降り立つ子等よ>避難する母子の映像を見るのはつらい。罪のない子供たちが殺されたり国を追われるなどのことは決して許されない。プーチン、ロシアは戦争犯罪を重ねています。
 ともあれ、種々考えるほどに苛立ち、ストレスが増すばかりですが、せめて心の安らぎを求め庭の木々や草花を眺めながら有益な植物効果に期待し日々を過ごしたいものです。


                                       


 



四季の記憶85「石神井風景」

鈴木 奎三郎   2022・3・30

 正岡子規の句に、老いた母親のつぶやきをそのまま詠んだ「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という一句がある。それにしても、彼岸の最中の先月22日は、練馬ではみぞれが降り、最高気温も3,4℃で真冬並みの寒さ、また慌てて冬物を引っ張り出した。
しかし季節は確実に動いて今週末には桜はほぼ満開となりそうだ。今年もいよいよ春爛漫の季節が到来する。関東は冬場もほとんど雨や雪が降らず、北日本や北海道に比べたら季節に恵まれている。出身地の長野市は、開花が4月下旬で東京に送れること約一か月。冬場の気温はほぼ札幌なみ。18歳で上京し一番驚いたのは東京がいかにお天気に恵まれているかということだった。以来東京に60年少々、たまたま転勤で東京を離れることもなく、今日に至っている。

 上京してしばらくは、下北沢のまかない付きの下宿に住んだ。ここは兄二人がいたこともあり、洗濯から風呂から朝夕の食事も含めてその家の子供のように接してくれた。小遣いがなくなると用立ててくれたし、後年母が長野の温泉に招待したり、ぼくの結婚式にも出ていただいたりで親戚以上の関係にあった。先日、その家を訪ねてみようとウロウロしたが、結果探し当てることはできなかった。ここには大学1年から1年弱住んだ。区画が変わり道筋も変わったのであろうか。60年を超えると人も含めて町の記憶やたたずまいが変転していく。

 結婚するにあたり、石神井公園近くの建売住宅を親代わりの長兄に買ってもらった。石神井公園は秘書室に勤務していたころ、お中元お歳暮の配達で知っていた。公園を借景にした風致地区の一角に、コーセー化粧品創業者の小林孝三郎さんの自宅があった。今のように宅急便などはなく、社用車でお届けしていたのだ。そのころから、池畔の美しさと緑豊かな石神井公園は記憶に刻まれていた。
 チラシを見ていると、石神井公園の近くに建売住宅が売り出されていた。多分昔は大根畑か何かの農地であったろうが、十数戸の一角である。安普請の建売ゆえ、子供や犬であっというまにぼろぼろになった。都市ガスはなく当時はプロパンガスで、大雨が降ると雨漏りがして天井にいくつかのシミができるありさまだ。大田区生まれの家人は、近くに知り合いもなくひどい田舎に来てしまったと悔やんでいた。
 
 20年ほど住んで、建て替えることにした。地震に強いといわれていたツーバイフォー(壁軸工法)の家である。貯金もなく銀行から結構の金額を借りた。やれやれこれで定年まで返し続けるのか・・とハラを決めたが、ありがたいことに実家からの支援で、あっという間に完済することができた。新築の家は淡いブルーグリーンで、ご近所からはいい色ですねー・・などと評判がいい。
 石神井公園までゆっくり歩いて5分。毎朝の愛犬との散歩はいろいろとコースを変えて飽きることがない。四季折々、石神井公園と隣接する三宝寺池にはカルガモやオシドリ、シロサギ、たまにカワセミが来ることもある。大きな鯉も群れている。豊かな湧水に恵まれているようだ。
 今は朽ち果ててその様子を伺い知ることはできないが、石神井城址がある。平安末期から室町時代中ごろにかけ、石神井川流域を治めていた戦国武将・豊島泰経の出城のひとつである。いまは空堀や記念碑があるだけで、当時を忍ぶものはない。落城のおり、照姫が身投げしたという伝説が残る。

 「東京人」1月号の臨時増刊号は、石神井界隈の特集である。巻頭には昔からの石神井の住人である檀ふみさんが「お菓子の店ノア」を紹介している。ふみさんは俳優としてエッセイストとして活躍している。「火宅の人」で人気作家となった檀一雄のお嬢さんである。わが家から2分のところにある「ノア」は、奥に喫茶スペースがありぼくの書斎替わりである。ここはその昔、タバコ屋だった。おばあさんが店番をしていた。朝は必ずここで「いこい」を買って出勤した。息子さんがパリで洋菓子を修行し、あっという間に評判の店となった。特に「釜揚げチーズケーキ」はファンが多く、品川、目黒や世田谷ナンバーの車も多い。

 近代以降も、都心からの程よい距離と、自然の景観にひかれて檀一雄や庄野順三、松本清張らがこぞって移り住んだ石神井界隈は、令和の今もその特別な空気感に満たされているような気がする。


                                       


 



みつまめ

横山 明美   2022年 4月

 蜜豆や  恋を拾いし  神楽坂
 気の合う義姉の詠んだ句である。甘いものに目がない人で、上京のおりここだけは絶対に・・・と連れて行ったのが、神楽坂の上がり口にある蜜豆の「紀の善」だった。姉はそのとき、おすすめの杏あんみつを食べると、もう一ついいかしら、とくず餅を注文した。
 古い店で馴染みもある。人出を狙って繁華街のあちこちに出店なんかしないのも好ましい。若い頃その近くの出版社に勤めていた。同僚の男性が私の両親に会いたいというので、上京のおり紀の善まで来てもらい、昼休み、四人の顔合わせになったのだった。
 蜜豆といえば私はすぐに母の昔を思い出す。娘時代は日本橋蛎殻町界隈に住んでいたらしいが、やはり甘いものの好きな人で、姉妹ででも出かけていたのだろう、浅草「梅園」のあんみつが何よりの楽しみだったという。それは今でも本店以外にデパートなどにも出店している。しかし、まんなかにぽっこりのっているあんこの上品な甘さと柔らかさは紀の善だけのものだ。今はあまり言わないが、あずき色とはあのあんこの上品な薄紫色を言うのである。周りを飾るふっくらと大粒の杏も酸味甘みとも言いようのない、ほどの良さだ。
 その後竹橋に職場を変ったときにも、仕事にキリがついたときなど若い人を連れ昼休みに出かけたものだ。女の集団が座敷に陣取って釜飯に蜜豆・・・日々失敗で怒られてばかりの子、デキる子、一人ぼっちの子、ちょっと問題ありの子、といろいろだったが、釜の底をしゃもじでひっくり返したり蜜豆の種類の違いをのぞきあったり。午後からは私だって気分を変えて仕事しようという気になる。私はみんなの母親のような歳だったが、彼女たちと同じに契約社員でもあった。その後は思うような人生を過ごせない人、すばらしい幸せを得た人、遠くでひっそり暮らすようになった人などさまざまだが、蜜豆を食べるたびその一人一人を懐かしく思い出すのである。
 最近、同居の娘が「一週間に一度は蜜豆が食べたいわ」と言う。紀の善のファンである。ヘルシーなのがいいらしい。しかしそんな観点で見てほしくない。春の季語にもなっているゆかしくも心を満たすものである。華やかでこってりのケーキと違い、見た目は何十年も変わらない。絵でいえば日本画と洋画の違いか。静かに心にしみこんでくる。しかし紀の善で毎回買うのはちょっとつらい。よく行く中野にいい店を見つけた。紀の善より400円も安いのに寒天ににょきっとした歯ごたえもある。伊豆でとれる特等寒天だとか。あんこもまあまあだ。あんのわきに”お前はその辺にいろ“というようにでも置かれる二色の餅はどうみても不要だが。この餅を宮の餅と称し宇都宮名物としてかつて盛んに売っていたのは、中学の同窓生の実家だった。今どきは餃子に地位を奪われほとんど見かけないが、中野でそれに出会ったときはちょっと感動したものだ。そうか、わが郷土の宮の餅は蜜豆の手下、いやお供だったのだ、と。
 蜜豆はにっこりさわさわと口にして、また食べたくなる、というより会いたくなる、やはりずっと変わらない恋しい存在なのである。

 

                                       


 



上水高校での最後の授業で生徒に教わったこと、そしてこれから

富塚 昇   2022年4月16日

 私は3年前に都立高校を定年退職し、その後フルタイムで「再任用教員」を続けてきました。そして、思うことがありこの3月31日をもって「再任用教員」を退職しました。2年間勤務してきた都立上水高校ともお別れです。そして4月1日から別の形で教員としての生活を再スタートすることになりました。今回は上水高校での最後の授業のこと、そして新しい高校の着任について書きたいと思います。
 3月18日(金)の最後の授業では、以前この場でも書かせていただいたオリンピックのスピードスケートで金メダルを取った清水宏保さんの新聞記事に関連して、生徒に作文を書いてもらいました。このことについては、その新聞記事を元に今年の上水高校の推薦入試での作文の問題としていました。私としても納得がいく問題ができたと思っています。その問題の要旨は次の通りです。清水宏保さんは緊張する勝負の場面で力を発揮するためには、親だったり、コーチだったり、仲間だったり、競技をやれる環境を作ってくれた人に感謝することが力を出す秘訣ではないかと述べています。そこで問題では感謝するということについてあなたが思うこと、そして緊張する場面で感謝の気持ちをもつとなぜ力が発揮すると思うかを問うたのです。そして、この問題に対して次のように書いた生徒がいました。
 「必ず誰かが誰かのヒーローなんだと思います。どこに生きていても自分が誰かの役に立っているという自覚がなかったとしても。同時に自分には必ず自分を支えてくれる人や応援してくれる人がいる。それに気づくか気づかないかが感謝できるかできないかにつながるのだと思います。親がその一番の例だと思います。・・・中略・・・誰かが誰かと支え合って生きている、つまり、感謝し、感謝されながら生きているのだと思います。そう考えるだけで、私を支えてくれた人、私が支えになれている人たちのためにも頑張ろうと思えてきます。『感謝する』ということは、自分を強くすることなんだと思います」。
 よく教師は生徒に感謝の気持ちを持ちなさいといいます。私はこの生徒の作文を読んで、感謝することが大切なのは「ああ、そういうことだったのか」と改めて教えられました。
 さて、「再任用教員」は退くことにしましたが、まだ年金も一部しか出ない年齢のため、生活費を補うためにPart-Time Teacher(非常勤教員)を目指しました。都立高校の教員を続けてきたため、主に授業だけを行う都立の非常勤教員の採用選考を受験しましたが、採用されなかったことも考え私立の非常勤講師も受験しました(このことは途中まで前回報告しました)。私立高校3校に振られた後、4校目に選考を受けた高校から採用をいただきました。そして都立の方も無事選考試験に合格し、3月始めに配属校が通知されました。本当に幸運に恵まれました。勤務校は学生時代によく利用した「高田馬場」の近く、またエスニックタウンとして美味しいものがいろいろ食べられそうな「新大久保」にもすぐ行ける高校です。都立は都立戸山高校に配属され、私立は海城高校に採用されることになりました。
 引き続き授業ができることについて、上水高校の生徒が書いてくれたように「感謝」すること、そしてその意義を忘れず、生徒の期待に応えられるようにこれまで同様に頑張っていきたいと思っています。
 

                                       


 



Eye to Eye & Face to Face

谷川 亘    2022年4月16日

 コロナ禍に席巻されて足掛け三年。
業を煮やすなんてものではない。“三密”なんて意味取り違えた新語が席巻して、行動範囲が狭まったり、人様との接点がか細くなって、“自閉型”の生活を強制されるばかり。なんとも情けない。 それどころか、恐怖に駆られて自ら進んで蟄居する日常になるにつれて、わがエッセイ駄文もぴっちり蓋かぶせられた“コロナ漬”の樽の様相を呈しております。
 まあ、人生の年輪が重なって老境に入り、高尾山だの御嶽山だのとの「月一・朝一・半日帰還の小走り登山」も遠い昔。抜けるような山の空に似たウキウキするような話題にも事欠くようになってしまい、コロナ・オミクロンの連発。
 何としても“心と体”の劣化を食い止めるべく、コロナ禍にさらされて以来「一日一万歩」を心掛け、近くの公園への往復と池端の“よた歩き”4周で1万1千歩ちょっと。早朝ラジヲ体操に交わって雑談に興じてはボケ防止に努め、不承不承のよた歩きも“体には良い”のでしょうか?コロナ罹患とは距離を保つことができているようです。
 でも、雑談以上の付き合いの出来る相棒が見つからない。なぜか?そうですよ。身だしなみはともかく、早朝ご出陣のこととて、洗顔そこそこに、帽子を深くかぶり、背格好もお互いに老年同士で似たような猫背。おまけに全員がマスクスタイル。これでは識別不可能なのです。最近では、人工知能(AI)が開発され、カメラが目・鼻・口などの特徴点を抽出して、取得した画像や映像から顔を検出するのだそうですが、驚くことに、マスク着用でも顔認証ができる技術が開発されているそうですから、ブッタマゲですよ。
 「目は口ほどに物を言う」とは聞いたことのある昔ながらの諺ですが、このところ、尚更、注目度が上昇しているそうです。コロナ禍においてマスクが生活必需品となり、コミュニケー ション手段としての目が注目されたことが背景にあるようです。
 目と目で「以心伝心・・・」。なんて古語になりそうですよね。
 
 マスクに関連して、Eye to EyeからFace to Faceに話をつなげます。オミクロン追放明けまでなんとも気がかりの話題二つ。
 真っ白い歯は青春の証ですが、50を超すともうがたがたの味噌っ歯、抜け歯のオンパレード。ましてや80過ぎの我にとっては、酒断ちまでして歯痛こらえ、歯医者嫌ってじっと我慢。
 コロナのせいにして毛嫌いしてきた歯医者通いも、歯ぎしりして痛さ堪えるのにも限界がある。

 「伸ばし放題の髪整えて、ネクタイ締めてどこか出向くところでもあるの?」と、問われたら何と答えるのか。でも、「行く当てがないにしてもみっともないよ!!」と、極めつけ言われたらどうしますか?髭や髪は伸ばしっぱなしで櫛も入れたこともない白髪頭。
 その手さばきはご丁寧そのもの。でも、客待ちの間は週刊誌読みふけっているのだろうか。話題豊富でいつの間にか客に合わせる。「はいお疲れ様でした」。
 その床屋の主は今はなく、無味乾燥なんてものではない。なんとも哀れ、駅前の千円床屋でチョンの間なのです。
 オミクロン株も、千円床屋の流儀で、早く“一丁上がり”にしてもらえませんかね~ 


                                       


 



妖精の棲む家

照山 忠利  2022.4.16

 先日の新聞のコラムにエッセイストの岸本葉子さんが、自宅に妖精が棲んでいるという話を書いていた。いたずら好きの妖精が家の中の物を隠したり移動させたりして困るのだという。たとえば普段使っている調理器具や文房具がなくなっていていくら探しても見つからず、諦めかけたころ予想もつかない所から見つかったり。きっと妖精の仕業に違いない、いやになっちゃうわというのだ。
 待てよ、そういう妖精ならわが家にもいるぞ。特に家の玄関の鍵をいたずらする奴が。いつも玄関のキーボックスに家の鍵、車のキー、自転車の鍵などを入れておくのだが、ある日家内用の家の鍵が見当たらないという。使ったすべてのバッグの中や衣服のポケット、心当たりの場所などをくまなく探してみたが見つからない。小生の居室まで捜索対象となった。当座はスペアキーで間に合わせていたが、心配性の家人は気が気でない。どこかに落として誰かに拾われたのではないか、その鍵を使って泥棒に入られはしないかとハラハラドキドキ。当然のことながらイラついて毎日機嫌が悪い。
 数日後、小生が外出先で自分のバッグのポケットに何気なく手をやったら、あるではないか、まぎれもなく探していたその鍵が。早速安心させようと持ち主に携帯で連絡したら、安堵と感謝の反応がくるかと思いきや、「やっぱりアンタね。ずっと怪しいと思っていたのよ」ときたもんだ。それからしばらくは顔を合わせるたびに小言をいわれて閉口した。自分では全くバッグに入れた意識も記憶もなく、だから最初から自分のバッグの中を探そうとは考えもしなかったのだ。きっと妖精の仕業に違いないと思うことにした。
 加齢による物忘れや勘違い、誤動作などは個人差はあるが70歳を過ぎると目立って増えるようだ。人の名前や固有名詞がなかなか出てこないことは誰にでもある。動作が鈍くなり反射神経が低下してぶつかったり転んだり、思わぬ怪我をすることも頻繁になる。年を取ったら念には念を入れて用心を重ねるに越したことはない。
 今から3年後には高齢者の5人に1人、700万人が認知症になるといわれている。認知症の原因の大半を占めるアルツハイマー病の治療薬「アデユヘルム」を米大手のバイオジェンとエーザイが共同開発してきたが、これが頓挫してしまった。薬がなければ自分で自分を守るしかないが、認知症は誰でもかかる可能性があるから厄介だ。また日本は平均寿命世界一の長寿国となったが、介護や支援を要しない「健康寿命」と平均寿命との差は10年程度ある。この差をいかに縮めるかは1人ひとりにとっても国家の財政にとっても大きな課題である。そんな中、この課題解決の一助になればと先月、わがNPO法人成年後見のぞみ会は「介護予防と健康長寿をめざして」と題した講演会を開催した。講師の山田実・筑波大教授はフレイル予防対策には①運動習慣②良い食習慣③社会参加習慣の3要素が大切だと強調した。講師の話は大変分かりやすく70名の参加者の方々にはすこぶる好評であった。
 健康寿命の延伸と認知症の予防はほぼ同じ線上にある。自分が妖精にいたずらされておきながらえらそうに他人様に道を説くなと言われそうだが、この講演会は参加された人々が家に棲む妖精の被害に遭う回数の減少にいくらかは役に立ったかと自負しているところである。
(了)

                                       


 



ウクライナの教訓

小林 康昭  220416

 ウクライナで行われている実態をメディアを通して知ると、いつの時代も変わらないものだ、と思う。侵略する側は必ず、原因を相手のせいにする。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナに攻め込んだ口実をウクライナのせいにしている。そのことは、満州事変を起こした関東軍、第二次大戦でポーランド領に攻め込んだドイツ軍、朝鮮動乱で38度線を越えた北朝鮮が設けた口実と同じである。
 拙いことは、戦争に負けない限り、虚偽が真実としてまかり通り、その真偽が問われないことだ。この負けないということが重要である。負けると、負けた側は一方的に、勝った側の主張を全面的に甘受させられるけれども、負けない限り、国家の犯罪は責任を問われないのである。現に、北朝鮮は、朝鮮動乱以外にも、日本人や韓国人の拉致、大韓航空機の爆破、韓国領内の地下トンネルの掘進、韓国大統領の暗殺未遂など、国家的な犯罪を起こしたが、謝罪もないし処罰も受けない。誹謗されると逆に、相手が仕組んだ謀略だ、と非難することもあるのだ。
このことは、ロシア軍によるウクライナ人の虐殺をロシア側が、ウクライナ側のヘイトだとか、ウクライナによる行為だ、と強弁していることに通じている。
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 ウクライナで行われていることの教訓の一つに「非戦」は平和を意味しないことが挙げられるだろう。
 非戦は、日本国憲法に謳われている精神に合致するが、無条件で崇高な精神と言えないことが分かる。一方が軍事力で威圧した場合、相手側が戦争をしたくないと言ったら、したくないなら言うことを聞け、と非戦の条件を呑む代わりに、無理難題や過酷な条件を押し付ける怖れがある。領土の割譲、国の併合、国民を奴隷的に扱ったり、国民を殲滅させるジェノサイドなど。非戦の条件を呑むのと引き換えに、と一見、対等に見えるその妥協は、決して対等な妥協ではないのである。だから「奴隷になるくらいなら死んだほうがましだ」と強国に抵抗するのは本心なのである。
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 戦争の危機が迫った時に、最後まで「避戦の道」を探る心がけは大切である。そのために平素から、同盟関係の構築、条約の締結を試み、アメリカほか、多くの国々を安全保障の味方に引き入れる必要がある。
 数十年前の湾岸戦争で日本が協力を求められた際に、時の海部首相は現地に人を送らずにお金を拠出してことなれりと判断した。その行為は顰蹙を買った。例えると、火事場でみんなが火消しに懸命な時に、火消しはしたくないから、お金を出そう。鎮火したらこれで一杯やってくれ、というような態度である。
 これでは、お互いの国の間の信頼関係は築けない。いざというときには一緒になって汗をかく覚悟が必要なのだ。
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 といって、よその国と同盟や条約を結んで安泰とは限らない。おのずから限界がある。かつて、社会民主党の福島瑞穂は聴衆から「外国が攻めてきたら、どうするのだ」と、非武装中立の党是を批判する声が上がった時「そんなことをした国は世界中から非難されるから、日本を攻めてくることは絶対にない」と反論した。だが、ウクライナで起きていることは、福島瑞穂の主張が空論であることを示している。何故ならば、多くの国々がロシアを非難してはいるが、ウクライナの国の安全を保障してはいない。自分の国は、他国の力に頼らずに、自分の力で守るのである。それは、日本がとるべき姿勢にも通じる話である。朝鮮動乱のときは国連軍が北朝鮮を攻めた。湾岸戦争のときは多国籍軍がイラクを攻めた。国連軍や多国籍軍を編成して攻めたのは、相手が弱かったからだ。核兵器を所持している相手には、軍事的に対抗することから逃げているのである。
 因みにバイデン大統領は、テレビの視聴者に向かって非難を繰り返している。本気で戦争を回避する気はない。あるのならば、テレビの視聴者を相手に演説なんかしていないで、プーチンと交渉すべきだったのだ。彼は戦争を避けることよりも、プーチンを「世界の悪者」に仕立てるほうが重要だった。その目論見は成功したようだ。その一方で、ウクライナとその国民は、生け贄になってしまった。
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 日本では核への忌避感情が強くて、核をめぐる議論は遠ざけられてきた。核を「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則に加えて「言わせず」「考えさせず」の併せて非核五原則である。日本人の核アレルギーが強い所以である。だが、核の議論を避けるべきではない。その議論を通じて核戦争に遭遇した場合に備えた道を探るべきなのだ。具体的には「防戦の備え」、核シェルターの整備である。各国の人口当たりの核シェルターの整備%は、例えばイスラエルとスイスは100、ノルウェは98、アメリカは82、ロシアは78、イギリスは67、韓国のソウルは300%だそうだ。これに対して日本は0.02%。この整備を急ぐべきである。さらに「防戦の策」として、核兵器の無力化技術の開発を挙げる。これこそ、日本が取り得る最高の安全保障策である。日本の科学技術の総力を結集して、電磁波やレザー光線、無人飛行機(ドローン)などの特性を生かした技術で、核弾頭を機能不全にする。
 実現したら、核武装も核大国の抑止力も意味を失い、国際秩序は大きく変わる。日本の科学技術の力で、この夢を適えて欲しいものである。

                                       


 



物にはすべからく耐用年数あり

谷川 亘    2022年2月26日

 十年来愛用してきたDesktop パソコンがご機嫌斜めとなり、起動に時間はかかるや、作動中に主の命に背いてみたり、フリーズしたりして悪さのしたい放題。流石に「勘弁ならぬ!!」という主の叫ぶ卑猥なセリフの頻度も日を追うにしたがって増加の一途。
 正直、主の方とて実務を離れて幾久しく、ド忘れや思い違いの部類も頻発。その上に加齢による認知症まがいの操作ミスの類も加速度的に増えて、まあ、悪さの程度もどっちつかずの泥仕合。これ以上ヒステリックになると血圧が沸騰してブックリガエル懸念なきにしもあらずで、入れ替えることにしました。
 Noteパソコンはハンディーで、立ち上げやソフト類の挿入を依頼するのにも、手習いの期間中は先生役の手助けも必要だし、持ち運びに便利なので躊躇なく機種変更いたしました。
日本のパソコンメーカーは製造会社が相ついで国外資本に吸収されましたが、品質劣化を来したなんて言ったらお叱り受けるでしょうが、名指しこそ避けますが導入して即不調。画面が横縦一面の筋模様を呈しでどうにもならない。
 使い勝手の不慣れな部分も含めてさんざん苦労重ねて、「これから・・・」という矢先に重大欠陥。性懲りもなく別メーカーのノートを調達するに及んで、ソフト類や記憶媒体を引継ぎ、立ち上げを再度行って、よちよち歩きの段階に至っているところです。
 気づくと、ノート型は画面が小さくて画質は最低。拡大すると今度は狭い範囲しか見ることができない。タッチキーも狭くて小さく指がもつれる、老眼には全く不適な代物でした。なんてことはない、廃棄されるはずの画面とキーボードを新ノートとUSBでつなぎ、これじゃ「前のヤツと同じだよね」。と皮肉交じりに言われる始末。
 (使い手の)加齢ボケ、新機種への不慣れ、加えて、ソフト類の更新スピードについてゆけない。の三拍子揃い踏みで2度も繰り返した同じ労苦。おまけに、会社の連中にセットアップをやってもらったのは良しとして、自称“先生”それぞれが自慢げに、勝手に自己流でやってしまい、統一性を欠いてしどろもどろ。
 一層のことパソコン人生この機に打ち切り!!断言一歩手前まで行ったのですが、せっかく10年続く、毎月欠かさず発行のホームページや克明につけてきた日記もどきをこんな事情で打ち切るのはプライドが傷つきますし、最も恐れるのは、止めてでもしたらボケが進んで認知症もさらに速度アップすること必定との恐怖感です。
 考えて見るに、私の余命は長めに見てもあと数年。その間、このNoteが私の参謀として貢献してくれるのはありがたい。しかし、主が意識朦朧になったとして、記憶媒体に残存する、主から継いだ生き残った記録はどうなっちゃうんだろうか?
 生けるもの全てには“余命”というものがある。しかし、残余の期間が如何ほどなのかは認識できない。そして、生命体を含めて、万物すべからく、命宿るか否かは別として、“減価償却”と言う定められた寿命があるのです。もし、私が絶命するときに、記憶媒体に置き去りにされた記録が私に代わって、「今後は俺が引き継ぐ」とばかりに頭角を現したとしたらそれが怖い。克明に記録に残すなんて賢人のすべきことではない・・・。
 なんて、MCI(軽度認知症障害)罹患寸前の私が本音として言うとしたら、今や、本物のアルツファイマー症候群なのでしょうか?
 いずれにしても、目下、奮起して頑張る決意表明をしている段階です。


                                       


 



この節デパートの午後

横山 明美   2022年 2月

 本を買いに行こうと思うんだけどどうする?・・・と同居の娘から少し遠慮がちに声をかけられたのは、日曜の午後、簡単な昼食を済ませ夫と二人暇をもてあましていた時だった。テレビではその日も北京の冬季オリンピック中継をしていたが、ほとんど興味はなくどうでもよいことだ。夏の猛暑とコロナ下でのお騒がせ東京大会以来、オリンピックに何の思いも持てなくなっていた。もともと自国を応援する愛国者でもないし、先進国の選手らがお金や時間をふんだんに使って技を磨きいい成績をおさめるだけのことだ、という思いが強い。それにそもそも国際オリンピック委員会という組織がよくない、と思ってもいる。今や1924年のパリ五輪に題材をとった映画「炎のランナー」のような感動は到底持てはしないのだ。一応誘ってみたが相変わらず相方は「僕行かない」の一言だったから、娘の運転でホイホイと出掛けることにした。今の状況、ちょっと出かけたりするのも気が晴れるのだ。
 私はゆったりと車の後ろに座る。クッション、ひざ掛など抜かりなく用意されている。もしものときの傘やお手拭きまで。よく気の回る娘だ。ただしあまり話し好きではないので私は隣にはあえて座らない。道々世の中の不思議を目にすると驚いて前に乗り出すようにして聞いてみたりするが、たいてい苦笑いをしてあっさりとかわされる。面白い看板も素敵な建物もおかしな通行人も娘にとっては日常なのである。
 娘は豊島区役所に勤めているので、東武デパート御用達である。たしかに西武デパートより数段冴えている。総帥である堤清二がいなくなってから西武は本当にダメになった。使い勝手がとても悪い。学生時代2週間程アルバイトをしたことがあるが凋落の一途である。
 車はデパートの深い深い地下の駐車場に螺旋を描きながら降りてゆく。目が回りそうだ。前の車がいやにのろのろしている。慣れない初心者のようだ。せっかちの私がいらついてついブツブツ言うと、娘は窘める目つきをちらと後ろに送って落ち着いている。うむ大したものだ、私の子供かい・・・と思う。地下4階のドア近くに駐車させると私を誘うように杖を突いて歩く。杖と言ってもよく女性が好んで持つ色鮮やかな花柄などではなくお洒落なヒョウ柄みたいな色合、模様のものだ。小さい頃の病気がもとで足が少し不自由である。こんな時、あら、そうだった、足が悪いんだった・・・と不肖の母親は気づいたりするのだ。普段は忘れるほどである。私は元気だけが取り柄だが、娘は年を経るごとに私のしっかりした姉のような存在にどうもなりつつあり、よく怒られたり無視されたりもする。このごろは、母子ってそんなものなんだろうと思うようになってしまった。
 人けのないドアに駆け寄り娘のために押し開けようとすると、ちょっと危ない感じの大男が背後から追いついてぐいっと開け私たちを入れてくれた。人は見かけによらないものだ、外出すると社会勉強になる。「あら、すみません、ありがとうございます」と丁寧に返しておく。娘がまた、人はそういうものなのよ、という顔で私を振り返る。
 勝手知ったる娘に従いそのまま一気に7階へ。大きな旭屋書店が入っている。私も買おうと思う本があったので分かれてそれぞれ探すことにした。私は二冊すぐ見つかったが、娘は5,6冊抱えている。何といっても驚いたのはレジにものすごい列ができていたことだ。コロナがまだどんどん広がっている。日曜でもある・・・こんなにたくさんの人が本を買うところを初めて見た。驚いた。並ぶ娘に二冊の支払いを頼んで近くの鳩居堂の売り場に向かおうとするとスマホが鳴った。夫からのんびりした声で「みかんと餃子でも買ってきて」。娘と二人でクククと笑った。
 鳩居堂のあたりに人けはない。担当もベストにタイトスカートの年配者で銀座の店から派遣された人のようだ。何枚かの春らしい絵葉書と久しぶりで大判の江戸千代紙を二枚選びレジへ。いくつになってもこんなものが私は好きだ。娘に二冊分後で払うのにお金を崩そうとまず一万円札を出し、小銭をまさぐりながら「おいくらでしたか」と聞くと「1万3500円でございます」と言う。「えーーっ!」と飛び上がるほど驚いた。こんなとききっと育ちが出る。絵葉書がここでしかないものとはいえ3枚、千代紙だってたった2枚である。私のあまりの大声に係の中年女性は直ちに我に返り「申し訳ございません。トレーに一万円札があったもので・・・」と一桁勘違いを詫る。とても楽しい経験をしたと思い、まだ並んでいる娘にかけよった。娘は面白そうに少し笑った。久しぶりの笑顔だ。来てよかった。

 地下でスーパーの倍もするブランドみかんを仕方なく買い餃子も買って、また深い螺旋道をぐるぐる上がり、夕焼け空が明るい道を、来る時よりは少し話も弾んで練馬区の路地に帰り着いた。「ああ帰ったの」と当たり前のことを言って、餃子を食べたい老人がソファに寝転がっていた。

 

                                       


 



ボロ―ニューの杜の館の宴にて

小林 康昭  220226

 パリのシャンゼリゼ通りを、コンコルド広場から歩いてエトワール広場を過ぎた先の通りの左側はボローニューの杜である。その杜のなかに、一見、住宅のような佇まいの瀟洒な館が建っている。この館がレストランである。一晩に一グループしか予約を取らない。
 宴は、午後の8時に予約されている。正面玄関の車寄せに車を乗り入れると、燕尾服に威儀を正した恰幅の良い男に招じ入れられて、小さな部屋に案内される。
 素晴らしい麗人がピアノを弾いている。先客がリキュールを手に、演奏に聴きいっている。ショパンのようだ。ピアノの上には、客人たちのリクエスト曲を記したカードが数枚、乗っている。
 飲み物の注文に来た。コアントローを注文する。一度、ビールを注文して、顔をしかめられたことがある。この場でビールは歓迎されないようだ。ウィスキーもそう。ほかにチンザノ、カンパリなどのイタリー産の食前酒があるが、ここでは、フランス産に敬意を表する。
 コンシェルジェらしき男が、分厚いカルト(メニュー)を配る。ア・ラ・カルトのカルトである。フランス語で書かれた料理名の下に英語が添えられている。時には日本語が添えられることもある。アントレ(オードブル)、スープ、ポワソン(魚)、ヴィアンド(肉)、デセール(デザート)、フロマージュ(チーズ)が並んでいる。
 ゲストに配られるカルトには、値段の表示がない。表示があるカルトは、ホストに限られる。オードブルとスープから一つ、魚と肉から一つ、デザートはパスして、チーズを選ぶことにする。フルセットは食べきれない。大食いのフランス人には、とても太刀打ちできない。
 演奏が終わった。拍手はしない。麗人はピアノの上のカードをつまみ上げて一瞥し、次の曲の演奏を始める。映画のテーマ曲やビートルズなどはご法度。あくまで、クラシックで一貫している。次はリストの曲らしい。
 その間に、次々と参加者が入ってくる。夫婦連れの場合には、婦人に敬意を表して、姿を見たら立ちあがって迎える。近づいた夫人が掌を差し出すところで、握手をする。女性が先に掌を差し出したら握手するのが鉄則で、男から先に掌を出すことは禁じ手である。次いで、彼女とハグして、右の頬、左、右、左・・・と、七回頬ずりする。そして、夫人を見守っている旦那の脇の席にエスコートする。
 約一時間後の9時、全員が揃ったところを見はらかって、メイン・ルームに移る。予約の時刻より若干遅れることがマナーである。早く来るのは野暮である。
 用意万端整ったテーブルの脇で、ホストが一人ずつゲストの座る席を示す。ホストに断りなく勝手に座席に座ることは礼を失することである。ゲスト同士を初対面、男女が隣り合うように配置することが原則になっている。 
全員が収まると、ホストはワインを選ぶ。そのワインをホストが味見しておもむろにうなずき、「ボン」と了解の意を示してから、全員のグラスにそのワインが注がれる。全員にいきわたったところでホストの「ボートルサンテ」の一声で、全員はグラスを軽く持ち上げる。健康を祈念して、という意味だ。これで宴の開始となる。
 一口飲んだタイミングで、オードブルが出てくる。キャヴィア、牡蠣、エスカルゴ、フォアグラ、トリュフなど。僕の大好物ばかり。それが堪能出来たら、メイン・ディッシュは要らないほどだ。オードブルの後、バタール(フランス・パン)をちぎって口にしながら、魚を半分ぐらい口にしたところで、もう腹がくちくなってくる。
 ホストが話題を振ってきた。振られたら、それに応える。そして、ホストに話題を返す。横取りされて、会話が別の者に移って行くこともある。そうして、会話が進んでいく。黙食はいけない。僕が顔を出す宴では、ホストが日本を話題にすることがある。浮世絵、仏像、柔道、磁器、俳句、武士道・・・。彼らも勉強しているから「仏像の如来と菩薩の違いは?」とか「神宮、神社、大社の違いは?」などと迫って来る。油断はならない。
 デザートが出たところで、宴は終盤に入る。時計は午後11時を回っている。食べかけのデザートをテーブルに残して、別室に移る。その席に、その食べかけが運ばれてくる。相変わらず会話が楽しげに続いている。
 締めはチーズ、そして、グラスにブランデーが注がれる。重厚なケースに収められた葉巻を目の前に置かれて「葉巻はいかが?」と勧められる。部屋の中に葉巻の香りが漂う。
 ようやく、会話が下火になった。ホストの短い挨拶で閉会になる。時計は午前一時近い。
参加者は、三々五々、家路につく。そして、朝、午前九時には、彼らは平然として、職場の席に座るのだ。
*  *  *
 僕が練馬稲門会に入会した直後だった。幹部らしき御仁から「君の会社にKと言う奴が居ただろう」と声がかかった。Kは西高・政経学部を経て、僕より3年前に入社していた。アラブ地区を担当する営業部長だった。彼は、アラブの王室関係者を連日、パリやロンドンでもてなした。当然、金に糸目は尽きない。ワインだけで、一晩に一千万円を超えたこともあった。僕はパリでKの催す宴に、何度も付き合ったことがあった。
 その彼が、練馬稲門会のグルメの会に入会してみた。彼の父親は教科書会社のオーナーで、彼はその御曹司である。財布は今でも潤沢なことだろう。参加したその初回、Kは幹事と大喧嘩になった。ワインの品定めが原因だったらしい。そもそも1万円足らずの会費で、Kが満足するグルメを期待することが無理と言うものだ。


                                       


 



人生二回目の就活の日々

富塚 昇   2022年2月26日

 私は3年前に東京都の教員の定年を迎え、現在フルタイムの「再任用教員」として仕事を続けています。思うところがあり2022年4月からは、給料はさらに下がるのですが、ほぼ授業だけに専念できる東京都の「非常勤教員」への転身を図ることにしました。ただ、この「非常勤教員」になるのは簡単ではなく、小論文と面接による選抜試験があります。倍率もある程度高いようで私のかつての同僚でも合格しなかった人も出ています。私はその場合に備えて、私立高校で授業だけを行う「非常勤講師」への道も同時に探ることにしました。二面作戦での就活です。
 9月の中旬にある私立中高一貫校の採用試験を受けることになりました。ほぼ40年ぶりに「履歴書」を書き、専門の社会科に関する筆記試験を受け面接試験に臨みました。筆記試験も手応えは十分にあり、面接ではこれまでの実績も評価された感じもしました。学校の雰囲気についても詳しく説明してくれました。勤務は週5日になりますなどと言われたこともありほとんど採用を確信しました。試験の結果は合否にかかわらず11月末までに通知すると言うことでした。ところがその日になっても通知は来ませんでした。メールで問い合わせをすると「いま、富塚さんの結果について調査しています」などという要領を得ない返事が来ました。面接の感触もよかっただけに残念でした。まあ、こういうこともあるのでしょう。結局別の人に決まったと言うことでした。
 私立の2校目として10月中旬に別の中高一貫校の採用試験を受けました。書類選考をクリアし、2次試験で専門の社会科についての筆記試験を受けると次のようなメールがきました。「慎重に検討しました結果、富塚様にはぜひ次の選考にお進みいただきたくご連絡を差し上げました」。次の3次試験では「模擬授業」を行いました。私は国際政治をテーマに授業を準備しました。「国際政治において現在では『世界政府』は存在しませんが、世界が一つとなる『世界政府』が成立する可能性はあるでしょうか」と生徒役のその学校の3人の先生方に問いかけました。私は「現状ではとても難しいけれども、可能性ないとは言えない。それは宇宙人が攻めてきた時です。宇宙人が攻めてきたら「米中」が対立している場合ではありません。地球防衛軍ができて『世界政府』ができるでしょう」と言う授業を行いました。数日後次のメールがきました。「慎重に選考を重ねました結果、今回は富塚様の採用を見送ることとなりました。末筆ではございますが、富塚様の今後のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます」。いわゆるお祈りメールがきました。宇宙人が来るという模擬授業がまずかったのでしょうか。
 さて、その学校の採用試験とほぼ同じ10月中旬に東京都の「非常勤教員」の試験を受けました。一次試験の小論文試験を経て、二次試験の面接に進み、1月末にその選考試験の合格通知を手にすることができました。2022年4月からは今とは違う高校で「非常勤教員」として勤務できることになりました。
 ところで、都立の「非常勤教員」の合格発表の前に、ある大学の附属高校の「非常勤講師」の求人があることを知りました。都立の「非常勤教員」とその学校の「非常勤講師」の兼業も可能です。その大学の附属高校には将来の日本社会をリードしていく優秀な生徒が集まっています。私はダメ元で「記念受験」をすることにしました。そして「自分の専門領域を活かして、どのような授業を実施したいか」と言う課題作文にそれなりに気合いを入れて取り組みました。書類を提出してしばらくして次のような第一次選考の結果が届きました。
 「この度は本校公民科の非常勤講師採用にご応募いただき、誠にありがとうございました。慎重に審議を重ねた結果、貴意に添いかねる結果となりました。どうかご理解下さい」。
 さて、私が落ちた大学の附属高校は一体どこでしょう。その大学の頭文字は・・・“W”です。「憧れの『学院』で授業をやってみたかったなあ」。ということで、今回のエッセイは文字通り「オチ」で締めくくることになったのでした。

 

                                       


 



安物買いでボケ防止

加藤 厚夫  2022.2.26 

 「娘来る あれもこれもだ 早よ隠せ」のようなサラリーマン川柳があったと思う。全く我が家を皮肉って読んでいるようだ。毎月横浜から末娘が旦那の運転で、孫二人を連れやって来るその有様を読んでいるのだ。家にある醬油・砂糖・みりん・油から洗剤に至るまでいつも根こそぎ持って帰ってしまう。補充が大変で毎週水曜や土曜のスーパーオトリ商品の広告を調べ走り回るしかない。いつも頼まれるのが日ハムの酢豚298円が198円、クノールスープ278円が198円でその日を狙って買いにいく。同じものなら毎日この値段で売ってよと言いたくなる。
 少額年金者になってからは食料品や日用品しか買わなくなった。現役時代はボーナスが出ると電化製品や背広など必ず買いに行ったものだが、いまや欲しくてもダイソンにも手が出ない。おかげで安い日用品でも吟味して買う習慣が身についてしまった。
 その低額品でもいいものがけっこうある。まずライフのグンゼ半額セールで買った2千円のボディワイルドの冬用スウエットだ。いままで入浴後震えて過ごしていたのがウソのように暖かくおまけに快適に寝られるようになった。もう一品はアコレで見つけたUSBミニスピーカーというやつだ。値札550円とあるからホンマかいなと、メガネをかけ箱の説明書をじっくりと読んでみた。ただパソコンのイヤホンジャックに差せばよく電源は不要とある。こんなに安いスピーカーが世に存在するものかとさらに疑ったが昼飯より安いしと思い奮発した。帰って早速パソコンにつなぎYouTubeの香林坊ブルースを聴いて腰を抜かした。その音量たるや近所から苦情が出そうなほどである。
 こんな安物あさりをしていた矢先、自宅からチャリで15分の豊玉南にスーパーOKが開店した。生まれて初めて入るスーパーだから値段などは不明だ。とりあえず店内を一巡して全ての値段を見てみた。ほとんどの食品がいつも日を待って買いに行くオトリ商品と同じ値段で売っているのに驚いた。自分の頭には何がいくらかは全て入っているのですぐに判明した。今までオトリ商品を求め足り回った苦労は一体何だったのかあほらしくなる値付けである。最近食品メーカーが続々と値上げの発表をしている。極端なのが日清オイリオの食用油で、特売158円だったのが390円に値上がりした。
 たったの100円安いのを買うためにさまようなら、よっぽど飲み代を減らせばいいものをといつも言われるが、カラオケ自体も安物あさり同様ボケ防止に有効であることは医学的に証明されている。


                                       


 



三々会

古内 啓毅  2022・2・26

 私は1958年(昭和33年)3月、東北の片田舎の高校を卒業し、以来馬齢を重ねこの3月で64年になる。高校卒業の同期生と東京で顔を合わせる機会は少なく、あるのは東京での同窓会程度である。が、その同窓会への同期生の出席者は少なくほんの数名程度である。あるとき、同期生だけで集まろうという話になりお互いに声かけをしたところ賛同者が10数人となり、2009年(平成21年)7月に初めての同期会開催となった。昭和33年3月卒業というところから名称を「三々会」として毎年3月3日に開催することになった。場所は銀座の中華やさんの個室を予約し、2019年(平成31年)まで11回を重ねることになった。しかし残念ながらコロナ禍により2020年、2021年の開催は断念。その上馴染みになった中華やさんがコロナの影響で閉店となってしまった。2021年暮れに向かいコロナ禍に好転の兆しが見え、来年は何とか開催できるのではないかと期待していたが強敵オミクロン株の出現である。やむなく2022年も開催を断念し3年連続の休会となった。現在、メンバーは亡くなった人、体調整わず出席叶わなくなった人をのぞいて15名となっている。小生が世話人となって連絡を取り合っているが、最近では、3月3日にこだわらず、開催できる条件がそろい次第開催してほしいとの意見が大勢である。
 ご承知のように、コロナウイルス感染症は、2019年12月初旬に、中国の武漢市で第1例目の感染者が報告されてから、わずか数カ月ほどの間にパンデミックと言われる世界的な流行となった。我が国では2020年1月6日に中国武漢市から帰国した人が1月15日、日本国内最初の新型コロナウィルス感染者と確認された。以来コロナ禍は拡大し続け、直近の世界の感染者はおよそ4億3千万人、死者590万人余り、我が国の感染者は470万人余り、死者2万3千人余りというかって経験したことのないすさまじい状況にある。コロナウイルス感染症のパンデミックは私たちが思っていたよりもはるかに厄介で、いわゆる専門家とよばれる人たちですらその終息を見通すことができないでいる。しかも新たに既存のオミクロンよりも感染力が強いとされているステルスオミクロンなるものが現出し市中感染が広がっているという。加えてコロナ禍とは直接の関りはないが、プーチン・ロシアのウクライナ侵攻というとんでもないニュースが飛び込んできて世界は、人々の苛立ちで溢れ、誠に生きにくい時代になってきている。
 コロナ禍が始まって2年余り、同期会もさることながら、毎年少なくとも一度は訪れていた故郷もすっかり遠くなってしまい、義理を欠くばかりである。定期的に行っていた食事会、懇談など、気ままに声をかけあい集う仲間との会食など、何れも開かれずすっかり疎遠になってしまった。なすすべはないが、一日も早く昔のような日常に戻ってくれるようにひたすら祈るばかりである。


                                       


 



四季の記憶84「ホールの終焉」

鈴木 奎三郎   2022・1

 先日の新聞に、神田神保町にある「岩波ホール」が7月末で閉館するという記事が出ていた。1968年にオープンした220名のミニシアターの先駆者としてとしての使命を果たしてきた。内外の名作を紹介する「エキプドシネマ」(映画の仲間)の拠点として、商業ベースに乗りにくい良質な作品を上演してきたが、ご多分に漏れずコロナ禍の影響での閉館となるそうだ。昭和40年代の現役のころも含めて、年に3,4回は通った。他の映画館ではやっていなし希少な作品を見ることができた。今でも季刊で送られてくる冊子には主に海外の商業ベースに乗りにくい映画が紹介されている。

 ここで長らく総支配人として活躍し、同時に「東京国際女性映画祭」のゼネラルプロデユーサーも務めてきたのが高野悦子さんである。83才、2013年に亡くなったので、もうそろそろ10年近くになる。
 お目にかかったキッカケは多分この映画祭の件であったと思う。企企業メセナ協議会理事長の福原義春さんの紹介でお目にかかったのが最初だったように思う。書棚に著書「私のシネマ宣言」(朝日新聞社)がある。1992年の出版であるから、もう20年になる。若くしてフランスにわたり映画監督の修行に励んだそうである。あとがきには「「私のシネマ宣言」は、私が女性であり、映画人であり、日本人であり、アジア人であって世界人となる内発的発展論を実践する宣言であり・・」と書いて、映画への限りなき愛を語っている。映画に生き映画にささげた思いがあふれている。笑うと少女のようなあどけない笑顔が印象的であった。

 お寿司が好きで、銀座の「久兵衛」によくご一緒した。この時によく連れてきた人が島森路子さんである。高野さんと島森さんの接点は知らない。島森さんは1979年、天野祐吉さんが創刊した「広告批評」の編集長として活躍し、同時にテレビにも出演するなど秋田出身の美人タレントとして有名だった。「広告のなかの女たち」「夜中の赤鉛筆」などの著書もある。1995年10月から翌年2月にかけ毎日新聞学芸欄で79回の連載となった「銀座物語~福原義春と資生堂文化」を執筆した。これはのちに単行本となったが、時あたかも企業文化・・が言われている折から、この種の本としてはそこそこ売れたそうである。
 島森さんも、高野さんと同じ2013年に亡くなった。

 
 お茶の水駅から歩いて数分。明治大学のはす前に、かつて「カザルスホール」があった。1987年、主婦の友社ビルに室内楽の殿堂として創られたこのホールには巨大なパイプオルガンが設置され、スペインのチェロ奏者パブロ・カザルスの名を冠したホールが設置されていた。80年代から90年代にかけて、国内外の多くの世界的演奏家がリサイタルを開いた。この開設者でプロデユーサーとした活躍したのが萩元晴彦さんである。

 萩元さんはテレビ草創期の名プロデュサーとして、TBSテレビで「小澤征爾、第九を振る」などの記憶に残る名番組を生み出し、テレビ界の先駆者として活躍したが、1970年にテレビマンユニオンを結成、番組制作会社の雄として今日に至っている。NHKの現在の人気番組「サラメシ」の制作会社として、開始以来高い視聴率を維持している。
 昭和50年ころ、会社としてミュージカルに挑戦しようという機運が盛り上がり、萩元さんに相談に行った。これといういい知恵もなく強行した「ぬかた」という劇画をベースにしたミュージカルは、青井洋治演出の2時間のもので、渋谷の「パルコ」で2か月ほど上演した。内容もさることながらチケットが売れず、5割以下の日がほとんどで、新聞でも酷評され散々な目にあった。

 しかしこの失敗は、その後の資生堂カルチャースぺシャル「レミゼラブル」「映像の交響楽・ナポレオン」など本格的な文化イベントの展開に繋がっていった。その後カザルスホールは、2003年日本大学の所有となり、萩元さんは2001年に亡くなった。69才だった。
 古書店や楽器店も多くあり、文化の香りの高い神田神保町界隈。岩波ホールが閉館すると、街のたたずまいも変わっていくのだろうか。時の流れは街も人も記憶もすべてのものを変えて、とどまることを知らない。


                                       


 



業界の世の中での存在感

田原 亞彦    2022.2.26

 私は2000年の退職まで証券会社に所属していた。退職後は、陶芸を中心に古代史の研究等の趣味の世界で過ごしてきた。社会との繋がりとして仕事関係は無くなったが、練馬稲門会初め趣味の活動・会合や小学から高校までの各クラス会などスケジユ-ルは結構豊富」で退屈しない。
 数年まえに、入社して間もない頃配属された大支店のOB会が大阪であり出席した。ヘッドは、前東証副理事長、会社の前社長で25人ぐらい男性だけで開催された。順番の挨拶の時私は「500人規模の大学のOB会に所属して色々な経験者と交流していること、この20年ぐらいの中で最近特に感じることは、証券界のみならず金融界全体の社会的評価、存在感が低下している」旨の発言をした。その理由などは話さなかった。釈迦に説法だが、バルブ崩壊後の長期の超低金利時代、低成長による資金需要の低迷、企業の自己資金、内部留保の拡充などがあろうか、何よりも、日本、日本人の新しい物事への挑戦力の欠如が挙げられる。新しい事業の創造力が足りないのだろう。情報化社会への取り組みでこの30年に各国の国力に大きな格差が付いた。日本には、GAFAMは育たなかった。会合終了の時、前社長が私に握手をしに来てくれた。この人は常務の頃か、私の母の練馬の自宅での葬儀に来てくれた。昭和60年の事である。
 もう一つ気になるのは、他人の呼び方の事である。特に職域での呼び方である。英語圏では、「I」と「You」で総括されているのだろうか。神や仏など絶対者の前では人は平等な存在なのだろうか。そう言えば宗教の世界では自他の呼称は他の世界と少し異なるように思える。
 私の場合、その時の時代にもよるが、若い頃は、呼び捨て、君呼び、或いは「お前」などと呼ばれていた。いわゆる上の人は昔では普通威張っていて威圧的な態度の人が多かったと思う。今でいえばセクハラになりかねない言動も多かった。現代よりも江戸時代の武家社会の方が人の呼称ではスマートだったように思う。その後、徐々に職場の上下関係、ジェンダー関係なしにオールOOさん付けの呼び方が拡大したように思う。私個人的には自分の仲間を「部下」と言ったことはない。


                                       


 



梅むすめ

照山 忠利  2022.2.26

 水戸の梅まつりの歴史は古い。1896(明治29)年に上野―水戸間の鉄道開通を記念して始められたまつりは今年で126回を数える。水戸偕楽園は第9代藩主の徳川斉昭(烈公)が天保時代に領民の休養の場所として開園した。今は日本三名園の一つとなっている。園内には100品種、約3000本の梅が植えられ、毎年2月から3月にかけて梅まつりが開かれ、この期間中は常磐線の特急も「偕楽園駅」に臨時停車するなど多くの人出で賑わう。
 この梅まつりのPR役として作られたのが「梅むすめ」の制度。昭和38年の創設というからすでに60年近くたっている。現在は梅まつりばかりでなく水戸の観光PRスタッフ
として活動するので「梅大使」と改称されている。男性にも門戸は開かれているが、これまでに男性が選ばれた例はないという。毎年、近郷近在の器量よしが10名ほど公募で選ばれる。地元紙は写真付きでこれを報じている。なにせ茨城県はこのところ魅力度ランキングで最下位に甘んじているから彼女たちの責任も大といわねばならない。
 私の実家は水戸から鉄道で30分の日立市で、ここに先祖代々380年の暮らしを営んできた。そんな古い村落から初代梅むすめの一人に選ばれたのが邦子ちゃんである。私より2年
上だが一緒に遊んだ記憶はない。高校卒業と同時に故郷を離れたので、邦子ちゃんのことはすっかり忘れていた。祖母の一周忌に帰省した際の席が設けられたのが「割烹和楽」。そこの敷居を跨ごうとしたとき、「あら、ただちゃん、久しぶりねえ」と着物姿の女将さんに声をかけられた。歌手の長山洋子に似た細面の美人だが思い出せない。横の弟に「誰だ?」ときいたら「梅むすめの邦子ちゃんだっぺよー」。
 それ以来親族の一周忌、三回忌の度ごとに「和楽」を常宿としているので邦子ちゃんとは何度も対面することとなった。祖母から始まり父、母、叔父、叔母、そしてあろうことか弟の三回忌まで都合12回に及んでいる。邦子ちゃんの店では当家の法事となると夫婦とも格別に力が入るのか、これでもかというほど料理が出てくる。とても1時間余では食べきれない。余った料理は折に詰めて持ち帰るのが仕来りとかで、傷む心配のないものを包んで帰ることになる。中でも白いんげんのおこわに、甘く煮込んだあぶらげ、蒟蒻と椎茸の煮しめなどは昔懐かしい田舎の味で、家族にも好評である。家に帰ったらそれを広げて一杯飲みなおしながら故人を偲ぶのを習わしとしてきた。
 「和楽」も日立製作所の好景気の時分は接待等でかなり潤ったらしいが、最近では社用族もいなくなり、暖簾を守るのも大変のようだ。二十畳の座敷や和式トイレの改修にも手が回りかねている。それだけにたまの法事が入ると俄然張り切るのだろう。「梅むすめ」のサービス精神が蘇るのかもしれない。でももう邦子ちゃんにお世話になることはたぶんないだろう。実家の関係者で私より先に亡くなる者はいないし、第一「梅むすめの邦子ちゃん」も寄る年波には勝てないはずだから。
(了)

                                       


 



負けず嫌い

鳥谷 靖子  令和四年二月 

 幼き頃。お腹がすくと泣き、嬉しいと笑うだけの、平和な日々。小学生になって、正月休み、兄弟としたトランプ。必ず負けてしまう。悔しい気持ちが残る。「私、もうトランプしない」宣言。学校でも腕力の強い子や運動能力の優れている子が幅を利かせ、そうでない子供の肩身を狭くさせた。中学・高校時代は、学力や親の財力で卒業後の進路が決まる。否応無しに、負けず嫌いの気持ちを経験しなければならない。
 誰もが持っている気質と思うが、自分に向かって努力するなら、いつの日か、花開く人もいる。
 北京オリンピックが、テレビで放映されていた。女子フイギュアの樋口若葉さんが銀盤を華麗に舞う姿を見た。四年前、(オリンピックの)選考に漏れ、友の活躍を家で見守るしかなかった。悔し涙を猛練習の汗に変え、流し、実を結ばせた。
 人生、色々な苦難に出会い、絶望の淵に立たされる時が数回訪れる。そんな時、「負けない」と、自分自身に言い聞かせる。「明日、考えよう」と開き直るのだ。夜が明けると、見えてくる新たな光。挫折に勝った精神力は、自信となり、向上心に繋がる。次の目標への、原動力となる。
 この気持ちを他人に向ける人もいる。嫉妬心を燃やし、嘘や陥れをする冷酷な人間となる。十代後半、そんな女性に会った。恵まれた境遇に生まれながら、友に対し何一つ負けないと振舞った。
 終着駅が見える様になり、人間関係に「まあ、いいか」と「負けを気楽」と思える余裕も生まれた。細やかな目標を立て、自身では、負けず嫌いになりたいと願う。
 無垢だった幼児の頃に戻って、笑ったり、時に、泣きながら、周囲の人と、穏やかに交わって、過ごしたいものだ。