練馬稲門会 エッセイ同好会12月度(第108回)報告

今年も残すところ2週間。師走の忙しいさなかにもかかわらず17名のエッセイストが作品を携えて集合、力作を発表した。概要は次の通り。

日時  2022.12.17(土)14:30~17:00
場所  生涯学習センター第2教室

出席者と作品(17名、敬称略)
  石田真理  梅の話
  岡本龍蔵  ある日の通院風景
  加藤厚夫  信州峠越え
  小林大輔  ボケの進行
  小林康昭  言葉様々
  鈴木奎三郎 四季の記憶 今年のシネマ
  高橋正英  宝くじの話
  谷川 亘  “らしく”生きる
  寺村久義  別居
  照山忠利  こんなはずでは
  富塚 昇  教室点描-歌のある授業の話
  鳥谷靖子  命を納める
  華岡正泰  墓参りして
  古内啓毅  糟糠の妻
  星野 勢  ワセダキャンパス
  松本 誠  木造建築物の将来
  渡邊訓子  名前の話
  横山明美  貸間あり(作品参加)

連絡事項
・故柳洋子さん偲ぶ会 3月25日12時文化女子大食堂にて (出席希望者6名)
・新年行事 七福神巡り1月8日 新春の集い2月12日・・練稲Press 参照
・ニューイヤーコンサート 1月14日武蔵野音大ベートーヴェンホール(チケット完売)
・練稲Press No.14発行 12/22発送予定 エッセイ同好会紹介記事掲載あり
・第45回練馬稲門会総会 7月9日(日)リーガロイヤルホテル
 (エッセイ同好会例会を同日大学関連施設で開催、終了後総会出席を計画中)

次回は2月開催予定であるが日時、場所未確定なので別途連絡のこととする。

(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会10月度(第107回)報告

秋日和の好天に恵まれた日、金木犀の香る中を15名の会員が集い力作の発表を行った。発表作品に対する質問や感想などが飛び交い活発で有意義な例会となった。概要は次のとおり。

日時  2022.10.22(土)14:30~17:00
場所  石神井公園区民交流センター会議室

出席者及び作品(敬称略)
  石田真理  絵解き(えとき)を聞く
  岡本龍蔵  童謡「夕焼け小焼け」と中村雨紅と私
  加藤厚夫  寺社奉行
  小林 士  うなぎの効用
  小林大輔  左ヒザの痛み
  小林康昭  やさしい日本語
  鈴木奎三郎 四季の記憶88 金木犀
  高橋正英  ヘリオトロープ
  寺村久義  運
  照山忠利  産業遺産情報センター
  富塚 昇  私のこれまでの「部活」とこれからの「部活」
  鳥谷靖子  赤い自転車
  古内啓毅  転ばぬ先の杖
  松本 誠  シルバー人材センターのこと
  渡邊訓子  酒と恋とハプニング

連絡事項 (抜粋)
柳洋子さんご逝去の件
当会創立以来のメンバーで会の発展に尽力された柳洋子さん(87)が10/10脳梗塞のため永眠された。会として供花(寺村様手配)と弔電の対応を行った。

次回予定 12月17日生涯学習センターにて開催、終了後忘年会(有志)を行いたい。

(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会8月度(第106回)報告

お盆の時期が過ぎ多少しのぎやすくなったとはいえ、コロナ感染者は東京都で2万5千人超と依然高止まりが続いている中、感染防止に注意を払いながら17名の元気な面々が作品を携えて集合し発表を行った。概要は次の通り。

日時   2022.8.20(土)14:30~16:30
場所   生涯学習センター第2教室

出席者と作品(敬称略 17名)
  石田真理  お経の不思議な話
  加藤厚夫  有名企業三社の理念
  小林 士  天皇陛下のお写真
  小林大輔  志ん吉さんの出世、真打ち・志ん雀さんへ
  小林康昭  八月のジャーナリスト
  坂本 成  ツボウ君の話
  鈴木奎三郎 四季の記憶87 映画「PLAN 75」
  高橋正英  万年筆のこと
  寺村久義  人生100年
  照山忠利  緊急入院
  富塚 昇  館山をめぐる二つの思い出
  鳥谷靖子  女の品格
  古内啓毅  雷三日
  星野 勢  早稲田界隈
  松本 誠  福島原発の見学
  横山明美  電話
  渡邊訓子  多摩センター 2022〈初夏〉・・初参加

特記事項
  今回から渡邊訓子さんが新会員に加わり発表を行った。
  次回例会は10月22日(土)14:30 石神井公園区民交流センター第3会議室。

(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会6月度(第105回)報告

梅雨の中休みで好天に恵まれたこの日、高齢者も含め17名が元気に会場に足を運び力作を発表した。その概要は次の通り。

日時  2022.6.18(土) 14:30~16:40
場所  生涯学習センター第2教室

出席者と作品(17名、敬称略)
  石田真理  遺産相続の不思議な話
  岡本龍蔵  最近ちょっと気になることども【閑話休題】
  加藤厚夫  危うきに近寄るとは
  小林大輔  南水 ひとり語り
  坂本 成  陽と径を辿る
  鈴木奎三郎 四季の記憶86 牛に引かれて・・
  髙橋正英  ラッキョウを漬ける
  谷川 亘  時に、安堵の涙した
  寺村久義  プーチンの戦争
  照山忠利  紫陽花と消防団
  富塚 昇  ある花嫁の父の話
  鳥谷靖子  新しい世界
  華岡正泰  関博之さんの一周忌に
  古内啓毅  ふるさとの山
  星野 勢  カラオケ解禁
  松本 誠  ダウン症の我が孫
  横山明美  笑うトナカイ
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会4月度(第104回)報告

穏やかな陽春の一日、葉桜をなでるそよ風に誘われて旧臘以来の対面での例会を開催、17名が元気に集合し自信作を発表した。概要は下記の通り。

日時  2022.4.16(土)14:30~17:00
場所  生涯学習センター第2教室

出席者及び発表作品
  石田真理   ラーメンに目覚めた日
  岡本龍蔵   幻となった提案書
  加藤厚夫   蛇の道は蛇
  小林 士   気象予報士と液晶画面
  小林大輔   6月の朗読会
  小林康昭   ウクライナの教訓
  坂本 成   ときわ荘訪問記
  髙橋正英   成人年齢の引き下げに思うこと
  谷川 亘   Eye to Eye & Face to Face
  寺村久義   ウクライナ
  照山忠利   妖精の棲む家
  富塚 昇   上水高校での最後の授業で生徒に教わったこと、そしてこれから
  鳥谷靖子   黄色のクロッカス
  古内啓毅   ガーデニング
  星野 勢   ある先輩の死
  松本 誠   CBDって知ってる?
  横山明美   みつまめ
  鈴木奎三郎  四季の記憶85 石神井風景(作品参加)
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会2月度(第103回)報告

2月26日にエッセイ同好会の例会を開催する予定でしたが、コロナ感染状況が改善せずまん延防止等重点措置が継続されていたため対面での開催を取りやめメールにて作品を募集しました。

  鈴木奎三郎 四季の記憶84「ホールの終焉」
  田原亞彦  業界の世の中での存在感
  加藤厚夫  やすもの買いでボケ防止
  谷川 亘  物にはすべからく耐用年数あり
  富塚 昇  人生二回目の就活
  古内啓毅  三々会
  小林康昭  ボロニューの杜の館の宴
  髙橋正英  短波放送の話
  鳥谷靖子  負けず嫌い
  横山明美  この節デパートの午後
  照山忠利  梅むすめ
(照山忠利)




 



こんなはずでは

照山 忠利  2022.12.17

 このごろ階段を上ったりすると息切れするようになった。マスクを着けているとなおさらだ。以前はこんなことはなかったのに、心肺機能が低下してきたのだろう。そういえば何年か前までは容易にできていたことが容易ではなくなってきた。できることはできるが、時間がかかったり実行に苦痛や困難が伴うことが多い。例えば資料や文書の作成に思わぬ時間を要する、農園での作業に足腰の苦痛が伴う、何年か前まではできていた朝のラジオ体操や縄跳びなどもおっくうになって省略することが多い。電車の中でディスプレイに流れる文章もすべて読み終える前に画面が切り替わってしまう。スピードについていけないのだ。現役時代は忙しい合間を縫ってかなりの本を読んでいたがこのところ酒は飲んでも読書はめっきり減ってしまった。考えてみればこの11月で後期高齢者(75歳)の仲間入りをした。普段付き合っている人たちは同世代が多いので、仲間内ではさほど気にならないが、世代の下の人たちからすればまぎれもなく爺さんに見えるに違いない。「こんなはずではなかった」という事象が増えてくることがなんとも悔しい。
 いま「人生100年時代」というフレーズがよく使われる。12月になり「喪中につき新年のご挨拶は・・」というはがきが来るようになったが、その中には「母が102歳で永眠しました」などと100歳超で亡くなった方のものが少なからずある。以前は100歳というと「へえーチョー長生き!」と驚いたものだが、近頃はさほど珍しい例ではなくなった。やはり人生100年時代が現実になってきたのだろう。
 だが100年生きるとしても、他人の世話にならずにすむ「健康寿命」はどうなのか。統計によると平均寿命と健康寿命の差は概ね10年程度あるという。つまり90歳まで生きられたとしても80歳からの最後の10年間は誰かの介護のお世話になっているのが現実ということだ。しかもこの期間を認知症の状態で過ごすことになるのはなんともやるせない。
 ではどうすればいいのか。巷間言われることは「適度な運動」、「バランスの良い食事」、「社会的つながりの保持」を心がけることだそうだ。無理にスピードを求めず、スローライフでいけばよい。ゴルフだって月一ゴルフで100切りをキープすることにこだわることはない。ビギナーに戻ったと思えば気も休まるだろう。つまり年齢相応にできることを積み重ねていくことが肝心だ。アンチエイジングなどと力むことも不要というもの。でも人は誰でも健康な生涯を全うしたいと願っている。できれば健康寿命が自分の寿命であってほしい。それには「健やかに老いる」という発想があっていい。女性の場合はさらに「美しく老いたい」という願望があるだろう。もちろん外見だけでなく内面的な美しさを合わせてのことだ。人生の最後に「オレの人生こんなはずではなかった」と臍を嚙むことのない生き方を探っていきたい。これまでの人生がたとえ「こんなはずでは」というものであったとしても、残された余生を充実させることによって「いい人生だった」と思えるようにしたいものだ。
 そんなことを考えながら、主宰するNPO法人「成年後見のぞみ会」は来春3月、老年学の第一人者である筑波大学教授の山田実先生に「人生100年時代 健やかに美しく老いる」とのテーマで講演頂く企画を立てた(3/18ココネリホール)。山田先生には2年連続の登壇をお願いすることになる。前回の講演が大変好評だったためである。世の高齢者に希望をもたらすような社会貢献をしたいと思っている。
(了)


                                       


 



命を納める

鳥谷 靖子  令和4年12月17日 

 毎朝リビングルームのカーテンを開け、小さな庭を眺める。
 時間に余裕が出来た頃から季節の草花を育て、花の開花が日々の喜びとなっている。真冬の凍り付いた地面から芽を出したクロッカスが、黄色や紫色の花を咲かせると植物の持つ生命力の強さを感じる。春になると庭一面にパンジー、ストック桜草が咲き乱れる。そんな花々も5月になると枯れ、土に同化する。
 人間は植物の様にはいかない。
 11月中旬の夕刻、買い物から帰ると携帯が鳴った。「お宅のアパートの二階の部屋から物音が全くしなくなり、窓辺にハエが飛んでおかしいからと、下の部屋の方から電話がありました。電話を掛けても繋がらないので光が丘警察に電話を掛けます。大家さんもすぐいらして下さい」。と仲介の不動産屋からの電話だった。日も暮れて暗くなる中、近所に住む息子の車でアパートに急いだ。
 間もなく消防隊員と警察がその部屋に入ると、「亡くなって数週間たっています」。消防隊員は現場を見て担架を持って、早々に引き上げた。3人の若い警察官が遺体の確認と搬出を一手に引き受けてくれた。外で待つ事3時間。警察の方の黙々と働く姿に脱帽するばかりだった。亡くなったのは、元自衛官で脳梗塞の発作で命を落としたらしい。部屋の中央に置かれていた自衛官時代の正帽。繰り返し見ていただろう戦記物のビデオテープの数々。十数年滞る事無く支払われた家賃。孤高の人だったのだ。60代で自分の命が突然終わりを迎えるなど予測出来るはずもない。故人に罪はないが、私の様な関係者にとって災難な出来事となってしまう。
 12月になると春先に植えた花々が寒さで枯れてしまう。植物には命に順番がある。人間は自分の終わりを自身で決める事が出来ない。「立つ鳥跡を濁さず」の諺を胸に留め日一日、生ある喜びを享受しながら過ごしていきたい。


                                       


 



糟糠の妻

古内 啓毅  2022・12・17

 12月生まれの我が女房どの、先日、めでたく80歳の傘寿を迎えました。厚労省が9月に発表した2021年分の平均寿命を見ますと、コロナウイルス感染症などの死亡率が寿命を縮める方向に働いた模様で、前年比若干下回り、男81.47年、女87.57年でした。女87.57年から見ますと80歳越えはめでたくないようにも見えますが、一つの区切りであり、家族が寄り合い祝うことにしました。家族の祝いごとは我が家でのホームパーテイとすることが多いのですが、今回は母親の傘寿ということで娘たちがお店を予約し外での宴となりました。
 
 これで夫婦の年齢はともに80歳台になりますが、人生100年時代といわれる中で、これからどう生きていくのか。100歳までは無理としましても、せめて厚労省発表の80歳の平均余命、男9.42年、女12.28年を残された時間としていかに過ごしていくのかを考えて行きたいと思います。

 その昔、高校時代の恩師を訪ねた際に先生から、中国に、「糟糠の妻は堂より下さず」という言葉があるが知っているか、と問われ、「知りません」と答えると、この言葉の由来を説明され、要は、奥さんを大事にしろということだ、という趣旨のお話を伺いました。

 「糟糠の妻」とは「酒かすや米ぬかしか食べられなかったような貧しいころから、連れ添って苦労を共にしてきた妻」ということですが、地位があがったり財産が増えたりしても貧賤の交わりは忘れてはいけない、苦労を共にした妻を表座敷から追い出すなんてことはしてはならないない、という意味合いです。
 
 私どもは結婚して58年、これまでよく持ちこたえてきたものです。この間、私は会社の仕事中心で、65歳でリタイアするまで、女房が家事全般、育児、子供の教育などを担ってきました。家を預かるものとしては相当な苦労だったと思います。

 私は、私のリタイア待っていたかのように、持病の腰痛が悪化し、一年の間に頸椎狭窄症、腰部分離・すべり症という二度にわたる大手術を行う羽目になりました。これにより、描いていたリタイア後の生活設計が大きく変わることとなりました。楽しみにしてゴルフ三昧もなくなりました。

 ともあれ、これからは残された時間、人生は楽しいものだと思っていける世界になってほしいと願いつつ、家族の絆を大事にし老妻ともども恙ない日々を送ってまいりたいものです。


                                       


 



名前の話

渡邊 訓子  2022/12/17 

 私の名前は「のりこ」という。「訓子」と書いて「のりこ」だ。
 「自分の名前が好きですか」と聞かれたら、どう答えたらよいか、少し考えてしまう。思い返すと、幼いころは「嫌い」だった。その理由は、あまりにもありふれた名前であるし、当てた漢字が読みにくいからだ。「名前、どう読むんですか?」と聞かれることは、初対面の人とのお約束のやりとりだ。また、高校時代のある教師は「くにこさん」と呼び続けていたが、面倒なのでそのままにしていた。この名前、実は親が付けたわけではない。まだ存命だった祖父が、初孫の誕生を喜び、近所に住む高僧に頼んで付けてもらったのだ。いかにもお坊さんが好きそうな名前だ。「訓」には、「教える」「諭す」という意味がある。私が教師という職業についたのも、名前に導かれたのかもしれない。そう考えると、さすが高僧。あなどれない。子どものころ、母は言った。「私は『未央(みお)』っていう名前がつけたかったのよ」。おぉ、白居易の長恨歌に出てくる、宮殿の名ではないですか。そっちの方がずっと良かった。子どもの頃の私は、この世に存在していたかもしれない「未央ちゃん」の姿を時折想像しては楽しんでいた。彼女は私より明るく、で、愛らしく、キラキラした女の子であった。
 中学生だったとき、「のりこ」さんは学年に私を入れて5人いた。「典子」「紀子」「則子」「法子」、そして「訓子」。同級生たちは「のりちゃん」と呼ぶと5人が一斉に振り向いてしまうので、様々なアレンジやバリエーションをもたせてあだ名をつけた。「のりちゃん」「のりっこ」「のり」、名字の方をとって「しばっちゃん」。私は「ののちゃん」と呼ばれていた。
 あの頃の私は、思春期特有の外見コンプレックスがあり、自身の傷つきやすい心を様々なものでカバーしたいと思っていた。ファッション、知性、おしゃれ、彼氏・・・・・・。名前を変えたいと思ったのも、その一環だ。もっと女性らしい、華やかな名前ならば、名前が文字通り私に花を添え、もう少し自分に自信がもてるのではないかと思ったのだ。「じゃあ、どんな名前がいいのよ」と、当時、今の私より10歳以上も若い母が私に尋ねた。「たとえば、花の名前。『桜』とか『百合』とか。あと、『美しい』って字が入っている名前」。訴える私に、終始、母はあきれた顔をしていた。振り返れば、両親ともども、女性の「美しさ」というものの価値を、あまり過大評価していない人たちであった。私には「実加(みか)」と「真由実(まゆみ)」という二人の妹がいるのだが、彼女たちの名前にも「美しい」という字は入っていない。
 昔、「カツトシ」という名前の男の子と付き合ったことがある。ある時、その子が言った。「『のりこ』って名前はいい名前だね」。そうぉ。ありきたりで地味じゃない? 当時の私はそう答えたと思う。「いい名前だよ。すぐ『のりちゃん』って呼べるしさ。『のりちゃん』って言いやすいじゃない。俺の名前の『カツトシ』って言いにくいからさ。いつも名字で呼ばれてたよ」なるほど。そういう視点もあるのか。たしかに、高校時代から、親しくなるとすぐに名字から「のりちゃん」に呼び名が移行した。ほとんどの人が「今度から、なんて呼べばいいかな?」なんて聞かず、「のりちゃん」と呼んでくる。まぁ、そのぐらい「のりこ」はポピュラーな名前だったのだ。
 最近、友人たちとの連絡手段がLINEやメールを中心としたものになっているのだが、彼らはわざわざ「訓ちゃん」「訓子さん」と打ち込んでくる。長い間、読みづらく、私にはわずらわしいだけであったこの「訓子」という名前は、友人たちにとっては、私自身の存在に直結するものになっているらしい。「訓子」は変換してすぐ出てくる名前ではない。彼らはわざわざその文字を探し、打ち出しているのだ。そう考えると、友人たちは、私以上に、私の名前を大切にしているのだなぁと思う。
 私の名前は、もう私だけのものではなく、私の周りで共に生きる、私の愛しい人たちのものでもあるのなら、もっとこの「訓子」という名前を大切にしようと思った。


                                       






木造建築物の将来

松本 誠  2022年12月17日

私は早稲田商学部出身ですが、縁あって建築・土木の世界に入り、社会人として基礎業界等の分野で活動をしてきました。従来はRC(鉄筋コンクリート),SRC(鉄筋・鉄骨コンクリート)造という建築が主流でした。高層ビルはそういう中で育ち、普及していきました。
ところが最近は木造のビルが少しづつ増えています。新国立競技場も木材使用の構造物。高さも40mを超えるもの、階高は12階とか14階などという従来は考えられなかった階高が完成しています。欧米ではすでに18階、20階建ての構造物ができている。
令和10年には東京・丸の内に高さ100mの木造ビルが計画されている。
木造が注目されてきたのには、どんな背景があるのか。
地球温暖化対策の一つとして二酸化炭素(CO2)等の排出を実質ゼロにする脱炭素化の流れにおいて木造建築が注目されている。鉄やコンクリートは製造するのに大量のCO2を排出するのに対し、木は生育中に二酸化炭素を吸収して、酸素を排出する。鉄筋や鉄骨では吸収されないのに対し、木材は炭素を長期間蓄積できる。さらにコンクリート以上の性能が実証されてきた。CLTといわれる直交集成板だ。切り出した板を繊維の方向を直交させて接着剤で固めた高性能材。高耐火性能もあり、平成22年に公共建築物に木材の使用を推奨する法律を、さらに令和3年には支援の対象を民間の建築物にも拡大。政府、自治体も木造建築の推進に舵を切ったといえる。
従来は輸入木材が安く国産木材の自給率も低かったが、この20年間で19%から41%に増加、国内の森林産業はますます重要になってきています。ただしその分野の労働人口は高齢化、重労働、賃金の安価から大きな問題となっている。こういう分野は外国人の労働も容認して産業として、植林、間伐、伐採、製材など森林サイクルの循環が必要です。
「ウッドショック」という言葉がある。オイルショックに似せて問題が大きくなっている。
新型コロナ禍でリモートワークが増え、またアメリカでは住宅需要が高まり、ウクライナ戦争で世界の木材輸出の20%を占めているロシアが木材輸出を制限し、世界的な木材価格の高騰となっている。最近国内の建築界では木材の供給不足から、建築費が高騰し、工期も伸ばさざるを得ない状況がある。従って直ぐ入居できる中古マンションが少し値上がり状況だ。私は現在練馬区シルバー人材センターに所属して庭木の剪定を主にやっていますが,お客さんの要望で木を伐採することもたまにあります。そういう時木の根元にお酒、塩、水をかけ長年ご苦労様でした、という御礼の簡単な礼をします。長い間、私たち人間の環境に貢献してくれたが、理由あって伐採という日時を迎えた木々に対する感謝の気持ちです。
木材の建築といえば、私が10数年取り組んでいる江戸城天守閣の再建も木造で再建し、日本の文化の集大成として施設内部は一部歴史博物館となるよう夢みています。
そして、将来世界遺産となり、東京の新名物、いや日本の世界に誇る木造建築物と文化の殿堂が実現できるように祈っています。


                                       


 



貸間あり

横山 明美   2022年 12月

 私が子供のころから、向かいの家には数年おきに違う人が、玄関を右に回った裏の座敷に住むようになっていた。その家の女の子は私と同じ小学校で、優秀な兄とかわいらしい弟、美しいがなんとなく親しみにくい母親がいた。昼間時々やってくる男性は税務署勤めの人で奥さんの知り合いらしい、と大人たちは言っていた。まるで申し合わせたように門柱があり松が寄りかかるように立っている近隣の佇まいだったが、その家には子供心に何とはなし曇天の日の鬱陶しさがあり、話し声も笑い声もめったと聞こえなかった。母とそこの奥さんとの間におかずのやり取りをするような近所付き合いはなく、生垣の向こうの台所の灯が消えると森閑としていた。
 その向かいの家へある日新しい間借り人がやってきた。東京電力の新人社員という。儚げな美しい奥さんを伴っていた。律儀に向かいの我が家に挨拶に見えたのだ。九州の出身で奥さんはさる名家のお嬢さんであり、「コスモスの君として憧れた人ととうとう結婚できたんです」とK氏はざっくばらんに話した。お風呂は家主に使わせてもらえず、さりとてお嬢様を近くの銭湯へ一人行かせるわけにもいかないようで、我が家の一番風呂を使ってもらうことになった。毎回コスモスの君も辛かったろう。その後K氏はどんどん出世をして最後は東電や電事連の役員になったが、手紙や電話での飾りのない人柄はそのままだった。コスモスの君はその後湘南に構えた家で夫より先に旅立ってしまった。

 次に来たのは朝日新聞の記者で、奥さんも垢ぬけた都会人だった。夫はサイドカーに時にカメラマンを乗せ大きな音をさせて毎日あちこちに出かけて行く。田舎では珍しい光景だった。二三年で東京に戻ると奥さんから母に電話があった。行動的でハンサムな夫はもてるらしく、その結果の相談らしい。私はそのころ東京に出ていたので母を迎え、池袋の喫茶店での身の上相談に同席することになった。そこにいる私が眼中にないほどの話し込みように、結婚というのもそう楽しいばかりではないらしい、と知ることになる。

 そのころ向かいの奥の部屋には次の朝日の記者が入っていた。この人はたまに帰省の折に顔が会っても夫婦ともふっくらと体格そのままに穏やかでゆったりしており、私などとも旧知のような口をきいてくれる。前任者より歳かさのせいもあったかもしれない。数年たって松本へ異動になったが、父もよほどそのご夫婦が気に入ったのか母や私もつれ、春休みの頃松本へ訪ねることになった。美ケ原の宿で懐かしく酌み交わした一夜の顔ぶれは、まるで映画の一場面のような取り合わせで、今になってもあのご夫婦はどうしているだろうか、と思い出したりする。一度ならず朝日俳壇で同じ名を見たことがあるが、そうだとしても何の不思議もない気がするのである。

 私の知る最後の貸間の住人は東京からやってきた高校の教師だった。早稲田の露文を出た都会育ちのぼんぼんらしく、上品な和服姿の母親が我が家まで挨拶にみえた。歩いて10分ほどの県立高校の国語の初任教師である。田舎のことで万事がのんびりしていたのか、彼は小説を書き始め、それは地元新聞紙上で連載小説として掲載された。地方では都会の“文化人”はもてるもので、彼は地元の名士となりいつも楽しそうだった。やがて私の二人の姉とのなんとはなしの付き合いがあったようだが、姉たちはそれぞれ別の人と家庭を持ち、彼は次に異動していった郡部の学校の教え子と後に結婚し、東京でビジネスマンになった。

 その向かいの家は、優秀な長男がT大を出てそのころ天下を睥睨していた重厚長大企業に就職し、医家の素敵なお嬢さんと結婚もしたらしい。一家はやがて家を処分して上京し、私たちももうその家族のだれとも会うことはなかった。
 住み方を選ぶほどの若さがあったら、私はぜひとも下宿や間借りをしてみたい、と今でも思っている。良くも悪くも、通り過ぎてきた時代の人々の面影が忘れられない。独りの愉しみも捨てがたいが、ごちゃごちゃと入り混じった人の渦が私は案外好きなのだと思う。

 

                                       


 



『梅の話』

石田 真理   2022年12月

 初夏に仕込んだ梅酒が、夏には飲めるようになったので、少しずつ飲んでいたが、だいぶ量が少なくなり、液体から梅たちが顔をのぞかせている。さて、梅酒にした梅の再利用は、どうしたものか。
 「梅酒の梅 レシピ」で、インターネット検索をした。梅ジャムにする。梅ゼリーにする。ドライフルーツにする。細かく刻んでドレッシングにする。いろんな変身方法があるものだ。なかなかだと思ったのが、めんつゆに漬けるというもので、簡単そうだからやってみた。
 材料は、梅酒の梅、10個。めんつゆ。水。かつおぶし。鍋にめんつゆを、かけつゆくらいに薄めた分量で火にかけ、その中に梅酒から取り出した梅を入れて沸騰させ、中火で10分ほど煮てアルコールを飛ばす。めんつゆの中に浮かんだ梅の実は水分を含み、得も言われぬ良い香りをはなつ。
 レシピではここに、かつおぶしを投入するのだが、残念なことに切らしていた。かつおぶしも加わったら、さらに良い香り生み出すのだろう。ほんのりアルコールと、梅と、昆布だしめんつゆの合わさった香りは、梅の実が素敵に変身していくさまを語っている。その姿を眺めている間に10分が過ぎ、鍋を火からおろした。粗熱が取れたら、梅とめんつゆを保存容器に入れて、2~3日漬け込めば出来上がり。さあ、どんな味になっていくのか。
 翌朝、冷蔵庫から保存瓶を取り出して眺める。まるで梅干しの姿だ。1つ取り出して味見した。梅酒としてアルコールと砂糖を含み、めんつゆでグツグツ煮られて進化を遂げた梅は、輝きと上品さを持ち、フルーティな存在になっていた。あともう1~2晩すると、より味が染み込み、深みを増すことだろう。梅は、冷蔵庫の中で、ロマンを描く。なんてすばらしい存在なのだ。


                                       


 



教室点描-歌のある授業の話

富塚 昇   2022年12月17日

 昔、若者に熱狂的に支持されたアーチストに尾崎豊という人がいた。今の高校生に尾崎豊を聞かせたら生徒はどんなふうに感じるだろうか。また、中島みゆきの「時代」を聞かせたら、おじさんの趣味にはついて行けないと思うだろうか。あるいは、槇原敬之を聞かせたらどうだろうか。
 「倫理」・「哲学」的な内容の授業を行うときに、生徒が寝ないようにするにはどうしたらよいかが大きな課題となる。そもそも哲学者や思想家の考え方を高校の教室で生徒に理解させるということはどのようなことなのだろうか。私が哲学者の考え方を学び、なぜ感動したり、面白いと思ったりするのであろうか。私が感動したり、面白いと思ったことをどうしたら生徒に伝えることができるだろうか。その答えがでる前に何はともあれ私は授業をしなければならない。
 さて、授業のテーマは次のようなことである。「そもそも、修証(修行と悟り)は一つではないと思っているのは、外道の見解である」。ということで鎌倉時代の僧である道元の思想を取り上げることになった。資料集にでている「修証一等」という言葉をどのように伝えたらいいだろうか。「正法眼蔵随聞記」の解説を少し読んだ程度の私がもっともらしく授業をしなければならなくなったのである。この「修証一等」ということはとてもいい言葉であると思うともに、自分としても感動した言葉である(内容を本当に理解しているかどうかは覚束ないのではあるが)。「修証一等」とは、修行した後に証としての悟りがある訳ではない。座禅の修行そのものが悟りそのものだという。このことについて何かを感じてもらうために、資料集を読ませるだけの授業では、生徒は間違いなく睡眠学習に入ってしまうだろう。
 そんな時に、苦し紛れに槇原敬之の歌を授業で聞かせることを思いついた。槇原敬之は「どんな時も」という曲でこんなふうに歌っている。「どんな時も、どんな時も迷い探し続ける日々が答えになることを、僕は知っているから」。迷い探し続けた先に答えがあのではない。迷い探し求めている日々そのものが答えになるというのである。この歌詞は「修証一等」につながるものがあるのではないだろうか。
 そして、今年も非常勤講師をしている某私立高校1年生の男子を相手に、道元の授業を行った。そして、「修証一等」のところで、ユーチューブの動画を流しながら、私も槇原敬之に合わせて声を出して一緒に歌った。ここで問題です。私が歌った時、生徒はどんな反応を示したでしょうか。「1番、耳をふさいで机に突っ伏した。2番、私の歌に合わせて手拍子をした」。・・・正解は何と2番なのです。
 そして、次の授業の時に教室にはいるとこんなことをいう生徒もいた。「先生、今日も歌って下さい」。気をよくした私は、実存主義の哲学者ニーチェのところで中島みゆきの「時代」を歌い、キルケゴールのところで尾崎豊の「僕が僕であるために」を歌ったのです。その話はいずれ機会があったら書くことにしたいと思います。

 

                                       


 



言葉様々

小林 康昭  221217

 十二月に入ると、巷の繁華街や商店街では、クリスマス・セールや歳末大売り出しでにぎわいます。仕事で数年間、滞在していたアメリカでも、同じように繰り返される年末の風物を目にしたものです。ですが、その中で、違和感がある一日が挟まっています。12月7日です。日本海軍の連合艦隊がハワイを襲撃したのは、現地時間12月7日の午前8時直前、日本時間の12月8日の午前3時直前でした。この日、アメリカの新聞には、かならず“Remember Pearl Harbor”の見出しが躍ります。
 日本のメディアや国民が、大東亜戦争もしくは太平洋戦争、第二次世界大戦を追憶するのは終戦を告げられた8月15日ですが、アメリカでは開戦となった12月7日です。そして、その日になると「リメンバー パールハーバー」の常套語が出てくるのです。日本では、この常套語を“真珠湾を忘れるな”と翻訳し、その翻訳が定着しています。ですが、この翻訳は正しくありません。「リメンバー」は「ドン‘ト フォーゲット」ではありません。この命令形を直訳すると「記憶せよ」とか「覚えていろ」になります。日本人には「覚えていろ」より「忘れるな」のほうが刺激的だと、受け止められたのでしょう。
 ちなみに“Remember”と命令系で表現すると「よろしく」という表現にもなります。“Remember me to your parents”は「あなたのご両親によろしく」という表現です。次のパール・ハーバーの「パール」を「真珠」とする翻訳も正しくありません。何故ならば、このパールは固有名詞の地名です。固有名詞を日本語に翻訳しても意味がありません。例えば英米人に“Carpenter”という名字があります。その人を「大工さん」と呼称するのは間違いです。小林をリトル・ウッドとかスモール・フォーレストと呼ぶような間違いです。ですから、パール・ハーバーのパールを真珠と言わないで、パールと表現するべきです。
 最後に「ハーバー」の表現です。ハーバー即ち“Harber”は湾ではありません。港のことを言います。湾は“Bay”です。だから「パール・ハーバー」は「パール港」が正しい。そのように呼称するべきなのです。どうして、間違えたのか。昔、海軍の広報将校はまさしく「真珠港」と表現していたが、当時の新聞が間違えて「真珠湾」と誤報してしまったのです。と、いうことで「リメンバー パールハーバー」は「パール港を覚えていろ」が正確な翻訳となります。ですが「真珠湾を忘れるな」のほうが、インパクトがありますね。今更、言っても仕方がないってことです。
*  *  *
 メディアの手になる間違えた表現が巷間に流布して定着すると、絶対に直りません。メディア恐ろし、です。
 過去に「あらたしい」という表現がありました。「あらたなる」や「あらためる」の語源になる語です。これを「あたらしい」と間違えた結果、その表現が定着してしまいました。今では「あらたしい」は死語になってしまいました。
 また、「ごてる」を「ごねる」と間違えて報じて、その間違えた「ごねる」が定着してしまいました。「ごねる」の本来の意味は「死ぬ」でした。今では、ぐずぐずと文句や不平を言う「ごてる」の本来の言葉は、影が薄くなりました。
*  *  *
 日本語と英語の表現を比較すると“Remember”を「忘れるな」と翻訳するように、英語の願望や要求の表現を、日本語では否定形で表現する傾向があるようです。1958年に公開されたハリウッド映画に「私は死にたくない」と題された作品があります。実在の死刑囚の手記の映画化で、その死刑囚を当時著名な女優スーザン・ヘイワードが演じました。
 この原題すなわち英語の題名は“I Want to Live”です。直訳すると「私は生きたい」です。まさに、その傾向が明らかです。先年、アラブ地方でイスラム国の歯牙にかかった韓国人が、見せしめにテレビを通じて公開処刑された事件があります。テレビの前に引き出された韓国人は、映像にむかって英語で”I don’t want to die”と泣き叫びました。英米人なら“I want to live”と叫ぶのでしょう。朝鮮韓国の言語文化は、日本と同じ傘の下にある、と言うことです。
*  *  *
 そのつもりで、文章を読むと、日本語は実に沢山の否定形にあふれています。
曰く、ロシアが、ウクライナに侵攻した行為は、戦争であることは言うまでもない。この戦争を主導しているロシアの大統領プーチンの主張は世界の平和に対する挑戦である、と断じざるを得ない。この行為に対してウクライナが採った判断は称賛に価すると言っても過言ではない。その判断を支持するわが国の判断もまた、間違いはない。にもかかわらず、日本人の知識人のなかには、プーチン大統領の主張に理解を示す向きが少なからず存在することは、深慮を欠いていると言わざるを得ないのではなかろうか、・・・などなど、と。最後の一節は、深慮を欠いているのだ、で済むことなのですね。ですが、この否定形のオンパレードの日本語のほうが、結構、説得力があるのですよ。


                                       


 



“らしく”生きる

谷川 亘    2022年12月17日

 加齢に連れて漸増し、心身の機能低下に拍車をかける“老化細胞”にストップをかける免疫が開発途上にあると新聞にある。
 まさしく高齢化社会の真っ最中。長命は目出度いことであるとしても、やはり老いるにつれて心身ともに老廃化して挙句の果てに廃棄されるのは、この地球に生を得た我ら人類の、背負わされている宿命なのであります。
 つい最近、まともに歩けない97才のお年寄りが車を運転して、こともあろうに人様を殺傷したと新聞にありました。高齢と言えば、2019年にも87才のご老輩が運転する車が暴走して母娘を殺傷してしまうと言う「池袋暴走事故」の呼称までついた悲惨な事故があり、“なんで、こんなボケ老人”が運転なんかしやがって・・・。まさか、どう考えてもあり得ない、あってはならない・・・。なんて怒ったのですが、今や百寿寸前までがハンドル握る長寿世代なのですよ。でも、お二人とも立派な運転免許証をお持ちだったそうですよ。口外は憚かられますが、でもぉ~、でも、なんですよねぇ。
 諺にも「人生僅か50年」とあり、人生のはかなさに例えて「人間の一生はたかだか半世紀。まばたきに似て短いものであると」比喩されてもいましたが、今や人生“三桁”のご時世。人生の後半部は神仏のお恵み頂いた、“おまけ・余禄・ご褒美”なのですよ。
 心身ともに退廃的方向に向かって一気に駆け下るものなのです。車のハンドルは握るべからず。わが身自身のハンドルさばきに専心して確り生きるべきなのですよ。老頭児は退くべし!!!
 どこかの大統領は80才に達し、勘違い、言い違いのきらいも無きにしに非ずとか?次回再出馬を宣言している精気あふれる御仁も再起の折は78才。どこかの国家主席は自ら断を下し、“定年”を凌駕するのは良いとして幾つまでやる気なの?
 身近なお国の首相だって65才で、彼らよりは若いのが取り柄としても難題山積。脇に鎮座する大派閥の首領は82才だそうだから気配り目配り大変だよねぇ。
 ともすれば、万人共通の悪い癖。金字塔積み上げた途端にもう一段高くしたいとの欲が出て人に耳を貸さない唯我独尊、一言居士ばかり。これを以って世に言う“老害”と称する。
残念ながらかく申す私も立派な“老害”の発散元なのであります。 
 話し戻します。書き出しに触れました、救いの神と言うか、フレイル、認知症とか経年老化を防ぐ助っ人とも言うべき免疫革命が近々にもたらされて、長命一世紀に及ばんとするジンジ・バンバも、溌剌として健康、体調万全にして元気はつらつ。卒寿越すオエライサンだって群雄割拠。40、50は“ハナッタレ小僧”でしかなくなるのですかね。
 でも、免疫革命はかなり先。その間、老化細胞は、画期的免疫によって取り除かれはするものの、改善されこそすれ、老いに従って脳内に蓄積されてゆくことに間違いないでしょう。
 私、ボケで人様を殺めたくはない故運転免許証を返納しています。清廉潔癖に生き抜いてきた我が人生に手錠・鉄格子は相応しくない。
 “よた歩き”途上でも、今や人様に抜かれても「どうぞ、どうぞお先に」と口ごもる。抜かれたら抜き返すなんて気負った気持ちは80まで。
 認知症と言われても、自分でボケだと気づいても、負けず嫌いの気性なんて、“さぁ~て、どこダンベ?”何処かにおいてきてしまいましたよ。 


                                       


 



四季の記憶90「今年のシネマ」

鈴木 奎三郎   2022・12・17

 今年もいよいよ師走を迎えた。コロナに始まりコロナに終わりそうなここ2,3年だが、いつものように小さな書斎の整理を始めた。特に単行本の類は、最近はアマゾンのブックリーダーを使っているため、さほど増えてはいないが、なかでもこれまでいただいた署名入りのものは整理できない。その中に高野悦子さんの「私のシネマ宣言」がある。1992年に朝日新聞社から出ている。多分、いただいたのはその頃であろうか。ご面識をいただいてからは、当時総支配人をしていた神田神保町の「岩波ホール」には毎回行った。欧米の小品ながら名作を上映するシアターとして高い評価を得ていたが、商業ベースには乗りにくかったのであろうか、今年の7月に閉館した。高野さんは日本初の女性映画プロデユーサーとして、「東京女性映画祭」などを創るなど先駆的な役割を果たしてきたお一人である。
 
 どういうきっかけでお目にかかったのか覚えていないが、銀座が好きでよく並木通りのウナギの「大和田」、すしの「東すし」などにご一緒したことを思い出す。帰りにはお土産として「空也」の最中を用意した。お返しと言ってお茶の水の山の上ホテルのサーロインステーキを何度かご馳走になった。美味だった。
 しかし2013年、83才で亡くなった。もうそろそろ10年になる。早いものである。

 さて今年もよく映画を見た。たぶん50~60本は見ているだろう。シニア料金で1200円。2時間をゆっくり楽しめる、老年にとってはいいヒマつぶしである。幸い近くには、大泉のシネコンがある。少々足を延ばせば大泉ではやっていない映画が見られる。銀座、日比谷、新宿、吉祥寺など、東京は映画のインフラがそろっている。
 順不同にぼくの選ぶベストシネマは以下の通りだ。見た映画は、◎、〇、△で自分なりの評価ポイントを付ける。つまらない映画は、途中で居眠りをしてしまう。2回ほど隣の席のおばさん?からご注意を受けたこともある。たぶん、いびきをかいていたのだろう。映画のストーリーが分からなくなるし、ほんの20~30分のことだと思うが、これは観客としてはなはだ不謹慎なことだ。

 以下順不同に、今年のベストシネマを挙げてみる。

●「コーダ、愛の歌」 耳の聞こえない家族と健聴者の少女との絆
●「鹿の王」上橋菜穂子原作のファンタジー
●「ウェストサイドストーリー」 かつて一世を風靡したJ・トラボルタのリメイク版
●「ドライブマイカー」 村上春樹原作。主人公の再生の物語。
●「トップガン」「トップガン・マーベリック」 30年前の前作もこれぞアメリカシネマ!!。次作のトム・クルーズは60才とは思えない若さ。ジェット戦闘機の空中戦も迫力満点。2回見た。
●「鋼の第三中隊」 韓国の壮絶な戦争映画
●「PLAN75」 倍賞千恵子主演の近未来のSF映画。ありえないはずの近未来の姿が現実となってくる???
●「土を喰らう12か月」 沢田研二主演の佳作。安曇野の四季が素晴らしい。往年の大スターがみせる穏やかで静かな映像美。
●「すずめの戸締り」 新海誠のアニメーション映画。色彩が素晴らしく、アニメもここまでくると何も言うことはありません。原作の単行本もベストセラーに入っている。

 さて来年の映画はいかに。期待するところ大であります。


                                       


 



信州峠越え

加藤 厚夫  2022.12.17 

 昭和62年に赴任したころの長野は、必ずどこかの峠を越えねば行けぬ僻地であった。わが社がこの僻地に4年も塩漬けにしてくれたおかげで10あまりの峠すべてを制覇することが出来た。辛さ楽しさ半々だった峠越えの思い出を書いてみた。赴任当初は関越道を高崎ICで降り国道18号をひたすら走る碓氷バイパス(入山峠)の最短ルートをとった。高崎で降りるや「長野まであと140㎞」の標識で、見たとたんウンザリした。峠の釜めしの横川からは全長14㎞、45のカーブをこなしトラックを50台は追い抜かねばならぬ緊張コースだ。軽井沢から先は一車線で追越し困難だからで、このルートを30回も往復せざるをえなかったのは、冬季ほとんどの峠が封鎖されてしまうからだ。
 峠や街道筋はまた歴史と温泉の宝庫で、峠の頂では絶景に出会える。月曜朝は4時起きで上州・二度上峠を越えて北軽井沢経由をとった。途中小栗上野介忠順(幕末動乱期に活躍した幕臣、大隈候も評価する人物)の倉渕権田村を抜け標高1360mの峠をめざす。
 ここで一生一度の絶景に出会った。大快晴の浅間山に朝日が映え「空は哀しい程青く澄んで胸が震えた(サライ)」ほどだ。しばしたたずみその空気を大きく吸い込み峠を下った。
毎月一回金曜の午後は会社を抜け出し川中島、松代経由の地蔵峠を越えた。松代には藩主真田家の菩提寺長国寺に霊廟や藩政改革を断行した恩田木工の墓がある。武田軍が拠点を置いた海津城跡等見どころが多い。城の眼前が川中島合戦場で両軍合わせて一万人が戦死した。山本勘助や信玄弟武田信繁も討死し典厩寺に墓がある。地蔵峠はカラマツの紅葉が素晴らしいが、深夜ひとり運転して戻るときは幽霊が出るらしく背筋が寒かった。
 上州内山峠はコンニャクとネギの名産地・下仁田の姫街道を行く。奇岩連なる妙義山や荒船山岩峰が眺められ峠を越えるとコスモス街道だ。秋には延々9㌔の沿道に咲き乱れ「あずさ2号」の狩人が失恋した女性がこの地を訪れた心情を「コスモス街道」で歌っている。
 諏訪方面から帰るときは和田峠や大門峠越えだ。中央道は勝沼ICで降り甲州街道の笹子峠を越えた。100年の歴史ある「笹子餅みどりや」に寄るためだ。国鉄時代車内販売をしていた草餅で、ヨモギの香りと餡子のほどよい甘さが登山帰りの疲れを癒してくれたものだ。
 夏は野猿やカモシカがよく顔を出す保科の峠道を菅平高原に登る。そこから鳥居峠を下ると嬬恋村で広大なキャベツ畑で無人販売所に100円を置き二個持って渋川に向かう。こんな峠越えばかりやったお陰でカーブでの基本スローイン、ファーストアウトが体得できた。
 日曜深夜の戻りは練馬からの高速はいつも時速120㎞、軽井沢から先の国道では80㎞で飛ばした。4年間よくぞ無事故・無違反?で来られたものだと感心すら。そういえば途中ネズミ捕りや酔っ払い取締りに一度も出くわさなかったし、昼飯時はおでんとビールに信州そばを堪能できる大らかな時代であった。それにひかえ今はどうだ。年寄りは全員免許証更時老人痴呆試験を受けろと来た。アホナ試験だが98点しかとれなかったが運転能力最低レベルの老人が起した池袋暴走事故のトバッチリである。広島、長野、仙台、九州、大阪支社の14年間、タクシー運転手以上に運転してきた人間には無用だ。とはいえ今や下級老人とても新車には手が届かぬし高騰する油も注げぬ身だ。3年後は返納となるであろう。


                                       


 



うなぎの効用

小林 士  2022年10月22日

 この夏、8月3日の読売新聞の『編集手帳』はつぎのような文章で始まった。
「奈良時代の歌人大伴家持がやせっぽちの知人にうなぎを食べるよう勧める和歌が『万葉集』に収められている。(石麻呂に我物申す夏痩せに良しというものぞ鰻捕り食せ〈捕りめせ〉)

 これには驚いた。8世紀という大昔から、夏痩せの対策としてうなぎが
よいと言っている。
「夏は体が消耗するから夏の土用にうなぎを食べて体力を保ちましょう」と、うなぎの効用を江戸時代に言ったのが貝原益軒(1630~1714)である。それから民衆の間で夏の土用にうなぎを食べる習慣が定着したと聞いている。しかし、うなぎの効用はすでにその1000年も前に歌われていた。日本人とうなぎの因縁は実にただならぬものがある。
 この大伴家持の和歌でおもしろいのは、単に「うなぎを食べなさい」と言うのではなく「うなぎを取ってきて食べなさい」という言い方をしているところである。私たちが「うなぎを食べる」と言ったとき、それはどこかのうなぎ屋に行って、うな重などを注文して食べることを意味している。大伴家持の時代はそうはいかなかった。まずは自分で川か沼に行ってうなぎをとっつかまえることが前提だった。
 それならば、どんな人が、どんな所に行って、どうやってうなぎをつかまえて、どう料理して食べたのか。話は1400年前のことである。答を見つけられるだろうか。
家持に言われた石麻呂さんは「よしきた」と言って自分でうなぎを捕りにいくのだろうか? それとも身分のちがう誰かに頼むしかないのだろうか? うなぎは川にも沼にもいる。当時の自然環境はどうだったのだろう? 大昔には沼などあちこちにあったのかもしれない。住んでいる家の裏に草むす沼があって、そこにうなぎがうようよしていたかもしれない。 捕まえる方法は? うなぎは夜行性である。夜釣りに出かけたのだろうか。それとも竹で編んだ筒を一晩仕掛けておく昭和の時代と同じやり方だっただろうか?
 問題は食べ方である。うなぎをひらいて? 蒸して? 焼き具合は? たれは? いやいや、私がポルトガルで食べたスープのように、単にぶつ切りにして煮込んでいたかもしれない。あのスープはうなぎのくさみがそのまま残っていてひどかった。いずれにしろ、日本人のことだから気の利いた料理の仕方で賞味していたことだろう。


                                       


 



酒と恋とハプニング

渡邊 訓子  2022/10/22 

 前から不思議に思っていたことがある。お酒が飲めない人に、恋のハプニングは起こるのだろうか。酒飲みは、「酒に酔って、本音を言う」とか、「酒に酔って、告白する」とか、「酒に酔って、手をつなぐ」とか、いろいろある。「自覚あり」、「自覚なし」、「『自覚なし』といいながら、しっかり『自覚あり』」、「『自覚あり』とその場では言いながら、次の日にはすっかり『自覚なし』」など、様々なバリエーションでハプニングが起きたり、ハプニングを起こしたりする。もちろん、「非酒飲み」でも、相手が「酒飲み」ならハプニングは起こるであろう。しかし「非酒飲み」×「非酒飲み」の純血種同士の組み合わせはどうであろうか。まったく起こらないのではないだろうか。
 人間関係というものは、繊細かつ複雑なものである。例えば、同じ職場で好きな人ができた場合、なかなか告白しづらい。「先輩のこと好きになっちゃった。告白しようかしら。でも振られたら、明日から仕事しづらいし、顔合わせるの、きつい。でも、このまま中途半端な関係が続くのはもっと嫌」みたいな状態になったとき、アルコールの力を借りる女性たちは、きっと多いことだろう。別に酔わなくてもいいのだ。そこにアルコールを置いて、いわば「見せアルコール」で、心神喪失状態を演じる「酔いどれ作戦」は『乙女のバイブル』28頁に書いてある。(嘘。)
 「酔ってるからこんなこと言うんですよ。今日の私は、いつもの私じゃないんですからねっ」。顔が赤くなりにくい人は、お化粧直しでチークを多めに塗ったらよい。告白の返事がオッケーなら万々歳だが、もしダメだったとしても、相手の方も、酒が入った状態なら断りやすいのではないだろうか。「おまえ、酔ってるだろ。俺たちそういう関係じゃないから」的な。振られて、家に帰って泣いたとしても、次の日「昨日のこと、全然覚えてない。飲み過ぎて、顔とか目、超むくんでる」とか言えば、泣き腫らした目の言い訳もできる。お酒って、便利だね。(すべて想像です。実体験ではありません。)

 今年の夏、久しぶりに高校の同級生たちと集まった。ある程度、酒も進んだとき、「Aちゃん」という女性がこんなことを言い出した。
「最近、前からちょくちょく一緒に仕事をしてる、外部の営業の男の子とお酒を飲んで、帰りにタクシーに乗ったの。そしたらね、彼が、突然手をつないできて『これから2人でどっか行かない』って言うのよ」
 周りの同級生たちが「きゃあ」「Aちゃん、もてる!」「で、どうなったの?」とはやし立てる中、Aちゃんは続けた。「何にもないわよ。だって相手は30代半ばだよ。こんな子持ちのオバさんなんて、誘わなくていいじゃない。もっと若い子を誘いなさいよ、ねぇ」寄せられて下がった眉とはうらはらに、発色のよい口紅に彩られたAちゃんの口角は、しっかりと上がっていた。
 彼女の顔を見ながら、私は心の中で考えた。Aちゃん、論理展開がおかしくないかい。その30代の殿方は、Aちゃんが40代子持ちであることは十分知っている上で誘ってきたのよね。それなのに、断る理由が「子持ちのオバさん」っていうのは、話の展開として筋が通ってないよ。それともこれは「40過ぎても若い男に言い寄られてしまうステキな私」を披露するためのエピソードトークで、論理展開の矛盾を突っ込むことなどは、野暮な話なのだろうか……。
私が、すっかり食べ終わって中身がないロブスターをつつきながら、ぼんやりと考えていると、隣に座っていたKくんがやにわに、こんなことを言い、会話に入ってきた。
「きっと、その男はさぁ、そのとき酔っ払っててさ。ちょうどよかったんだよ。Aちゃんが」
 水を打ったように静かになる女性陣。そして、ちょっとムッとした顔をするAちゃん。私は思わず吹き出してしまった。
 そうだね。Kくん。それが男の本音なんでしょうね。いい歳になっても、まだ、ふと、時折ファンタジーを信じてしまいそうになる女たちの頭を、「言葉の真実」でぶん殴ってくれて、ありがとう。すっかり目が覚めたよ。


                                       


 



産業遺産情報センター

照山 忠利  2022.10.22

 今月の初め、土砂降りの雨をついて新宿・若松町の「産業遺産情報センター」を旧友5人で見学した。同センターは2015年に「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界遺産に登録された際、その内容を広く周知する目的で設立された。
 内容は、幕末から明治にかけての50年間に、日本が成し遂げた急速な近代化を産業に焦点を合わせて展示しているものだ。申請に際しては九州・山口を中心に8県11市に分布する23の遺産を取り上げ、いわばこれらが全体として日本の産業近代化をもたらしたという視点から膨大な資料を準備した。イギリスが150年かけて実現した産業革命を、日本は50年という1人の人間の生涯の間に達成したとのこと。ボランティアのガイドさんが力説していた。産業遺産の中心は製鉄・製鋼、造船、石炭産業にかかわるもので、製鉄では官営八幡製鉄所、造船では三菱長崎造船所、石炭では高島・端島炭鉱と三池炭鉱が選ばれている。
 この中の端島炭鉱は通称「軍艦島」と呼ばれている三菱の炭鉱であった。今回の見学の主目的は、この端島についてどのような展示がなされているのかを知るためであった。端島は元々小さな岩礁に過ぎなかったところを、三菱が護岸を築き埋め立てを重ねて、南北480m、
東西160m、周囲1,200m、総面積63,000㎡(19,000坪)にまで拡張した。
 三菱以前には幾人もの事業家がこの岩礁での石炭採掘に挑んだが、台風襲来の激浪でことごとく失敗していた。明治23年に三菱の経営となり、当時の技術陣は懸命の努力で堅牢な護岸を築くことに成功した。石材を積み上げ天川(石灰と赤土の混合物)を用い、イギリスから輸入したセメントも使ったようだ。埋め立てには石炭採掘で出るボタを利用した。また、この小さな人工島に多くの人たちを住まわせるには、建築物の高層化は必然であり(最盛期には5,000人が住んだ)、最初に建てられた鉄筋コンクリート造7階建て住宅は大正5年に完成した。わが国でその後に建てられた住宅用の鉄筋コンクリート造建物は、10年後の昭和2年の東京・青山アパートであった。住宅以外での鉄筋コンクリート造の建築は大正3年の東京駅と三越本店、大正9年の工業倶楽部等であった。
 ちなみにコンクリートには貴重な輸入セメントに、骨材は対岸の野母半島の海浜からの砂と砂利を洗浄して運び、水は天水に加えて製塩の蒸留水を使ったと社史にはある。このようにして洋上に浮かぶ孤島に最新技術を駆使して産業と生活の拠点を作り、日本の発展を支えた先人の功績には存分に敬意を払うべきであろう。
 その端島が産業革命遺産に登録されることを知った韓国は、当時官民挙げてその阻止に動いたことは記憶に新しい。軍艦島は朝鮮人が強制連行され強制労働をさせられたところであり認められないという理由である。確かに戦時中、朝鮮から来た人たちが働いていた事実はあるが、それは強制的に連行したものでも強制的に労働させたものでもなく、日本人と全く同じに働いていたと元島民たちが証言している。このいわれなき偏見や誤解に基づく誹謗中傷は、先人に対する冒瀆に他ならない。
 その一因を作ったのは、実はNHKの「緑なき島」という昭和30年放送の20分のドキュメンタリーにある。当時三種の神器をいち早く備えた豊かで先進的な端島の生活を紹介した番組なのだが、坑内現場の作業の様子が全くの捏造であることが明らかなのだ。坑口を入る鉱員はきちんと作業着にキャップランプを装着しているのに、坑内現場の作業では褌一丁の裸で四つん這いで仕事をしている。まるで奴隷のような姿だ。これはおそらく、厳しい保安規則でテレビカメラが坑内に入れなかったために、端島とは無関係の筑豊の小ヤマの映像を代わりに使ったのに違いない。韓国は実際にこの映像を強制労働の証拠として映画やキャンペーンに使っている。ところがNHKは国会における厳しい追及にもかかわらず、今に至るも捏造であることを認めていない。後世に生きる我々には先輩たちの名誉を守る責務がある。正しい理解を得るために産業遺産情報センターを訪ねた次第、2時間の見学で大いに勉強した気分になって新宿の街に繰り出し、気勢を上げたことは言うまでもない。
 それにしても昭和49年の閉山から50年近くたち、今や長崎観光の目玉になった観のある軍艦島クルーズを見るにつけ、「オレたちは見せもんじゃなかぞ」という元島民たちの呟きが聞こえてきそうな気がする。
(了)

なお産業遺産情報センターは次の通り。
新宿区若松町19-1 総務省別館 0120-973-310(要予約) 土日休館
都営大江戸線「若松河田駅」河田口から徒歩5分  ガイド付きで約2時間コース

                                       






シルバー人材センターのこと

松本 誠  2022.10.22

私は13年前に練馬区シルバー人材センターに登録した。
シルバー人材センタ―というのは、区内のいろいろな施設や学校、企業や家庭の種々な労働を希望する区民に斡旋する媒体である。以前は高齢者事業団と言っていた。主に働く人たちの年齢層が高齢者だからだ。仕事内容は多岐にわたっている。学校施設の安全管理から、登下校の子供たちの交通指導やマンションの共益部分の清掃や管理、家庭内の世話や買い物補助、電気器具の差し替えなどの細かい作業も対象だ。自宅のリフォームや植木剪定、草刈りや、チラシ配りもある。話相手がほしい人にも対応している。
平均的に労働単価が安く、発注者に対し民間業者より格安で区民には便利な存在である。
登録者は男女合わせて6000人位。但し常時の作業者は5割ぐらいかも。
数年前、学校の門の前で整理をしていたシルバーが、ある不審者が校内に入り込みそうになって、未然に防ぎ子供たちの安全を確保した、という温かいニュースもあった。

私は13年間植木剪定をやっているが、責任者(いわゆる親方)を数年担当している。メンバーの健康管理、作業日程の調整、事故のない作業、技術の向上、顧客の意向への対応と安心感、など各種の注意事項がある。しかしこの間賃金がず~と上がっていない。本職の植木屋さんと費用の比較すると約半分程度。
具体的には近隣の杉並、中野、武蔵野、八王子などと対比すると20~30%程度の差がある。昨今日本の賃金が停滞しているとの指摘が各方面から出ている。われわれも同じ環境にある。新規作業者が別の親方のもとで3年間ぐらい修業しても、賃金が入所当時と変わらないという人もいる。
そこで最近、賃金アップの提案のほかに、関係する部署の合同連携を進める提案も含めて、10月の初めに責任者あてに陳情書を書いて提出した。まだ2週間ほどしかたってないから、それに対する回答はまだ来ていない。
国会でも最低賃金が論議され、少しアップした。危険な作業についてはそれなりの対価が支払われなければならない。植木剪定作業は高所作業が多く、害虫やハチへの警戒も大事である。(ツバキやサザンカに多く見られる茶毒蛾の被害)また作業上、道具や器具が必要である。適切な維持管理もしなければならない。
しかし、作業後、きれいになった庭をご主人や奥様がみて、「あ~キレイになった!さっぱりして気持ちい~」なんて言われると、疲れも吹っ飛んで気持ち良く帰路につける。
私はいろいろなチャレンジをしているが、大学出て地下足袋はいて植木作業とは?という多少非難めいた言葉を聞くこともあるが、人生の喜びは健康で労働できること、作業を通じてお客さんとの会話や相談にものれて信頼が増すこと、収入があり、自分の飲み代や孫たちへの応援になること、それより、ぼうぼうになっている庭木を剪定後、お客さんが喜んでくれることがうれしい。
一年ほど前趣味で茶道をしている方の剪定をした。その折ほんとうに心のこもった抹茶をいただき、感動して、翌日御礼のはがきを出したら、植木屋さんからこんな感謝の気持ちをいただき私も嬉しかったです。と感想いただきうれしい仕事だな~と喜んだ。
まだまだ、体が動く間は頑張ろう、という気持ちです。少なくとも2025年まで、50数年前に感動の体験した大阪万博(大阪市舞浜地区で開催)を再び体験したいから。


                                       


 



絵解き(えとき)を聞く

石田 真理   2022年10月

 縁有って長野善光寺にお参りした時、宿泊したホテル近くのバス停が『かるかや山前』だった。かるかや山西光寺というお寺の前で、門前に大きく「絵解きの寺」という看板が掲げてあったが、何のことだろうと思うだけで、その時は通り過ぎた。
 しばらくして、親戚が他界したことで「あの世」について興味を持った。果たしてあの世は存在するのか。人は死んだら冥土に旅に出るというのは本当か。天国や地獄はあるのだろうか。もしも存在していたら…あまり行いが良くなかったから、あの世で大変な目にあっていないだろうか、と思いを巡らしているうちに、どこかで聞いた「十王様」の話を思い出した。
 「十王様」は、道教・仏教の思想で、人は死後、7日ごとに裁判を受け、今後生まれてくる来世が決まるという、その7日ごとの裁判をする王様たちのことだ。
 インターネットで十王様を詳しく知ろうと思ったが、私にはなかなか難しい。わかりやすく教えてくれるところはないだろうか。宗教の勧誘に会うのは困る。高額な献金はできない。そうして調べていた時に、「十王巡り」という説教をしてくれるところが見つかった。あれ、このお寺は、この前通りかかったところの…と不思議な縁を感じ、行ってみることにした。
 かるかや山寂照院西光寺(かるかやさん・じょうしょういん・さいこうじ)―浄土宗のお寺で、昔からたくさんの人が、善光寺参りの際に立ち寄ったそうだ。絵解きというのは、お寺に伝わっている掛け軸の絵を「お羽差し」という鳥の羽のついた棒で、絵を指しながら語る。鳥の羽は絵を傷めない配慮があったという。字の読める人の少なかった時代の視聴覚説教であり、娯楽の一つでもあった。絵解きの文化は、平安時代には始まっており、その頃は特別な貴族しか聞けなかったが、江戸時代に大衆化され、盛んにおこなわれるようになった。現代は娯楽が増えたことで衰退しているが、漫画やアニメーション、日本の文化のルーツをたどっていくと、絵解きが始まりであったと、物語に入る前に、語りの女性が説明してくれた。そして、お寺の由来である「苅萱道心石堂丸(かるかやどうしんいしどうまる)御親子御絵伝」を絵解きしてくれた。絵を見せながら物語を語る。まさにその時代のアニメーションだなと思いながら聞いた。
 そして次に、「十王巡り」と「地獄絵」の話。人は死んだ後、7日ごとに裁判官の王様に、生前の行いを裁かれる。悪いことをすると恐ろしい地獄に行く。だから悪いことをしてはいけない。善い行いをしなさい。昔の人はこうして道徳を教えたそうだ。地獄とか極楽とか、本当にあるのかないのか、行ったことがある人はいないからわからない。あくまで想像の世界である、と語りの人は言った。やはり、本当にあるのかないのかは、わからないのだ。
 口演料は「苅萱道心石童丸御親子御絵伝」の絵解きが30分500円、「十王巡り」と「地獄絵」も聞くと、もう500円。追加料金も勧誘もなく、道徳と文化を教えていただいた。


                                       


 



やさしい日本語

小林 康昭  221022

 在日外国人と会話をする際の、日本語を扱った記事を読んだことがある。1年前の‘21年6月16日の朝日新聞の「やさしい日本語」考。真鍋弘樹記者が言語学者と在日外国人とのインタビューで構成している。
 言語学者は、日本語教育を専門とする一橋大学教授で、日本人と在日外国人の間で使われる「やさしい日本語」では、日本語の語彙を絞って漢字を減らし、文のパターンを限定する。例えば、条件を示す語には「(する)と」「(すれ)ば」「(し)たら」「(する)なら」があるが、「たら」だけを使う。「と思います」は使わず、「たぶん」だけにする。ほぼ同じ意味を表す文法形式が複数ある場合には一つだけを使う。それでも、かなりの内容が伝えられる、という。
これは日本社会にもメリットがある。我々は「言わなくても分かるだろう」と済ませていることが多いが、異文化との接触は、この前提を変える。つまり、日本人の「説明力」を鍛えるためにも有用なのだ。専門家は一般の人に伝えるとき、説明はせず、こちらの言うことを聞いていれば良いのだとばかり、難しいことを難しく話したがる。難しい熟語や外来語を使って教養を誇示したがる。それよりも、分かりやすさに価値を置く方向が望ましい。
 中国語は発音や文法の間違いに寛容である。英語は75%がノンネイティブ同士のやり取りで国際英語だと言われる。このような寛容な言語の国際語に、日本語も近づくべきだ。そうすれば、日本人に対してもやさしい言葉になるのだ。
*  *  *
 もう一人のインタビューの相手は、日本で通訳業を営むペルー人である。中学一年で来日した時、日本語ができず小学校六年に編入したそうだ。同級生たちが何を話しているのか、全く分からなかった。基礎の日本語テキストを懸命に勉強し、「あなた方は」と話しかけると、笑い声が起きた。何がおかしいのか、その当時は理解できなかった。
 分からないとき、「日本はこうだから、以上、おしまい」で済ませるのは良くない。「やさしい日本語」は日本人の側にこそ意識する必要がある、と彼は言っている。
 日本語のギャップで思い出すことがある。ある同好会のイベントで大相撲の部屋を訪問した時のことだ。モンゴル力士が来日直後の思い出を語っていた。勝ち名乗りを受けて花道を下がってきたとき、四、五歳年長の力士から「おまえ、よかったな。がんばれよ」と声をかけられた。それで「ありがとう、おまえもがんばれよ」と応えた。すると「なんだと、このやろう」と頭を拳骨で殴られたそうだ。そのときは、なんで怒っているのか分からなかった。
*  *  *
 大学の研究室で、教え子の韓国人を相手にしたことがある。彼の日本語はかなりのレベルだったが、それだけに、言葉や文章の問題で問い詰められて、窮したことが度々あった。
 レッスンが終わったので、片づけ始めようとした。すると、彼が「先生、私でやりますから」と制する。一瞬、彼の意図が分からなかった。しばらく考えて「こんな時は、私がやりますから、というんだよ」と正すと彼は解せぬ顔をする。分かったことは、その前の週、複数の学生たちが「私たちでやりますから」と片づけ始め、それを受けて「それじゃ、君たちでやっておいてくれ」と応じたものだった。「私たちで」は良くて、どうして「私で」は良くないのか? 「とにかく、その日本語はまずい」としか言いようがないのである。
 日本語と朝鮮語は類似点が多いだけに、彼は、些細な相違点に関心を示した。「なぜ『ありがとう』というのですか?」朝鮮語の「カムサハムニダ」は直訳するとズバリ「感謝します」だ。ありがとうが、どうして感謝の意味になるのか。
 彼は、論文を執筆するために、既往の先達の論文を取り寄せて読んでいる。論旨よりも表現を繊細に指摘する。「地震国では耐震構造が必要なことは、いうまでもない」 いうまでもないことなら「書かなきゃ良いのじゃないですか?」それでは前に進まない。「地震国では耐震構造が必要である」として、いうまでもない、は書くまでもないのだ。
*  *  *
 研修生として職場で使った留学中のインドネシア人は、日本語のレベルが高かった分、微妙な質問をぶつけてきた。「事実と真実、体験と経験、安心と安全、信用と信頼、の違いが分からないのですが」 日本人の自分もで分からない。
 やはり日本の大学に留学経験のあるアメリカ人を部下として使ったことがある。彼は「賛成者は多くはないは、少ないで良いのではないですか?」と言う。そうだよなぁ、同感だ。「感じないのではないでしょうか」は「感じない」で否定して「のではないでしょう」で再び否定して「感じる」になり、最後に「か」で締めくくって逆転して「感じない」に落ち着く。筆先で文章を追いながら、文意を捉えようと苦闘している彼の苦渋の表情を思い出す。
*  *  *
 年に一度か二度、彼らが夢に出てくる。夢の中の彼らは皆、意地悪だ。自分は彼らによっぽど悩まされたのだろう。


                                       


 



四季の記憶88 映画「金木犀」

鈴木 奎三郎   2022・10・21

 金木犀が今年2回目の開花を迎え、10月下旬になってまたあの懐かしい香りが漂ってきた。確か一回目は今月の上旬だったと思うが、いつの間にか終わってしまい寂しく思っていたが、再び香り出した。ビックリして調べてみると、今年は関東を中心に「2度咲き」情報が寄せられているという。全国的には2度咲きは少ないが、関東では45パーセントの確率で2度咲きがみられるとのこと。一般的には9月中旬から10月中旬にかけての開花時期だそうだが、何年かに一度、夏の気温が高い年は2度咲きが起きる確率が高まるそうだ。二度目の花は花もちがよく香りも強いような気がする。

 わが家の小さな庭にも一本の金木犀がある。40数年前、長男が生まれたときに記念になる季節の花として練馬区からいただいたものである。11月生まれゆえ、金木犀になったのだろう。わが家の金木犀も再び香り出した。二人目は4月生まれだったので海棠を貰った。年二回近所の植木屋さんに来てもらって手入れをしているので、さほど大きくはならず小さくまとまっている。すでに二人とも結婚して家を離れているが、この二本の木はわが家の来し方を見守ってきたことになる。行く末はどうか。多分ぼく亡き後も金色の花をつけて咲き続けるのであろうか。
 
 今の家は結婚と同時に買ってもらった新築の小さな家である。安普請だったのだろうか、何年かすると雨漏りがしたりで建て替えを余儀なくされた。何年かたって都市ガスになるまでプロパンだった。金木犀と海棠は残して、20年ほど住んで建替えることにした。といっても貯金もなく銀座の勧銀から何千万円を借りてのローンを組んだ。やれやれこれで定年まで返し続けるのか・・といささか憂鬱になったが、ありがたいことに故郷にいる長兄から全額出資をしてもらい、あっという間に借金は消えた。その時の兄のセリフは「俺はサラリーマンの経験はないが、宮仕えは言いたいことも言えず、時には嫌な上司にもペコペコしたり、けっこう辛いこともあるそうだね。借金をしていたら余計そうだろう。特に広報の仕事はスジを通すことが肝心のようだ。これで言いたいことを言いやりたいことを思う存分やりなさい・・」と激励された。

 生まれてこのかた変な正義感があり、これまでのキャリアのなかで損したこともあり、評価してもらったこともある。功罪相半ばした会社生活であったように思う。43年間の現役生活をなんとか大過なく過ごすことができたのは、根がアバウトでくよくよしない性格にもよるが、いかにいい方々に恵まれたかに尽きると思う。
 人間にはいろいろな運がある。仕事運、結婚運、金銭運、健康運・・などいろいろだ。しかし一番の運は、人生の過程でいかにいい方々に恵まれるか・・という人の運ではないだろうか。
 金木犀の香りは、なぜか気持ちをやさしくして感傷的にさせ、古い記憶を蘇らせてくれる。10月になってから雨続きで、寒暖差もあった。下旬になってようやく秋本番という季節になってきた。神宮外苑の銀杏並木もこれから見ごろを迎える。早慶戦や明治大とのラグビーもある。金木犀の香りが消えても楽しみは続く。

 金木犀静かに時は流れたり
 あの家のあの香りなり金木犀
 わが仔の忌金木犀が香り立つ


                                       


 



私のこれまでの「部活」とこれからの「部活」

富塚 昇   2022年10月22日

 今日は夏休み初日、中学生による高校の実習の体験会、そして見学会の日だ。午後から「部活」があり、中学生も見に来る。そのことを部員にも確認した。そして午後の「部活」の練習、私は中学生にいいところみせるために張り切って体育館に向かった。練習時間が始まる。しかし、その時体育館に来た部員は一人だけだった。その人数が増えることはなかった。もうしょうがない。私はその部員と1対1で練習をした。
・・・
 いまから39年前の荒川工業高校での出来事です。1983年4月に私は都立高校に採用となり、授業とバスケット部の活動に張り切って取り組もうと思っていました。私が荒川工業高校に着任したときに、バスケット部の部員は二人しかいなく、試合ができる状態ではありませんでした。それでも何とか頑張って、半年後の公式戦の新人大会には何とか出場できることになりました。その時に、試合に出場した部員は7人でした。試合経過はもちろん覚えていませんが、大差で負けたことは間違いありません。その試合で覚えていることは、7人の選手で始まった試合も、工業高校でやんちゃな生徒が多かったこともあり、反則がかさみ7人の内、3人まではファイブファールで退場となってしまったことです。バスケットは5人で行うスポーツですが、4対5で試合をすることになってしまいました。こんなことをいう生徒もいました。「先生、出なよ、わかりゃしないよ」。私は当時25歳で常に生徒と一緒に練習をしていたのでした。
 これが、私の教員生活での「部活」指導の原点でした。その後、転勤したが高校でバスケット部の顧問を続けることができました。どこの高校でも授業とともに「部活」には力を入れてきました。その中でも特に青山高校と立川高校では生徒のやる気も旺盛で「部活」指導はとても楽しいものでした。最近、教員の働き方改革で、教員にとって「部活」が負担になるため、「部活」の地域への移管が話題になることがありますが、半分くらいの教員は当てはまるかも知れませんが、半分位の教員は当てはまらないのではないかと思います。私のように「部活」のために学校に行く教員も少なくないと思います。
 そんな私ですが、今年の3月をもって教員としての立場が非常勤教員に変わったこともあり「部活」の指導から引退をしました。そして4月からは、指導する生徒はいない自分だけの「部活」を始めることにしました。私が始めた「部活」は「筋トレ部」と「スイミング&水中ウォーキング部」です。活動場所は大泉学園体育館と今の勤務先の近くにある「新宿元気館」と「新宿スポーツセンター」です。勤務が終わるときにも、同僚に「今日は部活をやって帰ります」といって学校を後にすることもあります。スイミングはもちろん筋トレも私より先輩の方が取り組んでいる姿を見かけます。私も無理をしないで習慣化したいと思っています。
 そして、1ヶ月ほど前、さらに新しい「部活」を始めることにしました。少し前まで、自分でもそのことをやるなどとは思ってもいませんでした。そのことについて私はまったく才能はないと思っています。それを始めようと思ったきっかけはテレビ番組です。それを始めてから、通勤で公園を通るときにも、授業中に鳥のさえずりが聞こえる時にも、空に月が見えるときにも、何か思いつかないかな、などと思ったりします。
 ということで、私が始めた「部活」は・・・「秋深し才能ナシが俳句詠む」です。
 

                                       


 



多摩センター 2022〈初夏〉

渡邊 訓子  2022/8/20 

 がさがさがさ……。
 音がする。大学生らしき男性がムービーを撮っていた。 またか、と私は独りごちる。三日前にもいた。 一体なんなのだ 。この生き物は。時は「夕焼け小焼け」が流れる午後五時。 駅前のコインパーキング脇の草むらから、得たいのしれない小動物が現れたり隠れたりしている。ねずみ……ではない。ねずみより大きく、 動きが少々愚鈍である。また、ねずみなら大学生も、ムービーは撮らないに違いない。 色は全体的に濃い栗色だが、顔周りには白い毛がところどころ生えている。 短足で、ころころしていてかわいらしく、元気がいいやつだ。つらつらと、そんなことを考えながら、私もスマホのシャッターを切った。
「すみません」
 突然話しかけられて 、びっくりする。白いワンピースが涼しげな若い女性だ。
「この動物、なんですか」
 いや、私も知らないのだ。これから撮った写真を画像検索し、解明しようと思っていたのだ。
「すみません。私もわからないんですよ。でも最近、突然現れました」
 うら若き乙女をがっかりさせてしまった。少し、心が傷つく。……まずい。早くこの栗毛の小動物の正体をはっきりさせないと。私は、今さっき撮った画像を、同じ職場に勤める理科教諭のA先生に送ろうと決意した。A先生は、齢三十三歳の未婚男性である。個人的なやり取りをしたことはないが、同じ職場なので連絡先は知っている。その程度の仲である。仕事の業務にまったく関係ない連絡 。 一歩間違えば、セクハラ案件だ。一瞬迷ったが、先ほどの小動物の画像を添付し、えいやっと、A先生に送った。
「タヌキです。まだ子どもですね。かわいいです」
 間髪入れずに、返信があった。ありがとう。A先生。そうか。タヌキか。そういえば、ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』は、多摩ニュータウン開発による自然破壊で行き場を失ったタヌキの話だ。そう思うと、なんだか、コインパーキング脇の草むらにねぐらに構えるタヌキは、「かわいい」だけの問題ではないのだなぁ。

 その週の土曜日。自宅から駅に向かう途中、コインパーキング脇の階段に七 、八人の人が集まっていた。いそいそと近づいてみる。案の定、タヌキだ。おや、一匹じゃない。たくさんいる。しかも、みんな寄り集まり、丸まって寝ている。かわいい写真が撮りたくてスマホを出した。はやる気持ちを抑えながら順番を待つ。 待っている人たち同士、手持ちぶさたで会話をし始めた。「かわいいですね」「六匹いますよ」「いつからいるんですかね」などなど。「 少なくとも 五日前からいますよ」と私が言うと、「そうなんですね」「親ダヌキはどこにいるの?」「見たことない」「あぁ、 重なって寝てる。かわいい~!」という声。 周囲を見渡せば、コインパーキング周辺にロープが張られ、そこに「 六匹の子ダヌキにエサをあげないで」の警告文が付けられている。 思っていた以上に、多摩市役所は 環境保護に迅速な対応をする役所なのだ 。
 やっと私の番が来た。
「かわいいですね」。隣にいる男性が声をかけてきた。「かわいいです 」、シャッターを切りながら 私も返す。「絶対タヌキちゃんたちにエサをあげちゃダメなのよ 」列に並んだばかりのお母さんが、子どもたちに諭している。
「 はーい。わかったー」と子どもたち。「こっち持ってるから、写真撮りなさい。ほら、きれいに撮れますよ」とすぐ後ろに並んでいるおじさまがロープを持ってくれる。「次の人がいるから、よく見えるここの場所、あけてあげよう。さぁ、どうぞ」と、前に並んでいたお父さんが場所を譲ってくれる。
 タヌキを通した、あたたかな交流が、ほわほわとゆっくりひろがっていき、心が満ちていく。この感覚は、コロナ禍となって三年。われわれが、少し、忘れていた感覚だ。できるだけ長く、このあたたかな空間にいたいと思った。そんな気持ちを知ってか知らずか、六匹のタヌキたちは、ぬくぬくと丸まり、その場を動かない。そこには、夏というにはまだ少し早い、なめらかな金色の陽の光が、ふんわりと漂っていた。

 しかし次の日、その六匹のタヌキは忽然と消えてしまった。Twitterでは「落合の方に母ダヌキらしきものがいた」という情報があった。みんなで、お母さんのところにいったのだろうか。そうだったら、うれしいのだが。


                                       


 



有名企業三社の理念

加藤 厚夫  2022.8.20 

 おとり広告はスーパーの専門用語かと思っていたら、回転ずしがこれを活用して大いに稼いだという。濃厚ウニやイクラ盛りが100円で食えますと大々的にテレビCMを打ち、それに釣られた客が押し寄せた。ところが来店客には一つも出さず、とっくに売り切れたと店員が平然と応える。さすがにそれはひどいと消費者庁がとっちめた。だが懲りずにまたやらかした。「何杯飲んでもジョッキ生ビール半額」と店頭にノボリを立て、煽られ入った客がまたやられてしまった。まだやっていませんといい、セールがスタートしたらしたで開店直後に売り切れましたという。これほど顧客心理を操作するスシローに入ったことはないが、騙された客は会計時怒鳴りつけたことだろう。しかし社長の謝罪会見は、そげなこと屁とも思いまへん、これが我社の企業理念だという顔つきだ。
 最近自分には少々難解な節回しの曲「池上線」(西島三重子)をなんとか覚えた。昭和51年のヒット曲で、その出だしとサビが耳に残っていた。「古い電車のドアのそ~ば~ すきま風に震えな~がら~」と「池上線が走る町にあなたは二度と来ないのね~ 池上線に揺られながら~」と連呼する箇所だ。この「古い電車とすきま風」の歌詞で悪いイメージが全国に定着すると慌てたのが東急電鉄だ。なんと怒りのコメントを発出する騒ぎとなった。しかし平成元年まで本当に戦前製のポンコツ車両を走らせていたのだから仕方あるまい。小学生の頃一人で池上線を利用して五反田の逓信病院に通ったので覚えている。あれから30年。その東急が池上線開通80周年記念行事を企画「この池上線の名を全国に広めてくれたのは西島三重子さんのおかげです」と豹変し「名曲池上線号」まで仕立てた。そして西島さんをご招待申し上げ乗車してもらったという。この大人げなさに腹を抱えてしまった。
 ワコールといえばブラジャー、女性下着のトップメーカーだが、昨年末男性下着を発売した。入社八年目の女子社員の発案で、試作品を何度も上司にはかせ改良を重ねて完成したという。それはレース柄のパンツで一枚3960円もするが、半年分がわずか10日で売り切れてしまった。これは自分も買いたいと思ったが、披露する相手がいないのでやめた。
 そのワコールと関わりをもったのが京都で単身不在のときだ。イチローがCMではいて走るタイツCW-Xを烏丸御池のスポーツ店で買ってからだ。さっそくそれをはき加茂の河原を疾走していたとき、6キロ地点で石につまずき立て看板の如く90°前にバッタリ倒れてしまった。幸い腕が先に出てアゴを潰さずに済んだが、16000円もする新品タイツの膝部分にザックリと穴が開いてしまった。しばし呆然と眺め、はてどう修理したらいいものかと考えた。一人暮らしで裁縫道具などはないし飲み屋の女の子に修繕を頼もうかとも考えたが、ともかく地元のワコール本社に電話を入れてみることにした。応対に出た女性「はい完全にもと通りとはいきませんがお直しいたします。着払いでお送りください」という。さすが図々しい吾輩だがこちら払いで送った。後日電話がきて「修理代はいただきません。ご負担頂いた送料と合わせてお送りします」という。さすがこれには参った。感動するやら呆れるやら、ワコールが今もご婦人方の高い支持を受けていることが納得できた。売るために手段を選ばず、常識外れの対応をする企業が多いなかホッとする。


                                       


 



福島原発の見学

松本 誠  2022年8月20日

2022年7月1日に産経新聞社主催の原発見学ツアーに参加した。
福島原発の廃炉はすでに10年以上経過し、これからも30年以上かかるであろうといわれている。私が生きている間に原子力事故の現状はどうなのか、その現場を見てみたいという気持ちであった。いわきのホテルに集合し、事前の身分証明やコロナ検査を受けた陰性者20名のツアーであった。初めはチャーターバスで福島県双葉郡富岡町にある東京電力廃炉資料館(以前は東京電力エネルギー館と言っていた)の見学と専門員説明。ホールで事故当時の映像や廃炉作業の一部が約30分放映される。東電は原子力事故を二度と興さないため、事故の記憶と記録を残し、国内外の英知を結集させ地域住民への配慮や復興に向けた安心につながるような構成があった。まもなく4年経て8万人の見学者がいる。その後いよいよ福島第一原発の事故現場に向かう。入り口でさらに詳しい検査があり、
被ばく計数機を各自所有し、地上高さ50m程度の展望コーナーに向かう。我々見学者が受ける被ばくメーターはX線検査で受ける0.01ミリシーベルト程度。また展望コーナーから第一原発の1号機~4号機までの距離は約70m程度。正面に1号機の廃炉作業が見て取れる。地上の作業者は完全防御作業衣をまとい、大型クレーン車がせわしなく活動している。そのあたりは20~30マイクロシーベルト以上という。
私は重要な発電装置をなぜ海岸線の地下に設置したのか、津波を想定して高所になぜ設置しなかったのか、という疑問を以前は持っていた。しかし、原発の先進国アメリカがGEの装置を指導し、アメリカは竜巻や巨大台風に対抗するため地下に発電装置を設置。それを踏襲したのが福島原発であった。津波を想定した地上20数mへの発電装置の設置はありえなかった。
地震、津波、原発事故といった3大被害がいっぺんに襲った。それにしても当時の民主党政権の菅直人首相が「俺が事故現場を見て統一指揮をする、したがって直ぐヘリコプターで現地に!」と言って無謀な行動を実施。当時の官房長官枝野幸男もこれを阻止できなかった。東電の現地責任者の吉田所長は大混乱のさなか、大迷惑、どころか大荷物を背負った。原子力の専門家でもない菅直人がしでかした大バカ行為であった。
この廃炉作業はまだまだ続く。30年も40年も。現地作業員は一日3,000人が作業。その費用も莫大だ。第1原発から12Km離れて設置されている福島第2原発は津波に襲われたが、電源の一部は確保されていて、再稼働の可能性はあったが、福島の原発という恐怖は全世界に拡がり、福島第2原発も廃炉の方針だ。いまだに一部の国では福島産の農作物を受け入れていない。住民は大きな被害者であった。いまだに帰宅困難地域も多数ある。こう考えると原発はない方がいいのか・・・
いや今年の日本の猛暑など、昨年以上である。発電内容には新しい工法や新エネルギー方針も提示されているが、原子力発電にかかる比重は依然として大きい。世界の環境の中にあって、その廃棄も考慮しながら、活用もせざるを得ないのが現状だ。
廃棄すべき原子力利用の排水も大きな問題ではあるが、世界基準をクリアしていれば堂々と海洋放棄も仕方ない。東京電力はまさに国営企業とならざるを得ない。
地元住民が安心して帰宅できる環境が一日も早く来れるようエールを送りたい。
私は東日本大震災後、早稲田の仲間に呼びかけて東北激励旅行を4年つづけた。
労働奉仕はできないが、現地で宿泊し、買い物し、現地の仲間を元気づけることが直接被災をしなかった我々の務めと考えたからだ 。
これからは福島の農産物を積極的に購入しよう。


                                       


 



館山をめぐる二つの思い出

富塚 昇   2022年8月20日

 7月23日 (土)、千葉県館山にドライブに行ってきました。館山は私の40年の教員生活において、二つの思い出がある場所です。
 館山最初の目的地は「砂山」というところで、浜から吹き上げられた砂が山の斜面に堆積してできた天然のサンドスキー場です。私は35歳の時に、晴海総合高校の開校に向けた準備を担当する幸運にめぐまれました。0からのスタートで、新しい学校づくりに向けてどのような生徒を育成するのかを考え、具体的な様々な仕組みを組み立てていきます。そんな中で計画されたのが入学してすぐ館山での移動教室でした。その移動教室では、新しい高校での学びを理解するためのいくつかの課題を行うとともに、レクリエーションもかねて、コースを間違いなく歩くウォークラリーが計画されました。特に開設当初は、教員はもちろん生徒も新しい学校をつくる熱意がみなぎっていました。そして、そんな新設校の一つの象徴的なイベントが砂に足を取られながらの「砂山」越えだったのです。というわけで教員生活の最初の駆け出しの約10年間を終え、次の10年間の第一次充実期の思い出の場所が「砂山」だったのです。
 そして、その後、館山に家族旅行をした時に、車で海沿いの道を通っていると、立川高校の寮があることに気が付きました。その時はこんな感じでした。
 「へえ、こんなところに立川高校の寮があるんだ。立川高校みたいな名門校は、自分には関係ないだろうなあ」。今でも覚えている正直な気持ちでした。
 しかし、幸運に恵まれて第二次充実期の青山高校での10年間を経て、私は東京都で2番目の伝統校である立川高校に勤務することになりました。そして、1年目の夏休みには同窓会が運営する寮で戦前から行われてきた「臨海教室」に引率者として参加しました。ということで館山ドライブの二つ目の目的地は立川高校の寮とその前に広がる海です。今年、3年ぶりに「臨海教室」が行われると聞いて、差し入れを持っての陣中見舞に行きました。
 この行事を一言で表すと、それはもう「とんでもない行事」です。海での遊泳指導は、大学生を中心にOBGが行います。海での行事ですから一歩間違えれば大きな事故にもつながります。そのため臨海教室全体で規律が要求されます。朝は6時起床から始まって、集合時間に1秒でも遅れようものなら、教員あるいはOBGの先輩から雷が落ちます。寮の各部屋の掃除は、砂粒一つない位まできれいに雑巾がけをしなければなりません。海に入る時には、バディ (二人組) を組み、人員点呼をしますが、声が小さければ何度でもやり直しをすることになります。そして当然、海の中では安全を確保するためにも緊張感を持って泳ぎます。引率教員は、生活指導とともに生徒たちの遊泳時には手漕ぎボートにのり、班ごとに行われる遊泳指導を見守ります。しかし、風が強いときにはそれどころではなく、気がつくと岸から遠く離れ沖に流されそうになることもあります。私も何回か恐怖体験をしましたが、教員にとっても命がけの行事なのです。そして臨海教室のハイライトは3日目の午後に行われる遠泳です。男子は90分程度、女子は70分程度隊列を組んで泳ぎます。6月から学校でのプール指導から始まって、入学したときには金槌だった生徒も含めてほとんどすべての生徒が泳ぎ切ります。泳ぎ切った生徒たちは達成感で満たされます。私は初めて引率したときに、「今時、こんな行事が行われているのか、これはとんでもない行事だ」と感動し、なるほどこれが伝統校の力なのかと思ったものでした。今回、生徒たちが泳ぐ姿を久しぶりに見て、立高で伝説的にいわれている「臨海教室を経て初めて真の立高生になる」という言葉を改めて思いおこしたのでした。
ということで、今回は館山をめぐってノスタルジーに浸る話でした。
 

                                       


 



四季の記憶87 映画「PLAN 75」

鈴木 奎三郎   2022・8・20

 8月に入って、ますます暑さが厳しくなってきた。若いころは夏が大好きで全天候型が自慢だったが、80歳を超えて急に気力体力が衰えてきたことを実感している。トシ相応の老化であることはわかっているが、どう頑張っても老化は止めることは不可能だ。
 さしせまってこれという用事がないと、朝食のあと小一時間あるいは夕方にうとうとするのはいつからのことであろうか。これが何ともいえず気持ちがいい。ここまで来たら、よくてあと残り数年。父親が短命であったため、まさか自分が80をこえて生きているとは思いもしなかった。ただし母は14年ほど前に亡くなったが数え100才まで生きた。最後の2,3年は幾分認知症気味ではあったが多摩プラザの老人ホームに10年近くいた。月に2度は顔をみに行っていたが、帰り際日々衰えていく母に「また来るね‥」というと何とも言えず寂しそうな表情を見るのは辛かった。

 さて、夏の過ごし方はいろいろあるが、映画もそのひとつである。幸いなことに、車で10分の所にシネコンがある。イタリアン、北海道ラーメン、焼き肉などレストランも充実している。駐車場も完備で、ほとんど映画はここで見ることができるし、モノによっては銀座、新宿まで足を延ばす。期待外れの映画は、途中で2,30分居眠りをする。筋がさっぱりわからなくなる。場合によっては途中で抜け出すこともある。無理して最後まで見ることもない。
ここのところ、いい映画が続けてかかっている。
 「ドライブマイカー」「トップガン・マーベリック」「ベイビー・ブロカー」「峠・最後の侍」「PLAN 75」などである。子供向けのアニメもなかなかいいのがある。夏休みの今は子供連れの家族も多い。

 「PLAN 75」は今年一番の話題作かもしれない。主演は倍賞千恵子である。実年齢はもう81才である。メイクアップもなしでまさに80才超えの素顔を見せている。
 荒筋はこうだ。75才を過ぎたら自分の生死を決めることができる、社会の高齢化を押しとどめるための政府の政策で、75才になると「安楽死」を選べる、支度金10万円がもらえる、心のケアも受けられる、「心やすらかな旅立ち」をお手伝いする・・SFとはいえどヒョットしたらと・・背筋が寒くなる現代日本のデストピア映画である。それは社会の高齢化を押しとどめるため政策で、窓口の担当者は保険の加入を勧めるかのようにその内容を説明するのだ。

 倍賞さん演じる78才のミチは、夫を失い、同世代の女友達とホテルの清掃員をしながら自活している、しかしささやかな暮らしは、仕事を失ったことでほころび始める。身寄りのないミチは行き場を失い、政府が導入した制度「PLAN 75」の利用を決める。結論はあえて記さないが、まだやっている館もある。この夏、一押しの映画である。

 高齢者を追い詰める社会の非常こそがメッセージであるはずなのに、倍賞さんら日本の発展を担った世代が目のあたりにする現実、必死に生きる人々へのエールだった山田洋治監督の「家族」の苦い続編かもしれない。調べてみるとこの映画は1970年で、今やぼんやりとしか覚えていないが、ほろ苦いロードムービーだった。高度成長期を背景に、赤ん坊と幼い息子を連れ老いた義父をいたわるしっかり者の若い妻を倍賞さんが演じていた。それから半世紀余り、若かりし倍賞さんの名演技が輝いていたかすかな記憶がよみがえる。

 我が身に置き換え考えてみたら、ぼくもすでに75才どころか、それを5年超えている。一種のSF映画ではあるが、決してそうとも思わせない映画だ。見ていて楽しくなる映画ではないが、いずれ訪れるであろう近未来の姿を直視せざるを得ない。生あるものは誰一人としてその現実から逃げることはできない。


                                       


 



ツボウ君の話

坂本 成  2022.8.20

 15年ほど前にタンザニアに行った。アフリカ大陸の東部に位置する草原の国で日本のほぼ2.5倍の面積を持つ。セレンゲイ国立公園などいくつかの広大な公園があり、国を挙げて自然保護に力を入れている共和国である。

 在職していた会社がエジプトなどアフリカ諸国の官僚候補の研修生を受け入れた時、施工中の建設現場の案内をしたり、宗教上問題のない食事の世話をしたりと手配や手伝いをしたのだがそこにタンザニアから来たツボウ君がいた。長身で物静かな青年であった。 

 定年退職後、長らくの願望であったアフリカ行を決めた。10年ぶりにタンザニアの空港で彼に会って、今度はすっかり世話になることとなった。

 ある日草原の中にある小さな集落に行った。周りはしま馬やトムソンガゼルの群れが草を食む見渡す限り炎熱のサバンナの草原である。真っ赤な陽が傾き始める頃、ゆらゆらとかすむ地平線に何やら黒い塊が現れ、それがだんだん近づいてくる。近づくにつれてこれが牛の群れと判り、さらによく見るとその塊の中心に一人、小さな子供の姿が見えた。「あの子は昔の僕と同じです」とツボウ君は言う。毎日夜明けとともに、30頭程の牛を連れトウモロコシのパンと水を腰にしばりつけて20キロを歩いて水場に行き、そこで一日を過ごすのである。牛達は道中で自分達の「小さな親分」をライオンや豹から守らなければならないことを心得ていて、しっかり周りを取り巻いて離れないという。

 無事に帰ってきた牛たちが上目使いに「親分」を視る大きな優しい目が忘れられない。

 帰国してからこの様子を油絵にして「信頼(TRUST)」という題名を付けた。

                                       


 



八月のジャーナリスト

小林 康昭  220820

 八月が近づくと、新聞は「あなたの戦争体験を」と募る。そして、八月に入ると、連日の紙面は戦争にまつわる読者のプライバシーを語り「・・・だから、戦争をしてはなりません」と締めくくる。
 戦争は相手があってのことだから「してはならない」とか、民間人やメディアが「非戦の誓い」と言ったところで、誓う資格や権限があるわけはない。メディアのするべきことは、誓ったり祈ることではない。「戦争にならないようにするには、どうすべきか」を説くことなのだ。誓うのは政治や行政の務めだ。祈りは宗教の務めだ。
 連日の紙面や映像には鬱陶しい限りだが、メディアも最近は己の愚かさを自覚したのだろうか、「八月のジャーナリスト」と自虐的に自称するようになった。外国で生活してみると分かるが、戦争の捉え方には多様性がある。その点、日本のメディアの戦争観は、単純で一本調子である。戦争の持つ多様性を承知すべきだ。
*  *  *
 ビルマのラングーンで勤務していた時だった。ある日、社長からの紹介で、一老紳士がやって来た。兵士としてインパールに従軍したそうだ。彼は従軍した戦跡を訪ね、亡き戦友たちを鎮魂するのが目的だった。一夜を提供した我々のもてなしを受けながら、彼は往時の非運を嘆き、戦備に必要な火器弾薬どころか、食料、被服までもが欠乏していた、そして、作戦や戦術の無謀さと不条理を誹謗した。だが、単なる一兵士如きが、作戦や戦術の実態を語れる筈はないのだから、その知識は高木俊郎のノンフィクション「インパール」や「抗命」の受け売りだった。
 翌日、彼は、奥地の戦跡に向かった。数日後に戻ってくる予定である。彼の不在中に、現地駐在の商社マンと話す機会があった。彼の駐在員事務所に、偶々、インパールに従軍した英国人が顧客として滞在していることがわかった。そこで、奥地から戻ってきた元日本軍兵士と、元英国軍兵士を引き合わせることにした。二人が記憶を辿って話し始めた。例によって元日本軍兵士は、自分たちの非力と軍備の貧しさと戦術の拙さを愚痴った。
 一呼吸置いて元英国軍兵士が、穏やかな口調で語り始めた。「今まで、インパールで対戦した日本軍ほどの強敵はいませんでしたよ。敵ながら、天晴れでした」これを聴いて、元日本軍兵士は絶句してしまった。
 数日後、日本に帰国する彼を空港で見送った。「敵さんのイギリス兵に褒められるとは・・・」彼は泣いていた。「あの世で戦友たちに言ってやりますよ。冥途の土産が出来た・・・」
 それを耳にした商社マンはニベもなかった。「相手を褒めておいて、それに自分たちは勝ったのだ、俺たちの方がもっと、と自慢したいわけですよ」イギリス生まれのスポーツマンシップの源流は騎士道だそうだ。そのスポーツマンシップと騎士道には「敗者に対する尊敬の念を欠かさない」教えがあるそうだ。
 これに反して日本人は、日本軍に抗った中国国民軍を褒めたことなどなかった。今も、それはない。
*  *  *
 アラブで建設工事現場を開設した際、フィリピン北部の農村地帯に出かけて現場作業員を調達したことがある。外国で働く希望者を募るには、地元の顔役とわたりをつける必要があった。幸い話が巧く進んで、予定通りの人数を雇用することが出来た。アラブに戻る前夜、顔役たち関係者を感謝の宴に招いた。顔役の一人、地元選出の国会議員が隣にすわった。酔いが進み話が弾むと、彼は「あんたがマニラから飛んできた飛行機が着陸した飛行場は日本軍が作ったのです」そして、その飛行場から、特攻機が毎日、飛び出していったのだ、としゃべり始めた。
 しゃべり出すと、彼は熱くなってきた。「私はそのとき、小学生でした。飛行場の柵の外から、特攻兵が飛行機に乗り込むのを見ていました。彼らの飛行機はオンボロでね、可哀想だと思いましたよ。でもね、彼らは毅然としていましたね。国を守るために、命をささげる、あんな立派な人たちはいない、凄い、とても凄い、凄いなぁ・・・」
 彼は興奮して涙ぐんでいた。政治家にとって、無条件で命を投げ打って国に殉じてくれるのは、理想なのである。
*  *  *
 アラブの建設工事の現場で、日本の新聞社と講読契約すると、その当時、三日後に朝刊が届いた。
 偶々、事務所で、広島に原爆を投下した日の八月六日の、翌日発行の新聞に目を通していると、来客があった。発注機関の役員で、その国の王家の一族である。彼は私に、新聞記事の内容を訳して話してくれ、と言った。求めに応じて、私が記事の概要を話して聞かせると、彼は「その記事は、日本政府の本音を隠す表向きの話だよ。日本政府と軍部は、復讐するための核兵器の研究や開発を怠りなく進めているのだよ」と、確信ありげに言う。
 私は驚いて「そんなことはない」と応じると、彼は「君は一介の分際だから、知らないのだよ」と憐みの眼を見せた。。
 諸外国には、日本をそのような目で見ている国もあるのだ。それが国際的な常識なのだ、ということは、いつかはその常識通りの恐ろしいことになる。その時になって、恐ろしい、と言って避けるわけにはいかない、と言うことだ。


                                       


 



紫陽花と消防団

照山 忠利  2022.6.18

 雨に濡れる紫陽花(アジサイ)を見て、そういえば長崎のおたくさ祭りは今頃だったなあと記憶をたどってみた。長崎では紫陽花のことを「おたくさ」という。長崎出島の商館付医師として来日したドイツ人シーボルトが、最愛の妻お滝さんにちなんで、アジサイに「ハイドランゲア・オタクサ」という学名をつけたのが語源となっている。
 長崎の紫陽花の思い出に浸っていたら、福沢剛区議会議員からFacebookの来信があった。消防団のポンプ操法大会の練馬区予選が行われ、練馬消防団第7分団(春日町)が優勝し練馬区代表として東京都大会に出場するという。区議の送ってきた記事は、訓練された消防団員の見事なパフォーマンスを称えた内容だったが、当方から「昔長崎の離島の消防団で団長をしていたので消防と聞くと血が騒ぐ」とコメントしたところ、「先輩が消防のしかも団長をしていたとはおみそれしました」との返信がきた。
 長崎県高島町(当時人口5,000人)消防団の団長をしていたのは今から36,7年前のことだ。会社の総務課長になるとほぼ自動的に町の消防団長に就くことになるので、普通の市町村のようにたたき上げの有力者が消防団長になるのとはいささか趣を異にする。全島の住民の大半が会社関係の従業員とその家族であったから、高島町という自治体はいわば会社の事業所の中にあったようなものだった。従って従業員を束ねる立場の総務課長(勤労課長)が消防の元締めになることは全く違和感がなかったわけである。当時の顛末については2010/12の本例会において「年末警戒」の題で発表したので内容は割愛する。
 消防団とは119番の消防署とは違う存在だ。団員は本業の仕事を持ちながら消防団活動をする。消防署員をプロとするなら消防団員はアマチュアである。基本的にはボランティアで地域の安全・安心を守るために活動する。火災予防に努め火災発生時には消火活動にあたるほか、風水害や地震などの大規模災害時において救助活動や警戒、避難誘導などに従事する。昔は自営業や個人事業主が多く職住も近接していたので、火災発生時には初期消火の点で重要な役割を担っていた。近年は勤め人(被雇用者)の割合が多くなり、地域に根差した消防団はその存在感が薄れてきている。ピーク時には200万人を数えた全国の消防団員は現在81万人となっている。少子高齢化の影響を受けてもいるようだ。
 でも消防団の果たす役割は単なる消防・防災活動だけにとどまらない。団活動をすることにより規律を学び人格形成にも役に立つ。社会貢献をしながら地域社会の安定に寄与している。コロナ禍で拍車がかかった人間関係の希薄化を防ぐためにも必ずや資することになるだろう。若い人は積極的に消防団に参加してほしいものだ。
 今回もまた紫陽花を見、消防団を思い出し、つい長崎への追憶の念にとらわれてしまったことになる。
(了)

                                       


 



新しい世界

鳥谷 靖子  令和四年 六月十八日 

 「かおりさん、来る途中、この辺にない美味しいお菓子を買って来てくれないか?」と夫の実家から電話。「はい、わかりました。」娘が舅と姑のいる品川に通い始めて三年。午前九時前、練馬を出発。一日中働き、ぐったりして夜九時頃帰宅する様子。
 舅は九十五歳。少し認知機能が低下した妻の世話をしながら暮らしている。八十歳まで働き、田園調布のカトリック教会に通っていた、クリスチャンのご夫婦。会社を辞めてから教会の旅グループに入り、イタリヤの教会巡り、スペインの巡礼地を訪ねる旅等に二人で参加、お元気な様子を羨ましく思っていた。
 金婚式に、三人の息子と家族を雅叙園に招待。舅は五十本の赤い薔薇をホテルの花屋に注文、妻に贈るお洒落な方だったと聞いていた。
 九十歳直前、舅が両足に膝の手術を余儀なくされ、姑も骨折から、脳梗塞も併発。自由に体動かせなくなった二人だが、慣れ親しんだ環境を変える考えはなかった。三人の息子と嫁が交代で毎週通う日々。「良い方達だったから、行くのは当前よ。」と娘は言う。息子三人、嫁三人何とか融通し合って親元に通っている。行く度、娘は喜ぶだろう食べ物を持参する。管理栄養学を学び、元来食べる事が大好きだったせいか、珍しく美味しい食べ物探しは得意。「お父さんから【かおりさんは新しい世界を見せてくれる】と喜ばれたの」。と嬉しそうに言う。娘の義父はマスコミの世界にいた方だが、足が悪くなり、外出もままならず、夕食は宅配サービスだけの生活。子供達やお嫁さんの訪問が楽しみなのだろう。舅の感謝の言葉やメールは、娘に親孝行する意義や喜びを教えている。
 コロナ禍で、自宅周辺だけの生活が続いている五月のゴールデンウィーク、娘から「函館に行かない?雄一さん車を買ったから、私の運転で函館案内するわ。」と電話。
去年の暮から、函館に単身赴任中の娘婿。
 函館へは初めてだし、数年間の巣篭り生活から解放されると決心する。
 函館まで飛行機で約一時間余。六月上旬東京は梅雨に入っていたが、函館の空は快晴。彼方に海を見下ろす坂道の両側に、いくつもの異国情緒溢れる教会群。夕刻ロープウェイで函館山に。山頂から、壮大な夜景を眺める。夕食は海の幸を楽しむ。夫の家に行く娘と別れ、函館グランドホテルに泊まる。それも気楽。翌日、娘の運転で、トラピスト修道院、五稜郭、六花亭で海を眺めながらランチ。夕刻、仕事を終えた娘婿を交え夕食。三人で海沿いの温泉ホテル渚亭に宿泊。早朝、部屋のガラス戸に広がった津軽海峡。右端に函館山。遥か彼方に霞む下北半島。北国の荒涼とした海に泡立つ白波、海面すれすれに飛ぶ数羽のカモメ。広い浜辺には人影は見かけない。故郷の大分の海に思いを馳せた。
 三日目、三人で大沼国立公園へドライブ。遊覧船で大沼を一周。駒ケ岳が噴火、山の上部が崩れ、川を塞き沼「湖」を作り、落ちた岩石を木々が覆い、点在する不思議な景色。
 何時までも、子供と思っていた娘が、テキパキと行動する良き妻となり、体力の弱ってきた自分の母親に、気配りもする様になった。この旅は、娘から【新しい世界を見せて貰った】気がしている。感謝の気持ちを忘れずに伝えておこう・・・
今日を生きるシリーズ  函館への旅 


                                       


 



笑うトナカイ

横山 明美   2022年 6月

 娘のお下がりのコートを私は気に入っている。ベージュのごくありふれたデザインだが、シルクの混じった薄い生地なので季節が終えるころには袖口が黒ずんでしまう。近くのクリーニングのチェーン店に出すと、やがて戻ってきて驚いた。袖口の黒ずみはほとんど落ちてない。受け付けて、前払いの代金を受け取り、いらぬカードに勝手にポイント印を押すだけの人に文句を言ってもしょうがない。週に二度御用聞きに来てくれていた米川さんが懐かしく思い出された。
 米川さんはお兄さんと二人でクリーニング店を営んでいた。お兄さんは口数も少なくいかにも技術一筋という人、米川さんはそんなお兄さんに可愛がられて育ってきたに違いない。二人とも地域の父兄とともに、子供たちの小学校で少年野球の指導に当たってくれていた。我が家の息子は、ものごころついた時から父親どころか神戸の伯父さんたちに阪神ハンシンと入れ知恵され、すっかり野球少年になっていた。地域の学校との試合では大事なところに来ると「ミチオここで打てー!」などと米川さんは大声を飛ばしていたものだ。
 玄関先に現れる米川さんはさすがにいつも、気持ち良く糊のきいたシャツ姿で足元までぴしっと決めていた。少し恥ずかしがり屋のおにいさんという感じの人で、花瓶の花を見れば「これきれいだ。僕もこの間花の写真撮りに長浜さんと一緒に新宿御苑に行ってきたんです」などと言い、短い時間に花や写真仲間の話になる。それでもわきまえた人で、こちらの腰の浮かし具合で話にキリをつけて次の家へ回っていくのである。路地を向こうへ回ったところに写真家の長浜さんの家があり、いい飲み仲間でもあるらしい。師匠と弟子だ。
 私の部屋のドアの上の壁には、ちょうど人の顔ほどの大きさのトナカイの縫いぐるみの頭が掛けてある。とてもうれしそうに、ゆかいそうに歯をむき出して笑っている。ベッドに横になり入り口を見上げるといつでも大いに笑っているのである。これを見てつい頬の緩まない人はいない。「娘に子供が生まれるので何か・・・」と探していた知り合いを連れて行き銀座の博品館でこれを見つけたとき、薦めついでに自分も買ってしまった。気持ちが落ち込んだ時は寝る前にそれを見る。しかし飾りっぱなしでだいぶ黒ずみ老けこんできたので、ある日米川さんに相談してみた。彼は「えっ」と両掌をモミジのように空にかざしてどんぐり眼をさらに見開くと「そんなに大事なものならなんとかきれいにしてやらないと。しかし初めてだなあ」と首をひねりつつ胸に抱くようにして出て行った。しばらくするとお風呂に入ってさっぱりしたようにトナカイは若返って帰ってきた。
 それからのち米川さんは独立し、駅の反対側に小さな店を持ったが、その頃からあちこちにチェーン店ができ、手仕事の御用聞きは難しいご時世になっていた。その時を待ちぶせたかのように米川さんを癌が襲った。一人残されたしっかり者の奥さんの姿も見なくなり、店は今流行のマッサージ店に代わってしまった。
 夜ふと見上げるとトナカイは、来れば玄関先をパッと明るくしてくれた米川さんの分まで、老いてますます元気に楽し気である。明日がいい日でありますように!

 

                                       


 



四季の記憶86「牛に引かれて・・・」

鈴木 奎三郎   2022・5・1

 この4月で80才。もちろん待ち望んでいたわけではない。いつの間にトシを取ったのだろう。誰の断りもなしに・・・。ここまでくると、もう開き直りしかない。どう転んでもよくてあと数年。あなた任せ運任せの一年が始まっている。
 江戸時代後期の俳人、小林一茶が有名な「春風や牛に引かれて善光寺」を詠んだのは1811年。江戸に住んでいた一茶は、この年に善光寺で御開帳があることを知り、参詣者でにぎわう様子を想像して詠んだという。この句は今の長野県小諸市に住んでいた欲深いおばあさんが、洗濯した布を角に引っ掛けた牛を追いかけた先が善光寺で、そこで欲深さを改心したという昔話を踏まえているそうだ。ちなみに一茶の生家は長野県北部の柏原の片田舎である。身内との相続争いに加え、連れ合いを亡くして寂しい晩年だったそうだ。

 その善光寺では、8年ぶりに御開帳が開かれている。本来は7年ごとだが、昨年はコロナの影響で延期された。4月3日から6月29日までの期間には、多分700万人程度の参詣者が訪れることだろう。例年の5割増である。
善光寺の御本尊・阿弥陀如来は創建以来の絶対秘仏で誰も見ることができない。そのお身代わりとして「前立本尊」が本堂の前に設置される。秘仏からは白い綱が引かれ、これに触れていろいろな願をかける・・というものだ。早世した父に手を引かれて行ったのは、何才の時だったろう。ぼくが小学校3年の秋になく亡くなっているから、多分入学前のことだ。

 長野駅から善光寺の山門まで約2キロ。参道の終点は仁王門である。高村光雲作の巨大な一対の仁王像が安置されている。ちょうどその参道の中間に生家があった。ここを 1998年の長野冬季オリンピックの時に、市内の表彰式会場として明け渡すことになった。
当初はここに県下随一の高級ホテルを建てる計画があり、長野電鉄、第一生命、清水建設、鈴木土地などが出資者となり「セントラルスクエア」という会社を作った。出資者の一人であり地権者でもある長野在の長兄から、会社を辞めて新会社を手伝え・・との内示があった。しかしバブル後の経済状況は、高級ホテルどころではなくなった。市の中心部にしばらくは2000坪の空き地ができたが、ここは当面の措置として駐車場になった。その後長野市に貸し出すことになって、いまはオリンピックの記念公園になっている。

 「セントラルスクエア」と称しているが、まさに長野市の中心である。大学生のころは、夏休み冬休みにはこの家が仲間の集まりの中心であった。2Fには18畳の大広間があり、ここでよく徹夜マージャンをやった。母が用意してくれた朝食をみんなで食べた。おおきな塩にぎりと豆腐か何かの味噌汁であった。みんなで食べた後はお昼寝である。この4年間はこれという目標もなく怠惰な学生生活を送った。ほとんどの仲間も大同小異だったと思う。
家のすぐそばは「権堂」という市内随一の繁華街があり、山仲間には有名な「奈良堂」という喫茶店があった。ここには、女子高生が集まりナンパ高校生の聖地でもあった。授業が追わるとぼくもほぼ毎日のように通った。近くにはパチンコ屋も数店あった。大学の休みには昼間はパチンコ、夜はマージャンかダンスホールに通う日々。ほとんどの仲間がそうだったが、これという勉強もせずに遊民のごとき日々を送っていた。

 通った県立高校は善光寺の裏手、歩いて20分程度のところにあった。しばらくは自転車で通ったが、善光寺の登坂がつらくそのうちにバスに切り替えた。冬場の寒さはほぼ札幌並み。今のような温かいヒートテックもなく、よく寒さに耐えたものだと思う。善光寺の参道は長々と登っていくが、狭い平地や盆地の縁に山が迫る日本の地形には、一直線、ゆっくり、長々が組になる寺社はほかにないという。通りの両側に店が並ぶ門前町を過ぎると、その裏手にいくつかの宿坊がある。寺の運営に参画する僧の住まいで、もちろん仏も安置され仏事を営むことができるそうだ。高校の運動部の合宿はここが定番だった。

 桜が満開の今頃、御開帳効果で善光寺周辺はにぎわっていることだろう。退職してから7年に一度、欠かさず行っているので今回もいかなくてはならない。善光寺の本堂東側に立つ一茶の句碑には、「春風や・・」にならんで以下の句が刻まれている。

 「開帳に逢ふや雀も親子連」


                                       


 



関 博之さんの一周忌に

華岡 正泰  2022.6.18


    関 博之さんが逝って もうすぐ あっという間の一周忌。
    練稲での親友 早速 完さんの時と同じく一文を供したい。
  
 私は関さんの前の 塩田典男 事務局長の時代から どっぷり練馬稲門会に漬かっているが その塩田さんが「年を取った。誰か代わってほしい」と言い出した時には 塩田さん程の人に代われる者がいるのかと心配した。そんな時 関さんは私に「貴方同様 私の家も稲門一家。そんなこともあるから 私がやりましょう」と申し出てくれた。以来16年。“人の三井、組織の三菱”と言はれる三菱で仕事をしてきた関さんは 荻野会長の下 塩田さんの後を継いで 23区はおろか全国からも注目される 今の立派な練稲の組織を作り上げてくれたのだった。

 私は生徒、学生時代からの幾つかの会に属しているが どの会に参加しても「お前のとこの練馬は・・」と褒められ 羨ましがられ 私はそれを誇りにしている。
私は今の生活を「想像もしなかった老後」と表現しているが、私の予定表は練稲の行事、練稲有志の集まり それに私の病院通いだけで埋まっている。小学校、旧制中学、高校、大学、所属した会社の同僚先輩の多くは既に亡く、年次を問はない練稲での付き合いだけが今の私、つまり練稲あっての老後となっでいる。関さんは そんな練稲を作り上げてくれたのだった。
 “関さんを偲ぶ会”の時に配られたプロフィールを見て 驚いた。関さんは大学の4年間 柔道部に所属していたというのだ。そんな自慢話 長い付合いの中で聞いたことはなかった。関さんはそんな奥ゆかしい人だった。

 関さんを亡くしたことは練稲にとって大打撃。でも喜々津さん、平田さん以下事務局の方々、サークルの部長方がしっかり組織を守ってくれている。私はあと半年もすれば92歳になるがまだまだ元気。これからもずっと練稲と共に余生を送りたいと思う。
 関さん有難う。安らかに眠ってください。そしてご家族のことを見守られる時、どうぞ練稲のことも。  私のお願いです。  合掌



                                       


 



時に、安堵の涙した

谷川 亘    2022年6月18日

 “桑原桑原”。一時はあれだけ猛り狂ったのですから・・・・。
 時すでに終盤なんて思い込もうものなら仕返しが怖い。それにしてもこの所は悪戯も尽きつつあるのか?低位安定と言うのか、下げ止まりと称するのかはともかくとして、コロナ禍の方はやっと先が見えてきたようですね。
 何せ三年越し、“三密”がすっかり身についてしまい、“お人払い”と怠惰な毎日で心身ともに萎え切って、如何せん、慣れるとは怖い、それが至極当たり前の体たらく。
もともと、八十路を過ぎて体力・知力がそうでなくとも劣化しているのだから、蟄居三昧がごく“フツー”の毎日と成り下がっても平気の平左。
 感情がのっぺりして起伏が薄っぺらになり、コロナ禍が暗転しても、「アッッそう」とまるで他人事。何食しても“美味い”の一言が出ない。逆らわずに何事にも、じっと“我慢の子”であった。「この不況下、一致団結したのが実を結び好決算ですよ・・・」なんて言おうものなら、“大”会長さんからはお世辞でもお褒めに与れるかと思いきや、それこそ「アッッそう」の一言。もはや経営者として失格です。
 万事“良い方向”に進むなんてありゃしない。このままでは止まらない。陰惨まっしぐら。認知症もさらに歩を進めるという悪循環そのものなのです。

 話題転換。時に、ほんのり涙した話で失地回復させていただきます。
 5月20日、「武蔵関公園」に並行して流れる石神井川河畔で早朝“よた歩き”途上、生後間もない子連れカルガモ一家がそれこそ“束になって”移動しているのを見かけました。生後間もない密着移動は良くマスコミでも取り上げられますが、昔、三井物産の池辺を後にして内堀通りを一塊になって、「そこのけ、そこのけ要人のオ通りだい・・・」とばかりに通行遮断。必死の思いをして大手濠に着水して我がことのように胸撫でおろしては、思わず感涙ひとしきり。
 生まれたばかりの小がも7羽。親から離れちゃならんとひと固まりになって必死に追いすがる。親も親とて一羽たりとも失ったらお家の一大事。そこは親と子にしか分からない“絆”なのですよ。傍で見ると愛くるしい仕草なのですが、親も、そしてコガモだって必死の形相。
 千載一遇ではないですが、再度の逢瀬期待して馳せ参じては10日間に三度の出会い。団子状になって身を寄せ合っていたコガモは、たった数日の間に凛々しくなって親の前方を身勝手に泳ぎまくって、うち一匹は別方向に泳ぎだす。そうですよ。何度数えてもコガモは6羽。種の根絶防止すべく多産系はゆとり見ているのですよ。
 最後の御目文字は、シッタカメッチャカはしゃぎまわる。それこそものすごい水しぶき。親だって、水辺から上がって毛繕いするゆとりさえ・・・。あたしだって(まだ若い)。父カモの妻なのよ!!!







                                       


 



ある花嫁の父の話

富塚 昇   2022年6月18日

 4月30日(土)、14時発の新幹線「のぞみ」に乗った。車内ではもっていった小説「とんび」を読みながら過ごした。16時15分に京都駅に到着する。最初に娘が取ってくれたリーガロイヤルホテルに行く。荷物を置き本日の目的地、京都伊勢丹の和食店を目指す。伊勢丹の入り口で先に出かけていた息子と落ち合う。エレベーターで11階へ。約束の17時30分ちょうどにお店に着いた。そこには娘と娘の結婚相手が待っていた。そう、その日こそ娘の結婚相手との家族顔合わせの食事会の日だった。
 新幹線の中で読んだ重松清さんの「とんび」は父と息子の話であるが、父親の子育て、子どもの成長と親の子離れがテーマの小説で、子どもは男の子だが早稲田の法学部に進み、最後の方で結婚をする。男の子と女の子という違いはもちろん大きいが、その以外の2つの点で今の私と重なるところもある。重松清さんは早稲田の教育学部出身ということもあり、この点でも親しみがわく。
 話を元に戻そう。昨年の夏、仕事で大阪に住んでいる娘から「今度会わせたい人がいる」と連絡があった。最初にそのことを聞いたときに、私の気持ちとしては「やっとその時が来たか」という感じで喜びの気持ちが大きかった。私は1989年に31歳の時に結婚をして、翌年娘が生まれた。娘は私と妻が結婚をした年齢になっていた。7月の末に二人でうちに来た。娘とお相手は東京で勤めていた時に職場で知り合い、2年前に大阪の別の職場に転勤をして、それぞれが一人暮らしをするようになってからつき合いが始まったのだという。いかにもありそうな話だ。ちなみにお相手は滋賀県出身で大学は京都の私立大学を出ている。今年の1月末にもう一度会う機会が設定されそこで二人の結婚の意思を確認した。
 食事会は花嫁の父が荒れることもなく和やかに進んだ。お互いの子育てのこと、二人の勤め先のこと、お相手のお兄さんが小学校の先生をやっていることもあり、最近の教育のことなども話題に上った。関西に親戚ができることはあまり考えたことがなかったが、予想しないことが起こるのが人生というものだろう。ご両親もそこそこ飲める方のようであり、私としてはこの点もよかったと思っている。
 さて、二人は入籍を3月21日に済ませている。しかし、披露宴については、現状では行うことが難しい状況にある。実は今年の4月の転勤で二人そろって東京への転勤を希望していたのだが、娘は東京に転勤できたが、お相手は大阪に残ってしまった。新婚早々別居結婚の形になってしまった。そんな状況ではあるが、こじんまりした形でも「花嫁の父親」の役割ができる場を設定してほしいものである。「花嫁の父親」としての何らかの「通過儀礼」がないと前に進みにくい気がするのである。諦めの機会があればこそ、前に進めるのではないかと思うのだ。
 娘が結婚することになり、喜びの気持ちがある。ホッとした気持ちがある。しかし、「花嫁の父」は昔から寂しいものだと相場が決まっている。私は高校で哲学的なことや宗教的なことを教えてきたのだが、こんな時に先哲の思想家の言葉を実践しなければならない。アリストテレスは次のように言う。「私たちは自らを律することによって、自制心を身につけることができる」。そしてブッダも言う。「行動を制御することは善いことだ。心を制御することは善いことだ。すべてにおいて制御することは善いことである」。
 しばらくはお酒の量が少しばかり増えることはやむを得ないとして、大幅に増えることがないようにしっかりコントロールしていこう。
 

                                       


 



黄色のクロッカス

鳥谷 靖子  令和四年 四月十六日 

 朝、目覚めると二階の寝室の窓を開け「今日の天気は、どうかしら?」。と空を見上げる。青空が広がると、気分爽快に一日が始まる。窓辺に赤、白、ピンクのゼラニュウムの花。「元気、水飲みたい?」と触ってみる。
 二月中旬、立春が過ぎたと言え、まだ寒い日々が続いている。子供達が巣立ち、気持ちに余裕出来、小さな庭に草花を育てるのが楽しみになっている。庭の片隅の水連バチのメダカ達が餌を待っているが、寒さのせいか出てこない。
 ガチガチの地面から黄色のクロッカスの花が咲いていた。短く細い葉の中から、手の平程の可憐な花で、春の訪れを教えてくれる。
 何気ない平和な日常。コロナ禍も次第に収まり、桜の開花予想を楽しみな毎日だった。
二月二十四日、ロシアがウクライナに侵攻のニュース。初めは遠く場所もはっきり知らない国の話と思っていた。独立国家が他国を侵略する様子が連日テレビ画面に映し出され、二十一世紀なのにと、次第に不安になってくる。
 四年前の夏休み、息子の友人のポーランド人が二階の空屋にホームステイする。食事後に団欒したものだ。第二次世界大戦中、ドイツがユダヤ人居住地(ゲットー)を作り、アウスビッツの収容所もある彼の母国。驚いた事にドイツの人々について全く拒否感は無かった。彼は真剣な顔をして、「ロシアの国の方が、cruel(残忍)でcheat(ずる賢い)だった」と言った。実感は無かったが、何故か心に残る。彼は、ポーランド日本大使館の武官だった。翌日彼は「カチンの森」の本をプレゼントしてくれた。ロシアは終戦直前、宣戦布告もなしにポーランドに侵攻、文化人、警官、将校がカチンの森で、二万人を虐殺。事件が明るみ出ると、ナチスの仕業と映画まで作り、責任を転嫁した。占領した土地の住民をロシアの奥地に強制移住させた事が写真入りで書かれていた。恐ろしくもあり飛ばし読みした。
 ロシアは、千五百七十年、モスクワ公国のイワン四世は地方都市ノウゴロドに侵攻し、住民を大虐殺し、残った住民は強制移住させたのだ。中世から始まったロシアの残虐性は、ずっと繰り返えされてきた。ロマノフ王朝の時代だけは、トルストイやドストエフスキー、チャイコフスキーを生み出す自由な文化が花開いた時代もあったが、十九世紀には、スターリンは、自国民を弾圧、虐殺し、ウクライナに人為的大飢饉「ホロドモール」で計画的大虐殺を引き起こした。日本にも不可侵条約を無視、満州や、北方領土に侵攻し、占領している。
 情報が瞬間に世界中に伝わる現在、ウクライナの美しい平原に咲くひまわりの花々、豊かな小麦畑が広がる大地を、凄惨な戦場に変えた。マリウポリの初老の婦人は涙ながらに、「ここで生まれ、結婚し家庭をもった。もうすべてなくなった」。と訴えた。ロシアはこの地を絶滅させる計画をたて、残った住民は極東のシベリアへの移住を提案していると聞く。
 プーチン大統領や全閣僚は、世界に向かって平然と嘘をつく。同じ人間なのだろうか?自分の国の悪行が映像を通して世界中に知れ渡っても、全く意に返さない。
 大虐殺の起きた町ブチャの映像が流れた。色が失われた瓦礫の隙間に、綺麗な黄色のクロッカスが一輪咲いていた。何か懸命に訴えかけて見える。罪なき住民の日常を破壊する正義などあるはずもない。我々は、ウクライナの方々への募金に協力するしかないのだ。


                                       


 



ときわ荘訪問記

坂本 成  2022.4.16

昭和20年、夜毎の空襲が苛烈を極めていた新橋の田村町を逃れ、神奈川県の西の端にある小さな半島の村、真鶴に移った。戦後の東京の復興のエネルギーは200キロ離れたこの漁村にも華やかな風となって吹いてきていた。「リンゴの唄」、「鐘の鳴る丘」、「ミカンの花咲く丘」、「20の扉」がラジオから流れ、「少年倶楽部」、「冒険活劇文庫」、「少年王者」などの少年雑誌が次々に刊行され、江戸川乱歩、山岡荘八、佐藤紅録の連載小説、小松崎茂、山川惣治、伊藤彦造,椛島勝一の挿絵、福井英一、馬場のぼる、手塚治虫、の連載漫画などなどが田舎の小学生を広い未知の世界へ案内してくれた。昭和27年、再び東京に戻ってきたのは13歳の時であったが、当時「漫画少年」という月刊誌が一般の素人の描いた漫画作品の応募を受け付け、入選作品を誌上に掲載していた。審査員が手塚治虫さんということで、せっせと描いては応募したのだが初めて入選を果たした昭和30年10月、この雑誌の出版元である学童社が突然倒産し「漫画少年」は廃刊になってしまった。 すっかり意気消沈しているところに学童社からお詫びの手紙が来て「懸賞金の代わりだけど手塚先生に会いたいか?」と書いてあった。後日、訪ねたのが椎名町の木造2階建てアパート、「ときわ荘」であった。お目当ての手塚さんは不在だったが若き赤塚富士夫、藤子不二雄、馬場のぼる、等の面々がたばこの煙る車座の輪の中に私を招き入てくれて、お茶と団子をほおばりながらの夢のひと時を過ごした。ときわ荘は70年経った昨年、同じ地に復元され、漫画記念館として賑わっている。


                                       


 



ガーデニング

古内 啓毅  2022・4・16

 東京の桜は盛りが過ぎ、桜前線は北上中です。我が家の小さな庭は春爛漫の風情で大分賑やかです。クリスマスローズは寒い時分から咲き始め今を盛りに咲き誇っています。ボケはつぼみの時にムクドリに食い荒らされましたが残っていた花芽が咲き始めています。枯れてしまったように見えていた紫陽花は新芽を伸ばしています。丈が2メートルほどに伸び、白い大輪の花を咲かせるテッポウユリは今年も元気よく空を見上げ成長しています。開花時期が長く丈夫で育てやすいハーブのサルビアチエリーセージは赤い可憐な花をつけています。シラン(紫蘭)も芽を出し、まもなく美しい紫の花を楽しませてくれます。
 昨年4月、孫の小学校入学を記念して庭に梅の木を植えました。実をつけるまで3,4年はかかるといわれていますが、今年、つぼみを7個もつけ、3月13日、見事に開花しました。かって庭に大きな実のなる梅の古木がありましたが、花が咲くと、どこからともなく鶯がやってきて美しい声を聴かせてくれたものです。ところが、先日、梅が開花したその日に久しぶりに鶯がやってきて、あたかも開花を寿ぐように見事な鳴き声を聴かせてくれました。どこかで見ていたんでしょうか。不思議なものです。感激しました。翌日もやって来ましたが、それっきりでした。
 ドウダンツツジの白い小さな花がきれいです。これからは鉢植のばらやつるバラが咲きだします。ザクロ、百日紅も活発に枝を伸ばしています。
かように、庭の現状を文字にしてみますと改めて種々雑多な植物が生息していることに気づかされます。私は庭仕事が好きで、庭木の剪定や花の手入れ、草むしりなどすべて自分でこなしていました。楽しみだったのは、夏場に朝から庭に出て汗をかきながら作業をし、昼になっても家に上がらず縁に座って冷たいビールを飲み干すときのそう快感はなんともいえない至福の時でした。が、10年ほど前に腰を痛めてからは庭仕事がきつくなり、最近は近所の庭師さんや練馬区のシルバーセンターにお願いすることが多くなりました。楽しみだった庭ビールとは疎遠になっています。

 人々の生活において植物は重要な役割を担っています。空気をきれいにしたり、湿度を保ったり、人間に有益な効果を与えてくれます。植物の大半は緑色をしており、緑色は目の疲れを癒し大脳皮質の働きを活性化させる効果があるといわれています。植物に触れたり鑑賞することで、すがすがしさや心の安らぎを得ることが出来ます。

 現下の世の情勢に目を向けますと、なんともやりきれない状況に遭遇します。新型コロナ感染症に関わるまん延防止等重点措置の適用が解除されましたが感染者数は拡大の傾向です。コロナ禍の終息は全く見えません。プーチンが起こした戦争も停戦への展望は開けていません。

 <国追われ母の手握り降り立つ子等よ>避難する母子の映像を見るのはつらい。罪のない子供たちが殺されたり国を追われるなどのことは決して許されない。プーチン、ロシアは戦争犯罪を重ねています。
 ともあれ、種々考えるほどに苛立ち、ストレスが増すばかりですが、せめて心の安らぎを求め庭の木々や草花を眺めながら有益な植物効果に期待し日々を過ごしたいものです。


                                       


 



四季の記憶85「石神井風景」

鈴木 奎三郎   2022・3・30

 正岡子規の句に、老いた母親のつぶやきをそのまま詠んだ「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」という一句がある。それにしても、彼岸の最中の先月22日は、練馬ではみぞれが降り、最高気温も3,4℃で真冬並みの寒さ、また慌てて冬物を引っ張り出した。
しかし季節は確実に動いて今週末には桜はほぼ満開となりそうだ。今年もいよいよ春爛漫の季節が到来する。関東は冬場もほとんど雨や雪が降らず、北日本や北海道に比べたら季節に恵まれている。出身地の長野市は、開花が4月下旬で東京に送れること約一か月。冬場の気温はほぼ札幌なみ。18歳で上京し一番驚いたのは東京がいかにお天気に恵まれているかということだった。以来東京に60年少々、たまたま転勤で東京を離れることもなく、今日に至っている。

 上京してしばらくは、下北沢のまかない付きの下宿に住んだ。ここは兄二人がいたこともあり、洗濯から風呂から朝夕の食事も含めてその家の子供のように接してくれた。小遣いがなくなると用立ててくれたし、後年母が長野の温泉に招待したり、ぼくの結婚式にも出ていただいたりで親戚以上の関係にあった。先日、その家を訪ねてみようとウロウロしたが、結果探し当てることはできなかった。ここには大学1年から1年弱住んだ。区画が変わり道筋も変わったのであろうか。60年を超えると人も含めて町の記憶やたたずまいが変転していく。

 結婚するにあたり、石神井公園近くの建売住宅を親代わりの長兄に買ってもらった。石神井公園は秘書室に勤務していたころ、お中元お歳暮の配達で知っていた。公園を借景にした風致地区の一角に、コーセー化粧品創業者の小林孝三郎さんの自宅があった。今のように宅急便などはなく、社用車でお届けしていたのだ。そのころから、池畔の美しさと緑豊かな石神井公園は記憶に刻まれていた。
 チラシを見ていると、石神井公園の近くに建売住宅が売り出されていた。多分昔は大根畑か何かの農地であったろうが、十数戸の一角である。安普請の建売ゆえ、子供や犬であっというまにぼろぼろになった。都市ガスはなく当時はプロパンガスで、大雨が降ると雨漏りがして天井にいくつかのシミができるありさまだ。大田区生まれの家人は、近くに知り合いもなくひどい田舎に来てしまったと悔やんでいた。
 
 20年ほど住んで、建て替えることにした。地震に強いといわれていたツーバイフォー(壁軸工法)の家である。貯金もなく銀行から結構の金額を借りた。やれやれこれで定年まで返し続けるのか・・とハラを決めたが、ありがたいことに実家からの支援で、あっという間に完済することができた。新築の家は淡いブルーグリーンで、ご近所からはいい色ですねー・・などと評判がいい。
 石神井公園までゆっくり歩いて5分。毎朝の愛犬との散歩はいろいろとコースを変えて飽きることがない。四季折々、石神井公園と隣接する三宝寺池にはカルガモやオシドリ、シロサギ、たまにカワセミが来ることもある。大きな鯉も群れている。豊かな湧水に恵まれているようだ。
 今は朽ち果ててその様子を伺い知ることはできないが、石神井城址がある。平安末期から室町時代中ごろにかけ、石神井川流域を治めていた戦国武将・豊島泰経の出城のひとつである。いまは空堀や記念碑があるだけで、当時を忍ぶものはない。落城のおり、照姫が身投げしたという伝説が残る。

 「東京人」1月号の臨時増刊号は、石神井界隈の特集である。巻頭には昔からの石神井の住人である檀ふみさんが「お菓子の店ノア」を紹介している。ふみさんは俳優としてエッセイストとして活躍している。「火宅の人」で人気作家となった檀一雄のお嬢さんである。わが家から2分のところにある「ノア」は、奥に喫茶スペースがありぼくの書斎替わりである。ここはその昔、タバコ屋だった。おばあさんが店番をしていた。朝は必ずここで「いこい」を買って出勤した。息子さんがパリで洋菓子を修行し、あっという間に評判の店となった。特に「釜揚げチーズケーキ」はファンが多く、品川、目黒や世田谷ナンバーの車も多い。

 近代以降も、都心からの程よい距離と、自然の景観にひかれて檀一雄や庄野順三、松本清張らがこぞって移り住んだ石神井界隈は、令和の今もその特別な空気感に満たされているような気がする。


                                       


 



みつまめ

横山 明美   2022年 4月

 蜜豆や  恋を拾いし  神楽坂
 気の合う義姉の詠んだ句である。甘いものに目がない人で、上京のおりここだけは絶対に・・・と連れて行ったのが、神楽坂の上がり口にある蜜豆の「紀の善」だった。姉はそのとき、おすすめの杏あんみつを食べると、もう一ついいかしら、とくず餅を注文した。
 古い店で馴染みもある。人出を狙って繁華街のあちこちに出店なんかしないのも好ましい。若い頃その近くの出版社に勤めていた。同僚の男性が私の両親に会いたいというので、上京のおり紀の善まで来てもらい、昼休み、四人の顔合わせになったのだった。
 蜜豆といえば私はすぐに母の昔を思い出す。娘時代は日本橋蛎殻町界隈に住んでいたらしいが、やはり甘いものの好きな人で、姉妹ででも出かけていたのだろう、浅草「梅園」のあんみつが何よりの楽しみだったという。それは今でも本店以外にデパートなどにも出店している。しかし、まんなかにぽっこりのっているあんこの上品な甘さと柔らかさは紀の善だけのものだ。今はあまり言わないが、あずき色とはあのあんこの上品な薄紫色を言うのである。周りを飾るふっくらと大粒の杏も酸味甘みとも言いようのない、ほどの良さだ。
 その後竹橋に職場を変ったときにも、仕事にキリがついたときなど若い人を連れ昼休みに出かけたものだ。女の集団が座敷に陣取って釜飯に蜜豆・・・日々失敗で怒られてばかりの子、デキる子、一人ぼっちの子、ちょっと問題ありの子、といろいろだったが、釜の底をしゃもじでひっくり返したり蜜豆の種類の違いをのぞきあったり。午後からは私だって気分を変えて仕事しようという気になる。私はみんなの母親のような歳だったが、彼女たちと同じに契約社員でもあった。その後は思うような人生を過ごせない人、すばらしい幸せを得た人、遠くでひっそり暮らすようになった人などさまざまだが、蜜豆を食べるたびその一人一人を懐かしく思い出すのである。
 最近、同居の娘が「一週間に一度は蜜豆が食べたいわ」と言う。紀の善のファンである。ヘルシーなのがいいらしい。しかしそんな観点で見てほしくない。春の季語にもなっているゆかしくも心を満たすものである。華やかでこってりのケーキと違い、見た目は何十年も変わらない。絵でいえば日本画と洋画の違いか。静かに心にしみこんでくる。しかし紀の善で毎回買うのはちょっとつらい。よく行く中野にいい店を見つけた。紀の善より400円も安いのに寒天ににょきっとした歯ごたえもある。伊豆でとれる特等寒天だとか。あんこもまあまあだ。あんのわきに”お前はその辺にいろ“というようにでも置かれる二色の餅はどうみても不要だが。この餅を宮の餅と称し宇都宮名物としてかつて盛んに売っていたのは、中学の同窓生の実家だった。今どきは餃子に地位を奪われほとんど見かけないが、中野でそれに出会ったときはちょっと感動したものだ。そうか、わが郷土の宮の餅は蜜豆の手下、いやお供だったのだ、と。
 蜜豆はにっこりさわさわと口にして、また食べたくなる、というより会いたくなる、やはりずっと変わらない恋しい存在なのである。

 

                                       


 



上水高校での最後の授業で生徒に教わったこと、そしてこれから

富塚 昇   2022年4月16日

 私は3年前に都立高校を定年退職し、その後フルタイムで「再任用教員」を続けてきました。そして、思うことがありこの3月31日をもって「再任用教員」を退職しました。2年間勤務してきた都立上水高校ともお別れです。そして4月1日から別の形で教員としての生活を再スタートすることになりました。今回は上水高校での最後の授業のこと、そして新しい高校の着任について書きたいと思います。
 3月18日(金)の最後の授業では、以前この場でも書かせていただいたオリンピックのスピードスケートで金メダルを取った清水宏保さんの新聞記事に関連して、生徒に作文を書いてもらいました。このことについては、その新聞記事を元に今年の上水高校の推薦入試での作文の問題としていました。私としても納得がいく問題ができたと思っています。その問題の要旨は次の通りです。清水宏保さんは緊張する勝負の場面で力を発揮するためには、親だったり、コーチだったり、仲間だったり、競技をやれる環境を作ってくれた人に感謝することが力を出す秘訣ではないかと述べています。そこで問題では感謝するということについてあなたが思うこと、そして緊張する場面で感謝の気持ちをもつとなぜ力が発揮すると思うかを問うたのです。そして、この問題に対して次のように書いた生徒がいました。
 「必ず誰かが誰かのヒーローなんだと思います。どこに生きていても自分が誰かの役に立っているという自覚がなかったとしても。同時に自分には必ず自分を支えてくれる人や応援してくれる人がいる。それに気づくか気づかないかが感謝できるかできないかにつながるのだと思います。親がその一番の例だと思います。・・・中略・・・誰かが誰かと支え合って生きている、つまり、感謝し、感謝されながら生きているのだと思います。そう考えるだけで、私を支えてくれた人、私が支えになれている人たちのためにも頑張ろうと思えてきます。『感謝する』ということは、自分を強くすることなんだと思います」。
 よく教師は生徒に感謝の気持ちを持ちなさいといいます。私はこの生徒の作文を読んで、感謝することが大切なのは「ああ、そういうことだったのか」と改めて教えられました。
 さて、「再任用教員」は退くことにしましたが、まだ年金も一部しか出ない年齢のため、生活費を補うためにPart-Time Teacher(非常勤教員)を目指しました。都立高校の教員を続けてきたため、主に授業だけを行う都立の非常勤教員の採用選考を受験しましたが、採用されなかったことも考え私立の非常勤講師も受験しました(このことは途中まで前回報告しました)。私立高校3校に振られた後、4校目に選考を受けた高校から採用をいただきました。そして都立の方も無事選考試験に合格し、3月始めに配属校が通知されました。本当に幸運に恵まれました。勤務校は学生時代によく利用した「高田馬場」の近く、またエスニックタウンとして美味しいものがいろいろ食べられそうな「新大久保」にもすぐ行ける高校です。都立は都立戸山高校に配属され、私立は海城高校に採用されることになりました。
 引き続き授業ができることについて、上水高校の生徒が書いてくれたように「感謝」すること、そしてその意義を忘れず、生徒の期待に応えられるようにこれまで同様に頑張っていきたいと思っています。
 

                                       


 



Eye to Eye & Face to Face

谷川 亘    2022年4月16日

 コロナ禍に席巻されて足掛け三年。
業を煮やすなんてものではない。“三密”なんて意味取り違えた新語が席巻して、行動範囲が狭まったり、人様との接点がか細くなって、“自閉型”の生活を強制されるばかり。なんとも情けない。 それどころか、恐怖に駆られて自ら進んで蟄居する日常になるにつれて、わがエッセイ駄文もぴっちり蓋かぶせられた“コロナ漬”の樽の様相を呈しております。
 まあ、人生の年輪が重なって老境に入り、高尾山だの御嶽山だのとの「月一・朝一・半日帰還の小走り登山」も遠い昔。抜けるような山の空に似たウキウキするような話題にも事欠くようになってしまい、コロナ・オミクロンの連発。
 何としても“心と体”の劣化を食い止めるべく、コロナ禍にさらされて以来「一日一万歩」を心掛け、近くの公園への往復と池端の“よた歩き”4周で1万1千歩ちょっと。早朝ラジヲ体操に交わって雑談に興じてはボケ防止に努め、不承不承のよた歩きも“体には良い”のでしょうか?コロナ罹患とは距離を保つことができているようです。
 でも、雑談以上の付き合いの出来る相棒が見つからない。なぜか?そうですよ。身だしなみはともかく、早朝ご出陣のこととて、洗顔そこそこに、帽子を深くかぶり、背格好もお互いに老年同士で似たような猫背。おまけに全員がマスクスタイル。これでは識別不可能なのです。最近では、人工知能(AI)が開発され、カメラが目・鼻・口などの特徴点を抽出して、取得した画像や映像から顔を検出するのだそうですが、驚くことに、マスク着用でも顔認証ができる技術が開発されているそうですから、ブッタマゲですよ。
 「目は口ほどに物を言う」とは聞いたことのある昔ながらの諺ですが、このところ、尚更、注目度が上昇しているそうです。コロナ禍においてマスクが生活必需品となり、コミュニケー ション手段としての目が注目されたことが背景にあるようです。
 目と目で「以心伝心・・・」。なんて古語になりそうですよね。
 
 マスクに関連して、Eye to EyeからFace to Faceに話をつなげます。オミクロン追放明けまでなんとも気がかりの話題二つ。
 真っ白い歯は青春の証ですが、50を超すともうがたがたの味噌っ歯、抜け歯のオンパレード。ましてや80過ぎの我にとっては、酒断ちまでして歯痛こらえ、歯医者嫌ってじっと我慢。
 コロナのせいにして毛嫌いしてきた歯医者通いも、歯ぎしりして痛さ堪えるのにも限界がある。

 「伸ばし放題の髪整えて、ネクタイ締めてどこか出向くところでもあるの?」と、問われたら何と答えるのか。でも、「行く当てがないにしてもみっともないよ!!」と、極めつけ言われたらどうしますか?髭や髪は伸ばしっぱなしで櫛も入れたこともない白髪頭。
 その手さばきはご丁寧そのもの。でも、客待ちの間は週刊誌読みふけっているのだろうか。話題豊富でいつの間にか客に合わせる。「はいお疲れ様でした」。
 その床屋の主は今はなく、無味乾燥なんてものではない。なんとも哀れ、駅前の千円床屋でチョンの間なのです。
 オミクロン株も、千円床屋の流儀で、早く“一丁上がり”にしてもらえませんかね~ 


                                       


 



妖精の棲む家

照山 忠利  2022.4.16

 先日の新聞のコラムにエッセイストの岸本葉子さんが、自宅に妖精が棲んでいるという話を書いていた。いたずら好きの妖精が家の中の物を隠したり移動させたりして困るのだという。たとえば普段使っている調理器具や文房具がなくなっていていくら探しても見つからず、諦めかけたころ予想もつかない所から見つかったり。きっと妖精の仕業に違いない、いやになっちゃうわというのだ。
 待てよ、そういう妖精ならわが家にもいるぞ。特に家の玄関の鍵をいたずらする奴が。いつも玄関のキーボックスに家の鍵、車のキー、自転車の鍵などを入れておくのだが、ある日家内用の家の鍵が見当たらないという。使ったすべてのバッグの中や衣服のポケット、心当たりの場所などをくまなく探してみたが見つからない。小生の居室まで捜索対象となった。当座はスペアキーで間に合わせていたが、心配性の家人は気が気でない。どこかに落として誰かに拾われたのではないか、その鍵を使って泥棒に入られはしないかとハラハラドキドキ。当然のことながらイラついて毎日機嫌が悪い。
 数日後、小生が外出先で自分のバッグのポケットに何気なく手をやったら、あるではないか、まぎれもなく探していたその鍵が。早速安心させようと持ち主に携帯で連絡したら、安堵と感謝の反応がくるかと思いきや、「やっぱりアンタね。ずっと怪しいと思っていたのよ」ときたもんだ。それからしばらくは顔を合わせるたびに小言をいわれて閉口した。自分では全くバッグに入れた意識も記憶もなく、だから最初から自分のバッグの中を探そうとは考えもしなかったのだ。きっと妖精の仕業に違いないと思うことにした。
 加齢による物忘れや勘違い、誤動作などは個人差はあるが70歳を過ぎると目立って増えるようだ。人の名前や固有名詞がなかなか出てこないことは誰にでもある。動作が鈍くなり反射神経が低下してぶつかったり転んだり、思わぬ怪我をすることも頻繁になる。年を取ったら念には念を入れて用心を重ねるに越したことはない。
 今から3年後には高齢者の5人に1人、700万人が認知症になるといわれている。認知症の原因の大半を占めるアルツハイマー病の治療薬「アデユヘルム」を米大手のバイオジェンとエーザイが共同開発してきたが、これが頓挫してしまった。薬がなければ自分で自分を守るしかないが、認知症は誰でもかかる可能性があるから厄介だ。また日本は平均寿命世界一の長寿国となったが、介護や支援を要しない「健康寿命」と平均寿命との差は10年程度ある。この差をいかに縮めるかは1人ひとりにとっても国家の財政にとっても大きな課題である。そんな中、この課題解決の一助になればと先月、わがNPO法人成年後見のぞみ会は「介護予防と健康長寿をめざして」と題した講演会を開催した。講師の山田実・筑波大教授はフレイル予防対策には①運動習慣②良い食習慣③社会参加習慣の3要素が大切だと強調した。講師の話は大変分かりやすく70名の参加者の方々にはすこぶる好評であった。
 健康寿命の延伸と認知症の予防はほぼ同じ線上にある。自分が妖精にいたずらされておきながらえらそうに他人様に道を説くなと言われそうだが、この講演会は参加された人々が家に棲む妖精の被害に遭う回数の減少にいくらかは役に立ったかと自負しているところである。
(了)

                                       


 



ウクライナの教訓

小林 康昭  220416

 ウクライナで行われている実態をメディアを通して知ると、いつの時代も変わらないものだ、と思う。侵略する側は必ず、原因を相手のせいにする。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナに攻め込んだ口実をウクライナのせいにしている。そのことは、満州事変を起こした関東軍、第二次大戦でポーランド領に攻め込んだドイツ軍、朝鮮動乱で38度線を越えた北朝鮮が設けた口実と同じである。
 拙いことは、戦争に負けない限り、虚偽が真実としてまかり通り、その真偽が問われないことだ。この負けないということが重要である。負けると、負けた側は一方的に、勝った側の主張を全面的に甘受させられるけれども、負けない限り、国家の犯罪は責任を問われないのである。現に、北朝鮮は、朝鮮動乱以外にも、日本人や韓国人の拉致、大韓航空機の爆破、韓国領内の地下トンネルの掘進、韓国大統領の暗殺未遂など、国家的な犯罪を起こしたが、謝罪もないし処罰も受けない。誹謗されると逆に、相手が仕組んだ謀略だ、と非難することもあるのだ。
このことは、ロシア軍によるウクライナ人の虐殺をロシア側が、ウクライナ側のヘイトだとか、ウクライナによる行為だ、と強弁していることに通じている。
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 ウクライナで行われていることの教訓の一つに「非戦」は平和を意味しないことが挙げられるだろう。
 非戦は、日本国憲法に謳われている精神に合致するが、無条件で崇高な精神と言えないことが分かる。一方が軍事力で威圧した場合、相手側が戦争をしたくないと言ったら、したくないなら言うことを聞け、と非戦の条件を呑む代わりに、無理難題や過酷な条件を押し付ける怖れがある。領土の割譲、国の併合、国民を奴隷的に扱ったり、国民を殲滅させるジェノサイドなど。非戦の条件を呑むのと引き換えに、と一見、対等に見えるその妥協は、決して対等な妥協ではないのである。だから「奴隷になるくらいなら死んだほうがましだ」と強国に抵抗するのは本心なのである。
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 戦争の危機が迫った時に、最後まで「避戦の道」を探る心がけは大切である。そのために平素から、同盟関係の構築、条約の締結を試み、アメリカほか、多くの国々を安全保障の味方に引き入れる必要がある。
 数十年前の湾岸戦争で日本が協力を求められた際に、時の海部首相は現地に人を送らずにお金を拠出してことなれりと判断した。その行為は顰蹙を買った。例えると、火事場でみんなが火消しに懸命な時に、火消しはしたくないから、お金を出そう。鎮火したらこれで一杯やってくれ、というような態度である。
 これでは、お互いの国の間の信頼関係は築けない。いざというときには一緒になって汗をかく覚悟が必要なのだ。
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 といって、よその国と同盟や条約を結んで安泰とは限らない。おのずから限界がある。かつて、社会民主党の福島瑞穂は聴衆から「外国が攻めてきたら、どうするのだ」と、非武装中立の党是を批判する声が上がった時「そんなことをした国は世界中から非難されるから、日本を攻めてくることは絶対にない」と反論した。だが、ウクライナで起きていることは、福島瑞穂の主張が空論であることを示している。何故ならば、多くの国々がロシアを非難してはいるが、ウクライナの国の安全を保障してはいない。自分の国は、他国の力に頼らずに、自分の力で守るのである。それは、日本がとるべき姿勢にも通じる話である。朝鮮動乱のときは国連軍が北朝鮮を攻めた。湾岸戦争のときは多国籍軍がイラクを攻めた。国連軍や多国籍軍を編成して攻めたのは、相手が弱かったからだ。核兵器を所持している相手には、軍事的に対抗することから逃げているのである。
 因みにバイデン大統領は、テレビの視聴者に向かって非難を繰り返している。本気で戦争を回避する気はない。あるのならば、テレビの視聴者を相手に演説なんかしていないで、プーチンと交渉すべきだったのだ。彼は戦争を避けることよりも、プーチンを「世界の悪者」に仕立てるほうが重要だった。その目論見は成功したようだ。その一方で、ウクライナとその国民は、生け贄になってしまった。
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 日本では核への忌避感情が強くて、核をめぐる議論は遠ざけられてきた。核を「持たず、作らず、持ち込ませず」の非核三原則に加えて「言わせず」「考えさせず」の併せて非核五原則である。日本人の核アレルギーが強い所以である。だが、核の議論を避けるべきではない。その議論を通じて核戦争に遭遇した場合に備えた道を探るべきなのだ。具体的には「防戦の備え」、核シェルターの整備である。各国の人口当たりの核シェルターの整備%は、例えばイスラエルとスイスは100、ノルウェは98、アメリカは82、ロシアは78、イギリスは67、韓国のソウルは300%だそうだ。これに対して日本は0.02%。この整備を急ぐべきである。さらに「防戦の策」として、核兵器の無力化技術の開発を挙げる。これこそ、日本が取り得る最高の安全保障策である。日本の科学技術の総力を結集して、電磁波やレザー光線、無人飛行機(ドローン)などの特性を生かした技術で、核弾頭を機能不全にする。
 実現したら、核武装も核大国の抑止力も意味を失い、国際秩序は大きく変わる。日本の科学技術の力で、この夢を適えて欲しいものである。

                                       


 



物にはすべからく耐用年数あり

谷川 亘    2022年2月26日

 十年来愛用してきたDesktop パソコンがご機嫌斜めとなり、起動に時間はかかるや、作動中に主の命に背いてみたり、フリーズしたりして悪さのしたい放題。流石に「勘弁ならぬ!!」という主の叫ぶ卑猥なセリフの頻度も日を追うにしたがって増加の一途。
 正直、主の方とて実務を離れて幾久しく、ド忘れや思い違いの部類も頻発。その上に加齢による認知症まがいの操作ミスの類も加速度的に増えて、まあ、悪さの程度もどっちつかずの泥仕合。これ以上ヒステリックになると血圧が沸騰してブックリガエル懸念なきにしもあらずで、入れ替えることにしました。
 Noteパソコンはハンディーで、立ち上げやソフト類の挿入を依頼するのにも、手習いの期間中は先生役の手助けも必要だし、持ち運びに便利なので躊躇なく機種変更いたしました。
日本のパソコンメーカーは製造会社が相ついで国外資本に吸収されましたが、品質劣化を来したなんて言ったらお叱り受けるでしょうが、名指しこそ避けますが導入して即不調。画面が横縦一面の筋模様を呈しでどうにもならない。
 使い勝手の不慣れな部分も含めてさんざん苦労重ねて、「これから・・・」という矢先に重大欠陥。性懲りもなく別メーカーのノートを調達するに及んで、ソフト類や記憶媒体を引継ぎ、立ち上げを再度行って、よちよち歩きの段階に至っているところです。
 気づくと、ノート型は画面が小さくて画質は最低。拡大すると今度は狭い範囲しか見ることができない。タッチキーも狭くて小さく指がもつれる、老眼には全く不適な代物でした。なんてことはない、廃棄されるはずの画面とキーボードを新ノートとUSBでつなぎ、これじゃ「前のヤツと同じだよね」。と皮肉交じりに言われる始末。
 (使い手の)加齢ボケ、新機種への不慣れ、加えて、ソフト類の更新スピードについてゆけない。の三拍子揃い踏みで2度も繰り返した同じ労苦。おまけに、会社の連中にセットアップをやってもらったのは良しとして、自称“先生”それぞれが自慢げに、勝手に自己流でやってしまい、統一性を欠いてしどろもどろ。
 一層のことパソコン人生この機に打ち切り!!断言一歩手前まで行ったのですが、せっかく10年続く、毎月欠かさず発行のホームページや克明につけてきた日記もどきをこんな事情で打ち切るのはプライドが傷つきますし、最も恐れるのは、止めてでもしたらボケが進んで認知症もさらに速度アップすること必定との恐怖感です。
 考えて見るに、私の余命は長めに見てもあと数年。その間、このNoteが私の参謀として貢献してくれるのはありがたい。しかし、主が意識朦朧になったとして、記憶媒体に残存する、主から継いだ生き残った記録はどうなっちゃうんだろうか?
 生けるもの全てには“余命”というものがある。しかし、残余の期間が如何ほどなのかは認識できない。そして、生命体を含めて、万物すべからく、命宿るか否かは別として、“減価償却”と言う定められた寿命があるのです。もし、私が絶命するときに、記憶媒体に置き去りにされた記録が私に代わって、「今後は俺が引き継ぐ」とばかりに頭角を現したとしたらそれが怖い。克明に記録に残すなんて賢人のすべきことではない・・・。
 なんて、MCI(軽度認知症障害)罹患寸前の私が本音として言うとしたら、今や、本物のアルツファイマー症候群なのでしょうか?
 いずれにしても、目下、奮起して頑張る決意表明をしている段階です。


                                       


 



この節デパートの午後

横山 明美   2022年 2月

 本を買いに行こうと思うんだけどどうする?・・・と同居の娘から少し遠慮がちに声をかけられたのは、日曜の午後、簡単な昼食を済ませ夫と二人暇をもてあましていた時だった。テレビではその日も北京の冬季オリンピック中継をしていたが、ほとんど興味はなくどうでもよいことだ。夏の猛暑とコロナ下でのお騒がせ東京大会以来、オリンピックに何の思いも持てなくなっていた。もともと自国を応援する愛国者でもないし、先進国の選手らがお金や時間をふんだんに使って技を磨きいい成績をおさめるだけのことだ、という思いが強い。それにそもそも国際オリンピック委員会という組織がよくない、と思ってもいる。今や1924年のパリ五輪に題材をとった映画「炎のランナー」のような感動は到底持てはしないのだ。一応誘ってみたが相変わらず相方は「僕行かない」の一言だったから、娘の運転でホイホイと出掛けることにした。今の状況、ちょっと出かけたりするのも気が晴れるのだ。
 私はゆったりと車の後ろに座る。クッション、ひざ掛など抜かりなく用意されている。もしものときの傘やお手拭きまで。よく気の回る娘だ。ただしあまり話し好きではないので私は隣にはあえて座らない。道々世の中の不思議を目にすると驚いて前に乗り出すようにして聞いてみたりするが、たいてい苦笑いをしてあっさりとかわされる。面白い看板も素敵な建物もおかしな通行人も娘にとっては日常なのである。
 娘は豊島区役所に勤めているので、東武デパート御用達である。たしかに西武デパートより数段冴えている。総帥である堤清二がいなくなってから西武は本当にダメになった。使い勝手がとても悪い。学生時代2週間程アルバイトをしたことがあるが凋落の一途である。
 車はデパートの深い深い地下の駐車場に螺旋を描きながら降りてゆく。目が回りそうだ。前の車がいやにのろのろしている。慣れない初心者のようだ。せっかちの私がいらついてついブツブツ言うと、娘は窘める目つきをちらと後ろに送って落ち着いている。うむ大したものだ、私の子供かい・・・と思う。地下4階のドア近くに駐車させると私を誘うように杖を突いて歩く。杖と言ってもよく女性が好んで持つ色鮮やかな花柄などではなくお洒落なヒョウ柄みたいな色合、模様のものだ。小さい頃の病気がもとで足が少し不自由である。こんな時、あら、そうだった、足が悪いんだった・・・と不肖の母親は気づいたりするのだ。普段は忘れるほどである。私は元気だけが取り柄だが、娘は年を経るごとに私のしっかりした姉のような存在にどうもなりつつあり、よく怒られたり無視されたりもする。このごろは、母子ってそんなものなんだろうと思うようになってしまった。
 人けのないドアに駆け寄り娘のために押し開けようとすると、ちょっと危ない感じの大男が背後から追いついてぐいっと開け私たちを入れてくれた。人は見かけによらないものだ、外出すると社会勉強になる。「あら、すみません、ありがとうございます」と丁寧に返しておく。娘がまた、人はそういうものなのよ、という顔で私を振り返る。
 勝手知ったる娘に従いそのまま一気に7階へ。大きな旭屋書店が入っている。私も買おうと思う本があったので分かれてそれぞれ探すことにした。私は二冊すぐ見つかったが、娘は5,6冊抱えている。何といっても驚いたのはレジにものすごい列ができていたことだ。コロナがまだどんどん広がっている。日曜でもある・・・こんなにたくさんの人が本を買うところを初めて見た。驚いた。並ぶ娘に二冊の支払いを頼んで近くの鳩居堂の売り場に向かおうとするとスマホが鳴った。夫からのんびりした声で「みかんと餃子でも買ってきて」。娘と二人でクククと笑った。
 鳩居堂のあたりに人けはない。担当もベストにタイトスカートの年配者で銀座の店から派遣された人のようだ。何枚かの春らしい絵葉書と久しぶりで大判の江戸千代紙を二枚選びレジへ。いくつになってもこんなものが私は好きだ。娘に二冊分後で払うのにお金を崩そうとまず一万円札を出し、小銭をまさぐりながら「おいくらでしたか」と聞くと「1万3500円でございます」と言う。「えーーっ!」と飛び上がるほど驚いた。こんなとききっと育ちが出る。絵葉書がここでしかないものとはいえ3枚、千代紙だってたった2枚である。私のあまりの大声に係の中年女性は直ちに我に返り「申し訳ございません。トレーに一万円札があったもので・・・」と一桁勘違いを詫る。とても楽しい経験をしたと思い、まだ並んでいる娘にかけよった。娘は面白そうに少し笑った。久しぶりの笑顔だ。来てよかった。

 地下でスーパーの倍もするブランドみかんを仕方なく買い餃子も買って、また深い螺旋道をぐるぐる上がり、夕焼け空が明るい道を、来る時よりは少し話も弾んで練馬区の路地に帰り着いた。「ああ帰ったの」と当たり前のことを言って、餃子を食べたい老人がソファに寝転がっていた。

 

                                       


 



ボロ―ニューの杜の館の宴にて

小林 康昭  220226

 パリのシャンゼリゼ通りを、コンコルド広場から歩いてエトワール広場を過ぎた先の通りの左側はボローニューの杜である。その杜のなかに、一見、住宅のような佇まいの瀟洒な館が建っている。この館がレストランである。一晩に一グループしか予約を取らない。
 宴は、午後の8時に予約されている。正面玄関の車寄せに車を乗り入れると、燕尾服に威儀を正した恰幅の良い男に招じ入れられて、小さな部屋に案内される。
 素晴らしい麗人がピアノを弾いている。先客がリキュールを手に、演奏に聴きいっている。ショパンのようだ。ピアノの上には、客人たちのリクエスト曲を記したカードが数枚、乗っている。
 飲み物の注文に来た。コアントローを注文する。一度、ビールを注文して、顔をしかめられたことがある。この場でビールは歓迎されないようだ。ウィスキーもそう。ほかにチンザノ、カンパリなどのイタリー産の食前酒があるが、ここでは、フランス産に敬意を表する。
 コンシェルジェらしき男が、分厚いカルト(メニュー)を配る。ア・ラ・カルトのカルトである。フランス語で書かれた料理名の下に英語が添えられている。時には日本語が添えられることもある。アントレ(オードブル)、スープ、ポワソン(魚)、ヴィアンド(肉)、デセール(デザート)、フロマージュ(チーズ)が並んでいる。
 ゲストに配られるカルトには、値段の表示がない。表示があるカルトは、ホストに限られる。オードブルとスープから一つ、魚と肉から一つ、デザートはパスして、チーズを選ぶことにする。フルセットは食べきれない。大食いのフランス人には、とても太刀打ちできない。
 演奏が終わった。拍手はしない。麗人はピアノの上のカードをつまみ上げて一瞥し、次の曲の演奏を始める。映画のテーマ曲やビートルズなどはご法度。あくまで、クラシックで一貫している。次はリストの曲らしい。
 その間に、次々と参加者が入ってくる。夫婦連れの場合には、婦人に敬意を表して、姿を見たら立ちあがって迎える。近づいた夫人が掌を差し出すところで、握手をする。女性が先に掌を差し出したら握手するのが鉄則で、男から先に掌を出すことは禁じ手である。次いで、彼女とハグして、右の頬、左、右、左・・・と、七回頬ずりする。そして、夫人を見守っている旦那の脇の席にエスコートする。
 約一時間後の9時、全員が揃ったところを見はらかって、メイン・ルームに移る。予約の時刻より若干遅れることがマナーである。早く来るのは野暮である。
 用意万端整ったテーブルの脇で、ホストが一人ずつゲストの座る席を示す。ホストに断りなく勝手に座席に座ることは礼を失することである。ゲスト同士を初対面、男女が隣り合うように配置することが原則になっている。 
全員が収まると、ホストはワインを選ぶ。そのワインをホストが味見しておもむろにうなずき、「ボン」と了解の意を示してから、全員のグラスにそのワインが注がれる。全員にいきわたったところでホストの「ボートルサンテ」の一声で、全員はグラスを軽く持ち上げる。健康を祈念して、という意味だ。これで宴の開始となる。
 一口飲んだタイミングで、オードブルが出てくる。キャヴィア、牡蠣、エスカルゴ、フォアグラ、トリュフなど。僕の大好物ばかり。それが堪能出来たら、メイン・ディッシュは要らないほどだ。オードブルの後、バタール(フランス・パン)をちぎって口にしながら、魚を半分ぐらい口にしたところで、もう腹がくちくなってくる。
 ホストが話題を振ってきた。振られたら、それに応える。そして、ホストに話題を返す。横取りされて、会話が別の者に移って行くこともある。そうして、会話が進んでいく。黙食はいけない。僕が顔を出す宴では、ホストが日本を話題にすることがある。浮世絵、仏像、柔道、磁器、俳句、武士道・・・。彼らも勉強しているから「仏像の如来と菩薩の違いは?」とか「神宮、神社、大社の違いは?」などと迫って来る。油断はならない。
 デザートが出たところで、宴は終盤に入る。時計は午後11時を回っている。食べかけのデザートをテーブルに残して、別室に移る。その席に、その食べかけが運ばれてくる。相変わらず会話が楽しげに続いている。
 締めはチーズ、そして、グラスにブランデーが注がれる。重厚なケースに収められた葉巻を目の前に置かれて「葉巻はいかが?」と勧められる。部屋の中に葉巻の香りが漂う。
 ようやく、会話が下火になった。ホストの短い挨拶で閉会になる。時計は午前一時近い。
参加者は、三々五々、家路につく。そして、朝、午前九時には、彼らは平然として、職場の席に座るのだ。
*  *  *
 僕が練馬稲門会に入会した直後だった。幹部らしき御仁から「君の会社にKと言う奴が居ただろう」と声がかかった。Kは西高・政経学部を経て、僕より3年前に入社していた。アラブ地区を担当する営業部長だった。彼は、アラブの王室関係者を連日、パリやロンドンでもてなした。当然、金に糸目は尽きない。ワインだけで、一晩に一千万円を超えたこともあった。僕はパリでKの催す宴に、何度も付き合ったことがあった。
 その彼が、練馬稲門会のグルメの会に入会してみた。彼の父親は教科書会社のオーナーで、彼はその御曹司である。財布は今でも潤沢なことだろう。参加したその初回、Kは幹事と大喧嘩になった。ワインの品定めが原因だったらしい。そもそも1万円足らずの会費で、Kが満足するグルメを期待することが無理と言うものだ。


                                       


 



人生二回目の就活の日々

富塚 昇   2022年2月26日

 私は3年前に東京都の教員の定年を迎え、現在フルタイムの「再任用教員」として仕事を続けています。思うところがあり2022年4月からは、給料はさらに下がるのですが、ほぼ授業だけに専念できる東京都の「非常勤教員」への転身を図ることにしました。ただ、この「非常勤教員」になるのは簡単ではなく、小論文と面接による選抜試験があります。倍率もある程度高いようで私のかつての同僚でも合格しなかった人も出ています。私はその場合に備えて、私立高校で授業だけを行う「非常勤講師」への道も同時に探ることにしました。二面作戦での就活です。
 9月の中旬にある私立中高一貫校の採用試験を受けることになりました。ほぼ40年ぶりに「履歴書」を書き、専門の社会科に関する筆記試験を受け面接試験に臨みました。筆記試験も手応えは十分にあり、面接ではこれまでの実績も評価された感じもしました。学校の雰囲気についても詳しく説明してくれました。勤務は週5日になりますなどと言われたこともありほとんど採用を確信しました。試験の結果は合否にかかわらず11月末までに通知すると言うことでした。ところがその日になっても通知は来ませんでした。メールで問い合わせをすると「いま、富塚さんの結果について調査しています」などという要領を得ない返事が来ました。面接の感触もよかっただけに残念でした。まあ、こういうこともあるのでしょう。結局別の人に決まったと言うことでした。
 私立の2校目として10月中旬に別の中高一貫校の採用試験を受けました。書類選考をクリアし、2次試験で専門の社会科についての筆記試験を受けると次のようなメールがきました。「慎重に検討しました結果、富塚様にはぜひ次の選考にお進みいただきたくご連絡を差し上げました」。次の3次試験では「模擬授業」を行いました。私は国際政治をテーマに授業を準備しました。「国際政治において現在では『世界政府』は存在しませんが、世界が一つとなる『世界政府』が成立する可能性はあるでしょうか」と生徒役のその学校の3人の先生方に問いかけました。私は「現状ではとても難しいけれども、可能性ないとは言えない。それは宇宙人が攻めてきた時です。宇宙人が攻めてきたら「米中」が対立している場合ではありません。地球防衛軍ができて『世界政府』ができるでしょう」と言う授業を行いました。数日後次のメールがきました。「慎重に選考を重ねました結果、今回は富塚様の採用を見送ることとなりました。末筆ではございますが、富塚様の今後のご活躍とご健勝をお祈り申し上げます」。いわゆるお祈りメールがきました。宇宙人が来るという模擬授業がまずかったのでしょうか。
 さて、その学校の採用試験とほぼ同じ10月中旬に東京都の「非常勤教員」の試験を受けました。一次試験の小論文試験を経て、二次試験の面接に進み、1月末にその選考試験の合格通知を手にすることができました。2022年4月からは今とは違う高校で「非常勤教員」として勤務できることになりました。
 ところで、都立の「非常勤教員」の合格発表の前に、ある大学の附属高校の「非常勤講師」の求人があることを知りました。都立の「非常勤教員」とその学校の「非常勤講師」の兼業も可能です。その大学の附属高校には将来の日本社会をリードしていく優秀な生徒が集まっています。私はダメ元で「記念受験」をすることにしました。そして「自分の専門領域を活かして、どのような授業を実施したいか」と言う課題作文にそれなりに気合いを入れて取り組みました。書類を提出してしばらくして次のような第一次選考の結果が届きました。
 「この度は本校公民科の非常勤講師採用にご応募いただき、誠にありがとうございました。慎重に審議を重ねた結果、貴意に添いかねる結果となりました。どうかご理解下さい」。
 さて、私が落ちた大学の附属高校は一体どこでしょう。その大学の頭文字は・・・“W”です。「憧れの『学院』で授業をやってみたかったなあ」。ということで、今回のエッセイは文字通り「オチ」で締めくくることになったのでした。

 

                                       


 



安物買いでボケ防止

加藤 厚夫  2022.2.26 

 「娘来る あれもこれもだ 早よ隠せ」のようなサラリーマン川柳があったと思う。全く我が家を皮肉って読んでいるようだ。毎月横浜から末娘が旦那の運転で、孫二人を連れやって来るその有様を読んでいるのだ。家にある醬油・砂糖・みりん・油から洗剤に至るまでいつも根こそぎ持って帰ってしまう。補充が大変で毎週水曜や土曜のスーパーオトリ商品の広告を調べ走り回るしかない。いつも頼まれるのが日ハムの酢豚298円が198円、クノールスープ278円が198円でその日を狙って買いにいく。同じものなら毎日この値段で売ってよと言いたくなる。
 少額年金者になってからは食料品や日用品しか買わなくなった。現役時代はボーナスが出ると電化製品や背広など必ず買いに行ったものだが、いまや欲しくてもダイソンにも手が出ない。おかげで安い日用品でも吟味して買う習慣が身についてしまった。
 その低額品でもいいものがけっこうある。まずライフのグンゼ半額セールで買った2千円のボディワイルドの冬用スウエットだ。いままで入浴後震えて過ごしていたのがウソのように暖かくおまけに快適に寝られるようになった。もう一品はアコレで見つけたUSBミニスピーカーというやつだ。値札550円とあるからホンマかいなと、メガネをかけ箱の説明書をじっくりと読んでみた。ただパソコンのイヤホンジャックに差せばよく電源は不要とある。こんなに安いスピーカーが世に存在するものかとさらに疑ったが昼飯より安いしと思い奮発した。帰って早速パソコンにつなぎYouTubeの香林坊ブルースを聴いて腰を抜かした。その音量たるや近所から苦情が出そうなほどである。
 こんな安物あさりをしていた矢先、自宅からチャリで15分の豊玉南にスーパーOKが開店した。生まれて初めて入るスーパーだから値段などは不明だ。とりあえず店内を一巡して全ての値段を見てみた。ほとんどの食品がいつも日を待って買いに行くオトリ商品と同じ値段で売っているのに驚いた。自分の頭には何がいくらかは全て入っているのですぐに判明した。今までオトリ商品を求め足り回った苦労は一体何だったのかあほらしくなる値付けである。最近食品メーカーが続々と値上げの発表をしている。極端なのが日清オイリオの食用油で、特売158円だったのが390円に値上がりした。
 たったの100円安いのを買うためにさまようなら、よっぽど飲み代を減らせばいいものをといつも言われるが、カラオケ自体も安物あさり同様ボケ防止に有効であることは医学的に証明されている。


                                       


 



三々会

古内 啓毅  2022・2・26

 私は1958年(昭和33年)3月、東北の片田舎の高校を卒業し、以来馬齢を重ねこの3月で64年になる。高校卒業の同期生と東京で顔を合わせる機会は少なく、あるのは東京での同窓会程度である。が、その同窓会への同期生の出席者は少なくほんの数名程度である。あるとき、同期生だけで集まろうという話になりお互いに声かけをしたところ賛同者が10数人となり、2009年(平成21年)7月に初めての同期会開催となった。昭和33年3月卒業というところから名称を「三々会」として毎年3月3日に開催することになった。場所は銀座の中華やさんの個室を予約し、2019年(平成31年)まで11回を重ねることになった。しかし残念ながらコロナ禍により2020年、2021年の開催は断念。その上馴染みになった中華やさんがコロナの影響で閉店となってしまった。2021年暮れに向かいコロナ禍に好転の兆しが見え、来年は何とか開催できるのではないかと期待していたが強敵オミクロン株の出現である。やむなく2022年も開催を断念し3年連続の休会となった。現在、メンバーは亡くなった人、体調整わず出席叶わなくなった人をのぞいて15名となっている。小生が世話人となって連絡を取り合っているが、最近では、3月3日にこだわらず、開催できる条件がそろい次第開催してほしいとの意見が大勢である。
 ご承知のように、コロナウイルス感染症は、2019年12月初旬に、中国の武漢市で第1例目の感染者が報告されてから、わずか数カ月ほどの間にパンデミックと言われる世界的な流行となった。我が国では2020年1月6日に中国武漢市から帰国した人が1月15日、日本国内最初の新型コロナウィルス感染者と確認された。以来コロナ禍は拡大し続け、直近の世界の感染者はおよそ4億3千万人、死者590万人余り、我が国の感染者は470万人余り、死者2万3千人余りというかって経験したことのないすさまじい状況にある。コロナウイルス感染症のパンデミックは私たちが思っていたよりもはるかに厄介で、いわゆる専門家とよばれる人たちですらその終息を見通すことができないでいる。しかも新たに既存のオミクロンよりも感染力が強いとされているステルスオミクロンなるものが現出し市中感染が広がっているという。加えてコロナ禍とは直接の関りはないが、プーチン・ロシアのウクライナ侵攻というとんでもないニュースが飛び込んできて世界は、人々の苛立ちで溢れ、誠に生きにくい時代になってきている。
 コロナ禍が始まって2年余り、同期会もさることながら、毎年少なくとも一度は訪れていた故郷もすっかり遠くなってしまい、義理を欠くばかりである。定期的に行っていた食事会、懇談など、気ままに声をかけあい集う仲間との会食など、何れも開かれずすっかり疎遠になってしまった。なすすべはないが、一日も早く昔のような日常に戻ってくれるようにひたすら祈るばかりである。


                                       


 



四季の記憶84「ホールの終焉」

鈴木 奎三郎   2022・1

 先日の新聞に、神田神保町にある「岩波ホール」が7月末で閉館するという記事が出ていた。1968年にオープンした220名のミニシアターの先駆者としてとしての使命を果たしてきた。内外の名作を紹介する「エキプドシネマ」(映画の仲間)の拠点として、商業ベースに乗りにくい良質な作品を上演してきたが、ご多分に漏れずコロナ禍の影響での閉館となるそうだ。昭和40年代の現役のころも含めて、年に3,4回は通った。他の映画館ではやっていなし希少な作品を見ることができた。今でも季刊で送られてくる冊子には主に海外の商業ベースに乗りにくい映画が紹介されている。

 ここで長らく総支配人として活躍し、同時に「東京国際女性映画祭」のゼネラルプロデユーサーも務めてきたのが高野悦子さんである。83才、2013年に亡くなったので、もうそろそろ10年近くになる。
 お目にかかったキッカケは多分この映画祭の件であったと思う。企企業メセナ協議会理事長の福原義春さんの紹介でお目にかかったのが最初だったように思う。書棚に著書「私のシネマ宣言」(朝日新聞社)がある。1992年の出版であるから、もう20年になる。若くしてフランスにわたり映画監督の修行に励んだそうである。あとがきには「「私のシネマ宣言」は、私が女性であり、映画人であり、日本人であり、アジア人であって世界人となる内発的発展論を実践する宣言であり・・」と書いて、映画への限りなき愛を語っている。映画に生き映画にささげた思いがあふれている。笑うと少女のようなあどけない笑顔が印象的であった。

 お寿司が好きで、銀座の「久兵衛」によくご一緒した。この時によく連れてきた人が島森路子さんである。高野さんと島森さんの接点は知らない。島森さんは1979年、天野祐吉さんが創刊した「広告批評」の編集長として活躍し、同時にテレビにも出演するなど秋田出身の美人タレントとして有名だった。「広告のなかの女たち」「夜中の赤鉛筆」などの著書もある。1995年10月から翌年2月にかけ毎日新聞学芸欄で79回の連載となった「銀座物語~福原義春と資生堂文化」を執筆した。これはのちに単行本となったが、時あたかも企業文化・・が言われている折から、この種の本としてはそこそこ売れたそうである。
 島森さんも、高野さんと同じ2013年に亡くなった。

 
 お茶の水駅から歩いて数分。明治大学のはす前に、かつて「カザルスホール」があった。1987年、主婦の友社ビルに室内楽の殿堂として創られたこのホールには巨大なパイプオルガンが設置され、スペインのチェロ奏者パブロ・カザルスの名を冠したホールが設置されていた。80年代から90年代にかけて、国内外の多くの世界的演奏家がリサイタルを開いた。この開設者でプロデユーサーとした活躍したのが萩元晴彦さんである。

 萩元さんはテレビ草創期の名プロデュサーとして、TBSテレビで「小澤征爾、第九を振る」などの記憶に残る名番組を生み出し、テレビ界の先駆者として活躍したが、1970年にテレビマンユニオンを結成、番組制作会社の雄として今日に至っている。NHKの現在の人気番組「サラメシ」の制作会社として、開始以来高い視聴率を維持している。
 昭和50年ころ、会社としてミュージカルに挑戦しようという機運が盛り上がり、萩元さんに相談に行った。これといういい知恵もなく強行した「ぬかた」という劇画をベースにしたミュージカルは、青井洋治演出の2時間のもので、渋谷の「パルコ」で2か月ほど上演した。内容もさることながらチケットが売れず、5割以下の日がほとんどで、新聞でも酷評され散々な目にあった。

 しかしこの失敗は、その後の資生堂カルチャースぺシャル「レミゼラブル」「映像の交響楽・ナポレオン」など本格的な文化イベントの展開に繋がっていった。その後カザルスホールは、2003年日本大学の所有となり、萩元さんは2001年に亡くなった。69才だった。
 古書店や楽器店も多くあり、文化の香りの高い神田神保町界隈。岩波ホールが閉館すると、街のたたずまいも変わっていくのだろうか。時の流れは街も人も記憶もすべてのものを変えて、とどまることを知らない。


                                       


 



業界の世の中での存在感

田原 亞彦    2022.2.26

 私は2000年の退職まで証券会社に所属していた。退職後は、陶芸を中心に古代史の研究等の趣味の世界で過ごしてきた。社会との繋がりとして仕事関係は無くなったが、練馬稲門会初め趣味の活動・会合や小学から高校までの各クラス会などスケジユ-ルは結構豊富」で退屈しない。
 数年まえに、入社して間もない頃配属された大支店のOB会が大阪であり出席した。ヘッドは、前東証副理事長、会社の前社長で25人ぐらい男性だけで開催された。順番の挨拶の時私は「500人規模の大学のOB会に所属して色々な経験者と交流していること、この20年ぐらいの中で最近特に感じることは、証券界のみならず金融界全体の社会的評価、存在感が低下している」旨の発言をした。その理由などは話さなかった。釈迦に説法だが、バルブ崩壊後の長期の超低金利時代、低成長による資金需要の低迷、企業の自己資金、内部留保の拡充などがあろうか、何よりも、日本、日本人の新しい物事への挑戦力の欠如が挙げられる。新しい事業の創造力が足りないのだろう。情報化社会への取り組みでこの30年に各国の国力に大きな格差が付いた。日本には、GAFAMは育たなかった。会合終了の時、前社長が私に握手をしに来てくれた。この人は常務の頃か、私の母の練馬の自宅での葬儀に来てくれた。昭和60年の事である。
 もう一つ気になるのは、他人の呼び方の事である。特に職域での呼び方である。英語圏では、「I」と「You」で総括されているのだろうか。神や仏など絶対者の前では人は平等な存在なのだろうか。そう言えば宗教の世界では自他の呼称は他の世界と少し異なるように思える。
 私の場合、その時の時代にもよるが、若い頃は、呼び捨て、君呼び、或いは「お前」などと呼ばれていた。いわゆる上の人は昔では普通威張っていて威圧的な態度の人が多かったと思う。今でいえばセクハラになりかねない言動も多かった。現代よりも江戸時代の武家社会の方が人の呼称ではスマートだったように思う。その後、徐々に職場の上下関係、ジェンダー関係なしにオールOOさん付けの呼び方が拡大したように思う。私個人的には自分の仲間を「部下」と言ったことはない。


                                       


 



梅むすめ

照山 忠利  2022.2.26

 水戸の梅まつりの歴史は古い。1896(明治29)年に上野―水戸間の鉄道開通を記念して始められたまつりは今年で126回を数える。水戸偕楽園は第9代藩主の徳川斉昭(烈公)が天保時代に領民の休養の場所として開園した。今は日本三名園の一つとなっている。園内には100品種、約3000本の梅が植えられ、毎年2月から3月にかけて梅まつりが開かれ、この期間中は常磐線の特急も「偕楽園駅」に臨時停車するなど多くの人出で賑わう。
 この梅まつりのPR役として作られたのが「梅むすめ」の制度。昭和38年の創設というからすでに60年近くたっている。現在は梅まつりばかりでなく水戸の観光PRスタッフ
として活動するので「梅大使」と改称されている。男性にも門戸は開かれているが、これまでに男性が選ばれた例はないという。毎年、近郷近在の器量よしが10名ほど公募で選ばれる。地元紙は写真付きでこれを報じている。なにせ茨城県はこのところ魅力度ランキングで最下位に甘んじているから彼女たちの責任も大といわねばならない。
 私の実家は水戸から鉄道で30分の日立市で、ここに先祖代々380年の暮らしを営んできた。そんな古い村落から初代梅むすめの一人に選ばれたのが邦子ちゃんである。私より2年
上だが一緒に遊んだ記憶はない。高校卒業と同時に故郷を離れたので、邦子ちゃんのことはすっかり忘れていた。祖母の一周忌に帰省した際の席が設けられたのが「割烹和楽」。そこの敷居を跨ごうとしたとき、「あら、ただちゃん、久しぶりねえ」と着物姿の女将さんに声をかけられた。歌手の長山洋子に似た細面の美人だが思い出せない。横の弟に「誰だ?」ときいたら「梅むすめの邦子ちゃんだっぺよー」。
 それ以来親族の一周忌、三回忌の度ごとに「和楽」を常宿としているので邦子ちゃんとは何度も対面することとなった。祖母から始まり父、母、叔父、叔母、そしてあろうことか弟の三回忌まで都合12回に及んでいる。邦子ちゃんの店では当家の法事となると夫婦とも格別に力が入るのか、これでもかというほど料理が出てくる。とても1時間余では食べきれない。余った料理は折に詰めて持ち帰るのが仕来りとかで、傷む心配のないものを包んで帰ることになる。中でも白いんげんのおこわに、甘く煮込んだあぶらげ、蒟蒻と椎茸の煮しめなどは昔懐かしい田舎の味で、家族にも好評である。家に帰ったらそれを広げて一杯飲みなおしながら故人を偲ぶのを習わしとしてきた。
 「和楽」も日立製作所の好景気の時分は接待等でかなり潤ったらしいが、最近では社用族もいなくなり、暖簾を守るのも大変のようだ。二十畳の座敷や和式トイレの改修にも手が回りかねている。それだけにたまの法事が入ると俄然張り切るのだろう。「梅むすめ」のサービス精神が蘇るのかもしれない。でももう邦子ちゃんにお世話になることはたぶんないだろう。実家の関係者で私より先に亡くなる者はいないし、第一「梅むすめの邦子ちゃん」も寄る年波には勝てないはずだから。
(了)

                                       


 



負けず嫌い

鳥谷 靖子  令和四年二月 

 幼き頃。お腹がすくと泣き、嬉しいと笑うだけの、平和な日々。小学生になって、正月休み、兄弟としたトランプ。必ず負けてしまう。悔しい気持ちが残る。「私、もうトランプしない」宣言。学校でも腕力の強い子や運動能力の優れている子が幅を利かせ、そうでない子供の肩身を狭くさせた。中学・高校時代は、学力や親の財力で卒業後の進路が決まる。否応無しに、負けず嫌いの気持ちを経験しなければならない。
 誰もが持っている気質と思うが、自分に向かって努力するなら、いつの日か、花開く人もいる。
 北京オリンピックが、テレビで放映されていた。女子フイギュアの樋口若葉さんが銀盤を華麗に舞う姿を見た。四年前、(オリンピックの)選考に漏れ、友の活躍を家で見守るしかなかった。悔し涙を猛練習の汗に変え、流し、実を結ばせた。
 人生、色々な苦難に出会い、絶望の淵に立たされる時が数回訪れる。そんな時、「負けない」と、自分自身に言い聞かせる。「明日、考えよう」と開き直るのだ。夜が明けると、見えてくる新たな光。挫折に勝った精神力は、自信となり、向上心に繋がる。次の目標への、原動力となる。
 この気持ちを他人に向ける人もいる。嫉妬心を燃やし、嘘や陥れをする冷酷な人間となる。十代後半、そんな女性に会った。恵まれた境遇に生まれながら、友に対し何一つ負けないと振舞った。
 終着駅が見える様になり、人間関係に「まあ、いいか」と「負けを気楽」と思える余裕も生まれた。細やかな目標を立て、自身では、負けず嫌いになりたいと願う。
 無垢だった幼児の頃に戻って、笑ったり、時に、泣きながら、周囲の人と、穏やかに交わって、過ごしたいものだ。