練馬稲門会 エッセイ同好会12月度(第102回)報告

この冬一番の寒気におおわれた日、山茶花の散り敷く道を踏みしめながら今年最多の21名のメンバーが集合し力作を発表した。概要は下記の通り。

日時   2021.12.18(土)  14:30~17:00
場所   生涯学習センター第3教室(練馬図書館内)
出席者及び発表作品

  石田真理     映画三昧
  岡本龍蔵     練馬稲門会テニス部会の20周年記念大会にあたって
  加藤厚夫     江戸時代の昭和に生きて
  古藤黎子     (オブザーバー参加)
  小林 士     駅のアナウンス
  小林大輔     体の不具合を自覚する
  小林康昭     追憶の宴
  坂本 成(初参加)菊坂跡見塾のこと(樋口一葉の通った質屋の顛末記)
  鈴木奎三郎    四季の記憶42 讃岐男と阿波女(再掲)
  高橋正英     関東大震災
  谷川 亘     老熟期の戯言
  寺村久義     個性
  照山忠利     親の命名責任
  富塚 昇     「御朱印」集めを始めました
  鳥谷靖子     琥珀色の道
  松本 誠     早稲田関連2題
  内藤雄幹     デイサービス(ジョイリハ)
  華岡正泰     音楽と私
  古内啓毅     師走雑考
  星野 勢     お風呂と年の瀬
  横山明美     私の京都
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会10月度(第101回)報告

コロナの感染者が大幅に減少して緊急事態宣言が解除されたので、6月以来の対面での例会を開催した。衆院が解散され選挙モードとなる中でこの日はこの秋一番の寒気に覆われたが、17名のメンバーが揃い活気ある発表を行った。概要は下記の通り。

日時   2021.10.17(日)  13:00~16:00
場所   生涯学習センター第3教室(練馬図書館内)
出席者及び発表作品(17名)

  岡本龍蔵     練馬稲門会の城巡りの旅(その3)
  加藤厚夫     自論公論
  小林 士     富の感覚
  小林大輔     右足の不調
  小林康昭     スポーツとオリンピック
  鈴木奎三郎    四季の記憶81 老いの行方
  高橋正英     餃子のこと
  谷川 亘     過ぎたるは猶‥
  寺村久義     新政権
  照山忠利     闘酒忘年会
  富塚 昇     父のことー三十三回忌の年となって
  鳥谷靖子     真珠の首飾り
  内藤雄幹     (無題)
  古内啓毅     スマホへの乗り換え
  星野 勢     怪我の功名
  松本 誠(新加入)私の簡単な履歴書
  横山明美     納戸
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会8月度(第100回)報告

8月は本来第100回の記念すべき例会を開催すべきところでしたが、コロナ感染の急拡大によりやむを得ず対面を取りやめ電子版として作品を募集しました。
次の通り11名の方々から応募がありましたのでご報告いたします。

 小林康昭  あやまち
 鈴木奎三郎 四季の記憶78「セピア色の街」
 高橋正英  女性蔑視発言
 谷川 亘  過ぎたるは猶‥
 田原亞彦  スポーツ
 照山忠利  愛犬の系譜
 富塚 昇  私のSNS事情
 鳥谷靖子  もう一つの故郷
 古内啓毅  コロナと衆院選
 華岡正泰  断捨離
 横山明美  みちのく贔屓
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会6月度(第99回)報告

緊急事態宣言が6月20日で解除され、区立施設が定員通りに使用可能となったことから昨年12月以来6か月ぶりに対面での例会を開催した。久闊を叙すほど大げさではないにしてもお互いに日頃のご無沙汰を述べ合う光景が随所で見られた。
集まったのはこの日を待ち望んでいた12名。小学生の遠足ではないが前の晩よく眠れなかった人、とてつもなく早起きしてしまった人などもいたようだ。人数はコロナ警戒下でもあり不都合の会員もいて例月より少なめであったが、それだけに発表には熱がこもり充実の例会であった。次回(8月)はいよいよ節目の100回記念、気合が入りそうである。

日時   2021.6.26(土)14:30~17:00
場所   生涯学習センター第2教室(練馬図書館内)

出席者及び発表作品(12名)
  岡本龍蔵  コロナ禍前の練馬稲門会5人の台湾旅行
  小林 士  猛威をふるうカタカナ言葉
  小林大輔  ワクチン1回目が終了
  小林康昭  皇統の行方
  高橋正英  アカシヤのこと
  谷川 亘  ものは考えよう
  寺村久義  総理大臣
  照山忠利  歌で元気を
  富塚 昇  境目の日々
  鳥谷靖子  今日を生きる
  古内啓毅  ユリの花とポトフ
  横山明美  万年筆と益子焼
  鈴木奎三郎(作品参加) 四季の記憶77 梅雨のあとさき
  田原亞彦(作品参加)  コロナ後の日常

次回予定
コロナの感染状況を見ながら、可能な場合は8月21日(土) 14:30
生涯学習センター第2教室(練馬図書館内)にて開催する。
なお、次回は当会発足以来第100回目の例会であり多くの皆さんの参加をお待ちしている。
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会4月度(第98回)報告

エッセイ同好会は4月24日に例会を予定しておりましたが、新型コロナの感染防止の
ため第3次緊急事態宣言が発出され、校友会からの活動自粛の要請も勘案し対面での
開催を取りやめ電子版に切り替えました。13名の方々から力作が寄せられましたの
で、ホームページに掲載いたします。

電子版応募作品(13名)
  鈴木奎三郎      四季の記憶75 「家族の肖像」 
  谷川 亘       ひたすら耐えたこの一年 
  田原亞彦       2021年4月の今  
  加藤厚夫       飲み代原価主義       
  小林大輔       花の季節から新緑へ     
  富塚 昇       趣味としての裁判傍聴に向けて 
  小林 士       桜を伐るということ     
  鳥谷靖子       春の便り          
  横山明美       千枝ちゃん         
  小林康昭       昭和の天皇         
  古内啓毅       梅の木と孫         
  高橋正英       方向音痴          
  照山忠利       夢からさめたら       
(照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会2月度(第97回)報告

エッセイ同好会はコロナ禍の中で2月度の例会を電子版開催としました。
添付の作品が寄せられましたのでホームページに掲載いたします。

電子版応募作品(10名)
  小林大輔       正久保橋の信号を連動にして
  鈴木奎三郎      四季の記憶72「青春のキャンパス」
  富塚 昇       教室点描-山田太一さんのドラマのシナリオをお借りして
  加藤厚夫       歌の情景
  谷川 亘       コロナ禍 些細な出会い
  古内啓毅       終活―エンデイングノート
  鳥谷靖子       空の道
  小林康昭       天皇の季節
  高橋正英       中国での麻雀の話
  照山忠利       この先に見えるもの
(照山忠利)




 



老熟期の戯言

谷川 亘    2021年12月18日

 言葉の駄洒落ではないけれど、コロナの猛威に呼応して「緊急事態宣言」のお次の出番は「まん延防止等重点措置」。合の手には、「休業要請」ご下命が目まぐるしく出てみたり、宣言や措置の度重なる「延長要請」。
 コロナ様々の横暴振りにすっかり翻弄させられたこの20ヶ月ではございました。

 人生、年輪を重ねるに従って、「喜寿」とか「傘寿」とか美名を以てもてはやされ、本人も長生きしている実感を素直に喜び、長命の幸せを実感するのはこの世に生を授けた神仏のお恵み?なのです。人生僅か50年とは遠い昔の話。
 いまでは一世紀にわたって生き延びる御仁も稀有な存在ではなくごく当たり前。かく申す私目も既に八十路を過ぎて、日本人の平均寿命を僅かではあっても凌駕し、「健康寿命」と呼ばれる、健康上の支障によって日常生活が制限されずに暮らせる期間を指す値も10年を上回っていますから、“幸福組”の一員なのでしょう。
 ここまでは一切合切“これぞ良し”ばかりだったのですが、この時期は、体力気力両面で頽廃期に足を突っ込む年頃で、手足は萎え、ボケを伴う認知症への入口をまさぐるようになるのです。
 間が悪いと言ったらそれまでですが、その老いの宿命に追い打ちをかけるのが正しくコロナ禍。別の言い方をすれば“黙っていても”老い果てて行くにも拘らず、背中からコロナ禍が頼みもしないのに手助けをする。こんな構図でしょうか?老いとコロナの、責任の分岐点はあらわにしないままに、強調し合って老化をせかせるのです。
 コロナ遠ざけて蟄居していると、世人と没交渉になって心身ともに衰えるのは世の習い。少しでも老化の進度を緩めるべく、「一日一万歩」の誓い。拙宅近くの「武蔵関公園」をハムスター回しじゃないけれど幾度回ったのか? 2千回は間違いなし。お陰で愛用のランニングシューズはほころびるし、何故か右足の踵だけが擦り減って哀れそのもの。哀れみの情湧いて履き続ける始末。
 やっぱり戦時中の人間はいたわりの心と“勿体ない”精神が染みついているのですよ。
も一つ、同じような話ですが、我と大型カメラの話。OB会の写真部部長から、巨大でどっしりとのことで、三脚を引き継いで欲しいとのご下命あり。有難く頂戴はしたものの、私とて同じ理由でデジ・カメから小型に買い替えたばかりで出番なし。無用の長物とはこのことなり。しかし、唯一のご出陣は、望遠レンズ付きのデジタル大型カメラとの老練同志の合作。
 被写体は何だと思いますか?2018年1月皆既月食、今年5月のスーパームーン、そして、9月21日には、8年ぶりに重なった満月と中秋の名月。カメラと私の老頭児コンビでお下がり三脚据えて、それは素晴らしい写真が撮れました。
 老いの一徹。廃却するだけが能ではない。やっぱり古きが故に貴ばねばならない場面だってあるのですよ。
 ただ、油断大敵。11月19日にも「部分日食」が見られ、二階ベランダで手ぐすね引いて待っていたのですが、これまでの成果に慢心があったのでしょうか?見事にピンボケでした。
 それはそうとして、次の皆既月食は来年11月。その後は2025年に出会えるそうですが、果たして“それら”を待てるかどうか?中央新幹線の開通が平成27年以降にずれ込むとか聞いてみたとて、「あわてるなかれ・・。開通したら一度乗ってみたい」なんて無意識のうちにほざいては見るものの、果たしてこの世に“生き長らえる”ことが出来るのでしょうか?正しく我らは“生きると死ぬ”の端境期にあたるのですよ。
 それにしても、最近「検査入院」なんて奇妙な経験を二回。試片を採取して悪性か否かを検査するのだそうですよ。その他にも区の健診とかで年一回。血液検査の結果はHとL印が数年来増えて、まあ、気忙しいこと。そうですよ。顔に出来るシミや皺、アバタの部類。これらは同じように内臓に至って全身総ぐるみ。脳細胞から足先まで“満艦飾”なのですよ。
 我が身を自身でいたわって心身をいたわり、人様のためには労苦を惜しまず、暴飲暴食を謹んで御身大切に生き延びてまいりませんか。
我らジッチャマには、“いたわる心と勿体ない精神”が程よく調和しながら相和しているのですよ。


                                       


 



私の京都

横山 明美   2021年・12月

 テレビでは季節を問わずどこかしらの局で京都関連番組をやっている。書店でも京都本はさまざまな分野で選び放題。年間4000万からの人が押し寄せるというが“大勢に与しない”を行動基準とする私としてはその一人にはなりたくない。春の桜も秋の美しい紅葉もあきらめその時季行くことはないが、つい足を向け始めてずいぶんの時がたつ。
 初の京都はお決まりの地方の高校の修学旅行。これと言って印象も残っていない。歴史の奥深さなどまだほとんど気づいてなかったが、歩き回るだけで日常と違い楽しかった。
 大人になって初めての京都は母との二人旅だった。学業を終えそのまま東京で就職することになったためか、父の咄嗟の提案だった。旅だというのに母はサザエさんの母親・フネさんのように和服姿でなんだかはしゃいでおり、そんな母をまた私は嬉しくて、結局あの修学旅行をなぞるようにあちこちしたり顔で連れまわったのである。蕎麦ぼうろが好きな母だったから、「かわみち屋」の本店に連れて行くと大量に買い込み、朝ホテルのエレベーターに外国人が乗り込んでくると、明るく見上げるように「グッドモーニング」とにっこり声をかける、そんな小柄な姿が懐かしく思い出される。いつも父に雷を落とされていた母のそんな思わぬ姿を、京都では何度も見ることになった。
 次の京都は、その母が他界してしばらく後のことだ。転んで骨折し入院すると治りも遅かったが子ども返りが始まり、私たち三姉妹は一年程、交代で通った。雷を落とす先がなくなった父の憔悴ぶりはかなりなものだったが、落ち着いたころ「三人で温泉にでも浸かってきたらどうだ」と封筒を渡された。末の私はごく自然に京都を提案した。家庭を持つ三人の初めての旅だった。仕事を持ち旅慣れた次女は任せてとばかりぐいぐい歩き、長女はひたすらついて歩きつつ、それでも初めての街の佇まいを楽しみ、私は「この辺でお茶にしようか」という役回りだった。そのとき銀閣寺で行きずりの人に撮ってもらった写真は今も身近に飾ってある。今は私が誰かもわからなくなってしまった長姉も独り暮らしの次姉もそして私も、弾けるような笑顔を見せている。
 外も内も何かと気楽になったここ数年、年末年始は京都で、ということが多い。若い者とは暮らしの傾向が全く違う。自由が何よりだ。知らぬ間に京都の歴史や文化史の本が周りに増えていた。一年前から予約すればホテルも安いし、時には祇園の元置屋だった小さな宿に泊まる。姿を見るのはおかみ一人。朝食だけだが、魚の粕漬に大根おろし、だし巻き卵にセリの胡麻和え・・・と「京のいいお味」なのだ。格子戸の玄関で家族のように送り迎えされるのもうれしい。初めのうちはこちらを探るような目つきが気になったが、こちらも鷹揚な関東者ぶりを重ねるうちに関係はほぐれていく。京都歩きもなれてくると、本で知った染色家の店を訪ねたり、地元の商店街で買い物をしたり、いい喫茶店を見つけたりもする。「そうだ、京都行こう!」との声に故郷の友人三人を案内したが、彼女たちはやはり壮麗優美なホテルがいいようだった。
 あと何度京都を訪ねられるだろうか。雪の京都もいい。観光客などほとんど見ない。

 

                                       


 



追憶の宴

小林 康昭  211218

 物心がついたころ、我が家の座敷はいつも、ドンチャン騒ぎだった。昭和18年から20年の当時、一家は満洲に在って、父は地方の首長だった。父は毎晩、宴会で過ごす。宴会が終わると飲んでいた人たちを我が家に連れてくる。宴会がない時も、下僚や知人を連れ込んで飲む。僕は眠っているから何も知らない。わかるのは翌朝だ。
 隣の部屋で、母がどこかのおじさんの顔に赤チンを塗ったり、腕に包帯を巻いている。酔っぱらって暴れて怪我をしたんだ、とズーッと思っていた。そうではなかった。飲んでいる最中に、部屋の明かりが消える。途端に真っ暗な部屋の中で、ひとりに向かって大勢で襲いかかる。殴る蹴るの限りを尽くして、みんなは引き上げる。
 襲われた人は相手が誰だかわからない。リンチに遭った理由は、日頃、職場で威張っていじめるので嫌われていたからだ。部下たちはその腹いせを晴らしたのだ。幹部たちは見て見ぬふりをする。ひどい目に遭ったそのおじさんは、退職してよその職場に行ってしまったそうだ。その事情を知ったのは、十年以上も後のことである。
*  *  *
 大学に入学した年の秋、父の代理で郷里の法事に出た。法事を催すのは我が家の分家である。
 法要が済んで、精進落しの宴に移った。正面の上座に、その日の導師、方丈さんが座った。分家の戸主が、型通りの口上の後「それでは、本日のサカナを、先生に」と振った。サカナの役を振られたその先生は「ご当家は・・・」と一家の由緒を語り、次いで「本日は、偶々、ご本家の惣領が居られますが」と僕を話題に挙げた。
 僕は、終戦直後の抑留生活時代から郷里に引き上げるまで、学校に通うことが出来なかった。引き揚げた郷里の学校に通い始めたが、心配した父が話をつけて、2年生の秋から日曜毎に先生の家で、算数を教わることになった。毎週、4キロ離れた松代の町まで山道を歩いた。道には、炭焼きや農家の馬や牛が引く荷車が通っていた。バスは通っていない。その中を、子供一人が歩く姿は目立っただろう。初めての冬は土地勘がなくて、一面が雪野原で道を見失ってしまった。道を踏み外して雪の中に埋まって、雪の下を流れる川にズボンの上まで水に浸かってしまった。遅れちゃいけない、と僕はズボンを濡らしたまま、先生の家に急いだ。ズボンが凍って、歩くたびにカサカサと音を立てた。出てきた先生の奥さんがびっくりして、その場で丸裸にされた。先生のウチの男の子の服に着かえて、いつも通り算数の勉強をした。先生は「僅か七歳ですよ、その子は当時」
 あの時はなんとも感じなかったのに、先生のサカナを耳にして忘れていたことを思い出し、不覚にも涙ぐんでしまった。先生は「それが今、早稲田の学生になって・・・。早稲田は、この松代在の田中穂積先生が、総長をなさった大学ですね」と締めくくった。
 サカナは、困窮していた松代藩の、宴席の酒代を節約する窮余の慣習だった、と聞く。人前で臆せず喋ることが生活に定着しただろう。明治に入って信州の尋常小学校では、ヨミカタ、カキカタ、ツヅリカタに、ハナシカタが取り入れられた。人一倍人見知りしていた小児の僕を、人並みに育ててくれた郷里を有難く思っている。
*  *  *
 会社の、歓迎会、送別会、地鎮祭、棟上式、竣工式、記念日・・・。今ならホテルの宴会場で立食スタイル。
 だが、往時の昭和30年代 宴会は専ら、広い大座敷の畳の上だった。上座に、政治家の先生、役所や大会社の幹部など、ついでお歴々が序列に従って連なる。そして、我々が年功の低い順に座り、末席に会社の所長、支店長、副社長、時には社長が畏まる。その畏まった御仁が口火を切る。「日頃のご愛顧を謝し、今後とも・・・」と締めくくる。続いて上座からご挨拶。「思えば・・・」と昔話に、「図らずも・・・」と自慢話に、「大体・・・」と愚痴が続いたりする。挙句に「要するに早い話が・・・」と口走る。偉い人の話は誰も止めない。
 ご挨拶が済んで手が鳴る。ふすまが開く。控えていた仲居さんたちが登場して、場は一挙に華やぐ。全員のコップにビールを注ぎ渡ったところで乾杯の口上。グラスを手に拝聴することになる。口上もまた、長々と延びることもある。グラスのビールは温まっていく。口上が終わった。全員が唱和して、ようやく酒宴に入る。
 下座から幹部たちが、へっぴり腰で上座に動いていく。上座の正賓と盃を交わした後、振り向いて部下を呼び寄せる。「この男が・・・」と紹介して「お盃を頂きなさい」と命令する。言われた通り「お盃を頂戴いたします」と、重ねた両掌の指先をお相手に向けて差し出す。お相手は「掌が逆じゃないか」と渋面を作る。横で、上役が掌を作って見せる。その形に倣う。お盃を頂くと、直ぐ「ご返杯を」と声がかかる。この作法もうるさい。戸惑っていると「俺の盃が受けられんのか」と叱られる。立膝で席を移して、お相手が何人も続く。ひどく疲れる。
 正面の舞台ではお姐さんの三味線で、日本舞踊の素踊りが始まった。束の間、静かなひと時が流れる。
 三つほど済むと、お姐さんから声がかかる。上座の正賓が立ちあがる。「待ってました」と声が上がって、その御仁が披露する。終わると「アンコール」と声が上がる。だが、正賓は席に戻る。歌い手が代わる。民謡あり、浪曲あり、小唄あり、端唄あり、新内あり、詩吟あり、軍歌あり、寮歌あり、演歌あり。歌い手の序列が下がって酒席が乱れてくる。誰も唄に気を留めなくなった頃、若手に振られる。標的は新入社員。特に日頃、固真面目のネクラが狙われる。その恐怖に備えて、隠し芸や持ちネタを嗜むのだ。カラオケのない時代、この試練を超えて強靭に育っていく。今、役所との宴会は御法度に。そして、女将やお姐さんや芸者さんの大座敷もなくなった。


                                       


 



音楽と私

華岡 正泰   Dec.18.2021

 歌が大の苦手。現役時代 まだ“カラオケ”がなくて助かったが 宴会では指名されたり 順番が来るのが嫌で よく逃げ隠れしたものだった。
 小学校は一学年男女各40人の二クラス、国語、算数から体操、習字、音楽まで全て担任の教師に教わった。歌は文部省制定の唱歌を歌っていた。
 戦争たけなわの昭和18年 5年制旧制中学に入学した。その一学期にはまだ音楽の授業があった。敵性語排除とあって「ドレミファ」は「ハニホヘトイロハ」。歌ったのはドイツ民謡が一曲。あとは来襲する敵機の爆音を 戦闘機か爆撃機か聞き分ける為の音感教育。教師が叩くピアノの音を「ロニト」とか「ハホト」と聞き分けるもので 軍国少年の私でさえ首をかしげたものだった。
期末試験はドイツ民謡の二部合唱。相方は小学校から一緒の岩本 修。2学期が始まると 彼「全優を逃した、音楽だけが良だった」と。
 「俺は可」と伝えたその瞬間から私の音楽嫌悪が始まったように思う。2学期は教師が兵隊にとられて音楽の授業はなくなった。因みに彼の岩本、大変な秀才で1年修了後 陸軍幼年学校、戦後 大学は東大から28年NHKへ。アナウンサー部長、日本語学校校長など務めていたが数年前 逝ってしまった。
 年末の歌合戦、昔はよく観たが今は全く観ない。歌合戦ではなく踊り合戦になってしまったからだ。男のくせに変な服装て徒党を組んで飛んだり跳ねたり。しかも皆んな同じテンポで同じリズム。昔の歌い手たちはよ~く聞かせてくれた。だから自ずと自ら口遊む程にさえなったものだった。
 練稲創立20周年の年に入会した。事務局長 塩田さんの計らいで立野、三宅、土肥の大先輩、同年の早速さんに手塚、塩田、時に田原さんも加わるグループに入れてもらった。週に1度は石神井辺りで杯を重ね カラオケも。手塚さんは新旧から英語の歌まで上手。塩田さんは股旅もの、早速さんは「瀬戸の花嫁とMY WAY」だけ。大先輩の歌を聞いていると「これなら私の方が・・」と、級友 八ちゃんの「上を向いて歩こう。遠くへ行きたい」を歌うようになった。だが大先輩が皆亡くなり私が歌う場がなくなってしまった。先日、木曜サロンで久振りにマイクを持ったらメチャメチャ。見兼ねた山田さんに助けられた。
 自慢にもなるが“雄弁会”で活躍していたらしい長男が卒業して進んだのが何と音楽界。そしてこの3月までの5年間 ソニーミュージック・ダイレクトの社長を務めていた。鳶が鷹。でも、彼、プロデューサーの名刺の時代もあったから 私が嫌いな今の音楽作りに一役買ったのかも知れない、ケシカラン。
 シンガーソングライターは誇張に過ぎる、吉幾三の「酒よ」はまだいい。森繁や小椋佳、デックミネの様な心にしみる歌が出てくることを望むや切、である。

 

                                       


 



「御朱印」集めを始めました

富塚 昇   2021年12月18日

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。なにごとにも感謝しなさい」
 数年前に授業で「倫理」を担当した時にあらためて「聖書」を読み出会った言葉です。この言葉はキリスト教をローマに伝道し、キリスト教が世界宗教として広がるための大きな役割を果たしたパウロの言葉です。私にとってこの言葉は聖書の中で最も好きな言葉の一つです。なお、この言葉に関連して以前もエッセイを書いたことがありました(2019年10月)
 パウロの言葉を日常に引き寄せてみます。
 「喜び」について。毎日の授業の中で、話のなかにうまくネタを忍び込ませるときができた時、そしてそのネタが受けたとき、私とってそれは大きな「喜び」になります。
 「祈り」について。今から10年前と12年前、子どもたちが大学受験の時に父親の私ができることは「祈る」ことだけでした。時間があれば大泉学園の北野神社に、当時、青山高校に勤めていたこともあり、学校の近くの明治神宮に、そして湯島天神にもお参りに行きました。
 「感謝」について。前回父のことを書いた時に、父の手帳には次のような言葉があったことを紹介しました。「おかげさまで、今日の自分のあることは、世の中の人の支えがあればこそだ。残された人生は貴重なものだ。真の感謝の気持ちで、これからは生きてゆきたい」。
 ということで「喜び」「祈り」「感謝」は人生に、特にこれからの私の定年後の人生に欠かせないことではないかと思います。
 さて「御朱印」集めについてです。昨年、初めて「秩父札所めぐり」をしました。今年も秩父に行ってきました。秩父札所めぐり用の「御朱印」帳には11のお寺の「御朱印」が集まりました。「御朱印」を眺めていると何となく気持ちが落ち着きます。そんなことがあって、近場の神社仏閣をお参りして「御朱印」集めをしてみようかと思い立ちました。11月23日にラグビー早慶戦に行った時には、秩父宮ラグビー場に行く前に、千駄ヶ谷の「鳩森神社」にお参りをして「御朱印」をいただきました。先日、神楽坂に用事があったときには神楽坂の「赤城神社」にお参りをして、この日の最初の「御朱印」をいただきました。そして早稲田に戻り「穴八幡宮」、そして、道路を渡って日蓮宗のお寺である「法輪寺」に向かい、そこでも「御朱印」をいただきました。「穴八幡宮」はきっと大学生時代にお参りをしたことがあると思うのですが、向かいの「法輪寺」にお参りをしたのは初めてでした。そして、都電の早稲田駅に向かい都電荒川線「東京さくらトラム」に乗り、「鬼子母神」で下り「鬼子母神」をお参りし、この日最後の「御朱印」をいただきました。
 以前、「御朱印」集めがブームになっているということを知ったとき、どうしてそんなことが面白いんだろうと思った記憶があります。しかし「御朱印」集めを始めて見ると、そこには、「御朱印」コレクションが増える「喜び」があります。神社やお寺にお参りをして「感謝」の「祈り」をすることができます。ということで、冒頭のパウロの言葉を具体化する一つの方法が「御朱印」集めだったのです。
 今回は「聖書」の言葉をきっかけにして、神社仏閣めぐりをするようになったというお話しでした。

 

                                       


 



江戸時代の昭和に生きて

加藤 厚夫  2021.12.18 

 自宅から練馬駅まで歩いても10分ほどだが、バスがタダなのでつい“みどりバス”に乗ってしまう。今日は新宿駅西口行バスに乗りかえて15分、まえから気になっていた「トキワ莊漫画ミュージアム」前の南長崎三丁目で降りた。
 ここは手塚治虫や藤子不二雄、石ノ森章太郎らの青春時代、下積み生活をしていた木造アパートで豊島区が昔の姿で保存している。  
 建物の裏に回ると二階からの茶色い二本の土管が目をひく。それを不思議そうに眺めていた40代のお姉さんがいたので、これ何だか分かる?と聞いてみた。「これ上から水を流すものですか」「いや二階の共同便所から糞尿を下す土管で、そこの汲取口から柄杓で肥桶にすくい天秤棒でこう担いで運んだんです」「エーツそれどうするの?」「当時は畑にまく肥料で、買い取ってくれましたよ」と答えたら腰を抜かし「来週子供と来るのでそう教えます」と言って帰って行った。果たして理解できるかどうか。
 そんな能書を垂れた後、歩きながら自分の小学生のころもこんな江戸時代に生きていたのではなかったかと錯覚した。当時は肥桶を満載した大八車を牛が引き近所に来ていたし、夏には金魚屋が「金魚~いきんぎょ!」の節回しで天秤棒を担いでよく売りにきていた。朝早くから籠を背負った小僧が「納豆~いなっとう」とも叫んでいた。夏の遊びも今の子供には考えられないものだ。毎日のように近くの多摩川の川遊びで、メダカが「♫ めだかの学校」よろしく列をなしいくらでもすくえた。水が澄み浅瀬で眠りこけた小鮒を手づかみできた。川で何度もおぼれかけ夜八時、石ころの道を裸足で帰ろうが親はいっこうに心配しなかった。
 冬になるといつも七輪にお湯が沸き、暖房は火鉢と炭のコタツだった。親父が三日に一度薪を風呂にくべウチワで扇ぎ、お袋がタライに洗濯板を立て架け、固形石鹼をこすり付けていた。
 そんな江戸時代の暮らしだったが昭和の娯楽があった。土曜日昼飯代30円をもらうと10円のコッペパンで済まし映画館に飛んで行った。時代劇の全盛時代で市川右太衛門の「旗本退屈男」や大友柳太郎の「丹下左膳」、中村錦之助や片岡千恵蔵らの時代劇はほとんど見たはずだ。当時悪役専門だった月形龍之介が突如正義の味方水戸黄門役でテレビに登場したのには驚いた。子供ながら色っぽい女優高千穂ひづるに関心を持ったが、なんか弱々しい千原しのぶの記憶も残っている。白黒映画が総天然色になったときには観客が感激して拍手を送った。
当時はチャリすら買えぬ時代、どこへ行くにも歩きで九品仏から往復5キロの大岡山の映画館や多摩川遊園まで平気で歩いて行ったものである。
 子供の頃こんな原始生活で鍛えられたはずなのに、末期高齢者に近づくと自分の足であと何年歩けるかが不安になってきた。平均寿命まであと6年あまり。オムツとサントリーロコモアの世話にならぬ“自歩自便”で過ごすためには再びマラソン生活に戻るしかない。


                                       


 



練馬稲門会テニス部会の20周年記念大会にあたって
テニス部会小史


岡本 龍蔵  2021.11.24

 練馬稲門会テニス部会は2000年9月に創設し、このたび20周年を迎えました。これを機にその小史を書き留めます。私は60歳の定年を機に2000年に練稲会に入会し、6月「茶平」で開催された練稲会総会会場で会員募集の貼紙を壁に掲示しました。その後4人が応募(砂田、柴辻、谷川、木内さん)し9月2日石神井公園ボート池畔の「中屋敷」に集まり旗揚げしました。余談ですが、この総会で「早慶6連戦」(昭35)金沢宏投手を見掛け、サインをもらいました。金沢投手は安藤元博投手の二番手で登板した人です。
 テニス会は柴辻さんが大学人でしたので喜久井町の理工総研コート、所沢キャンパスのコートなどを借りて活動しました。当時は人数が少なく年3回ほどの活動でした。練馬区営高野台コート(旧毎日新聞運動場)はその後の拠点です。2002年には杉並稲門会に呼びかけ、追分セミナーハウスで夏合宿を開催しました。大学コートは教職員限定なので、芝辻さん(武田家文書の研究者)の存在が不可欠でした。2006年になると会員が増え当時の名簿によると21名、忘年会は16名の参加でした。
 2007年には初の対外試合として関学(関西学院大学校友会)との早関戦が始まりました。第1回戦ではNo.1戦辻田、菊田組が4-5で敗れ、全体でも4勝5敗で敗れました。「全体で敗れても名誉のかかったNo.1戦だけは勝つ」がむなしい。その秋の第2回戦、No.1戦は辻田、斎藤組が6-2で勝つも、全体で3勝6敗の2連敗しました。これで関学との力量差が明らかになり、戦力強化を図りました。その手段として、早大庭球部名簿を借り出して、近隣区の庭球部OBに手紙を書きました。これにより田中日出男さん(杉並)、加藤文男さん(練馬)を獲得しました。これと区内上中級者の入会が功を奏して、翌2008年の第3回戦は6勝2敗、2009年春は6勝1敗、秋は5勝3敗、2010年は5勝2敗と4戦全勝を果たしました。この6回目を終えたところで、関学から「和気あいあいの中、交流を深めてまいりましたが人数的に、実力的にバランスが取れない状態が続き、高齢化も進み…」の手紙が届き、早関戦は6回で終焉となりました。対外戦は2009年スタートの練馬-杉並稲門会戦だけとなりました。
 創部当初、テニスは年3回ほどでしたが、隔月開催を経て2010年の10周年には月2回が定着し、会員数も31名となりました。2011年には荻野会長の尽力で学院コートが借りられました。「コートは大学も使っているので、定期貸し出しは不可、何か記念大会なら…」の条件に応えて、「部内優勝大会」名目で年1回開催しました。この第1回大会の表彰者は辻田、田中さんで賞品(A4コピー用紙)を授与しました。同じ2011年には「練馬区シニアテニス大会」に練馬稲門会として登録しました。ここで区内テニスクラブやサークルと交流を深めました。また、この年辻田さんが全日本選手権75歳クラスで優勝し、茶平での祝勝会に18名が参加しました。翌2012年の会員数は33名。その頃の年間行事は新年会兼総会、月1回の月例会、杉並稲門会の交流戦、学院の部内優勝大会、ベルデ軽井沢夏合宿と充実してきました。 
 さて、岡本は創部の2000年から2014年1月まで13年間会長を務め、次を菊田勉会長に引き継ぎ5年間、2019年1月には武田幸雄会長へ引き継ぎ、昨年20周年を迎えました。(コロナ禍から記念行事は延期)なお、今も使っているウエブの「出欠表」は練稲会HP担当小澤さんの2002年頃の作です。
 今現在の会員数は40名、月2回の例会を松の風コート(旧日銀グランド)で開催しています。余談ですが、日銀コートは表面がアンツーカーで、父の指導でプレーすると靴、衣類が赤く染まりました。  
 こうして今日まで3代の会長と役員のもとで、会員が一丸となり部を盛り上げてきました。練稲会荻野会長の「会員相互の親睦をさらに進める、これこそが本会の目的であり使命でもあります」に沿いテニス部会は活発に活動を続けています。コロナ禍後は部内、部外試合等行事の一層の充実が望まれます。


                                       


 



私の簡単な履歴書

松本 誠  2021.10.17

私は昭和17年、武蔵野市生まれ育ちで、大学卒業まで武蔵野市。現在満79歳。
父はやや大きな理髪店を経営、私は4人男女の長男です。中学3年生の時「将来は家業の理髪店を継ぐもの」と進路について父に相談したら「床屋の息子が、必ずしも床屋にならなくてもいいぞ!」と。当時父は何人も従業員を初歩から育てるが、一人前になるとほとんどの職人が独立して出て行ってしまう、そういう社会構造に悩んでいました。
妹が3人いましたが、父は女性が技術を持つことが大事と妹たちは理容学校に。私は大学に進学してもいいのかな~と思い、都立武蔵高校に進学した。(昭和33年)もともと府立第13高等女学校という女子高が前身。地域の優秀な女子学生が集まり、頭もよい人が多かった。また美人が多かった。ボクのはかない初恋もクラスのあの人だった。現在は中高一貫教育で、地元の優秀校となり卒業生として誇り高いです。
一浪して念願の早稲田大学第一商学部へ(昭和37年)。地方からの初々しい青年たちと勉学、学生活動など交流が増える。サークル活動にも活発に参加し、やや左翼がかった国際問題研究会では小島忠夫君、早稲田式速記研究会では山田興太郎君と同期生。もう60年以上前からの交流です。就職を目前に控えた頃(昭和41年)、大学紛争で大学構内はロックアウト、4月入社予定の会社(一部上場 日本コンクリート工業)から在京学生のアルバイト募集があり、どこかでバイトするなら入社する会社がいい、と1か月経理部でバイト。そこで現在の家内に捕まる。(結婚は4年後、この間恋愛期間ともいえるが家内は事前の関係を絶対拒否して結婚初夜は新婚旅行が初めて。ボクも辛抱強かった!)
日本コンクリート工業は東電のコンクリート電柱を造りながら基礎工事のコンクリートパイルのメーカー。入社4年目(27歳 昭和45年)に会社の仲間10名と新規会社(ベンチャー)を設立。社名は10名の設立と牛のごとく歩みは遅いが着実に前にすすむことで10頭の牛(TENOX ㈱テノックス)と命名。建設公害の極みであった基礎工事の無振動無騒音工法を数年後に開発、特許を得て旭化成や新日本製鉄など素材メーカーと提携、その後地盤改良工法に着目、三菱商事の協力のもと全国に代理店網を張り基礎業界をけん引、平成4年に店頭企業(現 ジャスダック)に登録。出資資本家であった私達は思いもかけぬキャピタルゲインを得たが,「好事、魔多し」の例え通り、株式や商品取引、不動産など知らぬ世界が私の周りを取り巻き、自宅や隣接する隣家の購入ローンは終わったが、3年後ぐらいに周囲の業者にだまされ、かなりの財産がなくなった。もっと自重すべき人生の1ページであった。
私は文系であったが官公庁建築課、営繕課、大手建設会社、建築設計会社、土木コンサルタントなど得意先のほとんどが技術者(技術士・建築士・土木資格者など)であることから、40歳の頃「よ~し俺も!」と一級土木施工管理技士に挑戦、一年後国家資格取得、会社での技術者養成増員を促した。「人生はチャレンジ」が私の座右の銘となった。
30数年続けているテニスや練馬区シルバー人材センターの植木剪定班の親方の一人として明るく老後を楽しんでいます。
健康で、早稲田の仲間との楽しい交流が元気の素かもしれません。
この度伝統あるエッセイ同好会に参加の運びとなり、まずは自己紹介からと思い駄文を呈しました。


                                       


 



餃子のこと

高橋 正英  2021.10.17

今回のオリンピックパラリンピック、コロナ感染が騒がれる中、賛否両論様々な意見が出たが、ともかく開催、大きな混乱はなく終わり、やれやれの感がした。少し、気になったのが選手村での食事の内容の話だ。実は、前回の1964年の東京オリンピックでは、選手村の食事は帝国ホテルの料理長が陣頭指揮を執り、満を持して提供した料理であったが、意外にも選手たちから不満が出た。そこで少し塩味を効かせてみると一転して好評となったとか、後日TVで紹介されていた。今回の選手村での食事は、味の良さ、種類の多さなど、各国の選手から大変良い評判であったと聞く。その中で、餃子が評価されたらしく、それはなんと”味の素”の市販の冷凍餃子だとか。

私は中國ビジネスに携わっていたこともあり餃子にはいろいろの思い出がある。
アジア中国市場の担当になったていたとき、”今度、京大出の中国人スタッフが入ってくるから、”と上司から言われた。やってきた彼は私の顔を見るなり、まず”自分は英語が全くできないので、そこは勘弁してください”という。家族を帯同して私の住むアパート近くに引っ越してきた。ある時、連絡が入り、自宅で餃子を作るので、来ないかと誘われ、お宅に伺った。彼の家では家族総出で餃子作りが始まっていて、餃子と中国人のかかわり方を教わった。餃子は、自宅で、家族全員で準備をし、小麦粉を練り、皮作りから始める、その中で男の役割は大変重要であり、ちょうど日本の手打ちうどん作りのようだ。餃子の中身(具)/(餡シアル)は、多種多様で、キャベツや白菜などなど野菜だけもあり、必ずしもひき肉などを入れるわけでない、魚介類、卵入りももちろん可。中国の餃子は”水餃子”であり、日本のような焼き餃子ではない。それは前日の残った茹で餃子を焼いて食べる(鍋貼グオティエ)ことが多い。餃子はおかずではなく、あくまでも主食である。日本のように餃子とニンニクは付き物ではない。餃子を含め粉を練って作ったものはすべて麺と呼び、我々のようにうどん類だけを言うものではない。概して中国の北方は麺類、南方は米類が主食。

さて、それから10年程後、今度は国内営業部門から、一人30歳ほどの男性が配属されてきた。彼は両親どちらかが日本人だったようだが、中国で16歳まで育ち、中国語が母国語、日本語も日常会話の上では問題ない。日本に戻って九州の某大学を出ていたとのことだった。しかし、マインドはなかなか日本人的とは言い難く、彼自身も仕事の上では苦労していたようだった。日本語の込入った言い回しが身についていない、正式な文書が書けないなどで事務所ではどうも目立たない。そこで私は彼の持ち前の覇気を出してもらいたいと、彼が主役となるべく、餃子パーティを企画した。料理食べ物作りの話であるからか主に女性社員が多く集まり全部で二十名前後になった。収容可能なご家庭のキッチンをお借りして、器類の調達から、材料の中力粉、野菜、ひき肉などを、各自分担してそろえる。いよいよ彼の指南のもと、餃子作りを始めた。まず粉をこねることから始り、こねた麺を棒状に作り、それを輪切りし、麺棒で皮を作る、、そして、具作り、ここで隠し味など各家庭の味が出るようだ。具を皮に包む方法、茹で方の加減、仕上げのタイミングなど、それぞれのポイントごとで女性たちの歓声が上がった。
茹で終わって、出来立ての餃子を食べたのだが、格別においしい、特に自分たちでこねた皮の味と舌ざわりが良かった。

最後は、30数年ほど前、私が初めて中国東北地方(旧満州地区)へ楽器販売に出かけた時のこと。私の中国語はまだおぼつかなかったので、訪問先の販売店に頼み日本語の通訳を依頼しておいた。現地側の準備してくれた通訳はもう中年を過ぎたと見える男性であって、私が紹介されるとすぐに寄ってきて、懐かしそうにこんなことを言ってきた。彼が少年のころ、隣の家が日本人家庭であった。毎年、大晦日には、隣の日本人からはお寿司が、うちからは餃子を作って交換したものです、そのお寿司のうまいこととはなかった、今でも忘れられない、と。私は思わず彼の日焼けした顔を凝視してしまった。 (了)


                                       


 



スマホへの乗り換え

古内 啓毅  2021・10・17

 女房の携帯は大分前に娘から譲り受けた、いわゆるガラケー(ガラパゴス携帯)と言われる代物で、いまにも壊れそうな状態になってきたので買い換えようということになった。私の携帯は3年前だったか携帯をズボンのポケットに入れたまま洗濯してしまい使用不能になってしまい買い換えている。現在十分に機能している。

 8月末、女房のガラケーをスマホ;に機種変更することにし、中村橋駅前のドコモショップに出向いた。いろいろ説明を受けたが買い替え料金は1円だという。なぜただ同然の値段になるのかの説明を受けたがよくわからなかった。要するにそういうシステムというか、販促キャンペーンの対象中ということだったのかもしれない。私の携帯はガラケーではないので買い換え料金は4万円超になるという。支払いは24回分割が可能だというので、この際、女房の分がただになるのならエーイ・ヤッと気合を入れて私の分も買い換えることにした。

 スマホに乗り換えるにあたりその場で説明を受けたが、年寄りには十分に理解し使いこなすには苦労するような印象を持ったが、あとはスマホを自在に活用している娘たちに教わるなり独学でマスターすることにした。          
 スマホのメリットは、様々なアプリが使える、ニュース、天気、地図などのアプリを追加できる、連絡手段をメールからLineに移行し、友人、知人とのやりとりに利用できる、絵文字、デコメール機能も活用できるなど、これまで以上に活用の幅が広がるようだ。
 ただし、月々にかかる通信料金はこれまでより割高になりそうだ。私の場合、買い替えの分割料金も含め、4千円台となり、これまでの2千円台から倍増となりそうだ。

 先日の新聞紙面に、最近のガソリン高の家計負担、電気代も含め、エネルギーの高騰がしばらく続きそうで家計や企業は我慢を強いられると解説。同じ紙面で、節約アドバイザーが、家計を守るための節約方法を伝授しているが、その中で固定費の見直しでは、スマートフオン.の利用プラン切り替えを検討せよ、と提案している。今回の当方のスマホ乗り換えはこの考えに逆行するが、種々検討し経費節約に努めたい。

 電車の中で、ふと周りを見ると、老いも若きも皆スマホにかじりついている姿は何とも異様な光景に映る。我々老夫婦はそんな仲間には参加できそうにはないが。

 娘の助けも借りて、ようやくラインを開設できた。早速遠方やご無沙汰の友から連絡が入っている。まだまだ不慣れながらポツリポツりとラインでのやりとりを楽しんでいる。スマホへの乗り換えがボケ防止、ストレス解消の一助になれば、と考えている。


                                       


 



過ぎたるは猶・・・(2)

谷川 亘    2021年10月17日

 Corona渦中に引き込まれて一年半。
傘寿超して温泉三昧。好き勝手し放題の老後が出迎えてくれると思いきやとんでもない。
 コロナ禍に遭遇して行動規制を強いられて、自らを、自身の判断で自宅に幽閉して蟄居の毎日。暇な時間を如何にして有意義に過ごすのか?隠遁生活は止む無しとしても「サンデー毎日」。曜日や時間感覚さえなくなり、人様との接点も途切れて認知症にでも罹患したら?なんて懸念に苛まれて気が気でなかったのも事実です。
 心身ともに一挙両得と言われて久しい「一日一万歩」。これぞ唯一無二の健康法と確信してこれに飛びつきました。
 しっかり5:15に起床する。そして嬉々として身支度して拙宅近くの「武蔵関公園」のラジオ体操に加わって身体ほぐし、時に仲間ととりとめのない会話を交わして、池の周りを速足で歩く。「ダレちゃん滑ったの転んだの・・・」とりとめのない雑談。これも“ボケ防止”には大いに貢献すると言われています。計算能力保持のためにも進歩の記録としても残すべく念入りにスマホに記録。これまた何と几帳面な!!神社の参拝も兼ねた公園までの行きと帰りで3千歩。一周2千歩の公園池端4回りして8千歩で合計11,000歩だから、余りの1千歩は担保として雨の日に備えておく。
 昨年は8と9両月には一万歩記録樹立で、5と6月は達成寸前。そして、今年は1、2月が貫徹寸前で、6月は満願成就。しかし、8月に入って昔の古傷が痺れだして通院するに及び、かなり回復はしたものの、ズバリ言ってヨタ歩き。“どうぞお先に!!”的状態にあります。
 僅か一年半でありますが、年のせいなのでしょうが歩幅が狭くなり、歩く早さも遅滞気味。これは、正確な記録がそれを明らかにしております。“よた歩き”と自嘲気味に言ってますが、老齢化とともに気力が萎えたことも一因でありましょう。
 ベンチで声交わすご同輩に、「何でそんなに先急ぐのかい。何事もゆったり人生。歩く度に膝の骨擦り減ってんだぞ!!」。この一言は効きました。正直、回し車のネズミじゃあるまいし、“歩くマンネリ”病で嫌気さしてましたし、正直、一万歩は気持ちの上でも重荷でした。足の痺れも苦痛の種。
 そこで気付いたのが、記録に執着せずにまっさらな気分に切り替えて俳句を編むことでした。
 まあ、俳句の部類に関しては、遠い昔、70の手習いを実践すべく、母校のExtension Centerで堀切実先生の「奥の細道を読む」を前後期にわたって受講したくらいですから、興味深々とは行かないまでもなんとかなると言い聞かせ、俳句・川柳の混合体。まあ、早朝の“寝ぼけ眼の上の空”なのではあります。

 未熟極まりない俳句?川柳?どちらなの。赤恥かいてご披露させていただきます。
○道半ばにして頓挫した、Corona禍対応についての心構え。
 「無我夢中 ひたすらせ(急)くは 一万歩」
 「与太歩き さりとて刺激 前頭葉」
 「よたあるき 活入れむべく 練る俳句」
○良く耐え抜きました。自分を褒めてやりたい思いです。
 「コロナ禍に 自ら課した 蟄居罰」
 「幽閉に 耐えて忍んだ 一年余」
お粗末様。


                                       


 



怪我の功名

星野 勢   2021年10月17日

 一寸古い話で恐縮です。
 昨年9月14日早朝、突然ギックリ腰になった。激しい痛みはともかく、とにかく立てない、歩けない。トイレに行くにも這って行くしかない。ギックリ腰というより砕け腰という感じである。

 私はそれまで腰痛というものを全く知らず、腰痛って何?という感じで、スーパーの買い物でもカートを使わず、平気で重い物を持ったりしていたが、その報いがきたらしい。一週間は寝たきり同然であった。このまま歩けなくなったらどうしょうと、絶望感にも似た強い不安感に苛まれた。一週間後、杖をつき妻の肩につかまりながらタクシーで埼玉県戸田市の整形外科医を訪ねた。

 診断の結果、「腰椎すべり症ですね。すべり症そのものは治らないけど、治療等で普通の生活に戻れますよ」とのこと。注射を打ち、強い痛み止めの薬を処方してもらった。強い薬の副作用で吐き気・便秘等に悩まされたが、とにかく治さなくてはの一念であった。通院を重ねるうち、二か月後には一人でなんとか歩ける様になった。

 普通に歩けるということが、こんなにも素晴らしいものか!と初めて気づかされた。買い物にも行ける、自転車にも乗れる、「ありがたい」の思いで一杯であった。これからはもっと自分の体を労わろう、人にも物事にももっと感謝の気持を持とう、という気持ちになった。妻からは「急に仏様になったみたい」と言われている。通院は続けているが、これからも何が起こるか分からない。でも一日一日を大切にやっていこうと、今はとにかく感謝・感謝の毎日である。

 これって怪我の功名というのかな???
                                  以上 

                                       


 



父のこと-三十三回忌の年となって

富塚 昇   2021年10月17日

 前回のエッセイでは、私はトレッキングに行き、日の出山に登った後に「つるつる温泉」というところに行ったことを書きました。そして最後のオチはこんな文章でした。
 「父の輝く遺伝を兄弟3人のなかで最も受け継いでいる私としては、この温泉の名前はちょっと微妙です、と自虐ネタを放っておきます」。
ということで、今回は私にその輝きを残してくれた父のことを書くことにします。
私の父は1924(大正13年)年生まれ、生きていれば今年97歳ということになります。千葉県佐倉生まれ、旧制佐倉中学校、陸軍士官学校を卒業し、昭和20年に少尉に任官したすぐ後に敗戦を迎えました。その後、昭和21年に早稲田大学理工学部建築学科に入学し、旧制なので昭和24年3月に卒業しました。竹中工務店に入社し、母と見合い結婚をして、昭和25年に長男、昭和28年に次男、昭和33年に三男の私が生まれました。父は猛烈サラリーマンとして仕事に打ち込み、休日はほとんどゴルフに行っていました。子どもだった私にはおみやげのゴルフボール型のチョコレートがとても楽しみでした。また、会社では出世をして、広島支店長を経て最終的に取締役になりました。そして父は、今から32年前の平成元年10月、65歳の誕生日の3週間前に今でも難しい膵臓ガンで亡くなりました。10年は早いと言われたものでした。
 父は陸軍士官学校出身であることにプライドをもっていました。当時は時代を反映して旧制中学から旧制高校に行くよりも、陸軍士官学校か海軍兵学校に行くことが周囲の期待に応え、誇り高いことだったと言っていました。士官学校では学生たちが教官を囲み「如何に死ぬべきか」についてよく語り合っていたということです。そんなことを聞かされたらもう何も言えません。また、早稲田では放送研究会に入っていて、早慶戦の時にはその準備をしていたそうです。
 大正生まれの父は、兄弟3人で話したことがあるのですが、まさに「地震、雷、火事、親父」の最後の世代の父親だったのではないかと思います。父が亡くなった後、兄弟3人で怒られた思い出話を肴に飲んだこともありました。
 父が亡くなった後に父の手帳が見つかりました。父はこんなことを書いています。おそらく還暦を少し前にして書いたものだと思います。
 「一つずつ櫛の歯が欠けていく寂寞感の中で、なお平然と生きていくのは何の力によるのだろうか」。「定年という区切りがはっきり現実のものとなってくるだけに、その思いは一層深い」。
 子どもから見て、強くて怖い父でもこんなふうに思うことがあるのかと意外に思ったものです。そして、私も定年を迎えた今、落ち込んだりする時がないとは言えず、そんな時には「お父さんだって落ち込むことがあったんだから、自分が落ち込むことは当たり前だ」と思い、手帳のコピーを読み返すことがあります。父はこんなことも書いていました。
 「おかげさまで、今日の自分のあることは、世の中の人の支えがあればこそだ。残された人生は貴重なものだ。真の感謝の気持ちで、これからは生きてゆきたい」。
 そして、そのようなことを書いてから少し時間が経った62歳ぐらいの時であったと思うのですが、父が母と私を前にしてこんなことを言ったことをはっきり覚えています。
 「今が自分の人生で最高の時かも知れない」。
何が父をそのような思いにさせたのでしょうか。会社で出世していたこと、孫が5人生まれていたこと、そして、その時、長男の家族と住む二世帯住宅を、これまでの自分の仕事を生かし自分の思いを十分反映させた形で建築中であったことが大きかったのではないかと思います。
 私も、もちろん父と同じようにはいきませんが、これからの時を私なりの「最高の時」にするように歩んでいけたらと思っています。
 

                                       


 



スポーツとオリンピック

小林 康昭  211017

 松山や天より高き天守閣 虚子  私が好きな句の一つです。松山市内の山麓のお堀端から山頂を見上げると、まさに高い空を突き抜けるように天守閣がそびえたっています。季語は、天より高き、季節は秋です。
 天高く馬肥ゆる秋、そして、秋はスポーツの秋でもあります。その象徴が10月第二日曜日に定められている祝日、スポーツの日です。この日が祝日と定められた根拠は、1964年の10月10日に、東京オリンピックの開会式が催されたことに由来しています。日本は、世界で初めて有色人種の国でオリンピックの大会を主催したことを誇りとして、この祝日を定めたのです。日本の気候にとって、秋は最高のスポーツの季節です。
 この度の東京大会も10月に開催するのが当然でしたが、8月に行われたその理由は、放送権を持つアメリカのテレビ会社が真夏の開催をIOCに要求したからです。主催者の東京都は、IOCの圧力に屈しました。日本の過酷な猛暑のもとで、選手たちに犠牲を強いたのです。その結果、今年のスポーツの日は8月に移されてしまいました。そして、10月第二日曜日の10月11日は平日になってしまいました。
*  *  *
 「スポーツ」即ち、英語のsportの語源は、ギリシャ語かラテン語の時間つぶしの意味だそうです。だから、sportの語釈にpastimeとある英語辞書もあります。日本語では体育、体操、運動競技などの訳が充てられていますが、元々は、暇つぶし、転じて余暇の善用、程度の意味でした。昔のヨーロッパでは、余暇を享受できるのは、平時の王侯貴族や軍人の男性たちに限られました。彼らは、心身の鍛練として、乗馬、剣術、鎗術、格闘技、漕艇、水泳などにいそしみました。これらは、スポーツは上層階級にとってたしなみとなり、彼らのステータスになりました。そこには、プロ・スポーツの認識は露ほどもありません。競技して見せて金を取るなどとは、彼らにとって卑しい行動だった筈です。ヨーロッパ人には古代ギリシャへの憧れがあります。クーベルタンが憧れたのは、ギリシャ時代のオリンポスでした。ギリシャの世界は、奴隷たちの上に花開いた上層の市民階級の文化です。彼が実現させた近代オリンピックが貴族的でアマチュア的であることは絶対的な前提でした。
 近代オリンピックはその影響を引きずっています。まず貴族趣味。老残の役員が開会式や閉会式で闊歩している所以です。甲子園大会の選手だけの清々しさを見るにつけ、オリンピックも選手に限ったら、と思います。
 往時のクーベルタンたちの有閑族がオリンピックを初の国際競技大会という形で創出したことは慧眼に値することでした。あらゆる競技が加入したがることは当然の成り行きで、たちまち、巨大な存在に成長しました。
 メディアがこれに注目することは当然です。そこに権威が生まれ、利権が生まれ、アマチュアリズムが消えました。あらゆる職業の人がスポーツという共通点で参加していたアマチュアの大会が、プロフェッショナルに変わったことは、スポーツを職業とする者だけが出場する大会への変貌を意味します。オリンピック大会の重大な理念の喪失です。勝つことではなくて参加することであるとの理念も死文化しました。メダルを獲ることが目的化しました。国ではなく個人の争い、が有名無実化しました。
 何事も西欧の権威に弱い日本はオリンピック大会を神聖視しました。その証拠が、オリンピック・ファイアーまたはオリンピック・トーチの訳語、聖火です。外国では、松明、焔火に過ぎません。そもそも、「聖」とは、聖母マリア、聖人フランシス、聖ルカ、など、宗教上犯しがたい聖人に冠する表現で、まして、一般人の命名「聖」に使われることは、キリスト教徒や回教徒にはありえないことです。オリンピック大会に対する批判的な主張や論調は、日本ではタブー視されてきました。共産党独裁の中国ですら、北京大会の開催にあたり、追立てを食った住民たちの苦悩を描いた映画「胡同の向日葵」を製作し、しかもヒットしました。1964年の東京大会の際に同様の苦悩を強いられた住民たちが存在したのだが、彼らを描いた映画も報道もありませんでした。この度、オリンピックとIOCに物申す日本のメディアが出たことは、ようやく、外国並みになった、ということです。
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 オリンピックは原点に還るべきです。まずアマチュアリズムに戻ること。スポーツの興行化の危うさは歴史的に検証されています。古代ローマの「パンとサーカス」の政策が有名です。サーカスとは、格闘技などの競技を見せものにして庶民の関心を誘い、政治から逸らさせたことです。その結果、政治の貧困と荒廃を招いても民衆は無関心で、古代ローマ帝国衰亡の一因になったのです。スポーツへの過度な関心の集中と国家間の競争を煽ることは好ましくないのです。メダル、国旗掲揚、国歌演奏の顕彰をやめましょう。大会は競技者に最適の季節に開催するべきです。団体競技はワールドカップやチャンピョンシップ(選手権大会)に任せましょう。ラグビーやサッカーの大会の高い権威を見れば、オリンピックの権威に頼る必要はありません。大会を開催する負担を減らすために、開催地を固定して恒久的な施設を設け、IOCが主催しましょう。この理想論の実現を願っています。
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 最後に日本のスポーツ関係者に苦言を。日本古来の伝統的スポーツには団体競技がありません。そのせいなのか、スポーツ団体の長に、専ら個人競技の関係者が選ばれています。時に、彼らの不手際が指摘されます。組織運営には、団体競技の関係者のほうが適材だと思います。この点に触れるメディアがありません。遺憾です。


                                       


 



四季の記憶81「老いの行方」

鈴木 奎三郎   2021・10・1

 いよいよ来年には傘寿となる。いよいよ・・といっても待っていたわけではもちろんない。これまで特段の病気もせずによくぞここまでたどり着いたものだ。特に近年はトシのことが気になりだした。若いころはトシのことなど考えたこともなく、自分の若さは永遠に続くとボンヤリと思っていた。がこれは大いなる勘違いであることがハッキリしてきた。いまのところこれという身体的なトラブルもなく、モノの名前や固有名詞が出てこないなどいろいろあるが、まあまあ何とか日々出歩くなどして、ヒマにならないようにしている。しかし、体力気力はトシ相応に確実に落ちてきたような気がする。
 自宅から歩いて10分少々の距離の駅にも、バスを待つようになった。一年2万円の老人パスで乗り放題だ。急ぐことはなにもない。バスを待つ時間はいくらでもある。

 今年に入って8名の親しい仲間を失った。ほとんど同世代であり、病気~入院によるものだ。そのうちの一人は、何としても100才までは生きる・・と言っていたが、入院一か月であっという間に亡くなってしまった。訃報を聞いたときはまさか・・と思った。
ぼくの父は44才腎臓結核で亡くなった。4,5年の入退院を繰り返していた。当時としても早死にである。ぼくが小学校3年の秋である。この時期になると父を思い出す。半面母は100才まで生きた。多分父の分まで生きたのであろうか。果たしてぼくの遺伝子はどちらになっているのか・・。

 最近、佐藤愛子の「戦いやまず、日は暮れず」「気がつけば終着駅」と森村誠一の「老いる意味」が版を重ねている。97才の佐藤さんの著書はこれまで2,3冊読んだ。森村さんは「野性の証明」「人間の証明」などの小説が1970~80年代にかけてミリオンセラーとなり、映画化もされた往年のベストセラー作家だ。「老いる意味」は、中公新書ですでに20万部近くを売り上げているそうだ。著者は88才である。なにかこれからの生き方でヒントになることがあるのではないかと読んでみたが、さほど目新しいことはなかった。「老いる意味」はそんな著者が80才を過ぎて発症した、老人性うつといかに向き合うか、が語られている。

 人間は老いとともに病気はするし、悩み苦しむことも多くなる。それに伴侶や仲間を失って、孤独と寂しさに向き合わなければならない・・など若いころには想像もできないいろいろなことが起こってくる。でもそれが現実で、一人としてそこから逃れることはできない。
 森村さんは「老いには勇気が必要。老いを恐れず、残された日々を自然体でいること、いいことも悪いこともすべて過去の出来事として水に流す。今までのことはリセットして、ゼロで始まると考える。続編やエピローグのつもりでいるのではなく、「新章」にすればいい・・と説く。老いに向き合う往年のベストセラー作家でもこういう心境に至るのだ。

 トシを取って人との付き合いが減っていくと、頼れるものはほぼ伴侶と多少のお金だけになる。お金があってこそ好きなことができる。確かにその通りで、行き過ぎた倹約生活はやっと手に入れた余生を味気ないものにしてしまう。しかしいまや欲しいものもしたいこともなくなってきた。海外旅行も意欲がなくなった。強いて何処かをあげるとすれば、かつて訪れたバリ島のウブドの静寂だ。それにモロッコ・マラケシュのスークの喧騒の風景だ。

 ここ1,2年はコロナ禍で里帰りもしていない。帰っても、せいぜい長兄に会い墓参りをするくらいだ。高校時代の友人も今更会っても話すこともない。それぞれに環境や生活が違うのだ。
 善光寺やその裏にある雲上殿の周辺には、18才まで過ごした長野市での若い頃のいろいろな記憶が残っている。駅から善光寺に至る2キロの参道は坂道で、ここを自転車で登るのは一苦労だった。生まれ育った実家はちょうどこの参道の中間にあり、長野オリンピックのときには、表彰式会場になった。いまは「セントラルスクエア」という名のオリンピックの記念公園になっている。いまや新幹線で2時間弱の距離だが、トシとともに故郷への憧憬は増してくるような気がする。

故郷は坂の町なり秋信濃 


                                       


 



岩村充早大名誉教授の最終講義録を読んで

田原 亞彦    2021.10.17

教授は東大卒業後日銀から早大に移り早大ビジネススクールに在籍され、企業金融、金融政策、貨幣理論がご専門である。多くの示唆に富んだ講義内容で現在社会への影響も大きいと思える。

1人ひとりが豊かになる経済成長の始まりはいつか?   産業革命による技術革新だけでは起きず、フランスなどの市民革命により私的所有権が確立した19世紀から現代的な国家、企業、通貨が生まれた。富は国王から資本家に移り、二次の大戦による消失疲弊から1960以降の1億総中流化時代、冷戦時代後のグローバル化競争を背景とした新自由主義による経済となる。

グローバル化による競争。   2000年頃から税制の国際的な競争時代になる。法人税の国際的引下げ競争、逃げない税である消費税の増税、金持ち・資本収益優遇、株主優遇競争であり、中間層は課税強化され経済格差は拡大した。

過大な企業活動は様々な問題を起こした。   人口減少問題、原材料資源などの枯渇、公害、騒音、温暖化等の環境破壊が生じてきた。企業は多くのステークホルダーの利害を調整して最適な企業活動水準を模索しなければならない。企業活動成果の配分、企業支配権への従業員の交渉力強化への再検討が必要である。絶対的な貧困、経済停滞を回避しなければならない。

税制の再デザインの提案。    法人税は売上から原価と人件費を差し引いた利益に課税するが、消費税は売上マイナス仕入れ価格に対する課税で労働価値は考慮されない。中間層に対する実質的課税強化であり格差の拡大になる。金融資本取引を消費税・付加価値税の対象にする。安全資産利子率(無担保コールレート)を基準にして資金の調達と運用の差額収益に課税することにより法人税は大幅縮小乃至廃止にする。又給与は役務の販売と考え課税対象とし、給与生活者の基礎的生活維持費用を仕入れとして税額控除することにより給与所得を所得税の課税対象外にする。(詳細は教授の『ポストコロナの資本主義』参照)。現在の税制はそれぞれ別々の理論からなり統一的な経済政策にならない。また多くの税の「抜け道」がある。

ポストコロナ社会は。   お金を背景とした組織(株式会社)の一員としての自己表現から、個人相互の人との共感や問題意識の共有をベースとした多様性に富んだ自律分散社会になるべきだとされる。GAFAMはその存在がクルーズアップされ、人の関心ごと、心の支配力を有しており必要ではあるがある意味では警戒もしなければならない。支配力強化に利用する国家もある。

会社制度を変える企業支配権の再配分は多難であるが必要である。不都合な現実に耐える「心の力」を作ることが必要。自由な社会における最大の課題は「ネガティブケイパビリティ」 消極的受容力である。答えの出ない事態に耐える力である。格差の是正、分配の問題、金融所得課税、中間層の拡大は新首相のテーマでもある。解のない問題への取り組みの必要性を田中早大総長も指摘されている。 


                                       


 



闘酒忘年会

照山 忠利  2021・10・17

 酒をテーマにした雑文を書いたことはこれまで幾度となくある。3年前のお通夜の晩に3軒もハシゴして痛切な反省をしたことはかつて当会でも発表した。いい齢をしたジジイたちがよくもまあと大いに顰蹙を買ったことを思い出す。今回もまた書くテーマに困ったので酒に登場願うこととした。
 私と酒との付き合いの始まりは大学入学後の「金城庵」でのクラスコンパだった。卒業後酒飲み天国の会社に入り、ことあるごとに開かれる飲み会に参加していたが、それはあくまでも懇親の酒であった。たまに飲みすぎて二日酔になることはあっても闘いの末の苦しみではなかった。入社試験の面接で「酒が飲めるか」と訊かれた意味を思い知ったのは15年後のことである。炭鉱の労務係主任。坑内労働者の元締めである。ここでは酒は単なるたしなみとか楽しみとかの対象ではなく、まさに「武器」であった。その闘いの一場面を振り返ってみることとしたい。
 高島炭鉱は長崎から船で1時間の離島にあった。100年の歴史をもつ古い炭鉱で1500人の鉱員を擁していた。労働組合対策で日常的に仕事酒を飲んでいたが一番の修羅場は年末の忘年会である。坑内の各職場ごとに長崎の料理屋に繰り出し、年に一度の無礼講となる。長崎の繁華街では「高島の忘年会」として有名で、一夜にして数千万の現金が落とされる。各職場のリーダーは本番の1か月前に「下見」と称して忘年会の場所の選定に出かける。場所が決まれば次は開始時刻が問題となる。自分たちだけで勝手にやってくれればいいのだが、当方に出席を求めてくるので時間の調整が必要なのだ。相手は1組30人の10チームだ。勿論宴会の始めから終わりまで出るわけではない。途中から顔を出し座敷を一回りして盃のやりとりをするのだが、それでも30人を相手にすると1チーム20~30分を要する。10チームを回るとタクシーの移動時間も含めて5時間以上かかる。この範囲内に各チームの宴会の時間が収まるように調整するのである。ラウンド終盤の10組目になって時間に間に合わないこともあった。すでにお開きとなって役員連中だけが待っていて「主任、待っとったですばってん、さっき解散したとこですたい」などという。
 宴会の座敷には長崎の山海の料理が所狭しと並べられる。活きた鯛、鮃、鮑、栄螺、鮪、鯵などの船盛。海老、烏賊、鱚などの天婦羅。カマスや太刀魚の塩焼き。鯖かこはだの酢の物。野菜の煮物、茶碗蒸しなどなど。だが彼らが口にするのは最初の吸い物に突出しと刺身の数切れだけ。ひたすら盃のやりとりに明け暮れる。実にもったいない話だが折角の豪華料理も大半がフードロスとなった。酒のつぎ方も単にお酌をするのではない。まず相手に献杯をして返杯を求めるやり方なので、常に相手と同じ量の酒を飲まねばならない。こちらにしてみれば先につぶれるわけにはいかない真剣勝負というわけだ。
 実はこの忘年会、各職場の成り行きに任せて毎週の日曜日にダラダラやられると鉱員の出勤率が下がり出炭が落ちる(採炭夫1人当たり10トンでみていた)ので特定の2日間だけ連休とし、この間に忘年会をするよう誘導していた。労務係主任はこの2日間の職場の忘年会に顔を出すのが慣例となっていて各職場からもそれが期待されていた。手違いで行けなかったりすると「うちの職場には来てくれなかった」と後々恨み言を聞かされる破目になる。またこの忘年会はいわば職場の公式行事なので、みな一張羅の背広ネクタイ姿。炭鉱夫には似合わないこと夥しい。中には長崎の街に出るのは1年でこの時だけという仕事一途な鉱員もいた。かあちゃんから10万ほどの軍資金をもたされていざ出陣となるが、金の使い方がわからない。まだキャバレーなどが栄えていた時代で、2次会の席でホステスの胸の谷間に万札を差し込んだりしてカモになり、翌朝すっからかんで寒風に吹かれながら帰島に及ぶ姿も見られたりした。
 若かったとはいえこのようなでたらめな酒浸りの生活をしてよく体がもったものだと我ながら感心する。労務の先輩には酒がたたって早々に他界された方も多くいる。小生も3年前のお通夜酒を機に、闘いの酒を手仕舞いにして嗜む酒に切り替えたつもりである。その分各位には酌をする頻度は少なくなったがご容赦頂き、今後ともよろしくお付き合いを願いたい。   
(了)

                                       


 



自論公論

加藤 厚夫  2021.10.17 

・テレビを見るときは、リモートキーがいつも手元にある。1時間の番組だと15分はCMだからその間、音を消せば耳も身体も休まる。近ごろ消音操作がさらに増えた。総理大臣、官房長官、諸大臣らの会見はすべて消音にしたからだ。おなじみ「しっかりと国民の命と安全不安の対策をしっかりと」の読み上げだから字幕を読めば済むし肩も凝らない。また五輪などで優勝した選手の会見場面も聞き苦しいので消す。司会がいつも「いまのお気持ちお聞かせください。この喜びをまず誰に伝えたいですか」と。聞かれた選手は内心(嬉しいに決まっているだろ!余計なお世話だ) だから聞きたくない。大坂なおみが長ったらしい無駄な会見を拒否したのはその証明だ。
・昼のワイドショーは、緊急宣言下で窮状の居酒屋ばかりを取り上げた。焼鳥を
水かお茶で食えというのだから、店主たちはみな怒り心頭だった。しかし近所のよく行く老婆一人でやっているカラオケパブは狂喜乱舞だった。持続化給付金8百万が転がり込み、まさに「焼け太り」で、半年ぶりに顔を出したら、「休業中は旨いものの食い歩きで更に太った」そうだ。おかげで都の認定を取るため10万円もするエアドッグを2台も買えたという。さて自腹で自棄酒とカラ桶だ。
・日本人にとって中国政府の言うことなすこと全て不快だが、唯一賛意を表せたのが反食品浪費法の制定だ。大量の料理を注文し相手を唸らせるのが中国特異の接待法だ。それらの破棄する残飯は年4600トンにのぼり政府が怒りだしたのだ。日本旅館もいまだ同じ発想で、付け出し・酢の物・茶碗蒸し・刺身・蕎麦を食いホッとしたころに煮物、焼魚、天ぷら、鉄板焼きそして飯と汁が出る。少量でいいから旨いものを食わしてくれと叫びたくなる。いっぽう日本のテレビ局は制作費が安いからと大食い選手権やデカ盛りサービス店の紹介番組ばかりである。中国はそれにも罰金を科した。日本もその辺は見習うといい。
・今年は猛暑日続きで熱中症患者が急増し、救患を病院に運んでもコロナで門前払いで消防署に戻り頭から水をかけるしかなかった。綾小路きみまろの漫談。「最近新聞ガミを読んでいたら、こんなことが書いてありました。我々がご幼少のころ、熱中症という言葉はありませんでした。日射病と言いました。私が学習院に通っているころ舗装道路はありません。今は気温が40度にもなり、地表は50℃前後でその反射熱でやられてしまうのです。みなさんのように年齢を重ねると、どうしても重心が下がります。地表に溜まった熱が下半身に入り込んでくるのです。女性の場合ここに当たりちょうど照り焼状態になるのです。笑ってますけどね、これは日本の温暖化問題ですよ温暖化。私は漫談家。男性の方がほらどうしても地面に近いので、3時間早く症状が表れるの。奥さん何が可笑しいの。ちょっと聞いて、ちょうど丸焼きみたいになってしまうの」長い巣籠りの憂さ晴らしにはなった。
・いよいよ衆院選だ。今回与野党の公約はみな同じで「バラマキ合戦」だと財務次官は怒った。子供でも分かりやすいおこずかいの話だが、子や孫に「これから溜まった膨大な借金を、ずっとお前たちが返さねばならないのだよ」と言う政党はどこにもいない。


                                       


 



スポーツ

田原 亞彦    2021.8.21

 小学2年生から高2年生まで、中野区の大和町に住んで地元の啓明小、4中、都立武蔵丘高で学んだ。戦後で家の前は一面芋畑の頃の昭和24年から32年にかけてである。当時スポーツ教室や用具店はなかったと思うが、スポーツとはいわゆる運動のことで、学校の教科で言えば体育である。言い換えれば日常の遊びのことでもある。
 大和町の学校の近くには妙正寺川が自然の状態で流れていて、よくザリガニのマッカチンを追いかけて遊んでいた。教科としては新制教育によるのか4年生の時に体育でスクエアダンスというものを教わったのを覚えている。6年生の担任は茨城出身の体操の教師で算数の時間をつぶしてでも空中転回などのマット運動や水泳を教えていた。基礎体格はこの頃出来たのかもしれない。校外学習で奥多摩の氷川で遊泳中足がつり溺れがかった事がある、川の窪みの深さと渦、低温は要注意である。
 中学では軟式テニスをしたが漫然としているだけで指導者に教わることもなく全く遊びである。日光尾瀬ケ原の燧岳に登った。高校では特にスポーツはしなかった。大学の体育実技は剣道をした。
 スポーツは実は苦手である。何故か持久力が弱いのである。水泳は50mまで、登山は尾瀬の燧岳が最高、富士山も車で5合目まで5回は行っているが登山はしていない。丹沢の大山、香川の金刀比羅宮も途中で引退、近年訪れた熊野古道の中辺路ツアーも中間はバスで失礼した。マラソンも変則で高校の伝統の10キロ走も休みながら間欠して走り終えた。別に日常生活には不自由はないので気にはしていなかった。
 会社生活に入り間もなくゴルフを始めた。大阪の宝塚カントリーの谷越えの難コースから始めた。正式にプロに教わり練習もしないので無理である。後々神戸や岡山のときは、複数の会社の会員資格を持っていたので毎週のようにしていたし、東京でも接待やら仲間内でプレイしたが一向に上達しない。ゴルフを心底から楽しむ雰囲気ではない。マンネリ的に体で覚えるだけでなく、プロに教わり理論・合理的に考えチエックする必要があると思う。何事も基礎が大切だと後悔している。今思えば、早稲田大学にもスポーツ科学部が出来て、理論的、科学的、医学的に研究、学習しているのであろう。なるほどである。
 スポーツ観戦では、会社関係でニュヨークに行った折ヤンキースタジアムで野球観戦したことを覚えている。稲門会に入り早慶戦や井草でのラグビー観戦で面白さが少し分かってきた。無論観戦後の飲み会も含めてのことであるが。
 オリンピックについては、64年開催の時はほとんど見ていない、前年の63年入社と同時に大阪に赴任、5年後かの万博の前に東京に転勤したからである。今回のオリンピックはテレビでみたが予想以上の成績だったのではないか。国とか各スポーツ協会などの強化育成の成果かもしれない。特に若い人の躍進・進出が著しく世代交代が進んだようだ。それだけ日本も豊かになり若者の進路や関心事が多様化したということなのだろうか。背景に行き過ぎた商業主義がなければ良いのだが。数年前に、大学の商議委員会の会合で、ある人が国民の日常生活での健康維持管理とスポーツ・運動についての研究、提言の必要性について発言し、大学の取り組みを質問していた。高齢化社会が更に進む時代にこの分野で行政や民間の関連業界に加えて学会からも発言があって然るべきだと思う。 


                                       


 



過ぎたるは猶・・・

谷川 亘    2021年8月21日

 遡って、暑いのは、今年の夏に限った事ではありません。日記まさぐっても毎夏恒例の猛暑続き。東京練馬のアメダスでは、今夏の本日までの最高気温は37.9℃で、全国津々浦々の“猛・熱暑”記録に比べても全くの引け目なし。
 反転してこの一週間と言うもの。湿気100%だから過飽和で、毛穴塞がれて汗すら吹きだせない。一方で、倍返しのかえり梅雨を思わせるような集中豪雨。曰く、「線状降水帯」が一ヵ所に長居し、同じ地域で断続的に豪雨に見舞われる。河川氾濫、土砂災害、都市水害によって、河川は氾濫し、盛土は雨水を耐えきれなくなって崩壊して土石流や崖崩れ、あるいは、地滑りと化すのだそうですよ。惨憺たる被害を被った熱海の「土石流」は、言うなれば、“人的災害”だったそうではないですか?
 山岳地帯ではなく都心の真ん中だと言っても油断大敵。「都市水害」と呼ばれる範疇に「内水氾濫」と呼ぶのがあるそうで、大量の降雨で下水がはけきれずにマンホールを介して逆流し冠水するそうですよ。せめて熟睡したいのにどこが安全なのか?枕を高くして寝る場所にも窮するのですね。
 話し戻して猛暑の話題。今年8月米カルフォルニア州でなんと、54.4℃を記録したそうな。良く、体温以上になると人間って動物は、心身ともに“まともな”状況にはあり得ないと聞きますが、どうなっちゃうのでしょうか?カナダでも山火事が自然発火したそうですから、本当に空恐ろしい。
 「自分の身は自分で守れ!!」。
 目下、コロナも大水害と猛暑に便乗して猛り狂い、初めから新型コロナウィルスと名付ける以上は“最新型”かと思いきやとんでもない。「変位株」が相ついで目白押し。やれ「デルタ株」だの、名指してイギリス、果てはブラジル型だのとまん延し、超伝播力携えて挑んできています。
 時のお偉いさんも、(式辞の)読み飛ばしは致し方ないとしても、コロナ渦中にあって、施政方針に「トラベル」と打ち出したのにとんだ“トラブル”。「三密」はじめ経典用語をちゃっかり借用。最近では“「人流」半減”、なんて広辞苑めくっても出てこないような違和感のある用語を時の政治家や官僚が使いだしたと思えば、放送やマスコミまでちゃっかり引用して正々堂々。大雨警戒レベルも呼称変更して、新たな警戒レベルとして「命を守って!!」だとさ。オエライサンも我が臣民の命を軽んずるのも甚だしい。
 コロナウィルスの蔓延も、はてまた、超猛暑と一年の降雨量を凌ぐ大雨が一気にたたきつけるのも、気候変動の影響なしには考えられないのだ。と、鈍感な我もやっと気づいた次第です。改めて、自らも加担している罪の意識を改めて感じております。
 「猛暑日」とか「線状降水帯」、はてまた「人流増」?なんて新語に出っくわすまでに万事過熱しがちですが、全て、“地球温暖化”。つまり、人類の犯した罪の咎なのだそうですね。
 我等世代も長生きしてもあと僅か。
 無責任極まりない言い方ですが、先のことは心配するに及ばないものの、我らが後世に残す立派な“負債”なのですね。


                                       


 



あやまち

小林 康昭  210821

 8月になると鬱陶しい気持ちになります。もともと8月は、私にとっては、楽しい季節だったのですがね。夏休み、旅行、海、山、甲子園の高校野球、アイスキャンデー、アイスクリーム、西瓜、トコロテン、ひやむぎ、生ビール・・・。その楽しさを押しつぶす原因は、決まりきった報道を毎年繰り返す新聞やテレビにあります。
 8月に入ると紙面や映像に語り部が登場します。彼らは戦争の被災者として愚痴り、ぼやき、こぼし、泣き言を言います。そして、最後の決まり文句は「二度と戦争をしてはならない」で締めくくります。語り部たちを誘導するジャーナリストたちも同じように、異口同音に「だから、あんな悲惨な戦争は二度としてはなりません」と総括します。そのことを数十年間、一向に変わりません。
 この論調は教会の祈禱の場を思わせます。信者に懺悔をさせた後、牧師や神父が「それでは、二度と繰り返されることがないように祈りましょう」と祈祷します。戦争は、宗教の世界ではなく政治の世界の問題です。祈ることよりも戦争をしないように論じるほうが、はるかに大事なことだと考えるのですが、一切ありません。
 憲法は「わが国は交戦権を認めない」と規定しています。だから、宣戦布告を受けた時、どうすべきか考えることが大事です。それには、その布告を拒否し相手に交戦権を行使させないことです。日本は、そのことを国際法に反映させるような活動をすべきです。それを果たしてこそ、憲法の意図が果たされると思うのです。
 サイパン島や沖縄のような非戦闘員の犠牲をなくすには、非戦闘員は降伏して恭順の意を表するのだと啓発するべきでした。その視点に立った反省がありません。あるのは悲惨な描写だけです。
 日本人や日本のメディアは、戦災の恨み辛みを自国の軍部や為政者に向けますが、敵国に向けることがありません。毎年、報じられる様々な追悼式で、当事国を難じたことがありません。被害者の身になれば、加害者に向かって「怪しからん」と難じて当然だと思うのです。その奇異さを、外国人から指摘されることがあります。
*  *  *
 その広島の平和記念公園の慰霊碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」の碑文が刻まれています。広島市が原爆の投下を「過ち」と断じたことに、二つの異論があります。
 その一つは、被災地の広島市が、この碑文を刻む前に、遺族や被災者やアメリカの同意を取り付けたとは思えないことです。原爆を投下したアメリカは原爆投下を「過ち」とは認めていませんから、広島市が原爆投下を「過ち」と言い切るからには、広島市自身が「過ち」を犯した、と受け取ることは当然の成り行きです。
 ルバング島から帰還した小野田少尉は、この碑文を見て戦後の日本を見限りました。そして、日本を離れたそうです。極東軍事裁判で被告全員の無罪を主張したインドのパール判事は「過ちは誰の行為を指しているのか。原爆を投下した者は日本人ではない」と憤ったそうです。こうした動きに対して広島市は、慌てて「被曝犠牲者に対して反核を願うのは全世界の人々でなければならない」と弁明していますが、それは、碑文の評判が悪いので、後付けしたもので、余りにも説得力がありません。人々が納得できる碑文に差し替えるべきです。
 もう一つの異論は、被曝して死んだ人たちを「過ち」で死んだ、と断じていることです。「過ち」では、追悼、哀悼、冥福の意を尽くしません。「あなた方は「過ち」で死んだのだ」とは、死者を貶めた冒涜です。
 日本に投下された原爆の被害を知った当のアメリカを含めて、世界の国々はその余りの悲惨さに驚愕しました。だから、以後、核兵器を実際に使うことができなくなりました。この事実が大事なのです。もしも投下されることなく、従ってその被害の酷さを知ることもなく終戦を迎えていたならば、戦後、どこかの地域で紛争が起きた時、躊躇なく核兵器を使用したでしょう。迎え撃つ側も、核兵器で応戦する筈です。その被害は、間違いなく広島や長崎と比較にならないほど甚大になって、地球規模の破壊が発生する恐怖につながるのです。それを免れているのは、日本に投下された原爆の恐ろしさを世界中が知ったからです。だから、被曝して亡くなった人たちに向かって「あなた方の尊い犠牲によって、世界は救われているのです」と言うべきです。その死は無駄ではなかったのです。核兵器の使用を全世界の人々が過ちと断じるからには、その主語をはっきりと表明すべきです。
*  *  *
 責任をとれない立場なのに恰も自分たちの責任のように発言して筋違いの誹謗を浴びたり、その一方で、戦争責任をとるべきなのに取ろうとしない日本の国や日本人たちの不明瞭、曖昧さ、不十分さ、いい加減さの故に、今ではドイツよりも日本のほうが戦争責任の追及が大きくなってしまいました。当時の戦争犯罪はドイツの方が遥かに酷かったのです。その結果、今のドイツは足を洗っているが、日本は今もなお、ことあるたびに俎上に上がって、誹謗、非難、批判を浴び右顧左眄する始末です。難じられる根源は、何処にあるのでしょうか。
 次のようなエピソードがあります。自分自身の戦争責任をアメリカのジャーナリストに語った事実を知った日本のジャーナリストが、その当人に事実を確かめようとして「どんなお考えで喋ったのですか」と訊ねました。すると、その人は次のように応じたそうです。「そういう言葉のアヤについて文学方面はあまり研究していないのでお答えできません」 当人が喋った自分自身の言葉について、この発言は非常識で、非常に無責任です。日本が戦争責任について無責任であることの象徴として、肝に銘じておきましょう。


                                       


 


エッセイ同好会100回記念
断捨離

華岡 正泰   2021.8.21

 “断捨離”よく耳にする言葉で 難しくはヨーガの思想、哲学的要素も含むそうだが 私には「要、不要を迷わず処分せよ」と迫る言葉である。
 それに従って本箱の整理から始めることにした。手にしたのはエンジ色の大きな重いアルバム。昭和28年度第一商学部卒業アルバムだ。事前に購入を申込み 卒業式の後 事務所で卒業証書と共に受取ったものだが 開けて見たのは持ち帰っての数日後。大隈侯の銅像、講堂,全学風景、島田孝一総長、伊地知純正学部長、教授、助教授の写真に続いて卒業生の氏名と制服姿の顔写真がズラリ。私の学生番号50-447.“は行”で名前を探すがそれが、無い。写真で探すことにした。あった、早目、芳賀と続いて畠山との間に私の写真が!。然し その名前が何と“幸岡正泰”。(10画の華を正しく書いてくれない人は多いがバスや電車ではなく、大学事務所で、だ。)怒り心頭 早速文句を と思ったのだが何せ卒業後。あれこれ思いあぐねた挙句 面倒臭さも手伝って放置してしまったのだった。
 今私は練稲の年長者として大事にされ それに甘えさせてもらっているが、若し誰かがこのアルバムを見たら「あの人てんぷら?(てんぷらが表面の衣と中身の具が違う様に 学生でないのに学生を装った偽物で早稲田は特に多かった。曽て練稲にも一人居た。)若しかして卒業していないのでは?」と思うに違いない。卒業後67年 誰の目にも触れない事を祈るばかりである。
 
 さてさて こんなケチ付きの、而も教授連は言うに及ばず、同期も多くが亡くなり付合いはほんの数名となっている こんなアルバムでさえ「このまま捨てるわけにはいくまい」、切り刻むには用具が要る、とためらってしまう。本箱には長男の早稲田入学以来13冊の日記もある。こんなアルバムも処分出来ない私「況や日記をや」である。今,出来るとしたら これ等を分類、整理、縄掛けでもして後は子供達、分けても嫁にでも委ねることしかないか…。
     斯く程左様に 私には断捨離は出来そうにない。   おわり

追記:故石川正敏君が「家の近くに先輩と学院同期の人が居て、練稲に入会してもらった」と言っていたが、その人がアルバムで私の次に写真が出てくる畠山敬四郎氏。去年亡くなったが このことに早く気付いていたらもっと違った付合いもあったのにと残念に思う。

 

                                       


 



私のSNS事情

富塚 昇   2021年8月21日

 「FACEBOOKをやると卒業生のつながることができるよ」。同僚で先輩の先生の一言がきっかけでした。私は時に新しいことをやることに臆病になることがあり、SNSについても何となく踏み切れないでいました。そんな時に先輩の先生の一言に背中を押され、FACEBOOKを始めることにしました。昨年の4月のことです。
 FACEBOOKを始めると、まず「友だち」登録をします。小学校から大学までの友人、かつての同僚、卒業生たち、教員練馬稲門会の方々を含めて現在FACEBOOK上では多くの「友だち」がいます。私が投稿をするとその「友だち」にそのことが伝わり、投稿がよかったと思えば「いいね」「超いいね」「うけるね」などのリアクションをしてくれます。
FACEBOOKに続き、今年の4月にはInstagramも始めました。こちらの方が、写真や動画なの映像重視というところがあるかも知れません。Instagramでも私は多くの投稿を見ることができ、また多くの人が私の投稿を見てくれます。FACEBOOKもInstagramも私の投稿内容は授業でのエピソード、釣りやトレッキングなどどこかに出かけたときの記録、何か美味しいものを食べたときのいわゆる「映える」写真などです。
 投稿をして何よりも気になるのが、その投稿に対してどれだけリアクションがあるかということです。「いいね」が多ければ多いほど、私の承認欲求が満たされることになります。そうなると投稿してどれだけ「いいね」がもらえるかということから、「いいね」をもらうためにどんな投稿をするか、というふうに投稿のスタンスも変わってきます。最近、部活の顧問をしている男子バスケ部が都立戸山高校で練習試合をする機会があり、その前に食べた昼食について投稿をしました。最初は戸山高校の近くの高田馬場で、イタリアンか何かの「映える」写真でも撮って投稿しようと思ったのですが、考えをかえて早稲田に行き、大学生時代の40年以上前によく行った「キッチンオトボケ」で食べた「じゃんじゃん焼き定食」を写真に写し、「懐かしい味です」と練馬稲門会のFACEBOOKとInstagramに投稿しました。練馬稲門会の方からも「いいね」をいただきましたが、Instagramを見た立川高校で私のクラスだった現在早稲田の4年生から反応がありました。「僕もよく生きます。じゃんじゃん焼きは美味しいですよね」と。
 こんな感じでSNSへの投稿は、つながりを確認するとともに自分の歩みの記録になり、そして、投稿や写真のキャプションを書くことはいわばミニエッセイを書くような感じもあるように思います。
 最後に最近のトレッキングについての文章と写真での投稿について紹介します。その日はケーブルカーを利用して「御岳山」に登り、そこから「日の出山」を目指し、そして、日の出町の「つるつる温泉」というところに下り、そこで少しゆっくりした時間を過ごしました。投稿全体には37人の方から「いいね」をいただきました。そして、投稿の中の1枚の写真にもキャプションをつけました。写真は「日の出山」から下りてきた「つるつる温泉」の入り口にあった、直径1m位の石盤に「つるつる温泉」と彫られたいわばモニュメントのような標札のようなものをとった写真です。「ウケる」かどうか不安もあったのですが思い切って投稿しました。すると、その写真には「いいね」「超いいね」「うけるね」の合計で18人の方からのリアクションがありました。1枚の写真としては今までで一番多い数でした。キャプションは次のようなものです。
 「父の輝く遺伝を兄弟3人のなかで最も受け継いでいる私としては、この温泉の名前はちょっと微妙です、と自虐ネタを放っておきます」。

 

                                       


 



コロナと衆院選

古内 啓毅  2021・08・21

 政府は、8月17日、東京都など6都府県に、8月31日まで延長していた緊急事態宣言を対象範囲を拡大して9月12日まで延長することにしました。
 また、中等症の患者は自宅療養を基本とする方針も打ち出しています。自宅療養を基本とする方針に対しては、自宅療養者の症状急変に対応できなくなる恐れがある、救えるはずの生命を危うくするとして、野党ばかりか与党からも批判が噴出しています。医療の専門家も、治療が遅れたり、防げたはずの重症化が防げなくなる、本来死なずに済む病気でも、相当数の人が死ぬ病気へと早変わりしてしまうと指摘しています。現に、入院できずに命を落とす、自宅での出産を余儀なくされ、赤ちゃんが亡くなるなどの痛ましい事例が起きています。政府は、自宅療養を基本とする方針を、専門家にも与党にも相談せず独断で行ったとされ、スガ政権の強権的な姿勢が目立ちます。

 緊急事態宣言は9月12日まで延長されますが、これでコロナウイルスの感染拡大が抑えられるとはどなたも考えていないと思います。コロナウイルスが猛威を振るう中での期間の小幅延長にはどんな意味合いがあるのでしょうか。識者は、9月の衆院解散の選択肢を残したいスガ総理の思惑が透けて見える、と言います。しかし、早期の感染収束は困難であり、期待した五輪による浮揚効果もうかがえないなかで、スガ総理の描いてきた政権構想は行き詰まりつつあるようです。つまり、スガ総理の自民党総裁としての任期は9月末ですが、総裁選前に解散に踏み切り、衆院選に勝利することで総裁選を無投票で乗り切るという再選戦略を描いてきたようです。衆院選の勝利を掲げて総裁選に臨めば。執行部への不満や批判を封じることができ、党内の支持を取り付けることができるとの計算です。9月上旬に、感染状況が改善に向かい、国民のコロナへの懸念が和らぐところで宣言を解除し、直ちに衆院を解散して衆院選に突入するというシナリオを描いているようで、9月12日までの延長にはそんな思惑があるようです。

 ともあれ、この秋には衆院選があります。民主党政権3年3カ月のあとに10年近く続いた自民党政権全体への審判になります。スガ政権の思惑がどうあれ、8月24日に開幕するパラリンピックは何事もなく終えてほしい、コロナウイルスもなんとか収束の方向に向かってほしいと願いますが、その上で、多くの弊害をもたらしてきた自民党1強独裁的な政治体制を改革できるような選挙結果を期待したいものです。今の日本の第1党は自民党ではなくどの政党にも帰属意識を持たない無党派層と言われます。その無党派層の皆さんが投票所に行ってほしい。日本を変えるとの意識をもって選挙に参加してほしい。そうすれば日本の政治は変わります。


                                       


 



もう一つの故郷

鳥谷 靖子  令和三年八月 

 四十年以上昔、豊島園遊園地の裏手、春日町に引っ越す。三十代に入った頃だ。
 引っ越して直ぐに、豊島園裏に小さな神社を発見。知人がいないこの地だったが、不思議な安堵感があった。別府湾の一角、大分市に実家がある。海岸の近くに大きな春日神社があった、海と神社に挟まれた家で育ち、住所も同じような春日浦だ。
 昭和五十代初旬、夏、豊島園駅は人で溢れ、改札口を抜けるのが大変な程。子供達が中学生になった頃、デイズニーランドが浦安に開園、人数が減り始め昨年、遊園地も閉園する。数年後ハリーポッターのテーマパークと、都立公園になる。
 豊島園駅周辺の南方に、向山という高級住宅地があり、入り口に日本庭園の持つ向山庭園がある。春は、池の周囲を梅や、桜の花が彩り、池に隣接した茶室でお茶会が開かれる。豊島園の右手の坂道を降りると豊島園通りにぶつかる。右手に、早宮町を横切る様に石神井川が流れている。川沿いに桜並木が南方は、石神井公園まで、北東は、板橋まで数キロ続く。春、桜が両岸に覆い被さる様に咲くと、花見客が川沿いをそぞろ歩く。散っていく花弁は、川面を桜色に染め流れていく。
 石神井川を越えると春日町だ。昭和初期、春日町から豊島園駅まで見渡せたと言うが、家やビルが建ち、面影はない。向山は大型な分譲地だったと聞くが、春日町は元農地だったらしく、農家から直接土地を手に入れた方が多い。住民は、自営業、サラリーマンから、タクシー運転手、大学教授と職種も様々で、色んな世代の方が混在して暮らしている。各々の家庭が、庭先に気に入った木々や草花が植えている。春、家の前の通りは、黄色の蝋梅が優しい香りを放ち、レンギョウや、木蓮が順番に咲き春を告げる。
 気負って暮らす必要もなく、平和が好きな方ばかり。「紫陽花が沢山咲いたので」、と届けてくれる方もいれば、庭の柿のお裾分けにと、柿を沢山下さる方もいる。隣人は、畑を借り野菜を育てているからと、新鮮野菜が一年中届く。
 あの東日本大震災の時、九十代の実母、七十代のお向かいの奥様と三人、「お茶」を楽しんでいる時だった。揺れが止まらず、私を含めおばあさん達は庭に裸足で逃げ出し、梅の木にしがみついた。被害は幸い、掛け時計が落ちただけで済んだ。
 地方の農村にも負けない、近所が助け合う風景。練馬も大都会の一角なのだと思うとこの町に住めて、幸福だったと思う。
 町内の地下を通り、大江戸線が光が丘迄開通する。交通の利便性が格段に良くなり、徒歩圏に練馬春日町駅が出来る。子供達も結婚後、同じ春日町に自宅を購入している。
 練馬春日町駅から一駅、都内でも有数の面積を持つ、光が丘公園がある。旧アメリカ軍の基地だったせいで、開放感のある公園は、春日町住民の憩いの場となっている。
 友達に我が町自慢をすると、「東京には松濤とか、もっと素晴らしい街並みがあるのよ」と笑われる。多分そうだろうと思うが、私の町程人々の優しい、人情溢れる場所が他にあるのだろうか。半世紀近く住んだ春日町、今、故郷となった。


                                       


 



愛犬の系譜

照山 忠利  2021・8・21

 古い話になるが今から40年前、長崎県の高島炭鉱に勤務していた頃、住んでいた木造社宅が空巣にやられた。1月の半ば、長崎の街で買い物をして帰宅したら、アルミサッシのガラス窓が割られ玄関戸が半開きになっていた。室内が物色され、便所の床板に台所の出刃包丁が突き立てられていた。犯人が物色中に便意を催し用を足していったらしい。鉢合わせをしていたら惨劇となっていただろう。もともと盗みに入るほどの金品の持ち合わせなどある家ではなかったのだが、犯人は小型カメラを盗んでいった。それを佐世保の質屋に持ち込んだことで足がつき、ほどなくして御用となった。何ともドジな泥棒で捕まった後「侵入したときに割った窓ガラス代」としていくばくかの弁償金を警察経由で送ってきたところをみると、根は案外悪い奴ではなかったのかもしれない。
 当時子供たちは娘が小1、息子が3歳であったので防犯対策を考えねばならなかった。懇意にしていた犬好きの鉱員が「犬を飼えばいいですよ」といってすぐに子犬を連れてきた。連れてきたというより、生まれて間もない手のひらに載るほどのオスの柴犬を持参したのである。段ボールの箱に入れてミルクを飲ませたらクウクウと鳴いた。番犬となるにはいかにも頼りなげであったがいつまでも段ボールの寝床ではまずいといったら、今度は大工好きの鉱員がやってきてあっという間に大型犬が入るような立派な犬小屋が完成、娘はこれに絵の具で「ジミーの家」と大書した。その後ジミーはきちんと躾をしたわけではなかったがすっかり家族の一員となりそれなりに番犬の役目を果たしてくれた。
 それから5年後ジミーにとって運命的な出来事が待っていた。高島炭鉱が閉山することになったのである。飼い主の転居先は埼玉県の秩父となったが、そこの社宅では犬は飼えないという。やむを得ず茨城の古河の家内の実家で面倒をみてもらうことにしてお犬様を空輸した。それからジミーの犬生は大転換。散歩の道は島の石段から田舎の田圃道に変わり、食事も粗食から焼肉や寿司の残り物などの豪華版となった。犬の散歩が日課となった義父の健康づくりにも役立ったようだ。波瀾の犬生を生きたジミーは16歳の天寿を全うし古河の寺の墓地で眠っている。
 それから幾年かが過ぎ一家は秩父から練馬の南大泉に転居、子供たちも大きくなった。私が大阪に単身赴任していたある時、家内から電話で「息子が大きな野良犬を連れてきて困った」といってきた。当時高等学院のバスケ部にいた息子は所沢キャンパスでうろついていた狼のような黒いオス犬を誰かに頼まれたとかで引き取ってきたという。やむなく狭い庭に犬小屋を置いたものの、「ウオンウオン」と大きな声で吠えるので近所から安眠妨害との苦情が寄せられた。成犬に躾は難しいかと思ったが訓練校にお願いしたところ、よほど厳しい訓練を課されたのか1週間ほどで血を流しながら帰ってきてすぐ死んでしまった。「今朝はスズメたちがマルの死を悲しんでチュンチュン集まってきたよ」という家内からの電話を大阪で受けたときその声は涙声であった。
 マルの死をみてもう生き物は飼うまいと心に決めていたのだが平成も半ばを過ぎたころ、今度は娘が突然メスのチワワを肩に載せて連れてきた。ダークブラウンと白のツートンである。婚期に遅れた言い草か「お父さんが孫が欲しいというから本物の孫は無理だけどその代わり」だという。吉祥寺のペットショップで売れ残っていたので可哀そうだから買ってきたといった。犬との別れの辛さが身に染みているので「すぐ返してこい」と怒鳴ったものの無駄な抵抗に過ぎず家族の一員となることを許してしまった。ジルと名付けられた。その1年後またも娘が「もう一匹」と言い出した。知り合いのところで生まれた子犬で今度はクリーム色のロン毛のメスチワワである。リタと名付けられた。この2匹の犬たちは姿かたちは異なりながら姉妹のように淡々と月日を送ってきたが、今から3年前病気がちだった姉犬のジルが12歳で亡くなった。1年後に後を追うようにして健康だったはずの妹犬のリタも逝ってしまった。獣医の先生は「姉のジルちゃんが迎えに来たのかもね」と言われた。2匹は丁重に荼毘に付し、今も位牌付きで箪笥の上に佇んでいる。
 我が家のワンちゃんストーリーはジルとリタで終わるはずだったが、またしても娘が昨年褐色のメスのチワワを連れてきた。死んだジルとリタの両方の特徴を持っているというのである。ところがこの犬は穏やかだった先代の2匹とは似ているどころかとんでもないやんちゃ娘。チワワのオリンピックでもあれば出場させたいほど敏捷だ。名はミウ(美雨)とつけたものの改名が必要に思える。これで我が家の飼い犬は累計5匹。おそらくこれが最後の愛犬ということになるだろう。
 思い返せば40年前、高島での犬との出会いが子供たちの犬への親近感を培ったのであろう。犬は世話になった飼い主のことは決して忘れないというが、飼い主もいつまでも犬のことを忘れられないのだ。もとはと言えば泥棒が作った犬との縁であったとしても。
(了)

                                       


 



みちのく贔屓

横山 明美   2021年・8月

 「もうおかげさまで35年になります」と彼女は言った。我が家から駅へ向かう道筋のそこを曲がれば駅は一直線というあたりに、その小さな美容院はある。開業してしばらくは助手がいたがその後は一人、予約の客でなんとかがんばっているようだ。
 私も以前からあちこちの美容院をはしごしたのだったが、手を入れてもらった髪を気に入ったためしがなく、それはもとより自分の造作がよくないからではあったが、歳とともにもうどこでもいいやと思っていた丁度その頃、その店コフユーレが開店。鄙にはまれな店名がちょっと気にもなった。フランス語で美容院のことだった。
 彼女はその頃三十路を過ぎていたようだが洗練された人で、気取りもお愛想もないが一生懸命ということだけはよくわかった。平凡な普段着を素敵に着こなし、小さなテーブルにはサライやクロワッサンなどの雑誌が置いてある。女性自身や週刊女性、豪華絢爛誌の家庭画報などは置く気はないらしい。壁にかかる髪形のデッサンなどは自筆のものだ。大きな甕に緑の観葉植物が行くたびに元気に伸びており、ガラスの花器にはいつも季節の洋花が店主の足りない何かを補うように精いっぱい客をもてなしている。両側の決して使われることのなくなった二つの美容椅子が寂しい。話し方に独特の抑揚があった。
 はじめのうちは様子をうかがいながら「今日は暖かいわね」とか「そこのお豆腐屋さん、おいしいわよね」などとどうでもいいようなことを口にし、途切れると寝たふりをしていた。若い人の店と違い「ゴルフとかはなさるんですか~」だの若いタレントの話を持ち出されないのが何より安心で、通うごとに会話はふえていった。気になっていた独特の話し方は東北あたりかと、ある時、自分は親のルーツもあるが陸奥が好きでよく旅行するのだと話すと「あら、私山形の米沢の在です」と言うから図星であった。こちらも旅のうまいものや名物、人情への感激をいそいそ語ると、相手もとたんに気を許したように実家の様子などずいぶん細かく話してくれるのである。
 体の弱い父親が亡くなったと聞いたのが5年めくらいか。さらに通うと、田舎だと二人の弟になかなか働き口がなくて…でも妹が少し気鬱なのだがよい農家に嫁いだ、という話に進み、私も何だかホッとする。介護が必要になった母親もやがて亡くなる話になるころには15年がたっていたろうか。それから何年か経ち仕送りも楽になったようで、小さい古家を駅の向こうに買ったのだというあっぱれな話になった。徒に歳を重ねてきた私にはどんな話にも賞賛と驚きの言葉しかなかった。たまに美容関係の営業マンが顔を出すが、客に対する態度とはまるで違うきっぱりと強めの事業主の対応を見て、これまで問わず語りに話してくれた過去がどんなに大変なものだったか想像できるような気がしたものだ。大家さんがいい人で店の家賃もずっと据え置きなんです、と聞かされれば、大家に同居の若夫婦がのちのち値上げなどしないようにと祈るばかりだ。
 今の気がかりは彼女の健康だ。仕事が丁寧すぎてカットの際、回転椅子を使わず客に合わせ屈んで移動しながら微妙に切っていくので、気づかない間に素敵な人の背は農家のお婆さんのように曲がってしまった。買った古家の雨漏りには懇意の大工さんを紹介できるが、これには私も何もできない。彼女は東北の人の持つ粘り強さ、誠実さ、生真面目さを全部持っていてなお素敵な人なのだが、最近の会話で、私が憧れを持つその地、その風土に対してはあまり思い入れはないと知り、肩透かしを食らった気になった。しかし少し時間がたってから、そういうものかもしれない、とふと思う。「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの・・・」という室生犀星の詩を思い出したからである。
 最近娘に、少しお洒落した方がいいよと、パリにも店があるとかいう広々としてスタッフも大勢いる美容院に連れていかれた。料金は普通だが、全員服装は黒で決めており、いかにもこちらは”お客様“の扱いで気がぬけない。帰りには、店から伸びた木道を歩いた先に見えなくなるまで、担当スタッフと店長みたいな人がじっと見送って最敬礼。一刻も早く駆け抜けたくなる。こちらは所詮は田舎者なのだ(田舎の何が悪い!)
 次に髪が伸びたら私はまたあのみちのく出身の美容院に行くだろう。一時ごろ行って終えたころ、手提げにしのばせたお菓子を三時のおやつに、と取り出す。熱い焙じ茶が出る。

 

                                       


 



四季の記憶78「セピア色の街」

鈴木 奎三郎   2021・7・1

 毎月末になると届く小冊子がある。新聞はともかく、義理もあって購読していた経済誌、専門誌などは少しずつ整理し、いまは「銀座百点」だけとなった。創刊は1955年。銀座八丁の老舗100名店で作る日本最古のタウン誌である。今月号で8000号の歴史を刻む。
 わずか100ページほどのものだが、ここには銀座という有形無形のブランドの粋や知性、文化が収斂されているような気がするのだ。懐古趣味でなく、かといって高踏に走らず低俗に流れず・・の編集スタイルを貫いている。B6版の小さなサイズだが、これは創刊に際してハンドバッグに入る大きさを考慮した結果であるという。加盟店に行けばもらえるが、年間4000円少々で定期購読している。40年超を過ごしたGINZAへの哀惜かもしれない。

 ぼくが上京した1961年には、銀座中央通りにはまだ都電が走っていた。しかし交通渋滞などにより1967年暮れに廃線となった。都電の走る銀座通りはセピア色のかすかな記憶として残っている。上京した当初は、兄2人も下宿していた下北沢の6畳ひと間に入った。隣部屋には立教大学弓道部の主将Kさんがいた。八戸市出身の無口な方で、ぼくを弟のように可愛がってくれた。Kさんに連れられて毎月一度出向く銀座は、ぼくにとってはハレの日であった。一張羅の紺のブレザーコートを着て、行く先は決まって「銀座タクト」だった。ハワイアンのライブハウスで、いまのすずらん通りの5丁目にあった。大橋節夫、バッキー白片などが日替わりで出演していた。歌い手は、渚ゆう子、日野てる子など往年の人気歌手が出ていた。

 水のような薄いアイスコーヒーが確か350円ほど。これが入場料であった。1時間ほどの入れ替え制だったが、毎月通った。初めて経験するナマのステージ、銀座の夜のすばらしさに感激した。このほか、7丁目にはシャンソン喫茶「銀巴里」があった。戸川昌子、金子由香里などが出ていたが、ここへいった記憶はない。今は7丁目のビルの一角に記念碑が残るのみだ。同じ7丁目には、ロカビリーブームをけん引したジャズ喫茶「銀座ACB」があった。ここにも何度か行った記憶がある。山下敬二郎、小坂一也などが出ていた。「タクト」は存続しているが、いまは貸ホールのようになっていてあの頃のようなライブ感は無い。どこもブームの終焉とともに、ひとつの時代を終えているのだ。

 その銀座で、かれこれ40年を過ごした。縁あって入った会社は、銀座を象徴するブランドのひとつだった。まさかここがついの職場になるとは夢にも思わなかった。最初の4年間は日暮里にあった販売会社だった。学生気分の抜けないセールスマンとして契約店を廻った。足立、台東、文京区などを担当した。そうこうしているうちに、銀座の本社に転勤になった。何度か異動はあったが、最後まで銀座を離れることはなかった。本来転勤の多い会社だが、以来40年、渉外、秘書、広報系の職場を渡り歩いた。後年は4年ほど汐留のビジネスセンターにいたが、銀座は至近距離。会食のないお昼は必ず銀座へ出かけた。資生堂パーラーは業務でよく利用したが、ひとりの時は「維新號」「鳥ぎん」「羽衣」「ライオンビアホール」「天亭」などに通った。いまでも、銀座に行くと寄ることがある。味が変わっていないのがうれしい。

 1986年から数年間続いたバブル経済の時代、その真っただ中の銀座で仕事をしていた。トップの補佐や渉外、広報系が長かったため、築地や赤坂の高級料亭にもよく出向いた。「吉兆」「新喜楽」「金田中」「口悦」などだ。いくつかの高級クラブにも出入りした。「ラモール」「エスポワール」「ニュー花」「ブルボン」・・など、ひとり4,5万の世界だ。相手に合わせての業務上の接待なので、別に高いとも思わなかった。お相手はジャーナリスト、評論家、作家など・・。中には少々こわもての人もいた。いまやこれらのクラブで残っている店は皆無だ。夜9時を回ると、外堀通りには客待ちタクシーが2重の列を作っていた。銀座も含めて日本中が、まさにバブル絶頂の時代だった。

 それを象徴していたひとつがゴルフの会員権だ。利殖目的で買った人も多かったようだが、どう考えてもたかだかプレー権に何千万というのはおかしいと思った。銀行からは、いくらでも用立てますよ・・といってきたが、一切手を染めることはなかった。往々にして素人のカンは当たるのだ。
 さまざまなセピア色の記憶を載せて流れゆく銀座八丁。未来永劫に存続することを祈るのみである。


                                       


 



ユリの花とポトフ

古内 啓毅  2021・06・26

 3年前の秋、ふるさとの姪から分けてもらったテッポウユリの球根が根付き、一昨年の春、背丈が私の身長を超すほどに成長し見事に開花。今年も50個ほどの大ぶりの白い花が咲き、今は残り少なくなったが、しばらく楽しませてくれた。狭いながらも我が家の庭には十数種類もの草木が雑然と植え付けられている。これらのうちボケ、バラ、山茶花、ハーブなどが早春から順に咲きはじめ、折々に彩を与えてくれる。今残っているのはアジサイだけになった。

 春になると草木の活動が活発になり木々の枝葉が伸び、雑草も生い茂ってくる。剪定や草むしりで庭に出る機会が多くなりきれいになる庭を見るのが楽しい。が、最近は梯子に登れなくなったり腰を曲げての作業がきつくなったりで庭に出るのが億劫になってきた。で、剪定は近所の庭師さんにお願いするようになり、除草作業もこの5月から練馬区のシルバー人材センターにお願いすることにした。

 この20日は6月の第3日曜日で父の日であった。コロナ禍ではあったが、我が家で庭のユリの花を愛でながら家族によるホームパーテイを開くことになった。メインデイシュはフランスの家庭料理の一つである「ポトフ」。作り方は大鍋で肉と野菜を煮込むだけの簡単な料理だ。前の日に材料を調達して下ごしらえをし、当日、正午の皆の集合に合わせ、早朝に調理スタート。大人6人分で、水3リットル、豚バラ肉、塊のまま1kg、手羽元、ソーセージそれにキャベツ、ニンジンなどの野菜、コンソメ、ローリエを入れ、最初強火で、沸騰したら弱火にし、アクをとりながらとろとろ2時間ほど煮込む。そのあとジャガイモ、セロリ、インゲンなどの野菜を加えさらに煮込み、完成。あとはビールやワインを飲みながら、フランスパンをかじりながら頂くことになる。前回、4月例会の電子版エッセイに「梅の木と孫」と題して出稿したが、そのなかで手巻き寿司によるホームパーテイの話を書いたが、それ以来のホームパーテイである。

 7月23日のオリンピック開会式まで1カ月を切ったが、政府は新型コロナの災厄下にある東京で、世論や専門家の安心・安全な五輪が本当に実現できるのかと危惧する意見を無視し、なにがなんでも開催する考えのようだ。開催に伴う問題点や矛盾点が連日報じられているにもかかわらず、五輪開催は「コロナに打ち勝った証し」になるのだと呪文のように繰り返し述べるだけだ。甚だ無責任なもの言いである。このごろは、TVの画面にスガ・ソーリや政府要人の顔がでてくるとすぐチャンネルを変える。それで世の中が変わるわけでもないが、ストレスの蓄積は避けたい。

 1回目のワクチン接種は19日に終了し、2回目は7月の10日に予定されている。それが終われば、少しはコロナ感染の恐怖は緩和されるだろうか。不要不急の外出、会食の抑制などからも一日も早く解放されたい。いつでも家族の絆が確かめ合えるように、また、すっかり無縁になってしまった多くの仲間との再会も実現したい。


                                       


 



境目の日々

富塚 昇   2021年6月26日

 5月22日(土)、夕方5時から帝国劇場でミュージカル「レ・ミゼラブル」を見ました。迫力ある舞台でとても感動しました。昨年11月には劇団四季の「オペラ座の怪人」を見ました。完全定年退職後にはこれまであまり縁がなかったミュージカルをはじめ芸術鑑賞にいそしみたいとも思っています。先日見た「レ・ミゼラブル」には、実は立川高校で私が担任をしたクラスの卒業生がアンサンブル(バックコーラスやバックダンサー)で出演しているのです。彼女のダンスの場面も見ることができ今回のレミゼにはプラス・アルファの感動がありました。

 翌日の5月23日(日)、この日は学校で顧問をしている男子バスケットボール部の公式戦がありました。昨年度はサブの顧問だったのですが、今年度はメインの顧問になり、3月の春休みからずっと練習に付きあってきました。還暦を超えた身にはちょっとつらいところです。試合では、私がスターティングメンバーを決めメンバーチェンジを行ったり、作戦を指示したりします。この大会は3年生の最後の大会で、負けた時点で3年生は部活から引退となります。試合は相手の方が一枚上手で、敗色が濃厚になり試合時間が少なくなってくる中で、これまであまり出場の機会がなかった控えの3年生もコートに送り出します。そして試合終了。そして3年生最後のミーティングをします。3年生もそれなりの充実感をもって引退となりました。

 6月3日(木)、この日は私の63回目の誕生日でした。今年の誕生日は私にとって少し特別な意味があります。誕生日の前に公立学校共済組合から超重要書類が届いていました。それは年金の請求書です。昭和33年生まれは63歳になると年金が一部支給されるのです。ということで、戸籍謄本や住民票などをとり、請求書を完成させ提出しました。誕生日の2ヶ月後くらいから年金が支給される権利を得るのですが、私は再任用教員としての少ないながら所得があるため、当分年金は支給されません。残念。

 6月9日(水)、この日は平日なのですが、緊急事態宣言で生徒の登校が制限されたことで私の授業がなくなりました。学校に行って課題を作成したりするべきか、それとも完全定年退職後を見据えて趣味の充実のために年休を取るか。熟慮に熟慮を重ね(実際は考える余地はなく)後者を選びました。このところ40代の時に5年ほど熱中し、その後少し熱が冷めていたフライ・フィッシングを少しずつ再開しています。そしてこの日は相模湖の南に位置する「うらたんざわ渓流釣り場」という管理釣り場に行きました。

 ということで、このところ定年退職後の再任用教員としての活動と完全退職後を見据えた行動とが混在するようになりました。

 このようなどちらともいえないような時代は若い頃も経験しました。私は大学卒業後、大学院受験に失敗し、教員採用試験に合格するまで2年間のブランクがありました。それは大学は卒業したけれども定職がない時代です。若い頃のどちらでもない境目の日々は辛いことも多かったのですが、思い返してみると私の人生にとっては貴重な日々だったようにも感じています。

 今度は、定年退職したけれど年金はもらえないという二度目の境目の日々を生きているということになります。現在、低い山ながらもなんとか頂上にたどり着き、これからは下り道を転ばないように気をつけながらいろいろな風景を楽しんでいきたいと思っていると、突然急な上り坂を登らなければならないようなことにも遭遇します。そんな境目の日々を若い頃と同じように、ジタバタしながら生きていこうと思っています。

 

                                       


 



アカシヤのこと

高橋 正英    2021.6.26

最近、嬉しくなったことが一つある。それは、自粛続きの毎日で、日課としている散歩コース、武蔵関公園の入り口のところに、アカシヤの木があることを発見したからだ。公園の池の周りにはたくさんの樹木が植えられていてよほど意識しないとそれらの樹々の識別ができないが、先日の5月初めに、アカシヤの白い花の房がみごとに枝にあふれ咲き誇っているのを見つけた。この時期のアカシアを見て、ちょうど、久しぶりの友人とめぐり逢えた気分になった。この公園にはここ何年、よく来ていたのだが今迄少しも気づかなかった。花が開いている期間は2週間ほどなのだろうから、その期間に白い花を見失っていれば、そこにアカシヤの木があるとも気づかなかったわけだ。そこで、さらに気を付けて公園を歩いてみると、池の西側奥のほうに何本かの幼木が育ちだしている。この木は、マメ科特有の根に根粒バクテリアを携えているので、地味のやせた土地でも、かなり早く育つ。よく大きな河川の岸にも根を張り短い間に成長する。おそらく、関公園の池の周りにも何年か後には今以上に多くアカシヤが増えているであるろう。

昭和45年の芥川賞作品「アカシヤの大連」でこのアカシヤと大連の結びつきが連想されるようになった。私はつい数年前まで大連に住んでいてそこではアカシヤが街のいたるところで見かけられたし、少し郊外に出ればアカシヤの並木道があり5月末から6月にかけて一斉に白い花を咲かせる。我々が親しんでいる日本の桜はあでやかで豪華、という表現で表すならば、アカシヤはかぐわしくて清楚という感覚であろうか。毎年この花の蜜を求めて養蜂業者がミツバチの箱を据えてやってくる。

さて、どの資料を見てもこの樹木の名前はニセアカシヤ/日本名ハリエンジュであるというと説明があり、本当のアカシヤは別にあって、それはミモザの花という。せっかくの清純な花の姿になのにニセとは気の毒な命名である。仕方ない、啄木にしろ、白秋にしろ、西田佐知子の歌まで、この白い花が出てくる詩には、本名に冠されている、ニセという語句を隠して、アカシヤのみ一語で言いくるめている。学名を見ると確かにギリシア語の「ニセ」と「棘」という語の合成名だ。原産地はアメリカ北部の東海岸であるが、ヨーロッパを経由し明治になって、日本にはいってきた。

大連は帝政ロシアがここを植民地として都市を造り、ロシア南部の地で彼らが親しんできた耐寒性のある成長の早いアカシアを導入したのであろう。また、中国の山東省をドイツが租借していた時にもこのニセアカシヤを持ち込んだそうで、青島チンタオ市街にもたくさんニセアカシヤが植えられていたのを思い出す。
ところで近頃ではこのアカシヤへの評価は難しい。というのも、このアカシヤは、人為的に外部から持ち込まれた外来種だから周囲からの見る目が変わりだしている。日本固有の自然環境が外来の動植物に侵され生態系が影響を受けている、というのだ。そこで、従来の良き日本を取り戻せ、とばかりに行儀の悪い外来の動植物や魚類などを排除しようという動きが出てきている。 環境省の、”対策を優先すべき主な外来植物10種、、”の中にこのニセアカシヤも名を連ねている。いつだったか、平成の天皇が、今ではどの公園でも目の敵にされている外来種の代表ブルーギルを、御自ら米国から持ち込み、申し訳なかったと述懐していたのを思いだす。

どんな生物もみな自分勝手に己を主張するもの、人様のことをおもんぱかり自身を制することのできるのは人間だけなのだから、我々はもっと賢くならなくてはということなのだろう。
来年の初夏、風薫る時、晴れ晴れとした気持ちで武蔵関公園のアカシヤを眺めたいと思う。(了)


                                       


 



四季の記憶77「梅雨のあとさき」

鈴木 奎三郎   2021・6・1

 暦の上では梅雨入りは6月11日頃と言われるが、5月はけっこう雨の日が多く、コロナ禍にあってもそれだけ新緑が鮮やかに感じられた。植物をはじめ命あるものがいっせいに成長するさまは、とりわけ美しい季節の今頃であることを実感する。狭い庭にも、雑草が抜いても抜いても生えてくる。そのままにしておくわけにもいかず、ちょこちょこと抜いているが、雑草の成長に追いつくことができない。

 雑草で思い出すのは、昭和天皇の有名なお言葉だ。侍従長を務めた入江相政の「宮中侍従物語」によると、1965年那須で静養中の陛下に、吹上御所の草を雑草として刈ったとお伝えしたところ、「どんな植物でもみんな名前があって、それぞれが自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考えでこれを雑草と決めつけてはいけない。以後、注意するように・・」とおっしゃったそうである。生物学者としての自然に対する深い愛情と畏敬の念が感じられる。

 さて、いよいよ本格的な梅雨入りの季節だ。日本語には「雨」の名前が400超あるそうだ。春夏秋冬、朝昼晩、降り方によって、先人たちは雨に美しい名前を冠していった。「梅雨」の雨だけでも、入梅、走り梅雨、卯の花腐し、戻り梅雨、空梅雨など多彩だ。
 ぼくが30才のころだから、もう50年近くも前のことだ。そのころ、夏のキャンペーンのイベントとして、逗子の海岸に「サンフレアハウス」とう海の家を期間限定で展開していた。仮設にしては結構しっかりしたもので、約一か月間の特設ハウスだ。美容部員を中心にアルバイトの女子大生を集め、夏の化粧法や紫外線対策をPRするものだ。前年が好評だったため、今年も・・・という目論見だ。サンドアートと称して、砂で作る造形に賞を出しましょう・・というイベントも組み込んだ。なんでぼくが担当になったのかわからないが、いよいよこの夏もオープンの日を迎えた。

 初日は明け方から雨がしとしと降っている。“走り梅雨”だったのだろうか。これでは人出は期待できないなーと思いながら傘をさして現地に行くと、すでにスタッフがそろっている。サンドアートの審査員をお願いした宣伝部制作室長でアートディレクターの中村誠さんもきている。12時頃にはほとんど土砂降りとなってきた。海岸には人手が全く見当たらない。
みなさんに、雨のなかをわざわざ来ていただいて申し訳ありません・・とおわびしたが、お天気まわりだけはどうしようもない。取材をお願いしたテレビやスポーツ紙の記者も手持無沙汰である。かくなるうえは内輪で一杯やりますか・・ということになり、近くの酒屋さんから、ビールやお酒、おつまみを調達して、総勢30人で雨の一日を楽しんだ。みなさん、若かったこともあり、これはこれで、結構盛りあがった雨の記憶がある。

 お天気とイベンとは不離付帯の関係にある。とりわけ屋外イベントはお天気に左右されることが多くリスクが高い。逗子海岸が不運であったとすれば、1976年のゴールデンウィークに銀座で実施したイベント、サマーキャンペーン「南南西の風・色いきる」の「歩け歩けラリー」は、前日の雨から一転ピーカンの晴天となった。前夜に泊まった日航ホテルでは、お天気が心配でほとんど寝ることができなかった。大体、天下の銀座通りでイベントをやること自体許されていない。警視庁の交通課、築地署などいろいろ根回しに廻ったが、もちろんお墨付きがあるわけではない。晴天の銀座中央通りを歩く家族連れや子供たち・・。この模様は、当夜のNHKの7時のニュースで、後楽園球場の満員の巨人阪神戦とならんでトップニュースとなった。ただし、大成功で終わった夕刻、築地署からお呼び出しがあり、始末書を出すことになった。

 雨にたたられた逗子海岸、晴天に恵まれた銀座イベント・・幸と不幸は肩を組んでいつも二人づれでやってくる、のたとえ通りお天気だけでなく人間の運も紙一重かもしれない。

   さみだれや大河を前に家二軒  与謝野蕪村


                                       


 



コロナ後の日常

田原 亞彦    2021.6.26

 ワクチン接種で一応安心ではあるが、免疫の有効期間などは不明であり、来年以降インフルエンザなみの対応でよいのか分からない。マスクから解放され完全に自由とはいかないのではないか。いずれにしても今回のコロナ禍は色々な面で悪影響を相当長く残しそうだ。世界的に影響して決して以前と同じ状況ではないだろう。人々の交流にも大きな影響をあたえると思はれる。そして同時並行的に世の中のデジタル化IT化の流れが相互作用的に絡んでくる。補完的な関係かもしれない。但しフェイスtoフェイスの交流の重要性は再認識されると思はれ、高齢化による身体的老化・不自由化にとってIT社会は操作の難易性の問題はあるが反面大きな武器にもなる。移動の補助として自動運転ゴーカートみたいな一人乗り軽移動車の実用化、読書ではkindleなどの電子書籍、国会図書館の書籍電子化に続き最近地方の地域図書館も電子図書貸出に移行しつつある。無論従来のネット購買により多くの物が居ながらに手元に届く。ドローン、自動走行など物流革命が今後も拡大する。旅行については「地球の歩き方」はほとんど読んだ。無論国内外ネットやCDなどを使って旅行体験出来るし、色々の物つくりなども学べる。リモート診察も普及するだろう。給食、介護などにおけるネットの活用などもある。IOTにより居ながらにして物を動かすことが出来る。AIとVR(仮想現実)やAR‘(拡張現実)などの融合技術によって居ながら多くのことを学び疑似体験ができるようになる。4000万に近い高齢者層を対象にした新しいビジネスが更に開発されると思う。

 身体的な問題と並んで精神的な生きがいとか関心ごと楽しみを持つことが大事だ。過去に訪問した先や昔の出来事を懐かしむより、未知の場所や関心ごとに興味を惹かれる。ネットも大いに使いたい。久しくご無沙汰な大人の休日や阪急交通社のツアーもコロナ後に復活したい。日帰りの町会旅行、食品店主催の日帰りも結構面白い。

 人との交流も大事である。幸い小学校から大学まで中野練馬と都の西北育ちで、いまでもそれぞれに同窓会があるので大切にしてゆこう。会社の会合もあるがここ数年は休止している。陶芸は最近電気釜や用具などは最小限残してあるが小休止状態である。山梨の登り窯クラブの会員資格は維持しているが、新宿から高速バスで行く手はあるが車を処分したこと、クラブのオーナーが軽い脳梗塞でリハビリ中のこともあり、最近ご無沙汰している。

 油絵は一年ほど前に近くの武蔵関公園を描いた、気に入っているのだが、頭の中で、対象を単にリアルに描くのではなくもっとメンタルを強調した表現をすべきとの声がしつこくして、この一年筆が止まっている状態である。空は青でなく赤でも黄色でもよいのである、どう感じたかによるのである。物の形とともに色彩の面白さもあるはずだ。まずはやってみる事かと感じている。


                                       


 



歌で元気を

照山 忠利  2021・6・26

 近頃はコロナで鬱々としていることもあり、気が晴れないときは元気の出る歌を口ずさむ。例えば「広瀬中佐の歌」。轟ーく砲おーと飛び来ーる弾丸 荒なーみ洗うデッキの上にー 闇を貫ーく 中佐ーの叫びー 杉野はいずこー 杉野はいずやー。
 先頃亡くなった会社の労務の先輩が酔うと必ず歌っていたものだ。ご存じ日露戦争の旅順港の閉塞作戦で戦死した広瀬中佐の最期を描いている。この歌を道を歩きながら声に出さずに歌っていると、リズム感と力強さで足が軽くなる感じがするのだ。ついでに当時の日本が置かれた状況と国難を切り抜けるために国民が背負った義務の重さにも思いを巡らす。世界の大国を相手にした日露の戦いは一歩間違えば国が滅ぶかというのるかそるかの大一番。これを支える国民はとてつもない犠牲を払っていた。官吏は軍艦建造費として俸給の一割を徴収され、徴兵された若者はロシア軍の圧倒的な火力の前に屍山血河の惨状を呈した。それでも国民は国難突破のため耐え忍んだのである。歴史にIfはないけれども明治の先人たちの踏ん張りがなければ今日の我々の存在はなかっただろう。それに比べて現在のコロナとの戦いはどうであろうか。目に見えぬ敵に対する作戦としてはどうも情緒的な対策ばかりで太平洋戦争の指導者を思い出させる。もっとリアルな明治の指導者のやり方に学んだらどうか。‥てなことを考えながら歩いていたら、歌がつい口から洩れたらしい。近くを歩いている人から、こいつコロナで頭がおかしくなったんとちやうかというような変な目で見られてしまった。
 もう一つ歌うのは「博多どんたくの歌」。ぼーんち可愛やねんねしなー 品川女郎衆は十匁 十匁ーの鉄砲玉 玉屋が川へすっぽんぽん。これもリズム感がいいだけであまり意味のない歌詞だがいわゆる尻取り歌の面白さがある。「ねんねしなー」の次は脈絡のない「しながわ女郎衆」と続く。「鉄砲玉」の後には「玉屋が」とくる語呂の良さがある。
 九州は会社勤務時代に長く生活した地。子供たちが幼少時代を過ごしたところでもある。あんなことこんなこといろいろあったなあ、今頃あの人はどうしているだろうか、うまい酒と食べ物があったけどあの味はまだ健在だろうか、あそこのゴルフ場でもう一度プレーしてみたいなあなどなど。九州へのなつかしさからこの歌が何かの拍子に口から出てくる。九州の人々の気質がよみがえるような気がするのである。
 コロナ禍の免罪符を手に入れたら、それこそ道祖神の招きを待つまでもなく九州へ行きたい。そして存命の人達と心行くまで歓を尽くしたい。思いを募らせる日々が過ぎていく。

(了)

                                       


 



今日を生きる

鳥谷 靖子  令和3年6月26日 

 紫陽花の花は、コロナ禍も青、白、ピンクと道端に彩りを添えている。長い自粛生活に疲れ気味の日が続くが、二度目のワクチンも打ち終えた。近所の妹の様な友から、食事にさそわれる。「何所に行くの?」「それは。内緒」。
 タンスの奥から、最近着る機会の無かったワンピースを探し、服に合うアクセサリーも付ける。大江戸線に乗り、電車は六本木に着く。ミッドタウンの中を抜け、リッツカールトンホテルのスカイラウンジのレストラン。広い空間、趣味の良い食卓。友が予約した窓際の席に座る。眼下に、皇居、武道館、スカイツリー、遠くに筑波山も見える。
 六月で喜寿を迎える私の為、記念に残る企画を考え、下見をし、喜ばせようとしてくれたのだ。日常から離れた別世界。
 平成二十八年に夫が旅立ち、五年の歳月が過ぎ去る。大学を出て間もなく見合い結婚、空気の様な存在になっていた相手が、不治の病気になり、帰らぬ人となった。子供達は独立。一人、居間のソファーで自分の身に起こった不幸を思い茫然とする。誰にも会いたくない、外出もおっくう。彼のコーヒーカップや、腕時計を見ても、急に涙が出てしまう。母を気付かう息子が、会社帰りに立ち寄ると、「なんで毎日来るの?来なくても大丈夫だから」。と嫌味を言う。三ヶ月後・・・歩くのも億劫になってくる。秋風が吹き始めた頃、座り続けたソファーの片方がガタンと音を立てて崩れ落ちた。自暴自棄の様な生活で、家が荒れ果て、汚らしくなり、心が写し出されているよう。
 「そうだ、ソファーも欲しかったカリモク家具を購入し、居間も総リフォームしよう」。と決心する。木枯らしが吹き始めた十一月末、新しい自分好みの居間が完成。
 以前から考えていた練馬稲門会に入会。見知らぬ人の中に入って行く不安もあったが、現在の状態から抜け出し、次の扉を開けたいとの気持ちに押された。
 稲門会での新たな出会いや、活動で次第に外出する機会が増え、二年が過ぎる。いつの間にか過去の記憶も薄れる。
 「貴女って、カッコつけの人よね」と友の言葉を思い出す。確かに、結婚後、良い妻。良き母、良き娘でありたいと自分なりに努力した。本来の自分は胸に沈めて生きた。
 もう、気兼ねする人はいない。裕福でないが不自由もない。
 友情の絆で繋がる友達もいる。子供達とは、好きな時に交流する程よい関係。寂しいと感じる暇などない。やりたい事が、次々思い浮かび、忙しい毎日。
 朝、「おはよう」と挨拶し、ご飯をあげるメダカ達。初めて実を付けた五つの柚子の実。夫との思い出に植えたイチジクの実が毎日一つずつ赤く熟している。食べ頃を狙っている鳥に先を越されないように気を配る。二階の物干し台で育つワイルドストロベリーの収穫。今年は、星形の花弁のペンタスの花で、小さな庭を一杯にしたい。この花の花言葉は、「願いは叶う」という。園芸店でハーブの苗を七、八種類購入。いろいろなハーブティーを試している。近所の友達を招き、ケーキを焼いてアフタヌーンティーが出来たらと・・・・
近頃、一人身を謳歌し浮かれ気味なのを心配していたのだろう。ホテルで貰った誕生祝いは、エイジングケア化粧品と、仲良く夫と並んでいる、写真立てだった。


                                       


 



万年筆と益子焼

横山 明美   2021年・6月

 瀬戸内の美術館をめぐる友人との旅から戻ると、好きな花瓶に投げ込んでいた紫陽花の花がしんなりとうなだれていた。いつもこれだ。同居の若い者は仕事に出ており、帰宅しても水替えや枝切りにまで気が回らないらしい。ごめんね、と花を処分し花瓶を洗う。底を返してみるとなつかしい「ヒ」の刻印。瀬戸浩の作品だ。べつに天下の名品ではない。好きで店や展示会で出会うとたまに財布と相談して買っていたものだ。この人を育て、応援し、私に教えてくれたのは絹枝さんという、その名もゆかしい年上の益子焼の店の主であった。
 それは私の生まれ育った街の街中から少し入った路地にあった。母にとっては年下の昔からの友人で、私も焼きもの好きの母についてたまに店に出入りしていたのだ。仕出しもやる大きな魚屋のお嬢さんだったが、本好きな少女でやがてものを書くようになり、女性誌への応募作品が選ばれたらしいと母から聞いていた。私の高校の先輩でもあった。帰省した折寄ってみると、小さな店の隅でいつもながら万年筆片手に原稿用紙に向かっていたが、二階へと促され、急な階段を上ると椅子も数脚だけの喫茶室になっている。「ひさしぶりね」とおいしい珈琲を淹れてくれる。絹枝さんはほっそりと受け口で色白のお洒落な人だった。和服でも洋服でも黄や紫、鮮やかな朱鷺色の色遣いにハッとさせられることがよくあった。そんな絹枝さんの口から、益子が陶芸家でなく物売る作り手ばかりになったという嘆きや政治談議まで飛び出すのは、若い私にはなんとも魅力的で楽しいひとときだった。お連れ合いは端正な面持ちの”文学的な“人だったらしいが早くに亡くしており、その人が絹枝さんの最初の作品の主人公だった。裏隣の餃子屋はいつも旅案内片手の若い人の行列だが、同じ栃木の名物名品でも益子焼の絹枝さんの店に客の姿は滅多にはなかった。
 瀬戸浩が京都での修業を経て益子に来て以来、絹枝さんはその才能に惹かれ生活から作品への助言、店扱いまで実によく面倒をみたらしい。促されるように我が家でも身内の祝いの記念品や、父の趣味の東洋ランの鉢を作ってもらったりしたものだ。いつも静かに恥ずかしそうにしている人で、どちらかというと粗野で何かと様子見の傾向のあるこの土地に馴染めるものかしら、と私は勝手に心配していたほどである。
 駅が東北新幹線のため生まれ変わったとき、コンコースに瀬戸浩の作品が壁一面にびっしり張り込まれた。県木の栃の木の葉を絵柄にさまざまに焼き付けた陶板である。とうとうここまで来たか、といううれしさでいっぱいになった。絹枝さんも同じだったろう。しかし瀬戸は50を過ぎて早すぎる死に見舞われた。
 久しぶりに親の墓参りに帰省してみると、駅の陶板の大方がコインロッカーでおおわれてほんの一部しか見えない。思わず、駅長の大馬鹿野郎~~と心で叫んでいた。手元にある瀬戸浩の作品は赤と金,灰釉とプラチナなどという大胆な色彩に手で削り取った面取りの技法が冴えるものが多い。赤と金の花瓶に正月は緑の松が映え、ある時は白いカサブランカがよく映る。瀬戸浩は私たちの中でまだ生きている、という思いになる。絹枝さんは今店をたたみ地元の文化講座でエッセイの講師だ。店の名は「ぽぽろ」だった。

 

                                       


 



皇統の行方

小林 康昭  210626

 2月、4月に続けて今月も、三度目の天皇制を書く。最近、メディアが「安定的な皇位継承のための有識者会議で、専門家に対するヒアリングが終わった」と報じている。有識者会議とは、平成29年に衆参両院で可決された「天皇の退位等に関する皇室典範特例法案」につけられた「付帯決議」に由来する。そこには「政府は、安定的な皇位継承を確保するための諸課題、女性宮家の創設等について、本法施行後速やかに検討」せよ、とある。
 有識者会議は、その付帯決議に基づいて設けられているらしい。メンバーには、労働経済学を専門とする慶應義塾大学の学者が座長に、そして、行政法を専門とする上智大学の教授、JR東日本の会長、文化庁文化審議会委員の女優、国際政治史を専門とする慶應義塾大学の教授、元NHKアナウンサーの千葉商科大学教授の6名で構成されている。この有識会議なる存在に、違和感がある。嫌悪感と言っても良い。その理由は、このメンバーが日本全国民の総意に値するのか、という問題だ。
 天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である。天皇の地位は、主権の存する日本国民の「総意」に基づいている。だから、会議のメンバーが天皇や皇室の存在やあり方を語るとき、格別に「有識」である必要はない、専門的な知見も無用なのである。その要件は、全国民の「総意」に適っているのかの唯一点にある。
 その意味で、この有識者会議とそのメンバーは、資格を欠いているということだ。有識者会議のメンバーを、官僚が人選したから由、と納得してはならないのである。この点を、ジャーナリストが問題にしないことに不満がある。
 日本の国の在り方として民意を代表できるのは、まず、国会議員たちである。都道府県の県知事や議員を含んでもよいだろう。市町村の首長や議員も加えてよいだろう。「有識者」会議を求めるならば、彼らをメンバーに当てるべきである。皇太子や親王の結婚相手を承認するために、皇室会議を開く決まりがある。皇室会議は三権の長と皇族の代表で構成され、総理大臣が座長を務めることになっている。文字通り、日本全国民の総意を代表する存在である。それよりも大きな、皇統の維持という将来的な問題を展望するのだから、総意に相応しいメンバーで構成される場を用意するべきなのである。
*  *  *
 繰り返すが、天皇の地位は、主権の存する日本国民の総意に基づいている。この「総意」が重要なのだ。
 つまり、天皇の地位について、国民の間に反対の主張など、世論が分裂する状態が起きてはならないのである。
 天皇を支持する集団と支持しない集団が発生して、国民の世論が分裂すると、天皇は、その存続基盤に致命的な打撃を受けることになる。
 天皇陛下は、国民の幸せを願って祈り、困窮する民の前に出て慰めの言葉をかける。それを以て、すべての国民は「無条件」で癒され感銘を受ける。そのことに天皇の価値があるのだ。その価値を疑う国民が存在しては、天皇の存在は大きく揺らぐ。そうならないように、国民は、一つの総意であらねばならない、と言うことだ。
 だから、我々は、皇統を守るにあたっては、世論が分裂することを絶対に防ぐべきなのである。それは、理屈ではなくて、日本国民の「総意」である。
*  *  *
 皇統の存続を巡る主張の一つの「女系天皇」の容認論は、反対する勢力が存在する点で、日本全国民の総意であるべき皇統の要件を欠き、天皇の絶対的な地位を危うくするおそれがある。為すべきことは、男系による万世一系の、世界で稀有なる伝統を守ることに尽きるのである。
 その一つの方法として、旧宮家の皇籍復帰案が取りざたされている。現に、旧宮家に繋がる男性がこれを持論にして、メディアを通じて吹聴している。だが、皇籍復帰を該当する人物自身が唱えずに、「総意」にゆだねるべきである。国民感情も、血統上の有資格者であっても、高齢者や成人の皇族復帰には違和感があるはずだ。
 相応しい候補者は、未だ学齢期に達しない幼児である。家系とDNAを確かめたうえで、その幼児を天皇陛下が決定するのが良いだろう。そして、成人になるまでは、肉親のもとで生活を送ることにする。
 昭和天皇までは、幼少期の間、他家に預けて育てる習慣があったそうだから、皇族の世界としては、違和感はないはずだ。
 そして、当人が成人式を済ませたら、旧宮家の復活ではなく、新宮家を創設することにする。伏見宮とか竹田宮などの旧称を名乗るよりも、新宮家の名乗りは新鮮味を与えることだろう。候補者に決まってから成人になって宮家を創設するまでの10年余が、国民が心理的に納得できる準備期間になるのである。
 皇統の維持がここまで追い詰められた原因は、関係者たちの無頓着かつ無為無策に責任がある。
 有力な政治家や世襲色が強い企業(例えば建設会社など)では、子女の婚活には非常に神経を払うそうだ。姻戚が一族に及ぼす影響を考えるからであろう。
 まして、皇室の世界は、それ以上であるべきなのだ。この国は、皇統の維持に、もっともっと、意を尽くすべきなのである。


                                       


 



ものは考えよう

谷川 亘    2021年6月26日

 コロナ禍と言う名の厄介神に付きまとわれて一年半。それでもか、これでもかと悪辣化一方の見えぬ敵に対して為す術もなく最後にはワクチン頼り。一向に埒の明かない昨今です。
 一生費やして育て上げた会社ですもの。まあ、“卒業”はリーマンショックでその分遅れたのは致し方ないとして、週一、朝一で出社。東京湾岸に沿って一駅歩いて体鍛え、作業衣に着替えては大声で“ご安全に”と交わす。Corona禍にあって、重鎮の身になんぞの事でもあったら・・・。なんて、心にもない体の良いこと言われては“出社拒否”のご下命。
 それから先は地獄の沙汰。コロナ感染以上に時間持て余す“幽閉罪”に慄いたのです。暫くは晴耕雨読。やり残したと思しき整理整頓や趣味の世界に委ねようとあれこれ見探ってはみたものの、歌の文句じゃあるまいし、“お暇なら来~てよねっ”なんて誘いある筈もなく、突拍子もない事態に戸惑うばかり。急ごしらえでは長続きするわけがない。友人はじめ人様との接点も皆無となって指先嘗め嘗めキーたたいても、せいぜいメール交換まで。
 人様との断絶によるボケ防止と健康増進の一挙両得。一緒に歩めば仲良し老頭児の会話が弾む。一時、金科玉条のごとく流行った「一日一万歩」踏破。
窮鼠猫を噛むではないが、観念して居直ったこのジッツアマ。小学生時代に駆けっこいつもビリだったのに、嬉々として?近くの公園4周してゆとり持って一万歩。蛇足ながら、勝気な性分も手伝って、抜かれるに任せっぱなしの我が身を恥じて仲間に加わっては一緒にヨタ走り。“物は考えよう”です。何てったって、コロナ禍のお恵みでヨタ公が走りだしたのですから。
 おんなじことでも取りようによっては真逆のこともあり得ます。コロナに押しつぶされて鬱が一層深刻さを増して気分は落ちこもりっぱなし。八十路過ぎて老化は一層その度合いを増して痛い・痒いのオンパレード。なのに、何から何までコロナの所為とこじつける。傘寿過ぎたら好き放題やりたいことを堪能したい。海外は無理としても、せめて温泉三昧、雪見酒。
 残念無念。老いの楽しみ迄奪ってしまったこの悪党目。と、ひとしきり孫娘にMailでぼやいたら、以下の返事。「体育の長距離走記録は中学時代と比べて大分落ちたの!!この年から老化を考えるなんて思ってもいなかったけれど、体力が落ちてしまって、ああ、16年間生きてきたんだなあって思うようになりました」。
 まぁ、見た途端に、“我まだ青春の真っただ中”なんて考えたのは、たとえ一瞬であっても、“取りようによっては、物は考えよう”で、まだまだ青春真っ盛りなんだ!!!
 も一つ、この手の話。公園のベンチで暫し一緒にくつろぐ卒寿のオジンの話、「あんたねぇ。シャカリキになって何歩だの何分だのと走りに集中するのは良いとして、移ろう季節の変わり目を自分になぞらえて、しっかり味わってんの?一周する度に膝のチョウツガイがすり減って、とんでもないことになるよ!!!」。先達の教えは痛いほど身に沁みました。
ごもっとも、ごもっとも。これぞ正しく地獄で仏に巡り合えた心地でした。
 故事に、「捨てる神あれば拾う神あり」って言うではありませんか。膝の骨の合わせ目がすり減って歩行も困難になるかもしれない。だったら、決して負け惜しみではない。逆転の発想で気楽にヨタ歩きを続けるか・・・。ただし、コロナの終焉するまでですよ!!!


                                       


 



四季の記憶75「家族の肖像」

鈴木 奎三郎   2021・4・1

 毎朝散歩する石神井川の遊歩道は、数年かけて整備されすっかり蘇った。川面にはコサギ、カルガモなどが群れていていかにも初夏薫風の風情である。今から50年前、新婚で移り住んだ頃は練馬の片田舎という風情であった。大田区に住んでいた妻はとんでもない田舎に来てしまったと悔やんでいたが、それも今や昔話となった。遊歩道の桜も大きくなって上野や飛鳥山まで出向く必要もなくなった。50年もたつと町の風景も人もさまざまに変わっていく。建売で売り出されたわが家の一角は、初めの頃は15軒ほどだったが、亡くなった人や転居する人がいて持ち主が変わり、1軒が2軒に分割されて20軒となり、いまは半数が若い方々が住んでいる。小さな子供もいて、まさに50年前の当時の記憶がよみがえる。

 ぼくの故郷長野市の桜は、関東に遅れてたぶん4月中旬頃に満開となる。しかし例年より早くなって10日頃には満開を迎えるのであろうか。善光寺の裏から戦没者慰霊の納骨堂までは、七曲の急坂の桜並木が美しい。近くに、「夕焼け小焼け」の唱歌で有名な往生寺がある。お寺の入り口にはその碑文が刻まれている。「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る・・」、まさに信濃の原風景である。
 善光寺には、父との数少ない思い出がある。ちょうど今頃のことで、父はたぶん40才前後、ぼくは小学校入学前の頃である。手を引かれて善光寺の登坂の参道をあがり、善光寺周辺の桜並木を見て回った。すでに入退院を繰り返していた父は病弱で、44歳で亡くなった。桜の咲くころになると、なぜかこの日のことを思い出す。
もうひとつの記憶は近くの映画館に三船敏郎のデビュー作「銀嶺の果て」に連れていかれたことだ。兄が2人もいるのになぜぼくだったのかは知る由もないが、このふたつが父との数少ない記憶である。調べてみると、この映画は谷口千吉監督で昭和24年の作品である。したがってぼくは7、8才ごろであったろうか。

 父はぼくが小学3年の秋に亡くなった。ある秋の昼下がり、がらりと教室のドアを開けて、番頭さんが入ってきた。先生になにやら耳打ちをしている。先生からすぐに帰りなさいと言われ、帰宅した。周りにはすでに多くの人が集まっている。みんなが“死に水”を取っている。どういうわけかこの光景だけは鮮明に記憶されていて、褪せることはない。
 
たぶん、昭和25年の春先であろうか。1枚の当時の家族写真が手元にある。退色もなくしっかりした構図で、たぶん写真館に頼んだものであろう。総勢14名が写っている。祖父母、両親、叔父夫妻と赤ん坊、お手伝いさん、兄弟の4人である。長兄は中学生、次兄は小学生、ぼくは入学前、妹は2才くらいと思われる。父はこの写真の3年後に亡くなった。経済的に困る家ではなかったが、母は38才で4人の子供を残されて寡婦となった。その母も、たまプラーザのホームで、10年前に数え100歳で亡くなった。亡くなる1,2年前からはほとんどしゃべることはなくなった。ぼくのことはわかっているようだが、かなり認知症が進んでいたのだろう。小学校の学校参観に来る着物姿の母は、若くて長身でとりわけ目についた。

 この写真と並んで、4枚の写真が枕元に置いてある。一枚はぼくが生まれて1000日目の写真である。写真館で若い母に抱かれてキョトンとした目のぼくがいる。母は夏物の銘仙を着ている。それに、母が77才の時にホテルオークラで開いた喜寿祝の会のときのものだ。もう一枚は63才で現役を引いた時のぼくのスナップである。それに、福原義春さんの秘書役をやっていた時に並木通りで撮ってもらった1枚である。彼はたぶん62,3歳。ぼくは50才くらい。往時茫々である。写真は記憶の船である。

 その割には、写真の始末ほど困るものはない。小さな数個の箱に年代も種類も関係なくため込んでいる。終活のひとつとして何とかしなければ・・と思いながら、また1年が過ぎていく。確か去年の今頃も同じことを考えていた。現役の頃は日々増殖する「名刺」に苦労した。でもこれは思いを断って捨てることで解決した。何でもかんでも捨てることは決してよしとしないが、この世のしがらみも含めて、“捨てる”ということは最大の問題解決になることもある。

 花筏記憶の川を流れゆく
 

                                       


 



ひたすら耐えたこの一年

谷川 亘    2021年4月24日

 一日が果てしなく長く覚えられ、とは言いながら、一週間、一ヶ月で捉えてみると、あっという間の出来事でとっくに忘却の彼方。
 為すべきことが見定めつかず一日ボケッツ。いきなり、今日は「何日で何曜日?」なぁんて聞かれても寝ぼけまなこで上の空。まさかこんな塩梅に落ち込むとは想像すらしたことなかったのに、「ひょっとして、俺ってイカれたのかな?」。現実は厳しいのだ。
 不貞腐れては早起きし、偏屈ジンジは、仲間に入れてもらえばよいものを、ラジオ体操横目に見つつ、心そこにあらずとも「一日一万歩」のヨタ歩き。Corona禍に遭遇して暇持て余し、“三密”下にあっても心身ともに健康に恵まれて爽快に!!と、考えあぐねて一年前に自ら課したノルマなのです。
 最初の数ヶ月は早寝早起き。必達期してひるむことなく余裕たっぷりの四桁成就。真夏の8、9月には、夏場特有の天候不順下にあっても一日平均軽く一万歩達成。
 めったに飛来しないと(写真家プロはだし?が宣う)、握りこぶしにも満たない翡翠(カワセミ)の虜になって、気短かの我までが息こらして歌詞そのもの。ひたすら「待つわ・・・あなたを待つわ」・・・・。フィルムカメラ自慢の前職は歴とした棟梁。古参なのにデジカメ軍とは一線画されて仲間外れにされて悔し涙。その気持ちよ~くわかります。
 八十路越して、ルビーさながらの“小鳥に恋をする”。なんて初体験でした。
名前も、所・番地すら交わす必要もないヨタリング仲間とも声かけ合ったり、愛玩犬を抱っこにおんぶに乳母車。お手製のちゃんちゃんこ着せられてはワン公だって暑いよねぇ。思いっきり地面を蹴って鬱憤発散したいよねぇ。
 みんな、みんなストレス充満し、爆発寸前なのですよ。

 それにしても、顕微鏡の世界。姿・形は勿論、陰に籠って片鱗も詳らかにしない、しつこく続くコロナ禍症候群。
 季節が巡れば花開いては人心を和ませると言うのに、既に居座られて一年あまり。
 私に言わせれば、人間80才(傘寿)が、“定寿”。つまり、神仏から授けられた、定められた寿命であり、それ以降は“生かされた”、言うなればオマケの人生。不肖この私も健康年齢、平均年齢、何れの捉え方をしても、人生を“満喫”させていただきました。
 心身ともに落ち目となっているのは十分に承知しております。せめて、余生の楽しみのお裾分けがあるのならば、その一部でも結構ですので手にしたいのですよ。


                                       


 



2021年4月の今

田原 亞彦    2021.4.24

 私は正月が誕生日なので、年が変わると一つ年を取る。20世紀末に区切り良く定年退職になり早くも20年、この正月で傘寿になった。20年前と比べると体力の低下が一番大きい。年を取ると、文武両道のうち文よりも武のほうを重視する必要がありそうだ。先ず足腰の強化だ。特に退職後にしたことを振り返る。先ずは出来るだけ国内外旅行をすること。一応47都道府県で行ってないところ全部を旅行した。東京都内と三多摩の散策ガイドブックでしらみつぶしに行ってない所に行った。鉄道の沿線ガイドも利用した。そして広域都内地図に関町北三丁目の自宅から半径5キロの円周を引いて、各方面にある神社、仏閣、稲荷社や道祖神などを歩いて訪ねることをやってみた。5キロは自宅から荻窪駅。高野台、大泉インター、ひばりが丘。花小金井、三鷹の杏林大学の範囲になる。360度出来るだけ直線的に同じ方向に日を分けて綿密に探すのである。往復で10キロの歩行になる。
 還暦の頃から足腰の弱りが自覚されたが昨今のコロナでさらに加速されたように思う。11年間続けた大塚のカルチャーの陶芸教室の講師も昨年末で終了した。近くのスポーツクラブも4年間通ったがこのコロナで気になって数度の休会から最近退会した。色々動きを止めることが体力低下になり鶏と卵の関係になっている。
 現在自分の体調で数か所気になるところがある。通院もしているが、いろいろ調べて出来るだけ自力で回復に取り組む努力もしている。還暦の時は30歳以来の近視を自力で矯正して運転免許の更新も眼鏡なしで無事に終えて現在もメガネは要らない。 いずれにしても体調の変化をいち早く感知して騙しながらメンテナンスをして長持ちさせるつもりだ。
 厄介なことの一つは腰痛である。手術はしたくないので、「狭窄症は自力で治す」の本を信じてリハビリをしてぃる。空いている部屋に室内バイクを据えてストレッチをして自力回復を目指している。今、近場は出来るだけ自転車でなく歩いてゆくようにしている
 以前から未知の処に行ってみるのが好きで、東京は無論、大阪、神戸、岡山の勤務地では車で日本海方面も含めて良くドライブをした。行ってみて現地を自分の五感で感受することが一番の思い出になる。本来は歩く方が色々と感知出来て良いので、東京近辺、大阪市内、京都、奈良は良く歩いた。特に京都は車で行くのは鬼門だ。海外は国内のカルチャーが通用しないし真逆のこともあり、世界の多様性が強く感じられる。2019年にパスポートを10年有効もので更新したのだがコロナで気がめいり、更に腰痛などで消極的になり無用になりかねない。
 最近、読書はデジタルのkindleにしているが、武蔵野市と練馬区の図書館に読みたい本の予約取り寄せも利用している。最近「地球の歩き方」シリーズに凝っていて全部読もうとしている。またテレビで「世界の街歩き」などの国内外の旅行番組を選んでみている。地図とにらめっこである。国内の地図では昭文社の県別の分県地図が詳細で全県そろえてある。地図は色々なことを教えてくれ記憶の整理にもなるし地政学的な観察にも面白いものである。


                                       


 



飲み代原価主義

加藤 厚夫  2021.4.24 

 昨年は外飲みが減り、家飲みが主流だったので月4万円の酒代が減った。日本は外飲みアルコール代が世界一高いと言われているから、下手すると一合を一升の値段をとる店もあった。家で原価飲みしていれば家計は大助かりだ。飲み代節約で思い出すのが通信工業会に出向した翌年の職場旅行のことである。おまえは新人だということで職場の幹事にさせられた。そもそも職場の幹事など誰もやりたがらないものだ。無報酬のうえ限られた会費なのにもっと豪華な旅行にしろ、忘年会では旨いものを食わせろなどと無理難題を吹っ掛けられる。日光中禅寺温泉一泊の職場旅行では、そのアルコール原価主義で効果を発揮した。東武特急が浅草を出ると、早速車内はウキウキ気分になる。幹事の役目は出来るだけ安く早く酔わせて旅館に送り込むことである。だから駅や車内では一切缶ビールやツマミを買わない。旅行前日にバランタイン17年やカミュXOなどの高級酒、ツマミはウニやイクラの瓶詰などゴッソリ車内に持ち込むのだ。幸いみなさん飲んだくれだから、おかわりを勧めて回れば、目の色を変え煽るように飲んでくれる。東武日光に着くころには完全にでき上がり千鳥足になってくれた。旅館では入浴後、必ず飲まれてしまう冷蔵庫の950円ビールを抜く元気はすでにない。大広間に集まり専務理事のろれつの回らぬご挨拶のあとビールで乾杯だ。やはりそのあと酒の追加注文するいつもの元気な声は聞こえない。ここで無駄な酒代がざっと8万円節約できたのだ。結果その年の忘年会は一人頭3000円が浮いたので豪華に設営した。新宿の高級ロシア料理店に予約を入れ、どんな料理を出すのか一度下見に行くと伝え、一週間前に飲み仲間の出向者3人と出向き一番高いAコースを試食させて頂き内容を確かめた。帰り際店長に「来週の宴会料理はBコースで結構です。支払いは来週まとめてするので」と頼み重責を果たした。
 元々この原価で飲むという発案者は、工業会にH社から出向のサっさんだ。工業会は必ず5時から食堂で飲み会が始まる浮世離れしたところで、毎日暇な彼は、2時から高島屋地下でツマミを調達して来る。ビールは会議室で開かれる総会や部会で余ったものをケースごとベランダに置いてあるし、もらいもんのウイスキーもあるので買わずに済んだ。
 出向仲間4名は元の会社に戻ってからも、三月に一度は伊勢丹会館での飲み会が定例となった。そこでもサっさんは徹底した原価主義で、伊勢丹地下でマグロの刺身を仕入れて来て、店で刺盛りを一皿注文しそれが来るとその上にドカッとマグロをテンコ盛りにするのである。これにはみな啞然としたが、確かにここの刺身より高級マグロの方が断然旨い。が食べていてもいつ襖を開けられるか不安で、おちおち賞味できないのが辛かった。その後益々大胆となりウィスキーまで持込み、平気で店員に水と氷を言いつけるからたまらない。精算は私の伊勢丹株主優待で10%引きだから面白いほど安くついた。
 自分にもその習慣が身につき出かけるときは、お~いお茶のボトルに保護色のウィスキーを入れて持参するようになった。現在は出向仲間だったオーさんがソフト会社の経営者なので、飲み代は毎回払ってくれるからゆったりと飲めるようになった。しかし昨年来のコロナ感染拡大ですっかりご無沙汰となってしまった。


                                       


 



花の季節から新緑へ

小林 大輔  4月 エッセイ同好会 

私が、白いコブシの花が咲いていたのを愛でたのが昨日の事のように思い出すのに、もう城北中央公園のコブシは、沢山の緑をたくわえています。

私が、毎朝・夕、ウォーキングをしている石神井川のほとりの遊歩道。
川の流れに沿って、こちらの右岸は、今や練馬でも名所の『桜の遊歩道』となっているのですが、桜は、もう花が散ってしまって、早くも葉桜。

しかし、水辺に手を差し伸べる葉桜も、これはこれで風情があって良いものです。

ところが、その中にどう間違ったのか、それとも故意にそうしたのか、1本だけ八重桜が植えてあります。
この八重桜ばかりは、周辺の普通の桜が、既に葉桜になっているのを知らぬげに、今まさに真っ盛り。
周りの環境に頑として歩調を合わせないこの1本の八重桜ばかりは、私にはおかしいやら、独自性を見せてくれて、へそ曲がりでユニークです。

ところが、この石神井川の遊歩道は、仔細に観察すると、まことにユニークなことが分かります。
桜で統一すれば良いものを、ある所だけは、たぶん「アメリカ花みずき」だろう。
周りに反発するかのように、アメリカ花みずきを植えています。
桜の季節から、花はちょっと遅れて咲いているし、その花は、手のひらを開いたような白い花を付けています。
この一角だけは、桜ではなく、なぜ花みずきにしたのか、あれこれ推測して見るけれど、私には分かりません。

さて、ウォーキングが終わって、我が家に帰りついてみると、我が家の八重桜も、春に遅れてやっと咲き始めていました。
これは石神井川の遊歩道にある、たった1本の八重桜と同じです。
このように、八重桜が咲くのが、桜の季節に遅れて、毎年遅いのは同じです。
でも例年は、枝垂れ桃の花や、果実を穫る桃の花が咲くのに少し遅れて・・・と思っていたけれど、今年はどうも、すっかり各種の桜や桃が花を終わらせる時期を待って、八重桜が特に遅く咲いたようです。

して我が家のうすら梅も、もう新緑。
糸紅葉が、もうあえかな葉を見せています。

季節は花の季節から、少しずつ新緑に移っているのです。


                                       


 



趣味としての裁判傍聴に向けて

富塚 昇   2021年4月24日

 今年の2月、3月にそれぞれ1回ずつ久しぶりに裁判傍聴をしてきました。学校の最寄りの駅が西武拝島線と多摩都市モノレールの「玉川上水」なのですが、モノレールで4つほどいった「高松」駅に東京地方裁判所立川支部があります。自分自身の興味とともに夏休みなどに生徒を引率することも考えその下調べという感じです。
 最初見た裁判は民事裁判でした。給料未払いの問題で今日的なテーマだと思っていたのですが、その時の裁判は証拠の確認など10分ほどで終わってしまいました。
 次に見たのは、詐欺も絡んでいると思われる窃盗事件に関する刑事事件でした。腰縄をつけられた被告が入ってきた時は私も久しぶりだったので少し緊張しました。初回なので人定質問、起訴状の朗読、黙秘権の確認などがあり、その日は20分ほどで終了しました。傍聴人は私を含めて4人でしたが、私以外の3人はノートをとりながら傍聴していました。終わってから3人の方は廊下の待合所で「昨日の判決の損害賠償額は・・・」などと話し始めました。私より年配で、この方々はプロの傍聴人の方かも知れないと思いました。裁判傍聴を趣味としている人がいることは知っていましたが、まさにそのような人だと思いました。
 2回目に行った時に最初に傍聴したのは「出入国管理及び難民認定法」違反の裁判でした。オーバーステイが問われた裁判です。被告はフィリピン人で通訳付きの裁判でした。被告人質問などを聞いていると外国人労働者の問題についていろいろ考えさせられることも多かったです。今日の1回の裁判で判決が出て、懲役2年、執行猶予4年が言い渡されました。この裁判は裁判官、検察官、弁護人の3人とも女性でした。
 次に、途中からですが窃盗事件の裁判を傍聴しました。ちょうど裁判長が被告に「なぜ罪を犯したのか。窃盗をする前に自分としてできることがあったのではないか。これからどのようにしたいと思うか」などと問いかけ説諭をしるところでした。この説諭を聞くことも裁判傍聴の醍醐味の一つかも知れません。この裁判では裁判官と弁護人が女性でした。判決は次回出るようです。
 裁判官の説諭・お説教についてですが、20年近く前に傍聴した裁判でこんなことがありました。その裁判は覚醒剤取締法違反の裁判で、被告は20歳をすぎたばかりの若い女性でした。夏休み中で、学校の宿題できたのか傍聴席は中学生・高校生が多くほぼ満席でした。裁判の中で、被告の母親が「この子は私が責任を持って見ますからどうか是非寛大な処置をお願いします」というようなことをいうと、裁判官は被告に向かって「あなた、お母さんの話をどう思うの。お母さんはあなたのことを心配しているんだよ」などとしっかり時間をとってお説教をしたのでした。後日、社会科の法教育の研究会だったと思いますが、弁護士の方のお話を聞く機会がありました。その場で私は裁判官が熱心にお説教をしたという話をすると、弁護士の方は仰いました。「そうなんですよ。裁判官も傍聴人が多いと張り切るんですよ。だから裁判傍聴にいった方がいいですよ」。この時の弁護士さんの話を広げると、裁判傍聴をすることが大げさに言えば社会正義の実現に貢献することにつながる可能性があると言えるのです。
 今回の結論です。裁判傍聴は社会の現実と向き合い、社会正義の実現に立ち会うことができる市民としての責任を果たすことができる活動ではなにでしょうか。そして何よりいいのは傍聴のための費用は一切かからないことです。これはもう、完全定年退職後には裁判傍聴を趣味にするしかないと思ったのでした。
 

                                       


 



桜を伐るということ

小林 士   2021年4月24日

 西武線の練馬駅前からJR線の赤羽駅に向うバスがある。私はときどきこれに駅前から終点まで乗る。このバスが赤羽駅に近づくと東京北医療センター入口という長い名前のバス停があり、ここから次の八幡小学校北というバス停までの四百メートルほどが、みごとな桜並木になっていた。
道の両側にならぶ桜が大木ぞろいで、ひろい道に太い枝がおおいかぶさってトンネルをつくっていた。片側が緑の豊かな公園になっていて、そこにくつろぐ人々の姿があり、この一画だけは赤羽駅周辺の喧騒とはかけはなれた落ち着いた雰囲気だった。桜の咲く春は言うに及ばず、季節の折々にここを通り抜けるのが楽しみだった。

 ところが一昨年、この桜の半分が突然バッサリと切り倒されてしまった。バスの窓からこれを見た私はびっくり仰天して、そのとたん「桜伐(き)る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という言葉を思い出した。これは桜と梅の剪定の違いを言っているのであって、桜を根元から切り倒す話ではない。しかし、「馬鹿」という言葉のつながりで思い出してしまったのである。あのみごとな桜の古木たちを何本も切って倒すなんて、なんと馬鹿なことをしたものだ。大罪を犯していることに気がつかないのか、と私は一瞬憤ったのである。 
「どうしてこんなことを……」と不満を感じながらよく見ると、桜を切り払ったあとの歩道を改装する工事が行われている。半分出来かかりではあったが、改装されて車道との境にきれいな柵が設けられた歩道は、すっきりとした都会の歩道になっていた。それはそれで、受け入れることのできる変化だった。
ここで私は自分自身に戸惑ってしまった。あきらかな矛盾に気がついたのである。何十年もかけて自然の力でようやくできあがったみごとな桜並木を、まさに一瞬のうちに犠牲にしてまで、歩道を改装すべきだろうか。そう思う一方、桜の枝がなくなり空がぱっと明るくひろがって、両側に車道との区切りの柵が立てられた歩道に安心感を抱き、肯定的な気持ちになった。心のなかに相反する気持ちが同時に渦巻いた。私自身がどちらを採れというのだ、と戸惑ったのである


昨年、更に残りの半分も伐り倒されて道路から桜が消えて整備は終わった。地元の人にしてみれば何十年も親しんだ自然が一挙に破壊された大きな変化である。その変化に私も一度は驚愕し反発したが、すっかり姿を変えた道路を、今はすなおに受け入れている。
 都会に長く暮らしたことがそうさせたのだろうか、齢を取ったことがそうさせたのだろうか、私の心は自分でも気がつかないうちに変化していた。

 

                                       


 



春の便り

鳥谷 靖子  令和三年 四月二十四日 

 立春も過ぎた二月中旬、まだ寒さの残る朝、宅配便が届く。ダンボウル箱には沢山のスイトピーの花が入っていた。思わず手に取り香りをかいで、花々を抱きしめながら、胸が熱くなる。
 花の送り主は、大分県の国東半島の先端に住んでいる友である。彼女は、高校生の時下宿して大分市内の高校に通っていた。ふっくらした穏やかで温厚でいつも笑い顔が絶えない友だった。親元から通っていたにも拘らず、イライラし反抗的な高校生活を過ごしていた自分と比べ、彼女は誰にも優しい人だった。六十年の歳月が去っても変わらない。早春になると花屋の店先に並ぶスイトピーに魅かれ立ち止まるものの、一本いくらで売っているので眺めるだけの日々。淡い色のピンクや、白、紫、青の数十本のスイトピーの花束は、優しいほのかな香りが漂う。居間に十五本花を飾ると、部屋全体が明るく爽やかになった。残りは、十五本ずつの花束を作り、病気療養中の友、母親亡くし落ち込んでいる人、コロナに家族が感染し動けない方達に春の便りを届ける。
 五十年以上前高田馬場駅沿いに「ボストン」と言うケーキ屋があった。女子学生はケーキ屋の二階にある店でケーキと紅茶を頂く事があった。新入生の頃出席番号が近い北海道、山形、大分、福岡出身の友と四年間仲良く過ごした、初めはそれぞれ地方の方言で面喰い、赤い頬っぺの田舎少女も四年の歳月で都会の女子学生になっていた。「集まり散じて」の校歌の様に、卒業後、故郷に帰る日も迫ったある午後、ボストンに集まりケーキを食べてお別れ会をした。二十二歳の春、皆でこれからの人生の夢を語り合った。一人が「私達、今花が咲いたのよ、何の花かしら」「英子さんは百合よ」「久美さんは赤いばら」「寿子さんは、シクラメン」四人それぞれ花にたとえた。最後に「貴女はスイトピーが似合うわ」と言われた。野の花のようで嫌だと思ったものの、今になって思い出すと感慨深い。貧相だと感じたこの花が、春の訪れを知らせる大好きな花となった。赤い薔薇とたとえた友は、華やかさと鋭いとげを持った人になっているし、百合と言われた友は、谷間の百合の様に孤高で寂しげなシニアになった。私は、スイトピーの花の様に一本で生きられない。十本、それ以上の人々に支えてもらいながら日々生活している。
 これからも色々な個性の家族や友達と触れ合い、助け合いながら生きていきたい。この花の花言葉に「優しい思い出」と言う言葉がある。この花言葉の様な思い出を残せる人になれたらと願っている。


                                       


 



千枝ちゃん

横山 明美   2021年4月24日

 9人きょうだいの下から三番目という位置はなかなか微妙だ。母親二人は何人もの子を産みながら次々とこの世を去ってしまい、三人目、いかにもドラマの“継母”然とした人が来て千枝ちゃんのその後は雨が降ったり風が吹いたりしたのだ。家は病院だったので兄さん達はみな医者になり、姉さん達は年頃になると順に人の世話で縁づき出て行ったが、下の方に残っていた千枝ちゃんに里子の話が舞い込むと、継母はあっさり承諾して千枝ちゃんを雪深い山形の新庄に送り出した。やがて女学校に入るため返されたが、きょうだいたちに「お前どこの子だ?」とからかわれたらしい。千枝ちゃんは私の母である。継母からかばうように面倒見てくれた母方の伯母さんが情を込めて呼んだ呼び名であった。
 長男である伯父がある人物の主治医になるため上京したのを機に、地位や名誉に拘泥しなかった祖父は病院を人に譲り一家で東京日本橋に移った。その後千枝ちゃんも人の世話で父と所帯を持つことになり、次々と三人の娘ができたことはなんと幸運なことだ、とは親戚一同の感慨だった。父は破れ太鼓ではあったがおおらかで明るく、娘は次々母親の影武者になったり助言者になる。「私たちがお母さんを育てたのよ」と姉はよく言っていた。
 母は冬には炬燵に据えた器械で誰のものということもないセーターを編み、お茶もお花も習い、その上頂き物の礼状はきちんと書きたい、とペン習字も習っていた。どれも中途半端で終えたのを見ていたせいか、娘は誰もこれといった習い事をしなかった。やがて母の眼は草花に向き始めたので、まずは私が帰省のたびデパート屋上の園芸コーナーで小さなサボテンの鉢を買っていった。形を面白がって室内で喜んでいたが、庭にきれいな花を咲かせようかなと薔薇だの芍薬だのに入れ込むようになり、どこで知り合ったのか園芸仲間の小父さん小母さんが出入りするようになった。父はそんな母の交友を大いに喜んでいた。日々長女は母の厳しい指南役、次女は何かにつけ切って捨てるような批判と反抗の輩、顔つきも自信のなさも一番似ている私が母にはなんとなく気楽だったらしい。よく母から昔の話を聞かされたものだ。里子に出された話になると畳の縁をこするようにして「むこうは私を可愛がって手放したくなかったんだから」と言う。明るい話題をと思い「おばさん達みんな高女で一番だったんだってね。お母さんは?」とお茶をすすりながら聞くと口ごもって「えーと…3番くらいだったかな…」と歯切れが悪い。聞くべきじゃなかったと反省した。母が亡くなってしばらくしたころ、私は山形へ一人、旅に出た。新庄という街を一度見てみたかったのだ。新幹線も通り駅ビルは思いもよらぬ透明感のあるモダンなものだったが、資料館に立ち寄ると、当時の新庄はぬかるみだらけの寂しい街に思われた。何もない駅前に見つけた納豆専門店で何種類もの納豆をたくさん段ボールに詰めてもらい東京へ送った。
 高校の時盲腸で入院し学校を休んだことがある。はれて登校すると、街のお菓子屋からクラスに木箱に詰めた紅白の鳥の子餅が人数分届いた。みんなの「うわー」という嬌声に逃げ出したくなった。帰って母に詰め寄ると「治ってまた学校に行けたんだからよかったなあと思って」と平気な顔だった。 
 大学生になってからよく帰省したが、日曜の夕方ごはんもそこそこに東京へ戻ろうと玄関の三和土に立つと、母が「これ残さないで…栄養があるんだから」と味噌汁の椀をもって追いかけてきた。そのうえ「あら、そんな大きな白い球の首飾りしていたら夜目にも真珠と間違われて悪い人に狙われるでしょ」と。「だれがこんな練り玉の安物狙うのよ、いいかげんにしてっ!」・・・残りの味噌汁を流し込み、玄関と門を走り抜けて駅へ向かったことは今でも鮮やかに覚えている。電車の席におちつくと薄暗闇の窓に母そっくりの自分の顔が映っていた。
千枝ちゃんは継母にこんなに心配してもらったことがあっただろうか、たくさんのきょうだいの中で千枝ちゃんの力を何かしら必要としてくれた人はいただろうか・・・そんなふうに思うようになったのはずっと後になってからのことだ。
 継母が結婚のとき持たせてくれたという、そのころからすでに使い古しだったという箪笥が手元にあるが、ぎしぎしと開けると中から千枝ちゃんが「あら、まだこんな箪笥使ってるの」と少しうれしそうに言うような気がするのである。

 

                                       


 



天皇の季節

小林 康昭  210424

 僕にとって天皇とは、昭和の裕仁天皇です。始めて意識したのは5歳の夏でした。昭和20年8月。突然、父親が「内地に帰る。いそいで支度をしろ」とせきたてました。帰るという意味が分かりません。
 父の方針で、私たちはその土地の満洲人と分け隔てなく付き合っていました。一番の遊び友達の重(チー)ちゃん、要(ヨウ)ちゃんは満洲人でした。帰るところは、今住んでいるこの家だ。父に向って「なぜ、内地に帰るの?」と訊きました。父はしばらく考えて「内地には天子様がいらっしゃるから」と答えました。
 明治生まれの父は、天皇陛下ではなく天子様と言っていました。現人神を軽々と天皇陛下と言わないのですよ。偶々、しゃべっている中に「天皇陛下」が出てくると、途端に坐りなおして、襟を正していました。
 戦前に「天皇機関説」が政治問題化したのは命名が悪かったからでしょう。国家主権説、立憲元首説などと命名して「天皇」の表現を避ければ、国粋主義者の標的にされる恐れは少なかったのでは、と思いますね。
 内地に引き揚げてきたのは昭和21年の秋。翌年の昭和22年4月「明日は学校が休み」と言われました。天皇誕生日だから、と言うのです。暦の4月29日の29の上に赤い日の丸が重なっていました。「そうか、天皇陛下は旗日に生まれたのか」と言うと、「馬鹿だねぇ、お前は。天皇が生まれた日だから旗日になったんだよ」と嗤われて、しばらくの間、馬鹿にされるネタにされてしまいました。
 その天皇陛下が日本全国を巡りました。長野県にも、その地方の中心の町にやって来ました。父に連れられて出かけましたが、大人たちに遮られて天皇陛下の姿が見えない。父に抱え上げられて、大勢の頭の遥か彼方に立っていた小さな人影を見ました。容貌も定かには認められない天皇陛下の姿でした。
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 天皇が占領軍のマッカーサー司令官を訪れた際に「この戦争の責任は全て自分に責任がある」と言ったそうです。マッカーサーは回想記の中で「天皇は命乞いに来たのかと思っていたので、非常に驚き、感銘を受けた」と書いたそうです。このエピソードは、尾ひれがついて流布され、日本中に感動を与えました。でも、その時、マッカーサーは困ったのではないか? そもそも、戦争の責任をとらせて処罰するとも、その態度に感銘を受けたから放免するとも、マッカーサーは言えるわけがないのですよ。「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」の格言のようなこの捨て身の行為から、裕仁天皇は本能的に知恵を働かせるしたたかな人物だったのだろう、と想像しますね。
 天皇の存在意義(レゾンデートル)は、皇室の存続、皇族の健在です。皇室は存在してこそ、国家や国民の庇護が可能です。だから、国家や国民より自分の身が大事です。裕仁天皇は開戦を決定する御前会議で、明治天皇の御製「四方の海皆同胞と思う世になど波風の立ち騒ぐらん」と詠んで、反戦の意思を表明したと言われます。
 この時に、もっと具体的にはっきりと「戦争に負けたら、お前たちは生き残るだろうが、皇室と皇族はなくなってしまうのだ。日清戦争後の清王朝のように、日露戦争後のロマノフ家のように、普仏戦争後のナポレオン三世のように、第一次大戦後のウイルヘルム二世やハプスブルグ家のように。だから、天皇家や皇族の存続にかかわる戦争は反対だ」と告げるべきでした。当時の世相と国民感情では、誰も抗し得なかった筈です。
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 天皇の才知、才覚、見識を比較する慣習を日本人は持ちませんが、私は、裕仁天皇よりも明仁天皇が優れていると思います。明仁天皇は、自らの気持ちを直接、国民に訴えて、世論を動かし政府を動かしてその意を遂げ、退位しました。あの時の明仁天皇が採った行動は、憲法や法律に規定がない。だから、政治家も官僚も学者も、その扱いには苦慮した筈ですが、そもそも、天皇陛下を処罰する規定がないのですよ。天皇に違法を咎めることはあり得ない。だから天皇は違法を気にすることはないのですね。
 良いと信じたことは率直に行動に移したらよろしい。今の日本人は、天皇の言うことは必ず納得しますよ、間違いなく。世間も社会も政治もそのように動きます。皇室の存亡にかかわる局面で絶対的な説得力を欠いてしまった裕仁天皇の行動より、世間に説得力を与えることに成功した明仁天皇の行動が評価できる所以です。
*  *  *
 今の皇室を巡る最大の話題は、男系で皇位を継承する万世一系の皇統の維持です。女系の天皇でもよろしい、という主張もあります。これに反対する意見もあります。天皇の存在が、支持と不支持に割れます。その存在を支持しない国民が出てくると、今の日本人は必ず天皇の言うことを納得するとは断言できなくなります。つまり、全国民統合の象徴ではなくなります。こうした事態は、絶対に避けるべきです。
 それには、日本の天皇制の正当性の唯一つの根拠である男系による皇位継承を堅持することです。そうするには、過去に遡って皇位継承の資格がある男子を特定して皇族にすることです。皇位継承順位第2位の秋篠宮悠仁親王(2006年誕生)より年少で、出来れば学童期前の少年を成人するまで実の肉親が育てます。成人時点で実家と縁を切り、宮家を創設して皇族になります。諸外国の皇室や王室の実情は参考にせず、調べる必要もありません。
 皇族の婚姻には、もっと慎重であるべきです。皇太子や親王の伴侶は、多産系のいわゆる男腹の家系から選ぶべきです。その配慮に欠けていると思います。これは、所管する関係者の思慮が乏しいからだ、と思いますね。

                                       


 



梅の木と孫

古内 啓毅  2021・04・24

 先日、ふるさと宮城に電話した折、姪子が、今(15日)こちらはサクラが満開、素晴らしいよ、と昔愛でた懐かしいサクラの情景を思い出させてくれた。今年の東京は、観測史上最速の開花宣言となった昨年と並ぶスピード開花であったが、コロナ禍の外出控えでゆっくりお花見もままならぬうちに散ってしまった。今や葉桜の季節となりすっかり忘れていたが、縦長の日本列島を桜前線が北上しいまごろ東北、北海道にたどり着いている。有名な弘前市の弘前公園の2600本のサクラは18日~20日に満開を迎え、昨年は中止だったが今年は一年ぶりに昨日(23日)からサクラまつりが開幕されている。
 私は、東京のみならず転勤などで京都、大阪、九州など各地のサクラを鑑賞してきているが、ふるさとの小学校の校庭を囲むように植えられたサクラが一斉に咲き誇る姿が最も印象深く懐かしく想い出される。
 春4月、入学、入社など新たな人生をスタートさせる人たちの心弾む姿を咲き誇るサクラがにぎにぎしく後押ししてくれる。そんな中の一人に早いもので我が家の孫が加わり、小学校入学を迎えた。去年の秋口に、娘から、入学祝にランドセルを所望され、親子がデパートで予約し、今年になって納入、早速、背負った姿を写真に撮り送ってくれた。4月6日に無事入学式を終えランドセルを背に通学し始めている。まだひと月も経たないが、学校生活に戸惑いもあるようで、帰宅途中に転んで怪我をしたり、朝、出かける前に何度も吐くなどと体調不良を訴え、環境の変化に慣れるまで少々の時間がかかりそうだ。 
 先日の日曜日、私ども老夫婦の結婚57周年と孫の入学祝を兼ねて家族でホームパーテイを開いた。コロナ禍の緊急事態宣言で不要不急の外出、会食の抑制が要請されている中ではあったが、我が家で大人6人、孫一人の7人で手間暇のかからないささやかな手巻き寿司パーテイを楽しんだ。その席で小学校入学を記念して老夫婦が庭に穴を掘り梅の苗木を植樹したことを披露した。
 むかし我が家には、柿、びわ、栗、梅など実のなる木が植えられていたが、増改築等で庭が狭くなり残念ながらそれらの木は全て伐採してしまった。なかでも梅の木は毎年大きな実をつけ女房が梅干し作りに精を出していた。最初はうまくできなかったが年を重ねるうちにうまくなり、我が家の梅の木が無くなってからは南高梅を取り寄せ素晴らしい美味なる貴重な自然食品が完成するようになった。
 通販で取り寄せた梅の苗木は「豊後」という種類で、高さ70cmほどのひょろりとした頼りなげな姿であったが、このごろはいっぱい葉が出てきて勢いのある可愛い若武者といった風情だ。一人前の梅の木になると香しい美しい花が咲き「果重」は40~50gほどの大きな実をつけるといわれている。が、そこまで行くにはこれから先3年~4年はかかるとのこと。老いゆくばかりの老体には先が長く待ちどうしい。
 孫を梅の若木のそばに立たせ写真に収めた。これからの孫と梅の成長、3年先か4年先の最初の梅花、して梅の実の収穫。まずは早春の一日、春を感じ、初めての梅花を愛でながら孫の成長を祝い一献傾ける日を楽しみに元気に過ごしてまいりたい。
そして♪梅は 咲いたか 桜はまだかいな・・・♪などとたわむれに昔うなったことのある小唄なんぞをなぞって見るか・・・。


                                       


 



方向音痴

高橋 正英    2021.4.24

 お恥ずかしい話だが私は方向音痴だ。武蔵関の自宅から徒歩で20分ほどの南大泉の図書館へはよく行くのだがいまだに道順がおぼつかず、何度も迷ってしまう。夕方、あたりが薄暗くなり出すと周りには同じような住宅が軒を連ねているので、ほとんどお手上げ、なんど迷ったことか。 家内があきれて幾度となく手書きで地図を描いてもらっている始末。
 家内の書く手書きの地図は意外にも正確。というよりは、事細かく、ここにカーブミラーがある、この右に自販機がある、飛び出し注意の看板がある、などと書いてある。何十年も一緒に生活してきて、家内が特にIQが高いとはどう見ても思えないのだが。
 どうして、私は一向に方向感覚がつかめないのか。不思議に思い家内に聞いてみると、いわく、道の分かれるところでは後ろを振り返る、目印になる建物や景色を覚えておく、ということだ。私もそのように努めるのだが、さて目的地に着いて、別のことをしているうちに忘れてしまい、覚えたはずの景色などはかえって混乱の材料となり振り返れば右だか左だか、一層パニック的になってしまうのだ。やはり方向感覚は違った能力の問題なのでないかと思う。

 数十年前、私が就職して静岡県の浜松に赴任した時のことだ。
 地元の書店が刊行したハイキングの案内書を頼りに、職場の先輩と2人で、素人向きの山に気楽な気持ちで出かけた。10月下旬だった。高校時代、奥多摩の山々に友人とよく出かけた経験があったので、何ら不安もなく出かけた。頂上に到着し眼下の眺望を楽しんで、午後、下山を開始、ところが天候が急に変わりだし山頂から少し下り始めたあたりで、思いもかけず、ちらほらと雪が降ってきた。標高から言えば500メートル以下ではなかっただろうか。低い山とは言え気温が下がっていたこともあり、あたりは見る見るうちに一面雪に覆われてどこが下山道か、見分けがつかなくなってしまった。遠くを見れば下の里の明かりが見える。この位置ならば多少無理してでも低いほうへ歩を進めてゆけば何とか下山できるのではないか、私はそう判断してあやふやなまま降りるようにした。ところが、行けば行くほど藪は深くなり足がとられ進めなくなる。途中でその先輩が、ここはもう一度上の尾根までに戻るべきだと主張する。尾根からここまでは30分以上もかけて降りてきて足はつかれている、気持ちは焦る、もう一度引き返してあの尾根まで登るのかと思うと気が進まないが私のガイドが違っていたことを認めざるを得ず、先輩の意見に従い、また尾根まで戻ることにした。ようやく山里に降り立ったのはもうあたりが薄暗くなった頃であった。
 奥多摩の山には、東京から多くのハイカーが出かけてゆくこともあり、途中でほかの登山者とも会うことがある、道の標識がしっかりできている。ところが地方都市では低山であっても、一旦、山に入れば人に会うことがない。標識など必要ないのである。さらに後で確認したが地元書店の発刊した案内書の地図に少し書き違いがあったのだ。自分は方向感覚がない、ましてや山道のガイドなぞには全く向いていないことを悟った。

 人間より下等と目されている生き物、蝶やアリ、渡り鳥の帰巣本能は大したもの、中でも鳩の帰巣本能は有史以来から知られている。私の小学校のころまでは新聞社の屋上で鳩を飼っていて、記者が被災地などに鳩を携えて取材に出かけ原稿を鳩に託して本社へ届け現地の様子を記事にしていた、という。電信器機の発達で、今ではもう過去のこととなってしまった。旧約聖書にノアの箱舟の話がある。大洪水で辛くも箱舟で助かったノアや諸動物、洪水の水が減り始めたので鳩を飛ばすと、鳩はノアの意をよく体して、けなげにも陸地を探しあて持ち前の帰巣本能を発揮してオリーブの枝をくわえて戻ってきた、というのだ。

 常々、気になっていたので、この方向音痴についての記事がないものかと、ネットで調べてみると、かなりの人が、この「音痴」という困り者に対して、上から目線で寄稿している。その中で私にぴったりと合う記事があり、それは、方向音痴の人に共通する性格、というものだ。
 一、頑固で思い込みが激しい、 二、意外に生真面目、 三、そもそも自分で道を覚えようとしない、 四、何事にも疑い深い、 五、せっかち、等、、。
 思えば、私は、父親から、人の意見をまともに聞かない態度、整理が下手など、いつも叱られていたことを思い出す。子供のころから方向音痴の基礎があったのかもしれない。この齢になってまだ基本的にはこれらの悪癖は変わっていないのだが、退職して自由の身になっている今、また努力して正そうとする必要はもうないだろう。
了 

                                       


 



夢からさめたら

照山 忠利  2021・4・24

 今、日経夕刊の連載小説「ワンダーランド急行」が面白い。主人公は中堅管理職の会社員野崎。ある日通勤の駅で上りか下りか先に来た方の電車に乗ることを試みる。上りに乗れば普通通り会社へ出勤する。下りに乗れば会社をさぼってのんびりするつもり。こうした気分になったのは日頃の仕事疲れに加え、コロナ疲れもあったから。
 この書き出しをみて、はて前にも同じような文章を読んだようだという気がした。たどってみると、何とわがエッセイ同好会のTさんが2年前の2月の例会で発表した作品に同様の表現があるのを発見した。Tさんはかかりつけの医院で定期健診を終えた後、上りか下りか先に来た電車に乗ることにし、先に来た下り電車に乗った。会社へ戻らずに背広革靴のまま高尾山に登り、下山後ふもとの茶屋で熱燗2本で疲れを癒し帰宅したとのことだった。
 新聞小説の主人公も先に来た下りに乗ってぼんやりしながら終点まで行き、まず会社に仮病で休む電話をかける。それから近くの低い山に分け入り、森の洞穴のようなところをくぐってみた。それが実は異次元世界への入口であったらしい。会社に行かず下り電車に乗ってついた駅から山に登ったところまではTさんと同じだが、Tさんが何事もなく帰宅したのに対し、野崎は山から下りて日常の生活に戻ったつもりだったがその世界はまるで違うものだった。翌日会社に出勤しても自分の会社がどこにあるのかわからない。ようやくたどり着いた会社では職場のメンバーは変わらないがいつのまにか見知らぬ新人がいる。用件で東京スカイツリーを目指してみればそのようなものはなく、代わりに大きな牛頭天王のモニュメントがそびえ立ち人々を引き寄せている。昨日まで使っていたスマホは通用しない。スーパーの肉売り場では牛肉を売っていない。世界中の牛が絶滅して牛肉は存在せず、羊肉が主流となっている。コロナ禍の中で誰もがマスクをつけていたはずだが、マスクをしている人はいない。何より妻の様子が違う。容姿は変わらないが笑った時の口元にとがったようなゆがみが出ている。
 「これは違う世界だ!」と気づいて、どうしたら元の世界に戻れるかを思案することになる。この連載は現在進行形なのでこれから先どう展開するのかわからない。単なる夢物語で終わるとは思えないので作者の荻原浩がどんな結末にみちびくのか楽しみなところだ。もしかしてTさんが「荻原浩」を名乗って書いているとしたらどうかと疑ってみたが、どうもそうではなさそうである。

 同じ新聞の文化欄に作家の久間十義が「みんな夢の中」という短文を書いている。今世の中で起こっている様々な出来事にどうも妙な違和感があるというのだ。新型コロナの問題にしても欧米など他国に比べて日本における被害は極端に小さいらしいが、この1年余りずっとパニック状態にある気がするのはなぜなのか。コロナ禍の中で昨年、欧米では死亡者が平年を上回る「超過死亡」が生じたが、日本は11年ぶりに減少し前年より1万人近く減ったのだとか。喜ばしいことではあるが狐につままれたような感じがするというのだ。なんだかおかしいと思うがどこがおかしいのかさっぱりわからない。やはり自分は、いやみんなが夢の中にいるのではないか?未来がどうなるかわからないが、今の夢の中にいるままの未来と、そこから覚醒する未来と2つがあると空想することは出来る。
 「ワンダーランド急行」がもしこのテーマに沿った答えを出すとしたらコロナ後の覚醒した未来になるのではないかとひそかに期待している。
(了)

                                       


 



この先に見えるもの

照山 忠利  2021・2・13

 年明け早々会社のO先輩が亡くなった。若いころから労務のエース格で将来を嘱望され、社長就任が順当とみられていた人だが、残念ながら副社長どまり。業績不振の建設子会社の社長で現役を終えた。宇都宮出身で亡くなるまで酒と煙草を嗜みどこも悪いところはないように見えた。小生も労務の後輩として多くの因縁があり、特に隣県の誼というわけで「おう、おめえの茨城県は民度が低いからな。だいたい音符も読めねえだろう」などと栃木弁でよく揶揄されていた。最後は会社のOB会の会長を務め小生はその幹事役でお仕えしたが、コロナ禍のため春と秋の会合が出来ずじまいでいるうちに、突然の悲報となってしまった。89歳の生涯は年に不足はないかもしれぬがあまりのあっけなさに呆然となった。せめてもう少し謦咳に接することが出来なかったかと悔やまれてならない。
 何より残念だったのはコロナに阻まれて葬儀に参列しお別れをすることが出来なかったことだ。大人物が逝去されたのに見送ったのは近親者のみ。最近の葬儀は家族葬など簡素化が進んでいたところにコロナでさらに小規模化に拍車がかかった感がある。葬儀のこの流れは戻ることはないかもしれない。
 コロナの猖獗で大きな被害を被った業界は多い。なじみの西武鉄道は乗客減で今期630億円の最終赤字と報じられている。飲食業や観光業、宿泊業、航空業界なども死活問題に直面している。一方、巣籠もり需要を的確にとらえてウーバーイーツなどの出前専門業者が出現したり、新たな業態が生まれたりしている。ポストコロナの風景は以前とはかなり違ったものになるだろう。今苦境にある業界が、コロナが収束しても元に戻れるかは疑問だ。鉄道会社に以前と同じ乗客が戻ってくるだろうか。満員電車で出勤し全員が顔をそろえて執務し、終業後に居酒屋で一杯などというルーティーンはなくなってしまうかもしれない。学校教育のあり方もIT機器を駆使した形になるに違いない。コロナ後の世界をどう想像するのか、その環境変化にうまく適応できるかどうかが勝敗の帰趨を決することになる。
 考えてみればヤマト運輸に始まる宅配便は小倉昌男という先見性に富んだ経営者が切り開いた新業態だが、元はといえば運送業という伝統的な業界から派生したものだ。今は社会に不可欠のインフラとなっている。コンビニしかり、ユニクロしかり、家電量販しかりである。いかに時代のニーズを的確につかむか、いかに時代にあった新たなサービスで需要を作り出せるかが決め手となる。生き残れるのは強いものではなく変化に適応できるものだというダーウィン的教訓はいつの世にも生きている。今回コロナ禍ということさら激しい環境変化が起こったがゆえに今経済社会全体がシャッフルされている過程にある。
 それにしてもコロナなかりせば本当はできたこと、やりたかったことは山ほどある。時至れば九州特に長崎のゆかりの人達が存命中にぜひとも会っておきたい。また親しい人々とマスクを外して心おきなく盃を交わしたいと首を長くしている昨今である。
(了)

                                       


 



中国での麻雀の話

高橋 正英    2021年2月16日

 私の大学時代(昭和40年代の初め)は、仲間の間で相当麻雀が流行っていたようであるが、私は興味がなかったし、覚えようともしなかった。
 ところが、就職して会社に入り、支店に配属されると、そこでの男性社員はほとんど全員が麻雀をやる。顧客のほうも、麻雀のできる社員を担当によこしてくれとまで要望されていた。仕方なく、私も仲間に入れてもらいルールを覚えるようにした。ある程度覚えるまでには時間もかかり、それまでの間は,ずいぶん負けて授業料を払うこととなった。
その後、中国での営業担当となったら、これまで支払った授業料が、無駄ではなかった、と思うことが多々あった。
 思い出すのは、中国長春の楽器店を訪問した時だ。昼間は商売の話をして、夜は、中国式の接待となり、悪名高いアルコール分の強い“白酒”(パイチュウ)で、乾杯!、乾杯!と言い合って飲まされる。ようやく食事会も終わり私は一人でホテルに戻って一息ついていたら、またその楽器店の若い連中が連れだって私の部屋へやってきた。彼らが言うには、日本からの遠来の客を早々に放ってはおけない、何かご接待したいというのだ。あれだけきつい酒を飲んだし早く寝たいところだが、どうやら連中は会社からある程度の接待費の許可を得てきているようだ。”軽くまたお酒でも”、と言われたが断った。”では、ダンスはどうだ”、という。もとよりダンスなどはしたこともないしこれも断った。ならば”麻雀は”、としつこく言う。まだ時間もそんなに遅くはないし、わたしも麻雀なら一応の心得があると思い、付き合うこととした。
さて、当然ながら、中国式のルールで始まった。日本の一般的なリーチ麻雀ではない、一番戸惑ったのは、各人が捨てる牌を、我々は卓上にきれいに並べるのだが、彼らは一向にお構いなしで、ポンポンと卓の中心に投げだす、卓の真ん中は皆の捨て牌でぐちゃぐちゃ。日本ではほかの参加者の捨て牌で相手の手を読むのであるが、全く関係なしのようで、基本的には喰いタンも、後付けもある、何でもありであった。要は、安くても高くても早く上がったほうが勝ち。振り込んだ者は即その場で現金決済。
 始めのうちはこのルールに当惑してだいぶ負けていたが、夜も更けだすとようやく慣れてきて、相手が顧客であろうと容赦しないぞ、と思い出した。
 ここで一つ、重要なことがあった。当時は私のような外国人が中国国内で使える紙幣は外貨(ドル等)に裏付けされた、兌換券という紙幣であり、一般中国人が使う人民元とは貨幣単位は同じ名称の”元”でも違う紙幣であった。つまり、当時は国内に2つの通貨が流通していたことになる。外貨兌換券は輸入品や高級品が買えるが普通の人民元紙幣では買えない。そのため、市場では兌換券のほうが、人民元より、1.5倍から1.8倍の価値があった。だから私が振り込めば兌換券で払い、勝ったときは人民元が入ってくる。彼らにしてみると兌換券が欲しいに決まっている。気が付くと彼らはゲームの中で私を狙い撃ちにしているような気がし出した。そうなれば私も本腰を入れて打つ。終わってみれば私の勝ちで紙質の劣る人民元がポケットに沢山入っていた。なお、兌換券は1994年で廃止となる。
 中国人も日本人に負けず劣らずギャンブル好きのようだ。以前、中国各地の地場の工場へ電子楽器の部品を売り歩いていた時、何度も工場の視察をした。かなりの規模の工場内にでも、”反賭博キャンペーン”の横断幕がかかっていたのを思い出す。それほど流行っていて、社会問題化されたこともあったようだ。結婚式の招待客で、式が始まっても後ろのほうで麻雀に興じていたこともあった。
 今でも社員旅行などへ出かけても、彼らは暇さえあれば麻雀かポーカーをやる。また、市内の団地の中庭などでは退職した老人たちが青空の下で麻雀を打っている光景は珍しいことではない。昨年、中国全土でコロナが蔓延していた時、TVニュースで官憲が麻雀荘を急襲して、これ見よがしに大きなナタで麻雀卓を破壊している画像が流れていた。中国得意の政府宣伝ビデオのやらせであるのであろうが、まだ感染が完全に収まっていない中国で、三密の典型的な麻雀やポーカーは、それでも見えないところ、津々浦々で楽しまれているはずだ。 
了 

                                       


 



天皇の季節

小林 康昭  20210213

 2月23日は、今上陛下の浩宮徳仁親王が誕生した日です。1960(昭和35)年のその頃、大学2年の春休みの最中で、地下鉄日比谷線の建設現場で実習をしていました。明け方から始めていた測量作業を中断して昼食のために現場事務所に戻ると、食堂のテレビが誕生のニュースを流していました。映像には、号外を配っている街の風景が映っていました。
*  *  *
 和英辞典には天皇はemperorとあります。そのemperorは和英辞典には皇帝、天皇とあります。日本以外のemperorは皇帝です。この皇と帝の文字が持つ意味を、私なりに解釈してみます。皇には法皇などと使われるように、宗教的権威を感じます。帝にはピヨトル大帝などと形容されるように、政治的権力を感じます。天皇は帝ではなく、皇である。つまり、天皇は宗教的な祀りごとを司る存在である、と考えることが出来ると思います。祀っている天皇家のご先祖様に、民人の幸せを祈ること。明仁天皇がひたすら民人の不幸を憂い幸せを願っていた姿は、まさにその顕われでしょう。
*  *  *
 皇室や王室は、敗戦で廃絶するのが歴史の倣いです。アメリカの判断は、天皇制を残して利用はするが支持はしない。いずれは衰微しても良い、と裕仁天皇の弟宮家以外の宮家を廃しました。その結果、万世一系の男系天皇の将来が危機に陥っています。日本がアメリカの占領から解放された際に、宮家を復帰させなかったことは大失態でした。この危機を脱しようとするならば、天皇のDNAを持つ男児を親王に取り立てて宮家を創設すべきです。ですが、年長者を皇族に取り立てることは、国民には感情的な違和感があるでしょう。相応しい候補者は学童期まえの児童や幼児でしょう。成人するまでは肉親のもとで育てられて、成人後に然るべき国家的な祭礼でけじめをつけたらよいと思います。
*  *  *
 そもそも、天皇は存在しなくても国や国民が困るものではありません。だから、存在するからには存在価値が必要です。その価値は千有余年にわたる万世一系の男系です。この世界唯一の絶滅貴種は、存在することだけに存在の価値がある、ということです。それが失われたら価値はありません。それ故に、女系天皇の選択肢はありません。男系への拘りは時代の流れに反するとの意見があります。だが、時代の流れの視点に立てば皇室は消えてなくなっていくのが歴史の倣いです。天皇制に時代の流れを持ち込んではなりません。天皇制の維持には相応の配慮があるべきですが、美智子妃より後の皇族の結婚には軽率さが感じられます。それに、昨今の皇族露悪の風潮は常軌を脱しています。今ほど皇族を露出させた時代はありません。皇族を売り物にするメディアは害悪です。天皇制は存在感の希薄さが望ましいのです。


                                       


 



空の道

鳥谷 靖子  令和三年 二月十四日 

 立春も過ぎ、まだ肌寒い日々、毎朝七時過ぎると遠方から飛行機のエンジンの音が数十分置きに聞こえてくる。飛行機の爆音だ。丁度起床するつもりの時間、目覚ましになると、初めは思っていた。規則正しく暮らし、午前中は食事や家事で忙しい。だが、午後になりゆっくりと読書や、音楽を聴こうと暖かい二階の寝室のある南と西に窓のある自室に行くと、朝気にならなかった飛行機の音がやたらと感に触ってイライラしてくる。時、外出がままならないコロナ禍の巣篭り生活真最中。
 遠くに模型飛行機の様に見える飛行機をハエたたきで叩けたら爽快なのになどと考える。
 五十年以上前建てられた木造の家に、防音の壁などあるはずもない。仕方がないと日当たりが悪い一階のリビングのソファーに座ると、素敵な記憶が蘇える。
 十数年前、十月仲良しの友とべトナム旅行を計画。成田空港の出発ロビーで今か、今かと出発を待っていた。東京の家を出かける際、台風が来ているのは知っていたが、天気は悪くなかった。急遽搭乗直前、台風の為飛行機は欠航になり、空港の床で一晩過ごしなさいと渡された毛布一枚。初老のおばさん二人愕然としたが、携帯で息子と連絡、彼の助けでやっと夜十二時に近くのホテルに宿泊する。
 翌朝は台風一過の目の覚めるような晴天。成田空港から無事離陸する。暫くすると窓から遠くの眼下に東京タワーや新宿の高層ビル群が見えてくる。間もなく「あれ谷原のガスタンクじゃない?」友、「光が丘の団地の高層ビルと、光が丘公園横のごみ焼却場の煙突も見えるわ」と私。二人で喜び合う。ベトナムに着くと、薄澱んだメコン川クルーズやベトコンの直径五十センチ位の穴トンネルに案内される。友は気分が悪くなってしまう。あの旅での記憶は、窓から見下ろせた我が街の鮮明な景色だった。
 あの時の様に、現在上空を飛行している飛行機からも東京の街が見下ろせることだろう。
 いつの頃だったか、お嫁にいったら旅行も難しくなると、二十代後半に差し掛かった娘と英国旅行に出かける。少女時代に繰り返し読んだ「嵐が丘」や「ジエーン・エア」で、想像していた荒れ地の丘を覆う赤紫のヒースの花に出会えた時の喜び。娘とエジンバラ城周辺の風情溢れる街並みを散策し、生牡蠣を食べたレストラン。
 息子が赴任したインドネシアのバリ島のクチの海岸で一人眺めた、紅に沈む夕陽。こんな素敵な経験を可能にしてくれたのも、飛行機での空の道があるからだとわかっては、いる。
 コロナ禍が終息すれば空路を使うと、世界のまだ見知らぬ国々も体力さえあれば訪れる事が出来るようになるだろう。今や航空機は欠かせない交通手段になっている。しかし、文明の利器に付随して起こる思いがけない不利益もあるのだ。
 毎日練馬上空を西側と東側に空路が出来、飛行機は両方向から羽田空港を目指して飛んでいる。あの鬱陶しい飛行機の騒音がなくなる時代が、文明が進歩してきたように訪れる日は来るのだろうか。静かな東京の空を恋しく思う。


                                       


 



終活―エンデイングノート

古内 啓毅  2021・02・13 

 先月19日午前、外出から戻って一息入れていたら、保谷に住む姉から電話があり、今朝、パパが死んだ、との知らせ。義兄はがんの終末期にあり、自宅で療養していたが、こんなに早く亡くなるとは予想しておらず、すぐさま駆け付けた。夕べまで話をしていたが、朝方眠るようにして息を引き取ったとのこと。コロナ禍でもあり、関係者への告知は後日行うことにし、葬儀は家族のみで営むことになった。
 2月4日、勤務していた会社から、同期入社の仲間が、1月24日に死亡、通夜、葬儀はすべて執り行い済み、との連絡があった。年明けて身近な人の死が続き、老いや死がわが身に一層切実な問いとして迫ってくるようでこれまで以上に真剣に向き合わなければならないと感じている。
 私はこの1月に81歳になった。最新の平均余命の調査によると私の年齢の余命はおよそ9年となっている。我が国の平均寿命は毎年更新され、いまや人生100年時代到来といわれる。データを見ると確かに100歳の人口は着実に増えてきている。しかし当方100歳まで頑張ろうなどとても無理な話で、考えてもいないが、せめて余命の90歳まではなんとか元気に過ごせないものかと考える。だがそれまでどう過ごすか。
 「終活」という言葉がある。人生の終わりについて考える活動を略した造語で、死と向き合い、最後まで自分らしい人生を送るための準備を行うこと、と説明されている。その終活の一環としてこれまでの人生を振り返り、残される家族にかかる負担を減らすことを目的に、エンデイングノートの作成が推奨されている。
 先日テレビを見ていたら、出演者が、父親が亡くなった時、父親が残していたエンデイングノートの葬儀の項に、葬儀のやり方、飾るお花のこと、流す音楽のことなどことこまかく書いてあり、それに従って葬儀はすべてスムーズに執り行うことができて大変に助かった、と話していた。
 エンデイングノートを作成する場合、どんなことを整理して書き留めておくべきか。
 まずは、本人が亡くなった場合、葬儀をどうするか。費用はどの程度か。いつ、どこに、誰に知らせるか。家族が困らないように、本人との関係がわかるような名簿を整備しておきたい。
 会社の先輩は、家族に、ひっそり去って行きたいので、わしが死んだら1週間は伏せておいて、その間に葬儀等を済ませておくようにと伝えているとのこと。一つの考えだ。
 本人の預貯金通帳情報、クレジットカード情報、各種加入保険の内容等も整理してわかるようにしておきたい。
 妻は専業主婦で、本人が死んだ場合遺族年金を受け取ることになるが、その手続き、遺族年金額、その後の生活設計などについても早めに調べて妻と話をしておこう。
 その他にもさまざまな項目が考えられるが、残される家族の負担が軽減されるという視点に立ってエンデイングノートを作成しておきたい。そして卒寿、90歳を無事に迎えたい。


                                       


 



コロナ禍 些細な出会い

谷川 亘    2021年2月13日

 三寒四温。つい先だってポカ陽気に誘われ、久方ぶりに浮かれた気分で“よた歩き”。「小金井公園」まで足伸ばしたのですが、なんと、梅花が二~三分咲きではないですか・・・。一方で、停滞一年越し。相も変わらずコロナ禍に痛めつけられっぱなしですね。
 姿、形さえ見せぬ顕微鏡の世界の敵におびえて、自粛、自粛の天命に素直に従って考えあぐねた挙句、やっとこさ気づいたのが「武蔵関公園」の一万歩与太歩き。
憂さ晴らしと健康維持の積りで始めたのが、神社参り付き公園までの往復と、一周1.2㎞の池端を4周しての11,000歩だったのです。
 去年の4月からですので、指折り数えて千周り以上。最初は歩幅何センチで一周何分なんて、挑戦意欲を盛り上げてわが身を鼓舞することもあったし、池越しの止まり木に一日に一回来るか来ないかを賭けるカワセミの飛来をじっと待ちこがれるプロはだしの超望遠レンズ群。誘われることなしに遠慮し~し加わってみた。彼らの言う通りに毎日一度っ切りのご来駕と言うほどではなかったが、歌の文句じゃないけれど「わたし、待つわ、いつまでも待つわ たとえあなたが振り向いてくれなくても・・・」。これは“あみん”の歌った歌なのですが覚えていらっしゃいますか?
 そんな、カワセミなんて握りこぶし程の翡翠(ヒスイ)引き付けられてじっと待つ。80年生き長らえて、指先にさえ飛来するほどの“小鳥に恋をする”なんて初体験でした。

 よたっていると目が合い、挨拶も交わしはするのですが、「ところもし~らず 名も知らず 奇妙な女に惚れられた・・・・・」。なんてニキビ時代に歌った歌詞思い出しませんか?よた仲間なんて、身元不詳、同じ“与太る仲間”。それだけで適格なのです。
 卒寿迎えた、見るからに痩身の限りを尽くしたような、よたジッツアマは厳冬期だから来ないのかもしれないけれど、ひょっとして・・・。
 天つく大男、出はフランスと聞いたが、でっかい声出して「おはよう」と奇妙なアクセントで叫ぶものの、生まれ育ちや身の程を含めそれ以上は互いに詳細不明・・・。
 いまだにニコン、フィルムカメラ愛用の、旧時代生き写しの粋筋な棟梁。現役の盛りは意気揚々としてたんだろうね・・・。
 生い立ちはもちろん、ご近所さんなのに名前も住所もわからない。
 それでよい。みんながみんな。時間限定、早起きの仲間同士なのだ。


                                       


 



歌の情景

加藤 厚夫  2021.2.13 

 30代で広島支店に飛ばされたのを皮切りに、信州長野販社、仙台支店へと移った。一旦は東京に戻るもすぐ大宮支店に3年、その後九州支社3年大阪支社4年と通算15年もの間、地方に置かせて頂いた。おかげで47都道府県は無論のこと、ほとんどの都市や島を見つくした。そうなると定年後立派な観光パンフレットをいくら眺めても行きたいところが見当たらず困ってしまった。いっぽう被災地のニュースの町名などを聞くとすぐ「そうかあそこもやられてしまったのか」と思い出され無念に思うことしばしばだ。
 歌謡曲の地名を聞くと同様ですぐ目に浮かぶ。森進一の港町ブルース「みぃ~なとぉ~、宮古・釜石・気仙沼」では、あの侘しい港の風情が思い出され、出張帰りに必ず市場に立ち寄り魚を買って帰ったものだ。ブルース曲には夜の街が登場する。当時よく飲み歩いた宗右衛門町ブルース、中の島ブルース、思案橋ブルース、加茂川ブルースを歌い終わると、今あの店はどうなっているだろうかと懐かしくも気にかかる。
・五木ひろしの「千曲川」の「暮れ行く岸に里の灯ともる~、信濃の旅よ~」は、売上
ノルマがきつかった長野販社時代、上田から千曲川沿いに長野市に戻るときはいつもこの情景であった。
・一方題名や歌詞の中に具体的な地名が無い歌も多く、てっきり東北の歌と思い込んでいた千昌夫の「北国の春」が4年間住んだ信州だと聞き嬉しかった。
 地名が全く出てこないのが松田聖子の歌で、唯一「赤いスイトピー」がここだと確信したのが阿蘇高原線の波野駅のホームでである。歌詞にある「線路の脇のつぼみは赤いスイトピー」と全く同じ風景を発見したのだ。
・信州が舞台の股旅もの木曽節三度笠、佐久の鯉太郎、沓掛時次郎は橋幸夫だ。「浅間あ~三筋の煙の下にゃあ 生まれ故郷があるってゆうに」と歌われている旧沓掛駅を右に見て、毎月一回は自宅に戻ったものだ。今は中軽井沢駅と味気のない駅名に変わっている。
・大阪時代、四国の客先回りには鳴門大橋を渡る。昼どきに高松の元祖釜揚げうどんをすすり、徳島、高知を回りひとり今治駅で降ろしてもらった。高架上のホームからは瀬戸内海が眺められ、上りの列車が近づくと駅メロ「瀬戸の花嫁」が聞こえてきた。なんとこの瀬戸内海の情景そのものではないかと聞きホレてしまった。仙台駅ではさとう宗幸の「青葉城恋唄」がかかると当時の思い出が蘇るが、ハウンドドッグのフォルテッシモがかかるのには驚いた。調べたら大友康平ら東北学院大メンバーのグループ曲だからだという。  
・山本コータローの「岬めぐり」が京急三崎口の駅メロになっている。三崎市民も勝手にここの歌だと思い込んでいるらしいが「三崎めぐり」ではないしどうも違う気がする。この曲は恋人と岬めぐりを約束したがかなわず、一人で訪れたときの失恋の歌で情景から丹後半島であろう。なぜなら丹後半島を巡ったあと、50にして彼女にふられた時の自分の心境を歌いあげているからだ。以上の曲は全て自分の十八番で、このコロナ禍アクリル板に囲まれたカラオケバーで歌うと当時辛かったことも楽しい思い出としてよみがえって来る。


                                       


 



教室点描-山田太一さんのドラマのシナリオをお借りして

富塚 昇   2021年2月13日

 「教育学部の出身の有名人といえば誰だろう」。今から40年以上前、教育学部の学生時代に友人とそんな話をした時に名前があがったのが寺山修司さんと山田太一さんでした。     寺山修司さんは歌人そして劇作家として、山田太一さんは「岸辺のアルバム」などの話題作を書いたシナリオライターとして活躍されていました。お二人は国語国文学科の同級生ということです。
 私が都立高校の教員になって最初に勤めた下町の工業高校で、やんちゃな生徒を相手に悪戦苦闘している時、山田太一さんの脚本で「なつかしい春が来た」というドラマが放送されました。その中で、脇役ででていたハナ肇さんに次のようなセリフがあったことを覚えています。
 「近頃のインテリは傲慢で何でも知っている気になっている。もっと謙虚にならなければいけない。自分が無知であることを知らなければならない」。
 私は思いました。「教科書を教えるよりも、このセリフを使えないだろうか」。ソクラテスの「無知の知」を取り上げるところで、私は思いきってビデオに録画したドラマをそのまま生徒にみせました。そして、私は「無知」を知ることはなぜ大切なのだろうかという問いかけをしました。生徒の回答は予想以上のものでした。教材と「問い」の大切さをあらためて気づかせてくれました。山田太一さんのドラマのセリフ利用させてもらうこときっかけとして、その後の私の授業は大きく変わったように思います。
 さて、先日、都立高校の推薦入試が行われました。推薦入試では「作文」の試験が課されます。問題は各校で作るのですが、私も作問委員のひとりになりました。「作文」の問題は入学を希望する受験生に、学校がどのような生徒を求めているかを伝えるメッセージとなります。責任重大です。私は山田太一さんの作品の「早春スケッチブック」のセリフを利用することを思いつきました。それは1983年の作品ですが、私はこのドラマに感動し、新潮文庫から出版されたドラマの脚本をもっていたのです。ドラマの中で次の会話が交わされます。会話の竜彦は40代の男性、ドラマでは山崎努さんが演じていました。良子は女子中学生です(平成4年2月25日に発行された新潮文庫の『早春スケッチブック』より引用させていただきます)。

 竜彦 「勿論だよ。何か好きなものがあるということは素晴らしいことなんだ。」
 良子 「ロックとマンガでも」
 竜彦 「そうさ。なんだっていいんだ。何かを好きになって、細かな味も分かってくるということは、とても大切なことなんだ。そういうことが魂を細やかにするんだ。マンガでもロックでも、深く好きになれる人は他のものも深く好きになれる」(中略)
 竜彦 「マンガが好きならマンガでもいい。ただ、気持ちのままに読み散らかしていけない。細かな魅力を分かろうとしなければいけない。すると、誰のがチャチで、誰のがいい味だというようなことが分かっている。もっと深い味がほしくなる。もっと複雑な魅力がほしくなる。それはもうマンガでは駄目だということになったら、他のものを求めればいい。その分、君の心は豊かになっている」

 そして私は受験生に向けて次のような「問い」を立てました。
 「この会話を読んで『心の豊かさとは何か』というテーマで、600字以内であなたが思うことを述べて下さい。その際、あなたの経験を踏まえて書いて下さい」。
 試験が終わると何人かの先生から「いい問題ですね」、「問題文を読んで感動しました」と言っていただきました。「私もこの問題で作文を書きたくなりました」とおっしゃる先生もいました。そのように言ってもらえたのは、いうまでもありませんが山田太一さんのシナリオが素晴らしいからです。そして、大先輩のおかげで私の学校内での株も上がったのでした(たぶんですが)。
 

                                       


 



四季の記憶72「青春のキャンパス」

鈴木 奎三郎   2021・2・3

 今日は立春。きりっとして穏やかで二十四節季のなかでもぼくの最も好きな季語である。日差しも日ごとに強くなり、“畳の目ひとつずつ”日が長くなってくる。庭先の沈丁花のつぼみも膨らみを増している。やれやれなんとか今年も生き延びたか・・という感慨?が湧いてくる。
ちょうど60年前の2月、受験のために上京した。もちろん、新幹線も特急もないころの時代で、長野~上野間は準急で7時間弱。昔の信越線である。今は十分日帰りが可能だが、18歳の少年にとっては未知の世界への挑戦であった。小諸の先の碓井峠は、二重連結の機関車がスイッチバックしながら引っ張る急勾配で知られていた。窓を開けているといがら混じりの黒煙が容赦なく入ってくる。楽しみは碓井峠を超えた横川の釜めしである。今でもたまに食べたくなって、東京駅の駅弁売り場に立ち寄ることがある。

 受験は早慶の4学部にチャレンジした。浪人はなんとしても避けたいと高3の夏からは人並みに頑張った。結果2勝2敗で目指していた学部に滑り込むことができた。早稲田は父も兄もOBで、4代目総長で財政学者の田中穂積先生は父方の大叔父にあたる。長野市の郊外、岡田のご出身である。先生の銅像は大隈庭園のなかにあり、大学に行く機会があるときはご挨拶に伺う。
 入学した商学部は、大隈重信像に向かって右手後ろにあり、確か5階建て?であった。1Fには新入生向けに、サークル勧誘のポスターやビラがべたべたと貼ってある。入学式のときにたまたまその中の一枚に目が留まった。「証券学会」という張り紙だ。B1にある狭い部室にいくと、何人かがタバコを吸ってだべっている。

 別に証券業界や株式市場に興味があったわけではない。なんで入る気になったのかいまだにその動機は不明だが、ここでのメンバーとの出会いが就職も、大げさに言えば人生までも決めてしまったのだから、運命はわからない。
出身の県立・長野高校からは20人ほどがワセダに進んでいて、しばらくはこの仲間との付き合いが中心だったが、新しい出会いの場を求めたひとつが証券学会だったのであろう。入部はしたものの特に証券や株式のことには興味がなく極めて不熱心な会員だった。同時に入部した10名ほどの仲間は、学会のことよりマージャン、ダンス、アルバイト、ガールハントに精を出し青春を謳歌していた。4年生になって仕方なくやりだした就活も、強力なコネもあり、大手広告会社と軽量鉄骨で急成長していた会社に早々と内定をもらった。卒業までは思う存分遊んでやろう・・と思っていたところ、同期生から一緒に資生堂を受けないかと誘われた。就職部に訊いてみると、まだ推薦枠はあるという。
 そうか、あの銀座の資生堂か・・とにわかに期待と関心が高まった。就職部からは厳しく叱られたが2社はお断りした。面接も無事通過し、最初の配属は日暮里にあった販売会社。セールスマンとして足立区、上野、浅草などの契約店を廻った。学生時代に買ってもらったスポーツカーで通勤するなど、ほとんど学生時代の延長戦の気分で、かなりいい加減なサラリーマンだった。ここに4年いて本社に転勤した。転勤の多い会社だったが、定年まで本社を離れることはなく以来40年を銀座に通った。
 
現役で忙しかった50歳後期、大学から指名されて校友会の幹事と「早稲田学報」の編集委員を委嘱された。この忙しいのに困ったなと思ったが、指名がなければできることではなく、名誉なことではないかと思い直した。毎月一回夜、校友会館で行われる編集委員会には、やり繰りして出席するようにした。当時の編集長・大島慎子さんと「学報」のリニュ=アルに取り組んだ。隔月間にしてカラーA4版のいまのスタイルである。
 ぼくの青春の1ページであるワセダ。あの頃を思い出すと、何か胸が熱くなる。郷愁、惜別、悔恨・・いろいろな思いが去来する。これを春の憂鬱というのだろうか?
 

                                       


 



正久保橋の信号を連動にして

小林 大輔   2021.2.13

 練馬区には石神井川が流れて、これが約10キロ先の隅田川に合流しています。私は、毎日ウオーキングをするために練馬区からお隣の区・板橋区の城北中央公園まで、石神井川の右岸の遊歩道を通る事が、習慣づきました。
 さて、石神井川や隅田川が海に向かって流れている左側、これを左岸と言いましょう。左岸は通勤の人も多いし、車も一方通行で頻繁に通ります。ところが、反対の右岸の道路は、今は春は練馬区の桜の名所となっており、道幅も狭く、車の通行を完全に禁じた遊歩道として、区民に親しまれています。
 練馬区の豊島園(ほんのこの夏、営業を終了したと聞きました)から、高稲荷公園を経由して、板橋区の城北中央公園まで、都内には珍しい石神井川沿いの右岸には、相当長い遊歩道があります。車は、この右岸の遊歩道はもちろん通行できません。僅かに許されている自転車すら、遠慮して通行しないのがマナーです。つまり、完全に人の散策だけに寄与している都内には珍しい、相当長い遊歩道なのです。
 そしてこの道路は、完全な遊歩道として、この道路を通行する人や、散策する人たち、そして近隣の人達に愛されてきました。この道路を作った練馬区は、今からおよそ40年前、石神井川の右岸を遊歩道とするために、川沿いまで張り出している家々をセットバックさせました。これには、大変な公金を支払って、この道路を遊歩道として完成させ、桜の並木として区民に提供したのです。
 近隣の人や、古くから練馬区に住んでいる人は、その事情をよく知っています。そして、この道路を車の立ち入らない、ゆったり歩ける桜並木の川沿いの道路として愛してきました。ところがこの度、この遊歩道が突然桜並木の直線の遊歩道ではなくなったのです。石神井川にかかっている正久保橋の車の通行が、かなり激しくなったため、この橋を通行する人と車に、正久保橋の左岸だけを対象に信号ができたのです。とすると、右岸の桜並木を通って遊歩道を利用していた人は、みんな左岸に設けられた信号にわざわざ回らなくてはなりません。つまり反対の岸まで、コの字型に歩いて、左岸の信号を渡らなくてはなりません。
 そこで、その対策として提案します。正久保橋の左岸に設けた信号を右岸にも連動することによって、右岸の人にも同じ信号に従って、安全に通行するようになれば、わざわざ右岸の人がコの字型に歩いてまで左岸の信号を利用しなくても、右岸の人も目の前の信号を見て、遊歩道を従来のようにまっすぐ進むことができます。正久保橋はたかが10メートルぐらいな橋です。連動することによって、左岸も右岸も、同時に信号に従って、止まったり、歩けるようにする事は簡単なはずです。都内を見渡して、連動している信号など、しばしば見かけます。
 現在、右岸には「こちらからは人を通さないぞ・・」と言わんばかりの、にわか造りの鉄柵が、無情に隙間を埋めています。私はこの鉄柵の立て方を見て、この担当者の何とも言えない思いやりのなさや、非情さを感じます。通行する人たちが、事故に遭わないよう祈るなら、そしてこの近隣の人達が、いかにこの遊歩道を愛してきたかの実情を知るならば、正久保橋の信号は、川の流れに沿った右岸も、左岸も連動させて通行させる・・。こうする事で、安全で、区民に親しんできた右岸の遊歩道も、直線のままで生きるのに・・と思うのです。
 この事を相談するのは、練馬警察でしょうか、それとも練馬区役所でしょうか。