練馬稲門会 エッセイ同好会12月度(第96回)例会報告

 新型コロナの第3波が押し寄せ警戒レベルが高まってきた師走の一日、穏やかな日和の中を厳重な防止対策を施しながら15名のメンバーが顔をそろえ発表を行った。会合のほとんどが中止に追い込まれるなかで久しぶりの対面とあって、マスク越しの会話も自ずから弾み、有意義な例会となった。概要下記の通り。
               記
1.日時   2020.12.12(土)14:30~16:30
2.場所   生涯学習センター第2教室(練馬図書館内)
3.発表作品(16名)
  石田真理       味噌を仕込む
  岡本龍蔵       コロナ禍の慶応病院入院
  加藤厚夫       社名変更
  小林 士       はじめちょろちょろなかぱっぱ
  小林康昭       追憶の12月
  谷川 亘       コロナ禍元年
  田原亞彦       今年の株価とPKO
  寺村久義       民主主義
  照山忠利       勘ちがい
  富塚 昇       応援をするということについて
  鳥谷靖子       クリスマスツリー
  華岡正泰       “その前”“その後”
  古内啓毅       だて正夢
  星野 勢       お前とあなた
  横山明美       私の枕辺
  鈴木奎三郎(作品参加)四季の記憶70 季節のゆくえ
4.次回予定
  コロナの感染状況を見極めながら、可能な場合は2月の第2土曜日(13日)に開催を予定する。
以上 
(文責:照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会10月度(第95回)例会報告

 暑い夏が過ぎ秋雨が降り続く中、4か月ぶりに例会を開催した。コロナの感染は依然として収束が見えていないが、練馬区では公共施設の使用制限措置(収容人数の半数まで)が解除されて、多少の自由度が感じられるようになった。参加者の安全を考慮して検温、マスク、手指消毒、三密回避等の対策を施し、かつ広めの会場を確保した。金木犀が香る中、降りしきる雨に濡れながら集合した面々は久しぶりの再会を喜び、活気に満ちた楽しい発表を行った。概要は下記の通り。
                記
1.日時   2020.10.10(土) 14:30~16:30
2.場所   生涯学習センター教室(練馬図書館内)
3.発表作品(17名)
  岡本龍蔵  学内設置の「みんなのトイレ」の案内板の英語表示について
  加藤厚夫  出向者四人の会
  古藤黎子  渡辺美佐子さんと「原爆朗読劇」
  小林 士  新型コロナとカタカナ言葉
  小林康昭  暮秋のラングーンにて
  鈴木奎三郎 四季の記憶71 石神井寸景
  高田翔子  地下部室のあったころ
  高橋正英  歯医者あれこれ
  寺村久義  趣味
  照山忠利  パソコン教室
  富塚 昇  教室点描 「愛」と「恋」の違いについて
  鳥谷靖子  エルドラド
  内藤雄幹  勝てない帝国海軍
  華岡正泰  懐かしの学帽
  古内啓毅  新型コロナウイルスと今後の政局
  星野 勢  ぴんぴんころり
  横山明美  私の世紀末
4.次回予定
  12月の第2または第3土曜日の会場確保でき次第連絡のこととする。
以上 
(文責:照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会8月度(電子版作品)

  華岡正泰  携帯電話
  田原亞彦  奈良の大仏開眼にみる多様性
  谷川 亘  感染症も戦火も、性懲りもなく繰返す
  富塚 昇  二つの早稲田つながり
  小林康昭  戦争を語る
  高橋正英  スマホ事始め/デジタルの波を乗りこなせ!
  加藤厚夫  明るく見よう
  古内啓毅  戦後80年


写真はイメージです



 



練馬稲門会 エッセイ同好会6月度(電子版作品)

  小林康昭   猖獗(しょうけつ)の旅
  田原亞彦新  コロナウイルス
  華岡正泰   横文字だらけのコロナウイルス
  古藤黎子   予期せぬ?出来事!!
  古内啓毅   コロナ後はどうなるんでしょうか
  富塚 昇   先生に教わったこと
  小林 士   古関裕而の音楽
  谷川 亘   ハムスターホイール(終止符は何時なの?)
  加藤厚夫   蘇れ!オリンピックマーチ
  鈴木奎三郎  四季の記憶63「人生は不要不急?」
  鳥谷靖子   断捨離狂騒曲
  横山明美   令和の「大変」
  照山忠利   マニュアル


写真はイメージです



 



練馬稲門会 エッセイ同好会4月度(電子版)

 エッセイ同好会4月度例会はコロナの感染防止のため中止しましたが、ネット上で有志による電子版エッセイ同好会を催しました。8点の作品が寄せられましたので、4月度作品としてホームページに掲載頂ければ幸いです。照山忠利

             記
  谷川 亘   灯台下暗し
  加藤厚夫   コロナ事情
  古内啓毅   新型コロナウイルスあれこれ
  富塚 昇   教室点描―突然の空白
  小林康昭   隅田の川風
  鈴木奎三郎  四季の記憶62 死ぬ時くらい好きにさせてよ
  照山忠利   春の床屋
  高橋正英   「四角号碼」(しかくごうま)という辞書


写真はイメージです



 



練馬稲門会 エッセイ同好会2月度(第93回)例会報告

 暖冬の影響か梅の花はすでに満開、季節が二月も進んだような暖かさの中で2月度の例会を開催した。新型コロナウイルスの感染予防のためマスクをつけての出席者も。いつものように和気藹々ながら17名が熱のこもった発表を行った。概要は下記の通り。
              記
1.日時   2020.2.15(土)14:30~16:45
2.場所   練馬区立生涯学習センター第2教室
3.出席者(敬称略)と作品(17名)
  石田真理   新しい下着を着る日
  岡本龍蔵   記事誤りと朝日新聞の応対
  加藤厚夫   何も伝わらない
  小林大輔   恩師の思い出
  小林康昭   子守歌
  高橋正英   五輪三都物語
  谷川 亘   まだまだ行ける?
  田原亞彦   MASSが富を生む
  寺村久義   高齢社会と多様な価値観
  照山忠利   風邪との闘い
  富塚 昇   教室点描―哲学者の名言
  鳥谷靖子   彼岸花
  内藤雄幹   沖縄旅行
  華岡正泰   友人ruggerの話
  古内啓毅   人生100年時代
  星野 勢   落し物
  横山明美   クラスメート
  鈴木奎三郎(作品参加)四季の記憶61 春の憂鬱
4.観梅会
  例会終了後、練馬駅近くの割烹「和歌里」で有志11名による懇親会を開催した。
  男だけの宴席となったためいささか優雅さに欠ける趣であったが、それだけに咲いた
  梅花を蹴散らさんばかりの勢いで大いに相互理解と親睦を深めた。
5.次回定例会
 4月11日(土)14:30 石神井公園区民交流センター会議室
 (4月は第3土曜日の18日ではありませんのでご注意下さい。)
以上 
(文責:照山忠利)



 



“その前”“その後”

華岡 正泰   2020.12.12

 補聴器を使い始めて8年、今ではそれなくして何も聞けなくなってしまった。耳だけではない。白内障の手術は上手くいったものの 30年前の脳外科手術で左眼を失い 右眼だけになってしまったその眼を 緑内障から守る為の眼科通い、入歯のメンテ、時に腰痛あり物忘れはひどい。もう この身体ガタガタ。仕方あるまい、あと25日で満の卒寿だもの。そろそろ“その前”“その後”に取り掛からねばなるまい。
 
“その後”では これ以上望めない程のお方を知ることが出来ている。そして6年前の練稲七福神が私の誕生日と重なった時、誕生祝として写真部岡田さん撮影の額縁入り私の顔写真を頂き 今年の七福神では米寿プラス一年祝いとして参加者全員の寄書きを頂いている。賛助商議員の盾もある。これで“その後”は準備万端。

あとは“その前”
 阪神大震災で西宮の留守宅を失ったこともあり 私には金も無ければ財産も無い。家は長男は既に一軒構えているし今の家は次男との共有。残すは身近な物品の始末だけだ。先ずは昭和59年、次男の大学受験の年から始めた36年間の日記。これを残されては家族は困るに違いない。過日の新聞に 義父が残した日記の処分に悩む嫁さんへの 姜尚中氏の見解が載っていた。「日記は読み手を想定したものではない筈で、故人のプライバシーもある。読んではいけない。貴女の時 一緒に持って行ったら」と。これに倣うことにした。次は家族が困るに違いない仕事関係のアルバム。これはボツボツ破棄していこう。
日記もそうだが無駄なことをしてきたようで何ともヤルセナイ。
 
家内共々「こんな老後があったのか」の生活を送っている。練稲サークルのお蔭である。然しこれも節目、潮時。 後進に譲ることを考えねばなるまい。
“エッセイ会”。ものを書くことが苦手な私が中途入会で15年、欠席3回、73の作品を残した。何がそうさせたのか。偏に会の雰囲気の良さに因るものだった。会員皆さんとの間に 古い関係あったことを知ったり、新しい人間関係が生まれた。断ちがたい結びつきが出来た会だった。
こんな会の皆さんとのお別れは誠に辛い。でも これがケジメ。
 皆さんのご健勝 会の益々の発展を祈ります。有難うございました。


                                       


 



勘ちがい

照山 忠利  2020・12・12

 かつて会社に現役で勤務していた頃、中国のセメント工場に赴任した後輩がいた。場所は山東省の烟台市。休日に地元の床屋に散髪に出かけたそうな。髪を少しだけカット(つまり長めに)してもらおうと、覚え立ての中国語で「イーテンテン」(ちょっとだけ)と告げて椅子に座りいつものクセでついウトウト。様子がおかしいので目を覚ましたら何とバッサリ切られ始めていた。あわててもう一度「イーテンテン!」と叫んだが時すでに遅し、ほんの少しだけの髪を残して丸坊主にされてトホホとなったとか。ちょっとだけ切るのかちょっとだけ残すのかの勘ちがいがとんだ悲喜劇を生んだという次第。
 私も最近、行きつけの安売り床屋で似たような目にあった。チェーン店の理髪店は指名ができない。毎回どの店員にあたるのかわからない。一応「顧客カルテ」があってそれを見ながらの調髪となる。今回担当となったベテランの店員はもう何回も私の頭を触っている男である。ペットとして飼っていたハリネズミが死んでしまったと落ち込んでいた時には慰めの言葉をかけてやったような間柄である。その男に「鬢を短く」と頼んだところ、全体を思いきり短く刈りだした。しかも普段は鋏を使って切るところを電動バリカンでザーときたのである。「おいおい短くするのは鬢だけでいいんだよ」と言ったら「お客さん、伸びた分は切らなくちゃいけませんよ」ときた。しかも肝心の鬢のところは短くしていない。「バカかこいつは!」と内心思ったが腹を立ててもしょうがない。突然発狂して首に剃刀でも当てられるよりましだ、勘ちがいをしたのだろうと諦めた。でももう7年来通ったその店だが次回からは見切りをつけようと決めた。
 まあ床屋の勘ちがいくらいなら大した害はないからいいが、一国の総理大臣の勘ちがいとなればただではすまされない。思い出されるのは東日本大震災時の菅直人首相だ。外国人からの献金問題で進退窮まっていたところに大震災が起きた。付随した東電福島第一原発の過酷事故を奇貨としてにわかに元気を取り戻し、何をとち狂ったのか自分がまるで原子力の専門家ででもあるかの如く勘ちがいして、被災直後の現場へヘリを飛ばしたり東電本社に乗り込んで怒鳴り散らしたり、まさに見当はずれの指示命令を連発した。このため原発は爆発し炉心メルトダウンの大惨事を招いてしまった。あの原発の悲惨な結末は決して不可抗力だけで片付けられるものではなく、菅総理の勘ちがいによる人災でもあったことを忘れてはならないと思う。
 翻って現総理大臣の菅(すが)さん。安倍超長期政権の後を受けて、コロナ禍の大変な時期に最高権力者となった。コロナ感染防止と経済活性化の二兎を追うが政権運営は迷走気味で支持率も低下傾向にある。今度は菅(かん)ではなく菅(すが)だから大丈夫だと思いたいものの、裏でうごめく親中派の二階の住人がどうにも気にかかる。日中友好に異存はないが、傍若無人の振舞いを続ける異形の大国が米国大統領の交代を機にますます増長するのではないかと心配になる。首相には妙な勘ちがいをせずしっかりと国益を守ってほしいものだ。
 小生も老境にさしかかり間違いを指摘されることが多くなった。せいぜい注意力を保って致命的な誤りなきを期したいと願っている。
(了)

                                       


 



私の枕辺

横山 明美    2020・12月

 これまでどれほど枕を濡らしてきたことか‥・などと言えば平安時代の女御のうらめしくも切ない恋の歌が思い起こされるところだ。ところが、私の枕辺ときたら左右上下にたくさんのものが乱雑に置かれそれらが私の楽園を形成しているのだから、雅な世界とは無縁なことこの上ない。
 木組みのベッドで頭の方に柵があるから、まずはそこに枕を立てかけて背を預けることから私の自分時間は始まる。むだに上背があるせいか腰痛持ちなので、この体勢をとってやっと一日の終わりにほっとできるのだ。ぺたりとお座りしたり足を伸ばしたりする前に柵を乗り出してそこにある台上の籠から好きなCDを選び傍らのカセットに仕掛ける。枕辺のリモコンで音楽スタート。今夜は中島みゆきは力んでしまうのでジャズピアノだ。その柵の壁寄りに小物を入れる容器が引っ掛けてありメガネ、メモ用紙、ボールペン、付箋、アイマスク、テレビとエアコンとCDのリモコンなどが入れてあるのだ。夏はこれに団扇が加わる。テレビでいい情報を知るとすぐメモしてみるが、旅や食関係のものはまだしも、これはぜひ同居の老若に知っておいてもらいたいと私が心から願うタメになる情報などは、翌日無視されることがほとんどでいつも空しい。
 ベッドの片側はピタリと壁なので三か月連続のカレンダーをかけており、少しは予定が書き込んである。明日何かあればメモ用紙に写し床ににポイと飛ばしておく。朝ベッドから降りたとき間違いなく目に付く。こうしないと翌日うっかり忘れることが多いのだ。以前、何でも少しだけ首を突っ込む癖から句会に参加していたので句帳の残りがあり、脇に置いてある。自分の日常や想いを記すのに短くていい。日記を書いたこともあるが、綿々と書き綴ることになりそんな自分が嫌になって五・七・五に切り替えたのだった。そのためすぐ脇に歳時記と電子辞書。もう何度も電池を入れ替えている年代物である。テレビや読みかけの本で知らない言葉や読めない旧字など見ると気になって仕方がない「相棒」の右京さんみたいな性格だからすぐ調べる。それでいて翌日にはもうすっかり忘れているのが本当に残念で悲しい。
 それでも何と言っても部屋に落ち着いてうれしいのは、読みかけの本が待っているからである。会いたい人が待っててくれる…そんな気持ちだ。だいぶんの本を始末したので、ベッドの足元にある本棚は残り数年で親密に接したい人ばかり、という感じのものだ。一二週間で手元の本は入れ換わる。再読のはずなのに初めて読むようだ。中身をすっかり忘れている。著者は同時代人でもほとんどが死んでいるか遠い昔の人だから想いは一層である。本棚の一部の目の高さの棚に小型のテレビがあり、本と自分とどちらが選ばれるのか泰然と待っている。今夜の本の脇にはフォークソングの楽譜がある。しばらく会がないので、手を伸ばせば届くほどの裏のお宅に聞こえないよう窓もカーテンもしっかり閉め、小声で好きな曲だけ歌う。お隣からは朝9時過ぎにはもう若い夫人の弾く流麗なショパンのピアノ曲が聴こえてくるのだ。音楽関係の人らしい。
 壁の反対側の手が届くところに机がある。日によっては、もう寝るだけだからいいやと思い、飲めもしないのにホットウヰスキー入りの小さなボトルを机の角に置いておく。よく喉がカラカラになるのだ。机の真ん中には小さな長盆に仏具が一式。ときに両親や懐かしい人に線香を焚き手を合わせる。ついでに娘との小競り合いを反省したり明日は明るく生きますから、と小声で誓ったりもする。昼間の多少のわずらわしさ気ぜわしさも、この部屋のひと時があってきっと一日の収支が合っているのだ。今年もこうして私なりの一年はなんとか過ぎてゆく。


                                       


 



はじめちょろちょろなかぱっぱ

小林 士   2020年12月11日

 「ごはん」と言えば、私たちは茶碗に盛られて湯気を立てている白いお米を連想する。一方「ごはんたべた?」と聞かれれば、これは食事のことと解釈する。そう、「ごはん」と「食事」は同義語になっている。日本人にとって「ごはん」は即ちお米であり、お米は即ち食事である。
 お米は繰りかえし食べても飽きないよさがある。「おいしい」とされる上等のお米を上手に炊いたご飯はじつにおいしい。しかし、お米をおいしく食べるためには、それをおいしく炊き上げねばならない。これが案外むずかしい。
 昔、台所には「へっつい」と呼ぶかまどがあった。そこに釜をのせて薪に火をつける。そのときの上手なご飯の炊き方を言ったのが、「はじめちょろちょろ……」である。薪の燃やし方、加熱の仕方を言っている。

 はじめちょろちょろ中ぱっぱ、じゅうじゅう吹いたら火を引いて、赤子泣くともふたとるな

 うまいことを言ったものである。
「炊きはじめは弱火で、その後、強火にしろ。釜とふたのあいだから蒸気が出て、やがて湯がじゅうじゅう吹き出す。そうしたら薪を抜いて火を弱めて待て。ここで、どんなことがあってもふたを取ってはいけない」
 と教えているのである。 
 ところが、炊き上がったらそのままおいしいご飯を食べられるかというと、そう簡単ではない。余分な水分を抜かなくてはならない。かたまりになっているご飯をほぐして、余分な水分を取る必要がある。そのために昔は「おひつ」を用意して釜からご飯をおひつに移した。そのことによって余分な水分が水蒸気となって抜け、お米につやがでて、おいしくなる。蒸発せずに水滴になった分は、おひつの木材がそれを吸収してくれる。つまり、おひつを使うことによって、お米のおいしさの最終仕上げができる。
このように、いろいろ工夫してはじめておいしいご飯が味わえるのである。
ところが、これらすべての工程をスイッチひとつですべてやってしまう電気製品が考案された。電気炊飯器である。これは驚きの発明だった。かつて我が家で初めてその電気炊飯器なるものを使ったときの感激を私は決して忘れない。
 といだお米を金属製の容器に入れて指定の目盛りまで水をいれ、コードを差し込みスイッチをいれる、それだけだった。途中で蒸気は出るがじゅうじゅう吹きだすわけでもない。にもかかわらず最上の状態でご飯が炊きあがっていた。
 なんとすばらしい発明だろう。心のなかでつぶやいたことを覚えている。これほどに完成度の高いものをつくりあげるまで、どれほどの試行錯誤があったことだろうか。その努力が目に見えるような気がした。
 かつて中国人旅行者の爆買いが評判になって、その買いっぷりがいくたびかテレビニュースに映し出された。そのとき彼らがまず買い込むのが大きな炊飯器だった。日本の炊飯器のよさを知っているのだ。しかし、中国のお米は日本とは違うだろう。お米の味わい方も日本とはちがうだろう。日本流の炊飯器が中国で通用するものだろうか。「いや、日本の技術なら異なる条件でも、ことなる要求でも立派に対応できるのだろう。だから彼らは買っていくのだ。大丈夫、心配するな」私はそう思ってテレビの画面を見ていた。
 

                                       


 



だて正夢年

古内 啓毅  2020・12・12 

 師走も半ば。今年はコロナ、コロナで明け暮れ、年の区切りの師走がいっこうに師走らしくなりません。それでも、女房と孫が12月生まれで、年末恒例の家族による誕生会をどうするか。掛かりつけのお医者さんの年末年始の診察、薬の処方。おせちの準備。まだ手付かずの、少なくなってきてはいるもののなお300枚もの賀状の準備。その他身辺雑事のあれこれ。このごろは寄る年波に勝てず、すべての所作がスローモーで前へ進まず気が急くばかりです。

 コロナの感染者数は収まるどころか拡大の一途。この一年、会いたい人に会えず、行きたいところに行けず、重苦しい不安な日々が続いています。会社の旧友会、高校の同窓会、ワセダ時代のサークルのOB・OG会など、すべて中止、延期。昔の大学や会社の仲間と店で落ち合い気楽に会食していた機会も先送りです。いつになったら再会できるのでしょうか。

 だんだん遠くなってきましたが、それでも年に一度や二度、ふるさと宮城県に里帰りしてきましたが、とりわけ今年は長兄の七回忌、長姉の卒寿(90歳)の祝いもあり是非帰郷したいと考えていましたが、残念ながら断念。年明けて暖かくなったころにでもコロナ感染の状況も見ながら訪問しようと考えています。

 先日、長姉のところの姪から、ふるさとの新米が届きました。宮城県産の銘柄米として、「ササニシキ」、「ひとめぼれ」などがありますが、二年ほど前から「だて正夢」という新種が加わっています。宮城出身の男性お笑いコンビ、サンドウイッチマンが「みやぎ米イメージキャラクター」として「ひとめぼれ」とともにTVで宣伝していますのでご承知かと思います。

 姪の友人の旦那さんは、宮城県北部の大崎市岩出山という地で先祖代々続くお米生産者です。沢清水しか入らない清浄な田んぼで「だて正夢」「ひとめぼれ」などを育てています。水が美味しい場所はお米も美味しい、雑味のない素直で優しい味がすると評判です。
 新米の美味しい炊き方について生産者は、1.炊飯水の量を炊飯器の目盛りから1~2mm減らす(2合炊飯の場合)、2.お米を水に浸す時間は40分程度に(浸し過ぎるとベチャつく)、の2点を挙げます。それに従って炊いてみましたが、出来栄えは、はっきりした粒感、もちもちした食感、香りよし、甘みありで誠に美味。おかず不要、ご飯だけでお箸が進みます。美味しいお米は、おにぎりにすると、違いが際立ち、さめてもおいしいのが特徴、と言われます。その通り、残ったご飯は翌日も美味です。
 姉が、秋の味覚、懐かしい山芋・自然薯を送ってくれました。山芋はこしが強くすりおろすのに苦労しますが、卵、酒を加え、ダシで少しづつ伸ばして出来上がり。どんぶりに新米ご飯を盛り、とろろ汁をかけ、すするように食します。昔、親父と山に行って山芋を掘り、夕飯に動けなくなるほどとろろめしをお替わりしたことを思い出します。新米と山芋、一気にふるさとがよみがえって来ます。
 戦国武将伊達政宗の天下一の野望に変え「だて正夢」に日本一を託し、日夜研鑽を重ねる生産者とともにふるさと自慢に加えたい。


                                       


 



追憶の12月

小林 康昭  20201212

 12月は、大日本帝国海軍が、8日にアメリカのハワイ島のパール・ハーバー(「真珠湾」の邦訳は間違い。ハーバーに湾の訳はありません)を急襲し、10日にイギリス東洋艦隊のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスをマレー沖で撃沈して、第二次大戦の開戦に踏み切った月です。ですから、先の大戦を追憶するに相応しい月です。
 事実、アメリカでは、12月に入るとメディアが、盛んに第二次大戦をとり上げます。一方、日本では、戦争の追憶の季節は8月です。戦争を追憶して省みるには、開戦時か終戦時のどちらが相応しいか。敗戦国日本にとっては、開戦時が相応しいと思います。
 「あんな戦争をするんじゃなかった」の悔恨は、開戦時を追憶することで想いを致すことが出来ると思うんですよ。日本のメディアも、8月をいつまでも引きずらないで、12月をその季節にして貰いたいものですね。 
*  *  *
 12月は、現上皇の明仁平成天皇が誕生した月でもあります。12月23日。東条英機陸軍大将以下7名のA級戦犯たちが処刑された日です。敢えて、当時の皇太子明仁親王の誕生日に処刑を執行したことで、日本人に、戦争責任を未来永劫に忘れさせない魂胆があったのです。死刑囚たちの遺体は横浜で火葬に付され、遺灰は火葬場の廃棄場に捨てられました。収取したその遺灰が、愛知県三ヶ根山頂に埋葬されて、慰霊塔が建立されたそうです。
 彼らの霊は靖国神社に祀られました。彼らが祀られたことによって、政府首脳が参拝することに対して、日本のメディアが異議を呈しました。これを受けて、中国などが非難を浴びせました。参拝を続けていた政府首脳は参拝を止めました。天皇陛下も参拝を止めました。時に参拝を強行する政府首脳に対しては、すかさず中国などが激しい非難を浴びせました。すると、その首脳に対して、以後の参拝を止めるように、幹部や側近が懸命に説得しました。その説得の理由は、唯々非難を回避するためであって、参拝自体の是非善悪ではないのです。
 非難を受けて参拝を止めた結果、参拝を非難する中国などの態度が正当化されたわけです。
非難されたから参拝を止めるのなら、最初から参拝すべきではありません。非難する側に付け入る口実を与えるばかりです。確信をもって参拝する、と決めたならば、非難を乗り越えて続ける勇気が必要です。そのうえで、己の歴史観、価値観、宗教観に忠実に丁寧に、参拝する名分や意義を、国民や世界に向けて、明らかにするべきです。
 己の経綸の志をはっきりと弁ずることは、為政者に必須の要件です。しかし、これをしっかりと弁じた為政者は稀です。日本の為政者たちの態度は、世界に対しても国民に対しても、誠にみっともなくだらしがない限りです。
*  *  *
 戦争責任によって日本は、朝鮮半島を連合国に引き渡しました。連合国側の事情によって、38度線以南はアメリカ、以北はソ連が引き取りました。この事実により、引き渡した後は連合国側の問題で、日本は関知しない、日本は韓国や北朝鮮との接点はない、韓国はアメリカから、北朝鮮はソ連から解放されて独立したのだ、との解釈もあり得たわけです。その方が、筋を通した議論が出来た、と思います。
 その一方で、日本政府には、当時の日本国民だった朝鮮人個人に対する直接の責任と義務がある、との解釈もあり得るわけです。従来の日本政府は、相手国の政府にお金を渡して丸投げしました。その後遺症が今になって響いているのです。徴用工問題がその典型例です。
 官房長官談話は常に、木で鼻をくくったように「解決済み」の繰り返しで、解決の進展につながりません。日本のメディアからは、明確な論調も具体的な提言もありません。曰く「危機感をもって協議を加速させねばならない」「落着点を探る、外交の知恵が問われている」「具体策を速やかに示す必要がある」「対話を深めることが欠かせない」「情報を交換して連携する方がずっと得策だ」「必要なのは、不断の意思疎通だろう」「不信を取り払う努力を尽くすべきだ」「今後を考える大局的な首脳対話を滞らせることがあってはならない」などと説いている社説には、無力感を深くします。
 日本の政府やメディアは、筋を通した具体的かつ懇切丁寧な主張をすべきです。まず、1.韓国最高裁に対しては「韓国政府が既に日本からそれ相当のお金を受け取ってるのだから、韓国政府に対して徴用工に支給しなさい」と言うべきだったのだ、と主張すべきです。それが困難なら 2.韓国政府に対して、日本政府に代わって元徴用工に支払うべきだ、と主張すべきです。二つの主張が効かない場合には 3.先の日韓両国の間の合意は破棄して、渡したお金を一旦、日本側に返しなさい、その後、日本政府が直接、元徴用工に補償金を払いましょう、と持ちかけて欲しいものですね。
*  *  *
 そもそも、日本人も日本のメディアも、外国に向けた理解や忖度の情が不足しています。アメリカが戦時中に上梓した「菊と刀」が象徴する日本研究が、その後のアメリカ側の日本人の理解に役立ったように、敵国の日本に対して美点を挙げて褒めそやすこともしています。だが、日本は、朝鮮半島や中国大陸の人々に対して同じようなことをしてきませんでした。常に、相手側を官民一からげで一方的に誹謗非難中傷しました。♪天に代わりて不義を討つ・・・、と。
 戦時中の蒋介石は、日本政府を非難したが、天皇や日本国民を非難したことはなかったそうです。日本人も日本のメディアも、相手の政府と国民に対する切り口を、老獪に使い分ける度量が必要です。それが大国の度量というものです。日本はまだ、そこまでの度量が出来ていないのですよ。「日本人は12歳」と、マッカーサーが喝破したように。


                                       


 



コロナ禍元年

谷川 亘    2020年12月12日

 「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」
 花は、自然の赴くまま、来る年も来る年も蘇って咲き誇るが、人の境遇と言うのは如何なものか?歳重ねてははかなく消え失せて行くこの宿命や如何に?
 なぁんて、その意味を知ってか知らずか、恥知らずの年寄りが知ったかぶりをして勝手に開陳していますが、そのド図々しさにあきれる御仁もおいでとは思います。
 そうなんです。八十路にたどり着くべく急峻な崖を喘ぎあえいで登り詰め、やっと大台通り越してホッとしたのもつかの間。新型コロナウィルスと言う厄病神が手ぐすね引いて待ち受けていたのです。三密はじめ、“するな・止めな!!”の大通り。もう、こうなったら不貞腐れの極みの毎日です。
 70の手習い?で始まった我がHome Pageは100号になりなんとしていますが、専ら人畜無害を旨としており、春先までは、お年玉付き賀状や靖国神社の開花宣言予測が当ったとか外れたとか、気楽な内容でコロナ禍の片鱗もなし。
 4月号となると様相一変。こんな記述があります。【特に、今年は新型コロナウィルスが蔓延し、上野のお山の櫻狩りも“肩身の狭い”思い持ちつつ、行き帰りの電車でもマスクスタイル。もちろん歌舞音曲の類もご法度。絶唱極め付き容認の櫻狩りは去年までの話。】 
 とんでもない闖入者です。しかも、姿・形さえ詳らかにしない。新型コロナウィルスに人類すべてが席巻されて限りなく萎縮しきった世界。 自粛・自粛がひとり歩きして万人が陰鬱になっては意気消沈しているのが現状ではないでしょうか。そして、波の強弱はあっても深刻度は更に増し、日々その動静について関心を持たざるを得ない影響下にあります。
 次月以降、私のHPもコロナ一色。ワクチンを渇望して、「もう待てないと」痺れを切らし、「いい加減にしてくれ」、と不貞腐れて見たり、徹底抗戦と思いきや一時断念し、諦めては“With Corona”なんて媚びを振る。第二波過ぎたら流感相乗の強力第三波。
 白旗掲げつつ越年の可能性大ですよね?
コロナ禍にあって、「三密」はじめ、すべからく“疎遠な関係”を強要され、自らを幽閉して日長一日蟄居三昧。筋肉が萎えるのを垣間見ては、精神面でもすっかり落ち込んでしまい、「老人性鬱」であるとの“診断”を、医者でもないのに自ら下す羽目に陥りました。一日24時間。有り余る怠惰な時間をどう過ごすのか?とかく、鬱な時期はすべきことは分かっていても“やる気”が起こらない。
 「陰極まりて陽生ず」との例えの通り、そこで思いついたのが、陰を脱する為にも屁理屈こねている暇はない、奮い立たせて、とにかく遮二無二歩こう。
 それが、4月から始めた「一日一万歩」でした。
拙宅の近くに区立「武蔵関公園」が鎮座し、池の周り1,201mで、私の歩幅だと一周2千歩。「天祖若宮八幡宮」を往復して公園を4周すると、ゆとり見て11,000歩。8月は平均10,653歩。そして9月は10,216歩でしたから、両月は、酷暑、本降りにもめげずよくも貫徹できました。我が身を褒めてやりたい心境です。
 社会・経済活動活性化とコロナ禍対応。この二律背反する事象への舵取りと言うかさじ加減の困難なこの時期。
 不穏な予感なのですが、来年の我がHPもコロナ禍旋風の止むことはありますまい。
 気持ちだけでも落ち込まず、頑張って生き抜いてまいりましょう。

                                       

 



今年の株価とPKO

田原 亞彦  2020.12.12

 物価の動向は経済金融政策にとり重要である。就中株価はその国や企業に対する多数の世界中の人々からの評価であり、世の中の様々な出来事を織り込み評価を受けるという意味で他に類のない指標である。東証の売買主体は外人が64%、個人が21%、機関投資家が15%であり外人が過半を占めている。
 今年は、オリンピックの延期、コロナ、日本の政権交代、米国大統領選挙など大きな出来事があった。株価はどうか。不思議なことに大勢は世界中同じパターンで推移している。日本は昨年末24000円ぐらいから3月に16500円まで下げて6月に23000円まで戻し、その後10月まで21500円と23500円のボックス相場でもみ合い、11月に入りもみ合いを破り上昇してバブル以降の戻り高値を形成した。世界的にコロナパンデミックによる暴落を回復した状態である。
 その背景にあるのが、中央銀行による低金利、ゼロ金利政策、潤沢な資金供給による流動性確保と株価対策PKOである。ここでのPはPeaceでなくPrice keeping Operationのことである。背景には政治政権による経済テコ入れ策がある。日銀は2015年以降でみると例年3~6兆のETF(上場投資信託)を購入してきたが、今年は買い付け枠を倍増してETFを12兆とし既に6兆強買い付け、REIT(不動産投信)を1800億の予算の半分を購入済みである。日々の動向を監視して下値を支えている。
 株式の投資尺度としては通常、一株当たり利益を何倍に評価するか(PER)と一株当たり純資産を何倍にかうか(PBR)、配当利回りなでが用いられる。現在日経平均採用銘柄のPERは前期ベースで19.1、予想ベースで23.6、PBRは四半期ベースで1.1倍(1倍は企業の解散価値)、配当利回りは1.81である。利益成長が高く予想される銘柄は倍率が高く評価される。今の株価は現在の利益水準というよりもパンデミック終息後の回復を見越して買われている面が強い。PERの今年の変動を国別にみると先進国の日米英独の指数は3月にかけ落ち込み9月にかけ上昇してきた。一方中国、ロシア、ブラジル、トルコ、南ア等の変化幅は相対的に小さくインドはむしろ低下している。利回りからみるとゼロに近い公社債より株式のほうが高く買い余地がある(投資価値がある)との考えもある。 
 日本は70年代のオイルショック以降インフレ懸念から高金利政策を取っていた。当時8%台の高率の公社債が発行され公共法人等の資金運用には好まれた対象であった。6.1%国債も大量に発行され、当時はずいぶん低いなと感じたものである。公社債・ボンドの世界は株式に比べ規模が大きく金利をめぐる正にグローバルな金融のマーケットである。その後1985年の「プラザ合意」で為替が250円から一年後に160円程度になり景気悪化懸念から低金利政策・長期金利低下となって昭和末期のバブルへとつながった。バブル崩壊後の金利再低下に当時アナリストが超低金利は相当長く続くと予想していたが、その後今日まで30年、2016年にはマイナス金利となり驚きである。日本のゼロ金利政策が世界的に拡散して欧米の日本化が観られるように思える。
 共産・社会主義のロシア、中国(国家資本主義か)にも株式市場があるのは少し奇異な感が有るが、株式市場には自由が根本的に重要である。不法不正は厳に排除すべきであるが、作為的な工作も例え全体公共の利益の為とはいえ、必要最小限に留めるべきである。そうでないと皆が公正適正だと納得する価格形成がなされずゆがんだ状態で一般の信頼感ひいては関心が薄れてしまうからである。株式の死は資本主義の否定・破滅である。PKOもほどほどにすべきであり、何よりも背景にあるファンダメンタルの経済状況の回復が急がれる。それにしてもIT化の遅れなど平時から日本は何をすべきかの戦略的な分析、施策の策定やその行動のリーダーシップの発揮などに政官学の連携が急がれる。


                                       


 



応援をするということについて

富塚 昇   2020年12月12日

 新しい高校に転勤して9ヶ月、再任用教員として3年生の授業を担当しています。また、10月頃から生徒の進路希望にあわせて模擬面接なども行っています。最近は大学入試の多様化し推薦入試も広がり、12月に入り大学・短大・専門学校などの合格を勝ち取った生徒も出てきています。他方で「共通テスト」を約一ヶ月後に控えナーバスになる生徒もいます。そんな生徒たちを応援することもこのところ重要になっています。
 私は授業のプリントなどで進路希望の実現を目指す生徒のために「進路を切り拓く名言」として、さまざまな名言を紹介してきました。例えばヘンリー・フォードの『出来ると思うにせよ、出来ないと思うにせよ、その通りになる』は私の好きな名言です。そして、最近紹介したのが、マーク・トゥエインの「自分を元気づける一番いい方法は、誰か他の人を元気づけてあげることである」という名言です。
 この「元気づけてあげること」ということをもう少し広げて、「応援すること」にしてみます。そしてあらためて私がやってきたことを振り返ってみると「指導する」ということを通じて、要するに生徒の頑張りを「応援する」ことだったのではないか、そんなふうに思うのです。
私は新規採用の時から、主に中学時代に経験のあるバスケットボール部の顧問となってきました。最初に勤めた学校は下町の工業高校で、やんちゃな生徒も多く必ずしも部活動は盛んではありませんでした。ある時など放課後に体育館に行ってみると、ほとんどの生徒が帰ってしまい、たったひとり練習に来た生徒と1対1で練習したこともありました。その後の学校でも部活顧問は続けましたが、休日のほとんどを部活指導に当ててもそれで嫌だと思ったり、苦痛だと思うことはありませんでした。それはなぜでしょうか。
 今年、新しい学校に転勤し、部活動の指導もサブの顧問に回っているため、ほとんど休日に部活の指導することはありません。昨年までは、休日は部活の指導で学校に行くことが多かったのですが、今年はその生活が大きく変わりました。そして、生徒を応援する代わりの対象はすぐ見つかりました。今年の秋は、これまで神宮球場に3回、秩父宮ラグビー場に2回行きました。私が初めて秩父宮ラグビー場に行ったのは、中学1年の時の大学選手権での早慶戦だったと思います。野球では大学入学した年の春のリーグ戦で、早慶戦のチケットをとるのに苦労した思い出もあります。大学卒業後には大入り満員の国立競技場で早明戦を見たこともありました。以前、青山高校に勤めていたときもよく神宮球場と秩父宮ラグビー場に通いました。
そして、今年の秋には野球では、早法戦、早明戦、早慶戦、ラグビーでは早慶戦、早明戦と神宮球場と秩父宮ラグビー場に足を運んで応援をしました。今年の秋の応援の成果は今のところ4勝1敗です。
 なぜ、そんなふうに応援をするのか。マーク・トゥエインの名言のように、応援をすることを通して自分自身を元気づけることができるからではないか。教員という仕事についたこと、そして早稲田の卒業生であるということは実に恵まれているということに改めて気づくことができたのです。
 これからラグビーの大学選手権、箱根駅伝と応援ができることがとても楽しみです。

 

                                       


 



味噌を仕込む

石田 真理   2020年12月12日

 「味噌」を初めて自分で作ったのは、3年程前、知人に誘われて行った「手作り味噌教室」だった。「手作り調味料」の研究家の先生に、その時教えていただいたのは、「豆違いの味噌」だった。大豆だけではなく、小豆や、ヒヨコ豆で味噌を仕込むという、ちょっと変わった講座に、ワクワクしながら参加した。
 作業自体は簡単で、一晩水につけてふやかした豆をゆで、冷ましている間に、塩と麹を混ぜた塩きり麹を作り、豆が人肌くらいの温度になったらつぶして、塩きり麹と混ぜ、焼酎で消毒した容器に、空気が入らないよう、味噌を丸めて詰めていく、というもの。あとは、家に持ち帰り、冷暗所で発酵熟成させる。
 豆違いの他にも、麹の量によって、2~4週間くらいで食べられる短期熟成味噌と、半年くらいから食べられる長期熟成味噌を教えてもらった。暖かいと発酵が早く進むと聞き、家に帰ってきてから、短期熟成味噌のほうをこたつに入れて温めた。自分で仕込んだ味噌を早く食べてみたいと思い、毎日味噌を見てはニヤニヤした。
 やっと2週間が過ぎ、小豆で仕込んだ味噌で、味噌汁を作った。材料が小豆だからお汁粉みたいだけれど、やはり味噌汁の味、大豆とは違う風味でなかなか美味しい。つぶしきれなかった豆が残っている手作り感もうれしい。その日から毎日、小豆の味噌汁を飲んだ。
 しかし、残念なことに、毎日3食飲んでいて、飽きてきてしまった。今までいただいていた大豆の味噌汁は、毎日でも飽きるということはなかったが、小豆はクセがあるのだろうか。味噌はまだたくさんあるので、野菜を漬けてみた。これは美味しかった。ヒヨコ豆の味噌も同様で、小豆の味噌の後に、毎日飲み続けたら飽きてきた。こちらも漬物の発酵床にしたが、小豆のほうがいけてると思った。短期で仕込んだ味噌がなくなる頃、長期で仕込んだ味噌が食べ頃になっていた。大豆で作ったので、味噌汁の王道の味だった。不思議なことに、大豆の味噌汁は飽きがこない。つぶしきれなかった豆が残っている手作り感は変わらずうれしい。長期熟成の大豆の味噌がなくなる頃に、また次の年の講座を申し込んだ。コロナ禍により、料理教室が開催できなくなり、先生が配慮してくれて、オンライン(インターネットを通して)の受講になった。大豆のゆで加減がわからず、ゆですぎて、大量のカビを発生させてしまった。
 そして3回目、先生の講座開催の案内に参加して、大豆の味噌を仕込んできた。自分で仕込んだ味噌は楽しみであり、愛着があり、見るだけでワクワクさせてくれる存在である。 


                                       


 



四季の記憶70「季節のゆくえ」

鈴木 奎三郎   2020・12

 先日発表された「2020流行語大賞」のベスト10には、予想通りコロナ関連が5個も入っていて、大賞は「3密」である。他にアベノマスク、GOTOキャンペーンなどがあり、コロナに始まりコロナで終わりそうなこの1年。あっという間の1年だったが、これまで当然のように考えていた数々のことができなくなり、新しい日々の生活スタイルに慣れなければならなくなった。
もっともぼく自身の日々はこれまでとさほど変わらない。外出にはマスクを忘れないように気を付けていることぐらいだ。加えて家人がうるさく言うので、帰宅後の手洗いは励行するようになった。ぼくのすぐ上の兄夫婦は、2週間違いで危うくコロナが発生したダイアモンドプリンセスに乗り合わすところだった。帰った直後のツアーに罹患者が発生したのだ。これまで年に1,2回は海外旅行を楽しんでいたが、今年は近場の小旅行で済ませているそうだ。

 コロナではないが、病気といえば小学1年生の時に当時の法定伝染病のパラチフスにかかり、1週間ほど長野の日赤に入院したことがある。なんで罹患したかはわからないが、小さいころから病弱であったせいだろうか。それ以後病気らしい病気もない。ただし犬の散歩で転んで大腿骨骨折というケガをした。近くの荻窪病院に1か月弱入院したのがもうそろそろ3年になる。辛い日々だったが記憶も薄れていく。そういえば荻窪病院はコロナのクラスターが発生し、いまは厳重警戒のさ中である。これ以外に病気の記憶はない。荻窪の衛生病院で年1回健康診断を受け、唯一D評価の肺機能はこれとは別に定期的に診断を受けている。ここで白内障のチェックも含め、3~44月ごとに眼科に通っている。トシとともにいろいろとやらなければならないことが増えてくる。先日近くの医院でインフルエンザの予防接種を初めて受けた。トシは取りたくないがこればかりは如何ともしがたい。現実を受け入れ無理をせず背伸びせずおとなしく生きていかなければならない。

 先月の新聞に、気象庁が「生物季節観測」を、年内で動物すべてと植物の大半の観測を終了する・・という記事が出ていた。植物の開花や動物の初鳴きなどから季節の移り変わりを知る観測だが、都市化の影響で大半の動植物の確認が難しくなったのが理由だそうだ。ただし、桜の開花やカエデの紅葉など6種目は継続するという。
 全国の気象台・測候所58か所では、職員が「開花日」や生物を初めて見た「初見日」、鳴き声を初めて聞いた「初鳴日」を記録している。1953年から全国一斉に観測してきたそうだ。
 今回取りやめるのは51種目で、動物ではツバメやホタルの初見日、アブラゼミの初鳴日など23種目、植物は34種目のうちたんぽぽやツバキの開花、イチョウの発芽など。気象庁が縮小の理由に挙げるのは、都市化に伴う生態系の変化だという。多分、地球温暖化も影響しているのではないか。
 廃止される種類は、ウグイス、ツバメ、ホタルなど。植物ではタンポポ、チューリップ、モモなど、いずれも日常の生活に密接したものばかりだ。

 これらの指標は、子供のころから慣れ親しんだ季節の風物詩であり、大切な季節の記憶でもある。学校の行き帰りには近所の畑や小川にオタマジャクシがうようよしている川辺がいたるところにあった。それが孵りカエルが身近にいたころ。善光寺の参道の終わりには、高村光雲作の「阿吽の像」の仁王門があり、界隈の広場にいる無数の鳩のふんで真っ白だ。タンポポ、チューリップが咲き、アジサイが雨に濡れ、ツバメがせわしく飛び回る。遠くに目を転ずれば、飯綱山の山頂に咲くリンドウの群れ。紫に煙る北信五岳の山々。70年も前のことなのに色褪せぬ記憶として残っている。
この1年はこれから先どのように記憶され、記録されていくのであろうか。バブルの崩壊やリーマンショックとは異なる人類の危機・・コロナショックとなっていくのか。願わくは2021年が少しでも良くなっていくことを願わずにはいられない。


                                       


 



パソコン教室

照山 忠利  2020・10・10

 遅まきながらまたパソコン教室に通いだした。また、というのは今から7年前、武蔵野商工会議所(吉祥寺)の教室に6ヶ月近くバスで通ってWordとExcelの基礎を習ったことがあるからだ。1時間1000円との触れ込みに、20時間も行けばいいだろうと思ったのだが甘かった。確かに基本的な操作はできるようになったが、予想外の時間と出費を要したのである。修了後の経過もよくなかった。パソコンのスキルは日常的に使いこなして初めて身につくもので、習ったからと言ってすべてわがものになるわけではない。復習を怠っていたら大部分は忘れてしまった。今はこのようにWordの文章作成とメールのやりとり程度は何とかできるものの、もっと高度な技法やExcelでの資料作りなども習ったはずだがお蔵入りしたままで二度と日の目をみることはなくなっている。
 もう一度習おうと思い立ったのはほかでもない。恥を忍んでいうとパワーポイント(PP)ができないからである。講演会など聴きに行けば大概パソコンにつないだプロジェクターでPP資料がスクリーンに映し出される。紙の印刷物だけを使う説明はいかにも遅れているようで、聞き手にも評判がよろしくない。自分も立場上プレゼンすることもあるから、いつまでも紙の資料だけのスタイルではいけないと思うようになった。だんだん時流に取り残される気がするのである。そこで新聞チラシで見た大泉学園のパソコン教室に応募したという次第。1ヶ月12時間コースでテキスト代込み3万5千円と決して安くはない。通いだして間もないのにこんなことを言っては何だが、このコース内だけでPPスキルを完全習得できるかといわれればあまり自信はない。説明される用語や操作の手順がわからずウロウロして予定通り進まないからだ。不本意ながら追加講習(追加出費)もやむなしとなるのだろうか。
 わが半生を振り返りつつ、なぜ自分がIT弱者になったのかつらつら考えてみた。会社では公式の文書こそタイプライター仕上げであったが、通常の社内文書は殆ど手書きのもののコピーであった。ワードプロセッサー(ワープロ)なる魔法のような機器が普及したのは1980(昭和55)年頃のことだと記憶している。昭和57年末に勤務していた会社の事務所が火災にあいタイプライターが焼けてしまったので、やむなくタイピストにワープロを習わせて切り替えたものの世間の動きからは大幅に遅れた。ワープロが特殊技能でなく誰もが普通に使える時代になってからも、自分ではそのスキルを習得しないですむポジションにいたことも不幸だった。つまりざら紙に書きなぐった原稿を若い者にワープロで清書させれば事が足りたのである。この時ワープロの技能を身につけていれば取り残されないですんだかもしれない。ワープロとパソコンは別物ではあるがキーボードへの親和性という意味でワープロはパソコンへの入口であった。その入口で躊躇したことが今日の劣勢につながったのに違いない。
 折から新発足した菅内閣が社会のデジタル化を推進する方針を打ち出した。スイスの調査機関によれば日本のデジタル度は世界で27位とか。アジア諸国の後塵も拝しているという。そんなわが国ですら今はパソコンやスマホを使えない高齢者には暮らしにくい世の中になった。ITに遅れた老人は早く消えろと言われているようで情けない限りだ。そんな風潮に負けてたまるかとの悲壮な覚悟がパソコン教室通いに込められていると言ったら大げさか。でもオレだいじょうぶかなぁ。
(了)

                                       


 



エルドラド

鳥谷 靖子  令和2年10月10日 

 今年の梅雨明けは遅く、八月にはいって猛暑に苦しむ夏だった。コロナ渦で自宅ごもりの生活にも慣れた八月最期の週末、ボン、ボオーンと花火が揚がる音に二階の物干し台に急いだ。最後の花火見物になるだろうと、丸椅子を持ち出し座る。
 毎年夏の週末の夜は近所の豊島園で花火が揚がる。ボンという音と同時に夜空一面をお花畑に変える花火、様々な花火があった。一つ揚がる度、頭の中で懐かしい夏の思い出が浮かんでは、消えていく。夫と幼い子供達をプールで遊ばせ、プール脇の木陰で広げたお弁当。夜八時に花火が揚がるのを、今か今かと待った広場前の木株の椅子。
 四十年前、豊島園の裏手に引っ越した。子供達は木馬の会というフリーパスを買い、夏はプールに通い、春と秋は乗り物を楽しみ、冬はアイススケートに通った。まるで、自分達の庭の様な場所だった。大人たちは春、園内で開かれるフリーマーケットを覗きながら満開の桜見物をし、初夏には紫陽花祭りで青、白そして紫色の花々で覆われたアジサイの丘を散策するのを、毎年心待ちにしていた。
 正面入り口から入り石神井川を渡り、植え込みの草花に目を奪われながら、しばらく歩くと木々に囲まれた世界でも最古級と言われている遊戯機械エルドラドがある。ヨーロッパで作られやアメリカを経てはるばる運ばれ、美しく貫禄をもつこのカルーセルエルドラドに、人々は第一番に乗ったものだ。家族で最初に乗った乗り物がエルドラドだった。それぞれ好みの色の木馬や馬車に乗り、クルクル回りながらすれ違う度に手を振る。夕闇の中で明るいライトに照らされ回転するカラフルな動物や荷馬車。お伽の国の世界が出現した。
 故郷や、海外からのお客様には、最初に遊園地の看板のこの場所に案内する。子供達は他の刺激的な乗り物、サイクロン等をはしごして回った。昭和の全盛期には、夏の二ヶ月間、豊島園駅周辺は身動きが出来にくい程に混雑した時代もあったのを知っているだろうか。近隣住民には迷惑な事だったが、昭和三十年代にデイズニーランドが出来てから、少しずつ遊園地としての人気が失われ最近では、人影も少なく住民は心配していた。噂では、老人ホームが出来るとか囁かれていたが確かな情報は誰も知らなかった。人々が知ったのはテレビのニュースだった。「豊島園が八月末に閉園するそうよ。三年後にハリーポッターのテーマパークと都立防災公園が出来るんですって」。と今は亡き夫に報告すると、「そうか、すっかり変わるんだなー、それもいいじゃないか、出来たら一緒に行きたかったなー」。と言うだろう。寡黙な技術者だった夫は、人付き合いが苦手で退職後は何時も一緒に行動した。子供達が独立した後、桜見物や、紫陽花祭り、フリーマーケットにでかけた。その帰りにあのエルドラドに乗り、子供の様に相手が近づいてくると、手を振ったものだ。 
 三年後に出来るというハリーポッターのテーマパークは、ロンドンに次ぎ世界で二番目と言われている。残念ながら、関心がなかったが、ニキビ面の孫息子は「僕はハリーポッターの本は全部読んで持っているし、魔法の呪文も皆スラスラと言えるんだよ」だそうである。
 せめて跡地に出来る練馬城址公園が完成したら、夫の小さな遺影もバックに入れ、コロナ渦も終息しているだろう公園を、マスク無しで散策したいと願っている。


                                       


 



私の世紀末

横山 明美    2020・10月

 人の一生を一世紀と考えるのもいいのではないか、とふと思った。人生100年時代と言われて久しいが、私は今まさに自分の“世紀末”にかかろうとしているような気がするのだ。世紀末とは、ヨーロッパ19世紀末爛熟期のあとのなんとなく退廃的な冷ややかな雰囲気の社会背景を言うようだが、今の日本もいくぶんか気持ちが下降気味というあたりで、私も自分を一世紀という枠にはめ込んでみようと思ったのである。二月ごろからコロナ感染の広がりがあったこともきっかけの一つだった。
 春先は家にこもってひたすらニュースを追い、五月六月になると及び腰で友達と連絡を取りあい、七月以降には、家族ならいいだろうと車を出してもらい日本橋で用を足したりもした。でもなんかこの雰囲気どうもなあ・・・と惑いつつ自分をシャキッとさせたかった。気持ちが決まれば、今までできなかったことをやってみるだけだ。
 人との接触が少なくなるとむやみに映画が見たくなる。DVDやテレビの映画番組は、なにしろ古今東西の人々、世の中の出来事や時代の雰囲気までも見せてくれるので、退屈することがない。四時間もの大作「アラビアのロレンス」を見れば、砂漠の族長と奸智にたけたイギリス軍のやりとりに手に汗握り、別の日には「鉄道員」でイタリアの貧しい鉄道員一家の葛藤や家族愛に涙ぐむ。映画は世紀末の友だとつくづく思う。
 本棚の整理も世紀末の大仕事の一つである。棚をジーっと見る。タイトルや表紙の装丁を眺めまわしページをパラパラ。人生最後にもう一度じっくり読み返そう、というものを残して後は車に積みこみ、中村橋の古本屋“くまごろう”まで運ぶ。そこの主人、まだ少年とい
う感じさえ残した真っ直ぐな人で、「2850円ですが3000円にさせていただくことでよろしいでしょうか」とあくまで生真面目。でもなかなかやるじゃないか、この言い回し。帰り際分厚い300円の古本「江戸に学ぶ」を買った。世紀末に江戸から何を学ぶって・・・・・。
本棚に背表紙がきちんと見えるような姿でピタリ残ったものを、目下端から再読中だ。やはり残したものは面白い!と読みだしたが、驚いたことにどれもこれも内容を全く覚えておらず、長い間に読書脳は壊滅状態になっているとわかった。世紀末は私をあざ笑うがごとしである。何としてでも読み通す! コロナのくれた世紀末最後の時間なのだし。
稲門会の集まりもなくシルバー割引の映画館にも行きづらい、美術館、コンサートだめ、人とじっくり会えない、なにより列車乗り継ぎの旅などまだまだ。これで家の中で化粧やお洒落をしても仕方あるまいという思いが心をよぎる・・・午後になり沈んで疲れた身を横たえ天井をぼーっと眺めて思い出されてくるのは、懐かしいあの人この人である。皆さんご機嫌いかがですか?・・・だらしない恰好を見降ろされている恥ずかしさにハッと気づき、パっと飛び起きる。ヨーロッパの世紀末は一つの文化だったろう。が東洋の片隅の私のささやかな世紀末など爛熟もなく退廃でさえもない平板そのもの。これまでどおりなんとかやり過ごしてみるしかない、と独りごとを言い、鏡の前に立ってみた。のんびりと膨らんだ昔からの顔が映っていた。 


                                       


 



四季の記憶71「石神井寸景」

鈴木 奎三郎   2020・10・5

 金木犀が香り彼岸花が咲いて秋本番となってきた。近くの石神井公園や石神井川付近をブラブラすると、カルガモの親子もすっかり大きくなって、親子の区別がつかないほどになっている。真っ白なコサギも餌を探して飛来する。カラスも子育てが終わったのだろうか、ひと頃のようにガーガーと鳴き続けることもなくなった。オオタカがたまに来るようで、バードウォッチングに熱心な人もいる。
 この公園では、ご老人の数名のグループツアーをよく見かける。ガイドらしき人が黄色い小旗をもって先頭を歩いている。特にこれと言って見るものもないが、公園の一角には室町時代後期に太田道灌に滅ぼされたという戦国武将・豊島泰経の石神井城址がある。今は土塁や空堀の一部が残るだけで往時を忍ぶものはない。落城のときに、当主の娘の照姫が池に身を投げたという言い伝えがある。公園の中ほどに照姫を祀った「姫塚」がある。巨大なシラカシに守られている。毎年ゴールデンウィークには「照姫祭り」が催される。今年はコロナのせいで見送られたが・・。
 池の近くには三宝寺があり巨大な石作りの平和観音が聳えている。また縄文時代の遺跡が保存されている石神井池淵遺跡がある。縄文中期の遺跡群との解説版がある。野草のエリアもあり、東京のはずれではあるが自然が豊かでけっこう気に入っている。結婚してから住みはじめもう50年近くになる。ここに住むことになったのは、なによりも公園周辺の景観が気に入ったからだ。特に公園に面した風致地区は素晴らしい。このすぐ前に、イタリアンレストランがあった。評判を呼び、グルメの方々が電車に乗って遠くからやってきた。檀一雄や神津善行邸もあって文化的なイメージがあった。レストランはその後経営者が変わり味も落ちてきて、いつの間にかなくなった。
 結婚した時に実家に買ってもらった新築の家は40坪ほどで、たぶん安普請だったのだろう、子供ができて大型犬が家の中でうろうろしたせいもあり、あっという間に雨漏りがしたりボロボロになってしまった。その頃はトイレも汲み取り式、ガスもプロパンで20年ほど住んで建て替えることにした。建て替え資金もなく銀座の勧銀で何千万かの借金をした。どうせ建て替えるなら、地震に強いというふれこみのツーバイフォー建築にした。3社の見積もりのなかでは一番高かったが、100年間は大丈夫という触れ込みだった。たしか25年のローンで定年まで払い続けるのかと思ったが、ありがたいことに実家からの援助で借金はあっという間に完済できた。
 わが家から歩いて数分のところに、石神井公園団地がある。西武池袋線の石神井公園駅、新宿線の上石神井駅から歩いて十数分のところだ。1967年にできた総戸数490戸の団地だ。9棟5階建てで、当時としては最新の共同住宅だったそうで競争率も高かった。近くのバス停で毎朝会う方々も若くお元気だったが、いまはどこでどうされているだろうか。エレベーターがなく、若い頃はともかく今となってはお年寄りの上層階の方々は苦労されていたそうだ。50年超を経過し、2023年秋の完成を目指して建て替わることになった。8棟8階建て総戸数850戸の計画である。散歩の途中でたまによってみると無人の街は驚くほど静かで、ここに何人かの方々が生活していたとは信じがたい。いまはゴーストタウンである。
 都市も街もそこに住む人がいて初めて生きてくるのだ。建物にもよるが、マンションの寿命はせいぜい56~60年程度のようだ。かつて新時代を象徴した高島平団地や多摩ニュータウンも老朽化が進み、住む人も老いてかつての先進的なイメージはない。お台場をはじめ臨海部や墨田川沿いに続々と誕生する高層マンションは若い方々の憧れであるようだ。しかし、人の寿命が70~80才でマンションも大体同じくらいの寿命とすれば、いつかは老化が進み朽ちる日がやってくる。人の寿命も建物も、有限という点ではどこか共通項があるような気がする。


                                       


 



渡辺美佐子さんと「原爆朗読劇」

古藤 黎子   2020/10/16

 渡辺美佐子さんは、私の母校、実践女子学園中高の卒業生である。私が中高に在学していた当時から、既に日本を代表する有名な映画人であり、演劇人だった。
退職後、私は桜会という同窓会の中で、中高卒業生の会「ときわ会」の責任者になった。その頃、渡辺さんは実践の学祖、下田歌子の故郷、岐阜県恵那市の岩村城址の女城主を務めていて、我々には、相変わらず遠い存在の方であった。
 桜会という同窓会は、大学や短大の卒業生が殆どで、中高の卒業生の会は影が薄い存在だったが、渡辺さんに朗読会をお願いした頃から、多くの同窓生が参加してくれるようになった。渡辺さんが、向田邦子さんや友人の佐藤愛子さんの作品を朗読してくださっていたからだろう。
 その朗読会を始めて数年後。渡辺さんが、今度の朗読会で一枚の写真を使用するとのこと。アメリカ人の軍人として長崎にきて、戦後写真集を出したジョー・オダネル氏の写真集の中に掲載されている「火葬場に佇む少年」の写真である。既にその時、渡辺さんは写真の使用許可を、オダネル夫人から取得されていた。あろうことか、写真集の出版元は、私が在社していた出版社だった。
 その時の朗読会は、私たちの初めての「夏の雲は忘れない」であった。
渡辺さんたちの朗読劇「夏の雲」は、広島・長崎の原爆投下をテーマにしている。原爆で親を亡くした子供たちの体験や、終戦当時の人々の思いなどが描かれている。
 渡辺さんが、どうして「夏の雲」の公演に30数年間も関わっていらっしゃったかは、次のような事があったからかもしれない。

 1980年、「小川宏ショー」というテレビの番組のご対面コーナーのゲストとして、渡辺さんは出演された。事前に、ディレクターから「もう一度、会いたいかたは?」と聞かれ、小学校で急に転校していなくなってしまった男の子の名前を告げた。
 渡辺さんは、小学生の頃、麻布のお住まいから笄小学校に通っていた。戦況も逼迫する中、ひとりの男の子が転校してきた。


                                       


 



暮秋のラングーンにて

小林 康昭  20201010

 ビルマのラングーンに、初めて足を踏み入れたのは1986年、昭和61年の春でした。ビルマ政府の運輸省航空局との間で、ラングーン国際空港建設工事の契約交渉をするためです。この国の唯一の国際空港は、その当時、ラングーン郊外のミンガラドン飛行場で、イギリスの植民地時代に作られた年代物。ターミナルビルは古ぼけた木造二階建て、プロペラ機対応の滑走路は中型ジェット機の離着陸がやっとの代物でした。
 ビルマは、ネ・ウィンの長期独裁体制のために最貧国に堕ちてしまっており、相手にする国が無くなりました。だが、唯一日本だけが、経済援助(ODA)を続けていました。だから、ほとんどのビルマ人が、知日家、親日家でした。
 ODA事業のラングーン国際空港建設の第一期工事は、滑走路、誘導路、駐機場の拡幅と延長。管制、誘導、照明、通信の設備刷新を含む約200億円。旅客ターミナルビルの建設が予定される第二期以降、800億円以上になる筈でした。
*  *  *
 交渉は首尾よく進んで、いよいよ、ミンガラドン飛行場をラングーン国際空港へと、模様替えに手をつけます。この国では数十年ぶりの超大型建設工事でした。だから、建設現場所長の私は、一躍、現地の日本人会の大物に、祭り上げられました。剥げだらけの舗装の滑走路の彼方、林の中に、穴が開いたトタン屋根の格納庫が、朽ち果てていました。近づいてみると、屋根の穴は、英国の爆撃機の空襲を受けた跡でした。扉をこじ開けて中に入ると、片脚がとれた戦闘機の錆びた残骸が傾いた形で横たわっていました。一目で、陸軍一式戦闘機(隼)と分かりました。海軍の零戦に匹敵した中島飛行機製造の陸軍の名機です。終戦から41年間、そのままの光景です。この国は時計が止まっていたのでした。
 滑走路に沿って歩いていくと、集落の中から老婆が近づいてきました。そして、紙片の束を手にして訴えるのです。紙片は大日本帝国と記された軍票でした。41年前に、退却する日本の兵士が、食料と引き換えに置いて行った軍票です。補償して貰えるあてもなく放っておかれたまま、やっぱり、41年の間、時計が止まっているのです。
 駐機場の周辺で、整地工事が始まりました。大きな穴が至る所に点在しています。日本軍が英国空軍の空襲に備えて据えた高射砲のコンクリート基礎の跡です。地面を掘ってコンクリートを打ったのは、日本軍の捕虜になっていた英国軍の兵士たち、戦争が終わって不要になったコンクリートを壊して撤去したのは、英国軍の捕虜になった日本軍の兵士たちでした。放置された凹凸の跡は、41年間、そのまま遺されていたのでした。やっぱり、時計が止まっていました。 
 構内の中央部に、矩形状の土が盛り上がり雑草に覆われていました。幅8m、長さ5m、高さ1m。その上に立つと、滑走路の端から端まで一望です。日本軍の隊長がこの上に立って、兵士たちに訓示を与え、離陸する戦闘機を直立して見送った号令台だったそうです。私は、かの有名な第64戦隊(俗称 隼戦闘隊)の隊長、加藤建夫中佐に想いをはせて、しばし、たたずんでいました。私が降りた途端、41年間、姿を保っていた号令台は、ブルドーザーで削り取られました。
*  *  *
 雨季が明けた10月、本社の秘書部を通して、社長から依頼が入りました。社長の小学校時代の同級生が、一人でやって来る、というのです。彼は毎年、一人でビルマにやって来て、戦友たちが命を落としたビルマ国内の戦跡を廻って、慰霊することを習慣にしていました。彼が入国した日の夜、現場のゲストルームで歓待しました。
彼は饒舌に、敗残兵の逃避行のつらさと上官に対する恨み辛みを繰り返し言い募るのでした。作家高木俊朗の「インパール」で、その戦線の悲惨さと非条理ぶりは承知していましたが、彼の気が済むように黙って聞いていました。
 翌日、彼が当番兵を勤めていた司令部の跡、今は大学の本館に同行しました。薄暗い廊下を歩きながら「変わってないな・・・」と彼はつぶやいていました。廊下の壁に、古びた帽子掛けが並んでいました。その下に、毛筆の文字が見えます。彼は「私のです」と、その一つを感慨深げに指し示しました。ここでも、41年間、時計が止まっています。
 彼は翌日、一人で戦跡巡りに出ていきました。その不在中に、偶々、顔見知りの商社マンがやって来て、商用で呼び寄せた英国人が、インパール戦線で日本軍と戦った元兵士だったことを話題にしました。どうやら、二人の戦場が同じのようです。その商社マンは、二人を引き合わせよう、と持ちかけました。日本軍は英国軍から鎧袖一触の憂き目にあった筈だから、彼が感情的に陥っては困る、と私は、一旦は躊躇したのですが、興味もあって、結局は同意しました。
 7日後に、彼が戻ってきました。予告なしに、二人はゲストルームで相対しました。向かい合った瞬間、彼は硬い表情で、英国人を見返しました。お互いの自己紹介を商社マンが通訳すると、やはり二人は、同じ戦場で相まみえていたらしいことが分かりました。「とにかく、自分たちは・・・」と彼が恨みがましく話し始めました。装備も戦意もなっていなかった、と惨めさを愚痴って、負け戦の言い訳にしたかったようです。英国の元兵士が、彼を遮りました。
「あの時の日本軍の兵士たちほど、精悍で頑強だった敵に出会ったことはない。我々が勝てたのは幸運だった・・・」
*  *  *
 翌朝、私は彼を空港まで見送りました。「所長さん、私は・・・」彼は、しゃがれた涙声を、絞り出しました。
 「夕べのことは、生涯忘れません。敵さんのイギリスに、ああ言われたら本望です。上官や天皇陛下に褒められるよりも、ずっとずっと嬉しい。このこと、あの世に持って行きますよ。そして、戦地で死んだ奴らに話してやるんだ・・・」
 ビルマは国名をミャンマーと変え、ラングーン改めヤンゴンは首都ではなくなりました。クーデターを咎めて、日本政府は経済援助を止めました。ビルマと日本の縁は遠くなりました。当時のような縁には、多分、戻らないでしょう。


                                       


 



教室点描「愛」と「恋」の違いについて

富塚 昇   2020年10月10日

 いきなりですが問題です。
 「ここに二人の男がいました。一人は女性にもてる男であった。彼は多くの女性から贈り物をもらった。しかし、その男が贈り物をおくりたいと思う女性は見つからなかった。もう一人はもてない男であった。もてない男は一人の女性を好きになった。そして、彼女に自分の思いを伝え彼女に贈り物をおくった。しかし、その女性はほかの男が好きらしく、彼の思いは伝わらなかった。さて、この状態で、もてる男ともてない男、どちらが幸せだと思いますか」。
 この問題は、私の授業で倫理的な内容で「哲学」について取り上げる時に必ずやってきた問題です。続けて次の問題を出します。
 「『愛すること』と『恋をすること』は同じでしょうか、それとも違うでしょうか。違うとしたら、どのような点が違うと思いますか」。
 「哲学」とは、なによりも「ものごとを深く考えること」ととらえ、生徒にとって興味がわきやすい「愛」や「恋」についてしっかり考えていきます。言い換えればこの二つの問題はものごとについて哲学的に考える練習問題です。その上でギリシア哲学(ソクラテス、プラトン、アリストテレス)を取り上げます。そして「愛」や「恋」について考えることを次のテーマである愛の宗教といわれる「イエスの思想」「キリスト教」へとつなげでいきます。
 この二つの問題は、今から30年前の平成の初めの頃に地元の大泉北高校に勤めていた時に思いつきました。その時の生徒に、今、タレントとして活躍している、つるの剛士がいました。つるの剛士もこの問題を考えたはずです(大泉北高校はその後閉校し、現在は大泉桜高校になっています)。
 今年も9月にこの授業を行いました。生徒の回答はワープロでまとめ回答集を作成し、キリスト教の時の授業で利用します。今年の回答の一部を紹介します。
 「もてる男の方が幸せ。誰かを愛するという幸せはないが、愛されるという幸せはあるから」。「もてない男の方が幸せ。好きになるという感情は、世の中のありふれた言葉では表せないくらい素晴らしく、素敵で幸せなことであると思うから」。生徒の回答ではどちらが多いでしょうか。概ね6~7割くらいの生徒が恋をしている「もてない男」が幸せだと回答しています。
 「愛と恋の違いについて」は、次のような回答が出てきます。「愛することは相手の幸せも願うことだが、恋をすることは好きだという自分の気持ちが優先される」。「求めあうのが『恋』、与えあうのが『愛』」。「相手に対して何かを求めているかいないかの違いだと思う。愛することは相手に見返りを求めることはせず、相手のことを包み込むようなイメージ。自分のことは二の次でその人のためにいろいろと行動することができる」。ここまでくれば、聖書にあるイエスやパウロの言葉と結びつけることは難しいことではありません。
 生徒の回答を読み回答集を作成することはとても楽しい作業となります。この「愛と恋の違い」については、今から14年前、前の前の勤務校である青山高校に勤めていた時に、1年生で野球部のいがぐり頭の少年の回答に度肝を抜かれたことがありました。それは次の回答です。
 「『愛すること』と『恋をすること』は違うと思います。理由は『愛すること』というのは大切な人のことを守るという決意であり、『恋をすること』はあの人が好きという心理であるからです。『決意』と『心理』という点で僕は違うと思います」。
 一体どうして16歳の高校生がこのようなことを書けるのでしょうか。ちなみに、彼は、現在、朝日新聞の記者になっています。彼のような若者がいる限り日本は大丈夫だ。 
 

                                       


 



携帯電話

華岡 正泰   Aug.15.2020

 今 電車に乗ると前の席10人中7~8人が携帯電話(以下携帯、含スマートフォン)をいじっている。座っている人達ばかりではない 立つている人も吊り革につかまりながら片手で操作している。
 調べると 2017年の時点で携帯の加入は1億7千万口、人口を上回って普及率は114%にも達している。成程 我家でも息子達は会社用と自分用の2台を常に持ち歩いている。我が家にも買い替えたばかりの携帯が1台ある。私の物ではない家内専用だ。私が出掛ける時など「心配だから持って行って」と言はれるが私は断固それを拒否する。私は難聴で、電話の音に気付くのに時間がかかる。6年前から使用中の補聴器はドイツの“siemens”だが その解説書には”携帯は雑音が入って聞きづらい“と断ってある。やっと音に気付いても今の我家の携帯は電話に出るまでに4つの手作業を要する。手順を忘れたり間違ってモタモタしていて留守電にでもされたらそれこそ大変。私が拒否する理由である。
 でも過日、こんなことがあった。家内のお供で荻窪から新宿までJRに乗った時のことだ。社内が混んでいて窓際に立つていたのだが、新宿に着く直前、後ろから私を引っ張る者がいた。東南ア系の小さな女の子だった。「席を譲る」と言うのだ。「もう直ぐ降りるから」と英語でお礼を言うのだが通じない。両親がいる筈だと探す内にドアが閉まり、家内だけ降りて電車は出てしまった。次の駅 四ツ谷から引き返して改札付近を探すも家内は見付からない。携帯に電話しようと公衆電話を探したが 携帯の普及で激減していて見当たらない。デパートの受付で電話を借りてやっと連絡することが出来た。今や携帯は無くてはならぬものであることを実感した。
 携帯のことを“mobile phone”と言うが 昔ガソリンスタンドで“モービル”と言うのがあった。何処でも給油できる便利なスタンドを意味したのだろう。今の携帯に通じて、言い得て妙な店名だったと思うのだが 業界再編で何処かに吸収されたか合併したかで見当たらなくなってしまった。これとは逆に携帯は“料金が高い、詐欺にあう可能性高い”と悪評の固定電話を席捲してしまうかも知れない。補聴器には固定の方が携帯よりずっとマシなのにである。
 願わくば携帯を苦手とする老人の為に 公衆電話の適所配置と固定電話が継続されんことを。
 そして携帯電話、補聴器の性能アップ、品質の改善,向上を切望する。


                                       


 



奈良の大仏開眼にみる多様性

田原 亞彦  2020.8.15

 東大寺大仏の建立の4聖は聖武、良弁、行基、菩提遷那である。良弁の姓は百済氏、行基は大仏開眼前の749年に死去したが百済帰化人の高志氏、遷那は736年に日本の遣唐使多治比広成の要請で唐から来日したインドの菩提である。聖武は740年に難波に行幸した途中河内の知識寺に立ち寄り盧舎那仏を拝して大仏の建立を発意したといわれる。盧舎那仏は華厳宗の本尊であり、華厳宗は唐から新羅にわたり良弁の招きで新羅の審祥が日本に伝えた南都六宗の一つである。半島で、7世紀に百済、高句麗が相次いで滅亡した後新羅が統一を果たし征服した両国を華厳の力を借りて懐柔した事例を目にして、聖武が当時の不安定な国内政情の安定を望み決意したのかもしれない。光明皇后が藤原仲麻呂に命じて強力に推し進めた。当時の年間の国費の半分近くを費やし、現在価格で4700憶円相当ともいわれる。当時の推定人口650万人のうち延べ260万人が動員されたとされる。開眼供養には2万人近くが参観した。
 開眼供養は752年3月に、聖武の依頼で開眼導師に僧侶菩提遷那、華厳経の講師に律師隆尊が務めて行われた。当日は、聖武、光明皇后、孝謙が大仏前の板殿に座し、背後に百官が居並んだ。堂上には一面に造花が配され周囲には多くの極彩色の幡がたなびいている。10メートル以上の高みにある眼球の位置に設けられた高台に上る導師遷那と出席者とは開眼縷(る)で結ばれ、導師が筆で眼晴を点ずる。華厳の講義の後に、大安、薬師、元興、興福の四大寺からの祝いも物が披露された。楽人と舞人が参入して祝宴が始まる。楽舞は雅楽寮の大歌から始まる。歌女と舞人は合わせて30名である。雅楽寮は701年の大宝律令で、構成は高麗、百済、新羅の三国楽、楽師12人、楽生60人と定められている。次いで、大伴氏20人が琴を弾きながら歌い、更に佐伯氏20人が刀をとって舞った。久米歌舞だろうか。次いで漢氏20人、土師氏20人が刀と盾を手にして盾伏舞を披露する。日本の歌舞の後は外国の歌舞になる。長安・洛陽の踊り女踏歌(おんなどうか)が120名で行われた。音楽は唐の音楽奴隷のみに伝えられる古歌、中歌、次いで民間の散歌。そして誰も耳にしたことのないベトナム、カンボジア地方の音楽の林邑楽を渡日した林邑僧仏哲が披露した。新羅の金泰廉(きむてりょむ)が開眼前後に700人を引き連れて交易のため来日した。多くの文物が正倉院に収められているが、中には銅、すず、鉛の合金で造られた重ね碗の佐波理の食器類や新羅琴などがある。
 建立の財政担当は、秦朝元(渡来氏族)、工事全般は佐伯今毛人(いまえみし)大仏鋳造の責任者は国中連公麻呂であった。公麻呂の大祖父は天智期に白村江で滅亡した百済の官人国骨富(こくこつぶ)で663年に渡来した。大鋳師の高市真国、大工の猪名部百世、益田縄手らも渡来氏族の出である。720年の日本書紀編纂にも多くの帰化、渡来人が関与して和文と漢文の混合体で記された。当時は中国に派遣され帰国した人々や招来の文物が貴重で、学問僧、渡来・帰化人が文字の読書きをはじめ学問、知識情報の面で時代をリードしたのだろう。


                                       


 



感染症も戦火も、性懲りもなく繰返す

谷川 亘    2020年8月15日

 童謡にある、「でんでんむし・・・」から始まるフレーズはカタツムリを指すのだそうですが、角出せ槍出せで始まって一番は目玉出せ、二番は同様に頭出せと歌われて、“ツノもヤリも、そしてメダマもアタマも“いったいどこダンべえ?ってな調子で、分からないなりに愛嬌がある。
 それがコロナときたら姿、形はおろか、電子顕微鏡の世界でしか相いまみえることが出来ないそうな。冷徹で底意地悪い、人類にとって“姿なき敵”であることには間違いなし。
世界中にあまねく蔓延してまだまだ猛威を振るっていると言っても過言ではありません。
ワクチンの開発に拍車がかかっているようですが、これぞ東西両陣営競ってその端緒を見出し、一日も早く全人類に行き渡らんことを念ずることしきりです。
 
 コロナ渦に遭遇して先ず狼狽えたことは、生活習慣が一変して時間を持て余すことにどう対応して行くのか?現役時代の前向きな張り詰めた感覚は既に過去の遺物化したとはいえ、自粛・自粛でがんじがらめ。“じっと我慢の子”の優等生でなければならず、縄のれんはもとより和服姿のお酌までご法度。既に、酒の味すら忘却の彼方。お銚子見ただだけで“酔っ払って”しまうようになってしまったのであります。
 せめて、月日と曜日の感覚を忘れないためにも、週初には(迷惑がられるのを承知の上で敢えて座りたいがために)一番電車で出社し、会社の門前で「おはよう。元気にやってるか!!」なんて声掛けして虚勢を張って見たりはしたものの、「お年寄りはコロナに罹患でもしたら、会社にとって大損です」なんて心にもない台詞で出社もままならず。余談ですが、体温チェックでは老いると体温が低いと見えて、「大丈夫ですか?」なんて励まされる始末。
 かねて推奨されてきた、ボケ防止のための「一日一万歩」。前頭葉にとって歩くこと自体が脳の活性化を促し、体力劣化防止に役立つと言う。信念徹底「鰯の頭も信心から」・・・。勝気な性格も手伝って、コロナ渦と時同じくして拙宅近くの「武蔵関公園」で一万歩目標のヨタ歩きが始まった。一周1,201mの湖畔を4周して、行き帰りに天祖早宮八幡宮に、信仰心なんてひとかけらもなかった私が二度も拝礼してコロナの早期終焉を祈願しています。
 早起きしては克明に記録をとり、満開の桜から渡り鳥の楽園の時季を満喫して、津々浦々河川氾濫続出のジトジト梅雨にもめげず雨風厭わずひたすらヨタ歩く。でも、ここ数日来の猛暑日。早朝とは言え熱気むんむん。でも、やるっきゃないのだ。
 ひとしきり汗を垂れ流して、池端の何時もの緑陰のベンチでご褒美の一休み。垂れ流れる汗拭うとふっと一陣の風が両腕を撫でる。このじっとりムードの中で感じるのは“幻の風”?
 今日は終戦記念日だそうな。意識朦朧の中でよみがえったこと。それは、小学校入学間もなくにして疎開に旅立った時に仰いだ、「御茶ノ水」駅の水路の先の聖橋から昇る、それこそ真っ赤な太陽と、敗戦後に戻った際に「上野」駅の、すり減った鉄片が鈍く光って散乱する、摩耗した、鉄路の、哀れな姿であった。
 敗戦に至る“入口と出口”と言ってもよい。天と地のこの落差。
 子供心には、果たして“何を”感じ取ったのだろうか?
 残念至極。痴呆老人には昔を思い出すすべすら消え失せたのである。


                                       


 



二つの早稲田つながり

富塚 昇   2020年8月14日

 7月初めのこと、インターネットの検索で「早稲田大学 S○○○」と入力しました。そしてパソコンの画面を見ました。
「すごい、S先生は早稲田のエースだったんだ」。
・・・
 話は今から2年ほど前に遡ります。私が所属していた教育学部H3クラスのクラス会が行われました。昔話に話が弾むとともに、近況報告や第二の人生に向けたことなどが話題になりました。そんななかでT君がスポーツ・コーチングの活動を行っているという話を聞きました。それは、学校で言えば「部活動」の顧問が、チームの力を伸ばすためにどんなコーチングをすればいいかを参加者と一緒に考える活動ということです。私も部活動の顧問をやっていたこともありT君の話を聞くことができないだろうかと考えました。そして、私はT君を「高体連」の役員の先生に紹介し、2019年7月に行われた東京都の女子バスケット部の顧問を対象としたコーチの講習会にT君を招くことができました。大学の同級生の活動を広げることに貢献することができたことは嬉しいことです。
 その時の講習会に参加していたある高校のY先生がT君を自分の学校に招き、その学校で部活を熱心に指導している若い先生方対象にスポーツ・コーチングの講習会を開くことになりました。Y先生はT君の話がよかったので自分の学校に招いて若い先生方にT君の話を聞く会を企画してくれたのです。同級生として喜ばしいことです。その1回目は今年の1月にあったそうです。
 そして、私自身は4月に6年間過ごした都立立川高校から都立上水高校という高校に転勤しました。そんな中、T君の講習会の2回目が7月初めにありました。上水高校で同僚となったY先生が「今度Tさんが学校に来ますよ」と教えてくれました。T君がスポーツ・コーチングの講習会を行ったのは、私が勤務している上水高校だったのです(私はこの時にはT君に会いましたが、話を聞くことはできませんでした)。それが、早稲田のつながりの一つ目の話です。そのつながりが二つ目の話とリンクします。
 その講習会から数日後、陸上部の顧問のS先生と話をする機会がありました。
 「Sさん、この前あったT君の講習会に出席しましたか」。
 「はい、出席しました。Tさんは私の大学の先輩だということが分かりました」
 「なんだ、そうなんだ。それならばSさんは私の後輩じゃないですか」
 S先生は体育の教員で陸上部の顧問、そして、早稲田大学人間科学部出身でした。
 S先生は競走部の出身だろうか。S先生を検索したら何か出てくるかも知れない。家に帰って「早稲田大学 S○○○」と検索しました。
 そして冒頭に戻ります。S先生は早稲田大学競走部出身、現役時代は箱根駅伝で2年の時に1区、3年の時に3区、そして4年の時にはエース区間の2区を走っていたのです。
T君の講習会がS先生のこれからの部活指導にプラスに働ければと思います。T君もS先生の参加でさらに活動の幅が広がっていくことにつながればと思います。そして、私にとっても15年前にテレビで応援していた早稲田の選手と職場の同僚となれたことはとても誇らしいことです。
ということで、今回は、私は早稲田のエースと知り合いになることができたという自慢話でした。
 

                                       


 



戦争を語る

小林 康昭  20200816

 今年の8月もまた、新聞雑誌テレビなどの大衆メディアは、相も変わらぬ戦争追憶であふれています。往時の体験や目撃情報を語らせた末に、戦争を繰り返してはいけません、ってな調子で締めくくってお終いです。60年以上、同じ繰り返しで、進歩がありません。どうして、マスメディアの戦争論や歴史観が深化せず、深みのある論調にならないのでしょうか。欧米の、いわゆる高級と形容される新聞雑誌テレビは、こんなおざなりで説得力の乏しい論調はありません。そもそも、一般大衆には、戦争を繰り返さない能力も資格も権限もありません。
 日本のメディアがやっていることは、被害者に向かって「そのようなことが起きないようにお祈りしましょう」なんて慰撫する宗教家のように見えます。戦争は宗教の世界ではありません。政治と外交と軍事の冷徹冷酷な世界から宗教の世界に逃避せずに、リアリズムに徹しプラグマティックな論調を以て、世の為政者に説くべきでしょう。
 それでは、どのような論調で紙面や映像を作るべきなのか、というと、まず(1)往時の追憶のくだりは客観的に4割程度に簡潔に留め、これを受けて(2)そのような悲惨な状態に陥った原因を2割程度の分量に、ついで(3)そのような原因を作らないようにするにはどうすべきだったのか、を2割程度で、最後に(4)二度と繰り返さないようにするには、との反省を込めて、現在の日本の政治と外交と軍事の姿勢や在り方について意見や主張を2割程度にまとめて締めくくります。これが、望むべき戦争の追憶記です。
*  *  *
 具体的な対象として、沖縄戦線を取り上げましょう。(1)多くの民間人が死にました。(2)民間人に戦闘員と同一行動を取らせ、戦闘員が非戦闘員を盾にして銃火に晒したことが原因です。ですから(3)民間人を盾にせず巻き添えにせず、彼らを護り、彼らには敵対行動を取らせず自発的に降伏に向かわせるように認識させるべきでした。当時、沖縄戦線よりも長期に広範囲な地上戦が続いたヨーロッパでは、沖縄のような愚策を採っていません。そんなことをしていたら、ヨーロッパの人口は今の半分以下に減っていたことでしょう。当時の日本軍でも、ペリリュー島や硫黄島の司令官は、現地からすべての民間人を島外に疎開させました。非戦闘員の民間人を護るには(4)過去の沖縄戦線で犯した愚行の繰り返しがないような手立て、例えば、非戦闘員を居留させるシェルターを設けるなどの方法を提示すべきです。現在のソウル市には全市民を収容するシェルターが完備しているそうです。今なお日本の為政者には、その発想がありません。
 アメリカ軍がフィリピン上陸前に、マニラを開放都市にするように日本軍に求めたが、司令官の山下奉文大将は拒否しました。そのために、マニラ攻防で多数のフィリピン人が死にました。山下大将はその罪を問われて戦後、処刑されました。戦争は国際上で定められたルールに従って行われます。それを守らないと、様々な汚名を被ります。同じ敗軍の将であるにもかかわらず極刑を免れた今村均大将との相違は、ここにあります。頑なだった当時の軍紀ですら、その運用や裁量の幅が大きかった事実を、メディアは読者に認識させる義務を怠っています。
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 戦争責任に触れておきます。戦争責任を取るのは負けた方です。日清日露第一次大戦の日本は一切、戦争責任はありません。理由は、戦争に勝ったからで、戦争のルールがその前提に立っているからです。敗戦国は不条理な裁きを甘受する覚悟が必要です。だから、第二次大戦後に東京市ヶ谷で開かれた極東軍事裁判の不条理さを、今になって日本が文句をつけても無意味です。「それがイヤだったら、ポツダム宣言前に戻して、連合国側と戦争再開しますか?」という理屈になります。当然、応じられませんね。だから、軍事裁判に文句をつけることは愚かなことです。そのうえで、戦勝国側と講和条約を締結すれば、その時点で、敗戦国日本の国際法上の戦争責任は消えます。一切合切、チャラですね。
 その後になって、外国が色々と言ってきても「済んだことだ」と突っぱねるべきです。相手になってはいけないのですよ。してはいけないことをいつまでも引きずるから、相手に付け込まれてしまうのです。日本の国の対応が拙いのは、政府首脳や外交幹部のせいでもありますが、メディアがその原因を作り、政府や外交をミスリードしているからです。メディアを非難する声がありますが、そもそも、読者や視聴者に迎合するのがメディアですから、メディアが元凶ではありません。そのようなメディアを受け入れる読者や視聴者、即ち一般大衆の衆愚性に原因があります。
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 敗戦国は、国民に対する戦争責任もあります。国民が戦争で被った精神的物質的な被害に対する責任です。ドイツとイタリアの両国は戦後、国民に対して戦災による被害救済を法制化しました。国民が納得しなかったからです。だが、日本には今もありません。国民が愚かで、気がつかないからです。この両国は、終戦まで要職にあった要人を終身、追放解除しませんでした。この両国だったら、駐伊駐英大使を歴任した吉田茂は死ぬまで公職追放だった筈です。大勲位頸飾なんてとんでもない話です。西ドイツ初代の首相アデナウアーは戦前、首都近郊の小都市の市長、例えば、調布か藤沢の市長格の人物でした。本来なら、鳩山一郎、芦田均、岸信介にも「遠慮して呉れ」と引導を渡すべきでした。
 ドイツの民間分野では、戦意を煽った新聞社が最も責任を問われました。今のドイツには、戦前の大新聞社は一つも残っていないそうです。そもそも、読者がついてこないのですよ。日本の新聞社は口を拭って、今も平然としています。読者もそれを許しています。この点でもドイツ国民の矜持が分かります。ドイツが犯した戦争犯罪は日本よりはるかに大きかったにもかかわらず、戦後の日独両国の戦争責任に対しては、日本の方が悪評です。肝に銘じるべきでしょう。

                                       


 



スマホ事始め/デジタルの波を乗りこなせ!

高橋 正英    2020年8月15日

 もう3年ほど前の4月のこと、2人の友人と、神奈川県相模の大山登山をした。
横浜で教員をしていた家内が、当地で大山は小中学生の遠足コースだ、といとも簡単にいう。私もそんな気持ちで出かけたが、いざ登山となると、なんと岩だらけの登山道で、一応、道は整えてあるが、不規則ながれきの石と赤土で足場の悪さは尋常ではない。同行の一人が、途中で足が痛くなったと訴えだした。まだ半分も進んでいないのにこの調子では先が心配、思い切ってあきらめようと提案したが、本人はあくまでも登ると主張。そのため、大幅なスピードダウンとなり、午前中に頂上へ行けると踏んでいたのだが、午後2時過ぎになってしまった。頂上での写 真撮影も早々にして、下山開始したが、彼の足痛は、上りより下りのほうが負担が大きいようだ。結果は悲惨なことになった。
あたりは日がとっぷり暮れて暗い山道をよぼよぼ歩く、大人3人とはいえ心細い、こんなハイキングコースのような山で、おやじ3人が遭難なんて笑い話にもならないと内心思う。暗がりからタヌキがこちらを不思議そうに見ているのと出会った。ほうほうの体で下山用ケーブルカーの駅についたのだが、駅舎は閉まって灯は消され人気はない。この駅から徒歩でさらに1~2時間かけて坂道を降り、それから小田急の秦野駅まで歩くのかと思うと絶望的な気持ちになった。その時だ、もう一人の友人がスマホで地元のタクシー会社を見つけ出し、頼んで迎えに来てもらい助かった。
それまでは、携帯電話は決まった相手と通信さえできれば良いものだと思っていたが、この一件で思いを改めた。それから、早速、 NTTドコモの貯まっていたポイントを使ってスマホに切り替えた。さて、スマホを手に取って使いだすのだが、複雑で、やたらと聞いたことのないカタカナの用語が出てきて誠に不親切。ドコモショップに何度も電話で質問した、そこで、ドコモが数人ずつのグループ単位で講習会を開いてくれるという。参加してみると私と同年輩以上の女性数人が来ている。スマホ購入の動機としては、皆口々に、「必要性を感じていないのだが、娘から ボケ防止 にと強制的に買わされた」というのが大方の理由であった。

ところで、携帯電話のうち、スマートホンの比率は男女とも昨年末段階で85%前後で、ほとんどの人がスマホを所持しているといえるかもしれない。しかも、 70歳以上の高齢者でも携帯電話のスマホ率は、今年の初めにはついに50%を超えたという。私の2つ下の弟は、いつまでも旧来のガラケー携帯電話にこだわっていたので、私のしつこいほどの推奨でようやく最近スマホに切り替えた。
この春、NHKがテレビのスマホへの同時配信を始めたので、すぐ私も取り入れた、秋には民放も配信を始める。ようやく私もスマホに使い慣れてきたのだが、大げさな表現かもしれないが、この一台で世の中とつながっているという意識が生まれる。夜、一人毛布にくるまっていても、ネットもテレビも受信できるし、通信アプリの"LINE”か(中国版)"微信"を使えば世界中の誰とでも動画付き送受信が可能だ。それに、スマホのカメラ性能が進歩して、デジカメが不要になったし、日英漢の辞書の代用になる。
いわれて久しいが、諸外国のほうがこれらデジタル化は進んでいて、学校教育、ビジネス、日常生活でも日本は遅れを取っている。
先日旅行した中国ではすでに現金がなくなっている程、すべてスマホで売買予約、決済、送金をしている、もっとも逆に、そうして個人情報はすべて当局に握られているのだが。プライバシー意識の薄い中国では、自分の情報はあけすけで何ら危機意識がない。管理する共産党政権の思いの通りに人民は操作されているということで、香港人の自由を奪うことなどすでに当たり前の流れなのである。また、近いうちに 世の中、4Gから5Gへの切り替えが控えている。日本でもリモート化、キャッシュレス化は時間の問題だろう。

レコードは78回転のSP盤、「ハハキトク」の緊急連絡は電報、海外貿易はテレックス、こんなアナログ時代に何不自由なく育った私には次々と襲い来るデジタルの波をどう乗り切るか、実に憎たらしい時代である。了


                                       


 



明るく見よう

加藤 厚夫  2020.7.31 

 日本歌謡界で空前のヒット曲となった「およげたいやきくん」の歌詞が浮かぶ。「まぁいにち まいにち僕らは鉄板の、うえで焼かれてヤニなっちゃうよ!」
 いまや全国民、猛暑とコロナでたいやきくん状態だ。しかもテレビを見るとまいにち感染者報告だから余計うんざりしてしまう。
・決まって登場するのが小池サンだ。あの麗しい目つきと明るい声で「本日は460名の感染者でした」とやられるからたまったものではない。
そして「厳重警戒」と赤書看板を、右手でつまみ上げる。どうして取っ手を付けないのか不思議である。池袋辺りのパチンコ屋サンドイッチマンのプラカードには必ず付いているし、地元商店街のチンドン屋も、ちゃんと取っ手があり上下に振っていた。知事もこうすれば見る方のアホらしさも増し、大笑いできるのに。モノタロウでもそれを売っています。
 そして賢そうな大村愛知県知事の登場となる。おまけに両手に手持ち看板だ。毎度同じコメントだから登場させる意味がないのだが。そして埼玉県知事や健作知事のシャープな談話が続く。その後おなじみ感染症専門家の耳ダコ訓示をいただく。「壇蜜を避けること、マスクと手洗いをしなさい」。たまには小学生に読ませたらどうだろう。自然と笑顔になる。
 ・GOTOキャンペーン、これまた適時適切なご提案でした。東京都民は菌の運び屋だから除外するという、前代未聞の国税の不公平無駄遣いである。ならば名称を「都民は来ろなキャンペーン」としたほうがはるかに分かりやすい。
 しかも近県の首長は、あれほど広くて空気がいい安全な海水浴場を、遊泳禁止にしてしまった。行き場を失った都民は、一斉に奥多摩のキャンプ場に押し寄せたから壇蜜状態となってしまった。年寄りばかりの檜原村にはいい面の皮だ。上から下までこんなありさまだからどうにも手に負えない。
 ・普段からチヤホヤされない女性たちが、ホストクラブに大枚をはたいて通うらしい。自粛要請だとか言ってパトロールしても店は聞くもんではない。お上は敵だ思っている方々がやっているのです。
また女客も、コロナが移るといくら言っても欲情には勝てない。PCR検査をやらずに、発情抑制ホルモン注射をするとよい。米国の性犯罪者を釈放する前から打つ注射で、再犯防止効果は実証済みだそうです。
 ・国民が心待ちにしていた安倍キンマスク第二弾、8千万枚の配布が突如中止となった。せっかく予告なしに送り付けた老人ホームのママさんたちが「こんなもん使えまへん」と冷たくあしらったからだ。でも国民はあのドデカイ顔の総理が幼児サイズの布マスクを、半年も着け通したことに感服したのです。がその疲れのせいか入院してしまった。            


                                       


 



戦後80年

古内 啓毅  2020・8・21 

 このところ暑い日が続いている。コロナに加えて熱中症予防のアナウンスも流れる。傘寿を過ぎた身には外出もままならずエアコンの下で水分を補給しながらじっとしている以外になすすべ無し。運動不足で体力が落ち、エアコンのつけっぱなしで電気代がかさむ。 

 今年は敗戦から75年の節目の年だ。当時、私は小学校に入る前の5歳6か月、宮城県北部の山村に住んでいたが、昭和20年8月15日は今年と同じように朝から晴れて暑い日であった。お昼頃、わが家の前にあった空っぽの農協の米倉庫に、駐留していた仙台陸軍幼年学校の生徒や教官たちが集まっていた。しばらくすると、みなわんわん泣いている。玉音放送があり戦争が終わったんだ、負けたんだ、ということを知ってのことだった。そして次の瞬間、トラックなどに乗り一斉に引き上げていった。わが家に寄宿していた将校さんもいなくなり、小学校周辺に展開していた高射砲や機関銃などの兵器も撤収され急に静かになり寂しくなった。そんな情景が鮮明に思い出される。私の終戦の日である。

 その日を境に、出征していた近所の人がぽつぽつと還ってきた。還らぬ人もいた。叔父もその一人でジャワ島で戦死という公報だけで遺骨も何も戻らなかった。身内の唯一の戦死者である。
 1928年(昭和3年)生まれの長兄は高等小学校を終え14歳で、親に内緒でハンコを持ち出し、志願して海軍飛行予科練習生となり、土浦海軍航空隊へ入隊。厳しい訓練を受け実戦出撃を迎えるが、乗る飛行機はなく待機していた長崎で終戦となる。17歳の若者は散ることもなく無事に帰還することができた。帰還後旧制中学に編入、卒業し、地元の国民学校に豆訓導(教員免許を持たない助教)として勤務するが職業軍人として公職追放される。総領として家を離れられず大学進学をあきらめ親を助け、地元の農協、町役場に勤務し弟妹達の面倒を見ることになった。町役場では順調に職務をこなし、収入役を最後に職を辞し、59歳で町長初当選、以来4期連続当選し75歳まで続投。この間、微力ながら町の発展に寄与することができたようだ。なぜ予科練、終戦時のことなどもっと聞いておきたいことがあったが、6年前の秋、波乱に満ちた86歳の生涯を終えた。
 
 孫はこの8月、5歳7カ月。私は75年前の8月、5歳6か月、孫とほぼ同じ年齢のときに経験した終戦の日の状況を、いま孫に話をしたら理解できるだろうか。時間が必要なようだ。あと5年経つと終戦から80年。孫は10歳、小学校高学年になる。少しは理解できるようになっていると思う。
しかし、当方それまで元気でいられるかどうか甚だ心もとない。が、コロナが収まり、アベセイジも終わり、少しは景気も回復し、気兼ねなく出歩き、仲間と居酒屋で旧交を温め、少々の晩酌も楽しみ、心身共にストレスから解放され、老妻ともども気ままに過ごして参りたい。して無事に「戦後80年」を迎え、戦争のこと、平和のこと、自分の思いも加え、孫との語らいを楽しみにしたい。


                                       


 



マニュアル

照山 忠利  2020・6・20

 俗に夜目、遠目、笠の内という。女性が実際より美しく見えることの譬えだが、最近はこれに「マスク下」が加わった。コロナ感染防止のため、ほとんどすべての人がマスクを着けて歩いている。男はマスクをして男ぶりが上がる人はいそうもないが、女性の場合はマスクに引き立て効果があるのか、美人そうに見える気がする。あるいはそんな感じを持つのは小生だけかもしれないが。
 先日、関係するNPO法人の通常総会を開いた。もちろん全員がマスク着用である。3か月ぶりに仲間が顔を合わせたので、総会終了後ちかくのイタリアンでささやかな昼食会を催した。密にならぬよう気をつけながらの会食ではあったが、本当に久しぶりの外食に心が弾み生ビールの味も格別であった。でもどうしてイタリアンやフレンチの店の名前はややこしいのだろうか。伊語や仏語になじみのない身にはまるでちんぷんかんぷんだ。そもそも端から憶えてもらおうという気がないのだろう。損な話だ。
 余談になるがその昔勤務していた会社に「松濤寮」という上級幹部用の接待宿泊所があった。「土地は絶対に売らない」を社是のように墨守してきた会社が方針を例外的に曲げて、外国人専用の高級マンション用地としてその寮を売却することとした。マンションの命名を社内公募したところついた名前が「ルシマンマンション」。当時はヘエ―なかなかしゃれた名前だと思ったものの、ルシマンとは英語で言えば「ザ・セメント」とのこと。応募した人も安直に採用した会社首脳も教養の度合いが知れようというもので、まさに烏滸の沙汰と言うべきだろう。どんな外人さんがお住まいになったのかは聞き漏らした。
 飲食店に入ってストレスを感じることは憶えにくい店の名前のほかに、料理の説明に来る給仕のうざったさである。気の置けない仲間と楽しい会話を楽しんで盛り上がっているときに「お話の途中ですが・・」とやられると興ざめする。どこでとれた魚とかどこの塩を使ったとかはどうでもいいことだ。この手の接客法はマニュアルに従っているのだろう。言葉の使い方にも気になることがある。「ご注文は以上でよろしかったでしょうか」とか「1万円からお預かりします」とかの言い回しは変だと思いませんか。西武線の駅や車内の自動音声にもおかしな表現がある。「この電車は準急池袋行きです。練馬の次は終点池袋に停まります」。なぜ「練馬の次は終点池袋です」と言わないのか。「停まります」というとその次の駅があるように聞こえますよね。
 サービスの究極のマニュアルはディズニーランドにあるといわれたことがある。千葉の浦安にオープンした頃、責任者の講演を聴いた。「わが社の社員は全員が役者です」という。着ぐるみのミッキーマウスやチケット売りはおろかトイレを掃除する人にもキッチリと役者としての役割が与えられているそうな。例えば便器の一つひとつにも名前が付けられていて「やあジョージ、今日はずいぶん汚されたね。僕が今からピカピカにしてあげるよ」などと便器に話しかけながら磨き上げるという。
 マニュアルは本来、顧客満足度(CS)を可能な限り高め売り上げ増や業績改善に結びつけていくツールであろう。立派な冊子になったものもあれば口伝のものもある。チェーン展開する飲食店などが新人やアルバイトを手っ取り早く教育するために使っていることが多いが杓子定規な使い方はCSの逆効果となることを知らねばならない。コロナ禍の後の「新しい日常」の中でどのような接客マニュアルが作られるのだろうか。マスク嫌いの小生もマスク着用が苦にならなくなった。そういえばこの春以来まともな外食にはご無沙汰している。五月蠅い料理説明がなつかしく思えてきた。早く平常を取り戻したいものだ。
(了)

                                       


 



令和の「大変」

横山 明美    2020・6月

 母はよく大変たいへんと、驚き騒ぐ人だった。60年の昔、まだ若かった姉がその頃まだ一般的でなかったジーンズの、それも裾を折り上げて脛もあらわに外出しようとすると、いなかではそんな恰好で外出してはいけない、と騒ぎ立て、私の就職に際しても、都会にあふれる悪人どもの餌食になるのでは、と過剰に心配するという具合だった。
 そんな母のもと生まれ育ってきたが、自分の足で歩き始めてみると思ったほど怖い世間でもなく、むしろのっぺらぼうの苦労知らずというくらいに過ごしてきたから、この春の新型コロナウィルスの騒動は、人生最大最高の大変として身に迫ってきた。新聞やテレビのニュースに、広くは自分も家族も友人知人も含まれていることなど私には初めてである。
初期にはただただ恐ろしいことと思っていたが、さまざまな様子がわかってくると自分の立ち位置が少し見えてき、さらに時間がたった今では気も緩むのか、頻繁に登場する識者という人たちのタイプの好き嫌いやその見識の判断までするようになってしまう。それにしても、自由が奪われ守るべきことが多すぎる、このうつうつした毎日である。

 同居する娘は役所勤めでしかも人と接する仕事らしい。感染させてもこちらが感染してもよくないと思い、空いている身内の小さなマンションでの仮住まいをこちらから申し出た。週一回は生協の食料品がどっと届くので取りに帰り、その日は仕事から戻った娘が荷物ごと車で送ってくれる。狭い空中楼閣での連れ合いとの日々は昔の映画の老夫婦のように穏やかとはいかないが、これも「大変」の中でこその些事であり、娘との少なからずの日々の摩擦もなんとなく中和されて、コロナに感染しないですめば、いい日々だと思うしかない。
そんな中することといえば、なにしろ独身向きの部屋なのでゆったりできず、やたらと台所に立って、日ごろやらない新作料理作りや相方のおやつ作り。
 友人から電話やはがきが届くが、気になり電話する先もある。夫の高齢の兄が神戸近郊に一人まだ存命だが、耳も遠くなっているので代わりにその娘にかけてみる。妻を亡くしている義兄はしごく元気で、夫を亡くした昔の教え子に面倒をかけつつ仲良く暮らしているという。遠く離れて横浜に住む娘は、そんなことを小さい頃と同じようにたんたんと話し「おじちゃんおばちゃんも絶対元気でいてね」と穏やかに電話を切った。
 もう一人の姪・亡くなった義兄の娘に電話すると、こんな最中だが早世した弟の命日なので、両親とともに眠る墓に参ってきたという。岡山との県境に近い山深い里である。川座敷のある家々が街道沿いに並び、見上げる山の頂には中世に築城された利神城の石垣の名残がのぞく。皆が顔見知りのような昔の宿場町の人々が一人残らず真っ白なマスクを着けていた異様さに姪は驚く。近くの町では大阪のライブハウスに出かけた女性がその地で唯一の感染者となり、それは人々の非難の声にもなって耐え切れず一家で出奔し行方も知れないのだという。人の心の恐ろしさは感染の怖さを上回るものと思うばかりだった。
母は昭和の時代に人生を終えている。先の戦争を潜り抜けただけで十分だ、と思った。


                                       


 



断捨離狂騒曲

鳥谷 靖子  令和2年6月20日 

 春一番に咲くしだれ梅が門柱に被さる様に咲く、笛吹さんと言うお洒落な家があった。春の訪れを告げてくれる花の開花を、友達と楽しみに待っていたが、上品な老夫婦の姿がいつの間にか見えなくなり、庭も植木も荒れ放題、ある朝ブルドーザーが家具ごと家を取り壊してしまった。
 ふと気づくと、自身も高齢者の仲間入りし、他人事と思えなくなった。
 家の断捨離を考えていた矢先、近所に住む娘から「数ヶ月、暇が出来たから何か手伝う事ある?」と申し出があった。「パパの部屋の片付けしてくれる?何年も手付かずのままなの。アルバイ代払うから」「いいわよ」。初めは、そんな軽い会話で始まった。
 12月下旬9時に、娘は冬休みに入ったばかりの15歳の娘とエプロン」マスク、軍手をして現れる。夫の病気の進行が早く、仕事の書類やコピー機がそのままになっていたが、その日の夕刻には粗大ゴミになった家具と、ビニール袋が山積みになった。スマホで、粗大ゴミの回収の手続きを済ませた娘は、「この部屋ママのクローゼットが出来るわよ」。
 夫の思い出の品は綺麗に片づけられ、寂しくもなったが、数年間手が付けられなかった部屋でもあった。「老いては、子に従えか」と納得する。
 実家の断捨離に目覚めたのか、頼んでもいないのに、娘は実家の裏手に住む息子も誘い、暇が出来ると自分たちが使っていた全部の部屋の断捨離を始める。2月15日の朝七時、家のチャイムが鳴った。家の前に息子、娘、婿、孫が現れた。皆で二階のタンス、ベッド、本棚を運び出すと言う。数時間後、溢れていた物がすっかりと無くなり、数部屋がスッキリする。荒れ果てた、部屋を二月下旬にリホームを終え、空っぽになった部屋に座ると、50年近く一緒だった夫や家族との暮らしが、幻のようにも思えて、これから残された自分の人生が開けた錯覚さえ抱く。
 さて、これから何をしようか?
 3月初めからコロナウイルスで、外出もできなくなり、自宅だけの生活が、強いられた。断捨離のお陰で、家はスッキリし、一人きりの生活も快適で、新たな目的も生まれた。お節介な子供達のお陰だと感謝している。


                                       


 



四季の記憶63「人生は不要不急?」

鈴木 奎三郎   2020・6

 二十四節季のひとつで「芒種」(ぼうしゅ)というあまり聞きなれない節季がある。6月5日頃から始まるこの言葉は、イネ科の花の外側にある「芒」(のぎ)とよばれる棘のような針状のものがついている穀物の種まきをする時期であるというわけだ。その節季名が東南アジアから渡ってきた稲の生育期に合わせてつけられた所以であろうか。山野はすっかり緑の衣をまとい、もみじや楓の美しい新芽も日ごとに緑を増し、夏の風のかなで生きとし生けるものすべてが輝く時期となる。梅雨入りして1,2週間になるが、今頃が1年でもっとも美しい季節ではないだろうか。
 この時期になると、必ず思い出す歌がある。佐佐木信綱作詞、小山作之助作曲「夏は来ぬ」だ。“卯の花の匂う垣根に,ホトトギス早やも来鳴きて、忍び音もらす、夏は来ぬ”・・季節感あふれた素晴らしい歌だ。

 ところがこの輝きも、2月来のコロナ禍旋風で、なにやらいままでの新緑の季節と様相が異なるようだ。外出するときのマスクは必携品。愛犬の散歩も含め、特に電車ではマスクをしていないと白い目で見られているような気がする。生まれてこの方、マスクをする習慣はなかったし、マスクをしなければならないような状況になったことはなかった。息苦しさは我慢するとしても、眼鏡が曇ったりツルが引っかかったりしてどうにも具合が悪い。ひと頃薬局前にはマスク行列ができていたがこれも解消した。アベノマスクは先月届いたがなにやら小さくて早くも不用品となった。税金とはいえ、大金を使ってよくもまあこんなことを考えたものだ。小学生が考えそうなことで、なにやら、政権末期の様相が色濃い。10万円の給付金は結構早く振り込みがあり、銀座で夏用のポロシャツ3枚を買って清々した。
 
 首都圏の自粛は段階的に解除されだが、これですべてが解決というわけでもないようだ。これに続く2波、3波が早くも来そうな雰囲気だ。無用の外出を控えるなど自粛、自粛の大合唱は終わったが、80才近くになり、これといって自粛するほどのこともないしその気もない。考えてみれば、いまの、あるいはこれまでの人生や存在自体が「不要不急」の最たるものだ。年寄りのひがみと言ってしまえばそれまでだが、どう希望的に考えてもこれから先は明るい未来や、夢、希望は見つからない。そもそも、もうそういうトシではないのだ。
 出自も自ら選んだわけでもない。気が付いたら信州に生を受け、それなりの学校に通い、それなりの会社に就職し、結婚し、定年を迎えた・・という何の変哲もない平々凡々たるものだ。自分の人生をよくドラマチックに語る人がいるが、これは自意識過剰というものだ。このように大方の人が見果てぬ夢を追いそしていつしか老いていく。

 先日の新聞で、解剖学者の養老孟司さんが、ウイルスなど寄生虫は、人間などの宿主が死なないように配慮している。寄生虫が宿主にとって致命的になるのは矛盾である。なぜなら宿主の死は自分の死を意味するからである。寄生虫が致命的になるのは、宿主を間違えた場合が多い。ウイルスは宿主を生かさず殺さず自己と子孫の保全を図る・・・などとお書きになっている。なるほどと同感するところが大である。考えてみたらホモサピエンスである人と同じようなものではないか。

 コロナ問題は、人生に関するいろいろな問いをいくつか浮かび上がらせているような気がする。そして、生き方とか価値観とか根源的ななにかが何かが大きく変わろうとしているのではないか。「不要不急」もそのひとつだ。でも考えてみれば、人生は本来自分にとっても他者にとっても「不要不急」の蓄積ではないか。ついそう考えてしまう。人生に見切りをつけ、トシを取っていくということはそういうことなのかもしれない。


                                       


 



蘇れ!オリンピックマーチ

加藤 厚夫  2020.6.20 

 土曜の朝9時、校庭は全面休校で静まり返り、カラスの鳴き声だけだ。校内を一巡しても、昼飯まで3時間もある。暖かい日差しの下ベンチに座りコーヒーを飲んだり、ラジオ体操をしたりして時間をつぶす。12時過ぎに部屋に戻り冷凍パスタを電子レンジに入れ、鉱石ラジオのスイッチを入れた。すると幼児のころ聞きなれた音楽が流れてきたのである。「ひるのいこい」のテーマ曲で、いまだに続いていたのかと啞然とした。こんな超スローテンポで、今の時代にそぐわない曲は珍しい。小学生の夏休み、朝から蝉取りで飛び回っていると、この曲が流れてきたのを思い出す。もうお昼かと、15円の人造バターを薄く塗ったコッペパンを買いに走った。また35年前の炎天下、飛び込み営業で長野市街の高台を回っていると、のんびりした曲が民家から流れてきた。途端に力が抜けてしまい、冷えた生ビールが飲みたくなり急ぎ坂を下った。
 いったい誰の作曲かと、パソコンを叩きまた驚いた。あの古関裕而で、70年も前から流れているという。さらに彼のエピソードを武田鉄矢と古関の関係者がテレビで語っていた。彼にとって初めてのヒット曲が、早大応援歌「紺碧の空」だと言う。昭和6年まで早稲田は慶応に四年連敗中で、しかも「若き血」に対抗できる応援歌がなかった。そこで当時早大教授で作詞家の西條八十が、応援歌の歌詞を校内募集にかけて選定したのが紺碧の空である。「この詩はとても素晴らしいが、曲を付けるのは大変難しい」と中山晋平に依頼したいが金がなく、匙を投げてしまった。そこでまだ無名の古関に偶然回ってきて曲を付けた。早慶戦でそれを初めて歌った年、早稲田は慶応を破り優勝を果たした。これは験がいいと第六応援歌から一挙に第一応援歌に昇格したという。これを弾みにヒット曲を次々生み出し、その数五千曲に及んだ。戦前は予科練の「若鷲の歌」、戦後の「長崎の鐘」「鐘の鳴る丘」「今週の明星」など懐かしい曲ばかりだ。また自分の十八番「高原列車は行く」「阪神タイガースの歌(六甲颪)」も彼のものだと知らずに歌っていた。しかし古関裕而の真骨頂は行進曲にある。夏の甲子園大会歌「栄冠は君に輝く」は高校球児の胸踊らせる名曲だし、昭和24年からのNHKスポーツ中継テーマ曲「スポーツ・ショウ行進曲」もある。そして集大成が、あの昭和39年東京五輪開会式で鳴り響いた「オリンピックマーチ」である。小学校の運動会では、スーザのマーチと軍艦マーチしか知らぬ我々世代には極めて新鮮で、日本もついに一等国になれたかと自信を持たせてくれた曲だった。それにしても今度の東京オリンピックにはケチのつきっぱなしだ。大会エンブレムのパクリ騒動から始まり、新国立競技場の全面変更と聖火台忘れ、コンパクト予算は垂れ流しだし、ダサいボランティア服の作り直し、メインのマラソンが札幌に行き、かわいげないザリガニみたいなマスコット、そしてコロナによる延期などドタバタ劇の連続である。この「オリンピックマーチ」が再び新国立競技場で流れたら、これらの憂さは一掃してしまうし、コロナで疲弊しきった世界のアスリートたちは涙を流して行進するであろう。森会長以下、頭の固いのは分かるが、そこは柔軟対応で再度採用をお願いしたい。
 なお朝ドラのモチーフが彼だとは今日まで知らなかった。


                                       


 



ハムスターホイール(終止符は何時なの?)

谷川 亘    2020年6月20日

 長くてつらかった50日間。
 4月7日に発令された緊急事態宣言の解除の瞬間だったのですが、「さあ出るか・・・」なんて心弾む心境に至る筈なのに、何故か拍子抜けしてしまい、躊躇するばかりか、ウィルスと呼ばれる、目にも見えぬ何者かに後ろ髪引かれっぱなし。イライラ感が霧散するところか行き場を失ってかえって増幅し、心神耗弱に陥って右往左往しているのが現状ではないのでしょうか。一難去ってまた一難。今度は感染第二波襲来必至なんて脅かされるのが現実なのですよ。
 オイルショックも、リーマン不況の時だって、一旦どん底まで落ち込んだら二番底はありっこないと心して、それこそ死に物狂いで挑戦したから報われたのに、今次の新型コロナ禍恐慌なんて奴は掴みどころのない、微粒子の世界に鎮座する姿なき相手とあっては尚更気もそぞろ。
 私事。我社の中興の祖を自認するだけあって、ささやかれる“引退”の二文字には聞く耳をもたず頑固一徹。“送迎・秘書”の部類は剥奪しておいて、平然と「月一取締役会」にだけにでもご出社願えませんか」とのたまう。“サンデー毎日”となっては曜日の感覚も失せてしまうだろうから、せめて月曜だけでもと、座りたいばかりに早朝の電車で出社しては早目に切り上げる。
 こんな日程もコロナのお陰で剥がれ落ち、「はて、今日は何日で何曜日?」なんて感覚まで遠のいてしまって、落ち込んで老人性鬱に罹患したのは自明の理。
 フレイルに陥っちゃいけないと、梅雨なんかは気にもしない。早起きして、心身両面でボケ防止と足腰鍛えるべく、拙宅近くにある「武蔵関公園」の池之端ひと回り1.2㎞のヨタ歩きがいつの間にかコロナ対応日課の一部になっています。若者に抜かれては癇癪起こし、それこそ、“ヨタリング”と名付けてJoggingの真似事をしたりはするものの、1200mを、2000歩で1020秒(17分)だったのが、この三ヶ月で長足の進歩に繋がったのでしょうか?
 ハムスターの回し車ってご存知ですか?あれは愛玩ネズミの肥満防止とストレス解消のために考案されたのだそうですよ。
 嫌で嫌でしょうがないのだけど、勝気な性分と負けじ魂が頭もたげてももう一回り。挙句の果ては4~5周にも及んでふ~らフラ。その気はさらさらないのにまた繰り返しては走(ヨタ)る毎日です。心身ともに溌剌。なんて行けばぉよろしいのですがねぇ。欲求不満解消すべく体に鞭打っては疲労感だけが募る。我とてコロナ渦の被害者なのであります。
 池のボートは年寄優遇で“ロハ(無料)”。うっ積晴らしとの一挙両得ではないが、たったの一艘で漕ぎ出し池の真ん中でやおら立ち上がり、マスクとっぱずしてメガホーンよろしく両手を口に添えて、「何が何して何とやら・・・」とわめき散らす。それこそ教養が邪魔するような卑猥な言葉吐いて鬱積を周囲にばらまく。とゆきたかったのですが、ジッチャマがボート上で立ち上がるなんて到底無理ですよ。みっともない。よろめいて真っ青になって逃げかえりましたとさ。
 憎き今生の敵。コロナ渦から得られたせめてもの“お恵み”です。


                                       


 



古関裕而の音楽

小林 士   2020年6月20日

 NHKの朝ドラに古関裕而がとりあげられた。音楽家が主人公になる話はこの番組では初めてと思われる。これまでとは違った視点から、音楽家を主人公に取り上げた企画には、音楽好きを自認するものとして拍手を送りたい。
 いつものことではあるが、このドラマが始まるや古関裕而に関する出版物の広告が数多く目にとまるようになった。その広告に共通して見られるキャッチフレーズに気になる文言がある。「大衆音楽家、古関裕而」というのである。
その音楽が幅広く大勢の人々に親しまれている意味で「大衆」という言葉を持ち出したのかもしれないが、言葉の使い方が違う、と私は言いたい。古関裕而の音楽には、単に大衆に親しまれ喜ばれる、ということを飛び越えた高い品格がある。いうなれば、より高度な音楽の良さを与えてくれるのが古関裕而の音楽である。私はそう感じる。安易な印象を与えかねない大衆音楽家という言葉は古関裕而にはそぐわない。

 私が最初に古関裕而の名と音楽を知ったのは、小学校4年生で連続放送劇「鐘の鳴る丘」を聞いたときだった。菊田一夫の原作に古関裕而が音楽をつけた15分の放送番組である。戦後まもなく、孤児院で生活する戦災孤児たちの生活を描いた子供向けの放送劇で、少年少女合唱団が歌う主題歌で始まり、これが大ヒットした。オルガン伴奏だったが、それはハモンドオルガンという楽器だった。当時のひどい音質のラジオから流れる音ではあったが、それでも聞いたことのないほど澄み切った美しい音が聞こえてきた。劇中の音楽をすべて古関裕而が担当していて、それが自身によるハモンドオルガンの即興演奏だった。心あたたまるせりふ、激しいせりふ、それぞれのシーンに間髪を入れずにオルガンの音が入る。録音が使えない100パーセント生放送の時代だったが、それだけにいっそうの迫力をもって古関裕而の音楽が私の心に、そしてラジオを聴くすべての人のこころに深くしみ込んだのだった。
 その後も私たちは、古関裕而の音楽を放送番組のテーマ音楽などでずいぶん聞いているのである。あるとき、インタビューをうけた古関裕而夫人が「朝のテレビ放送の始まりから、昼の時間、夜の放送終了まで、一日を通して裕而の音楽が鳴っていたのですよ」と言っていた。語り継がれる古関裕而の名曲に加えて、私たちはいわば習慣的に、この人の音楽で長年癒されて来たのである。いまもつづく古くからのラジオ番組のテーマ音楽には、古関裕而作曲のものがいくつもある。

 古関裕而作曲の応援歌「紺碧の空」は私たち早稲田パーソンにとって第二の校歌ともいえる大切な曲である。そのほかにもいくつもの応援歌を作曲してくれている。それが縁だったのだろうか、1989年に他界した古関裕而の音楽葬の会場で、故人の音楽を演奏したのが我が早稲田大学応援部吹奏楽団だった。そのときクラネットを吹いていた私の次女の話だが、弔問に訪れた数多くの人のなかで、歌手の藤山一郎はわざわざ楽団員のところまで足をはこんでくれた。そして、指揮棒をとり、いっとき演奏を共にして「ありがとう、ありがとう」と一同の労をねぎらってくれたという。

 

                                       


 



先生に教わったこと

富塚 昇   2020年6月20日

 私は練馬稲門会の会報に、光栄にも「早稲田の青春記」の原稿を書く機会が与えられました。今回はその一部を広げる形にしたいと思います。まず在学中のことです。
・・・
 週1回、夕方6時から先生の研究室で5人の学生が集まり読書会が始まります。8時ぐらいになり区切りのいいところが来ると、「では、この辺で終わりにしましょうか」ということになるのですが、実はここからが始まりでした。16号館の研究室をでて西門から高田馬場に向かうのですが、毎回、途中の居酒屋をはしごし議論が続きます。先生からはある時には人間にとって最高の「幸せ」について、また、別のある時には「正義」について、常識を疑う視点を学ばせていただきました。この読書会、私が3年生になった時、丹下隆一先生が社会学の英文の論文を読む会を開いて下さったものです。私の人生に影響を与えてくれた多くの早稲田での出会いや学びの中で、もし一つだけ選ぶとしたら、そのときの居酒屋での学びが最も早稲田らしい学びの場であったかもしれません。
(ここまでが会報で書かせていただいたことです。残念ながら丹下隆一先生は1987年に47歳の若さで肺がんで亡くなられました)。
・・・
 私が大学院の試験に落ちて、先生のお宅に報告と相談に行ったことがありました。先生に「大学を卒業して、浪人生活になって、親のすねかじりを続けることになったのがつらいです」というようなことを言ったことがありました。すると先生はこんなことをおっしゃいました。「何を言っているんですか。すねかじりは最高の親孝行じゃないですか。あなたがすねかじりをしている限り、親はうかうかしてられないでしょ」と。なんだか狐につままれたような気もしましたが、親になって、子どもの就活が少しうまくいかなかったときに確かにそうだなあと思い出しました。
居酒屋での話に戻ります。
 「人間にとっての最高の幸せは何だと思いますか」。いきなり先生に聞かれて、みんなぽかんと聞いています。「それは仲間と悪いことをすることです。だってそうでしょ。人間は孤独な存在でしょ。悪いことをしているときに仲間との結びつきが一番強くなるじゃないですか」。この話は最も印象に残っている話です。もちろん、小市民の私はそれを実践することはできませんが。
 「若い時の苦労は買ってでもしろって言うでしょ。あんなのは嘘っぱちですよ」。この話もいわば「常識」とは違うことです。先生は続けます。「だってそうでしょ。自分は苦労をしたんだなんて思っていたら、傲慢な人間になるだけですよ」。さらに先生はこうも続けました。「人間は自分が正しいと思っているときに一番悪いことをするんですよ」。
この言葉を通して、教員生活を送る自分自身に対してプライドを持つことと謙虚に生きることについて考えさせられました。
そして、ここで書いた先生の最後の話は、今回のコロナ禍のなかで、いわゆる「自粛警察」が現れ話題になった時に改めて思い出されたことでした。

 

                                       


 



コロナ後はどうなるんでしょうか

古内 啓毅  2020・6・20 

 このところ何年も風邪にはとんとご縁がない。風邪かなと思ったら、風邪には大食とばかりに、よく食らい、あとは原始的ながら、気合を入れて風邪を追っ払ってきた。が、今般の新型コロナウイルスはそうはいかない。どこからどう襲ってくるのか皆目見当がつかない。そう簡単には撃退できそうにないようだ。
 中国・武漢市で新型コロナウイルスに関連した肺炎の発症が相次いでいる中、厚労省は1月16日、武漢市に滞在し日本に帰国した神奈川県在住の30代男性から新型コロナウイルスが検出されたと発表。これが日本国内初の感染者であった。以来、感染者数が増え続け、遅ればせながら3月にコロナ対策の「特別措置法」が制定された。4月にこれに基づく「緊急事態宣言」が発せられ、海外のような「ロックダウン(都市封鎖)」ではないが、外出の自粛、学校の休校、百貨店、映画館など多くの人が集まる施設の使用制限など様々な対策が打ち出された。結果、縄のれんの灯が消え、スポーツイベントの中止、延期、映画館、ライブハウス、カラオケなどの閉鎖、テレワーク(遠隔勤務、在宅勤務)の増大などこれまで営われてきた日常が様変わりした。 
 当方、超高齢者で隠居の身、コロナから身を守るためにいわゆる3密(密閉空間、密集場所、密接場面)を避け、不要不急の外出を自粛し、手を洗い、マスク装着などに努めてきた。予定していた外での会合は全て中止、延期となり、娘、孫たちのわが家への往来も抑制。外出は掛かりつけのお医者さん、近所のスーパーへの買い出し程度。女房は所属する合唱、体操クラブが活動ストップしストレスがたまるばかり。娘も各地で予定されていたすべてのライブが中止、延期。これまたイライラが募っている模様。それぞれがライフスタイルの変更を余儀なくされてきている。
 コロナ防止施策の効果もあって感染者数が減少し、政府は5月25日、「世界的にも極めて厳しいレベルの解除基準を全国的にクリアしたと判断」し、約7週間ぶりに緊急事態を解除した。街の封鎖が解かれ世の中は少しずつ新しい日常に移行しつつある。昨日は都道府県をまたぐ移動の自粛も解除。これでこのまま収束に向かってほしいものだが、世界的に見て、ペスト(14世紀後期)もスペイン風邪(20世紀)も第2波、第3波がやってきて猛威を振るった。日本でも、明治以降天然痘やコレラなどさまざまな感染症が繰り返し発生した。WHOは、これからがまさにヤマがくるといっている。素直に収束に向かうとは考えられない。
 さて、早計かもしれないが、コロナ後の世界はどうなっていくのだろうか。今回、「緊急事態宣言」を中央が発令し、個別具体的な施策は都道府県知事のところで打ち出されるという展開で、一極集中から分散への流れとなった。学校の休校も地域ごとに検討され、学校教育も分散化の様相を示した。企業におけるテレワークの拡大で働き方の見直しが進む。夏の甲子園が中止となり都道府県で独自大会を検討。このようにコロナによって、様々な制約を受けながら、強いられた非日常から新しい日常へとガラット変わっていくように思われる。
 人類は紀元前の昔から様々な感染症と戦ってきた。原因も治療も十分に確立されていなかった時代には感染症のパンデミック(世界的大流行)は歴史を変えるほどの影響を及ぼしてきた。今回のコロナ禍はなおパンデミックの渦中にあり、いつ克服されるのか予測はむつかしいが、克服後の世界は大きく変わっていくことは間違いなさそうだ。
 イタリアでコロナが拡大したのは、ハグしたりホッペにキスしたり、身体的な接触の多い挨拶をしていたことも大きいという。今は肘でタッチしており、それに慣れてきているという。このようにコロナ後に大きな変化が起きても人間はそれを受け入れ、慣れ、順応していける能力を持っている。
 治療薬やワクチンが開発され一日も早くコロナを打倒し、コロナ後の新しい世界を築いてほしいものだ。


                                       


 



予期せぬ?出来事!!

古藤 黎子   ‘20年6月20日

 「遂にきたか!」とその時、頭の中はめちゃくちゃ。昨年の夏頃、定期的に通院している御茶ノ水の順天堂医院の担当医から「そろそろCTでもとりましょうか」と言われた時のことである。
もう4,5年前から私の体には悪性腫瘍が巣食っていたが、定期的な血液検査の結果を見つつ、この数年間が静かに経過していた。
 数多くある血液検査の数値のうち、最後の方にある2つくらいの数値だけを先生は常にチェックされていた。最初はその数値も低かったが、この一年くらい前から、次第に上向きになりつつあった。が、数値が相当高くなってもたいして気にされてないようだったので、私ものんびり構えていたのかもしれない。だから、先生のご提案は、私には余りに不用意、かつ突然の出来事だったのである。
 表面的には何事もなかったかのように、精密検査のために、9月にCT/MRでより精密な映像をとった。その映像に何か異物らしきものが映し出されていた。さらにもう一度、10月に、映像をみながら注射器で異物をとり、検査をするという。
 その検査の時、担当医らしき医者が打った、最後の3本目の注射が物凄く痛かったことが記憶に残っている。その異物の一つが、ある場所が、結構難しいところにあるとか聞いていたので、ビクビクしていたせいもあるかもしれない。一体どこに注射したのよ!?と。
 その結果、異物は早いうちにとってしまおう。幸い、腫瘍が悪性に変わっているので「リツキサン」といういい薬もあるし、ということになった。
 なんか聞いたことがある名前だな、と思って昔の同じ編集部の後輩に聞いてみたら「そうです。それでうちの女房は助かったんですから」と。彼とデスクを同じくしたのはだいぶ以前のことだったので、その頃がその薬の開発当初だったのかもしれない。
 その後は12月には入院が2,3回あり、12月の後半からは通院治療が始まり、それが4月の第4週で終了。しかし、先生がその日、『寛解』という言葉をいう前に、電話で誰かといろいろ話をしているという状況。何事かと思ったらなんと肺になにか写っていて、これを調べるので、呼吸器内科に行ってほしい、というのだ。
その次の週に呼吸器内科に行き、写真を撮った。その結果「悪性所見はない」と言われたのが、5月の最終週であった。
 呼吸器内科の先生と話をしている最中、ほっとして思わず「私、スキーさえ出来ればいいんです」と口走ったら、先生が「僕もスキーやるんですよ」とおっしゃって、ちょっとその話に花が咲いたりした。結局、もう呼吸器内科には来ないでいいと、言われた。
 それにしても呼吸器内科というのは、まあ患者さんが多いったらない。あれじゃ、2時間、3時間の待ちは仕様がないだろう。日本人の喫煙率の影響なのだろうか。
 この度の治療について思うのは、いいお医者さんに巡りあったことが第一かもしれない。12月に入院して治療開始というとき、治療薬に副作用があるかもしれない、という言葉通り私に副作用が起き、薬の点滴の投与を中止した。しかし翌週には先生は「一回目に副作用があっても次にまた同じことがあるとは限りませんから」とおっしゃって、すぐまた同じ薬の治療を開始した。そして、その言葉通り全く副作用もなく、その後は順調に治療ができた。
 また、びっくりしたのは12月の日曜日の夜、入院のために病院へ行ってみたら、
通常の入院病棟ではなく、違う所に案内された。それが、こんなところが病院にもあるんだ、とびっくりした凄い病室。
 所謂無菌室というのか、入口も看護師さんにお願いして扉を開けてもらう。しかもその部屋、勿論個室、お風呂、トイレがあり、広いし、全て自動なのである。後で知ったことだが入院費ゼロ。のんびりゆっくり3泊だか4泊だか満喫してしまった。但し窓の外は隣のビルの壁だったが。
どうしてこういうことがあるのか、私はわからない。まあわかった所でどうなるわけでもないが、多分部屋が空いていたからだろう。
 思うに、病気との関係は如何にいい医者と出会うこと、である。私は、いい先生に出会い、いい治療を受け、殆ど精神的になにも悩むこともなく、あっと言う間に(と、自分では思う)癌細胞から逃れることができた幸運な一人かもしれない。
 当然のことながら、只今の課題は、抜けてしまった髪の毛はいつ戻るのか、である。


                                       


 



横文字だらけのコロナウイルス

華岡 正泰   Jun.20.2020

 コロナウイルスが猛威を振った。 世の中の仕組みまで変えてしまった。
新聞 テレビは毎日のトップで取り上げた。それも、欧米ては疾うにWHO命名のCOVID-19(Corona Virus Disease2019)かvirus、中国型、アメリカ型と言はれるようになってからはvirusesと複数形を使っていたのに、日本では最後まで「新型コロナ」「新型、新型」。日本人の完璧主義、律儀さだった。
 一方、その筋からのお達しでは、横文字好きな都知事ならわかるが、総理、閣僚までもがクラスター、パンデミック、ロックダウン、ソーシアルディスタンス、ステイホーム、アラートの横文字だらけ、コロナ英語の誕生だった。成程、我々知識人?には変な直訳より英語そのままの方が そこはかとなく広義に 意味するところを捉えることが出来るというものだが、果して全国民に理解出来たのだろうか。事態強調の狙いもあっただろう。でも矢張り、一寸使い過ぎだった。
 今や英語は世界の共通語、流入は防ぎようがない。然し、日本語が犯されないようにするには 日本語をもっと大事に、そして流入英語を正しく理解し使用することが必用だろう。我国には古来の日本語あり、文字には ひらかな、カタカナ、漢字、ローマ字ありである。横文字は大文字、小文字を使ってカタカナに置換えてしまう。問題はこれらの読み方である。日本語とはっきり区別する為、棒読みではなく、仮令 間違っていても、横文字らしい発音、アクセントで読みたいものだ。世界には訛りの強いインド英語、フィリピン英語、ハワイ英語だってある。日本人の日本英語があっても良いと思うからだ。  
 私は商社で働いたが職場では貿易英語、英単語が自由に飛び交った。それは仕事柄だったが、同様な事が国内で起こるような気がしてならない。外に出るとデリバリー、タクデリ、ドライブスルー、テイクアウトの横文字が並び、3密、在宅勤務、テレワーク、遠隔診療、オンライン帰省、オンライン宴会などの新語、珍語が数え切れない。若者言葉がアッという間に世間に広がり 一般語化してしまった様に これら新語、珍語が クラスター等のウイルス英語と共に 正しい意味を離れて面白オカシク世の中で飛び交うことを心配するのである。
 日本には横文字を日本語にしてしまったり、世界では通じない和製英語を作りあげる慣わしもある。それが コロナで もう始まっている。
日本語を大事に。それには横文字を正しく理解し使用するこを心掛けよう。   おわり


                                       


 



新コロナウイルス

田原 亞彦  2020.6.20

 これだけ全世界的に大きな影響を受けた出来事は経験のないことである。個人的にも入院中以上に多面的に制約を受けた。自然の力は人智を超えている。歴史上の、感染症の関わりについて、科学が未発達で自然に対する恐怖の時代として、卑弥呼の時代、平安時代の陰陽道・安倍晴明、15~16世紀の大航海時代を想起した。14世紀にヨーロッパでペストが大流行し人口の3割が死亡。シルクロード経由や奴隷貿易で感染症が拡散した。植民地化支配では、原住民は戦による死亡より新しい感染症での死亡のほうが多数であった。インカ帝国、アステカ帝国の滅亡も同時代である。
 現代はグローバル化が益々進んでいる。各国は経済、文明交流などあらゆる面で緊密となり不可分の関係にある。DX化による近接化と並行して物流、人の交流も活発になっている。一体化の反面、自国主義の主張も強まっている。感染症はそうした人間の行動を嘲笑うように、世界中の人の営みをいきなり止める威力を持っている。
 今回、いろいろな問題点が浮き上がった。PCR検査、コントロールタワー・司令塔の在り方、日本のITの活用の未熟さ、特に行政関係医療関係での改善などである。
 以前にある保健師と話をした時に感じたのは、相当のプライドを持っているなということである。そこらの看護師と一緒にするなということである。今回厚労省の保健関係の医官グループが感染症対応の中心らしいが、PCR検査が増加しなかった原因は厚労省の村意識が強く組織の自己保全が原因の一つに思える。感染判明者の急増による医療体制崩壊を避けるためらしい。韓国みたいに検査拡大、軽・重感染者の簡易収容施設の早急の確保は出来なかったのか?京大の山中教授が全国の大学・大学病院のPCR検査機を総動員すれば一日10万件ぐらい可能としているが、どうも大学関係は文部省管轄のため厚労省が動かないらしい。行政縦割り意識、旧態依然の組織人間である。迷惑なのは国民なのだが。簡易検査、唾液検査などへの対応もぎこちない。司令塔の在り方もセクショナリズムが感じられ良く練られた的確な指令とは思えない。IT関連では種々の給付金の請求の遅れが実例で明白である。マイナンバーも普及の遅れの原因探求と解決対応の行動が無かったこと、感染アプリ等の必要性はじめ感染症に対する平時の対応策がなかった。水害、地震などへの自然災害対応に比べかなり遅れている。今月初めに、練馬区から抗体検査の対象になったので出頭要請があり受けてきた。陽性ならPCR検査をされるのかな?陽性なら隔離されるのも嫌だなと思っている。更に検査結果報告まで1か月かかるそうだ。先般の10万給付もネット申請から2週間かかった。いずれもシステムがオンライン化してなく目視でアナログ的に確認し手作業でインプットするためで時間がかかるらしい。感染者数の把握方法、手順も電話中心なのだろう。IT化が遅れている。統計、傾向分析、予測ももっと迅速・省力にできるのではないだろうか。いずれにしても新ノーマルか、新しい社会環境、社会システムが生まれるのだろう。世界の人々の意識にも大きな変革が起こりそうだ。医療崩壊の防止策に財政対応が必要だろう。子ども食堂、弱者への食品提供など心温まる報道もあった。日本も捨てたものではない。


                                       


 



猖獗(しょうけつ)の旅

小林 康昭  20200620

 大広間に、大勢の人が普段着のままで、畳の上に横たわっていた。敷布団も掛布団もなかった。男も女も、大人も子供も、息を荒くして、胸を大きくはずませている。時々、弱弱しく咳をした。「おかぁちゃん」と子供の声がした。顔は真赤に腫れあがって、おでこから顎の下まで、水玉の汗が噴き出ている。その汗の粒が、頬っぺたや耳のわきを伝って流れ落ちる。背後から、厳しい声が飛んできた。「そっちに行ってはいけません!」母の声だった。「うつるじゃないの、病気に。何度言ったらわかるの!」目の前で横になっているのは、伝染病にかかった人たちだった。
*  *  *
 その日は、昭和20年8月18日。そう特定できるのは、8月15日から三日経っていることを覚えていたからだ。8月15日は、天皇陛下の玉音放送があった日だ。その日は、満州の首都、新京の駅の避難列車の中だった。国境を超えて露助が攻めてくるので、追いつかれないように、早く逃げようと急かされて、満鉄の支線、白新線沿線の安広駅から避難列車で新京駅までやって来たのだ。露助とはソ連の兵隊を軽蔑する日本語である。
新京駅で列車は止められた。「玉音放送がある。下車して拝聴するように」と。男の人たちが駅長室に行った。残りの者は、ホームでトーホーヨウハイをした。ホームに七輪が転がっていた。先に通過していった避難列車の人たちがご飯を炊いた跡だった。男の人たちが戻って来たので、列車がまた走り出した。行先は奉天か大連。だが手前の公主嶺の駅で、列車は動かなくなった。男の人たちが降りて、様子を見に行った。「線路の先に、露助の戦車が通せんぼしている」 露助に追いつかれて、先回りされたのだ。全員が列車から降りて、空き家になっていた旅館に入った。
*  *  *
 大広間に落ち着くと「お腹が痛い」とか「頭が痛い」と、大勢の人が横になった。翌日になると数が増えた。その翌日はもっと増えた。僕もお腹が痛くなってきた。母が僕の額に掌を当てた。「熱があるみたいだねぇ。やっぱり、おまえも」 横になっていると、頭が痛くなってきた。母がご飯を持ってきたけど、食べたくない。それなのに、便意を催す。ほんの少しだけ水便が出て、肝心の便は出なかった。顔が汗だらけになって皮膚がぶよぶよする。痒くなったので掻くと、鼻の皮がむけたようだ。「顔をいじっちゃいけません!」 手袋をさせられてしまった。母が僕の鼻を拭いて、顔をしかめた。血がついていた。掻いた痕は、十歳ごろまで傷になって残っていた。僕と同じ年の男の子が死んだ。
*  *  *
 全員が新京に戻ることになった。列車が待機している駅まで歩く。父は妹の手を引きカバンを提げて、リックサックを背負う。母は背中に弟、肩から胸にリックサック、両手に風呂敷を下げた。僕はリックサックを背負って、手すりや壁を伝いながら、二人の後をノロノロとついていく。途中で、ズボンを下げて便をする。やっぱり、便は出ない。公主嶺の駅は跨線橋を超えた向こう側だった。跨線橋の階段の下で見上げると、父と母が階段の上から見下ろしていた。 
 右手で階段の手すりをつかんで、左足を階段の一段目に乗せた。そして、右足を上げようとしたが、上がらない。右足に替えて左足を上げようとしたが、駄目だった。見かねて、父が妹を下ろして降りてきた。父が僕の手を握って引きずり上げる。でも、左足が踏んでいる段を跨いで、その上の段まで右足が上がらない。左足と同じ段に乗せるのが精いっぱいだった。今でも、幼児や老人が階段を一段ずつぎこちなく上がっていく姿を見ると、当時の僕を思い出す。階段の上で母が叫んだ。「あぁ、お父さん、汽車が出て行くよ」 跨線橋をくぐる蒸気機関車の煙が噴き上がってきた。幸い、公主嶺の駅には、避難列車が幾つも残っていた。僕たちはその列車で新京に戻って、みんなと合流することができた。
*  *  *
 翌年の8月の初旬、内地に向けた引揚げが始まった。その下旬、渤海沿岸の葫蘆島から引揚船に乗った。これで間違いなく、内地の土を踏めるのだ。だが、船倉には、横になって喘いでいる人が多かった。病気の検査が始まった。  
 甲板に上がって、お医者さんの前で、後ろを向いてズボンを下げる。上半身を折り曲げて、お医者さんにお尻を突き出す。お医者さんは「割り箸」をお尻の穴に突き刺す。その割り箸を引き出して「ハイ、よろしい」と声がかかると、姿勢を戻してズボンを上げる。この検査が毎朝、繰り返された。時々、船倉から布に包まれた死体が担ぎ上げられる。その死体は包まれたまま、甲板から海面に降ろされて水葬にされた。父が言った。「本船でも、流行りだしたようだな」
 葫蘆島を出航して五日目に、引揚船は博多港の沖合に停泊した。だが、岸壁に近づかない。そして「割り箸」の検査が何日も続いた。その間に、死ぬ人が出てくる。男の人たちが怒鳴った。「死ぬまで俺たちを降ろさないのか!」と銃剣を振り回した。上陸することになって、船が岸壁に横付けされた。船腹にかけられた階段を下りて、岸壁に立った途端、いきなり、真っ白な粉が全身に吹き付けられた。舞い上がる白い煙の向こうで、黄土色の小さな帽子をかぶった進駐軍の兵隊が笑っていた。後で聞いた話では、この白い粉は、蚤や虱を殺す殺虫剤だった。
*  *  *
 みんなは、博多の大濠公園の池の周りの、にわか作りの掘っ建て小屋に入った。毎日、「割り箸」検査がある。数日後にその小屋を出て、博多の駅から郷里に向かった。英語を解した父によると、進駐軍の軍医が引揚船の状態を「あれじゃ死刑囚を閉じ込めて浮遊する刑務所だ」と批判したそうだ。だが、わが国のこの水際作戦は、今も変わらない。
 二年後、引揚げ先の郷里で赤痢が蔓延した。保健所から保健婦が調査にやって来た。父が、保健婦に応えていた。調査票の僕の病歴には、昭和20年チフスと書かれてあった。今、震災などの避難所生活のテレビ映像を見ていると、当時の大広間の光景を思い出す。チフスや引揚船のことは、以前に、別の視点で、練稲エッセイに書いたことがある。


                                       


 



「四角号碼」(しかくごうま)という辞書

高橋 正英   2020年4月15日

 新学期を迎えて、どこの本屋の店頭にも、例年の通り辞書が山積されている。もう私は、進学や受験とは縁遠い年齢になってしまったが、やはり、この時期の新しい辞書の並びを見ていると何か昔を思い出して心があらたまる感がする。
 辞書で苦労したこと、それは中国語だ。外国人が中国語を習うには、先ず漢字の難関を突破しなくてはならないが、日本人は漢字文化圏にあるのでそれほど苦労はしない。しかし、現代中国語はいわゆる ”漢文” ではないので、漢字それぞれの字の発音とアクセント(四声)は新たに習わなくてはならない。つまり、新しい単語に行き当たると、まず発音がわからない、そうなると辞書が引けないから意味も分からない、仕方なく漢和辞典をそのたびごとに一字一字引かなくてはならない。英語は、アルファベットをたどってゆけばその単語にすぐ行き当たるが、漢字は部首でアプローチするか、総画数で探さなくてはならない。この作業のめんどくささと、費やす時間の多さには閉口する、途中で投げ出したくなるのである。
 この困難さは、何も外国人だけではないようで、中国人もかつては苦労していたようだ。私も中国語を習い始めたとき、このとてつもない厄介な作業が嫌になって半ばあきらめかけたとき、ある先生が教えてくれたのが、” 四角号碼”という辞書である。以来 、この” 四角号碼辞書”を引くのが 面白くなって,どんなに目新しい漢字に出会っても何ら恐れを感じなくなった。これは 1920年代に 王雲五 という人が考案したとのこと。使い方のいくつかのコツを理解すれば誠に便利で検索が早い。
 その概要は、漢字の四つの角を、左上→右上→左下→右下の順に「四隅の形」を既定の数字にあてはめ、その4桁の数字が狙った漢字の固有番号となる、その番号を辞書から探せばよいのだ。
 「なべぶた」部分は0、「横一文字の一」は 1、「縦の棒l」は2、「点﹅」は 3、「縦横線の交叉十」は4、、などのいくつかの決まりの数字を当てはめてゆく。例えば、高橋の高は、0022、橋は4292である。少し慣れればいかなる漢字も、ものの数秒でそれぞれの数字が浮かび上がるのである。ご存じの通り、今、中国語/漢語を使用している国で、大陸の中国は独自に開発した簡体字を使用しているし、香港台湾 は従来とうりの旧態字を使っている。四角号碼辞書はその双方にも使用可能である。
 しかし、現在の、中国では発音はローマ字方式で表記していて、辞書はABC順になっている。
 近ごろでは多くの人が電子辞書で画面をなぞって検索したりしている。もはや電子化の流れの中で 四角号碼は 消えゆく運命の辞書であるようだ。日本では、大修館の”大漢和辞典”などいくつかの辞書で採用されているに過ぎない。若い中国の友人に聞いても、四角 号碼 辞書は知ってはいるが、使わないし、当然ながら、今はスマホやインターネットで調べていて手元に”紙の辞書”は持たないのがふつうである、とのこと。確かに私も、最近、無理してスマホの世界に入り込んだのだが、その簡便さのとりこになっている。紙の辞書は、日本でも中国でもすでに、教育用にのみ使用されているのだ。
 それにしても、今年の学年末と新学期を襲っている、目下の新型コロナはどのような収束を見るのであろうか。中国政府の相変わらずの隠蔽体質による責任は重い。この感染症の終始を内外でしっかりと検証し、将来につなげなければ、第二第三の災いがありうる。
 例年のように、新鮮な気持ちで書店の新刊辞書を手に取る日が早く来てもらいたいものである。
(了)

 

                                       


 



春の床屋

照山 忠利  2020・4 

 「ワイドショー今日も出ているコロナの女王」…連日連夜テレビのワイドショーは新型コロナ関連の話題をこれでもかというほど流している。同じような顔ぶれで同じような内容の話を飽きもせずに。こちらは“外出自粛令”で家に閉じ込められているから、テレビは一日中つけっぱなし。仕方なくコメンテイターの発言を聞いている。「A国ではこんな対策を迅速にとっている」、「B国では躊躇なくお金を配っている」、「PCRの検査も大幅に数を増やすべきだ」、「ワクチンと有効薬の開発を急がせよ」、「抗体検査を早急に」などなど。いちいちごもっともなご意見ではあるが、無責任な言いたい放題の感もある。足止めにイラつく視聴者は「そうだそうだ」と雷同して政府が悪い、遅い、なってないと八つ当たりする。テレビ局はほかの話題の取材余力がないのか、これを流しておけば視聴率が稼げると考えているのか、いい加減にしてもらいたい。と思っていたらテレビ朝日の看板「報道ステーション」の富川アナがコロナ感染で入院したという。これまで「三密を避けて」とか「ステイホーム」とか呼びかけていた張本人がやられたとあっては漫画的である。各局はあわてて出演者同士の間隔を広くしたりテレビ会議式に切り替えたりで大わらわの体だ
 こうした騒ぎで今年の桜は人々に愛でられずにむなしく散ってしまった。本来なら春の主役として持て囃されていたところだが、にっくきコロナめに出番を封じられたといっていい。だが私は、桜が嫌いではないけれど「桜花爛漫」の春よりもう少し早めの「梅花の候」の方が好きだ。寒い冬を乗り越えた人たちをねぎらうようにつつましく咲く梅の花は、どこか凛とした気品を感じさせてくれる。時季を同じくする水仙や沈丁花なども好ましい。この時期に行く床屋(近頃は理髪店というそうだが)の雰囲気は特にいいものだ。
 遠い昔の少年時代、通った田舎の床屋のことを思い出す。余寒に早春の光が満ちるなか石油ストーブのやかんがしゅんしゅんと小さな音をたて、ラジオからは軽快な音楽とDJの軽妙な語り、石鹸の清潔な匂い、整髪料のさわやかな香りなどに包まれて剃刀をあてられていると、ついまどろんでしまう。倒した椅子の背を「起こしますよ」の声に我に返るまでの時間は至福のひと時といってもよかった。
 一昨年末、実家の跡継ぎの弟が69歳で急逝した折、その床屋のおかみさんが逸早く弔問にかけつけてくれた。何十年ぶりかの再会に、亡くなったばかりの故人の枕元であるにもかかわらずつい昔話に花を咲かせてしまった。「お父さんからあなたの話はよく聞かされましたよ。高校に入学したとき、野球部に入って甲子園にいくから修学旅行の積み立てはいらないといったとか」。確かにそれらしいことを言った記憶はかすかにあるがもう50数年も前のこと。親父がそんなことまで床屋のおかみにしゃべり、それをまたおかみさんが憶えていたとは、驚き桃の木山椒の木であった。
 ある西洋の偉人が「剃刀で髭をそられているときこの理髪師が突然発狂したらどうなるか」とおののいた話を読んだのはずっと後のことである。
(了)


                                       


 



四季の記憶62「死ぬ時くらい好きにさせてよ」

鈴木 奎三郎   2020・4・12

 二十四節季は「立春」を起点に、「雨水」「啓蟄」「春分」そしていまは「清明」である。関東では桜もほぼ終わり、これからは青葉若葉の季節ですべての命が輝くころとなる。しかし新型肝炎とかで、このところ世界中が暗い話ばかりになってきた。どうやら早々に終わるような状況ではなく、外出自粛とかで動きが取れなくなってきた。去年の今頃はインバウンドで賑わっていた銀座のデパートやブランド店も、人出が減ってすっかり様相が一変した。道路をふさぐようにインバウンドの人だかりがしていた銀座の街並みも静かになってきた。銀座通りに停まっていた大型バスもいまや影もない。株式市場も明るい話は皆無で、なにやら不況の影がヒタヒタと迫っている。

 コロナ騒ぎに続いてなにか天変地異でも起こるのではないか・・と心配になってくる。富士山の噴火や関東直下型地震、それにともなう大津波、洪水など・・考え出したらキリがないし、どうすることもできないが、悪いことは重なるものである。せいぜいできることといえば、我が家と家族の安全を祈ることぐらいである。
 先日、一年半ぶりに荻窪の衛生病院で人間ドックを受けた。例によって、肺のCTスキャン、胃カメラはじめ細部にわたって検査してもらった。前回は脳ドックもやったが今回は割愛した。送られてきた結果では特段の異常はなく安堵した。これといって節制しているわけでもなく、これは母親から受け継いだDNAによるものであろう。唯一、肺機能はD評価であり、これは前回同様だ。18才から70才までの長年の喫煙のツケが廻ってきたのであろうか。

 先日見た、「三島由紀夫VS東大全共闘」は見ごたえのあるドキュメント映画だったが、演台の三島はショートピース3箱を持参していてほか全員がしきりにタバコを吸っている。60~70年代の日活映画は、登場人物が全員もくもくと煙を吐いている。当時、タバコはファッションであり文化だったのだ。いまや、タバコは嫌煙権運動に押されて見る影もない。変われば変わるものである。ぼくの禁煙は70才のある朝、突然煙が嫌になったことによる。多分、体がこれ以上は無理ですよ・・と危険信号を発したのではないかと、根拠のない確信を持っている。もうこれから先タバコを吸うことはないだろう。

 最近はあまり聞かなくなったが、ひと頃「人生1000年時代」という、政府のお仕着せのような標語があった。医療や介護といった社会保障はお手上げ寸前で、打開策として高齢者にもできるだけ長く働かせよう・・という思惑が見え見えである。もちろん皆が100才まで生きられるはずもなく、平均寿命くらいは生きたいと思うのが普通だが、平均寿命ではなく自分の年齢であと何年生きられるかという「平均余命」で考えるのがいいのではないか。
 ずっと元気でいて、ある日突然苦しまずに突然亡くなる「ピンピンコロリ」が理想だが、残念ながらこういうケースはめったにないそうである。病気やケガ、認知症などにより、不自由になった体で生きる期間は平均で男性9年、女性13年が実情だそうだ。ただ実感としては、一年をそこそこ楽しく無理なく生きるにはそれなりのコストがかかるという事実である。

 一昨年に出た橋田寿賀子の「安楽死で死なせてくいださい」、昨年の樹木希林の「120の遺言」はいずれもベストセラーになった。決して楽しく明るい本ではないが、長寿社会の明暗を描いている。樹木の本の副題にあるように「死ぬ時ぐらい好きにさせてよ」の言葉は多くの共感を得たのではないだろうか。
 誰でも死ぬのは怖いし、少しでも長生きしたいと願うのは自然な人間の本能だが、凡人にはなかなか西行法師の辞世の句「願はくは花の下にて春死なん・・」の心境に至ることは難しい。
 どうもコロナ禍のせいで、話が「四季の記憶」から離れてしまったことをご容赦いただきたい。
2020・4・12 鈴木 奎三郎 

西行法師:「願はくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」


                                       


 



隅田の川風

小林 康昭  20200414

 娘が誕生を過ぎたばかりの頃だった。玩具を手にした娘をあやしながら手に取ったのは、当時、売り出し中の人気作家のベストセラー小説だった。主人公は貧しい大学生だ。大学に納める金の都合がつかない。納入期限を過ぎたら大学から督促状が来た。二つ分ためると警告書が来る、三つためると学籍抹消。主人公は苦労して工面に努めたが、遂に学籍を抹消されてしまった。通告を受けて打ちのめされる主人公の姿は身につまされて、読んでいるうちに感情が激してきた。その時、目の前の娘の気配に気がついた。眼を一杯に見開き、泣きそうになって頬を紅潮させている。一瞬、驚いたが、娘は、涙目になっている父親の姿に動転したんだ、と分かった。
 慌てて、娘を引き寄せて、頭と背中を撫ぜて抱きしめてやった。学生時代の記憶がよみがえって来たんだ、その時。
*  *  *
 貧しかったから、受かった国立に決める積りだった。だが、親父は、早稲田の理工科に受かったと、自分の同級生の一人に電話で吹聴した。その人はその時、早稲田の教授だった。折り返し「調べたら入試の成績が凄く良い」入学して申請すれば、授業料免除は確実だと電話が来た。それで早稲田に決めた。ご宣託の如くその選考に合格した。育英会の奨学金も決まった。アルバイトで生活費の目途も就いた。それで、家を出て下宿に移った。アルバイト先は隅田川沿いの浜町の料亭で電話の交換台。午後五時に昼番の交換嬢と交替、午後十時までの夜番。面接でマネジャから「学生運動と女性従業員に手を出すと即座にクビ」と言い渡された。安保闘争の学生運動に神経を尖らせていた。職場は女が約四十人、男は八人。これだけ女が多いと色んなことがある。前任の学生は、職場の女に手を出してクビになっていた。
 勝子さん、桐子さん、静子さんの三人のお姐さんが、お座敷を仕切っていた。一番若い勝子姐さんは派手な美貌で気が強い。やや年長の桐子姐さんは穏やかな感じのしっかり者。最年長の静子姐さんは﨟たけた人だった。勤務が終わると、マネジャに挨拶して帰途に就く。お客さんを玄関で見送ったお姐さんたちと廊下ですれ違う。その時、呼び止めたのは、桐子姐さんだった。「あなた、お幾つ? うちの娘、貰ってくれないかしら、今、九州の実家で高校に通ってるけど、美人よ。私が言うのもなんだけど」そして、体を寄せて「お腹がすいたら、私のツケで厨房から好きなもの取り寄せて頂戴、遠慮しないで。時々、実家に電話することがあるから、その時はお願いね」と声を潜めた。「お願い」とは、長距離の私用電話料をお客さんの請求書に適当に回してくれ、その見返りにタダメシを、ということなんだ。
 二学年次の夏、大学から督促状が来た。大隈賞は卒業までと誤解していたが、期間は一年限り。その後の授業料は、納入義務があったのだ。そこから苦労が始まった。大学と料亭と下宿を往復する生活は、昼間の時間的余裕がない。夜番の後、道路工事で深夜勤務して、朝、大学に直行する。授業中に眠ってしまって、二学年次の成績はがた落ちになった。警告書が来た。次は学籍抹消だ。一回は納入して延命を図りたい。その期限が五日後に迫った。頑張って工面したが、やはり金額が足りない。最後の手段は血液銀行だった。不足額に必要な売血は三回。その三回を四日間に強行した。
 ところが、不在中の下宿に泥棒が入った。そして、なけなしの金を全部盗られてしまった。もう為す術はない。交換台に一人で座っていると、絶望感で涙があふれて頬を伝って落ちる。勤務の後、廊下で桐子姐さんとすれ違うと「どうかしたの」と顔を覗き込まれた。背けて視線を避けた。「ここではなんだから」と物陰で詮索された。それで、顛末を喋りはじめた。声が震えてくる。耐えきれずに、途中で桐子姐さんの前から離れた。桐子姐さんは黙って見詰めていた。
 大学から呼出しが来た。学生証を所持して出頭、と指示がある。これは最後通牒なんだ・・・。翌日、窓口で所属と姓名を名乗ると、格子越しに「学生証!」と促された。スタンプを押す音が何度か鳴った後、戻ってきた学生証には受領スタンプが押されている。唖然とする僕に現金書留の封筒が示された。発信人の欄の僕の姓名はマネジャの字だった。
 その夜、勤務に就く前、マネジャの席の前に立った。マネジャは僕を見上げて「何だ、どうした」と、とぼけた口を利いた。お礼を言おうとしたが、気持ちが高ぶって言葉にならない。背中を押されて隣の応接間に移った。マネジャは、僕に何も言わさずに「今まで通り、真面目にやってくれれば良い、返す必要はないから」と、直ぐに部屋を出て行った。
 三学年次は集中できたので手応えがあった。大隈賞に申請すると確信通り選考に合格。四学年次の授業料は免除になった。四学年次は卒業論文の執筆だけで、時間的に余裕が出来た。単位をとっていた製図と設計の腕前を生かして、設計事務所のアルバイトで稼いだ。その金を、マネジャの自宅に持参した。テーブルの上に包みを置いた。「返す必要ない、って言っただろう」とマネジャは、渋い顔を見せた。お陰で勉強に集中できて・・・、と事情を話すと「そんな大事な金は・・・」と、やはり躊躇している。「こうすることを励みにして、私は・・・」 僕は、涙声になってしまった。
*  *  *
 今から数年前、練馬稲門会で相撲部屋訪問の募集があった。幹事の指示に従って東京メトロの浜町駅に降り立った。駅を出ると見覚えのある浜町公園。道をたどって隅田川の川岸に出た。川面を、高速道路の高架橋が覆っている。
目指す場所は、ビジネスビルに変わっていた。道路の反対側で作業をしている老人に「あそこに料亭があったのですが・・・」 知らんなぁ、と彼は答えた。諦めて集合場所に走った。すでに参加者が全員、顔を揃えていた。
*  *  *
 通勤途上、高田馬場駅の山手線外回りに乗り換える。プラットホームに立つと眼下は早稲田通りだ。横丁の「さかえ通り」と大書したアーケードを潜って、数軒先を左に折れると、右側に血液銀行があった。
 寝台に横臥して片手を幕の隙間に差し込む。針で刺される痛みがあって、幕の向こうから声がかかる。その声に合わせて、掌を開け閉めする。終わると「直ぐに起きなくても」とお金と牛乳瓶一本渡された。その血液銀行も、今はない。


                                       


 



教室点描-突然の空白

富塚 昇   2020年4月12日

 「生徒のいない学校って静かでいいなあ」。修学旅行や遠足、休日の行事の代休などでたまたま学校に生徒がいない日があると職員室で「お約束」のように言われることがある。しかし、それはたまたまいない場合で、ずっと生徒がいないとなればそういうわけにはいかない。学校の先生は生徒がいるから先生なのであって、生徒がいなくなればただの人になってしまう。もっとも生徒がいても単に「先」に「生」まれただけの存在であることには違いはないが。
 新型コロナウィルスの感染防止のために、2月の末、教育委員会からの通達でそれ以降の行事の制限や卒業式の縮小が決められ、卒業式に保護者も参列できないこととなった。その後、ご存じのように全国の学校の休校の要請が行われた。
 卒業式に保護者が出席できないのはちょっと気の毒なような気がした。わが家でも下の子が高校卒業の時に東日本大震災の影響で卒業式が縮小されたが、それでも保護者は出席することができた。私は自分が高校教員であるということもあるのかもしれないが、子どもが高校を卒業する時には、小学校や中学校の卒業とは違う感慨があったことを記憶している。
高校の卒業式は子どもだけでなく、親にとっても親としての通過儀礼の意味を持つように思うのである。また、大学の入学式も中止された。先日も早稲田に合格した生徒が喜んで担任に報告をしていたのだが、入学式が中止になったことをとても残念がっていた。卒業式や入学式の縮小・中止はやむを得ないことではあるが、人生の節目の儀式の重要性をあらためて考えさせてくれた。
 そして、学校では新入生を迎えるための最低限の準備が進められるなか、休校が延長されることになった。そんな中で、私はこの4月、都立高校の教員の異動の原則年限をふまえ6年間務めたT高校からJ高校に異動することになりました(T高校はいわば進学校で、J高校は中堅校といわれるのですが、左遷されたというわけではありません)。
 転勤した新しい高校でも早く授業をやりたいのだがこの先どうなるのだろか。緊急事態宣言が発せられ、教員も在宅勤務が推奨されることになった。これからの期間、まずは自分や周りの人たちの健康管理に気をつけてすごすことが第一に重要なこととなる。その上で、今まで後回しにしてきた古典的な文献をしっかり読んで、授業に生かせるようにしよう。最初はそのようなことを考えていた。しかし今回の事態はそれだけでは収まらない。感染の拡大をもたらせたと言われるグローバリズム進展の意味もしっかり考えたいことである。今まで当たり前だった日常が一変するなかで、個人と社会の関係のあり方が問われる問題が見られるようになっている。政治の面でも今まででは考えられないようなこともあった。例えばイギリスのブラウン元首相は「一時的な世界政府の樹立」を呼びかけたことなどがその例である。この問題などはすぐにでも授業で使えるテーマである。新型コロナウィルスが無事終息し学校が再開されたあかつきには、人間と社会の関係のあり方についてより深い考察をする授業を行えるようになっていたいものである。そのために、まずはカミュの『ペスト』を読むことからはじめることにしよう。

 

                                       


 



新型コロナウイルスあれこれ

古内 啓毅  2020・4・15 

 年明けて、新型コロナウイルスがこの世界にとんでもない逆風をもたらしている。日本政府はコロナウイルスの感染者数拡大を受け、ようやく4月7日になって、緊急事態宣言を発令した。対象は、東京、神奈川など7都府県で、期間は大型連休が終わる5月6日までの1か月間。これにより対象区域の各知事は、外出自粛要請や施設の使用停止といった私権の制限を伴う措置が可能となった。

 東京都は、外出自粛の徹底、いわゆる「三密」(密閉された場所、密集した場所、密接した場面)を避けること、人と人の間を2メートル確保すること、手洗いうがい、咳エチケットなどで予防すること、食料品や医薬品などの買い占めをしないこと、などの呼びかけを行うと同時に、各施設やイベント主催者には施設の使用制限・停止を要請した。しかしながら、宣言が発令され1週間余り経過するが、感染者数の拡大は続いている。

 連日、海外、日本の各地からコロナウイルスという目に見えない敵と戦っている状況や被害がテレビや新聞紙面にあふれているが、そのすさまじさにおののいてしまう。コロナウイルスにやられないように、緊急事態宣言が発せられる以前から、予定されていた諸会合はすべて中止あるいは延期としてきている。現在は、超高齢者で年金生活者の老妻ともども、かかりつけのクリニック、病院、それに食材などの調達に近所のスーパーに出向く以外は外出を自粛し蟄居している。

 しかしながら、日夜奮闘している医療従事者、出勤者数削減を要請されている企業、就労者、使用制限・停止を要請されている事業所、従事者など多くの人たちから、補償なき自粛要請を改めるべきだなどと、悲痛な声が聞こえて来る。心が痛む。これまでの政府の対応は後手後手だ、どこを向いての施策か、といった批判もおこっている。

 14日、国際通貨基金(IMF)は世界経済見通しを公表し、感染症対策として実施された外出禁止や集会制限が消費や生産に悪影響を及ぼしているとして、今年の世界全体の実質成長率をマイナス3.0%と予測した。1930年代の世界恐慌以来、最悪の景気後退となるだろう、金融危機「リーマンショック」後の2009年に記録したマイナス0.1%を上回る景気悪化になると説明した。新型コロナが収まったとしても、そのあとに失った経済規模を取り戻せるほどの力強い景気回復を遂げることはないとの見通しだ。

 ともあれ、新型コロナウイルスの大流行はいつ終わるのか。そのメドは?ワクチンが開発されるか、国民の6、7割が感染し免疫を持つに至るまで、と言われている。京都大・山中教授は「コロナウイルスとの闘いは短距離走ではありません。1年は続く可能性のあるマラソンです」という。

 闘いはまだまだ続きそうです。


                                       


 



コロナ事情

加藤 厚夫  2020・4・15 

 長野で販社を立ち上げたとき、管轄支店の付き合いで買わされた車がマツダのカペラだった。まだオートマ技術について行けなかったのだろう、たびたび交差点の真ん中でエンストを起こす恐ろしい車だった。さすが命の危険を感じ半年でトヨタの新型コロナに乗り換えたのを思い出す。このトヨタ車は快調で燃費効率も倍良かった。それにしてもこの
車名を早めに廃したトヨタは正解だった。ホッとしているところだろう。
 毎日暇なので、テレビでコロナ騒動を見ていると傑作なことばかりで飽きない。   

・ 先ず総理大臣がじきじきにほめているアビガンだ。日本製で200万人分もあると繰り返し誇る。そしてどの専門家も必ず言う。副作用があり胎児に影響を及ぼす恐れがあるからと、後はモヤモヤとして終わる。あほか!感染者がみんな妊婦なのか、感染蔓延でパニックになっているのになにを寝ぼけたこと言っているのでしょうか。国民はいつから使えるかが早く知りたいだけだ。

・ 貴重なマスクを二枚もタダでいただけるそうだ。さすが安倍総理、鶴の一声で決まった。だから会見の際には意地でもその小さな布製を付けて、でかい顔をはみ出させて登場する。しかしほかの大臣はみなビッグサイズの使い捨てを付けてぞろぞろとついて歩く。百合子知事に至ってはさらに顔半分以上を覆うやつをつけて対抗している。きっと総理独特のユーモアなのだろう。

・ WHOテドロス事務局長が、日焼け面でたびたびテレビに登場する。まったく影響力がないのに偉そうなコメントを発するが、誰も聞いちゃいないことに気づいていないのが滑稽だ。そしてトランプ氏お前は中国の手先だ給料はもう払わんと赤い顔で怒り狂った。

・ 週刊誌にコロナの女王と書かれたコメンテイター元免疫所員で大学教授の岡田さん。
その姿の変容ぶりが見ものだ。初めの頃はバサバサ髪でのご登場だったのがいつの間にか横髪に部分カールが付き、今や美容室に毎日通い、つけまつげにパーマまでして登場してくる。1カ月で5年分を稼いでしまったのだから無理もないが羨ましい限りです。

・ 昔学んだサミュエルソンの経済学がアメリカの死者数中身の実態を解明した。ヒスパニック系の多くは貧困層でスパゲッティなどの劣等材ばかりを食うので肥満体が多いという説。それが死亡率を高めている原因だとわかった。スペインでも死亡率が高い。国民がBCGを受けてないので免疫性がないとする説もある。日本で早くその有効性を検証して欲しい。

・ 渡りに船とはこのことだ。アパホテルが病棟としても借上げられた。中華人客や東京五輪を当て込んで次々ホテルを建てたが、コロナ騒ぎでここ数年は誰も来ないことになってしまった。慌てた帽子がお似合いの女社長はお国の役に立てばと即快諾された。
 国会の先生方の給料がカットされるそうだ。当然だがたったの二割だ。今後襲う未曾有の大不況に立ち向かう気概が全く感じられない。いまが衆議院議員定数を半減し、参議院議員を当面休会にする絶好のチャンスだ。早くしないと財政も破綻してしまう。

・ なお来月に10万円を頂ければ、上記安倍さんへの皮肉文は直ちに撤回いたします。


                                       


 



灯台下暗し

谷川 亘    2020年4月15日

 私の住んでいる練馬区関町の西武新宿線の線路に並行して石神井川が流れており、3月も半ば過ぎると川辺の桜花がほころび出して、最盛期のそれは圧巻です。
 ちょっと上手には「武蔵関公園」が鎮座し、池の周りの染井吉野も呼応して満開となり、散歩がてら池の周りをヨタ歩きするのが数年来の習わしとなっております。
 特に、今年は新型コロナウィルスが蔓延し、上野のお山の櫻狩りもマスクスタイルで“肩身の狭い”思い持ちつつ、行き帰りの車中では“密閉・密集・密接”の三密回避を心がけては目にも見えない敵に怯え通し。もちろん歌舞音曲の類もご法度で酔っ払う暇もない。そうですよ。ノコノコ足延ばしての櫻狩りは去年までの話だったのです。

 こんな“近間”に、こんなに素晴らしいくつろぎの場があるなんて・・・。
 近くに住みながら、「灯台下暗し」とはこの事なり。
 かねては一周1.2㎞の池端に沿ってひた走り、5周回ったころで息も途切れ途切れ。やれ何分だの何歩だったのと一喜一憂した中年時代もありましたっけ。それが今では、あご突き出してへっぴり腰。「ヨタ歩きもいい加減にしろ!!」と、自ら叱咤激励する年令に成り下がったとは・・・。
 自宅周りの一万歩コースのひとつなのですが、ここ関町公園から早稲田大学東伏見キャンパスのグランドや厩舎沿いに石神井川を左に見つつ、「東伏見稲荷神社」に至ります。境内で一服させていただいてから一旦青梅街道を突っ切ってしばらく行くと、玉川上水と袂を分かった千川上水にぶつかって「関前橋」を左折。暫し川面の桜花を愛でつつ、「更新塚」から再度青梅街道を過ると拙宅はもう間近か。
 道筋全体を通して桜花を愛でる、他ならぬ“桜づくし”の散策路そのものなのです。東伏見稲荷神社にも社殿の奥手に素晴らしい大桜がありますし、千川上水沿いにも水面に沿って桜木の植栽が出迎えてくれるのです。
 桜と申せば、拙宅の桜木の記述なくして本欄を閉じることは出来ません。 かねて建替えの時期に猫の額の様な庭にあった山桜を伐採することになり、ソメイヨシノの苗木をその後継役として植えたのですが、今では幹の太さは1.3mを上回る勢い。二階の屋根にぶち当たるばかりか塀を超して隣人へのご迷惑。毎年、植木屋さんと“切るか切られるか”の論争の泡飛ばしたのですが、妥協策として幹を残して枝という枝を伐採されて、「今年はもう咲けないのだろうなぁ」と懸念してもどこ吹く風。この時節、二階のベランダから手を差し伸べると、なにか言いたげに満開の桜花がそっと手元に納まる。
 春爛漫。それこそ「灯台下暗し」。気付けば正しく、“練馬の花見”なのです。 
 律儀にも、今年もまた咲かせてくださいました。 


                                       


 



彼岸花

鳥谷 靖子  令和2年2月15日 

 昭和50年代、豊島園の裏に住宅を購入。新築祝いに母が1枚の油絵を送ってきた。暗い背景のなかで浮かび上がる様に並んで咲いている真っ赤な彼岸花の絵。
 約三十年後の新緑の5月、94歳になった母が、九州から上京し、一緒に暮らすことになった。「1人娘として可愛がられたまま、何も親孝行も出来ず、このまま母を見送ることになるかもしれない」心苦しく思い、「東京に来てね、いつでも歓迎するわ」と言うと「狭くて、庭のないような家に住みたくないわ」と言い続けた母の同居を心から喜んだ。夫の実家は都内にあり、看病や見送りは終えていたので、すんなりと家の一員になる。子供達は独立し、夫と母と三人暮らし。母の以前の溌剌とした姿は消えていたが、秋頃までは元気に三人で近郊に散歩やドライブに出かけたり、子供達の家族と集まりバーベキューをしたりして、穏やかな時間を一緒に過ごすことができた。 
 寒さが厳しくなった頃から、母の認知機能の衰えが加速し、母が一番親しかった姉と娘の私を勘違いするようになり、「ナアちゃん、ナアちゃん」と呼び始める。それ以降、色々な事が出来なくなり、翌年には要介護2になり、デイサービスを受けるようになった。シルバーカーを購入し、天気の良い日は近所に散歩に出かけた。
 そんな時私が書いた詩がある。
 「二人で歩く散歩道 道端に咲く赤い彼岸花 シルバーカーの手を休め じっと花を見つめる後ろ姿   
 『わたし、彼岸花が好きなの』と言ってたね 優しく颯爽としていた貴女はもういない」
 認知症は、徐々に脳細胞を萎縮させ、嚥下障害を発症した。食事の際、たびたび吸収困難になり、誤嚥性肺炎を繰り返すようになった。日常生活も一人で出来なくなり、トイレや入浴も困難になったが、ケアマネージャーやヘルパーの助けを借りて自宅で過ごしていた。
 母との生活が二年過ぎた頃、母は重症の肺炎で入院した。板橋の健康長寿医療センターの若い主治医から「口から食事が取れない以上、栄養補給が出来ないので、餓死してしまいます。餓死させるか、中心静脈栄養で栄養を補給するしか、選択支はありません」と告げられた。「餓死させるなんて出来ません!先生にお任せします」。そんなやりとりを経て、医師の助言に従い、あっと言う間に中心静脈栄養の状態となる。
 病院の方針で、療養型病院に転院を促され、二か月後上板橋病院に移った。高齢の為に胃瘻も出来ず、新しい治療が始まった。静脈に直接栄養液を注入した。痛みはないが、母は口から食事どころか、水さえ飲む事も出来なくなった。母には過酷だが、生きてはいける。
 もう、母は笑わなくなったが、手を握ると握り返し、目で気持ちを表した。昔の童謡を歌うと、母が楽しそうにしているように見えた。午後の病院通いが、私の日課となり、あっという間に2年近くが過ぎた。7月17日の98歳の誕生日も看護婦さん達と、祝う事も出来た。平成24年1月中旬、夜半から大雪が降る。翌朝母の病状は急変、眠るように旅立った。
 毎年秋風が吹き始めると、近所の道路脇に彼岸花が一斉に咲き始める。母と一緒に座ったベンチで彼岸花を眺める。晩年の数年間、母と共に触れ合いながら過ごした時間は、彼女からの最後の贈り物だった。


                                       


 



風邪との闘い

照山 忠利  2020・2・15 

 人生70年も過ぎれば初めて体験することにあまりいいことはない。この年末から年始にかけて悩まされた悪性風邪と薬の副作用は、その深刻さにおいてこれまでに類をみないものであった。
 始めは昨年11月中旬、手伝いに行った小学校の学童クラブで嫌な悪寒に襲われたこと。このときどうやら風邪を引き込んだようだ。「子供の風邪は強いからね」と後から聞かされた。
 これまでの人生経験からすれば、風邪はそのうち治るものだという思い込みがあった。だから年内のスケジュールに入っていたゴルフ3回、飲み会9回を予定通りこなしつつ快方に向かうのを期待した。でも早く治したいとの思いから近所のかかりつけで風邪薬を処方してもらった。それで一旦良くなりかけたのだが「歳末たすけあい募金」のため石神井公園駅前の寒風の中に立ったのがいけなかった。たちまちぶり返して症状が悪化してしまったのである。風邪特有の体の倦怠感に加えて咳とともに痰がとめどなく出てとまらない。
 やむなく別の呼吸器科の専門医を受診した。聴診器をあてた医師は「快方に向かっているようです」といって1週間分の風邪薬を処方してくれた。しかし相変わらず飲み会の予定をこなしていたら、薬が切れても改善がみられないので2度目の受診。「喀痰検査とレントゲン撮影」を受け、風邪薬と弱めの抗生物質を処方された。だがそれを服用し終えても良くならないので正月休みに入る前の年末にもう一度診てもらうことに。さすがに風邪で3度目ともなるとドクターの態度も厳しさを増してくる。「いいですか。貴方は老人ではないが決して若くはないのですから、ちゃんと寝ていなくてはだめですよ」との叱責に加え「気管支炎を起こしているので強めの抗生物質を出します。下痢を伴いますから整腸剤を一緒に飲んでください」とのこと。したがって年末年始は酒を飲まずひたすら薬を飲んで寝てばかりいた。正月に酒を飲まなかったのは成人して以来記憶にない。
 おかげで年が明けたら風邪の症状は大分改善されたが、今度は下痢が止まらなくなった。尾籠な話で恐縮ながら、通常の下痢のようにシャーと一遍に出るのではなく、便意を覚えてトイレに入ってもわずかに出るのみ。これが1日に何度も繰り返されるのだ。ために外出することは難しくなり、新年予定のゴルフと飲み会はすべてキャンセルした。ようやく外に出られるようになったのは1月18日のニューイヤーコンサート。この夜、久しぶりの酒を口にしてみたが本調子には程遠く、その後しばらく市販の整腸剤のお世話になった。後で知ったところによると抗生物質は風邪のウイルスには効かず、副作用として有用な細菌を殺してしまうとか。どうも腸の善玉菌がやられたらしい。2月に入りかつての炭鉱仲間の「高島会」があり、ここで普通に酒が飲めてやっと全快の感触を得ることができた。発症からここまで70日余り、実に長い闘いであった。
 この闘病からいくつかの教訓を得た。「風邪は万病のもとであることを肝に銘じ無理をしないこと」、「酒は風邪にはプラスにならず、薬と併用すると有害となること」、「抗生物質の安易な服用はつつしむこと」などである。快復して改めて健康の有難さを実感した。半入院のような療養生活でやせて体力が低下してしまったので挽回を図らねばならない。しっかり食べて運動しようと思う。これまで不義理した方々にも改めてお付き合いを願わなくてはならない。梅の花を見ながらやっと新年を迎えたような気分になっている。 
(了)


                                       


 



何も伝わらない

加藤 厚夫  2020・2・15 

 最近また訳の分からぬ言葉が使われ始めた。その最たるものがIRだ。インテグレーテッドリゾートの略だそうだが、東大生でも訳せぬ英語だ。立派な日本語“賭博場”(とその周辺施設)があるというのにマスコミはこぞってこれを使う。後ろめたさを隠くし、国民の目を逸らす官僚の常套手段に乗せられたのだろう。そもそもリゾートと言えば日本人は海や山しか連想しない。だから「国会議員が“賭博場誘致“に絡み、中国企業からの賄賂750万円を懐に入れた」と言えばその悪質性が正確に伝わってくる。
 郵政かんぽ生命の“不適切販売”も変だ。自分も長年営業に携わってきて、悪質セールスマンがいるブラック販売店とつき合ったことはある。しかしあれほどひどいのはいなかった。あれは旧郵政省を信頼した老人を逆手にとって噓の契約をさせた完璧な詐欺である。それを最高責任者たる社長が「不適切な販売でした」と不適切な言葉で弁解するから、謝罪が伝わらず逆に被害者の怒りが増してしまうのだ。
 総理主催の“桜を見る会”も一体何をしたいのかさっぱり伝わってこない。
明確に“総理自腹による桜を見る会”とすれば誰もが理解できる。役人がやる催し物は人の税金でやるから金に糸目は付けない。自腹にすれば急にケチり出し、さすがの昭恵夫人も呼ぶ人を1000人から3人に減らすだろう。しかも詐欺師の会長や地元後援会を呼んで、どんちゃん騒ぎをしても誰も文句を言わないから安心だ。
 伝わらない良い例がバスのオレオレ詐欺の車内放送だ。「カバンを失くした、すぐ示談金が要る。その電話は“お母さん助けて詐欺”です。知らない人には絶対お金を渡さないで下さい」と煩わしい。聞いている当のお年寄りは心身ともに頑固になっているから、自分は騙されるはずがないと信じ切っており聞く耳を持たない。しかも人に指示されることを一番嫌うから、こう言い変えたらどうだ。「見ず知らずの銀行協会の方が見えたらお茶を差し上げ、全ての銀行カードと暗証番号を書いたメモを渡しください。あなたの貯金は全部降ろされ、その日から無一文になります。これで生涯騙されることなく、
 余生をゆったりと過ごせます」と放送してあげれば、たちまち頑迷老人もうろたえ出し詐欺を気づくようになるだろう。
伝えないのと、聞く耳がないのが重なるとエライことになる。それが森田健作知事の記者会見で実証された。「知事!房総半島で大停電が発生しています。今夜ぐらいはウロつかず知事室に待機していた方が無難ですよ。このワークマンに着替え陣頭指揮を取るフリでもしていてください」と真摯に諌める側近はいないし、知事もはなからその気が無かったのだろう。その結果があの袋叩き汗ダク会見だ。
 大河ドラマ「麒麟がくる」が撮り直しとなったエリカちゃん騒動も同じパターンだ。
大河史上最低視聴率3.7%の「いだてん」で焦り、遮二無二受けだけを狙ってしまった。
芸能裏事情に詳しい人がいても、その気勢に口を挟めなかったのだろう。ハッキリ言えぬ人、聞こうとしない人が並存する組織ほどお粗末なものはない。


                                       


 



MASSが富を生む

田原 亞彦  2020.2.15

 20世紀末頃から急速にIT・IOT化が進み、モバイル端末のスマホ等も普及した。デジタル化で世界の人々の時間と空間の観念が一挙に縮小して、あらゆる既存の社会のシステムが崩壊してその再構築を迫られている。知的な情報の伝達だけでなく、人の行動や生活パターンや嗜好を大量に集約し分析して得られた情報・知財に付加価値を加えている。ネットの利用で安価に実現出来るようになった。物の生産も大事だがネットの改革は社会システムの進歩と人の感性や価値観の変革を促している。その流れにいち早く気が付いて乗ったかどうかで大きな格差が生じている。それは国家のみならず、産業界、企業、教育機関などの、多くの社会システム、個人の貧富度等々に現れている。
 米国のGAFAや中国のアリババ、テンセント、フアーウエイ等のIT関連企業は創業の若い新進気鋭の会社だが、GAFA各社の株式時価総額はそれぞれ100兆円前後になり、日本最大のトヨタの25兆円をはるかに超え、東証上場の全時価総額に迫る勢いになっている。アメリカが世界の覇権維持に必死になりフアーウエイ排除に執着するわけである。防衛力のみならず知的財産の分野でのリーダーシップの確保が迫られている。
 情報化社会構築に寄与関連した企業は大きく成長した。電子部品業界、半導体関連、ネット関連等が直接的好影響を受け、間接的には宅配を含む物流、陸海空の運輸、レジャー産業、エンターテイメント、ツーリスト業界などがある。マイナス影響は、銀、証、保険の金融界、一般の小売、出版、郵便、紙業界、電信、一般電話などであろうか。特に、旧態依然の保守的な、対面営業に依存する金融界は苦戦を強いられている。キャッシュレス決済、デジタル通貨、ネット送金対応など問題山積である。人員を含んだ構造改革を迫られている。コスト削減と新しい収益源の確保が急がれる。
 マスという言葉は、マスコミ、マスプロ、マスゲームなど古くからあるが、広告宣伝は如何に多くの人々に共鳴するかで決まるので,出演者の有名度や吸引力集客力でギャラが相当高額になるのだろう。いいなと思わない訳ではないが何か異常さも感じる。テレビでお笑い系のタレントや色々な芸人さんが司会なのかコメンテイタ―なのか知らないが沢山いるのも最近目立つのではないか。テレビ局も視聴率を何とかしてあげたいのだろう。スポーツ界でも注目選手に高額の報酬を出して、多くの観衆を集め収入増大とオーナーの宣伝に寄与しようとしている。歌謡界でもマスの公演が増えて見栄の良いショウビジネスになっている。
 5G、6G、量子コンピューター時代、宇宙時代へと時は急速に進んでいる。ネット・情報化時代の到来と昨今のポピュリズムの隆盛は関連がありそうだ。


                                       


 



四季の記憶61「春の憂鬱」

鈴木 奎三郎   2020・2・15

 新暦の2月4日は立春で、その前日は季節の変わり目となる節分になる。小さかったころ、故郷の北信濃の節分は近所の家々を兄弟3人で廻るのが慣例であった。3番目のぼくは兄2人にくっついて、豆とすりこぎをもって厳寒の夜を行くのだ。長兄が「鬼はそと・・」、続く次兄が「福はうち・・」、ぼくは最後に「ごもっとも、ごもっとも・・」と発声し同時にすりこぎを振るのだ。なんでごもっともなのか、なんですりこぎなのか不明だが,これが当地の風習だったのだろう。いくばくかのお駄賃をもらえるのが嬉しかった。あの頃は自分の歳だけ豆を食べるのが習わしだったが、今や77個の豆を食べたらおなかをこわす。

 節分の翌日は立春。気分的には明るくなるが、実際は寒さの底である。それに加えて、政治も経済も社会も、とてもじゃないけど明るい兆候は見られない。衆議院・参議院の予算委員会の国会中継は、下手な映画やドラマよりはるかに臨場感があって面白い。議題も桜だの公文書だの、低レベルのことばかり。出てくる顔ぶれは安倍さんはじめ見たような顔ばかりで新味はない。議論も行ったり来たり空転していて、これが本当に国会なのか・・と呆れるばかりでいい加減うんざりしてくる。もっともそういう人を選んでいるのは外ならぬわれわれなのだ。

 先日の新聞に「読まれた記事ランキング」というコラムがあって、ベスト10は、なんと7項目が新型肺炎の関連だった。
 「新型肺炎、市場が恐れるブラックスワン」1位
 「武漢バブルが招く国際感染」2位
 「新型コロナ10人陽性、クルーズ船客ら・・」5位
 「新型肺炎、世界景気減速も・・」8位
など、明るく前向きなテーマは残念ながら見当たらない。これでは、世界経済も、日本経済も良くなるわけはない。
 ぼくが務めていた会社でも、上海と北京の工場は大幅に稼働を先送りしたそうだ。インバウンドで、ひと頃活況を呈していたデパートなどの売り上げも急ブレーキがかかっていて、ほとんどが前年割れだ。上場企業の業績も見通しも暗い。
 かつて銀座も新宿も、大きなキャスター付きのトランクを引っ張ったアジア系の若者が多くみられたが、最近はめっきり少なくなった。歩道の真ん中にたむろして通行の妨げになることがおおかったが、銀座通りに居座っていた大型バスも姿を消した。オリンピックまでは何とか経済成長を・・という願いもにわかに怪しくなってきた。株式市場もこの先上昇していく状況は見当たらない。オリンピック後には、かなりの確率で不景気になるのではないか。往々にして、素人のカンは当たるのだ。

ことほど左様にものごとはいいことばかりは続かない。それは社会も経済も個人の生活も同様である。これが普通なのだと思えば、一喜一憂してもしょうがない。よく「幸せと不幸は二人ずれ・・」というが、まったくその通りである。
 先日、久しぶりに内田百閒の「第一阿呆列車」を再読した。阿房列車とは、用もないのに列車に乗ることだ。人生は阿呆列車のようなもので、何のために生きるのか、目的などありはしない・・と指摘し、用のない片道の旅を楽しめばいいのだ・・と説く。
 そうはいっても、プリンセス・ダイアモンドの3000人超のみなさんはお気の毒なことで、とても片道切符を楽しむどころではない。これを春の憂鬱というのだろう。
 

                                       


 



まだまだ行ける?

谷川 亘    2020年2月15日

 選りによって厳冬期と真夏日の年2回。定期診察なるものに狛江の病院に通ってかなりになります。早目の電車で赴くのですが、順番待ちで先客が数十人。じっと我慢して待つこと暫し。ところが呼ばれるとそれこそ“三分治療”。先生は患者の顔も窺わずパソコンと対峙するのみ。また、執行猶予半年の判決を受ける儀式です。
 地下化されて久しい国領駅。先に上りが来たら出勤し、逆に、下りだったら高尾山。
 ここで、中小零細の“大社長さん”は、一瞬の賭けに命を捧げるのです。つまり、上り電車が先に来たら新宿経由で東京湾岸ゼロメートルの工場迄まで駆け下るのですが、本音は・・・、“待ってました~”(上り電車さん)なのですよ。
 下りが来たら、標高599mの霊山を目指す。これぞ願ってもない本命なのです。
 でも、“会長”たる身分は、会社が“快調”である限り閑職に甘んじられるのですが、為すべきことを一枚一枚はがされた挙句に「出社に及ばず」を自覚する時期に至ると、この一瞬の賭けもそろそろ“終着駅”間近か。
 老いたが故に興奮の刹那まで奪われてしまう頃合いなのです。「会長」と「快調」の共存。つまらぬ駄洒落ですが、本人にとっては厳寒期のまたとないお恵みだったのです。

 受診は正装で臨むべしとの持論。ましてや山行姿なんて失礼千万。
背広着たまま革靴はいて高尾山登山とは相成りました。余談になりますが、数年前までは残雪と霜解け、厳寒の登山道。靴はどろだらけ、転んではずぶぬれ。
 地球温暖化は“足元”まで及んでいるのですよ。

 最近の体力低下というか、よたり具合は先刻ご当人がしっかり自覚。
 これが最後の金字塔となる(場合もなるなあ~)と思うにつけ奮起一番。ケーブルカーは勿論、車も通れる1号路は嫌って、ハードな稲荷山コースに挑戦したものの、やっぱりそうか!!引き返そうかと何度思ったことか。しかし、人間って不思議なもの。行程3.1㎞の半ばを過ぎた看板目にした途端に観念して、“やるっきゃない”と不貞腐れ。
 老若男女打ち揃って登山服着こんで防寒対応バッチリ。なのに、「こちとらはYシャツ・腕まくりで何が悪いのだ!!」の心意気。
 でも、登山人生の最後だけはみっともない思いをしたくはないとの意地を通して、標準タイムを2割オーバーで頂上を極めましたとさ。
 ここに至ると元気百倍。
登りも下りも完歩と心が騒いだのですが、復路はケーブル利用して下のお茶屋で熱燗二本とおしんこ一皿。
 勢いあまって通いなれたいつもの国道コース。JR「高尾」駅まで歩き通し、白梅の先を「浅川」越しに通過する電車を配した毎年の定点撮影。
 爽やかな春のかほりを満喫してきました。


                                       


 



友人ruggerの話

華岡 正泰   Feb.15.2020.

 日本のラグビーは去年のワールドカップで8強入りという輝かしい結果を残し 国中に強烈な印象を与えた。
 私が初めてラグビーの試合を観たのは練稲に入会してからの早明戦で まだ日も浅いが 私には70年も前からの親友ruggerが居たのだった。
 敗戦の昭和20年8月、私達は学徒動員先の軍需工場から、陸海軍幹部養成の陸軍幼年学校、海軍兵学校予科生徒から中学に戻った。そして翌21年 中学4年の時 進駐軍に禁止された剣道、柔道を除いての運動部が復活、私はバレー部に入部した。隣の部室には屈強な連中が集まっていた。ラグビー部だった。その中に二度も日本代表に選ばれた関川哲男がいた。彼とは同じクラスで教室の内外 多くの思い出があるが 誇りとする佐賀中学を卒業して私が早稲田の第二早高、彼が慶応を受験することとなり一緒に上京した。品川駅で電車のドアが一斉に自動開閉したり 地下鉄渋谷駅がビルの屋上にあるのを見て驚いたのも一緒だった。首尾よく二人共望みを果たした。彼はラグビー部に入部、制服制帽に黄色に黒縞の慶応ラグビー部マフラーを肩に靡かせて得意だった。
 彼が二度も日本代表に選ばれたことは海外で知り 帰国したら会いたいと思っていたのだが 彼に会ったのは会議で大阪から東京に向かう機中だった。備え付けの雑誌を手にしたところ表紙全面に彼の姿、中には彼の記事が載っていた。“河川敷は公のものだが、子供たちにラグビーを教える為のグラウンド造りを願い出ていたところ、東武線沿い動物園近くの河川敷を借り受けることが出来た。怪我を防ぐ為 芝生を植えていているが それも間もなく完成する。”と言うものだった。その後 同様の記事が朝日か日経にも出て喜んでいたところ在京の友人から「関川急逝」の知らせ。脳溢血だった。取る物も取敢えず葬儀に参列した。式場は彼が造ったグラウンド近くのお寺。堂内はruggerと覚しき人達で溢れ、棺は三色旗で覆われていた。出棺が荘厳だった。現役の学生たちが塾歌でも応援歌でもない、多分 部歌であろう、朗々と吟じながら棺を運び出した。それはそれは重々しく厳かな出棺だった。お寺中に大男たちの嗚咽含みの合唱が洩れ出した。私は流れ出る涙をどうすることも出来なかった。
 ワールドカップを振返り 改めて彼の偉大さを知った。彼は30年以上も前から日本のラグビーの将来を子供たちに託したのだった。グラウンド完成目前に逝ってしまって さぞ悔しかったろう。私はもう一度彼に会っておきたかった。でも彼は、佐賀に帰ると私の弟を呼出して夜の巷で慶早戦をやっていたと聞く。弟を通して私を懐かしんでいたのだ。
 関川哲男。 良い奴、良い友だった。そして偉大な rugger man だった。


                                       


 



教室点描-哲学者の名言

富塚 昇   2020年2月15日

 「『倫理』の授業は眠くなるらしいので、頑張って起きていたいです」。
 これは数年前、『倫理』という科目を担当したときに、1年間の最初の授業で生徒に簡単に自己紹介の文章を書いてもらった時の生徒の文章である。『倫理』ではソクラテスからカント、ニーチェなど古代から現代まで思想家・哲学者を取り上げるが、ちょっと油断をすると生徒たちは睡眠学習を始めることになってしまう。そのようなことにならないように、授業ではなるべく生徒にとって身近な話題と結び付けようと試みたり、無理やり思想家と関係づけて歌を聞かせたりしてきた。例えばブッダの思想では中島みゆきの『時代』を、イエスの思想ではビートルズの“Let it be”を、キルケゴールでは尾崎豊の『卒業』『僕が僕であるために』などである。
 そんななか、「モラリスト」として紹介されるパスカルとモンテーニュを取り上げるときに、二人の「名言」を利用することを思いついた。ネットで「パスカルの名言」「モンテーニュの名言」を検索し、その中から適切な名言を取り上げ、キーワードとなるところを空欄にしてプリントを作成するのである。授業では5人グループの班を8つ作り、班でワイワイガヤガヤやって解答を考えさせ解答を黒板に書かせる。そして生徒たちによる解答を活用しながら授業を進めていくのである。プリントは次のような形になる。
Ⅰ パスカルの名言
A 「(1)の鼻がもう少し低かったら、世界の歴史は変わっていただろう」
B 「(2)が存在するということは不可解であり、(2)が存在しないということも不可解である」
C 「人間は自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。しかし、それは(3)葦である。」
Ⅱ モンテーニュの名言
D「明けゆく(4)をお前の最後の日と思え」
E「いつかできることは、すべて(5)でもできる」。
F「恋愛で第一に大事なことは何かと聞かれたら、私は、(6)をとらえることと答えるだろう。第二も、第三も同じだ」
G「もし、人から、なぜ、彼を愛したのかと問い詰められたら、『それは彼が(7)であったから。私が(8)であったから』と答える以外には何とも言いようがないように思う」。
H「王国を統治するよりも(9)を統治する方が困難である」。
 パスカルのAの解答はもちろん「クレオパトラ」だが、今の高校生にはなじみがないようで正解率は必ずしも高くなかった。Bは「神」、Cは「考える」であり、ここがパスカルの授業のポイントとなる。モンテーニュのDの解答は「毎日」、Eの名言は「今日」であり、人間としての在り方生き方を考える『倫理』の授業として直球ストレートの名言となる。モンテーニュのFとGの名言については、やはり生徒の関心も高く楽しんで解答を考えていた。Fの解答は「機会」であり、授業では次のように付け加えた。「体育祭や文化祭の後はカップルが増えるよね。今年はもう終わったから次の機会は修学旅行の時だね」と。Gの名言については、正解は「なぜ彼を愛したのかといえば、それは彼が(彼)であったから、私が(私)であったから」なのだが、この授業を最初に行った6年前に生徒は次のような「迷言」を考えた。「なぜ、彼を愛したのかといえば、それは彼が(お金持ち)であったから。私が(貧乏)であったから」。「うーむ、なんと現実的なことか、面白いけれどちょっと悲しいような・・・」。いずれにしろ、この授業は私の予想以上に盛り上がるものとなって、私の授業では珍しく寝る生徒は全くでなかった。
 そして二人の名言を利用した授業の中で、私自身が深く感じ入ったのがHの名言であった。(9)の解答を入れると・・・「王国を統治するよりも(家庭)を統治する方が困難である」。
 

                                       






五輪三都物語

高橋 正英  2020.02.15

今年はいよいよ東京オリンピックの年、前回の東京大会は1964年昭和39年であった。
この大会は、日本にとってはじめてののオリンピックであったし同時にアジアでの初の大会でありそれだけ注目もされていたようだ。いうまでもないがオリンピックは古代ギリシアにその原型があり、19世紀後半1896年に、近代オリンピックとして第一回が始まった。20世紀前半までは世界は西洋文明が中心であるという概念が当たり前で、その伝統の中に極東の一小国が割って入って、オリンピックを開催したのが日本であったのだ。その後アジアでは韓国ソウル、中国北京ので3都市のみの開催である。私はちょうどその3都市の現地に居合わせた。
1964年の東京大会は、私は高校生であったが幸い4回競技を直に観戦することができた。我が高校の校長が東京都の教育関係、柔道の指導者で審判員もしていたからか、積極的に観戦を勧めて、そのときは、陸上、水泳、マラソンを直接観戦した。陸上競技でなんと言っても忘れられないのは、100m、10秒0、ボブ.ヘイズのダントツ一着の場面をまじかに見ることができたこと。短距離ランナーというより、全身筋肉の塊のような迫力。それにマラソンのアベベ。その時のマラソンコースは、神宮競技場をスタートして甲州街道を府中市まで走りUターンして戻るものであった。私は街道沿いの調布市に住んでいたので、アベベの走りを往復2回見た。彼はその前のローマ大会では、2時間15分16秒2の世界最高を出していたが、東京ではなんと、2時間12分11秒2の世界最高タイムで連覇した。ちなみに、三着になった日本選手円谷は2時間16分22秒8。アベベは往復とも圧倒的な独走であり異次元の勝利であった。彼が走り去った後、すぐ家に戻りテレビでゴールの様子をみたが、表情を少しも変えずに平然とゴールのテープを切りその後も余裕を持って柔軟体操をしていた。他の選手はヘトヘトになってゴールへ倒れこんでいたのとは大違いであった。
さて、それから24年後にまた、アジアの都市韓国ソウルで開催される、1988年であった。私はちょうどそのとき楽器営業で、韓国市場を担当していた。このころの韓国人はすべて ”パルパル”という一言で話が進んでいた。パルパルとは、88の意味、つまり1988年のオリンピックを迎える合言葉、すべてオリンピックに照準を合わせた世相だったし楽器販売もいたって順調であった。このころ、韓国では日本製品、日本文化に相当に警戒をしていて、ピアノ、電子オルガン/エレクトーンは日本からの輸入禁止。しかしながら、管楽器は禁止ではない、むしろマーチ演奏などでこの時期の国民の意気を高揚する推奨すべき楽器であった。各学校ではクラブ活動としてスクールバンドが盛んになり始め、特に、女子の商業高校などは積極的にすすめて学校の知名度を高める狙いがあったようだ。N響の元首席奏者と、東京大会のファンファーレを吹いた社員とで学校や楽器店を訪問した。特に、フルートはブラスバンドには欠かせない、楽器店に対しては『パルパルをひかえていますから、多めに仕入れたほうが有利ですよ、、』と多く買っていただいた。1988年のオリンピックは韓国の漢江(ハンガン)の奇跡といわれた、経済急成長の象徴的なイベントであった。
それから20年がたって、2008年、アジア3番目のオリンピックは中国北京。そのとき、私は、大連の日系生産企業の責任者だった。 
あの忌まわしい1989年の天安門事件で、世界から総すかんを食らった中国が、独自の社会主義市場経済論とかの論法で外資を呼び込む。儲ける事は良いことだと、鄧小平は利に聡い中国人民の目を利益一辺倒に仕向けた。堂々と胸を張って世界に存在感を示してきたことのなかった中国が、今こそオリンピックだってできるところを見てもらおう,あの時はそういう意気込みであった。 
開会式の前日あたりから社員で有給休暇をとるものも出てきた。管理部門も生産部門も、心仕事にあらずの様子で、ことに当日は午前から早退者も出てくる始末。 『おいおい、開会式は夕方からのテレビ中継だ、そんなに早く退社する必要はないのでは、、、』と私が文句を言うと、『総経理、悠長なことを言ってんですね、家族皆が集まるので、早く帰ります、、』とのこと。
これら3都市ともその10年ほど前にまずアジア大会を開催して地ならしをし、満を持してのオリンピック、3カ国とも一応の先進国仲間入りのタイミングだった。
こうして3大会のころを想いおこしてみると、ちょうど私の半生を振りかえっているように感じる。オリンピックが今日ほど大規模になると、その経済的負担に耐えられること、都市の整備環境が満たされていること、最近では安全対応も必要条件だ。
今回東京の後はパリ、その後はまたアジアのどこでオリンピックがあるのだろうか。
(了)


                                       


 



高齢社会と多様な価値観

寺村 久義   2020年2月15日

 日本における年間出生数は大戦終結後の第一次ベビーブーム期(1947~1949)は約270万人でした。しかし1975年には200万人を割り込み、2019年は約86万4千人で、前年比5.92%減と急減しました。
 一方で明治時代は40代前半だった平均寿命は1947年には50歳を超え、1975年には71歳を超えました。2018年の女性の平均寿命は87.32歳、男性は81.25歳です。65歳以上を高齢者と云いますが、その人口が総人口に対して占める割合を「高齢化率」といいます。これが28.4%と過去最高になっています。ただ、私は再来月に80歳を迎えると言うのに、ジジイの意識がありません。75歳になると後期高齢者と呼ばれ、何かと公共サービスが良くなり、その時だけは高齢者の特権を享受しています。
 「人生10010年」というフレーズが多用される昨今ですが、今の小学生2人に1人が100歳まで生きる時代は、すぐそこまで来ています。政府は「人生100年構想推進室」を設け、「一億総活躍時代」と銘打って、高齢者にも活躍の場を!と、長寿社会に対応しようとしています。しかし、これほど長寿の時代になると人生設計は立てにくいものです。私の周りに中年の未婚者が多いのは、「結婚だけが幸せではない」といった人生観を持つ人が増えていることにも因るようです。
 最近のビジネス誌に世代間ギャップに関する記事がよく見られます。仕事に対する姿勢についていえば、中高年社員は「情熱を持って取り組む」ことを求めますが、若手社員は「合理的に捌く(仕事をこなす)」ことを重要視しているように思われます。ですから若手社員は上司との「飲み食い」の場も仕事の延長と考え歓迎しないようです。田中角栄元首相は来訪者へ「おい、メシ食ったか?」と声かけしたそうです。私も社員をランチや夕食に誘うことがよくあります。デスクから離れて同じテーブルで食事をすることは大切なコミュニケーションの場、潤滑油と思っているからです。
 私は現在このエッセイ愛好会も含め、年間30回に及ぶ高校・大学OBのサークル活動に出席しています。活動の後の懇親会と称する学友との「ノミニュケーション」の場は、最良の心の栄養になっています。
 私が社長を務めるニチリョクの社是に「常に顧客のニーズに基づく良い商品とサービスをより安く提供することによって社会に貢献する」という一節があります。80歳を迎えようとする今も、この想いは創業当時から変わりません。お客様の求めるニーズに応えられる企業であり続けることが私の想いであり、経営指針です。消費者にとって良いサービスや商品であっても、同業者には反業界的ならざるを得ないことが多いものです。現在は先の読みにくい時代と言われますが、そんな時代の風の流れにも敏感でありたいと思っています。了 

 

                                       


 



クラスメート

横山 明美    2020・2月

 災害が身辺に及ぶなど、東京に住んでいると幸いなことにそれほど心配したことはなかった。徳川家康もいい所に首都を決めてくれたよね、などと不謹慎にも思っていたのである。ところが去年の秋大型台風のニュースで、そう遠くない故郷のそれも私の小学校の学区域を流れる川が氾濫と知った。驚いて、今でも同じ場所に住んでいるクラスメートの亮子に電話してみたが繋がらない。小学校も高校も一緒だった。別の友人の情報だと、亮子は一階が水浸しになり、陶磁器の店も続きのその小さな絵付け教室も壊滅状態。転倒骨折してひと月の入院から帰還したばかりの本人や家族は二階にいてなんとか無事だったが、と言うのである。中学のクラスメートA子からも追いかけるようにおおよその知らせが来た。
 数日後早朝家を出て電車で二時間余、亮子の家にたどり着くと、川沿いの家々はどこも泥をかぶって疲れ果てており、皆それを洗い流したり家具を運び出したり。老いた人は一様に座り込んで晴れ渡った空を無言で見上げていた。川はまだ茶色く濁って嵩高く流れており、両岸にはなぎ倒されて流れてきた草木がうず高く景観を変えていた。泥だらけの店の中は亮子の人柄だろう、かいがいしい手伝いの人であふれており、亮子は術後の弱弱しい声で「ごめんね」を連発しながらすまなそうに手順を示していく。その日はあちこちに消毒液を吹き付けたり貴重な絵付けのデザイン帖をパラパラと干したりして次回の約束をし帰った。
 2020年を迎えた! 一月も末待っていた電話が鳴った。「床下や壁の中のヘドロも取り除かれた、張替えも終えた、助かった陶磁器を新しい飾り棚に並べる」と声の調子が元の亮子に戻っていた。いなり寿司をたくさん作り出掛けた。寝込みを襲うのもどうかと思い駅構内で珈琲を飲んでいると「もう岡ちゃんも来てるよ、早く早く!」と遠足の待ち合わせか同窓会みたいである。その日は床や華奢なガラスの飾り棚磨きと陳列など。二階まで作品の詰まった段ボールを取りに上がりざまちらと見えた和室ではその家の主が炬燵に肩までもぐりこんでテレビを見ている。「昔からそういう人なの」と亮子はさらりと言って怒るふうでもない。帰り降り出した雨に、さすがに主はいつものビジネスホテルまで車で送ってくれながら行政の対応の悪さにしきりと腹を立てた。翌日はもう一人クラスメートが増えて日の陰るころには店の形も様になってきた。どころか店の人影を見て通りがかりの女性が「何だか素敵で・・・」と不思議そうに入ってきた。丁寧に事の成り行きを話すと、亮子は手近にあった小物の作品をさっと包んで渡し三月の正式開店を約束して送り出す。私たち一同の表情はなんだか申し合わせたようにゆるんだ。
 駅の売店の名物餃子をみやげに帰り着くと待っていたかのようにA子から電話があった。そういえばホテルのすぐ近くに住む彼女を忘れていた。いつもなら会ってご飯でも食べる仲だ。ざわめきを背景に突然「K君に代わるから話してみて・・・」と甘えたような声で言う。共通の同窓生だが顔も覚えてない。どんな流れでそんな電話になったのか。大晦日にも電話してきたあのスナックからだな、と思うとなんともいまいましい気持ちになり、ちょっと疲れていてごめん、と切ってしまった。さっきまで市内にいたことは言えなかった。続いて亮子から電話口に吸い付くような声でこの二日間をまるで懐かし気に語る電話があった。クラスメートとお喋りしながら日常と違う仕事ができて楽しかった、三月にはまたぜひ、と言って電話を置いた。少しも疲れてなどいなかった
 布団に潜り込み灯りを消すと、遮るように切ってしまったスナックからの電話が気になった。災害に備えて水の大ボトルを足の踏み場もないほど買い込んでいるA子、長い時間お喋り電話をしてくるA子、自身に台風の被害はなかったがそれとなく亮子の家の近くを歩いて様子を知らせてきたのもA子だった。同年とは思えない柔らかい魅力もあるA子である。Kを媒介に何か話したかったのだろう。故郷の古い友達はどの一人も私をあきることなく相対してくれている、という想いがじんわりと襲ってきた。3月に帰省したらA子を呼び出し二人で亮子の店を訪ねてみようと思った。


                                       


 



子守歌

小林 康昭  20200215

 中学校の音楽の時間のことでした。その日は「中国地方の子守歌」を習っていました。説明を終えた先生が弾くピアノの旋律に合わせて一渡り歌い終わって、一息ついたところで「センセイ」と声がかかりました。声の主は、いつも先生たちを困らせているへそ曲がりの輩でした。言葉尻を捕まえて難詰するのを常としていました。
 「中国地方って言ってるのに、なぜ、中国語じゃないんですか?」 分かっているくせに意地悪な質問です。先生は、この中国地方は外国の中国ではなくて、山陽と山陰の地方のことだ、と真面目に説明していました。へそ曲がりは、重ねて質問しました。「先生は、自分の子供を、この子守歌で寝かせつけたことありますか?」
 「こんな歌で、子供は眠らないわね」と先生が正直に答えました。
 「じゃ、何で、そんな歌を子守歌って言ってるんですか?」「アンタ、良いこと言うわね、この歌を子守歌って言ってるけど、子供を寝かしつけるための歌じゃないのよ」良いこと言う、って言われて、へそ曲がりは、ちょっとばかり、面はゆい表情を見せました。先生は更に「この子守歌は、子守をしてる人を歌ってるんだよ。子守歌って、そういうのが多いんだね。アンタのように考えて疑問を口に出す人は少ないんだ。エライよ、アンタは」
 毒気を抜かれた表情で、へそ曲がりは腰を下ろしてしまいました。そのへそ曲がりが、その後、へそ曲がりをしなくなりました。その変容は、他の先生たちの間でもひとしきり、話題になったそうです。
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広辞苑で子守歌を引くと、その語釈の前半には「子供をあやし、または寝かせるときに歌う唄」とあります。
 でも、それは、違うと思いますよ。島原地方の子守歌、五木の子守歌などを歌っていると分かりますが、日本の子守歌は、子供をあやしたり寝かせつける歌ではないのですね。これは、子守をしているお役目の労働歌なんですよ。
 労働歌とは、働いている本人が歌う歌、または働いている人の姿を歌っている歌ですね。例えば、お茶の葉を摘む「摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ♪」、田植えの「揃った出揃った早苗が揃った」、鍛冶工の「仕事に精出す村の鍛冶屋」、船頭の「年はとってもお舟を漕ぐときは」、灯台守の「♪思えよ 灯台 守る人の」がそうです。
大昔、貧しい家庭の女の子は、金持ちの家に奉公に出されて子守をしました。そして「十五になったら嫁に」行ったんだと、北原白秋が「赤とんぼ」で詠っています。「起きて泣く子のネンコロロン 面憎さ♪」は、赤子が泣いているので困っている子守役の気持ちを歌ってるんですね。その悲哀を歌った子守歌が多いのですよ、日本では昔から。
 ですから、旋律は単純で、歌詞には愛情がこもっていませんね、当然。広辞苑の子守歌の語釈の後半に「日本には、雇われた子守女がそれに託して自己の感情を歌ったものが多い」とある所以です。
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 西欧では、シューベルト、モーツアルト、ブラームスのような有名な作曲家が美しい子守歌を作っています。でも、それらの子守歌は、どれも子守の歌ではありません。と言って、子供を眠らせる歌でもありません。
 「ねむれ、良い子よ♪」なんて、眠らなかったら悪い子か、まるで脅迫の歌じゃありませんか。シューベルトの奥さんが、子供を眠らせるために、あの子守歌を歌っている姿は想像できませんね。あの歌は眠ろうとする幼児を可愛いと思う感情に託して歌詞と旋律をつけたものなんですね。肩を露わにして、長い裾を床に引きずった女性歌手が、ステージの上で朗々と、ソプラノで歌い上げるように作った歌なのですよ。こんな歌を耳元で聴かされたら、せっかく眠っていた赤子は、びっくりして泣き出すんじゃないか・・・。日本の子守歌と西欧の子守歌は、作られた動機が違うのですね。ですから、西欧の子守歌は高らかに、日本の子守歌は哀愁的と、曲の趣きが異なるのは当然なのですよ。
 そこで疑問がわきます。どうして日本の作曲家は、子守歌を作らなかったのか。元来、日本の作曲家は子供の歌をさかんに作りました。例えば「七つの子」の本居長世、「テルテル坊主」の中山晋平、「夕焼け小焼け」の草川信、「お猿のかごや」の海沼實、「ヒヨコのかくれんぼ」の中田喜直、のように。ですが、本居長世、中山晋平、草川信、海沼実、中田喜直など、有名な作曲家に子守歌の作品がありません。ある時、ある人が、当時の大御所に「なぜ、先生方は子守歌を作曲されないのでしょうか」と質したことがありました。すると、その大御所は「♪坊やは良い子だ ねんねしな」と、一フシ口ずさんで「これ以上のものが作れると思うか」と断じたそうです。まことに至言だと思いますね。
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 最後に、ある日本人が作った子守歌を、一つご紹介します。子守歌を作詞した人は、当時、女子高校生でした。その歌詞に曲をつけた人は山本正美さん。髭の作曲家山本直純さんの夫人です。
 その女子高校生は正田美智子さん、後の皇太子妃。現、上皇后陛下です。陛下が作詞されるとは珍しいことです。ある人が、皇后陛下時代の美智子さまに、お作りになった動機を個人的に伺った話が漏れ伝わっています。
 「私は、シューベルトやブラームスの子守歌で育ちましたが、日本人の子供は、(略)日本人が作った日本らしい曲の歌を聞いて育つのが良いと思いました。それで、歌詞を作ってみたのでございますが・・・」
 皇后陛下は天皇一家の生活環境を革命して、お子様たちを親の手元で、特に母乳をお与えになって育てられたことで知られています。一般の家庭にもたらした色々の影響も多かった、と言われています。これが、今上陛下や秋篠宮殿下のご成育に、素晴らしい影響を与えられたのです。子守歌を作られたお気持ちも、それに通じていると思いますね。
 ♪ねんねのねむの木 眠りの木 そっとゆすった その枝に 遠い昔の夜の調べ ねんねのねむの木 子守歌♪
 この子守歌にまつわるエピソードを耳にして、とても感動しているのです。