天高き秋と言えばスポーツ、スポーツと言えば十月ですネ。十月には祝日の体育の日もあるし、プロ野球も六大学野球も佳境に入っているし、巷の校庭では運動会が花盛りです。外国勤務中、現地で運動会をする学校なんて眼にしたことがありませんでした。スポーツは諸外国以上に、日本人のなかに定着しているように見えます。だから、新聞やテレビから発信される日常の情報量は異常に多いように見えます。異常に、とは外国と比較するからで、日本国内しか知らないと、これが当たり前と思うかもしれません。でも、一選手の美技や引退に一面全部を使うなんて、明らかにはしゃぎ過ぎだと思うんですヨ。だって、その記事のために報道されなかった大事な出来事や事件が隠れてしまった筈ですから。国を代表するクウォーリティ・ペーパー(高級紙)でこのように大騒ぎする紙面を作っているのは日本だけです。ロンドン・タイムスもフィガロもトリビューンもしません。この読者にしてこの紙面あり、だとすれば、日本人の知的レベルは推して知るべし、と言うことになるのでしょうか。閑話休題。
この風潮に或る予兆を感じます。それは、昔から言い慣わされてきた警句「パンとサーカス」です。ローマ帝国が滅びた遠因に、この警句を引いているのです。政治から民衆の関心を逸らせようと、施政者たちは美食と見せ物で民衆の関心を釣ったのです。民衆の関心は奢侈と享楽に向いて政治から遠のき、ローマ帝国の滅亡につながったというのです。
テレビに料理番組や食べるシーンが多いですネ。政府は和食を世界遺産に登録しました。総理大臣が贈る国民栄誉賞の受賞者は、いわゆる見せる側のスポーツ選手と俳優ばかりだし。みんなが一様にこの「パンとサーカス」に狎れてしまったら、日本の将来は危うい。ローマ帝国が辿ったように・・・。その予兆ではあるまいか、と言うことです。
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スポーツという語は、広辞苑では「遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素を含む身体運動の総称」と規定しています。身体運動をする概念です。語源の英語圏では、英国のThe
CONCISE OXFORD Dictionary 7th editionによると、Sportは「1.amusement,diversion,fun;2.pastime,game,outdoor
pastime」とあります。娯楽、気晴らし、楽しみ、時間つぶし、戯れ、特に野外の時間つぶし、を意味します。米国のWebster’s NewWorld
Dictionary 2nd edition では「1.any activity or experience that gives enjoyment
or recreation;pastime;diversion」とあります。享楽や休養を与えるあらゆる活動や体験、時間つぶし、気晴らし、を意味しています。日本語とは異なる概念です。
英語圏での認識は、体育や運動に限らず、娯楽や時間つぶしであって、他人が運動しているのを見て楽しむことも、運動以外の遊びをすることもスポーツです。
ですから、英語圏の人々と会話する場合、認識の違いを承知していないと誤解します。最近、ジャーナリストが競技者をアスリートと表現を変えました。スポーツマンやプレイヤーでは不適切と感じたからでしょう。
スポーツに対する日本人と英語圏の人々との認識は、語意の認識の違いを、そのまま引きずっているようです。
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その違いとは、スポーツに対する考え方です。今、わが国のスポーツ界は、胡散臭い醜聞(スキャンダル)が後を絶ちません。曰く、パワハラ、暴力沙汰、不明朗な判定操作、意図的な反則指示、指導者の責任回避と部下や学生生徒への責任の押し付け、組織的隠ぺい工作、不透明な理事者の人事。どうして、そんな状態に陥ったのでしょうか。
それは、スポーツの存在が、遊びや時間つぶしを遥かに超えた存在として、関係者たちの肩に大きな力が入っているからです。それには、スポーツ界と学校教育界の関係が大きな影響を及ぼしていると思います。明治、大正、昭和と、わが国では社会の制度が未成熟だったので、学校教育に多大な命題を安易に押し付けました。わが国ほど学校教育に多くの責務を課す国はありません。部活もその一つです。その結果、校外の指導訓練の機能が脆弱な状態です。
スポーツの指導者や役員の存在感が過大になっている理由は、スポーツ界が教育界と密着しているからです。芸能事務所のように教育界と一線を画す存在だったら、今ほどの存在感を誇示できない筈です。
視聴者の関心を得ようとして連日、過剰に囃しているメディアの姿勢には、教育的見地に立った視点がありません。むしろ、弊害を助長する存在です。ここに、わが国のスポーツ界の腐敗、荒廃、堕落につながる原因があります。
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これを正すには、わが国のスポーツ界の体質を全面的に刷新するべきです。学校と部活を切り離すべきでしょう。
部活には教科では得られない利点や美点があるから、と評価する意見がありますが、それは、教育指導の維持向上を怠けてきたからだ、と言えます。教育指導者は、今まで以上に教育指導の向上に努めるべきです。
高等学校までは、保健体育の教育指導に限ることです。その結果、教員の顧問活動や校外からの指導者の雇用は不要になります。生徒は個人の意志で、校外のクラブで活動することです。イヤなら他のクラブに移れば良いのです。学内のクラブなる故に、部員は進退転籍を束縛され、指導者や上級生の強圧的な振る舞いから逃げられないのです。
大学の体育教科を廃止すべきです。体育の実技と座学の教員たちを一掃し、クラブの運営経営から大学は手を退くべきです。世界のスポーツのレベルに伍していくには、一般学生の教育指導や経営資源を犠牲にする程の、重い負担を強いられます。これは大学の本分にとって本末転倒です。大学は原点に立ち返って、学問の府に徹すべきです。
スポーツ界の不祥事の起因は、当事者たちの個人的な資質を超えた不条理な体質にあると考えています。
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