練馬稲門会 エッセイ同好会12月度(第86回)例会報告

 台風や豪雨、地震、酷暑といろいろな災害に見舞われた今年もいよいよ師走、年末多忙の中を仲間が集まった。会場としてお世話になった第2春日ビルは建て替えの計画で、今回が最後の開催となり19名が力作を発表した。
1.日時       2018.12.15(土) 15:00~17:15
2.場所       練馬稲門会事務所(第2春日ビル3階)
3.参加者及び作品(19名、五十音順)
  石田真理     カップラーメンを水で調理する
  江蔵忠道     東京オリンピックと大阪万博
  岡本龍蔵     模擬裁判員裁判に参加してー忠臣蔵刃傷事件を裁くー
  小林 士(初参加)夕焼け小焼け
  小林大輔     城崎でカニを食べよう
  小林康昭     ガンさん
  古藤黎子     顧みれば我が趣味は?
  鈴木奎三郎    四季の記憶53 さよなら平成
  高田翔子     盆景をはじめる
  高橋正英     マラソン報道
  谷川 亘     「二年間の空転」・・・こりゃ如何に?
  田原亞彦     改元・五輪後を思う
  寺村久義     孔子
  照山忠利     ゆでガエル
  鳥谷靖子     キャロラインの道
  華岡正泰     来年をどう生きよう
  古内啓毅     なぜ料理をするのか
  本田はじめ    斑猫(はんみょう)
  横山明美     若い人
4.忘年会
  練馬駅近くの「和歌里」に16名が参加、賑やかに今年を回顧しつつ盃を交わし来るべ
  き年の福運を祈念した。
5.次回予定
  2月16日(土) 14:30 ココネリ多目的室(開始時間を30分繰り上げます)。
以上 
(文責:照山忠利)







 



練馬稲門会 エッセイ同好会10月度(第85回)例会報告

 秋たけなわの10月、折しも野球早慶1回戦と日本シリーズ広島―ソフトバンク初戦の日、いつもの面々が顔を揃えた。寄る年波に抗いながら力作を作り発表を続けて刻んだ歴史は85回。新たに入会希望者3名との朗報も伝えられた。
1.日時      2018.10.27(土) 15:00~17:00
2.場所      練馬稲門会事務所(第2春日ビル3階)
3.参加者及び作品(14名、五十音順)
  江蔵忠道    バナナの思い出
  岡本龍蔵    大相撲9月場所の観戦記   
  加藤厚夫    そば通
  小林大輔    まつたけとさんま
  小林康昭    スポーツの秋10月
  鈴木奎三郎   四季の記憶52 縄文の風
  高橋正英    チベット旅行で感じたこと
  谷川 亘    デジ・スマは鼻の差
  寺村久義    ベトナム
  照山忠利    コッコデショ
  鳥谷靖子    十五夜の夜に
  華岡正泰    中央寮歌祭に参加して
  古内啓毅    総長さん
  横山明美    渋好み

4.反省会
  練馬駅近くの「和歌里」に11名が参加、談論風発のうちに盛り上がり、年末の再会を
  約して家路についた。

5.次回予定
  12月15日(土) 15:00 練馬稲門会事務所(第2春日ビル3階)にて
以上 
(文責:照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会8月度(第84回)例会報告

 猛暑、酷暑に台風、豪雨と自然の猛威が押し寄せた8月、漸くわずかに秋の風が感じられるようになったところ、会員が元気に例会に集合し力作を発表した。今回から会場を練馬稲門会の事務所に移し、気分も新たに次への一歩を踏み出した。
1.日時      2018.8.18(土) 15:00~17:20
2.場所      練馬稲門会事務所(第2春日ビル3階)
3.参加者及び作品(18名、五十音順)
  石田真理   月下老人の赤い糸
  江蔵忠道   老人感のない老人
  岡本龍蔵   芭蕉の山寺へ蝉を訪ねて
  加藤厚夫   フェイクニュース&フィニクニュース
  古藤黎子   結ばれることのない“初恋“!?
  小林大輔   NPO法人江戸城天守を再現する会
  小林康昭   マスメディアの八月
  鈴木奎三郎  四季の記憶52 「CATS」
  高橋正英   冷えたビール/リャンダ涼的、チャンウェンダ常温的
  竹内尚代   今年もまた、福島から
  谷川 亘   十年一昔
  田原亞彦   古代史雑感
  寺村久義   お一人様
  照山忠利   長崎のリカちゃん
  鳥谷靖子   福島の庄屋庵
  華岡正泰   懐かしのキャンパスで
  古内啓毅   2018年夏事情
  横山明美   時代
4.反省会
  練馬駅近くの「和歌里」にて暑気払いを兼ねて行い、大いに英気を養った(11名参加)。
5.次回予定
  10月27日(土) 15:00 練馬稲門会事務所(第2春日ビル)3階にて

なお今回、先般練馬稲門会創立40周年を記念して纏めたエッセイ集を会員に配布した。
(文責:照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会6月度(第83回)例会報告 2018.6.16

 今月は歴史的な初めての米朝首脳会談、サッカーW杯ロシア大会の開幕と大きなイベントの時期に例会の開催となった。梅雨寒を吹き飛ばすような勢いで18名が参集、いつもながらの元気な発表が行われた。
1.日時    2018.6.16(土) 15:00~17:30
2.場所    ニチリョク社セミナールーム
3.参加者及び作品(18名、五十音順)
 石田真理   「アガスティアの葉」の話
 大野 力   日大アメフト事件に思う
 岡本龍蔵   ルーマニア・ブルガリア旅行と恐怖のエレベータ
 加藤厚夫   タブーの罠
 小林大輔   6月の原宿の朗読会
 小林康昭   血液型の話
 高田翔子   目白台ハウスの日々
 高橋正英   表音文字―表意文字
 谷川 亘   老いとの葛藤
 田原亞彦   古代史探訪 北九州
 寺村久義   365歩のマーチ
 照山忠利   イタリア狂騒曲
 内藤雄幹   キャンプ初体験
 華岡正泰   カレンダー
 古内啓毅   パルムドール
 山下弓子   みーちゃんとビー玉
 柳 洋子   冷害―関東軍―満州事変
 横山明美   旅のかたち
 鈴木奎三郎  四季の記憶51 「気象病」(作品参加)
4.反省会
 高田馬場駅前の「与志乃」にて大いに懇親を深めた(11名参加)。
5.次回予定 
 8月18日(土) 15:00 練馬稲門会事務所(第2春日ビル)3Fにて
以上
(文責:照山忠利)




 



練馬稲門会 エッセイ同好会4月度(第82回)例会報告 2018.4.21

 まだ4月というのに東京の気温は26℃の夏日となり、汗を拭いながら17名が参集した。季節の移ろいに戸惑いつつ熱のこもった発表が行われた。
1.日時   2018. 4. 21(土) 15:00~17:30
2.場所   ニチリョク社セミナールーム
3.参加者及び作品(17名、五十音順)
  石田真理   空白の法則
  江蔵忠道   財政赤字をなくす方法
  岡本龍蔵   2度目の島根、山口、広島の旅
  加藤厚夫   諸刃の剣
  小林大輔   朗読がうまくなるために
  小林康昭   映画とマネジメント
  鈴木奎三郎  四季の記憶・50 ともに生きる
  田原亞彦   平昌(PyeongChang)冬季五輪
  谷川 亘   老いのこだわり
  寺村久義   重老齢社会
  照山忠利   長崎稲門会
  鳥谷靖子   桜の散った午後
  内藤雄幹   日本に古代文字はあったか
  華岡正泰   “ヨイトマケの唄”から
  古内啓毅   ストレス
  山下弓子   生活
  横山明美   四月のともだち
4.反省会
  高田馬場駅前の「与志乃」にて行く春を惜しみつつ盃を交わした(12名参加)。
5.次回予定
  6月16日(土) 15:00 ニチリョク社セミナールーム
以上
(文責:照山忠利)





 



練馬稲門会 エッセイ同好会2月度(第81回)例会報告 2018.2.17

 寒さのなかにも梅の便りが届く季節、平昌(ピョンチャン)五輪が佳境を迎え、羽生結弦選手が男子フィギュアスケートで日本初の金メダルを獲得、66年ぶりの連覇を果たした記念すべき日に2月の例会を開催した。集合した面々も快挙達成の余韻に浸り、喜びを分かち合う雰囲気に包まれた。
1.日時   2月17日(土)15:00~17:30
2.場所   (株)ニチリョク社セミナールーム
3.参加者及び作品(19名)
  石田真理   父の涙
  大野 力   西部邁さんの死に思う
  岡本龍蔵   香港へ避寒旅行
  加藤厚夫   芋煮会
  古藤黎子   谷ゆきことスナップ写真
  小林大輔   朗読の先生
  小林康昭   日本の中と外
  鈴木奎三郎  四季の記憶50 荻窪病院511号室(作品参加)
  高橋正英   大連の中学生
  田原亞彦   アジアの世紀
  寺村久義   仏陀
  照山忠利   酒よ
  鳥谷靖子   ルームメイト
  内藤雄幹   右と左
  華岡正泰   白内障手術のすすめ
  古内啓毅   旧正月
  柳 洋子   ターミナルデパート、短時間組閣、世界恐慌
  山下弓子   ドッペルゲンガー
  横山明美   春迎え三題噺
4.反省会
  高田馬場駅前の「与志乃」にて早めの観梅会(12名参加)を行い、懇親を深めた。
5.次回予定
  4月21日(土) 15:00ニチリョク社セミナールームにて
以上  
                             (文責:照山忠利)



 



ゆでガエル

照山 忠利  2018. 12. 15 

 まだ現役の工場勤務だったころ、品質管理の勉強会に行かされたことがある。仙台郊外の作並温泉の大きなホテルに一週間缶詰めになって教育を受けた。モノづくりに品質の確保は欠かせない。当時、製品不良率はPPMからPPBレベルが求められる時代となっていた。教育の内容はいかに不良品を出さずに効率よく製品を作るかということで、「工程において作り込む」ことにポイントが置かれていた。いわゆる製品検査という最終工程で不良品を除くということではなく、工程そのものに不良品を発生させない仕組みを作る考え方である。そのためには生産技術、生産管理の精度を上げるのはもちろんのこと、工程に従事する社員のレベルを向上させることが大切とされた。
 勉強会の内容は端的にいうとTQC(全社的品質管理)である。QC(品質管理)の考え方は戦後、アメリカのデミング博士によってもたらされたもので、主要な製造業の現場には広く普及していた。これを上手に活用して優秀な成績を上げた会社や工場は「デミング賞」の表彰を受ける制度があった。
 作並温泉には関東・東北を中心とする企業から多くの人が集まり、連日講義やグループディスカッション(GD)で鍛えられた。講師陣にはその道の専門家や企業の品質管理の実務家が揃い、指導に当たった。中には「TQCとはABCである」と説く先生もいた。曰く、当たり前のことを(A)、ぼんやりせずに(B)、ちゃんとやる(C)ことだという。なにも難しい理論や技術を使わなくても、工程内の仕事を緊張感をもってこなせば成果は出るのだという。面白いたとえ話として聞いたものだが、そうはいっても一応体系的な勉強をパスする訳にはいかない。
 勉強会の主眼はいかにQCサークル(小集団活動)を育成して根付かせるかに置かれた。高校を出て間もない男女の社員たちに、工程で品質を作り込むことの重要性を理解させること、そして職場の小さなグループで話し合いを重ね、より良い方法を見つけ出していく改善活動を定着させることである。セミナーではそうしたQCサークル活動をどうやって企業内に展開するかについて事例を交えながら学習した。その際に講師の口からもれた一言が「ゆでガエルになるな」というフレーズである。カエルは子供の頃、刈り取りの終わった田んぼで捕まえて焼いて食べた記憶はあるが、はてカエルはゆでても食べられるものかいなと思った。だがもちろんこれはカエルを食べる話ではない。熱いお湯に放り込まれたカエルは瞬時に飛び出すが、水に入れたカエルは徐々に温度を上げられても飛び出すことなくやがてゆでられてしまうという比喩である。とりまく環境が少しずつ徐々に変化していく中で、その変化に気づかずぼんやりしていると、終いには致命的な危機に瀕することの例えである。チコちゃんの「ボーっと生きてんじゃねえよ!」という訳だ。
 最近、永年在職した会社が品質不正問題で揺れている。責任をとって社長交代まで行われた。送られてきた社内報を見たら、新社長の方針として顧客満足(CS)の重視とかQC七つ道具とかの文言が並んでいる。何を今さらという気がしないでもないが、何事も初心に返ることは大切だ。大いに頑張って評価される会社になってもらいたいと願っている。
(了) 

                                       


 



顧みれば我が趣味は!?

古藤 黎子  2018/12/15

 どちらかというと私は好きなことより、嫌いなことのほうが多いような気がする。子供のころから、何が好きだったかはよく覚えているが、嫌いなことはあまり覚えていない。多分、好きなことだけやって過ごしてきたのかもしれない。小学校の頃、特に低学年の時は体が弱くて、足が速かったことを除いて、あまり行動的な子供ではなかった。運動会のリレーの選手に選ばれて、しかもアンカーだったのに、練習で疲れ、運動会当日は欠席して、布団の中で過ごしたという思い出もある。これも別に走るのが好きであったわけではない。
 高学年になって、やっと体を使った遊びをするようになった。友達のうちで、追いかけっこで逃げるとき、庭の大木におもいっきりぶつかり、目の玉がとびでるかとおもったほどの痛みと衝撃を受けた記憶がある。その目の上の傷はいまだに左の眉毛の上に残り、決して私には忘れることのできない記憶となった。まあ、目をぶつけなかったのは、とっさに危機感をかんじた運動能力のせいだと思いたい。
まだまだある奇妙な趣味といえば、なぜか、子供のくせに大の大人をからかっては面白がる、というわけのわからない癖?があり、下高井戸にあった「教育行政会」という塾に通っていた頃、帰りがけに駅員さんをからかって楽しんでいた。ここは毎週日曜日に試験を実施、成績順に発表するので誰がどのくらいの位置にいるか、などというのがはっきり分かる。後ろの方に名前があると恥ずかしいことになるというわけで、頑張らざるを得ないのである。その頃から、結構勝気で見栄っ張りだったようである。
 尤も、兄はKO,KOと騒ぐ親の意向で小学校から大変な思いをしていたようだが、親は、私には感心がなかったのか、呑気な中学生時代を迎えた。そして、初めて英語の授業があり、兎に角一遍で英語が大、大好きになった。
 これもまた、新し物好きの私の性格ゆえかもしれない。幸いに中一から英語の先生に恵まれたのも、好きになった原因だろうと思う。英語担当の成田先生の何とも素敵な発音に魅せられたし、授業もとっても楽しくて楽しくて、であった。多分、今までにない異国の言葉に魅了されたのであろう。何事も最初が肝心だとこの先生との出会いに感謝するばかりである。英語が好きになったもう一つの訳は、2年生だったかよく覚えていないが、英語の先生が一時休講になり、代わりの先生が見えた。その先生が森田茂先生。慶応からいらしたというだけで、一時的な担当だったが英語の時間の初めに前日の勉強の試験を実施する。それも初日からだったのでびっくりしたものだ。それも白面の貴公子然(まあ私だけがそうおもったのかもしれないが)とした優男のくせに!10問だけの簡単なテストで、その結果がまたもやあとで発表される。名前が出るということが如何に向上心を促すかという見本というくらい、私は毎回絶対10点満点をとるという頑張り屋となり、益々英語が好きになってしまった。私は森田先生を「ゲル」と呼んでいたが、今そんな話をしても当時のクラスメートは全然記憶にないみたいだ。私だけが夢中だったのだろうか。14歳の女の子の気持ちはいまとなっては皆目判断がつきかねる。
 私の英語好きは、中学生からだと思うが、大学受験で面接の時、科目で何が好きなのかと教授に問われ、「英語です」と答えたら「英語が一番悪いね」と笑われてしまった。大学に入ったら英語会しか頭になかったし、皆は、一応クラブ活動に対して結構真面目に真摯に取り組んだようだが、もうその頃になると私の英語に対する興味は薄れ、英語会は遊ぶところだとばかりに英語は全然勉強しなかった。しかし、会社に入った後も性懲りもなく、英語はすきだと思っていたが、「フランス語」を習ったりして先生に「あなたのフランス語の発音は英語みたいだ」と笑われて、フランス語もだめだわい、と思って途中でやめてしまった。なにがなんだか分からない私の趣味。会社勤めの最中も英国人やドイツ人に英会話を習い続けた。退職後の夢は、カナダあたりでゆっくり滞在してちゃんと英語をクリアする、ということだったのに!これもいい加減に諦めた。そして今、最近左手指の動きが悪くなってきたので、遂にピアノを習うことにした。趣味じゃなくて、止むを得ない事情からである。好きで英会話をやっていた時間が懐かしい。時間は決して戻らない。しかし、これもいいじゃないか!なんだってやればそれなりの楽しみ、喜びが得られることだし。ピアノ頑張らなくっちゃあ!!


                                       


 



キャロラインの道

鳥谷 靖子  2018.12月

 練馬春日町駅から光が丘に向かう桜並木があり、その途中にキャロリーヌという洋菓子屋がひっそり建っている。洒落れた店内に花畑の様に色とりどりのケーキ。友とのコーヒータイムにこのケーキが出すと「美味しいね」と皆が笑顔になる。
 このケーキを、是非食べて貰いたいアメリカ人がいる。彼女の名前はキャロライン、ピータソンと言う。
 キャロリーヌはフランス語だが、英語ではキャロラインだ。三十年以上前、偶然一人のキリスト教の宣教師と知り合い、英語のバイブルクラスの生徒になった。何人も先生が入れ替わったがその中に十数年続いたのがキャロラインだった。スウェーデン出身で小柄で栗色の髪と、琥珀色の目をした女性だった。
 毎週火曜日、お宅のドアを開けると、コーヒーの香りやオーブンからの甘い洋菓子の匂いがただよう。英語は理解出来るもののキリスト教を知らない日本人主婦に、辛抱強く向きあう真摯さ、柔和だが信仰の深さからくる芯の強さ。毎回彼女から宿題のプリントが渡されていたが、ある時「聖書に出てくる女性に絞って学びましょう」天使のような女性、売春婦、神に従う者を殺せと命じたサロメのような悪女そして母の鏡のような女性の話について学ぶ楽しい日々。旧約聖書から新訳に替わろうとした頃、この教材の出版をすることになった。英語で学んでいたが、日本の記念に英語と日本語でも学べるように対訳を作ることになり、七人の生徒が日本語訳を手伝った。その本は「聖書の女」を主題にした独自性もあり、今もどこかで使われている。
 自身の幸福を求めるのではなく、どの生徒にも暖かく平等だった。月日が流れ、生徒は皆クリスチャンになっていた。
やがて御主人の仕事でアメリカに帰る日が迫っていた。成田空港に皆で見送りに行き別れを惜しんだ。いよいよ出発ゲートに入る前に言った。「皆でアメリカにいらっしゃい、待ってるわ」あれから数年後、本当に届いた招待状。
 2000年、キャロラインの生徒六人と退職したての夫も飛び入り参加し、七人で飛行機に乗った。シアトルの空港で出迎えの車で、郊外の御自宅に向かい牧場のような門を入ると「キャロラインロード」と描かれた木の看板があり、しばらく行くと彼女の家に着いた。.地下一階、二階建の趣のある家だった。七人もの客の準備が大変だったろうが、ご夫妻の「アメリカ式おもてなしは完璧だった。」夫と割り当てられた部屋は屋根裏部屋。二階から狭い階段をあがると驚いた。赤毛のアンの部屋のような可愛い部屋に二つのベット、窓から雑木林が見え、天井は低かったが天窓があり、空の星が見える。「こんな経験初めてだよ」と仕事で海外に出張も多かった夫が喜んだ。
 昔、曽祖父が幌馬車で東部からシアトルにきてこの辺りを開拓したそうである。家の周辺は牧草地が残り、生垣にクランベリーが真紅の実を一面に実らせている。皆でボウル一杯ベリ―摘みをし、ソースを作った。家の近くにはワイルドな大湿原が広がっていた。近所に住むキャロラインの四人の姉妹はとても仲がよかった。
そこには姉妹の娘さんが飼っている白馬もいて、草原の乗馬を楽しむそうであった。二番目のお姉さんが歓迎パーテイを開いてくれた。薄明りのキャンドルの明かりにワイン、花々で飾られたテーブルでのデイナー。そして長女がグランドピアノを伴奏し三姉妹の合唱を披露した。洗練された生活様式に驚かされた。
 緑溢れ、快適な家を離れ日本人の宣教に尽力した彼女.の情熱は、神への信頼だと感じる。
毎年必ず送ってくれる美しい絵の付いたクリスマスカード、バースデイカードそして悲しい時に届いた励ましのカードに、いつも心癒されている。
 八十代になったキャロラインご夫妻が、来春満開の桜と、人々との再会を楽しみに東京を訪れる。
 日本人生徒達は、互いに年相応に老いてきたが、皆キャロラインが敷いた道を歩いている。
鳥谷靖子 


                                       


 



若い人

横山 明美  2018・12月

 時々中野の小さなマンションに行くことがある。身内のものだが空き家になっているので、気ままな時間を持ちたい気分になると二三日出掛けて行くのである。ご近所も来訪者も電話もなく、一歩外に出れば様々な店が身近にあり、外国人も含めて人の流れが絶えない。そんな街ではこの私でも若い人と口をきくことになる。
 コンビニは若い人か不便をかこつ独り暮らしが利用するものと思っていた。うちの近所のコンビニは店長もスタッフも年配者だが、中野は顔ぶれはよく変わるが若い人ばかり。ある日どうしても和菓子が食べたくなって向かいのコンビニに行ってみると新顔の若者が一人接客をしていた。棚を回ってもめざすものが見当たらないのでちょっと声をかけてみると、カウンターの向こうから飛び出してきて、えーと・・・と言いながら腰をかがめてあちこち探し「あ、ありました!」とうれしそうな声を上げた。こちらも「よかった!」とほっとし改めて足元の棚を探したが目指すものはない。若者の多い街では大福や饅頭などには重きを置かないのだ。Y製パンの乾いた焼き菓子が申し訳程度に並んでいる。若者の熱意に応えるべく二個買って店を出た。彼にはきっと田舎にお菓子好きな母親がいて帰省のみやげは和菓子なのだ、などと勝手な想像をして私は幸せになる。目元のいい若者だった。
 ある日駅近くのTUTAYAに行ってみた。最近知った新たな楽しみである。一度に四五本借りてくるが、そこがまた若者の街である。ぜひ見たいと思った映画がなかなかない。思い余ってその候補の一覧を見せると、眼鏡をかけて相撲取りのような体格をした若い女性が、20点近い作品を一枚一枚検索して、取り扱いなし、入荷予定、二階のこれこれという棚にあり・・・と書き直して渡してくれるではないか。そういえば前に来た時、これはブルーレイですから別のと取り換えて来ましょう、と並ぶ客をよそに身軽に階段を駆け上がって取り換えきてくれた人だった。今風のゆるい恰好をした若者の出入りが多い店なので、時々来る高齢者を気の毒に思い(やはり体格のいいに違いないお母さんを思い出して)親切∔に対応してくれたのだ。この日も私は幸せな気持ちになり、お母さんはお元気ですか、などと聞きたくなったほどである。和菓子の彼もDVDの彼女も実に接客のプロだと思う。

 たまにバスで阿佐ヶ谷に出ることがある。おいしいどら焼きの「うさぎや」は引き戸を開けて五六人も入れば窮屈なほどの店だが、奥へ入って注文の品を調え持ってきてくれるのは数人の若い女性で、それも普通の家庭の娘さん風である。茶髪も厚化粧もなく、ブラウスやセーター姿で、息子の嫁にしたい風、でもある。人の波が退いて一人になったとき思わずその女性に「こういう伝統的なおいしいものを商う店の皆さんが若くて魅力的なのは素敵なことですね」と言うと、いつも少し緊張気味というか敢えて愛想は売らないという感じの人が初めて「あら、いいえ・・・」と両手で口元をおさえ笑顔を見せた。プロも頼もしいが初々しいのも好ましい。老人の多弁に若者が応えてくれる・・・身近な小さな世間に、こちらの身勝手でささやかな幸せはいくらでも転がっていると思ったこの一年であった。


                                       


 



カップラーメンを水で調理する

石田 真理  2018.12月

 災害時の非常食として、「カップ麺を水で調理することができる。」ということを、何かの記事で読み、実際にやってみることにした。
 かやく、スープなどが別に小袋で入っているタイプのカップ麺ではなく、シンプルに水を入れればよいタイプの製品を選択した。味は自分の好みではなく、食べた後にのどが渇きすぎないように、食塩相当量の一番少ないものにした。ある商品の容器の裏面表示によると、しおが一番食塩相当量が少ないようだ。また、熱湯ではなく、水で麺をやわらかくするということで、調理時間も短い「3分」のものにした。
カップ麺を調理する時、一番大切なのは、その待ち時間だ。
 記載の時間より早ければ出来上がってないし、遅すぎると麺がのびてしまう。
 水で調理する場合の待ち時間を調べるため、すでに試した人はいるかと、インターネットで検索すると、たくさんの記事が上がってきた。災害時の備えとしている人は多い。
 中でも、警視庁のホームページの「災害に備える」というページの中に、「水でカップ麺を作ってみた」という記事があり、「水を注いで15分。麺は少し固めでしたがいい感じ。」と書いてあったので、とりあえず、水を注いで15分待った。
 15分後。麺に箸を入れてみた。固い。まったくほぐれていない。
 警視庁の記事が投稿されたのは8月。今は12月。季節も関係あるのかと、もう5分待ってみた。5分後。少し麺がほぐれるくらい。これは、まだ食べられない。もう5分待つ。麺が水になじんできた感じ。もう5分待ってみる。水を入れてから合計30分後、麺は少し固いがほぐれたので味見してみた。熱い湯で調理したカップ麺とは少し違うが、まあまあ良い感じだ。もう少し麺を柔らかくしてみたいと思い、さらに5分置いてみた。総合計35分。麺は柔らかくなったが、少しのびた感じだった。しかし、非常時に空腹を満たすにはよいだろう。
 カップラーメンを水で調理する。冬の場合は水を入れてから30分程度待つ。また別の麺も試してみようと思う。


                                       


 



改元・五輪後を思う

田原 亞彦  2018.12.15

 年号が変わるとなぜか人の心も変わる。ひとつの時代の終わりと初めを感じる。
1代25年とすれば、3代に亘って生きたということである。特に日本では、時の流れは継続していても、世の中に断層があるように数年後には思われる。
 前回の1964年の五輪は日本が未だ急速な発展途上で社会インフラが大きく開発されたが、今回は相対的にはインフラの面では目立たない。しかし継続的な開発や再建が行われ、東京駅周辺、汐留、お台場、品川、渋谷、日本橋周辺等などが大きく変化してきた。無論バブル時代から約30年たち再構築が必要なことが背景にある。容積率の規制緩和からか、タワービルが多く都市空間を広く取り美的配慮のあるランドスケープになっているのには好感が持てる。かってウォーター・フロントと呼ばれた湾岸地域の発展はすさまじいものである。しかし先般の様な大型の台風や高潮がきても大丈夫なのだろうか疑問である。
 暮らしの面では、IT化が加速される。AIスピーカー、IOTの進化などで兎に角便利で不精okの日常になりそうだ。健康維持面では文武両道が必要と思うが、運動量は減少、頭はデジタルに支配されかねない。認知症に要注意である。
居ながらにして多くの情報を得られることは、音楽にしろ国内外の映像、ニュースに触れるなど便利こちがいない。しかし観光でも実際に現地に行く、美術館で鑑賞する、様々な物や作品をつくったり、要は自分の五感で直に体感することが重要である。運動不足・ストレス解消のため、軽いスポーツ・レジャー設備やアスレチックセンター、不自由者などのリハビリ施設がふえるのではないか。更に高齢化もあり、物品や食事の宅配など物流システムは更に開発され、進展するだろう。
 多くの情報に囲まれて生活しているが、その変化のテンポは益々速まっている。あらゆる面で、10年もたてば最先端だった技術も古くなり、考え方も変化する。常に最先端の情報を獲得する為の生涯学習が必要になる。このことは世の中の多くのことは絶対的ではなく、時と場が変われば正否とか価値観も相対化する可能性があるということであろう。
 AIにどう付き合うか。ロボットにしろインフラのソフトは人間がつくるものである。なにを話させるか、行動・反応など製作者が決めている。ほって置けば、。永遠に同じパターンに付き合うことになる。長年付き合うとある意味では、彼に影響され飼育されてゆくのかもしれない。あくまでも主体は自分であって、なにをどう使うか自主的に決めて付き合いたいものである。
  IT開発の進展は ドローンから自動運転自動車、空飛ぶJ自動車、宇宙旅行などに進むだろう。金融面でも金銭の決済システム、為替、諸証券取引などITによる
新しいアルゴリズムが開発され益々複雑化してくる。FANGなどが、クラウド情報から、個人の行動・嗜好を予測して対応宣伝までしてくる。
 人間には五感による感性があるが、ロボットにも備えられるものだろうか?


                                       


 



ガンさん

小林 康昭  20181215

 通称「ガンさん」。社会科の教師だった。中学二年の時だ。小柄で、色は浅黒く、身なりは構わず、見かけは地味で、教員らしき威圧感に乏しかった。
当時、学制が旧制から新制に移った過渡期の時代。国民学校から新制小学校に代わったのが昭和22年4月だ。その年の3月に国民学校を卒業した生徒は、4月に出来たばかりの新制中学校に入学し、5年生以下の生徒は、そのまま新制の小学校に進級した。旧制の中等学校が新制の高等学校に看板を掛け替えたのは、昭和23年4月だった。
 小学生のくせに、どうして分かっていたのかと言うと、甲子園大会の優勝校が、昭和22年は小倉中学、翌年の昭和23年は小倉高校だったからだ。昭和23年3月に旧制中等学校の1年生と2年生は、そのまま新制の中学校の2年生と3年生に進級し、3年を終えた生徒は、4月から新制高等学校の1年生になった。
 旧制の高等学校や専門学校も、それぞれ新制の大学に移行するのだが、当時、幼少期だったので関心も無かった。自分のことを言えば、入学したら小学校だった。進学したら中学校だった、ということで、何の疑問も抱かなかった。だが教員の間では、複雑な事情が交錯したらしい。旧制度下の師範学校出身の教員は国民学校訓導から小学校教諭に、高等師範学校や大学出身の旧制中学校教諭は新制高等学校の教諭に身分や呼称を変えた。だが、出来たばかりの新制中学校はかなり混乱した。新制中学校の教諭には、師範学校出の旧制国民学校訓導と高等師範学校や大學出の旧制中等学校教諭が混在したのだ。教諭たちの間に何となく溝が出来ているのを、中学生なりに感じ取っていたものだ。加えて旧制度下の授業が無くなったり、新しい授業が誕生したりして、教員たちも、かなり混乱し難渋していたようだった。
*  *  *
 社会科の授業もその一つ。旧制度にはなかったそうだ。他ならぬ「ガンさん」が、度々、こぼしていた。二年の社会科の教科書は、日本の歴史だった。「ガンさん」は、教科書を開いて「今日は、足利時代を・・・」などと口火を切ったが、いつも、教科書には全く触れなかった。専ら、余談、雑談、脱線のオンパレード。「足利義満は、天皇を暗殺して自分が天皇に・・・」その計略が暴露されて返り討ちに、などと、恰も見てきたようなミステリー調で生徒たちを魅了した。江戸時代に入ると「日光東照宮の鳴き竜は・・・」建築工事で酷使されて殺された職人たちの「怨念がこもったうめき声なのだ。日光に行って確かめてみろ」と生徒たちを挑発した。生徒たちは嗤った。「ほんとかヨ」
 三年になって、修学旅行は日光だった。旅行前に小冊子が配られた。旅程、注意事項、携帯する必需品に加えて、愛唱歌の類が、巻末に列記されていた。車中や旅先で唄おうとの目論見だった。教頭や担任教師が型どおりの説明を終えると、替わって「ガンさん」が前に立った。そして、列記されている歌の数々を、いきなりアカペラで歌い始めた。素晴らしい音量と美声で、生徒たちは、一瞬、度肝を抜かれて沈黙し、その後、大歓声が起きた。「ガンさん」に促されて、全部の歌を歌い終えた。「ガンさん」のこの余技は、生徒たちに意外感を持たせた。それで、後々まで話題になった。「授業は凄く面白かったけど、見かけによらないものだナ」「だけど、アイツ、大学で応援歌をつくったらしいゼ」
 数年後、県立高校に移った、と風の噂を耳にしたが、それっきり、「ガンさん」のことは忘れてしまった。
*  *  *
 この年になると記憶がおぼつかなくなって、いつのことだったのか正確に言うことが出来ないのが残念だ。数年前のこと、としか言いようがない。早稲田大学の何かの行事に出て行った時のことだ。ホームカミングディだったのか、記念祝典だったのか、場所が大隈講堂だったのか、記念会堂だったのか、も定かではない。壇上で次々と進行していく式次第には全く上の空で、手にしたパンフレットやチラシ、案内状などに目を通して、会場を出たら、次はどこの催しを見ようか、などと模索していた。大隈庭園では、練馬稲門会の催しもあることだし・・・。
 お歴々の演説や講話がひとしきり続いた後、それが一つの節目だったのか、学生風情が一人、タクトを手にして、壇上の中央に立った。途端に、場内が静まり返った。その姿を、視線の端に捉えていたことは、今も確かに記憶している。
 彼が、タクトを振り下ろした。前奏が前方から流れてきた。その調べは悠然として、誠に荘厳だ。
 前奏が終わった。続いて耳に入って来たのは、記憶があるメロディーだった。視線を壇上に向けた。タクトを振る指揮者の背後に、年老いた御仁たちが鎮座している。御仁たちの氏素性は分からない。分かるのは、中央に座る総長の顔だけだ。手にしていたなかから一枚を取り出して開いてみると、開会の辞から始まって、様々な式次第が並んでいる。応援歌の演目と、作詞者の名があった。顔をあげて、再び、壇上のお歴々に視線を戻した。このなかに座っている筈の、今、演奏している曲の作詞者を探した。だが、老人ばかりの顔の判別はつかない。
*  *  *
 演奏が終わった。拍手が起きた。拍手は慎ましかった。拍手には敬意が込められている、と感じられた。司会者に促されて、壇上のお歴々が退場していった。静かな足取りだった。
初めに、式次第をしっかりと確かめておくのだった、と後悔した。そうすれば、この曲の作詞者が紹介されて、壇上で会場全員に向かって挨拶をしたその姿を、はっきりと目に焼き付けることが出来たのだ。
 荘重に奏でられたのは、♪ 栄光は緑の風に~ ♪で始まる、あの「早稲田の栄光」
そして、作詞者は、岩崎巌、あの「ガンさん」 21年専門部法律、24年政治、の卒業とあった。


                                       


 



「二年間の空転」・・・こりゃ如何に?

谷川 亘  2018年12月15日

 2016年8月に小池新都知事体制が始動。算盤教室流に言えば、「ご破産で願いましてぇ・・・・・」の一言で、あーでもないこーでもないと屁理屈、珍論百出したのには、築地市場を占拠していた筈(皮肉)のドブネズミも目を丸くして右往左往したことでしょう。
 私に言わせば、“無理・無駄・ムラ”三拍子の揃い踏み。築地ネズミにあらずして、都議会の先生方同士が悪ふざけなさり、賛成・反対両派巻き込んで駆け引き論争が炎上し、結果的には棚上げされて元の鞘に収まる。つまり、無益にも二年間が空費されてしまったと言いたいのです。
 この間の時間と費用の空費は甚大であり、東京オリンピック開催にも懸念をもたらすような、悔いを残して余りある大失態であったと言わざるを得ません。
 もともと、築地と豊洲はお互い隣組み同然ではないですか?大喧嘩して対峙した議会の先生方や両陣営も、今では何事もなかったように立ち居振る舞い、なにかあったの?的風情。一体、最低一万匹、否、そんなものじゃないと誇張された築地のネズミは、大袈裟にも6度の駆除計画のもと、2回しかやっていないのに捕獲したのはたった1400匹。築地のネズミは銀座をも凌駕すると危惧されて報道でも取り上げられましたが、正しく「大山鳴動して鼠一匹」。
 歌謡演歌にもあった「銀座のネズミ」が、“おいで、おいで”と手招きしていた?と言うのに・・・。
 万事休す。諺に「窮鼠猫を噛む」なんてありますが、今回の移転騒動には、鼠そのものもいなければ、強面だった都議会の先生も河岸の旦那衆もみんなみんな丸く収まっての茶番劇。
 この二年間と言うもの、鳴り物入りで東京都政を翻弄させ、マスコミ迄引き込んだ豊洲移転も、順調に移転が進んでしまえば“ただの人”。
 移転に関して「何か不都合でもあったのですか?」と問いたいのです。
 マスコミも移転騒動を取り上げたのはほんの数日。やれ、ターレーが火を噴いたの、ご婦人が事故ったの、一時渋滞が発生したのとは書いてみたものの針小棒大記事ばかり。
 築地から豊洲への天下御免の大移動。粋なお兄~さんがターレに跨って、丸ハンドル斜に構えてねじり鉢巻きの立ち姿。よく見ると、引っ越し荷物で満杯の筈なのになぜか空荷。
 河岸の兄さんの心意気ここにあり的デモンストレーションですもんね。長年にわたって鬱積していた何ものかが堰を切ったように爆発する瞬間。それって良くわかる。
 我が工場は、豊洲から2.5㎞先の東京湾岸。河岸の雑音を期待して、開設当日の10月11日と見学コース解禁日の15日、念押しで、11月21日には一番電車で6時半に訪ねたのですが、案内係兼務の守衛さんのそれは親切なこと。来訪者が少なく“暇持て余して”いたのですよ。なんてことはない。喧騒の後の静けさとはこの事。それもその筈、鼠一匹すらお目にかかれない、人気もまばらな長い廊下と、小窓を介して見下ろす、虚ろな“現場”を垣間見させていただきました。セリの気迫も吐く息の白も“見ざる・聞かざる”まるで無声映画。
 ふと、「夏草や 兵どもが 夢の跡」なんて芭蕉の句が脳裏をかすめたのですが、それって、意味取り違えてましたっけ?


                                       


 



四季の記憶54「さよなら平成」

鈴木 奎三郎   2018・12・15

 このところの冷え込みは厳しいが、今年も暖冬の予報という。北国では初雪の便りが記録的に遅かった。各地のスキー場はあまりの暖かさに人工降雪機も稼働できずに、そうでなくても毎年スキー客は減っているのにお気の毒なことだ。代わりに北国のゴルフ場は千客万来だそうだ。これが長期的な温暖化傾向の走りだとすると、これはこれで困ったことである。
 11月末までに吹く強い北寄りの風をいう「木枯らし1号」も東京ではなかった。この季節特有の西高東低の気圧配置が緩んでいるらしい。12月3日に秩父宮ラグビー場で早明戦を観戦した。神宮外苑の銀杏並木は例年に比べいささか貧相で、期待が裏切られた。どうも例年に比べ落葉が早かったらしい。

 クリスマスを控えた青山通りや表参道は華やいで、この暖かさに誘われて親子づれや若者でいっぱいだ。原宿に向かってぶらぶら歩いていくと、表参道のハナエモリビルは建て替わって往時の姿はない。ここには、現役の頃年に数回は来ていた。森英恵さんの春夏、秋冬のオートクチュールとプレタポルテのファッションショーを見るためだ。ショウには、会社が長らく登場モデルのヘアメークの技術協力と資金的な協賛を行っていた。オートクチュールのショウはブラックタイ着用だ。ショウの後は「オランジェリー」というフレンチレストランでディナーとなる。お歴々の中に入って、窮屈なカマーバンドをしてのフルコースは、業務とはいえ分不相応の辛い時間だった。

 さて、現在本館を建て替え中のホテルオークラ。何十年か前に結婚式を挙げたところだが、先月久しぶりに別館のアスコットホールでのあるお別れ会に参列した。10月に亡くなったのは、照明家で文化プロデユーサーの藤本晴美さん。一般的には無名だが、ファッション界やクリエイターの世界では知る人ぞ知る“ペコちゃん”である。黒一色のブランドスーツに身を包みサングラスの素敵な人だ。おかっぱ髪でかわいらしく、不二家ミルキーのペコちゃんそのものだ。年齢非公表なるも、ぼくより1,2歳上。みなさんは敬愛を込めてそう呼ぶ。
 お別れ会は、三宅一生、高田健三、安藤忠雄、山本耀司、松岡正さんなどが発起人。

 ペコちゃんとの最初の接点は忘れたが、少なくとも20年超はいろいろな仕事を共にしてきた。
 なかでも忘れられないのは、1998年10月に六本木のオリベホールで約1か月間開催した企業文化展「美と知のミーム・資生堂展」だ。すでにパリでは前年に開催し当地で好評を博していたが、この東京版である。創業130年の節目に、それまでの歴史や企業文化を内容とした文化イベントだ。このプロデユーサーと事務方の責任者に指名されたぼくは、真っ先に制作責任者としてペコちゃんを起用した。宣伝部のクリエイターやデザイナーの枠を超えた発想と見識が必要だったからだ。この文化展にはは彼女の力量が不可欠だった。
 新聞などへの企業告知広告なども含め、総予算4・5億円のイベントで、詳細は書けないが朝日新聞の文化欄には「・・この展覧会はその完成度の高さで、驚嘆に値する‥なんでも下請けに出されるこの時代、企業文化は人任せにしないという気概に圧倒される」と書いている。
 銀座はもとより青山、六本木界隈には若いころの仕事の思い出がいっぱい残っている。枯葉とともに平成の記憶も流れていく。


                                       


 



模擬裁判員裁判に参加して
―忠臣蔵刃傷事件を裁く―
 

岡本 龍蔵  2018.12.15

 この11月、選任される可能性は低いが新裁判員制度の模擬裁判員を体験した。案件は忠臣蔵刃傷事件を現代に移して、検察官役が吉良上野介に対する殺人未遂で被告人浅野内匠頭を起訴した。その量刑を決める模擬裁判だ。時あたかも、東名高速の「あおり運転」で裁判員裁判による被告に対する懲役18年の判決が言い渡された。
 説明によると、殺人の法定刑は、死刑か無期もしくは5年以上の懲役となる。殺人未遂ならその刑を軽減できるというから、未遂でも殺人罪と同じ死刑が可能だ。弁護人は、被告人浅野内匠頭に殺意はなく、殺人未遂に当たらず「傷害罪」にとどまると主張した。これに対して我々裁判員はどう判定するかが今日のテーマだった。テーマが分かりやすい。
 まず、我々は被告人の犯罪動機、計画性を検討した。犯罪の動機は、1)礼装のドレスコード(フォーマル・ウエア、セミフォーマル…)を教えてくれなかった、2)塩精製法を教えてくれなかったなどから恨みが積もっていた。(現代の感覚では製塩法はノウハウであり、礼装の種別告知も当然対価を伴うと反論あり)犯罪の計画性では、1)犯行は殿中でなく市中でも機会はいくらでもあった、2)松の廊下で偶然吉良上野介に遭遇したのだから、突発的で計画性はなく罪の軽減に異存はなかった。 
 次に、犯行面では、殿中で所持を許された小さ刀(一尺前後と短い)を使って、活動に不自由な礼装のまま相手の顔面、背面をやっと切りつけただけにとどまり、簡単に居合わせた者に取り押さえられてしまった。これで殺害の意思があったかが議論になった。
 講師の質問、「被告はなぜ山口一矢事件のように、短刀による必殺法である相手への突進、突き刺しを選ばず、上から切りつけたのか」
 私の答え、「大上段からの切りつけは武士の美学だ。野卑に突き刺すなどまったく意中になかった」(だから殺す気は毛頭なく、武士の美学を重んじた…私は傷害罪適用派)
 だからこそ後世、歌舞伎、浄瑠璃となり歴史に残ったのであり、これが短刀による突き刺しではさまにならない。
 講師の質問、「殺害しようとさらに追いすがるが、取り押さえられ目的を果たせなかった」
 私の答え、「殺害の意思はなく、誰か早く羽交い絞めをしてくれると、上段に構えたまま待っていたのだ」
 実際に模擬裁判員が出した結論は、私の目論見の「傷害罪」とならず「殺人未遂」となった。殺意ありだ。その殺人未遂の法定刑は殺人罪と同じ「死刑または無期もしくは5年以上の懲役」で、未遂ならこれを軽減できるという規定から、ここでは懲役8年~3年の範囲で検討することになった。結局5年となった。幕府裁定は重い「切腹」刑だが、現代の法に照らして懲役5年となった。懲役5年で済めば、後の四十七士の悲劇はなく歌舞伎にも取り上げられなかった。どちらがよかったのだろうか。
 裁判員制度は選挙権を持つ人が裁判員に選任され、拒否できないという。ただし、70歳を超えたら辞退できる。あなたならどうしますか。 ―練稲未来塾講演会(片岡弁護士、元検事)から

                                       


 



コッコデショ

照山 忠利  2018. 10. 27 

 長崎くんちは市民の氏神である諏訪神社の例大祭だ。毎年10月7日から9日にかけて行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。起源は寛永11(1634)年というから、今から380年前にさかのぼる。二人の遊女が神前に舞をささげたことが始まりという。時の長崎奉行が奨励したので盛んになったといわれているが、裏には神社の祭礼をテコ入れすることで、切支丹勢力を一掃したいとの狙いも込められていたようだ。(当時の長崎は幕府直轄の天領であり、長崎奉行が統治していた。)
 くんちの名の由来は、旧暦の重陽の節句(9月9日)に行われたことから、くにちが転じてくんちとなったとの説が有力で、長崎では親しみを込めて「おくんち」と呼ばれている。演し物は大別して「踊り」、「曳物」、「担ぎ物」に分けられ、和風、洋風、中国風のものがある。踊りでは芸者衆の「本踊り」(日本舞踊)、「阿蘭陀漫才」、曳物では「川船」、「御朱印船」、「鯨の潮吹き」、担ぎ物では「龍踊り」などがポピュラーだ。これらの演し物を奉納するのが「踊り町」である。市内59の町が7組に分かれていて、その年の当番となった町が踊り町といわれる。つまり踊り町は7年に一度回ってくることになっている。各町によって演し物は決まっているから、演目によっては7年に一度しか見られない物もある。今年の「コッコデショ」もその一つ。港に近い椛島町の演し物で、担ぎ物の白眉とでもいえようか。
 「コッコデショ」の名はその神輿を担ぎ上げるときの掛け声に由来するのだが、字で書くと「太鼓山」と表記される。4本の担ぎ棒に、大太鼓を囲む櫓を組み、その上に鮮やかな五色の大座布団を載せた担ぎ屋台(重さ1トン)を36人の屈強な担ぎ手が肩に載せ、息を合わせて勇壮に練り歩く。決め技は「コッコデショ!」の掛け声とともに中空に放り上げた屋台を、全員が片手で受け止めて「ヤー!」と叫ぶところ。豪快な力業で、これがきれいに決まるとアンコールを意味する「モッテコーイ!」の喝采を浴びることになる。長崎人が最も好む演目のクライマックスだ。
 鎖国時代、海外に開かれた唯一の港であった長崎に陸揚げされた貿易品は、堺商人の廻船によって全国に運ばれた。その船乗りたちは港近くの椛島町の宿を定宿としていたので、彼らを通じてだんじりや各地の踊りが伝わり、それが町の演し物「コッコデショ」につながったといわれている。
 踊り町の稽古始めは6月1日。これを「小屋入り」という。それから夏の暑い季節に特訓を重ね、10月3日の「庭見せ」(衣装や道具の公開)、4日の「人数揃い」(にいぞろい、リハーサル)を経て7日からの本番に突入するのだ。
 演し物を披露する主舞台は諏訪神社神殿の石段下の広場。この石段と周囲に設えられた桟敷席が広場をぐるりと取り囲む。各町の目一杯の演技が終わると「モッテコーイ、モッテコーイ」とアンコールの大合唱。大半の演目にはモッテコーイの声がかかり同じことを3度はやることになる。7年前のおくんちで「コッコデショ」を桟敷席で見る機会に恵まれた。見事な演技を終えて退場した椛島町チームを称賛してやろうと追いかけて裏通りへ行ってみたら、全員が号泣していた。やり切った達成感と満足感、責任を果たした安堵感、そしてこれまでの辛い苦労が報われたとの思い、様々な感情が去来したのだろう。
 おくんちのスタートはアジサイの季節。祭り本番の頃の会席膳の膾には柿にざくろの実が混じる。そして賑やかな祭事が終われば秋の気配。街路樹のナンキンハゼの緑が次第に赤く染まり出す。長崎の追憶は尽きない。
(了) 

                                       


 



渋好み

横山 明美  2018・10月

 「若いのに年寄り趣味ねえ」と高校生のころから姉たちにからかわれていた。好きな俳優の話で私が『だんぜん土屋嘉男よ』などと言うからである。その名を知る人も少なかった。黒澤明の映画「七人の侍」に端役で出ていた人で、その後テレビでもドラマにとくに話題になるでもなく顔を出していた。苦虫をかみつぶしたような顔つきでいて一途な感じというのか。主役の七人の侍のうちでは、口数は少ないが深く切れ味鋭く行動する役柄の宮口精二が一番と思っていた。父は進軍ラッパを吹いてずんずん突き進む人だったし、弟は体ばかり大きいくせにいつもその父に怒られてひいひいしていたので、考え深く静かなタイプの男性につい目が向いていたのである。石原裕次郎や加山雄三など言語道断と思ってきた。
 中学で憧れたのがまた地味なN君で、青春真っ盛りに口数少なく声立てて笑っているところなど見たこともなかった。家族でにぎやかにもりもり夕飯を食べたりするんだろうかと思った。長身で前髪をたらし恥ずかし気な視線が気になっていた。当時私はいやに体格ばかりよく、娘盛りにそれが気恥ずかしくてうつむき加減の毎日だったので、目を剥いて王道を歩くよりは静かで落ち着きがあり・・・という雰囲気の人に惹かれていたのである。
 日本に生まれて四季に恵まれていることはなんとも幸せに思うが、春より夏より断然秋、そして冬である。はらはらと舞い落ちる落葉のもと冬に向かって歩む自分を絵にして想像すると、あら、なんてもの静かで知的なうしろ姿!とうれしくなってしまう。気温38度などという酷暑に汗だらだらでは到底考えられない妄想である。そして花といえば、花屋で大きな顔をしている洋ランなどよりなんといっても不如帰や吾亦紅、野菊などの楚々とした花々である。またその秋の精を生けるのもマイセンやジノリなんぞという洋物より備前や益子の陶器ならそれらの花々をゆったり抱き入れてくれる、と思ってしまうのだ。誘惑に負けてモンブランやシュークリームを食べはしても、テーブルに飾るのは今の時季、どうしたって秋の野花である。 
 手もとに楕円形の手に収まるほどの皿がある。乳白色の地に控えめな銀の月が浮かんだところに一刷毛うっすらと風が吹いており『有馬山 猪名の笹原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする』と筆が走っている。百人一首からとったもので紫式部の娘,大弐三位の歌である。磁器に絵付けをしている友人が、中で私の一番好きな歌を得意な筆で書いてくれたものだ。これを見ては遠い存在になってしまった懐かしい人のだれかれを思い出したりするのである。人生もここまで来たか、と渋茶をすすり栗むし羊羹をほおばりながらしみじみ。
 連れ合いに面白かった本を薦めることがある。映画を一緒に観ることもある。以前はあーだこーだと感想を述べあったりもしたが、最近はほとんど「渋いね」のひとことでかわされてしまう。それはどうも退屈だ、面白くない、と同義語らしい。私自身が否定されたようでがっかりだが、私の思うところの「渋い」の真髄をぜひ理解してほしいと願うばかりである。


                                       


 



そば通

加藤 厚夫  2018・10・27 

 いまも毎月信州を訪れる。大宮・長野間は、新幹線でわずか1時間だが必ず市内に1泊はする。
 幸いむかし現地社員だった原君の足があるからで、昼は信州蕎麦と五色温泉の日帰り、夜は権堂のカラオケをと二日楽しんで帰る。その信州のそば通になったきっかけが、41歳にして社長を拝命したことだ。「資本金一千万円も出すから長野で新販社を立上げろ、そして当社製品を売りまくって来い」と、相変わらず思いつき一本ヤリの会社命令だ。飛込みセールスの経験などないのに、どうやって社員に売らせりゃいいのだ。どうせ赤字が続きで、クビだろうと開き直るしかなかった。
 そして旧特急あさま号の侘しい一人旅、4時間後吹雪の長野駅に着いた。駅を出ると管轄支店の車が出迎えてくれホットした。赴任しばらくはげんなりとして食欲もないから、昼めしは蕎麦になる。腰が落ち着いてからは、酒豪でそば通の支店長と蕎麦の名店巡りとなった。市内だけでは飽き足らず、松本市の小林、上田市の刀屋、小諸の丁字庵、十日町市の小嶋屋、新潟のへぎそばなどくまなく回った。
 良く通ったのが市内長野信金裏の山喜だ。寒くなると昼から串刺しおでんが火鉢の大鍋に煮えており、いつも勝手にとってはビール片手に頂く。そばダシで煮ているから味は格別だ。そして手打ちの大ざるそばで締める。信州は東京のケチな蕎麦屋とちがい、刻みネギ・ツユは使い放題だし、ビールは大瓶が当たり前だ。立場上時間は自由なので、つい飲み過ぎてしまうのがマズイ。しかしこれは思ったよりいい身分ではないかと思い直した。なお山喜はいまでも、このおでんをやっているからありがたい。
 当時東京から本当の社長や幹部が出張でくると、戸隠の大久保之茶屋に連れて行った。藁葺き屋根の風情あるそば店なので喜ばれたが今は行かない。客が殺到し、機械打ちにしてから味が格段に落ちたからだ。その奥戸隠中社の超行列店うずら家にもよく行く。残念なことに、最近原君がそこの女店員さんと色事で失敗し、足が遠のいた。いまはもっぱら須坂市の竹の春だ。平日でも口コミで知った出張サラリーマンが絶えない。ここの蕎麦がきの味と舌ざわりは格別で、10月には新そばで一層香り立つ。
 自称そば通だから恥もかく。近江日吉大社参道の有名店・鶴喜に社員5人を連れて行ったことである。
 「麻の暖簾がかかり、諸事由緒めいてみえる」店だが、昼どきなのに客がいない。姿のいい老婆が、なぜか申し訳なさそうな顔をして注文を聞きにきた。老舗なのになにか妙だなと思いつつ、そばを食べ終え外の看板を見た。なんと日吉そばとある。たまたま店の真ん前の「本家・鶴喜そば駐車場」の派手な看板を見て疑わずに入ってしまったのだ。鶴喜は左隣リだったがもう食えない。
 先月「街道をゆく・叡山の諸道・そば」をたまたま読んで吹き出してしまった。あの司馬先生でさえこの日吉そばを鶴喜と思い込み入ってしまったのだ。そのてんまつをこう書いている。
 「しばらくして奥から女性の物憂げそうな返事があって、意外にも瞳に青い陰翳を施したきれいな娘さんがあらわれた。注文したあと、この界隈のことを聞きたいと思い「お年寄りはおられますか」と聞くと「いません」という。接ぎ穂を失い、ここは鶴喜ですかと、わかりきったことをきくと「ちがいます!」。おそらく似たようなあわて者がとびこむことが多いらしく(中略)こちらはともかくも出されたものを食った。日吉そばを食べながらこれは権威あるそばではない、と思うとすれば(事実、思ったが)じつによろしくない。娘さんはそういう人間現象を見て、世の中がいやになっているかもしれず、そうとすれば彼女は唯一の被害者である」。そうかあの時の老婆こそ、この唯一の被害者できれいな娘さんであったのだと確信した。ある意味老舗である日吉そばの、辛くて無念な立場の長い歴史を思った。 


                                       


 



スポーツの秋10月

小林 康昭  20181027

 天高き秋と言えばスポーツ、スポーツと言えば十月ですネ。十月には祝日の体育の日もあるし、プロ野球も六大学野球も佳境に入っているし、巷の校庭では運動会が花盛りです。外国勤務中、現地で運動会をする学校なんて眼にしたことがありませんでした。スポーツは諸外国以上に、日本人のなかに定着しているように見えます。だから、新聞やテレビから発信される日常の情報量は異常に多いように見えます。異常に、とは外国と比較するからで、日本国内しか知らないと、これが当たり前と思うかもしれません。でも、一選手の美技や引退に一面全部を使うなんて、明らかにはしゃぎ過ぎだと思うんですヨ。だって、その記事のために報道されなかった大事な出来事や事件が隠れてしまった筈ですから。国を代表するクウォーリティ・ペーパー(高級紙)でこのように大騒ぎする紙面を作っているのは日本だけです。ロンドン・タイムスもフィガロもトリビューンもしません。この読者にしてこの紙面あり、だとすれば、日本人の知的レベルは推して知るべし、と言うことになるのでしょうか。閑話休題。
 この風潮に或る予兆を感じます。それは、昔から言い慣わされてきた警句「パンとサーカス」です。ローマ帝国が滅びた遠因に、この警句を引いているのです。政治から民衆の関心を逸らせようと、施政者たちは美食と見せ物で民衆の関心を釣ったのです。民衆の関心は奢侈と享楽に向いて政治から遠のき、ローマ帝国の滅亡につながったというのです。
 テレビに料理番組や食べるシーンが多いですネ。政府は和食を世界遺産に登録しました。総理大臣が贈る国民栄誉賞の受賞者は、いわゆる見せる側のスポーツ選手と俳優ばかりだし。みんなが一様にこの「パンとサーカス」に狎れてしまったら、日本の将来は危うい。ローマ帝国が辿ったように・・・。その予兆ではあるまいか、と言うことです。
*  *  *
 スポーツという語は、広辞苑では「遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素を含む身体運動の総称」と規定しています。身体運動をする概念です。語源の英語圏では、英国のThe CONCISE OXFORD Dictionary 7th editionによると、Sportは「1.amusement,diversion,fun;2.pastime,game,outdoor pastime」とあります。娯楽、気晴らし、楽しみ、時間つぶし、戯れ、特に野外の時間つぶし、を意味します。米国のWebster’s NewWorld Dictionary 2nd edition では「1.any activity or experience that gives enjoyment or recreation;pastime;diversion」とあります。享楽や休養を与えるあらゆる活動や体験、時間つぶし、気晴らし、を意味しています。日本語とは異なる概念です。
 英語圏での認識は、体育や運動に限らず、娯楽や時間つぶしであって、他人が運動しているのを見て楽しむことも、運動以外の遊びをすることもスポーツです。
 ですから、英語圏の人々と会話する場合、認識の違いを承知していないと誤解します。最近、ジャーナリストが競技者をアスリートと表現を変えました。スポーツマンやプレイヤーでは不適切と感じたからでしょう。
 スポーツに対する日本人と英語圏の人々との認識は、語意の認識の違いを、そのまま引きずっているようです。
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 その違いとは、スポーツに対する考え方です。今、わが国のスポーツ界は、胡散臭い醜聞(スキャンダル)が後を絶ちません。曰く、パワハラ、暴力沙汰、不明朗な判定操作、意図的な反則指示、指導者の責任回避と部下や学生生徒への責任の押し付け、組織的隠ぺい工作、不透明な理事者の人事。どうして、そんな状態に陥ったのでしょうか。
 それは、スポーツの存在が、遊びや時間つぶしを遥かに超えた存在として、関係者たちの肩に大きな力が入っているからです。それには、スポーツ界と学校教育界の関係が大きな影響を及ぼしていると思います。明治、大正、昭和と、わが国では社会の制度が未成熟だったので、学校教育に多大な命題を安易に押し付けました。わが国ほど学校教育に多くの責務を課す国はありません。部活もその一つです。その結果、校外の指導訓練の機能が脆弱な状態です。
 スポーツの指導者や役員の存在感が過大になっている理由は、スポーツ界が教育界と密着しているからです。芸能事務所のように教育界と一線を画す存在だったら、今ほどの存在感を誇示できない筈です。
 視聴者の関心を得ようとして連日、過剰に囃しているメディアの姿勢には、教育的見地に立った視点がありません。むしろ、弊害を助長する存在です。ここに、わが国のスポーツ界の腐敗、荒廃、堕落につながる原因があります。
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 これを正すには、わが国のスポーツ界の体質を全面的に刷新するべきです。学校と部活を切り離すべきでしょう。
 部活には教科では得られない利点や美点があるから、と評価する意見がありますが、それは、教育指導の維持向上を怠けてきたからだ、と言えます。教育指導者は、今まで以上に教育指導の向上に努めるべきです。
 高等学校までは、保健体育の教育指導に限ることです。その結果、教員の顧問活動や校外からの指導者の雇用は不要になります。生徒は個人の意志で、校外のクラブで活動することです。イヤなら他のクラブに移れば良いのです。学内のクラブなる故に、部員は進退転籍を束縛され、指導者や上級生の強圧的な振る舞いから逃げられないのです。 
 大学の体育教科を廃止すべきです。体育の実技と座学の教員たちを一掃し、クラブの運営経営から大学は手を退くべきです。世界のスポーツのレベルに伍していくには、一般学生の教育指導や経営資源を犠牲にする程の、重い負担を強いられます。これは大学の本分にとって本末転倒です。大学は原点に立ち返って、学問の府に徹すべきです。
 スポーツ界の不祥事の起因は、当事者たちの個人的な資質を超えた不条理な体質にあると考えています。


                                       


 



四季の記憶53「縄文の風」

鈴木 奎三郎   2018・10・27

 台風が多く、いたるところに多くの災害を起こした夏の記憶も遠のき、金木犀やコスモスも盛りを過ぎて、抜けるような秋空のもとに萩やススキがはかなげに風に揺れている。吾が仔を連れての毎朝の散歩コースのひとつである石神井公園界隈は、多彩な植栽から季節の移り変わりがはっきりしていて、今年もだんだん少なくなっていくことを実感する。二十四節気では「霜降」の時期に当たり、2週間もすると早くも「立冬」となる。

 石神井公園の一角に、ボランティアの方々が管理している野草エリアがある。この近くにある池淵史跡には、縄文時代の竪穴式住居跡が残されている。昭和47年に発掘され、いまは保存のために埋め立てられているが、こんもりとした20坪ほどのサークルの遺跡が30メートルほど離れて二つある。
 縄文時代は約13000年前から約1万年続いたそうで、この遺跡は5000年前のものだという。秋の木漏れ日の中で静かにたたずむ遺跡からは縄文人のかすかな息使いが聞こえてきそうで、なにやら神秘的で厳粛な気持ちになる。
 縄文といえば、7月から9月に上野の東京国立博物館で行われていた「1万年の美の鼓動――縄文展」は、久しぶりの圧巻の展覧会だった。縄文のビーナスや合掌土偶など国宝の土偶5点を含む壮大なもので、なかでも縄文中期の“火炎土器”は、繊細な網目模様の土器の上部に施された斬新で踊るようなダイナミックなデザインが素晴らしい。気がついたらなんと2時間超もいて、そのエネルギーに圧倒されへとへとになった。

 展示されているこの火焔土器のいくつかは、1997年初夏にパリのセーヌ川沿いにある日仏文化会館で見ているのだ。もちろん業務出張ででかけたわけだが、どういう用件で行ったかはすっかり忘れた。しかし初めてここで見た火焔土器に衝撃と感銘を受け強く印象に残っている。
 97年から99年にかけて日仏で多くの記念行事が行われ、その一環としてここで縄文時代の火炎土器をはじめとするいくつかの土器が展示されたのだ。この文化交流のメインは、日本からは百済観音が、フランスからはドラクロワの代表作「民衆を導く自由の女神」が選ばれて展覧されたと記憶している。日本びいきの当時の大統領J・シラクさんも縄文土器を絶賛したと伝えられている。

 今年は日仏友好160年を記念して、パリを中心として展開される日仏政府主導の日本文化・芸術の祭典「ジャポニズム2018:響きあう魂」が開催されている。仕事や企業メセナ(企業による文化支援)のかかわりで十数回訪れたパリ。どこを切り取っても絵になる北フランスや南フランスの田園風景。BSテレビなどの特番に触発されて久しぶりにパリ再訪という気がないでもないが、いまやパリに出かける用事もなく、体力気力も落ちてきて海外旅行は年々億劫になってきた。
 近場で、紅葉する四季の変化を楽しみながら日々を過ごすことが、お金もかからぬ賢明な選択かもしれない。

 縄文の風が吹くなり秋入日


                                       


 



十五夜の夜に

鳥谷 靖子  2018.10月

 初秋のある午後、歴史散歩の同好会で、お台場の江戸末期の徳川幕府が諸外国からの侵攻防衛の為に作った砲台を見学し、レインボーブリッジを歩いて渡る企画に参加。
 雨も止んだ青空のなか、海を眺めて歴史を振り返りながら歩く。砲台の周りはススキが穂を出し、真赤な彼岸花も人恋しげに咲いている。東京湾の対岸にフジTVの近代的なビルや商業ビル群の眺めに心癒される。
 仮に90年元気に生きながらえたとし、3分割すると、今は最後の第三楽章の半ばだ。ここを訪れる事は再びないと思うと、ここからの眺めは一層感慨深い。
 友人が、「あさって十五夜だね。お月見団子作るの?」と言う。「どうしたら美味しく出来るの?」聞くと「団子の粉にお豆腐を混ぜるのよ」とアドバイス。
 「そうか!明後日は祭日、家族を招待しお月見会をしよう。」山盛りにしたお月見団子!孫達の喜ぶ顔が頭をよぎる。砲台近くのススキの穂が出ているのをそっと二本頂戴した。「ススキやコスモスと、秋の花でアレンジを作り食卓を飾りお団子を並べよう」。
 十五夜の当日,昼前に買い物を済ませ、栗ごはんようの栗剥きから始めた料理は、夕刻やっと完成、腰がズキズキと痛む。間もなく娘一家と息子家族がやってくる。
 娘の子供達は「こんばんは!」と言ってとテーブルに座ったが、その後は高二の男の子はスマホをいじり始め、中二の女の子はテレビに釘づけとなった。
 流石に食事中は携帯をいじらなかったが、特製の家庭料理には喜ぶこともなく、無反応だった。現代っ子とはそんな風だと拍子抜け。
 娘は5年前まで夫の転勤で広島に住んでいた。現在高校生の孫が東京での中学入試の為に一人で上京、夫と羽田まで迎えに行った際は、短髪で地方の素朴さの残る涼しい目をした少年だった。「広島の私立校にも合格したのだから力はあるから、公立でも大丈夫よ、」と気持ちを和らげるように言うと、「そういうわけにはいかない」ときっぱり言い切った。その時の頼もしい表情は忘れられない。
 間もなく娘一家は東京に転勤し、私立中学に入学した彼はスマホが与えられた。娘はその当時スマホの恐ろしい弊害を知る由もなかった。幼稚園からある都心の中高一貫の男子校、地方出身ののんびりした子の不安やストレスの掃け口は、スマホに向かった。
 彼ばかりではない、電車に乗り座席を見渡すと、ほとんどの人が携帯を手にとっている。道を歩くと歩きスマホがいる。孫にいたってはトイレにいってもスマホと一緒である。母親にわからないようにスマホを持ち込んでゲームをするのだ。本を手放さなかった彼は、今や本に全く興味はない。何を聞いても「うるさいなぁ、どうでもいいや」と言う。まともに視線さえ合わせない。
 幼児から十代後半の子供達が、スマホに多くの時間を浪費し、悩む家族が増えている。携帯依存症と言う病名も出現、長野県に専門の療養所まで出来たそうだ。今こそこの問題に社会問題として真剣に取り組む時代は来ている。
 人生の第一楽章が三十歳までとしたら、孫にはまだ十分余白は残っている。
 スマホを通して広がる仮想空間の虜となり、魂まで吸い取られる前に、果てしなく広がる世界へ自力で飛び出し、多くの感動や喜びを体感しながら青空に羽ばたいて欲しいと、心から願わずにはいられない。
 そんな孫のニキビ面を横目に、花瓶のススキやコスモスに秋の気配を感じながら、きなこと黒蜜をかけた月見団子を味わった。
鳥谷靖子 


                                       


 



中央寮歌祭に参加して

華岡 正泰   2018.10.27

 練稲 松本氏の熱心な誘いに応えて中央寮歌祭に参加した。曽て女房の親父が七高(鹿児島)に熱を上げ、私と中学同期の妹婿が佐高(佐賀)の幹事を引受けて大忙ししていたものでもあった。旧制高校(以下校)の寮歌を歌う会だから会場の京王プラザホテル4階は老人で溢れ、元高校生達は羽織袴や校名入り法被姿で闊歩していた。55校、700人もの集まりだった。参加校は高校名で表示され早稲田は高等学院、慶應は義塾予科となっていた。各校ごとにテーブルが用意され早稲田は舞台右手前、慶応は左側だった
 開会式が終わり最初に登壇したのが何と陸軍士官学校。陸士は私の3年上が最後だから全員が90歳台。それが校歌を歌い出すと皆、背筋を伸ばし目を輝かせ大声を張り上げた。往時のエリート達、流石だった。高校は戦後一高は東大、二高は東北大、三高は京大と新制大学に移行し寮歌も引き継がれているので、寮歌祭には大学からの参加もあったが、陸士のように終戦で姿を消してしまった学校からも陸軍経理学校,京城帝大予科、旅順高校、旅順工大予科、台北帝大予科、海軍兵学校、東亜同文書院が参加していた。然しその校歌、寮歌は何れ存命中の生徒達と共に消え去ることを思うと、何ともさみしい限りである。
 19番目に海軍兵学校(海兵)が20名程で登壇“江田島健児の歌”を歌い始めた。私は入校こそ果せなかったが終戦までの3ヶ月、海兵予科生徒2期(海兵通期79期)要員として長崎の相浦海兵団内、訓練用駆逐艦“漣”で同期300名と入校前の集合訓練を受けていた。当時、朝夕の軍歌演習で歌った歌だった。思わず口ずさんでいると6番に入ったところで元生徒の一人が私を壇上に引上げた。何と顔見知りの一期先輩だった。「斃れて後に止まんとは 我が真心の叫びなれ」。最後の二小節を本物の元生徒達と歌い上げることが出来た。練稲の連中は驚いていたが私は大感激、マッコト心に残る出来事だった。
 寮歌には一高や三高の様な有名な曲もあるが、多くはストームで歌い踊る時のものだから似たり寄ったりだ。うんざり仕掛かったところで我が早稲田の登場。有名な校歌だけに皆、聞き耳立てているように思へた。手拍子もあった。満足した。慶応が最後を締めくくった。今迄聞いたこともない“慶応賛歌”。塾歌は早慶戦だけと決めている様だが、どんな時に歌うのか 今度女子高に通う孫娘に聞いてみよう。持帰った歌集を見ていた女房が「なあるほど」と呟いた。親父の歌う歌を意味もわからぬまま丸覚えで歌っていたのだ。確かに昔の歌は文字も言い回しも表現も難しい。そして今は寮生達の生活態度も意識や思想、心意気も変わっている筈。“都の西北”は永遠だが、昔風の寮歌が元高校生存命中は兎も角、亡くなった後も歌い続けられるだろうか。老生達はそれを希って頑張っているのだから是非残してほしいものだ。  おわり 


                                       


 



四季の記憶52「CATS」

鈴木 奎三郎   2018・8・18

 いつまでも続くような気がした猛暑も、一陣の風とともに季節の変わり目を迎える時期となり、そうこうしているうちに8月21日には処暑を迎える。戦後も73年、平成最後の夏となるわけだが、そう考えるとこの夏は特別な何かがあるような気がしてくる。
 33年前には日航機の墜落事故があり、520人が亡くなった。最近では同じ群馬県で防災ヘリが墜落し9人が帰らぬ人となった。以前から夏にはさまざまな事件や事故が起きている。新聞の訃報欄にもいろいろな方々が出ている。
 亡くなる3年前、男性化粧品のCMの件で一度だけお目にかかった石原裕次郎さんはもう31年目の夏となる。1987年7月、52才の夏に亡くなった。最近では、歌丸師匠、西城秀樹、津川雅彦さんなどもこの夏に亡くなっている。そして、浅利慶太さん。劇団四季の創立者で、ミュージカルを継続性のあるショービジネスとして確立したが、先ごろ85才で亡くなった。

 劇団四季のミュージカル「CATS」は、日本では1983年西新宿のテント式劇場が初演。以来全国9都市での公演回数は9800回。総入場者数は970万で、「ライオンキング」「オペラ座の怪人」をしのぐ無期限ロングラン公演の看板演目である。
 2004年11月11日から3か月間、この特別公演の「CATS THEATER」に資生堂が特別協賛をした。東五反田近くの特設会場に造られた劇場は、古代ギリシャの円形劇場のような形で、客席数は1200席。
 1社単独の特別協賛に至ったいきさつは、淺利さんが親しかった電通の成田豊会長経由で、当時の資生堂社長の池田守男さんにその依頼が来たものだ。当時宣伝広報などコミュニケーションの担当をしていたぼくに、池田さんから「できればなんとか考えてくれないか・・」との話が来た。協賛金は3・5億と巨額である。考えてくれ・・といわれてもさまざまな関係性から、これはお断りできない。会社の文化イベントのひとつとして進めることにした。

 協賛金はテレビスポットを3、4本節約すれば何とか捻出できる・・というやり繰りである。しかし単なる協賛では芸がない。
 少しでも「もと」を取るために、会場内に資生堂パーラーの特設売店を作った。CATSのシンボルである猫の目をモチーフにしたパッケージのクッキーやチョコレートがそれこそ飛ぶように売れた。美術館に行くと帰りに図録を欲しくなると同じ心理だ。当初は猫とクッキー?と疑問視する声もあったが、在庫切れを心配するほどの売れ行きだった。パーラーは想定外の売り上げに大喜びだ。同時に、そのころ東京のホテルで開いていた化粧品店の最上位店の方々をここにご招待した。それまでミュージカルとはご縁のなかったみなさんから、よかったよ・・という声が数多く寄せられた。この協賛については、最初は社内から批判的な声が多かったが、それもいつのまにか消えてしまった。

 11月11日、公演の初日のガラパーティで淺利さん成田さんにお目にかかりお礼を言われた。このお二人も池田守男さんも亡くなった。
 ぼくのデスクの脇に「CATS」のB全のポスターパネルがある。登場する24匹の猫のサイン入りで、ぼくの名前の下に「24匹の猫たちより心からの感謝を込めて」というコピーが添えられている。24人の皆さんの活躍を祈るや切である。


「CATS」: 劇団四季のヒットミュージカル。浅利慶太制作・演出。ニューヨークのさびれた裏町に暮らす24匹の野良猫たちが、それぞれの生い立ちを語りながら、見果てぬ夢を語り唄い踊る。1981年のロンドン公演が初演。ニューヨーク・ブロードウェイでも大ヒット。


                                       


 



マスメディアの八月

小林 康昭  180818

 “八月や六日九日十五日”日本の夏八月は、戦いを語り継ぐときでもあります。戦いとは、先の大戦、大東亜戦争とか第二次世界大戦とか、それとも、太平洋戦争とでも言いましょうか。十五年戦争とも言うそうですが。毎年、六日の朝刊には広島原爆の、九日の朝刊には長崎原爆とソ連参戦の満州の、そして極めつけは十五日の終戦を告げる玉音放送に悲しむ国民の、当時の報道写真や記事の断片が掲載されます。戦争の記憶を取り戻せということです。これは、テレビが伝える映像でも変わりがありません。記憶の風化はならない、と戒めていることも毎年変わりがありません。
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 それでは、新聞やテレビなどのメディアは、どのように戦いを語っているでしょうか。戦争がとても悲惨であること、不幸をもたらすこと、怖ろしいこと、そして、二度と戦争はしてはならない、ということに尽きています。
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 当時、開戦の空気を案ずる重臣たちに向かって、推進派の面々は「負けると決まったわけじゃない。やってもみなければ分からんじゃないか!」と恫喝したそうです。天皇は、開戦に反対、という認識でした。だったら天皇は、閣僚たち、陸海軍の総長たちに直接、自説をはっきりと告げるべきでした。皇室崇拝で凝り固まる石頭の軍部や右翼を、天皇が説得することは簡単だったと思いますネ。それは、負けたらどうなるのか、歴史的事実を挙げて見せることです。
 日清戦争で負けた清帝国は辛亥革命で倒れ皇帝は廃されました。日露戦争で負けたロシア帝国のロマノフ王朝は共産革命で崩壊しニコライ二世一家は殺されてしまいました。普仏戦争で負けたフランスの帝政は崩壊し皇帝のナポレオン三世は捕虜になって英国に亡命しました。第一次大戦で負けたドイツのウイルヘルム二世はオランダに亡命して寒村で生涯を終えました。“やってみなければ分からん”戦いを強行すると“かくも怖ろしい危険があるんだ。汝臣民たちはその危険を「朕」に強いるのか”と天皇陛下が自ら、直接、告げたら、狂信的な臣民たちは冷水を被ったように粛然としたはずですヨ。天皇が自分の言葉で直接、語れば、昔も平成の今も、日本国民は必ず、御意に従いますからネ。
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 現代のメディアが説く戦争の悲劇に戻りましょう。メディアが説く目的は、二度と悲惨な戦争をしてはならない、ということです。それでは、日本の国はどうすべきなのか。それを紙面でも映像でも、メディアは示していません。
 日本は戦争を放棄して交戦権を認めない、と憲法に規定しても、相手国が交戦権を行使したら無意味です。あらゆる国に対して「日本に向かって交戦権を行使しない」と平和条約の締結をメディアは主張すべきです。大戦末期にソ連が、日本に対して一方的に採ったような宣戦布告を、拒否するルールを国際的に普遍化することを、メディアは主張すべきです。そして、そのように先頭に立って働きかけることが、戦争放棄を宣した日本に課された義務である、とメディアは説くべきです。スイスは、永世中立国を宣言し、戦争をしない国です。でも、主権を脅かしてきた国には容赦しない、と言っています。その証拠に、先の第二次大戦中に、無警告無通告で領空侵害した軍用機220機を、スイスは撃墜したそうです。戦争をしないと宣言したからには、相応の覚悟が必要である、ということです。今の日本のメディアの悪いところは、平和の祈りっ放し言いっ放しにとどまり、非戦不戦を堅持死守するために必要な方策施策、例えば、諸外国に向けて非戦不戦を周知徹底させる積極的な論調がないことです。自衛隊を黙認するだけの無策では困ります。
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 戦争を絶対に繰返さないと覚悟するならば、国民が戦争で悲惨な目に遭わないように備える必要があります。過去の戦争の記憶を参考にして免れる方策を考え、国民にも知らしめておくべきです。先の大戦のように住民を巻き添えにした愚考を繰り返してはならないと説くからには、非戦闘員には軍事行動をしないことを周知させ、降伏の意を示す方法を具体的に教えるべきです。先の大戦の軍部は、自分たちの立場ばかり考え、非戦闘員を危険に曝しました。戦闘員たちは自身の防衛よりも非戦闘員の保護防衛を優先する思想を説き、その施策を具体的に明示するべきです。
 そうすれば、サイパン、沖縄、満州のように、非戦闘員が集団で命を失う悲劇は起きなかったのです。
 人々が“戦争は悲惨です、悲劇です、残酷です、二度とあってはなりません”と語り継ぎ、メディアがそれを伝えることは大切です。しかし、メディアの役割は、それだけで済ませてはいけません。国はどうするべきかを説かないといけません。“戦争が起きないように祈りましょう”という調子で、メディアが紙面上や映像のなかで書きたてるだけでは非戦不戦は達成しません。それは教会の牧師か神父、お寺の僧職が口にする科白です。マスメディアに課せられた役割は宗教ではありません。あるいは“あやまちは決して繰返しませんから・・・”などと歎じることでもありません。「あやまち」を犯したのは米国です。「繰返さない」と誓うべき責務は米国にあるのです。具体的に言うべきです。
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 先の大戦の日本の目的は戦利品(資源)の獲得でした。米国の目的は、占領しても領土に併合しないし降伏させても賠償金は取らないが、米国に対する敵対心を未来永劫に日本から奪うことでした。戦後、米国は日本が敵愾心を抱かないように躾けました。これが米国独自の戦争観、価値観です。日本には、そのような戦争観、価値観がありませんでした。今もありません。日本のメディアにもありません。米国に比べて日本は、国も国民もメディアも精神的に貧しいですネ。


                                       


 



時代

横山 明美  2018・8・18

 夢外は祖父の,雨径は父の、それぞれ俳号である。文字の並びもよく響きもいいと気に入っている。二人とも世に名を成したわけではないが、生涯句を詠み続け、その句集を開けば時代や季節を問わず心にしみ渡ってくるものがあり、二人が身近に立ち現れるのである。
 夢外は雨径には舅にあたる。祖父は国語の教科書などに載っていた幸田露伴の肖像にそっくりの医者であり、父は顔も体もしっかりとした長身で、世の動きを機敏に見ていた事業家肌だったと思う。父に学歴はなかったが、母の何人もいた姉妹のなかで、最も美しさには程遠く高女の成績も今一つ、という娘を、何の因果かもらってくれたのである。書き残したものを見ると「別に何の問題もなかろうと思い」とあり、人の薦めるままに結婚したらしい。そういえば判断が早くなんでも即決の人だった。私が似てしまった。子供に「落ち着いて、もっとじっくり考えて」などとよくいさめられる。それどころか姉たちと三人の中で私が一番母似である。生きていくのに何かと日々努力しなければいけない身なのだ。
 父が亡くなってしばらく後に、まだしつけが付いたままの大島の着物一式が見つかった。舅から父への贈り物だったらしい。父自身の、これは着姿もよく覚えている大島があって、それを私は服に仕立て直して着ていた。あとから見つかった祖父の大島も、姉たちが「いらない」と素っ気ないので、またまた今度はしっかり外出用の上下に仕立てた。父のものは着古しのせいかずりずりと一部が裂けてしまったりして残念だったが、祖父のものは堅牢で着ていて安心感と幸福感がある。しかし父はなぜ舅からのプレゼントに袖を通さなかったのだろう。母ばかりか零落した叔母一人二人のその後も何くれとなく面倒見ていた父である。自分の力で買ったものを生涯着通したのか、舅からの上物はいつかそのうち、と思っていて忘れてしまったのか・・・。父の男気というものをふと思ったりしたものである。仕立てた上下を私は大学の卒後50年のホームカミングデーに初めて着て行った。私の生まれた年、一族の新年会で祖父は倒れ、一度も顔を見たことはなかった。

 働いていて忙しい同居の娘はよく通販で服や靴を買う。サイズが合わなかったり思うほど似合わないと、よくそれが私に下がってくる。昭和女は物見高く「今」の時代の流れをどれどれと楽しむこともあるが、体質の大部分は昭和礼賛、どころか明治大正だって視野に入れている。モッタイナイ精神もあるのでありがたくもらっておくが、平成流の着こなし術もなく、できればこうした無駄はしないでね、と言いたいところである。食器も季節と料理によってあれこれ按配するのが好きで、猪が走り回っていたらしい夫の生まれ故郷の台所にあった小鉢も使えば、旅先の窯元で買ってきた小鹿田焼きの皿も好きだ。若い一家の食器は白一色である。その鉢に冷や奴を入れるとどんなもんでしょう、とつい思ってしまう。
 この夏出羽三山の旅に出た。月山に過去を振り返って感謝し、羽黒山に現世の平安を祈り、湯殿山に若い人達の未来をよろしくと頼み、「おいしい庄内」を食べ温泉につかり風になびく真っ青な稲田に目を洗ってきた。どの時代も懐かしく愛おしい。じき平成も終わる。


                                       


 



結ばれることのない“初恋”!?

古藤 黎子  2018/08/18

 女優、渡辺美佐子さんは、1932年生まれで今年の10月には86歳。
 お互いに実践の卒業生ということで、いろいろお世話になっている。中高が同じとはいえ、10年以上前の先輩で、私とは個人的には縁もゆかりもない間柄であったが、学園に乞われて、岐阜県恵那市にある岩村城の女城主をされていた。岩村は、学祖下田歌子の生誕地。16歳で上京するまで過ごした所である。古い町並みがきれいに保存されているこじんまりした城下町でもある。恵那は、現在、NHK朝の連続テレビ「半分、青い。」の舞台になっている。
 
 渡辺さんが戦後、実践に戻った時、校庭は鉄砲玉でぼこぼこになっていてテニスをするのに、ラインが真っ直ぐは書けなかったそうだ。それでも「テニスばかりやってたのよ、あの頃は」と懐かしそうによくおっしゃる。
 当時青山通りにお住まいで、小学校は、麻布の笄小学校である。空襲が続くさ中、既に十数名の生徒しかいないクラスに、中国の青島(ちんたお)から一人の少年が加わった。小麦色の肌にくりっとした目、赤い頬が印象的な少年だった。
 彼は、毎朝のように、通学路の道端にしゃがんで虫や花をさがしていた。二人はつかず離れず学校へ通った。しかし、一年も経たず、二人は言葉をかわすこともなく、彼は親戚のいる広島に転校していった。
 戦後、渡辺さんは、同窓会の度に「水瀧くん」の消息を尋ねたが、誰も彼のことを覚えていなかった。
 1980年、テレビ番組の対面企画に出演し、渡辺さんは、会いたい人として「水瀧くん」を挙げた。胸の高鳴りを抑えながら待った35年ぶりの再会。
 しかし、現れたのは年配のご夫婦だった。「水永龍雄(みずながたつお)」くんが少年の名前であった。戦況が悪くなった当時、ご両親は青島で仕事をしていらっしゃって、空襲を避けて東京に一人残した龍雄君を、広島の親戚の家に疎開させた。そして、彼は渡辺さんの前から消えてしまったのである。
 1945年8月6日、龍雄君ら中学1年生321名は勤労動員の作業に出かけた。爆心地から500メートルの川沿い、全滅だった。ご両親には、遺品も遺骨も見つかっていないと知らされた。
 ご両親は、渡辺さんに「今も覚えていてくださって、あの子はさぞ喜んでいるでしょう」と、感謝の言葉を述べた。
 テレビのご両親との対面の5年後、渡辺さんは朗読劇に誘われた。その時、水永君のことを思った。参考資料として送られてきた広島二中(現・広島観音高校)の原爆追悼記「いしぶみ」の巻末に、被爆死した1年生322人と先生4人を記した名簿に、水永くんの名前を見つけた。
 渡辺さんは、前身の朗読劇「この子たちの夏」から33年間関わってきた「夏の雲は忘れない」の公演を来年度で終える予定だ。広島を訪れるたびに、碑に刻まれた「水永龍雄」の文字をなで、今年もひまわりの花を供えた。
 渡辺さんをここまで支え続けたもの、それは原爆で奪われた“初恋”であったのだろうか。広島の原爆で犠牲になったのは14万人。
「一人ひとり、ちゃんと顔を持って、人格を持っていたの」と伝えたくて、渡辺さんの朗読劇は続いてきた。水永君のことを書いた「りんごのほっぺ」という文章が、91年から高校の教科書「新編国語総合」(東京書籍、2017年度版)に載っている。出版社から振り込まれる3000円に満たないお金に「ああ、今年も残った!」とホッとされるそうだ。
「夏の雲」は女優さんだけの朗読劇である。いつも公演地の小・中学生の子供達が「何でもない暮らしがどんなに大事かわかった」という感想を言ってくれるとそれが嬉しい。それが平和の原点ですから。少しでも種をまきたい、と。
「73年間も原爆がつかわれなかったのは、ヒロシマやナガサキの悲惨さを世界に伝えた犠牲者がいるからじゃないですか。あの人たちこそが抑止力になったんです。それを誇りに思いたいんです」と。
 渡辺さんの思いが来年で終わってしまうのは大変残念だが、その思いは多分形をかえてでも続けられるのではないかと、私達は私達の素晴らしい先輩に密かに期待をしている。いままで黒いベンツで実践にいらっしゃったのに、今年は白いニッサン車になった。オートマチックの自動車だそうだ。私は実は本当にほっとした。
 原爆はいけない、被爆国日本がまず先頭に立って運動をしなければ、と。思いはあってもなかなか発言したり、運動に参加したりすることができない弱い人間の私。渡辺さんのような勇気、それを勇気というならば、「初恋は実らないっていうでしょ?」とおっしゃりながら、さりげなくこの活動を続けていらっしゃる渡辺さんの、崇高ともいえる姿に、私はただただ尊敬の念を禁じ得ないのである。


                                       


 



福島の庄屋庵

鳥谷 靖子  2018.8月

 風薫る五月の中旬東北新幹線に乗り郡山で下車、熟年女性四人の福島への旅である。駅からレンンタカーを借り車で一時間半のドライブだ。
 のどかな田畑が広がり、たまに見た大きな黒いビニール袋は七年前東北の大震災の汚染土の残骸だろう。福島の原発事故で聞き覚えのある大熊町や双葉町の道路標識を見ながらいくと小高い丘に薄紫色の山藤が咲き新緑に色を添えていた。
 一時間半のドライブで目的地に到着した。そこは原発汚染の帰宅困難地域に隣接する山里にある庄屋庵という山野草の花園である。
 庄屋庵を知ったのは体操クラスの先輩から紹介された朝日新聞の記事。それは原発事故前の大熊町、庄屋庵の写真で薄桃色の天幕のように藤の花が咲き乱れその下にはクリンソウの花が一面に広がり二段の花園になっていた。ある少女が河原で小学生の時、目にした群生で咲くクリンソウの美しさ、それが後の彼女の人生を賭けるきっかけとなった。この大熊町に四千坪近くの山野草園を女手一人で作り始めて三十年余やっと完成した。原発の町に山野草咲き乱れる花園の存在は心和ませると喜んだのもつかの間、大地震が起きた。翌朝原発事故で避難命令が出され、追い出される事となった。失意の月日が過ぎ大熊町に隣接した親の土地に、いつかそこに戻れる日を願い再び働き始めたこの女性は遠藤富美さんという。
 新聞の記事でこの事を知り、五年も通っている先輩等と車を降りると、珍しい白い藤棚が迎えてくれた。少し向うに見える河の流れは支流にしては流れが速そうである。両脇に二段の花園がひろがる。楚々とした花を見ながら行くと、サルや七面鳥や犬の小屋があり「どれどれ」と迎えてくれた。
 遠藤さんのお宅は川沿いにあり風情があったが先の東北豪雨で土台が一部流されたそうだ。「この川は暴れ川なんだ」との事。危険になり道向うの山を削り、池を作った。それを見下ろすように二軒の東屋を作った。山道を登ると眼下に広がる池と周りを囲む数々の庭石。池に寄り添う山野草の花々、オブジェの置物が点在し、紫色が鮮やかなあやめの花の美しさに心打たれた。支援する人達が、花の枯れた冬の季節にと手造りの藤の花を天井から吊るしていた。皆で先輩が東京から持参した手造りのお昼を頂きながら、遠藤さんの話を聞く。
 人生の夢を実現させようと、作り上げた大熊町の庄屋庵を原発事故ですべて失ったが「負けるものか、又山野草の花園を作ろう。朝から日没まで花園を作る為働き続けたさ。でもここは六十代後半の第一歩で、体がついて行かなくなっているだ。もう七十代半ばだから,体を使い過ぎてボロボロなっているんだ。」そう言いながら頭に巻いているお洒落なターバンのようなハチマキを見せてくれた。「これは気合も入れられるし、汗取りにもなるんだよ。」と教えてくれた。アメリカの絵本作家で自然を愛し、庭で世界的に有名なターシャ・テユーダーの日本版の様にも思えたが、控えめな遠藤さんは、「秘密の花園でいいのよ」と言うのだ。どんな辛い日々でもつねに前を向き夢に向かって歩く彼女の姿や、手塩をかけた山野草の可憐な花園は 悲しく、苦しい,人々をどんなにか励まし慰める事だろう。
 ボロボロになっても再び立ち上がり、木を切り、苗を植え、花の手入れして働く女主人の顔は輝いて見える。毎年 彼女に賛同し東京から応援に来る先輩は、昼食の用意と車の運転まですべて一手にやってのけたのだ。互いに七十代半ばの女性の前向きの行動力と、意志を貫く、生き方は私達の人生の指針になる。   


                                       


 



古代史雑感

田原 亞彦  2018.8.18

 古代史の研究会に入っている。日本と日本人の成り立ちに最も関心があったからだ。いろいろ思う中で、日本、日本人は非常に多様性に満ちた民族てあること、歴史はやはり勝者の記録であることにふれたい。
 多様性という言葉はダイバーシティとして最近よく用いられるが、広辞苑三版頃は「多様」は<いろいろのありさま>の説明のみでこの言葉の認識が薄かった感じがする。しかし人の多様性は、優秀な子孫形成、社会の発展、公正な社会形成に重要である。日本はユーラシア大陸の東端の海にあり、出アフリカ後の人類が到達した一つの行き止まりであり、数万年前から現代に到るまで多くの異人類が来着してきた。日本人の顔は非常にバラエティに富んでいる。丸顔、長顔、白、黒っぽい肌色、鷲鼻,ぺしゃ鼻、縄文顔、弥生顔、洋風の顔などなど長い時間の経過のなかで同質化したものであろう。中国、半島、千島、南海諸島などからの渡来、移住、難民などである。その痕跡の例を挙げる。那の津の宋人商人街、山口の角島のペトログラフ(シュメール語文字・牛文化)、萩の大島のオガム文字{ケルト人)、石川の輪島から50k沖のへくら島の殺牛神儀(シュメール・インダス・中国より)、伊勢神宮の灯篭のダビデのマーク、出雲の恵曇の地名(イスラエルのエドム)、諏訪神社の薙鎌、巨木信仰はネパール系か、ケルト系らしい。その他の古い地名、郷土の行事・民謡歌詞などに道教はじめ、更に西ユーラシアの影響と思われるものがある。
 古事記・日本書紀の伝える,「国生み神話」、天上界の『高天原神話」・地上界の『出雲神話」・天上と地上の対立と融和の『日向神話」の内容は次の諸国の神話と類似している。、アフリカ、古代ギリシャ、東欧、西アジア、朝鮮、中国長江流域、ミヤンマー、インドシナ半島、オセアニア、インドネシア、ポリネシア、メラネシアの太平洋諸島等に及んでいる。
 先の大戦で日本は半島、満州、中国、スンダーランド、インドネシアからメラネシア、ミクロネシアまで侵攻したのは、日本人のDNA に遥か昔の何かが組み込まれていたのかもしれない。
 最近政治の世界で公文書の隠蔽、捏造、改ざんが行われ、忖度の言葉が耳に付くが、これらは実際古くからあったに相違ない。古事記、日本書紀は官製の公式記録だが歴代天皇の年代の大幅な加上はじめ時の藤原氏はじめ権力者の立場から編纂されたものだろう。勝者の記録である。有力氏族の系図や記録などを集め編纂後多くを焚書したといわれる。
 歴史の真実は何かという意味で、伝えられた事実を疑いたくなるし、昨今の仮説による自説の主張も文書で残るだけに慎重を期したいものである。
 歴史は時の政治だけでなく、社会(くらし・文化)の状況人々の社会心理を知ることが重要に思われる。社会情勢からみて、それは有り得ないとか、相当の軋轢があっただろうとか推測するのも面白いものである。


                                       


 



2018年夏事情

古内 啓毅  2018・08・18

 8月7日は立秋。もう暦の上では秋ですが、まだまだ暑い日が続きます。78歳の老いの身に猛暑はこたえます。出来るだけ外出を控え、こまめに水分を補給し、エアコンはつけっぱなしで過ごしています。おかげさんで先日届いた電気代は大変なもので、妻は家計に響くと嘆いています。11・03・11の福島原発崩壊のあと電力不足になるといって、当局はあれこれ策を示し節電を要請していました。が、その後どうなっているのでしょうか。原発なくともうまく回っているようです。それどころか熱中症対策に名を借りてエアコン活用を宣伝し東電の電力売り上げに協力しているかのようです。
 そんな暑い中、73回目の終戦の日を迎えました。8月15日、私は5歳でしたが鮮明に覚えています。我が故郷に仙台の幼年学校の生徒、教官が駐留し、小学校の校庭の桜の木の下に据えられた高射砲、中庭に並べられた機関銃に触れさせてもらいながら子供心に戦争のにおいを感じていたものです。
 その日は朝から暑く晴れ渡っていました。昼ごろになって、米俵など何にもない空っぽの農協倉庫に皆集まっていました。やがて、わんわん泣き叫ぶ異様な光景が繰り広げられました。そして次の瞬間、教官も生徒も波がさあーっと引くように一斉に車で引き挙げて行きました。賑わっていた周辺は何事もなかったように静かな日常に戻りました。映画の一シーンを見るような光景が焼き付いています。
 先日、紙面で「八月や六日九日十五日(はちがつやむいかここのかじゅうごにち)」という句を拝見しました。日本の現代史にとって重要な広島原爆忌、長崎原爆忌、終戦という三つの日付で構成された一句です。どなたの作かわかりませんが、これが名句なのか、ただ日付けを並べただけの誰でも作れる句ではないかともいわれます。句は分かりやすいのがいいと思います。いまや戦後生まれは8割を超えています。若い人にこの句を示したらどんな感想をもたらすでしょうか。何のことかわからないといわれたら悲しい思いをします。
 15日、全国戦没者追悼式が開かれました。天皇さんは来年4月末に退位を控え平成最後となるご挨拶で、「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ」「戦争の惨禍が再び繰り返されぬこと」を切に願うと述べられました。一方、我がソーリは、このごろはおのれの総裁三選圧勝しか眼中になさそうで、「八月は空疎な挨拶三度聞く」、「そそくさと追悼すませ さあゴルフ」(朝日・川柳)と揶揄されるほどに国民目線からかけはなれた対応になっているようです。
 暑さに加えストレス増となるそんな情勢のなか、ビッグ・ニュースが飛び込んできました。山口県周防大島町で12日から行方不明になっていた藤本理稀(よしき)ちゃん(2)が15日午前6時半ごろ同町の曽祖父宅付近から数百メートル北東の山中で発見、保護されました。「心配が一転、安堵に。人の輪と木陰の涼、沢の水が救った2歳児の命。理稀(よしき)ちゃん、68時間、よくぞガンバッた。」(朝日・素粒子)。
 発見者は大分県日出町から軽ワゴン車で駆けつけ一人で捜索に加わっていた尾畠春夫さん(78)です。全国各地の被災地で活動してきたボランテイアの大ベテランです。TV、新聞で、尾畠さんの清々しい、若々しい、活動的な姿に接し大変感動しました。
 彼は私と同じ78歳です。全国の皆さんに明るい希望と夢、勇気を与える活動に邁進しています。それに引き換え、冒頭に記しましたようにひたすら蟄居三昧の日々を送る我が体たらくに恥じ入るばかりです。かといって、ガタがきている身に鞭打っていまさらボランテイア活動でもありません。せめて世間様や家族に迷惑がかからぬようひそやかに生きて参りましょう。
 ともあれ、この夏は異常気象、これまで経験したことのない多くの災害に見舞われました。が、やがて涼風も立ち、生きる活力も蘇って来ると思います。今少し頑張って参りましょう。


                                       


 



月下老人の赤い糸

石田 真理  2018.8月

 友人と3日間の台湾弾丸旅行に行ってきた。短い日程のため、旅行会社まかせの有名観光地を巡るプランにし、お互い下調べはほとんどせずに、旅立ちの日がやってきた。
 旅行会社に申し込みをした後は、決まった飛行機に乗れば、ホテルへ連れて行ってくれる。決まった時間に集合場所に行けば、バスで観光地に連れて行ってくれる便利なプランだ。わからないことはガイドさんに聞くとやさしく丁寧に教えてくれるという、ぜいたくな旅だった。
 国立故宮博物院、忠烈祠の衛兵交代、點水樓のおいしい小籠包と、台湾観光の有名なところを周り、午後には大きなお寺にやってきた。
 龍山寺という歴史のあるお寺だ。たくさんの神様がまつられている。ガイドさんの説明によると、右側の「龍門」から入って、最初に本殿の神様にお参りをする。それから、右側の神様から反時計回りにお参りをしていって、左側の「虎門」から出るというお参り方法。その中で、詳しく説明してくれたのが、月下老人についてだった。
 月下老人は縁結びの神様で、良縁祈願に訪れる人が多い。月下老人に赤い糸をいただくと、良縁を結んでくれるといわれている。月下老人の前には、たくさんの赤い糸が、ビニールパックに小分けに入って置いてあった。すぐにいただけるものではなく、いただいてもよいか、お伺いをたててから、いただくものだそうだ。
 まず、月下老人に自己紹介をする。そして、赤い糸をいただいてもいいか、お伺いをたてる。
 そばに置いてある三日月形の赤い木を2つ、地面に落とし、裏と表が出たら、お許しが出たということ。3回までお伺いをたてることができるけれど、3回ともお許しがでなければ、また今度ということだそうだ。月下老人にご挨拶をして、三日月形の赤い木を2つ持ち、赤い糸をいただいてもいいか、お伺いを立てた。3回目でお許しが出たので、赤い糸をいただいた。
 ガイドさんが言うには、赤い糸は、しまいこんでおくよりも、自然になくなるところにあったほうがよいらしい。自然になくなると、良縁が結ばれる。しかし、いいかげんな扱いをしていると、いいかげんな縁しかやってこないという。
 いただいた赤い糸は、とりあえず、財布に大事に保管した。
 帰国してから、ガイドさんの説明を、実行してみたくなった。「赤い糸は、自然になくなる場所におくのがいい。しかし、いいかげんに扱ってはよくない。」ということ。
 赤い糸は、通勤かばんに結んでおいた。毎日、外に持ち歩くかばんだから、いつかほどけて、自然になくなるかもしれない。案の定、2か月もたたずして、赤い糸はいつのまにかほどけていた。「運命の赤い糸」は良縁を結んでくれるだろうか。月下老人様のご縁を、少しワクワクしながら待っている。


                                       


 



今年もまた、福島から

竹内 尚代  2018・8・18 

 今年の夏は災害と言われるほどの酷暑、病気持ちの私は息も絶え絶えになりながら、一日一日を過ごしていたが、それでもこれだけはしたいということがあった。

 2011年東日本大震災・東京電力福島第一原発事故の直後から始めた、福島の子ども達の健康を守るための「保養キャンプ」である。
 埼玉県飯能市の個人の山荘を借りて毎年夏に、福島から未就学児の親子5組20人ほどを2回受け入れている。1回は南相馬市いわき市などの浜通り、2回目は福島市郡山市などの中通りからお招きし、今年で8回目になる。
 4泊5日の日程で、川遊びを2日、プレーパーク、ドラムサークル、飯能市の西川材を使ってのワークショップ、流しそうめん、星空シアター、お話の会や温泉とプログラム満載で、親子にリフレッシュしてもらう。

 原発事故から7年が過ぎ、除染も進んだのだからもう安全という人もいる。それでも各地にホットスポットが残っていて、それを不安に思いながら子育てしているお母さんがいるのは変わらない。

 私たちのキャンプは未就学児の親子を受け入れているため、最近は20代のお母さんが増えて来た。お母さんたちは原発事故の時にまだ独身だった年齢だ。
 ある人は教師をしているが、当時いたいわき市に放射能ブルームが回って初期被ばくしたという。もう結婚できないと思ったが、それでもいいと言ってくれる人がいて結婚し、今は2人の子持ちだ。
 ある人は、保育士、事故の時には、園の子ども達のことで動きが取れなかったが、その時に付き合っていた人が婚約者という名目で、福島では稼働できなくなった岩槻の工場先に一緒に連れて行ってくれて、少しでも被ばくを免れたという。
 多かれ少なかれ福島の若い女性は、自分は被ばくしているから結婚できないのではないか、という思いを抱えている。
 当然子持ちになれば子どもが健康で育つ環境かどうかの疑問も持つだろう。
 
 「3・11受入全国協議会」という民間保養団体の全国組織では、毎年福島県の2か所で相談会を実施して、保養キャンプへのお誘いをする。
 2012年から参加している私たちの団体のブースでも、事故直後は泣きながら相談に来る人が多かったが、そういう人は少なくなり、この3年くらいは若い夫婦での参加が多くなった。「保養」ってなんですか、と聞きに来る若い女性もいる。相談会のチラシは福島県・福島県教育委員会の後援を受けて、保育園、幼稚園、小学校・中学校に配布しているので見てくれたのだ。
 チェルノブイリの原発事故以降、ウクライナやベラルーシでは「チェルノブイリ法」を制定し、被災者を保護するために国の事業として移住などに取り組むが、年に1回は保養施設で3週間程度生活する「保養」が組まれている。ここの生活によって体内のセシウムが半減あるいは相当程度なくなることが証明されている。以前NHKで放映したが、そこに詳しい。◆原発事故 国家はどう補償したのか ~チェルノブイリ法23年の軌跡~ ETV特集(2014/08/23 NHK ETV
 それに比べて日本では、直後に超党派で「子ども被災者支援法」ができたものの予算がつかないまま、現在に至っている。
 直後は伊達市長が県外への移動教室を呼び掛けたりしたが、福島県が許可せずそのままになり、復興庁と福島県が保養についての予算を少し取っていたが、次第に名前だけになっている。
 私たちのような小さな民間団体が全国で「保養」を実施しているだけだ。

 短い期間ではセシウムが抜けることはないのではないか、保養キャンプをしても意味があるのかどうか、はじめは迷った。しかし「チェルノブイリの子ども達を練馬に呼ぶ会」の方から、放射能汚染の高い地域から低い地域でリフレッシュすること、外の地域から見守られていると思えること、一人ではないと思うこと、が大切だと言われて、実施することにしたのだ。
 最近のいわき市の市民測定室での子どもの尿検査では、保養に出ることによってセシウムの量が減ることが報告されている。

 飯能市の山荘で迎える子どもたちは、迎えのマイクロバスから降りてすぐ、広い庭に飛び出して、虫を探す。草花を摘む。川では生き物を教えてもらって自慢げに見せ合う。
 今年の夏はとりわけ暑かったので、スタッフは熱中症対策で大わらわ。そんなことは知らぬげに親子はボート遊びで大はしゃぎ。福島ではできない川遊びを十分楽しむ。
 夜はおとなの懇親会。お酒を飲みながら福島では話せないことを語りあう。親戚のような大きな家族のような繫がりができてくる。今年はお父さんが参加、はじめは身の置き所がないようだったが、スタッフとの思いがけない繫がりが発覚して盛り上がっていた。

 子ども達がのびのびと自然と戯れる姿が何よりうれしいのだが、福島のお母さんたちが語り合って、鬱屈した想いを解放して楽しそうにしている姿を見るのもうれしい。お母さんたちが幸せでないと子どもも幸せでいられないのだから・・・。
 スタッフたちとも共通の話題で盛り上がったりすると、周囲に気を遣うほどのにぎやかさだ。

 キャンプ地の地元自治会とも8回目のおつき合いになり、旧盆には七夕祭りを催して皆を招待して下さる。旧盆は「広島」「長崎」の時期だ。自治会長さんが広島と福島をつなげてご挨拶して下さり、地元の方たちの福島への理解が深まったことを感じ胸が熱くなった。

 こうして人と人との繫がり、手から手へと心が繋がることを実感できるのが、保養キャンプのだいご味なので、いつもこれだけは何としても参加したいと思うのである。
了  


                                       


 



十年一昔

谷川 亘  2018年8月18日
   
 酷暑と言う表現がありますが、それ以上の“暑さ”を日本語ではなんと唱えたら良いのでしょうか?猛暑、極暑、激暑、炎暑なんて言葉もありますが大同小異。原子炉崩壊ではありませんが、不貞腐れて“メルト・ダウン症候群”なんて命名してみたら、「忖度」に続く今年の大賞に選ばれたりしちゃって・・・。
 それ位今年の熱気は“狂い咲き”してしまったのです。
 元々、私の住まう練馬区は都内無二の“熱暑地帯”だそうです。
 温度を測定する百葉箱の設置基準は、日射を避けた、風通しの良い、地面の照り返しのない等の条件を満たすべきなのに、周辺の環境悪化によってその基準に外れ、2012年に6㎞東側から、練馬区石神井台の今の場所に移動させた由。同じ東京23区内でありながら、相も変わらず「東京練馬」として、「東京都心」と別扱いにされる始末。ここでも7月22日には最高温度37.8度を記録していますから、然もありなんといったところでしょうか?
 余談ですが、
 気象庁では23日に異例の記者会見を行い、「今年の暑さは災害」と断言し、“お役所にしては”思い切った表現を用いたのに驚きましたし、消防庁でも、タクシー代わりに救急車を呼ぶな!!なんて普段は宣て、小心者はためらいながらお越しいただく救急車の発動要請さえ、「ためらわずに救急車を呼びなさい」とか言って、変われば変わったものです。
 それよりも不可解なのは、世耕経産大臣が24日の会見で電力供給に懸念なしと言い切り、「エアコンをしっかり使って、熱中症に罹患しない取り組みを最優先でやってほしい」と呼びかけたほどで、数年前の真夏時には「冷房を適切に使用する」。つまり、“適切”との曖昧な表現の本音は何だったのか?余りの“落差”の多きさについて行けないのはこの私だけなのでしょうか?
 扇風機のお世話になって夏をやり過ごした我々の世代では、冷房は一種の贅沢。
 酷暑あってこその夏。猛暑厳冬の巡りあわせでこそ味わえるスイカの食感。夏はじっとガマン、我慢するものなのですよ!!冷房なんて“バチあたり”。熱気むんむん酷電通勤。混雑率ウン百%の中にあって、たまたま乗れた、騒音で隣人との会話もままならぬ冷房車内の何と快適だったことか!!こんな至福感もあったのですよ。
 じっと我慢。“快適”にはもともと馴染めない世代だったのです。

 暑さにとろける恍惚感。
 丁度10年前。私の2008年7月のパソコン版日記帳。果たしてどうだったのでしょうか?
 書いてある、書いてある。「暑い・暑い」の連打。十年一昔と言いますが、状況は同じでコチトラが10歳老けただけ。だから、老いた分だけ暑さも余計厳しく感じるのですよ。
 その中で目にとまったのが、大学のExtension center主催の「芭蕉の館」へのバス旅行。旧奥羽街道に沿って、芭蕉をして「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」と詠ませた、あの遊行柳。
 芭蕉が時を忘れて柳の陰で感慨にふけった遊行柳は、私にとっても、濃霧でむせ返って天地の境も虚ろ。傘もささずに朦朧として、眼前を覆い尽くす青田の蒼と曇天のねず色に押しつぶされては、万物全てが溶け出して一体化してしまうような心地に吸い込まれてしまったのです。
 ここが我にとって感銘深い場所と化したのを昨日のように思い出します。
 じっとりと肌にへばりつく湿気。梅雨のしとしと雨。またこれ良しなのです。
 暑さ厭わず・・・。天からの恵み。日本人のみが甘受できる季節ごとの句読点なのですよ。


                                       


 



フェイク&フィニクニュース

加藤 厚夫  2018・8・18 

 終戦の日も73回目。とっくに死語だと思っていた鬼畜(米英)がいまだに生きていた。五月にたった五歳の結愛ちゃんが、親から食事も与えられず冬のベランダに放置され、小さな手で必死に書いた最後のメモ。「もうゆるしてください」とても読めたものではない。嬲り殺しにしたこ奴らこそ鬼畜であろう。しかしたかが税金滞納で踏み込む公権力が、なぜ幼児救出には踏み込まぬのか。サリン事件も同様の結末だ。警察は上九一色村オウムの怪しげな工場に、宗教法人は寺社奉行管轄だと言わんばかりに放置、多数の犠牲者を出してしまった。マスコミはこの事件で最も肝心なこと=6千人の死傷者発生をなぜ食い止められなかったかの検証には全く触れなかった。単に鬼畜死刑囚らの経歴や絞首台の話に終始するお粗末さだ。我が国では未然阻止無事救出ニュースのすべてがフェイクニュースとなった。
さて最近はフェイクではなくフィニク(皮肉)ニュースも目立ってきた。
 その一。スポーツの名門日大がアメフトチアダン後遺症でダウンした。志願者が一万人も
減り、受験料収入が3億5千万円の減収、おまけに国の補助金46億円が削られた。理事会もさすがに蒼くなり無い知恵を絞り挽回策を立てた。まず当校伝統の帝国陸軍式教練に
鑑み上下関係を明確にするためコーチの呼称は軍曹に、学生部員は上等兵から二等兵へと
一新した。それにふさわしく校名も大日本帝国大学と改名したところ、いいねと志願者が殺到した。世間の風当りが東京医大へ向いたお陰とこの功績で、田中理事長は無事地位にしがみつき「山根のように悪あがきしないことだ」と訓示した。
 その二。今年モンゴル政府から日本相撲協会に抗議が入った。「横綱や上位陣が蒙古人
ばかりなのに、なぜモンゴル場所がないのだ」。相撲協会は確かに日本人横綱や優勝も全く望めないと判断、早速これを受け入れまずウランバートル市で開催した。沸騰会場は大草原だから収容人員も20倍で、興行収入も4倍となった。相撲協会はこれで国のクチウルサイ公益法人を返上できると喜び、理事会も日大並みに強化できた。
 その三。これを聞きつけた韓国。そうか日本女子プロゴルフの賞金女王はいつも韓国人だし賞金のほとんどを頂いている。試合の半分を持って来ようと、早速文政権はナッツ姫・水かけ姫で評判ガタ落ちの大韓航空と結託した。これで人気回復と政治献金アップが図れ一挙両得だ。いつもの慰安婦問題蒸し返しでの失政騙しも不要だ。結局日本のスポンサー料の面倒もみることで日本側と合意でき、裏献金大国の面目躍如となった。
 その四。閣僚官僚用語が最近とみに乱れ、文科省は小中学校の国語教育への悪影響を憂慮、指針を示した。林大臣も汚職幹部事件の後、自ら姿勢を正しマスコミの会見表現がいつも「大臣が…と述べました」はおかしい。「こう読み上げました」が正しいと教示した。さてその主な指針内容とは。おなじみ謝罪会見「お詫びしたいと思います」の思うとは何ごとか。「心よりお詫びいたします」としろ。また「しっかりと」「緊張感を持って」ばかりでは間抜けな会見となる。「再発防止に努めます」も再発ばかりでウソ臭いので止めろ。そしてすぐ言う懲戒処分や戒告処分。処分とは本来首切りの意味、大袈裟な処分の文言は取れ等々。さすが官僚や先生方の姿勢は立派だった。「内に誠あれば外に現る(大学)」


                                       


 



日大アメリフット事件に思う

大野 力  2018・6・10 

 日大アメフト部の、関西学院大学との定期戦で、一人の選手が犯した常軌を逸した悍ましいプレーが、プレーを超えて、日大の統治構造をあぶり出す騒ぎにまでなっている。相手を負傷させた日大の選手が、ことの重大さを痛感したのであろう、大勢の報道関係者の前で、相手選手と関西学院大学に謝罪した。放送でこの模様を観ていたが、彼は、「監督コーチの指示とはいえ、今思えば、それに従った自分が悪い」、と云っていた。監督コーチは指示を否定しているが、との質問には、「自分は正直に云っている、断ることが出来なかった自分が悪い」、と繰り返していた。違反行為で退場をさせられた後、行為を悔いて泣いていたら、「コーチに、泣くなんてお前は弱いんだ、優しすぎるんだ」と怒られたとも云っていた。落ち着いたらアメフトをやるのか、と記者に問われて、「やりません、自分にはその資格はありません」と淋しそうに答えていた。彼の態度は、関西学院生にたいする謝罪の気持ちと、自己悔悟の思いが感じられ、理路整然と語る20歳の青年の潔さは、清潔感すら感じさせた。それに対して監督コーチの会見での応答は、この20才の青年の発言をことごとく否定し、自己弁護に終始した。いわゆる大人の醜さ汚さが感じられた。監督コーチの立場を超えた、権力と個人的な利得への執着すら想像させた。
 栄光ある日大アメフト「フェ二ックス」のポジションを獲るためだけに、監督の意のままに従い、相手を壊すためだけの違法行為をしてしまった自分に嫌悪する、20歳のこの青年の心情を察すると、坂口安吾の「堕落論」が思い起こされる。敗戦直後の日本は混乱し定まらず、人は唯、生きるに精いっぱいで、精神的拠り所を失くした昭和21年に書かれたものだが、その中の一節である。「戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ち抜くことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ち抜くためには弱すぎる。・・・・そして人の如くに日本も亦堕ちきることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって自分自身を発見し、救わなければならない」  
 この視点から青年の思いを読み解いてみると、「生きる」とは、この日大アメフト部という部族の中で生き抜くことであり、そのためには、監督の意に完全に従うことであろう。その完遂こそが強さであり、泣くことは弱さの証明と判断される。監督を絶対者として服従し、思考はすべて取り上げられる彼。彼は人形化を強要されたのである。勝利至上主義が錦の御旗であり、そのためにはルールも無視される、忍従服従の封建制が、この特殊な部族の「健全なる道理」とされているのだろう。彼は相手を傷つけ退場させられて、この部族で命じられた行為が、常軌を逸した行動だったと改めて気付き、己の人性に悔悟して自分を責めて泣いたのだろう。監督コーチが定める、「健全なる道理」から落ち込んだ弱者となった。然し私は、彼のこの瞬間を、人形からの人間への復活であり、自我を再獲得し、強者に生まれ代わる瞬間だと思いたい。彼がどう生きていくのか、期待したい。
 彼の記者会見に対する、監督コーチ、学長らの対応から、日大の構造が露見され、アメフトの反則事件を超えて、日大自体が問題となってきている。大学の在り方を問うており、他校にも問われている問題だと思う。


                                       


 



みーちゃんとビー玉

山下 弓子  2018.6月

机の上にランドセルを放る。フタが開いて、教科書と一緒に何かが飛び出た。コロコロ転がってぼくの足下へやってきた、チラチラ光る、それは白いビー玉。いくら探しても見つからなかったのに、どうしてこんなところから出てきたんだろう。ビー玉を差し出す、黒い髪の女の子が頭に浮かぶ。みーちゃん。白いビー玉は、みーちゃんがぼくにくれたもの。
みーちゃんはぼくと同じ幼稚園に通ってた、同い年の女の子。ぼくとみーちゃんはいつも一緒。幼稚園でも、帰ってからも。怖がりなみーちゃんは、いつもぼくの手を握ってた。
ある日迎えに来たお母さんの腕に、灰色のモコモコがついていた。ホコリみたいな、綿みたいな、灰色のモコモコ。
「お母さん、ホコリついてるよ」
手を伸ばすと、みーちゃんがぼくを引っ張った。お母さんは不思議そうに腕をはたく。モコモコはついたままだった。
モコモコはどんどん増えていく。お父さん、近所のおばさん、幼稚園の先生。みーちゃん以外の友達。みんなにモコモコがついていく。みーちゃんは怖がって、モコモコには近付かない。ぼくらはずっと手を繋いでた。ぼくとみーちゃんにだけは、モコモコがつかない。
モコモコがついて、みんな灰色。モコモコはどんどん大きくなって、みんなもどんどん大きくなる。お家くらいに、お山くらいに、お空に届くまで大きくなった。お日様がかくれて、ずーっとくもり。みーちゃんはよくお空を見上げてた。「みーちゃん、お日様あげる」
首をかしげるみーちゃんの手に、赤いビー玉をのせた。お日様みたいな、赤いビー玉。喜んでくれるか、不安だったけど、みーちゃんは笑った。
「お日様がでたから、明るくなるね」
みーちゃんは砂場に穴を掘って、赤いビー玉を入れた。
「ほら、明るくなるよ」
すると灰色の人達がやって来て、どんどん穴に吸いこまれていった。
灰色の人達がいなくなって、残っているのはぼくとみーちゃんだけ。ぼくらは2人、砂場で遊んだ。スコップで砂を集めてお山を作る。みーちゃんはあっちから、ぼくはこっちから、お山にトンネルをほっていく。ぼくの手が、トンネルの中で、みーちゃんの手に触れた。そしたらビー玉を入れた穴がぶるぶる震えて、灰色の人達を吐き出した。モコモコがとれて、みんなもとに戻ってた。
穴の中には黒いビー玉が残ってる。みーちゃんは拾って、ポッケに入れた。
幼稚園を卒業するとき、みーちゃんはぼくにビー玉をくれた。光に当てるとチラチラ光る、白いビー玉。みーちゃんはほくとはちがうところへ行くんだって言ってた。
みーちゃんからもらった白いビー玉。
なくさないように、机の引き出しに入れておいたのに、小学校に入ったらなくなってた。引き出し全部うら返して、ゆすってみたのに見つからない。お母さんにもきいたけど、知らないって言われた。
ランドセルから出てきた、みーちゃんのビー玉。どうしてこんなところにあるんだろう。入れたはずないのに。手の平でコロコロ転がすと、灰色の影がちらっと映って、すぐ消えた。


                                       


 



古代史探訪 北九州

田原 亞彦  2018.6.16

 先月、古代史の研究グループで北九州を旅した。663年の白村江の敗戦後の唐と新羅の反撃に備えた大宰府などの防御体制、1274、1281年再度の元寇襲来への対応、秀吉の朝鮮出兵の拠点の名護屋城の体制、北九州でも糸島半島の伊都国のあった北西部の弥生時代前後の重要性の確認などをテーマとしている。
 那ノ津と呼ばれた福岡は古来から大陸・半島など海外との玄関口であり、7世紀頃、外交窓口としての鴻ろ館(古くは筑紫館)と、20キロほど奥地に大宰府政庁を設けた。百済支援も白村江で敗戦し、渡来した百済人と伴に防御体制を設けた。大宰府は両翼が山の扇の要に位置するが、その前に水城(みずき、全長1.2k、幅77m、高さ13mの土塁を版築工法で固め、外側に60m幅の水域がある)を設けた。両翼には逃げて籠城するための朝鮮式山城の大野城等を築いた。大宰府は平城京と同型の長堂院形式の一等官邸であった。
 鴻ろ館は福岡城内の以前の福岡ドームのところにあった。かっては西国の寺院を支配した観世音寺には鑑真の戒壇院がある。仲哀天皇と神功皇后をまつる香椎宮にも立ち寄った。
 元寇では、1274年は900艘に蒙古1.5万、高麗1万が乗り対馬、壱岐を壊滅して博多湾へ、2回目は4400隻の軍船に14万の軍が東路と江南双方から来襲した。いずれも暴風雨で過半が水没したのだが、一次来襲のあと幕府などが湾内各所に防御の石塁を築いている。生の松原防塁遺跡を訪れた。平成23年に松浦市の鷹の島沖で暴風で沈んだ元寇船が発見され多くのモンゴルの物品や船の残骸が回収され今も継続している。水中考古学というらしい。来襲時はモンゴル船が海を埋めつくほどの情景だったらしい。
 糸島半島東端の玄武岩の今山遺跡は弥生初頭から中期の石器製造の一大基地で北部九州に広く分布している。また北西部では多くの支石墓の遺跡があり、朝鮮に多く見られるが最近中国南部の海岸地区でも発見が続き関連が注目される。糸島の前原市と早良の堺には日向峠(ひなた)があるが、このあたりが渡来系の天孫族の去来したところの説がある。
 唐津の近辺にも重要な遺跡がある。菜畑遺跡の出土土器は従来最古とされた板付遺跡より古く、日本最古の水田跡とされ、C14分析でBC950年とされ稲作伝来の弥生開始時期が500年めぐることになった。又同じ唐津近辺の久里双水遺跡の大型前方後円墳は日本で最大級であり、副葬品などから近畿とは異なり別の文化圏の可能性も指摘される。またこの地区の弥生王墓からは多くの漢鏡や鉄器が出土しており、弥生時代の近畿の墓からはそれらは一つも無く、古墳時代以降のものである。邪馬台国の所在には、九州説と大和説が対立しているが、遺跡の研究が進めば有力な論拠が得られるかもしれない。


                                       


 



血液型の話

小林 康昭  180616

 泊りがけの高校の同級会の翌朝です。二日酔いの男どもは容易には起き出してきませんが、女どもは清々しい表情でお喋りをしながら、朝食を取っております。
「アンタねェ、血液型、B型でしょう?」「失礼ねェ、ワタシ、A型ヨ」「ソウ、それは失礼したわネ」「アンタこそ、B型じゃないノ!」「冗談じゃないワ、イヤなこと、言わないでヨ。ワタシ、これでもA型ヨ・・・」
A型の血液型は自慢になるけど、B型は軽蔑されるんですか。そんな格差があるって、知りませんでしたねェ。因みに、ドイツのF・シュルツとF・ヴォ―リッシュという学者が「知識人には『A型』が多い、犯罪者には『B型』が多い」という論文を発表しているそうだし、白人に「B型」は少なく、インド人に「B型」』が多い、という統計もあるそうです。ネットで調べると、A型は几帳面で真面目、B型は自分勝手で時間にルーズ、なんて出てますしネェ。だから、B型って言われた女性は機嫌を損ねたんですネ。「失礼しちゃうワ」って、言いたくもなるんでしょうナ。
*  *  *
血液型って、結構、奥が深いらしいんですヨ。血液型は、百種類以上もあるんだそうだし・・・。よく知られているABO式血液型は、1901年にオーストリア人学者のランドシュタイナーが、赤血球が集合してかたまりをつくる(凝集)反応から発見しました。血液から発見したので「血液型」と命名されましたが、後になって、内臓やリンパなど全身に分布する物質であることが分かりました。
*  *  *
動物にも血液型物質があります。オランウータンやチンパンジーはO、A、B、AB。ニホンザルはOとB。イヌ、ネコ、ウシ、ウマはOとAとB、ブタはOとA、ヒツジはOとB、ウサギはAとB、クジラはB、ナマズはA、アマガエルはA、というように。植物にも、例えば、ゴボウ、ダイコン、サトイモ、エノキダケはO、ソバ、コンブはABです。だから、血液型で、合う食物と合わない食物がある筈なんですヨ。気にする人はいませんけどネ。
人間の腸の中にはさまざまな細菌が棲んでいます。これらの腸内細菌も血液型を持っています。サルモネラ菌や大腸菌はO、A、Bの三つを持っています。実は、最も早く血液型を完成させた先駆者は細菌でした。人類は人類に進化する前から、腸の中に細菌を持っていました。この腸内細菌が、人間にABO式血液型を作ったわけです。だから、あらゆる生物が保有する「血液型物質」は、「胃腸粘液物質」と名付けた方が良かった、との主張もあります。
*  *  *
 アフリカに誕生した我々の祖先であるホモ・サピエンスは、すべてO型だったと考えられています。狩猟集団の彼らは、胃酸を多く分泌して肉類を効率よく消化するように、消化器官にO型の特性が形成されたらしいのです。
O型の彼らは、世界中に分散しました。アジア大陸に移動した集団は、穀物を栽培し定住生活をするようになりました。食習慣が変わり腸内細菌の一部から血液型物質の遺伝子が人間の体内に侵入してトランスフェクション(遺伝子移入)を起こした結果、農耕民族の新モンゴロイドにA型人間が登場しました。農耕民族の日本人や韓国人は、A型が多くなりました。ヒマラヤ山岳地帯に移動して遊牧民族になった彼らの腸内細菌は、乳製品を分解するのに適したものに変わって行きました。腸内細菌の一部がトランスフェクションしてB型人間が誕生しました。インドやパキスタン、イランなどの遊牧民族は、B型が多くなりました。南北米大陸や豪州の先住民族にO型が多いのは、他民族と交流が少ないからです。加えて米大陸でO型が非常に多いのは、コロンブスの時代に米大陸で流行した梅毒で、O型が生き残ったからです。O型が多い民族 (メキシコ:84%、ペルー:71%など) では、血液型性格診断は意味がありません。因みにアメリカ合衆国は、O型とA 型を合わせて86%です。AB型は、今から千年ほど前に現れました。西暦900年以前の墓からAB型の人間は見つかってないそうです。A型人間とB型人間との混血で誕生したんだって言われてますネ。
*  *  *
血液型で免疫力が異なるって話です。感染症や生活習慣病、癌やアトピーの発症、自己免疫疾患、心の病気などでも、血液型で罹患率が違ってるそうです。病気に強い血液型ランキングはズバリ、O、B、A、ABの順だそうです。スポーツ選手にOとBが多い、との統計もあるそうです。O型は、伝染病などに罹り難くストレスに強いので、大勢の人たちとの接触を怖れず、社交性に富み開放的になり自己主張が強い性格になったのでしょう。
A型は、伝染病や食中毒、癌、生活習慣病(糖尿病、心筋梗塞)、自己免疫疾患(リウマチ、悪性貧血)などに罹り易く、農耕民族的な生活スタイルとも関連して、慎重で用心深い几帳面で神経質等の性格的特徴を形成したと考えられます。
B型は、免疫力は強いが、感染症に罹り易くストレスをためやすい体質だそうです。好奇心旺盛でマイペース、少々オタク的になりやすく、感情の起伏が激しく奔放な性格ができあがったのではないか、と考えられています。
AB型は、免疫力が弱く感染症にも罹り易くストレスにも弱く、結果的に、疑い深く内向的になったのでしょう。
血液型が、人間の性格形成に影響があるのは当然の話なんですネ。血液型分布がA38%、O31%、B22%、AB9%の日本は、性格診断に最適な国なんですヨ。因みに、ワタシは・・・◇型なんです、自慢するわけじゃ・・・ないですが。


                                       


 



カレンダー

華岡 正泰   2018.6.16

 日本人程カレンダーを身近に、大事にする国はない。時間を厳守し 礼儀を重んじる日本人の心に通じるものがあるからだろう。
 昔“こよみ”といえば全て日めくりで、毎朝一枚づつめくるものだった。それが、あれは私の香港勤務時代だから1958年(昭33)頃、日本航空から 鶏のトレードマークをあしらった 超豪華な壁掛けカレンダーが会社に配られてきたことがあった。現地人社員の中には「あの鶏は縁起が悪い」と陰口たたく者もいたが、それはそれは見事なカレンダーだった。思うに あの日航カレンダーに倣って企業各社が名入りカレンダーを作り始めたのではなかろうか。
 カレンダーには大別して 1)壁掛け 2)卓上 3)書込みの三種あるが、日本のカレンダーは日本の文化や季節感を伝える貴重なツールであり、文化的価値、実用性を兼ね備えた世界に類を見ない素晴らしいものである。 
 こんな事があった。1975年(昭50)ソ連のモスクワへ出張したが、現地駐在の同期の友人に土産物の希望を問うたところ「名刺型カレンダーを」と言う。時季外れで苦労したが、それでも大手文房具店などで買い揃え持参した。この様なカレンダーを作る国は他になかった。日本の祝祭日などどうでも良かった。社内外、特に夜の巷では大いに喜ばれた。
 国内でのカレンダーは年末に最も喜ばれるギフト。「買うものでなく貰へるもの」と言はれるまで成長し続けた。然しそれが、1991年(平3)のバブル崩壊でカレンダー作りを中止する企業が続出、マーケットはシュリンクに転じ「貰へなくなったカレンダー」になってしまった。
 今、業界は3%のシュリンクを続ける名入りカレンダー市場を、卓上の11%の成長で辛うじて支えている様だが、ここへ来て又大変な局面を迎えている。それは来年4月30日の天皇譲即位に伴う新年号の発表が漸く今になって来年4月頃とされたことだ。通常、カレンダーは秋頃になると2年後の準備に取り掛かると言うから新年号発表のタイミングの遅れは業界として死活問題、テンヤワンヤの状態にあるのだ。4月発表の理由は新旧天皇の二重権威を避ける為とされる。カレンダーは業界だけではなく国民生活にも関わる問題である。この理由で納得出来ようか。来年のカレンダー、先ずは西暦だけで作られることになるが、この際、日本の暦を西暦第一、新年号第二に切換えてはどうだろう。世は将にグローバル化の時代。昭和、平成、新年号、三時代を生きる我々には過去の歴史を振返るには西暦が便利。一部の行政機関では混乱を避ける狙いから一定期間 新旧両年号の併用を考慮中と言う。新年号を蔑ろにするのではない。便利さと伝統を使い分けようというのだ。西暦第一、実現したい。             


                                       


 



四季の記憶51「気象病」

鈴木 奎三郎   2018・6・18

 芒種(ぼうしゅ)という聞きなれない言葉が旧暦5月の節気になる。イネ科の花の外側には芒(のぎ)と呼ばれるとげのような針状のものがついているが、その芒のある穀物の種まきをする時期というわけだ。この節気名が、東南アジアから渡ってきた稲の生育期にあわせてつけられた所以であろう。
 もう田植えは終わったところがほとんどだ。緑の風に小さな苗が揺らぐ姿は、小さかった頃に通った学校への田んぼ道を思い出す。それは帰らぬ日々へのノスタルジーであろうか。
 もみじやカエデの美しい新芽はすっかり色濃くなり、夏の風が吹き、すべての生命体が活気を取り戻す。気が付くと蜜蜂が飛び交い蟻たちが忙しく歩き回っている。最近はあまり見かけなくなったとかげも、どっこい生きている。とくにここ1,2週間は紫陽花の美しさが際立ってきた。青、白、ピンク・・と七変化だ。

 毎朝7時半ごろには愛犬を連れて散歩に出かける。近くに小学校が2校あるため通学の子と大勢出会う。犬好きの子は必ずよしよし・・と頭をなぜていく。1年生は黄色のランドセルカバーをしているのですぐわかる。その子らもいつの間にか大きくなって、近くの中学校に通うようになる。急に大人びてきて、あの子がこんなに大きくなって・・と驚く。その分ぼくもトシをとっているわけだ。

 先日、近くの豊島園へあじさい祭りを見に行ったが、入場料500円にしては、さほどのことはなかった。豊島園は、夏場のプールは賑わっているようだが、いつもはここが遊園地?と思うくらいひっそりとしている。かつての賑わいを知っている身としては、寂しさを禁じ得ない。アメリカのデズニ―ワールドや舞浜のデズニ―ランドとは比べようもない。子供が小さかった頃は、決して安くはなかったここのファミリー会員となり、夏場にはプールに通った。往時茫々である。

 さてもう梅雨入りして1,2週間がたつが、この時期には体調の不良を訴える人が多くなる。この症状は「気象病」と呼ばれているそうだが、不覚にも最近まで知らなかった。これは気象の変化に深いかかわりのある病気や症状のことで、めまい、肩こり、イライラなどの不定愁訴を訴えるものであり、特に影響が大きいのは気圧だそうだ。低気圧、高気圧、特殊な気圧配置・・などがその要因とされる。ぼくにはこのような症状はないが、家人は近年は典型的な「気象病」にかかっているようだ。とくに暑さに向かう湿気の高い今頃の時期は、頭痛、めまいなどに悩まされている。すぐに病気にかかわることではないが、この時期の生活の質は極端に落ちているようだ。
 
 旧暦5月の中気は夏至。昼が一番長く、夜が短い夏の訪れだ。新暦の夏至の日は6月21日頃である。梅雨の最中である。梅雨は梅の実を育てる雨の季節という意味であるが、いつのまにか梅とともに雨の季節の代名詞になった。直截に雨季といわず、梅雨と詠んだところに詩心がある。これからひと月少々、梅雨を楽しむぐらいの余裕をもってこの時期を乗り切っていきたいものだ。

 みすずかる信濃の里の濃紫陽花


                                       


 



旅のかたち

横山 明美  2018・6・16

 父は旅行と食べることにはお金を惜しまなかった。若いうちから東京に出て、努力と才覚で力強く戦後の時代を生きてきた自身への褒美であったものを、一家を構えてからは家族にも味わわせてくれたのだろう。田舎でのクリスマス、デパートのレストランで七面鳥のコースを食べたことがある。おいしかったという記憶はない。蝶ネクタイ姿の支配人は戦争で受けた弾が体内に残っている、帝国ホテルで修業したらしい、などという物語までついていて、私たち子供の胃袋はいっそうふくらんだ。秋には松茸をざくざく入れたすき焼きをよく食べた。松茸もその頃はよく取れたのである。注文すると枌皮に包んだ肉を届けにくる肉屋の「小僧さん」がかわいかった。
 父は出張先から必ず土地の名物を買い込んできてこと細かに説明に及んだ。声も体も大きく存在感少々ありすぎの父の不在はほっとするところもあったが、帰ったときの愉しみがあってわっと取り囲んだりするので、双方帳尻は合ったのである。
 日光や箱根などあちこちに連れて行ってもらったが、写真を見ると家族全員がよそ行きのワンピースや上下服、父などパナマ帽に麻のスーツ姿で偉そうに構えており、いったいみんなでどんな会話をしていたのだろう、と可笑しくなる。お正月は否応なく鬼怒川温泉の決まったホテルに連れていかれた。父が温泉に入ると頼んでいないのに三助さんがとんできて背中をごしごし洗ってくれるのだった。この温泉行きは娘たちが結婚しても続いたが、それぞれ予定もあっただろうに写真に顔が揃っているのは、時代の様相もあるだろうが、人の集まりが角張らずに素直に楽しかったのである。ひとり、長姉の連れ合いに不機嫌の趣があったが、書に耽り詩を書く婿殿も、他の男性に打ち勝って姉を得た弱みがあったから来たのに違いない・・・と私には思われた。
 父主導の「旅行」変じて、家を出てからの私には新しい「旅」が少しずつ増えていった。名所旧跡より人や歴史と出会う旅を好むようになっていた。40台半ば過ぎまで次から次と本を読んだ気がする。娘の思わぬ大病が快癒するのに10年ほどの歳月があり、その間本でたくさんの旅をして準備はできていたのだろう。東北の小さな街や琵琶湖周辺の寺社巡りを繰り返した。米沢周辺に何度も足を運んだのは、大好きな上杉家やその配下の直江兼続の足跡を辿ることもあったが、作家・井上ひさしの主催する「生活者大学校」と言う集まりが毎年あったからでもある。そこは作家の出身地だった。田圃の中に立つ大きな体育館でのその集まりにはゲストで毎年様々な方面の専門家が登壇し、参加者とともに最後は地元の食材料理で大宴会となる。その受付で「直江兼続をぜひ大河ドラマに」のチラシを見て心躍ったが、NHKで実現した時は、一年間夢心地だった。兜に愛の飾り文字!と知性と篤実の人はこの歳になっても憧れの人である。
 娘が大学に入ったころ新聞社で校閲の仕事に就いたが、土日の休みでは到底足りず、給料下げても月曜までの3連休に!と強気の談判の末、父に似た巨体で押し切ったの感がある。

 やがて夫は定年を迎えたがまだ出ることも多く、なに私の旅は男性の酒や煙草と同じ「嗜好品」と思い、北陸や飛騨の奥地にも出かけるようになった。長い旅の間に心なしか自分の中に目を向けるようになっていた。その頃はもう人に声をかけられる年回りでもなく枯れ始めていたから残念だったが、図々しく地元の人に話しかけては里言葉からさりげない日常を知ることができ、その一コマ一コマは今でも寝床の中で目に浮かんできたりする。
 ことさら老いてきた昨今は、昔の同級生たちとの遠慮のないあきれ旅だ。気が緩むのか、誰かがどこかにものを忘れたてきたり、我慢できずに空いているのを幸い男子トイレに入ってしまったり(私は入らない)、よくまあこまごまとたくさんの土産物を隣近所に買ったり(私は買わない)・・・それでも老いの知恵袋は互いに沢山たまっていていい情報の交換もあり、旅が終わるころにはほっとするような安堵感や、意味もなくまだ大丈夫と言う気分になって、珈琲で乾杯して別れるのである。この夏は、気の進まなそうな夫を叱咤激励して山形県の出羽三山をめぐる。おいしい蕎麦と月山のお花畑、羽黒山の五重塔・・・人生も大詰め、いい旅にしたく、下勉強中である。


                                       


 



イタリア狂騒曲

照山 忠利  2018. 6. 16 

 イタリアでは先ごろ、漸く連立政権が発足しジュセッペ・コンテ氏が首相に就任した。ポピュリズム政権と前途が危惧されている。その連立協議が続いていた4月末から5月初めの11日間、3度目のイタリア旅行を敢行した。一行は絵描き仲間の男2人と女3人に小生が加わった6人。平均年齢は70歳。目的はフィレンツェとシエナを拠点に、トスカーナ地方の小都市を巡り歴史的な建造物と絵画作品を鑑賞すること。絵に興味のない小生はもっぱらワインと料理を楽しみに参加した。
 小生の従妹のAtsuko(52)がシエナに住んでいるので、彼女に宿や足の手配を頼んだ。訪問した先は拠点2都市のほかはアレッツォ、ラヴェンナ、アッシジ、ピエンツァ、モンタルチーノ、アンギャ―リ、サンジミニャーノなどで、毎日1万歩から2万歩を歩いた。高齢者の健脚恐るべし!
 この旅で印象に残った出来事を3点ばかり紹介する。
(1) スーパーマリオ
 大聖堂で有名なアッシジには、Atsukoの友人ロベルト氏(50)と愛娘(20)の運転する車2台に分乗した。氏の車は日産マーチのオンボロ車(走行距離なんと54万キロ!)、娘の車はトヨタカローラの中古車。この2台が高速を120キロで疾走するのだからスリル満点。とても居眠りなどできない。
 ロベルト氏はバスの運転手が本業だが、我々のために休暇をとって案内役を買って出たのだという。この陽気なイタリア人は大の日本びいきで剣豪宮本武蔵を尊敬しているといい、日本の車は最高といって憚らない。運転中は喋りっ放し(意味はよくわからぬが)、撮影スポットに来るとサッと車を道端に寄せカメラのシャッターを押す。きれいなポピーが咲いていれば引き抜いて持ってきてくれる。常に先手先手を取って客を喜ばせること頻りであった。別れ際にはワインを皆に用意してくれた。次に行く機会があればぜひまた頼みたいスーパーマリオであった。
(2) バス切符の怪
 塔の街として知られるサンジミニャーノにはシエナからバスで約2時間。切符は事前に売り場で買わねばならない。その切符を運転席横の機械に通して刻印してから乗り込むのがルール。刻印するとき「ジジッ」という音がする。目的地までの切符を持っているのに、なぜ刻印する必要があるのか理由がよくわからない。だがこの刻印を甘くみるととんでもないことになることを知った。
 塔の街を歩き疲れて帰りのバス停に来たら黒山の人だかり。とても1台に乗り切れる数ではない。定刻に遅れてやってきたバスの乗り口に人々が殺到する。やっとのことで一行は乗ることが出来たが混雑に紛れて男1人(Aさん)が刻印をないがしろにした。シエナに着いて下車する段になって検札が行われた。ポケットから切符を取り出し検札係に渡す際、刻印なしを咎められたのだ。パスポートを取り上げ「運賃の10倍の60ユーロを現金か振り込みで支払え」という。Atsukoが懸命に抗弁してくれたが検札係は許してくれない。結局Atsukoも公権力に逆らったらまずいから矛を収めてという。「この国は社会主義か!」。Aさんは半泣きで捨て台詞を口にした。
(3) 油断大敵
 日本へ帰る日のこと。ローマの空港で成田行きのアリタリア機に乗り換えるとき「やっと無事に帰れるね」と誰かが言った。小生は内心「最後まで気を緩めるべきではない」と思ったが黙っていた。
 出発までの2時間をそれぞれ買い物や食事に費やして、いよいよ搭乗となったが男2人連れが定刻になっても現れない。機内でやきもきして待っていると、やっとのことで乗ってきた2人は「食事したピザの店にBさんがリュックを置き忘れて、探したが見つからなかった」とか。海外駐在の経験があり英語もペラペラの人が最後にしくじったのだ。とっさに機内からAtsukoに携帯で電話し、ローマ空港に探索を依頼して貰うことにした。「出てこないかもよ、イタリアだから」との返事だったが、帰国翌日奇跡的に出てきたという。大事なリュックをなくしてしょんぼりだったBさんは、「ヤマト便の着払いで送ります」との朗報に胸をなでおろしたことであった。

 こうしてみると男3人のうち小生のみが難を免れた訳で、我ながら失敗はなかったと振り返っていたところ、強烈なしっぺ返しが待っていた。旅行中獣医に預けていた愛犬2匹のうち1匹が、帰国後26日目に昇天してしまったのだ。元々病気がちで、手立ての限りを尽くしての寿命であったのだが、深刻なペットロスはイタリア旅行の代償だったのかもしれないと秘かに悔やんでいる。
(了)


                                       


 



老いとの葛藤

谷川 亘  2018・6・16 

 梅雨半ば、この鬱陶しい陽気の中にあって、八十路の老頭児は、心身ともに“老いの現実”を味わうようになってきました。電車でも、空いていれば老人席に自ら座ることはあっても、年端もゆかない若者が足組んで座っていようが、席の前には絶対に立たないのですが、先日は、なんと、手招きしまでして「座れ!!」とのご指図。それも、中高年のご婦人。 ご親切の“度が過ぎ”ますよ。痛く落胆してしまいました。
 尾籠な話ながら、しばらく前から、“硬め・ゆるめ・ガス溜り”の三悪循環現象。家庭医の先生に訴えても、薬の処方ある訳でなし、「オトシのせいですなあ~」とのお言葉。両親から授かった丈夫な歯も最近に至り2本も“グラつき出し”、ついに歯医者のお世話に・・・。
 ついでながら、下世話な話の繰り返しで恐縮ながら、本文読んでいただいている方の約半分はPSAってなんのことかをご存知ないと思いますが、真面目な話、その何たるを詮索される必要は全くありません。つまりですねぇ。その基準値を超えて検査入院一泊二日。がんの可能性6~8割と名医?に宣告されていたのに、検査結果は“細胞所見なし”。患者の方からお医者様を見限って、受診拒否したい位なのです。

 聞いた人様のお名前とか、たった今教えてもらった花の名前。特に固有名詞は即刻記憶の彼方で、私のスマホの「メモ帳」アプリ。重宝な言葉の備忘録として大いに役立っている始末。“自己暗示”って言うのでしょうか?この言葉は忘れるなぁと思うとどんぴしゃり。なんとも情けない限りです。今更、電話機能なんてどうでも良い。スマホは私の“生き字引”なのであります。

 まあ、“痛い・痒い”の部類には枚挙にいとまはありません。

 頭の体操として、目下月一Homepage更新中で70号の大台へ。
 数年前までは、富士山から始まって我が祖先と仰ぐ谷川岳。それに、月例山行として位置付けた奥多摩は御嶽山。月一(挙行)、朝一(出立)、一気(登攀)、昼一(つるつる温泉)、ご褒美に(熱燗)一本。他の組み合わせも含めて軽い気持ちで何百回。絵日記仕様でパソコン叩いて“Photo Essay”一丁出来上がり。
 登山から里山めぐりと高度を下げて、今では拙宅周りの廃ガス充満の一万歩コースの体たらく。ひたすら歩き回るだけでは、美酒にそそのかされて恍惚気分に浸れるわけでもあるまいし、“天下の名文”なんて出てくるわけがない。
 お付き合いの輪も行動範囲も狭くなってネタ切れの様相甚だしく、一層の事止めちゃうかとの思いが脳をかすめるのですが、止めてしまったら間違いなく、優勢でも顕性遺伝と呼んでも良い。あるいは、劣性でも潜性と呼んでも良い。何れにしても、我がお先祖様に脳疾患罹患の多いことは先刻ご承知の通りなのです。
 従ってこの愚作であっても苦悶しつつも続けなければならない宿命なのです。
とは言え、でも、しかし。「老いとの葛藤」と題したこの拙文。例月だと筆が進まず悪戦苦闘するのに、何故こんなにスラスラ筆が進むのでしょうか?


                                       


 



アガスティアの葉

石田 真理  2018.6月

 先日、ある人の講演会に行き、「アガスティアの葉」という不思議な話を聞いてきた。
「アガスティア」とは、実在したとされるインドの予言者で、そのアガスティアが個人の運命を予言して記したのが、「アガスティアの葉」と呼ばれ、インドの「アガスティアの葉の館」に膨大な数の葉っぱがあるらしい。
 予言も運命も信じていなかった講演者が、自分の人生があまりに辛いものなので、なぜ自分の人生はこんなに辛いのだろうか、自分はなぜ生まれてきたのかを知りたいと思っていたときに、「アガスティアの葉」の存在を知る。「アガスティアの葉」には、自分のすべてが書いてあるらしい。未来だけでなく、過去世についても。その人は、未来が知りたかったのではなく、自分の今の人生が辛いのは、過去世に何かがあったのではないかと考えていた。そして、自分のアガスティアの葉を探しに行く。
 しかし、「アガスティアの葉」は簡単に探しに行けない。紆余曲折ながらも、なんとか「アガスティアの葉の館」に連れて行ってくれる人と出会うことになる。
 「アガスティアの葉の館」に着いてからも、「自分の葉」を探すのにまた、スムーズには行かない。自分の葉を探すのに、時間がかかる。何時間もかかることはよくあることで、人によっては見つからないこともあるそうだ。彼も「見つからないのではないか…。」と不安に思いながらも気を強く持ち、ついに、「自分の葉」を見つける。そこには、本人しかあてはまらないこと、本人しか知らないことが、こと細かに書いてあった。それが読み上げられた時、自分の人生が腑に落ちて、泣いてしまったそうだ。
 予言とか過去世とか、宗教的な話であるし「アガスティアの葉」については、信憑性に疑いがあるとも言われている。しかし、自分の人生に意味を持ち、自分の存在に不思議なドラマを思わせてくれるもの、そういうものの存在を、信じてみるのも、いいと思う。


                                       


 



空白の法則

石田 真理  2018.4月

 「家の中の8割のものは、使っていないものだ。」という内容の本を読み、思い切って使っていないものを処分することにした。
 どちらかというと、持ち物は少ないほうだが、もの持ちはよい。「いつか使うだろう。」と、とっておいたものが少なからずある。食器、家電、文具、趣味のもの。いつのまにか時がたち、服にいたっては10年、20年の出番待ちが、ひっそりハンガーにかかっていた。時代遅れではあるが、生地にいたみはなく、着られないことはない。そう思って保管していたのだが、20年物の服はさすがにもう着ることがないのではないかと考え直し、処分した。
 インターネットで「片付けの方法」を検索すると、一度収納からすべて出し、「いる。」「いらない。」を選別して、「迷ったら処分する。」というスタンスで進めると、スッキリするらしい。箪笥の棚一段ずつ、収納ケースを一つずつ、その方法を実行していった。収納から出された物々で、部屋は、足の踏み場のない状態になった。
 予想外に「使っていないもの」は多かった。いつか使おうと思っていた漬物樽に、何年も使っていない来客用テーブルやランチョンマット。満杯になることを夢見ていた金庫。夢は夢のままでいた。私一人が大事に持っていても、「物」たちは日の目を見ない。使ってくれる人のところへ行ったほうがよいだろうと思い、ネットオークションに出品したり、リサイクルセンターに提供したりして、社会の役に立てることにした。
 箪笥の中にも、押し入れの中にも、大きな空間ができた。「片付け」が終わった部屋をぼんやり眺めて、昔、知人が言っていた「空白の法則」を思い出した。
 『宇宙には、何もない空間があると、それを埋めようとする力が働く。』
 そんな法則だったと思う。スッキリした私の部屋には、宇宙の法則が働いて、何かが入ってくるのだろうか。何が入ってくるのだろう。少し期待して、楽しみにしていようと思う。 


                                       


 



桜の散った午後

鳥谷 靖子  2018.4月

二月の立春が過ぎると、テレビで「今年の桜の開化予想」の放送が始まる。日本人の多くは桜の花の開花を楽しみに待っている。今年は三月中旬からお花見シーズン突入した。家のすぐ近所の練馬春日町駅を出て光が丘に向かう路は桜並木があり。開花が始まると路に被さるように、ピンク色と純白の桜が混じり合ったトンネルに変わる。光が丘公園に入ると広場が桜の園になる。この春は桜の開花も早く風も穏やかな日が続き、友達と花見に公園に行った。青空に映える一面の薄ピンクの世界に、友が「天国を歩いているみたいね」と言う。鳥になって、桜のトンネルの中を木から木に飛びながら公園の綺麗な桜の枝で一休みしたいものだ。
春の訪れと共に美しい花が木々を覆い一週間で散る儚さが、人の世の儚さと重なり合い人々を惹きつけるのだ。光が丘からの帰り道、穏やかな昼下がりだった。あの並木道で風も強くないのに桜の花びらが雨の様に舞う桜吹雪だ。自転車を留め、桜の花の吹き溜まりで花ビラをすくい匂いを嗅いでみた。少し甘く酸味があり青葉のような香りがする。
四月の初め、最後に葉桜を見ようと家を出た時、一人のお洒落でしっかりとした老婦人に声をかけられた。なんでも昔この辺りに住んでいた人で見覚えがあった。「知人を訪ねてみたけれど誰も会えないのよ」と彼女はいった。八十代後半と言ったその女性が訪ねた人達は何故か二人共介護施設にはいっていた。「光が丘にいくので失礼します」と言うと「私の家は近所だから一緒に行きましょう」と言うので自転車を押しながら一緒に歩くと、十数足らずの所にその人の家があった。初対面だったので「ここで失礼します」と言う言葉が耳に入らないらしく強引に家に上がりなさいと言われた。セコムのはいった広い家に一人暮らしで、内装も凝った造りで自慢のお宅なのだと納得。趣味で描いたという絵を大きなステンドグラスにした壁、生活感が全くない整然とした家の内部、初対面の私に家の中を案内してくれた。「お茶菓子は無いのよ」とお茶を出し、彼女は話し始めた。夫はずっと前に亡くなり、二人の娘とは疎遠になり連絡もない話、ずっと仕事をしてきた事。六回も船で世界中を旅したこと。もう一度北欧に行きたいと思っているとか、夏にはエッセイ集を自費出版するという話に「凄いですね」と感心しながら二時間が過ぎた時、近くに住む娘から呼び出しの電話があり。「光が丘で娘や孫が待っているので」とその家をあとにした。別れ際に「泊りがけでいらっしゃいね」と言い玄関で見送ってくれた。待ち合わせ場所にまだ娘達が来ていなかった。茫然とベンチに座った。華やかな話が多かったけれど、何故か彼女の心の空洞が伝わり、やるせない気持ちになった。あの女性は、孤独な心を少しでも誰かに話す事で埋めたかったのだ。話し相手は多分誰でも良かったかも知れない。気付いたら彼女の周りの人はいなくなっていたのだから。
毎年春に桜の鮮明な世界を見て、人は幸福な気持ちになる。私達は満開の桜の様に過ごす華やかな時もあるが、桜のように人に喜びを与える事は難しい。人の人世は一回限り。人生花は残された人の思い出の中で咲くだけだ。そんな事を思っていたら,孫娘達が現れて「パフェが食べたい」言う。桜の散った春の午後だった。


                                       


 



四月のともだち

横山 明美  2018.4月

 稲門会江ノ島歴史散歩の帰りの車中、携帯に電話が入った。あとでかけなおそうと思いつつそのまま新宿の店に皆でなだれ込み、宴も果てての帰宅のバスの中、再び携帯がブルブルした。田舎の友人だが、こんな時間二度も立て続けに何事かあったのか、心騒ぐものがあり家に着くなりかけ直した。開口一番『落花の雪に踏み迷う、片野の春の桜狩り・・あとにあーだこーだ続くんだけど知らない?』と思いもかけない内容である。こちらにも多少の見栄はある。「聞いたことはあるけど」などと少し鼻白む思いで返すと、可及的速やかに調べてくれと言う。今に至っても気ぜわしい人である。女子高時代の出し物では自ら昔のお百姓男に身をやつしたあっけらかんの姿が忘れられない。また忘れ物の多い人で、父親がよくいそいそ自転車で守衛室まで届けにきたものだ。たまたま本棚に「国語要覧」という便利な本があったので調べてみると、室町時代に出た「太平記」のなかでも有名な道行文の冒頭の部分であった。全体に語り口がよく、江戸時代には路傍でこれを講釈する者が現れて人気を呼び、それが今の講談へとつながったらしい。ファクスで送ると「ありがとねー」のあとにその参考書を教えてという。相変わらず一途の人である。じっくりと日本文学の流れを再勉強する気になったものらしい。国語の教師を中途でやめざるをえなかった彼女だった。
 教師生活も五年を迎えたとき母親が突然倒れ、一人っ子の彼女は迷うことなく職を辞した。それから四半世紀、介護制度もない時代に一室で塾をやりながら母親を看たのである。その後の放心状態を経て見つけたのが今の仕事で、ヨーロピアンポーセリンというお洒落な磁器絵付けの手仕事。美しい器でゆっくりと珈琲を飲んでみたかったという。修業してめきめき腕を上げ、最近絵柄がきらびやかな花の彩りから流麗な文字のちらし書きに移行しつつあるのは、見てなにかほっとする。日本人である。25年もの雌伏の時を経て今素敵に変身した彼女は地元の大学で生徒に技を伝授し、自宅にはあちこちから奥さん方が通ってくる。ご主人は裏方を担う。友人としてうれしくもありまぶしい。
 次の日曜には同じ町からもう一人の友人が上京し我が家に泊まる。その日彼女はハワイアンの舞台に立つのである。若い踊り手の弾ける美しさもいいが、私と同年齢とはいえ彼女の踊りには年季が入っており、深く心の襞を表現する正統派フラダンスである。大柄で美しく衣装がよく映える。紆余曲折を経て独り身を通しているが長い付き合いの男性がおり、その関係も、見ていると折り目正しいものだとこのごろ私には思える。同窓会などでは私の隣で万事控えめだが、舞台の彼女とのその落差がなんとなく好ましい。墓参りなどで帰省すると、ビジネスホテルの朝はわびしいだろうと、鮭と卵焼きとワカメの味噌汁を用意して呼んでくれたりする。壁には彼から贈られた大きな明るい海辺の光景の画、小さな仏壇には二人の母親と大好きだった父親の三つの位牌。そういえば彼女には市内に7人の弟妹が家庭をもっている。災害時用の大量の飲料水や毎年の舞台衣装、音楽器材などで足の踏み場もない独り住まいだが、音楽と踊りを生涯の友と思い定めている彼女には、それがいちばん落ち着くのだという。2000人余の満員の会場で私は今年も何人分もの拍手を贈る。


                                       


 



生活

山下 弓子  2018.4月

湖の向こうから太陽が昇ってくる。薄く凍った水面がキラキラ輝き、世界は色を取り戻す。黒い服の子供は片腕で目を覆いながら、じっと水面を見つめていた。
カラカラと音がし、後ろから山羊が近付いてくる。小屋で飼っている唯一の動物だ。少女は振り替えって山羊に近付き、自分の背丈程もある動物の、小さな鐘を下げた首筋を撫でてやった。少女が歩き出せば、山羊も啼きながらついてくる。
少女が住んでいるのは湖の側にある小さな家だ。火を焚いて、少女は食事の支度をする。背が低いから大変だ。小屋に1つしかない椅子を動かし、その上に立って調理をする。あちこち引き摺って歩くうち、額に汗が浮かんでくる。
食事が出来ると、続きになった寝室へ運ぶ。テーブルの上に盆を置き、出来ましたよと声を掛けた。寝台の上では、男が1人横たわっている。声を掛けても起き上がる様子はない。
少女は気にする様子もなく寝台に近付き、腋に手を入れて起き上がらせる。落ちないように気をつけながら、脚の上に盆を置いてやり、自分も引き摺ってきた椅子に腰掛けて食事をし始めた。
少女はしきりに男に話し掛ける。飼っている山羊のこと、長くなってきた日射しのこと、膨らんできた蕾のこと。とりとめもなく話し続ける。
自分の分を食べ終えると、男の皿も一緒に片付ける。男は全く手をつけていないが、気にもせずに全て捨ててしまう。
山羊の世話をし、家の掃除をし、夜がくると少女は男を横にならせる。自身も隣に潜り込み、1つしかない寝台で寄り添って眠る。
1日中、男は一言も口をきかなかった。
次第に小屋の中には悪臭が満ちるようになった。窓を開けた程度ではおさまらない上に、日を経るごとに酷くなってゆく。吐き気を催すような臭気の中、男と子供は変わらない生活を続けている。テーブルが1つ、椅子が1つ、寝台が1つ。最低限の家具しかない小さな家。動き回るのはただ少女だけ。朝がくれば山羊を外に出し、食事を作って男を起こす。独り言のように喋り続け、片付ける。家中を掃除して山羊の世話をし、夜がくれば男を寝かせて自分も潜り込む。そうやって日が過ぎてゆく。春の訪れとともに男の姿が変わってゆくのに、少女は気にする様子もない。

湖の向こうから朝日が昇ってくる。乾いた風が吹き抜け、水面にさざ波を立ててゆく。色付いてゆく世界を、黒い服の子供は片手で目を覆って見つめていた。
カラカラと音がし、後ろから山羊が近付いてくる。少女は振り替えって山羊に近付き、首筋を抱いて額に口付けた。それから首輪を外してやり、小屋とは違う方角へ歩き出す。山羊は啼きながらついてゆくが、もう少女の姿はどこにもない。
湖畔の小屋の中では、骨になった男が寝台に1人、横たわっている


                                       


 



映画とマネジメント

小林 康昭  20180421

 デパートに買い物に行くことがあります。ケーキや洋酒、装身具とか。商品が収まるケースの向こう側では、女店員が顧客たちを眺めています。その背後に大きなテーブルが見えます。買うものを指すと彼女はそれを取り出して踝を返し、背中を向けてテーブルの上で包装を始めます。テーブルを囲んで数人の女店員が、同じような作業をしています。そのとき、彼女たちは、必ずお喋りをしますね、楽しそうに。テーブルの脇には太い柱が立っています。その柱の陰の机では、別の店員が独り、事務を取っています。男のこともあれば女のこともあります。良く見ると、制服にバッジがついていたり、襟とかポケットの形が少し違っていて、お喋りしている店員たちとはチョットだけ身分が違うのかな、と想像します。お喋りの声が高すぎると、その人は「お客様の前ですよ、少しは・・・」みたいに注意しますね。一瞬だけ静まりますが、しばらくすると声をひそめたお喋りが、また復活します。そのときには、もう注意は出ません。無理に沈黙させると、ストレスになりますから。
 この孤独な人が、主任とかチーフとか呼ばれる人です。このような人をマネジャと言います。マネジャの仕事がマネジメントです。
*  *  *
 マネジメントとは、国語辞典には「会社や役所などの組織のメンバーを管理し組織を運営すること」などとあります。そもそも、言葉は人類が誕生したときから存在していたのですから、マネジメントという外来語の語源である英語も当然、イギリスでは大昔からあったでしょう。ですが、大昔には会社や役所も、組織のような存在もなかったわけでから、メンバーを管理し組織を運営する、というような概念はなかったはずです。だったら、大昔のマネジメントにはどんな意味があったのか、イギリスのオックスフォード英語辞典で確かめてみます。この辞典は、語釈を歴史的に古い順番で列記しています。最初に出てくる語釈は「野生の馬を手なずけて乗りこなすこと」とあります。つまり、マネジメントは最初、馬の調教を意味する語でした。野生の馬は人に慣れていないので、人を寄せ付けず、乗ろうとすると激しく暴れて抵抗します。ですから、大変な荒業だったのです。
*  *  *
 1961年公開のアメリカ映画「荒馬と女」には、野生の馬を一人の男が素手でねじ伏せる場面が出てきます。ネバダ州の砂漠で野生の馬の一群をトラックで追い、投げ縄で捉えます。馬は抗って暴れます。やがて、疲れ果てて横転します。馬は缶詰工場に売られて、馬肉になるのです。それを見て、同行している女が衝撃を受けて、泣きながら、男たちを止めようとします。心やさしい青年が彼女の懇願に負けて、縛った馬を次々と解き放します。
 青年の振る舞いに怒った男の一人が単身、怒り狂う一頭に組みつき、血だらけになりながら、その馬を縛りあげます。その男を、女は恍惚の眼で見つめるのです。荒馬を力でねじり伏せて見せることは、男らしさの誇示ですね。そうした強い男に、女は心を寄せるわけですね。
 馬に同情して泣く女にマリリン・モンロー、心優しい青年にモンゴメリー・クリフト、荒馬をねじ伏せる荒くれ男にクラーク・ゲーブル。映画の原題は「The Misfits」直訳すると適応せざる者たち。クラーク・ゲーブルは、スタントマンをつけずにこの荒技を演じきりました。彼は骨っぽく力強い男を演じるトップスターで、日本では「風と共に去りぬ」のバトラー役で知られていますね。彼はこの映画のクランクアップ直後に倒れて亡くなりました。ですから、この作品は彼の遺作になりました。
 荒馬を支配することは文字通り、男が命をかける荒技である証なのです。
*  *  *
 マネジメントする、つまりマネジは、やがて「嫌がる相手に無理矢理いうことをきかせる」意味につながっていきます。2006年公開のイギリス映画「クイーン」原題は「The Queen」は、1997年にパリで事故死したダイアナ元王妃を巡るイギリス女王と国民との確執を描いています。女王は、既に王室を去ったダイアナの死を私的な出来事として、弔辞も出さず弔旗を掲げることもせず、休養先にとどまり続けます。この女王の態度に国民の不満は次第に高まって、やがて、王制廃止を要求する声が上がり始めます。
 心配した首相のブレアーが女王に「今朝の新聞をご覧になりましたか?」と問います。女王は「~managed to look at one or two」と応じます。このmanagedは「仕方がないから、精々、一つか二つに目を通したけどね」といった口調ですね。王室と国民の橋渡しを、とブレアーは動きだします。女王に向かって、頑なな態度を変えるよう、執拗に求め続けます。遂に女王は世論に鑑みて、全面的にブレアーの求めに応じます。
 二カ月後、定時報告に訪れたブレアーは女王に向かって「あのときのお詫びを」と口を切ります。女王が訝る表情を見せると、ブレアーは「とにかく御意にそぐわぬことをした(managed anyway)のでは」と続けます。映像には日本語的な敬語が流れますが、このときブレアーは女王に向かって「あなたの気持に逆らって無理矢理にそうさせたのです」という意味を込めたmanagedを口にしたのです。女王にはヘレン・ミレン、首相にはマイケル・シーン。共にそっくりサンに扮しています。ヘレン・ミレンはアカデミー主演女優賞を受賞しました。
 この映画から、イギリスではmanageが、仕方がないけど~する、無理に~させる、の意味で使われていることが分かります。この使われ方は、私たちが抱くmanagementやmanageの認識とはかけ離れています。日本人が抱く概念は、アメリカ的な概念なのです。イギリス英語とアメリカ英語の間に違いがある、ということです。


                                       


 



平昌(Pyeong Chang)冬季五輪

田原 亞彦  2018.4.21

 このところ、アジアでのオリンピックの開催が続いている。’64年東京の夏、’98年の長野冬、そして’20年東京夏、中国では’08年北京夏、’22年北京冬、韓国では’88年ソウル夏、’18年ピョんチャン冬となっている。これはアジアの存在感や国力・経済力が世界的に評価され向上していることを示している と思う。
 日本は金4個をふくむ13個のメダルで過去最高となった。そのうち男性は5人で、団体競技を入れて女子選手のほう多く獲得している。年齢層でみると他国もそうであるが10歳代の活躍が目立つ」ている。幼少の頃からの育成が不可欠と思われるが、日本も経済的に豊かになったということなのだろう。コーチなども外国人が多いし海外での修行も必要であろう。スポーツを仲介とした国際的交流は非常に効果もあるし重要である。余談だが東京マラソンで16年ぶりに日本新を出した選手に1億円の報奨金授与には驚いたが日本のスポーツ界もそこまで来たかという感じである。
 北と南、北朝鮮と米国、日米と韓国大統領の駆け引き競技も僭越ながら興味深々であった。特に南北そして日本との関係を、古代から長年しみこまれたDNAというか国民性の観点からやはりと思うこともある。ケント・ギルバード氏の「儒教・華夷思想に支配された中国と韓国」の主張を思い出される。これが昨今まで両国の開発向上を阻害してきた要因であり、中国、北朝鮮、韓国の厳然たる序列関係は現在も健在であり、地政学上の位置関係と同じである。韓国人にとっては日本は依然として弟分であり、韓国の現代教科書で教えるとうり、日本に多くの文化を教えたのは自国であるとの意識があり、その日本に長年支配されたことが大きな苦痛なのである。韓国人の目線は対北、中国、日本でそれぞれ違っている。
 米国に住む日本人は120万人、在米韓国人は公式には170万(韓国人口は5,100万)だが実際はもっと多く実質400万の説もある。母国から逃避的スタンスをとるひともいるらしい。
 北朝鮮の金(キム)委員長の妹金与生(キムヨジョン)氏、トランプ大統領の長女イバンカ氏ときしくも同じ時期に政治の世界に権力者のフアミリーの登場である。まあ実力があればとやかく言うことではないが。なぜか気になる。
 スピードスケートで今回金メダリスト」の小平奈緒が、レーの後韓国の前回まで連続2回優勝の選手に近寄り、リスペクト(尊敬している)発言は気持ちの良いことで彼女の人柄がよく現れている。韓国でも好感をもたれているし日韓関係改善にも寄与している。


                                       


 



四季の記憶50「ともに生きる」

鈴木 奎三郎   2018・4・21

 晩春から初夏にかけて、石神井公園界隈は青葉若葉の煙るような緑が美しい。ハナミズキやサツキが咲きほこり、カラスやツバメ、水鳥も子育てや餌探しに忙しく飛び回っている。
 もうここに住んで45年になる。結婚することになった時に、父親代わりの長兄から買ってもらった40坪ほどの建売である。建売は安普請であったのだろうか、子供と犬がいたせいもあり、あっという間にボロボロになり20年ほどで建て替えた。見積もりでは一番高かったが、ツーバイフォーとかいう建築で地震にも強いということである。ここに住まいを決めたのは、石神井公園の存在である。

 会社では若いころ秘書室にいた関係で、盆暮れにはトップの名代で20軒ほどのお宅に届け物をしていた。そのなかにコーセー化粧品の創業者である小林孝三郎さんの私邸があった。石神井池に面した風致地区にあった豪邸は、多分ゲストハウスとしてお使いになっていたようだが、何度か通ううちにこの一帯の景観がすっかり気に入ってしまった。
 ぼくも家人も生まれながらの無類の犬好きであり、散歩コースとしてもこれ以上のところはない・・というのがここを選んだ最大の理由だ。結婚してほどなく子供ができたりしたが、幼稚園に行く頃には最初の犬を飼いだした。以来、今日に至るまで5匹とともに生きてきた。
 
 考えてみたら、犬好きは小さい頃から両親や兄弟の遺伝子に組み込まれていたのではないだろうか。長野市の実家には、物心がつく頃にはポインターやセッターの大型の猟犬が2匹いた。怖いとも思わず尻尾を引っ張たりしていつも一緒だった。当時、早世した父が戸隠や飯綱高原で猟をやっていたことによるが、ある時「もう、殺生はやめた・・」といって猟を止めてしまったそうだ。そんな刷り込みのようなものがあったせいか、小さくても一戸建ての家に住むことが、犬を飼う絶対条件であった。
 現役の頃は日々の散歩もままならなかったが、リタイア後は雨の日やゴルフの日はともかく、毎朝小一時間公園の界隈を廻るのが生活のリズムを作る大事な日課になってきた。散歩の途中では、いろいろな方に会う。顔なじみになった方、初めての方・・いろいろである。

 不思議なことに、犬連れ同士の仲間意識のようなものがあって、必ず挨拶をするようになる。連れている犬の名前は聞いても、相手の名前を聞くことはない。ただし、犬の名前は5,6歩歩くとすぐ忘れてしまうから不思議だ。毎朝会っていた人が急に来なくなったり、新しい出会いがあったりで、公園の散歩の風景も年々歳々変わっていく。年月のほとんどを犬と一緒だと、犬は飼っているのではなく一緒に生きている存在なのだ。
 ぼくが長年つかえた福原義春さん(資生堂名誉会長)も無類の犬好き猫好きで、犬猫にまつわるエッセーを何本も書いている。ずいぶん前のことだが、ある時「人間は30年面倒を見ても3日で裏切ることがあるけど、犬は3日ご飯をあげれば3年その恩を忘れないというよ・・」と言っていたことを思い出す。
 確かに特に昨今のような厳しくギスギスした人間社会では、時に疑心暗鬼になり人間不信に陥ることもあるのだろうか。幸いぼくにはそういう経験はないが、そのような話は枚挙にいとまがない。

 二十四節気の4月節はもう立夏。立夏と聞いてまず思い出すのは、子供の頃に馴染んだ、歌人佐々木信綱作詞の「夏は来ぬ」のメロデイーでる。散歩の途中にこれを口ずさみながら行くと、吾が仔が不思議そうな顔で振り向く。

 花祭よくぞ生まれし吾が仔かな


                                       


 



老いのこだわり

谷川 亘  2018・4・21 

 今年の冬はことのほか寒く、2月に入ってすぐ福井、新潟では豪雪、続いて12日にも北陸地方で記録的大雪。東京でさえ2月に積雪がありました。
 従って、梅の盛りは例年より一週間程度遅れて、10回にも及んだ“追っかけ”撮影も大わらわだったのですが、一方で桜花の方はと言いますと、全く逆で、3月17日に靖国神社の開花宣言がなされるやあっという間に満開。左様ご尤も。3月の真夏日記録なんてめったに聞けないのにこの陽気のせいで競って開花。
 我が家の猫の額程度の庭にある胴囲1.3mの染井吉野も生き長らえて既に半世紀。人間で言えば中高年メタボ。庭師さんに懇願しては“打ち首”を執行猶予してもらい、そのお陰で、今春もまた花咲かジンジぶりを演ずることが出来ました。

 靖国神社にある、東京の桜開花の「標本木」。
 他人さまから見れば、老いの一徹とも言うべき身勝手極まる変なこだわりと片付けられそうですが、開花宣言の、正しくその瞬間に立ち会う事過去数回。今年の桜前線北上の早まっていることを知って、標準木の開花は3月18日と踏んだのがいけなかった。残念無念。開花した17日午前中にはOB会の勉強会でロシア正教東京大本山であるニコライ堂の見学真っ最中。お茶の水と九段下。“近くて遠きは何とかの縁”(逆か?)。至近にありながら、十字切りつつ異教のもとでひざまずきつつも、「ひょっとしたら、今日開花してしまうんじゃないかなぁ?」なんて雑念・邪念が走ったのですが、まさかの思いが図星正解。
 靖国神社境内に入ってすぐ右にある能楽堂の手前に目指す標本木は鎮座まします。
 昨年は、東京が全国で開花一番乗りだろうと聞きつけ、早目早目と気にはしつつも、すんでの違いでうっかり遅参。後悔先に立たずとはまさしくこの事なり。
 一昨年は、3月21日11時に背広姿の気象庁のお役人が、華やぐ周りの雰囲気とは全く逆。背広姿にネクタイ締めて、仰々しく「開花を確認できました・・・」。お取巻き連中一同拍手大喝采したのに、四角四面のお役人さん。こわばって“照れ笑い”したのが印象的でした。
 一昔前までは、日本全国各都市の桜の開花宣言は専ら気象庁の“権限”であったのだそうですが、天気予報に関連する気象情報の提供媒体は気象庁の許認可に基づいて“民間にも払い下げられた”由。従って、一方的な同庁による開花“宣言”ではなく、“報告”なんだそうな。“宣言”と“報告”。どちらの言葉に威厳があるとお考えでしょうか?
 お読みいただいている諸兄姉には、「宣言」でも「報告」であっても意に介されない部類でしょうし、ましてや、開花宣言に間に合うとかその場に居合わせなかったとかの類はどうでも良い、対岸の火事的話題なのでしょうが、我にとっては一大事。
 「老いの一徹」、「自己満足」、「こだわり」以外の何物でもありません。
 まあ、今年は機会を逃したとは言いながら、“来年こそは!!”と、生きる保証と言うか希望を持つことが出来たようです。
 蛇足ながら、オ偉くてお堅いお役人様同士でも、財務省の鉄仮面徹底ぶりとは違い、気象庁のそれはまだまだお堅い中にもご愛嬌。これも、桜花盛りの時節だからなのでしょうか?



                                       


 



酒よ

照山 忠利  2018・2・17 

 先日、お通夜に参列した。型通りの儀式、焼香が済むと所謂、通夜振舞いの席に案内された。折角の配慮を無下にするのも失礼になると思い、「では少しだけ」と腰を下ろした。寿司に天ぷら、煮物と定番の料理が並び、それがなかなかの味とくれば、折からの空腹も手伝ってひとりでに箸が進み、比例して飲み物のピッチも上がる。一緒に座った7名は気の置けない仲間の面々なので、初めの遠慮はなんのその。「故人も賑やかなことが好きだったそうだから」などと言いながら、差しつ差されつの蜂の喧嘩。それでも長居は迷惑との自制心が辛うじて働いて席を立ったものの、このまま別れるのは心残りとばかりに、馴染みのそば屋になだれ込み二次会。「故人の冥福を祈って」献杯を重ねること三度、また四度。さあそれではいよいよこれでお開きとなったけれども、同じ電車で家路についた若干名が下車駅でさらに「締めの一杯」を所望する。そこでまた馴染みの居酒屋の客となり、冷や酒をゴクリ。お通夜の三次会とは古稀男として年の取りがいもない所業に違いない。大いに反省を余儀なくされるところとなった。
 そもそも酒をおぼえたのは大学時代だが、就職したのが偶々酒飲み天国の鉱業会社。採用面接では「君は酒は飲めるか、いくら飲めるか」と必ず訊かれた。入社後の注意事項は「金で問題を起こしたらやめてもらいます。女で問題を起こしたら責任をとってもらいます。酒で問題を起こしたら善処します」であった。グループの中でも古い会社には「公会式目」という明治からの酒席のマナー集が存在し、社員は飲んで乱れずを旨とせよと仕込まれた。さすがに今は酒の飲み方まで教えるようなことはしていないと思うが、昔は飲酒のしつけに厳しいところがあった。というより、飲んで酔狂する故郷の土佐者に手を焼いた創業者が、解雇処分を含む戒律を公会式目として定めたのであろう。(実際飲んで乱行に及びクビになった者がいたそうな)。
 私の酒の飲み方が大きく変わったのは30代後半で炭鉱労務係になってからだ。それまではごく普通に節目の時々に気持ちよく飲んでいただけ。だが労務の酒は、飲むことあるいは飲ませることが仕事であり、酒は戦いの手段であった。坑内労働者を統轄する労務係主任の頃は、毎日毎晩浴びるほど飲んだ。相手は毎日5,6人の坑内夫で差しつ差されつどころか、盃が飛び交う空中戦、盃のやり取りの応酬だ。ここで弱みを見せたら負けとなるので、ひたすら相手に飲ませ自分も飲んでの繰り返し。いわば肉を切らせて骨を断つの勝負だ。目的は一つ。労働者の末端まで会社の施策に協力を求めること。普段からそのような酒席を重ねて信頼関係を築くことが、いざというときに労働組合の協力を得るための不可欠の営みであったのだ。文字通り体を張って酒を飲んでいたのである。よくあなたはおすすめ上手ですねといわれることがあるが、これは昔の悲しい性の証というもの。いかに相手に多く飲ませるか、いかに酒席を盛り上げるかに腐心した名残だといえる。
 時にはもしも酒をこんなに飲まなかったら自分の人生はどうなっていただろうかと思うことがある。あるいはもっと知的な仕事に取り組んで著書の2,3冊くらいは出せていたかもしれないなどとありえない妄想が浮かんだりする。勿論時すでに遅しなのだが、反面酒を飲むことで多くの人と知り合い豊かな人生経験をすることが出来たのだと考え直す。もはや酒は戦いではないのだ。
 これからは遅まきながら「公会式目」の精神に立ち返って節度ある飲み方を心がけねばなるまい。それが通夜の深酒の教訓であろうと改めて悟った次第である。
(了)


                                       


 



西部邁さんの死に思う

大野 力  2018・2・17 

 去る1月21日の未明に評論家の西部邁さんが逝去されたことを新聞で知った。玉川の中での死であったことが、ことさら関心を強くした。 
 私が西部さんに興味を持ち始めたのは、「朝まで生テレビ」に出た時からだとおもう。それまでは左翼崩れの右翼っぽい評論家と思っていたが、彼の博識と論理の組み立の底に、歴史観があることに興味をもち、以後、彼が出るテレビはできるだけ見ることにしていた。彼の思想やものの見方に興味を持ち、思考の広がりに刺激を受けでいた。それだけに、彼の死が残念であり、寂しいとも思う。その死は 事故死なのか自殺なのか、気になっていた。
2月2日の朝日の朝刊に佐伯啓思氏が、氏のコラムの中でこう書いている。
「西部さんは、常々、自身が病院で不本意な延命治療や、施設で介護など受けたくない、といっておられた。もしそれを避けるなら、自宅で家族に頼るほかない。だがそれも避けたいとなれば、自死しかないという判断であったのだろう」西部氏と保守思想と心情を共にし、親交の深い佐伯氏が自死とその訳をそう言うのだから、そうなのだろう。自立自尊を心の奥底とする彼のことだ。
 彼の著書「福沢諭吉」の文庫版のあとがきの一節に「この広大な宇宙と遠大な歴史のなかでは、自分の死生は、蛆虫のそれに相応するということである。少なくとも自分の傍らで、すでに7年にわたって癌病と付き合って、生き長らえてくれている妻のそれと比べると、私の死生の重みは語るに値しない。そんな一匹の蛆虫にすぎぬ者が、書き続け喋り続けただけでなく、飲み続け吸い続けてきたのだと思うと、我知らず、高く朗らかに笑いだしたくなるのである」。
このあとがきは平成25年5月となっている。そこに、自分を一匹の蛆虫と卑下しながらも、妻に感謝し、朗らかに笑いだしたくもある、と書いている。
 この一二年ほど前になると思うが、高野信氏と二人で、哲学者、思想家、文学者たちを中心に、蘊蓄を語り合うテレビ番組があったが、彼の博識とコメントを興味深く愉しんだことを思いだした。高野氏といえば西部氏とは思想も、政治的にも左と右と思われているが、二人は笑みを浮かべながら、あまり激することもなく、余裕すら感じさせ、会話を愉しんでいるようであった。 
 それが、昨年7月9日のBSフジの番組での西部氏の表情と発言は、まるで別人のようであった。ヨーロッパを中心に広がりつつあるナショナリズムとEU問題、中国の覇権主義的な動き、北朝鮮の核武装の現実化、米国のトランプ大統領のアメリカファーストの主張等,問題山積の中での、西部氏の日本への発言は、以前のように先鋭的で、核武装の検討、防衛費の2倍3倍増、憲法の全面改正、と多少興奮ぎみで、過っての西部氏を見るようであった。
 こうも言っていた。防衛大学を卒業し自衛官に任官した若者たちの前で講演を頼まれたことがあったが、そこで、ブッシュ大統領のイラク攻撃は侵略だ、日本が一緒について行ったりしたら世界の笑いものになると云ったら、質問者の中から,どうしてアメリカに付いていったらいけないのか、寄らば大樹の陰ということもあります、と発言した者がいた、この若者が、自立自尊の精神を欠いた将来の自衛隊の幹部になる者だと思うと、こんな自衛隊は信用できない。日本国民も、他人任せで付和雷同、ろくな政治家しか選ばない、自立自尊を忘れたジャップどもだ、と憤怒と侮蔑の吐露は、寂しささえ含んでいるように感じさせた。そこには中谷元防衛大臣と米国人のケビンメア氏が同席していた。  
 西部氏は自著の「福沢諭吉」の中にある、福沢諭吉の言葉、「一国の自立、報国の大義」、「独立の気力なき者は必ず人に依頼する。人に依頼する者は必ず人を恐る。人を恐るる者は必ず人に諂うものなり」との言葉が、彼の心中に強く現れたのだろう。我が国が米国の属国的な状況下にある、と断じる西部氏をこの若者は強く刺激したのであろう、国防の任にあるべき若者への予期せぬ落胆と怒りが,彼の心を強烈に揺さぶったのであろうか。
 西部氏はかねてから、丸山眞男をはじめとして、戦後民社主義を標榜指導するリベラル知識人の多くが、我が国の歴史伝統を軽視し、欧米の思想を無批判に受け入れ、国家国民を欺いている、竹中平蔵はその典型だ、金融資本主義を目途とする新自由主義のグローバリゼーションは、世界のアメリカ化だ、世界に格差の拡大をもたらし、世界の富は極く少数の者に握られる、その結果、民族国民の各々の文化を破壊し、国家は消滅する、と強硬に異を唱えていた。今その傾向にある。
 西部氏は、人間は不完全なものであり、人間の理性も不完全なものだ。近代西欧思想は、それに絶対に近い信頼を置く。そう断じる彼は、近代西欧の思想に疑いを持つ。同時代に不完全な理性に求められる判断に不可欠なものは、「良識」だ。「良識」は、それぞれの同時代に求められた判断が、数世代に亘って歴史に、濾過され続けられ一般化された伝統習慣のなかにある、と主張してきた。
この「良識」を基底に置く考えを、「保守」と言い、自らを保守主義者としてきた。彼の思想は、時には感情的とも感じられる激しい言葉のために、誤解も曲解もされてきた。然し彼はぶれることなく、保守の立場で発言し続けてきた。 
 尖った石のような西部氏がこの世を去って、知識人言論界はすべすべした、丸い小石の集合体になってしまうのだろうか。鋭角的な、鋭く核心を抉るような言葉はもう聞こえて来ないのか。寂しいことである。ご冥福を祈るのみだ。


                                       


 



アジアの世紀

田原 亞彦  2018.2.17

 21世紀からはアジアが世界の文明の中心になる。24世紀頃をピークに28世紀ぐらいまで持続する。これは2014年の12月のエッセイで多少ふれた村山節(みさお)氏の「文明の研究」の説である。「ノストラダムスの予言」はじめ21世紀を予測した多くの未来学の本が出された頃の1975年の著作である。この本の所在が不明だったが、早稲田の文学部の図書館にあることを知りコピーしたものである。
 文明は約800年サイクルで盛衰し、気候の周期と連動している。アジアでの日本、中国、インド、メソポタニアのサイクルは同調しており、ヨーロッパと正反対の波動である。過去400年前をピークにヨーロッパ文明は低迷期に向かい逆にアジア文明が上昇サイクルに入ってくる。20世紀末が交差点になる。
 日本でみると紀元ごろの弥生時代を底に古墳時代の上昇期を経て平安の藤原期にピークを向かえ王朝の崩壊、武家の台頭戦国時代と低下し、1600年の関が原で底をつき徳川、明治、大正、昭和、平成と400年で文明度は平均まで回復してきた。中国では唐がピーク、明が底である。
 西洋では、12世紀ごろの十字軍ごろから上昇し、ルネッサンスを経て大航海時代に入り世界に進出して植民地化をした、英国はじめ産業革命が起こりその頃が山で一次二次大戦と下降トレンドにはいる。
 上昇トレンドのアジア、下降トレンドの西欧、日々の世界の動きを見るとこの傾向に合致する事変が多く、益々確信が強まる様に思える。ユーロの分裂、難民問題、ドイツの苦悩。ベトナム戦争で痛んだ米国は世界の警察官を続ける力が弱り、三大自動車もかげりが見えてきた。自動車生産は中国が首位であり米国西欧よりも多い。2017年の自動車販売は中国が2887万、アメリカ1723万、日本523万、インド401万、ドイツ387万である。
 GDPは中国が日本を抜いて世界第二位になった。半導体も韓国、台湾などが有力であり、AI・IT分野ではインドに優秀な人材が多くいる。株式の時価総額を見ても企業規模は中国が急速に拡大してきている。
 国土面積でみると、ヨーロッパ全土と中国一国と大差ないのではないか。人口は全世界76億人、中国13.8億、インド13億、インドネシア2.6億、パキスタン1.6億、日本1.2億、フィリピン1億で、米国の3.2億、ロシア1.4億、西欧では最多が西独の8200万、ヨーロッパ合計7.2億に過ぎない。人口一人当たりの文化度に差異はあるが、グロスでみると人口の多寡は需要である。
 文明は文化(くらし)に物を加えた観念とすれば、人口減少傾向の日本はどうするか。物の量を追求するよりも、四面海に囲われ四季のある恵まれた自然環境にはぐくまれた世界に稀な日本の伝統文化を大切にしたいものである。オリンピックが海外にPRする良い機会であり、多様性に富んだ文化の進展のチャンスである。


                                       


 



ドッペルゲンガー

山下 弓子  2018.2月

足元でカサリと音がする。下を見れば落ち葉が積み重なっていて、ようやく、自分が何処にいるのか気付いた。見上げれば丸裸の枝に桃色の空。1羽の烏がくるくる回っているのが見える。いつの間にか、森へ入り込んでいたようだ。私は外套の襟を合わせ、足早に歩き始めた。冬の日は短い。日が暮れる前に、どこか泊まる場所を見付けなければならない。しかし空はどんどん暗くなり、森を出る前に、辺りはすっかり暗くなってしまった。
月明かりの中、私は1人途方に暮れて立ち尽くす。この寒空の下、森で野宿しなければならないのか。せめて暖をとれないかとポケットを探ったが、マッチ1本入っていない。諦めて木の根元に腰を下ろした時、闇に浮かぶ小さな光が目に入った。
もしかしたらと近付いてゆくと、果たせるかな、それは一軒の家から漏れる明かりだった。しかし予想に反し、それは森の中にあるような小屋ではない。小さいながらも頑丈な村に並んでいるような家だ。窓は磨りガラスで出来ていて、中の様子は窺えない。
「こんばんは。ごめん下さい」
私は玄関の扉を叩いた。中から人の気配はするが、音は何も聞こえない。
「ごめん下さい」
もう一度叩くと、扉がゆっくりと細目に開き、不機嫌そうな男が顔を覗かせた。
「夜分すみません。森の中で、道に迷ってしまいました。一晩泊めて下さいませんか」

「うちにはお客に出せるようなものは何もありません」
「泊めて下さるだけで結構です。お願いします。寒くて凍えそうなのです」
扉を閉めようとする家主に続けて頼み込むと、男は不承不承といった様子で、ようやく中に入れてくれた。
家の中にはテーブルが1脚と椅子が3脚、火のないストーブが1台、それに奥へと続く扉が1つある。家主は私に椅子を勧め、温かい料理を出してくれた。
「今晩は仕方ありません。けれど、朝になったらすぐ出て行って下さい」
私は改めて礼をし、必ず出て行くと約束したが、主はにこりともしなかった。 食べ終えると、主は私を奥の部屋へと案内した。そこは寝室で、ベッドが1つ置いてある。奥に家族がいるとばかり思っていたので、誰もいないことに驚いた。寝室に人の気配はなく、冷たく静まり返っている。 「今夜はそこで寝て下さい」
主はベッドを指差した。私が1つしかないベッドを使うわけにはいかない。床で構わない。そう伝えたが、主は首を横に振った。
「今夜はそこで寝て下さい。さもなければ出ていって下さい」
私が寝室を使うのを了承すると、主は黙って部屋を出て行き、扉を閉めた。向こうの明かりもすぐに消え、家は闇に閉ざされる。その中で私は考えた。向こうの部屋には椅子が3つあった。一体誰が使うのだろう。
夜中に、私は話し声で目を覚ました。扉の隙間から光が漏れている。家主が起きているようだ。ベッドから起き上がり扉に近付く。とってを回すも凍りついたように動かない。向こうから声が聞こえてくる。鍵を探すが見つからない。私は暗い部屋の中で冷たい扉に耳をつけ、向こう側の音を聞いた。男と女の話し声。割って入る子供の声。楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
翌朝、家主は私に朝食を出しながら、食べたらすぐに出て行ってほしいと言った。太陽が昇り始めたばかりで、家の中は冷えこんでいる。だがストーブはついていない。私はもう一晩泊めてほしいと言ったが、家主は首を横に振った。
「一晩という約束でした。食べ終えたらすぐに出て行って、もうここには戻ってこないで下さい」
私は家から出ると、離れた場所で日が暮れるのを待った。やがて日が暮れ、家に灯が点ると、中から笑い声が聞こえてくる。私は大股で近付き、扉を勢い良く開け放った。
中ではストーブが赤々と燃えていた。テーブルを囲んで、女と子供、それに家主の男が座っている。私は男の顔に見覚えがあった。家に踏み込み、戦慄く指で男を指差し、叫ぶ。

ストーブが倒れ、燃え広がった火が辺りを焼いている。家も、森も、一面火の海だ。その中で、1人の男が何もない空間を指差し、叫んでいる。
「お前だ! お前が全て奪ったんだ! 俺から全て奪ったんだ!」


                                       


 



ルームメイト

鳥谷 靖子  2018.2月

 先月の一月七日の日曜日の御昼前いつものように新宿の京王デパートの入り口で人を待っている。
 昭和四十年の夕方、新宿の東口の中村屋の前で立っていた。「待たせた?ごめんね」。と言いながら信子さんがやってくる。彼女は自分の給料日にルームメイトに夕飯を御馳走してくれていたのである。メニューはカレーライスと御饅頭だった。あの時代はそれがとても楽しみだった。
 あれから半世紀過ぎた今、お互い人生の黄昏の時期を迎えている。
 彼女との出会いは、大学の教務課の下宿斡旋の掲示板に出ていた女子学生限定のルームメイト募集だった。紹介者に電話すると、女子医大の薬局に来るようにとの事、翌日訪ねてみると、薬局長と言う年配の方が出てきて「甥が早稲田の学生でね」と前置きし、彼女がご主人と買った公団住宅に空き部屋があるのでどうか」と言うのである。そして部下の一人がそこに住んでいるからと紹介された。その部下の薬剤師は、小柄で優しそうで美しい目をした人であった。その人が信子さんだった。
 それから公団住宅で二人の共同生活がはじまった。二人でお金を出し合い夕食を作った。働いている彼女より時間の余裕のある私が食事当番だったが、いつも買った惣菜等を並べていた。でもデザートを買う余裕はなかった。甘いものが食べたい年頃「空想で、食べようよ!今イチゴを食べているのよ!イチゴをスプーンで潰しミルクをかけていま~す。甘い果汁が溶けて、口に広がっているところよ。」南国生まれの私の空想の実況中継に、「気分は美味しくなったけど胃袋はねー」と彼女は笑っていた。信州の安曇野出身の信子さんは静かで我慢強い女性だった。翌年妹が短大に入学すると、彼女の給料から妹の生活費を賄ったのだ。信子さん、妹との3人での共同生活となった。
 「私、結婚話が出ているの、どうしよう。」二十代後半にさしかかっていた彼女から相談された。
 大学を卒業して故郷に帰った数か月後、信子さんからの結婚の知らせが届いた。翌年従妹の紹介で彼女の実家に近い大町の工場勤務の人に嫁いだ私を彼女は里帰りする度に訪ねて来た。こちらも実家を訪問し不思議な縁は続き、彼女がより身近な人になった。
 間もなく主人が東京に転勤となり、子供連れで逢うようになったが、信子さんはご主人と始めた薬局の仕事で家事、育児、薬剤師の仕事をこなす日々。「たまに日曜日、新宿で貴女と逢うのが、気分転換になるの。」朝から夜まで働いているのに愚痴一つこぼさない。昔テレビドラマで見た「おしん」の姿とかさなったものだ、
 二十年前夫が胆嚢癌になり大手術を受けた。お見舞いに来た彼女に「どうしたらいい?もうダメかもしれない。手術後腹水が溜り、黄疸も出ているのよ」と言うのを聞いて、彼女は「これをすぐ飲ませて。」とあるドリンクを渡してくれた。この薬の効果は大きく、みるみる主人の腹水も黄疸も消えていった。その後、夫は二十年も元気に働くことができた。現在は府中と練馬と離れているので、たまにしか会えないがお互い助け合っている。
 子供達が巣立ち、一人暮らしで落ち込んでいる私に信子さんは言った。「私は朝九時から午後七まで
 ずっと働いているのよ。まだまだ働くつもり、代わりの人はいないしね。」その凛とした表情と前向きな姿勢は何故か心に響く。
 「そうだ、開き直ればいいのだ。」これまで果たせなかった沢山の夢がある。体力は衰えたけれど、時間はできた。「夢ノート」を作りそれを一つずつ実現していけば、広い空が美しいセピア色になる日が来ると思うから。


                                       


 



春迎え三題噺

横山 明美  2018.2月

 年末年始の数日息子が何年ぶりかで帰ってくるという。友人に話すと興味深そうにその間のことをあとで逐一報告するように言われた。友人にも独身の一人息子がおり、我が家と同様都内に住むものの、元日に来て母親の作った野菜のお煮しめをもくもくと食べて帰っていくのだという。母親の面目躍如ではないか。友人は、日ごろから日本の政治状況をいたく憂えており、時に政府がなってない!などとハガキに書いてきたりする。年下の快男児の彼と教員時代組合活動をしていたようだが、とんがりつつも軽やかに現世を楽しむ彼女と少々線の細い息子と正月のお煮しめとの取り合わせがなんとも面白いのである。
 我が家の久しぶりの珍客は、長の無沙汰を詫びるつもりか照れ隠しか、京都の料理人の作になるというお節を手配していた。独り住まいの姉を暮れから呼んでいたこともあり、あまり忙しい思いをしなくていいよ、ということかもしれない。元日恭しく開けてみると、重箱の中は美しい美術品さながら。色合い、レイアウトとも隙がない。見たこともないような素材が品よく詰まっていた。「いやーすごいね!」と言ったのは送り主の息子本人で、出遅れた私も「まあきれい!」。連れ合いは無言である。たいていのことには与しない守旧派の急先鋒なのである。しかしお正月に賑やかできれいなのは何よりである。箸裁きまでみな上品を装ってちょぼちょぼと口にしたが、なんだか借り物のような気がした。連れ合いの箸窺いを見て私は密かに作りおいたいつもの田舎お節を「まぁおなかの足しに・・・」と出してみると、息子もそれはそれで昔の顔つきで食べてくれたのでほっとしたのであった。翌日息子は自転車で懐かしの小・中学校やその近辺を回り、八幡さまへ参って破魔矢を買ってきた。「一年まぁ皆さん前向きに元気で過ごしてくださいよ」等と年寄りに訓戒を垂れ帰っていった。独身息子を迎えるのも今の世の中が垣間見えて楽しくはあるが、多少の気詰まりもある。帰るほうも後ろ姿にほっとした解放感がありありだが、あって当然であろう。
 老人三人に戻ったので浅草に初詣に、それも延々一時間以上バスに揺られて出掛けた。途中王子の飛鳥山公園を通過する。将軍吉宗の植えさせた桜が春にはどんなにきれいだろう、と想像し、吉原が近づけば当時100万都市だったという江戸の男と女の物語を想い・・・始発の池袋から座って東京見物もできるのである。半分を過ぎたころ背筋のぴんと伸びた年配の男性二人連れが乗り込んできた。一人は太めの人懐こそうなぎょろ目、もう一人は上背のある目元のすっきりとした男前で、ぎょろ目が60代、いなせな長身は70代と見えた。私の前に立つなり話の続きか「しかしああいう人とお茶飲んだりまして酒飲んだりはしたくないよねえ」。口調と様子から仕事の先輩後輩であり、職人さんとかそれに類する人と想像できた。私の隣があくと後輩が「もう十分に座っていい歳だよ」と先輩をグイと押して座らせた。話は次第に浅草に及び「神谷バーというのはね」というところで向かいに一つ席が空くと先輩が目で勧めるのにぎょろ目が「俺は若いからいいのよ」と応じない。「替わりましょう」と腰を浮かすと「いいのいいの」と固辞するからもとの態勢になり、それをきっかけに言葉を交わすことになった。実は私はそれを待っていたのかもしれない。昔から江戸の匂いに憧れがあり、浅草あたりで育った気風のいい娘御が家族になればなあ、などとよく考えていたのである。先輩は浅草の生まれ育ちで、今日は正月の顔合わせか何かで一杯飲んだ後ぎょろ目を浅草案内しようという算段のようだった。
「神谷バーって食べるものもいろいろあって楽しい所ですよね」と言うと俄然勢いづいて浅草談議になり地元ならではの話が満載である。挙句の果てに「じゃあこれから神谷バー行くかい」と先輩が後輩に言い二人が同時にこちらを見て私にまで「どうです一緒に行きませんか」ときっぱりと礼儀正しい様子で言ってくれた。きっと面白い話が山ほど聞けるだろう、とウズウズしたが、姉が一緒で奥の方の席には連れ合いもいる。ついて行けないのを二人は残念がってくれたが、それを私は心底うれしいと思った。それでも私にとってはなんとも幸せな一年の始まりであった。前向きに元気に、は息子の残していった言葉である。


                                       


 



日本の中と外

小林 康昭  20180217

 仕事で外国を旅行することがある。夜、ホテルに着いてから、翌日からの予定を決めるべく、訪問先の相手の自宅に電話を入れるときもある。手持ちの手帳に番号がないときは、客室に備えられている電話帳の援けを借りることになる。例えば、阿部泰三、アベタイゾウ。Abe Taizou、Taizou Abe、Taizo Abe。電話帳を開く。
 列挙されているのは、もちろん、ことごとく、アルファベットだ。だが、表示の様子がおかしい。姓名の順序が予想と違っているのだ。適当なページをめくると、その紙面には、まず姓のSmith,が頭書きされて、次に-Abraham -Antonio -Charles -Douglas -Eugene ・・・、とアルファベット順に添え書きされた名が続く。その後に、個々の電話番号が来る。つまり、姓が初めに来て、その次に名が来る。これって、日本式の表記と同じだ。姓で検索する方が、効率的で便利だからだ。名で検索しようとすると、お手上げになるかもしれない。
 このような例は、多く見られる。例えば、学術論文の巻頭に表記される執筆者名は、基本的に姓、名の順に表示することになっている。KOBAYASHI、Yasuaki というように。この場合、姓の後に必ずコンマ(、)を付けて、その後に名を書く約束になっている。姓の綴りを大文字にする習慣もある。こうすれば、混乱は起きない。
 日本人は、外国語で文を書いたり外国語で喋るときには、日本の習慣を無視して、名を先に、姓を後にする。それでいて、外国人の姓名を日本語で語るときには、現地の呼び方のまま、名を先に姓を後にする。決して日本式に姓を先に名を後にとは変えない。そのような不均衡な習慣の当然視は、悪しき習慣、と決めつけておきたい。外国語で書いたり語るときでも、日本での習慣を、そのまま、押し通して良いのだ。押し通しているうちに、彼らも、日本人の習慣を理解して、それに合わせて呼びかけてくるようになる。
 国際会議で名札に、姓を先に名を後にして表記すると、司会者や出席者は、必ず姓で呼びかけてくる。この表記を逆にして、見知らぬ人から、名前で呼びかけられると、違和感以上に嫌悪感がある。日本では「名で呼びかけるのは、両親だけなんだ」とコメントすると、相手は分かってくれる。
 今は、多様化が進むグローバル時代だ。欧米人も、異なる文化圏の文化にも応ずるべきなのだ。
*  *  *
 名称の順序で気になることは、国際郵便の住所表示だ。欧米では、個人名がまずあって、その後に、番地、町名、県や州、国名の順序に書く。日本はその逆だ。個人名は最後に来る。日本側の差出人が、自分の日本国内の住所表示を、欧米流に書く人が多い。アルファベットで書く場合でも、日本側の住所は日本流に、つまり、日本国、東京都と大きな方から書くのが良い。その方が、日本側の郵便の仕分けや配達で、楽なはずだから。
*  *  *
 名称の表記で、気付いたことがある。それは、国際大会などで日本自身が、日本の国名をJAPANと表示する習慣がある。英語圏の国が皆無な場所でも、Japanで押し通しているのは無神経極まる。
 日本人として、あるいは日本国として、NIPPONよりもJAPANの方が良い、将来は改称したい、と思っているのだろうか。決してそんなことはないはずだ。だったら、NIPPONで押し通すべきだ。因みに、1964年の東京五輪では、日本の全選手のユニフォームはNIPPONだった。理由は分からないが、その仕来たりを変えてしまったわけだ。
*  *  *
 ついでに、もう一つ。ユニフォームにつけられたアルファベットの文字。曰く、KEIO、HOSEI、などなど。これを文字通り読むと、ケイオ、ホセイである。どうして、慶應義塾大学、法政大学と、漢字で表示しないのだろう。そのほうが一目で読みとれて、わかりやすいのだ。敦賀気比、作新学院という好例もあることだし。
 漢字がアルファベットよりも解読しやすいことは、開会式で選手団の前に立つプラカードが漢字で表示していることからも分かる。あれがアルファベットで書かれていたら、観客席からは到底、解読不可能だ。
 外国のまねをして、わざわざ、分かりにくいことをすることは、愚の骨頂である。
*  *  *
 同じような、愚の骨頂の例を挙げる。数字の3桁毎の位取りのことだ。
 例えば、67,613,224の表記。これを、六千七百六十一万三千二百二十四と読む。職場で帳簿や計算書を扱っている輩は、この位取りでも、千、百万、十億、兆を読み取ることが出来るが、その経験がない人は、一々、数字を下から一十百千万十万百万・・・、と数えていった末に、ようやくその数字の大きさがつかめる。こんな位取りは、全く役に立っていない。不便なことおびただしい。
 慣用されているこの位取りは、英語圏のthousand(千)、million(百万)、billion(十億)、trillion(兆)に合わせたものだ。違う数詞に位取りを合わせるなんて、全くの愚の骨頂だ。国内では日本語の数詞に合わせて、6761,3224と表記する位取りに徹底すべきなのだ。どうしても3桁を堅持したいなら、日本語の数詞を変えるべきなのだ。


                                       


 



四季の記憶49「荻窪病院511号室」

鈴木 奎三郎   2018・2・17

 前の首相・大平正芳さんがよくいっていたそうだ。「トシをとったら風邪をひくな、転ぶな、義理を欠け」。この3つを老年の戒めとしていたのだ。つまらないことを言う人だな・・と思っていたのは高校生の頃であったろうか。しかしこれがわが身に降りかかってきた。12月下旬のある朝、犬の散歩中に転んでしまい、なんと左の大腿骨骨董部骨折という怪我に見舞われてしまった。キャリーバッグのゴロゴロという物音に驚いた30キロの愛犬が、ぼくの背後に走り込んできて、リードが両足に絡みつき、なすすべもなくコンクリートの道路に転倒してしまった。立ち上がろうとしてもどうにもならない。事故は一瞬のことで、もちろん愛犬のせいではない。すべては自己責任である。
 
 考えてみたら、去年は3、4月頃に奥歯の歯周炎に悩まされ、7月に滅多にひかない風邪、10月になかなか治らない風邪をひきゴルフを数回キャンセルした。あげくの果てに、泊まった宿で南京虫!!にさされて、2週間も痛みと痒みが続いた。南京虫なんて、遥か昔友人の下宿でやられた時以来のことだ。二つ並んだ噛み跡が円形に点々とついている。気のせいか食欲も減りそれにつられて意欲も落ちてきた。その最後が骨折だ。
 長野在の長兄はよく「人間には70才と75才の壁があるぞ‥」といっていたが、これが75才となった壁なのであろうか。仲間内でも元気がって若ぶっている人ほど危ない。ぼくもその一人であった。

 救急車で向かった自宅近くの荻窪病院は、数年前に急に心臓が痛くなり出向いた病院で(肋間神経痛で数時間後には治った)、ここの診察券を持っていたためのとっさの判断だった。毎年人間ドックにはいる、荻窪の衛生病院よりも自宅に近いしいいのではないかという咄嗟の判断だった。ストレッチャーに乗せられてレントゲン室に連れていかれたが、痛みは我慢するとしても、この自分が病院に担ぎ込まれること自体がなさけなくてショックだった。要するに根拠のない“過信”というやつだ。健康寿命も経済寿命も多少の長短はあってもいずれ限界が来るのだ。それが寿命というものだ。
 辛かったのは、入院して手術を受けるまでの5日間だった。寝返りを打つこともできず、ほとんど身動きが取れない。寝たままの状態で排便をすることは至難の業だ。少しでも早く手術を・・とお願いしたが、人工骨頭はオーダーメイドゆえにすぐには間に合わないとのこと。

 3時間に及んだ手術は、多分うまくいったのであろう。翌日から早くも歩行訓練が始まった。B1と1階のリハビリルームは外来の人たちで一杯である。ほとんどの方は高齢のようだが、なかには若い人もいる。どうしたんですか・・と聞いたらスノボで転んだそうである。スキーに代表される冬のスポーツは、怪我をすると半端じゃない。捻挫、骨折などいろいろで、木に激突して亡くなる人もいる。整形外科のフロアは5Fにあり、ここは当面命に係わる患者ではないので雰囲気は比較的明るいとのこと。
 まさか年末年始の4週間を病院で過ごすことになるとは思ってもみなかった。30余名の方がお見舞いに来てくださったが、あり余る時間をどう過ごすか・・。パソコンは持ち込めないので、300枚の年賀状を手書きした。あとはテレビを見たり本を読んだり・・ところが不思議なことになにをやっても集中できない。ましてや俳句作りもその気が起きない。看護師さんやリハビリ担当の人は日にちと時間によって目まぐるしく変わる。手術を担当した女医さんは転属であっという間にいなくなってしまった。配膳をする人、掃除をするひと・・完全な分業システムができている。その流れを見ていると、自分が物流ネットワークの生鮮食品のように思えてくる。

 5Fの病室からは、真っ白い富士山が6号目あたりからよく見えた。曇天で見えなかったのは1,2日だけである。冬晴れの富士の嶺に日々励まされた。本当に関東は冬の晴天が素晴らしい。それに引き換え吾が故郷の長野市は、冬場はほとんどが曇りか小雪である。気温もほぼ札幌並み。8年前に100才で亡くなった母は「トシをとったら、暖かいところで暮らしたい・・」とよく言っていた。この冬は寒さが厳しい。それでも温室にいるような入院はもうこりごりだ。