エッセイ同好会12月例会(第62回)報告

平成26年12月20日(土)今年納めの例会を開催、年末の多忙な中にもかかわらず16名の会員が力作を持ち寄った。時節柄この1年を振り返った回顧物が多かったが、発表は自ずから熱を帯び作品をめぐるやりとりも活発で、予定時間をオーバー、残りは酒席へ持ち越しとした。発表作品は次のとおり。

江蔵忠道   久しぶりの早慶野球を観戦して
大野 力   親しい友人がまた一人逝ってしまった
岡本龍蔵   エッセイに書いたことのその後
加藤裕明   豊田英二さんの思い出(その2)
小林大輔   異色のカップル
小林康昭   暴く
谷川 亘   忍び寄る影におびえる
田原亞彦   経済成長は限りない
田村公雄   金婚式
寺村久義   私の青春
照山忠利   年賀状あれこれ
内藤雄幹   サコージュ
華岡正泰   老、老&老
古内啓毅   母と妻と娘
本田はじめ  天の橋立と丹後国分寺探訪
柳 洋子   大正期-洋裁専門学校の夜明け-
鈴木奎三郎  四季の記憶31「四季は巡り・・」(作品参加)

例会終了後、折からの氷雨の中で忘年会を開催、1年を振り返りつつ来年にかけての抱負など述べ合いながら大いに痛飲、満足感に包まれながら散会した。
以上
幹事  照山忠利




 



エッセイ同好会10月例会報告

平成26年10月18日(土)、第61回例会を開催した。この日は稲門祭の前日ということもあり行事が立て込んだのか6名が欠席、14名が力作を持ち寄った。
発表作品は次のとおり。

大野 力    再生への覚悟に期待する
岡本龍蔵    ドイツ旅行と中野学生寮と英語力
加藤裕明    66才の挑戦
小林康昭    謀る
鈴木奎三郎   四季の記憶30「ぼくのシネマ遍歴」
竹内尚代    保養活動から見えてきた福島のこと
谷川 亘    我が懐かしの柴又界隈
田原亞彦    陶の薪焼成は究極のエコか
寺村久義    墓じまい
照山忠利    方寸の空
内藤雄幹    農業問題
華岡正泰    道徳心
本田はじめ   定年と人生
柳 洋子    大正期―服装教育の実像 その1―

例会終了後、高田馬場駅近くの居酒屋に場所を移し、反省会と称して大いに気勢をあげた。
(文責:照山忠利)




 



エッセイ同好会8月例会報告

お盆送りの平成26年8月16日(土)、第60回の例会を開催した。節目の記念の例会なので、それぞれご先祖様には罰が当たらないよう特別に了解をいただいて参加したという16名の面々。折からの暑さを吹き飛ばす勢いで作品を発表した。
毎年偶数月に開催して年に6回、10年の歴史を刻んできた計算だ。会員の熱意と努力でつないできたエッセイ同好会。発足時からのメンバーは60篇の作品を持っていることになる。振り返って読み直してみるとその時々の日記であったり、自分史であったりして、積み重ねてみれば優に一冊の本に匹敵するものだといえる。これを機にさらに精進努力し、自らを磨いていきたいと決意を新たにしているところである。
今回の発表作品は次のとおり。(今回から作品の内容を閲覧できるようにしました。)

石岡荘十   それでも、STAP細胞の存在を信じて
江蔵忠道   神田 沙也加さんという女優
大野 力   冗談は下心の表出なのか
岡本龍蔵   四国旅行とひまわりと沈下橋
小林大輔   三遊亭圓窓師匠
小林康昭   学位論文の審査事情
谷川 亘   余計なお節介ですが・・へそ曲がりの仮説
田原亞彦   道教
田村公雄   夏のひととき
寺村久義   お遍路
照山忠利   リケジョ
内藤雄幹   プラチナ世代とフレイル層
華岡正泰   パン食
古内啓毅   男性も80歳超え、だが
本田はじめ  脊柱管狭窄症とのつきあい
柳 洋子   大正期-服装界の実動開始-
*鈴木奎三郎  四季の記憶29「アルジャーノンに花束を」(作品参加)

例会終了後、60回記念の暑気払いを盛大に挙行し、会のさらなる飛躍を誓った。
(文責:照山忠利)







 



エッセイ同好会6月例会報告

平成26年6月21日(土)、梅雨の合間を縫って例会を開催しました。集まったのは老若男女(?)16名の精鋭たち。15:00から気合のこもった作品をそれぞれ読み上げて発表、17:30に終了の笛。試合に勝った日本チームのような充足感に包まれながら、反省会場へ。
乾杯後の我がチームは、当日あったW杯コロンビア戦の分析から、集団的自衛権、ウクライナ・イラク情勢、都議会のセクハラやじなどなど談論風発、やれ老後だ孫だ病気だといった類の話は皆無で、この手の会合には珍しい意気とパワーに溢れていました。やはり若さを保ち認知症を蹴飛ばすにはエッセイ書きが一番と得心しながら散会した次第です。
次回は8月16日(土)、お盆の最終日ですが第60回の節目の例会となります。先祖供養と暑気払いを、罰が当たらないよう気をつけながら行う予定です。
ちなみに今回の発表作品は次のとおり(内容を紹介できないのが残念ですが、想像してみてください)。

石岡荘十   崖っぷちに立つ小保方さん
江蔵忠道   白金台の八芳園
岡本龍蔵   人間ドックと内視鏡検査
加藤裕明   頑張れニッポン!!
小林康昭   辞書を編む
鈴木奎三郎  四季の記憶28「無駄になったタキシード」
谷川 亘   “老い楽園”での焦り
田原亞彦   古代史探訪 大和
田村公雄   楢山節考
寺村久義   家族葬
照山忠利   NPOの旗を立て
内藤雄幹   鱧の骨切り
華岡正泰   ネクタイ-雑感-
古内啓毅   父の日
本田はじめ  日本の子どもにもっと日本を教えよう
柳 洋子   大正デモクラシーと服装界

(文責:照山忠利)




 



年賀状あれこれ

照山 忠利  2014.12.20

 今年はいわゆる喪中はがきの到来が多い。今年はというよりここ最近はという方が正しい。とにかくそういう年回りになってきたということだ。自分の場合は義父母も含めて両親はすでになく、「喪中」を出すことは当分ないだろう。「喪中」が来るとその人には年賀状は出さないのが一般的だが、いやいや喪中はがきを出した人が欠礼するといっているだけで、こちらから出すぶんには差支えがないんだという人もいる。私は一般論に従っている。
 年賀状はいったいどんな由来を持っているのだろうか。古来、正月にはお世話になった先に年始の挨拶に伺うのが習わしとされてきたが、明治になって郵便制度ができてからは挨拶回りを省略して書状をもってこれに代えるようになったというのが定説のようだ。本来挨拶に出向くべき先はそれほど多くはなかったはずだが、はがきによる“書面挨拶”の手軽さにより、ふだん付き合いのある先にはすべて出すようになって年賀状が広く普及したようだ。
 こうした事情を知ってか知らずか、年賀状は一切出さないというヘソの曲がった御仁もいる。あるいは「高齢のため年賀状は今回で終い」と予告する人がいる。これを目上の人に対してやったおかげで「まったく生意気な野郎だ」と怒りを買う破目に陥った人も。また、何の前触れもなくある年から出状をやめてしまう人がいる。こちらは律儀に毎年出状するのだが、2年続けて来信がないことでやっと手違いではなく「確信犯」であることに気づいたりする。最近はインターネットの普及で、年賀の挨拶をメールで済ます人がいる。若い人たちにはこういう簡便派が多いようだ。
 年賀状にこだわった人としては作家の池波正太郎が有名だ。毎年春には自分で描いた翌年の十二支の図柄の印刷を終え、夏から秋、師走にかけて少しずつ宛名を書き、完成した1000枚を受付開始の日に郵便局へ持っていったという。「そんなに早く書いて、死んだらどうするの」と妻に問われて、「そのまま出してくれ。みんな池波正太郎の年賀状を待っているのだ」と答えたそうな。やつがれのごとく年末ギリギリになってやっと投函するずぼら者には、まるで年賀状の神様のように思える。
 PCにプリンターが身近になった現在では、年賀状作成に係る手間は著しく軽減されている。昔は忘年会の合間を縫って、宛名から裏面の一筆まですべて手書き。右手中指にペンだこをつくりながら、終いには徹夜で書いた。長ったらしい地名は恨めしかった。始めは100枚にも満たなかったと思うが、会社生活で転勤を重ねるごとに知己が増え交際が広がるにつれて友人ができて、最盛期には700枚位になった。会社リタイア後はこれではいかんと枚数削減に取り組み、今では何とか500枚を切るところまで来た。しかし賀状はもらったら返信を書くのが礼儀といわれ、結局は縁が薄くなっても賀状付き合いは延々と続き、なかなか減らせない。家人には「年金生活なのにそんなに出してどうするの」といわれるが、“高齢につき”と縁切り宣言を出すにはまだ早いし、相手先から来なくなる自然減に頼るしかないのだろうか。年賀状は出すのは億劫だがもらうとやはり嬉しいもの。一筆添え書きがあればなおよろしい。小生の年賀状作りはこれからが本番である。ああ忙しい。
                                   (了)
                                     


 



四季の記憶31「四季は巡り・・」

鈴木 奎三郎

 旧暦11月の中気は冬至になる。現行歴の12月22日頃である。冬至は一年のけじめをつけるような感じがあり、一番日の短い寂しさもあるが、これからは畳の目ひとずつのように日が延びて、やがて春が来るいう期待感が高まる。
 「麗子像」で知られる岸田劉生とともに、洋画壇で活躍した椿貞雄は、冬の初めに求めた一個の冬瓜を写生した作品を数多く残しているが、そのうちに春になり、その冬瓜がドロドロに腐るまで描き続けたという。ちょうどルノワールが薔薇の花を枯れるまで描き続けたのと同じである。生あるものは盛りも美しいが、滅びる時の美しさはまた別なのであろうか。われわれホモ・サピエンスは、なかなかこうはいかないのが現実だが・・。

 さて今年も新年を控えて年賀状を準備する時期となってきた。例によって今年も30枚超の訃報が届いている。そのなかに親しくしていた高校の友人のものもある。去年の秋にはゴルフを楽しんでいた仲間である。剣道部で活躍していた頑健な男であった。亡くなる2週間前に「不治の病で、余命いくばくもないことを宣告された。長い間、ご交誼をありがとう。どうかお元気で・・」というメールを貰った。消去するのは忍び難く、未だにメールボックスに残したままだ。
 数年前から毎年3,40枚ずつ、ご縁の薄くなった方や亡くなった方の分が減ってきているが、ピーク時には600枚出していたものを、今年は思い切って350枚に減らすことにした。出すから来るのか、来るから出すのかわからないが、これも“終活”のひとつとして割り切ることにした。「年年歳歳花相似たり。歳歳年々人同じからず・・」という唐詩選にある名句が実感を持って迫ってくる。

 ここ数年年の瀬になると、どういうわけか自分のトシのことをぼんやり考えることが多くなった。つい先日も都心まで出かけた帰りの電車の中で、吊り革をつかんでボンヤリ窓外の景色を見ていると、小学校の低学年とみられる男の子に服の裾を引っ張られた。その子が指差す先は優先席の空席である。同じようなことがこれまで2,3回あった。老いは自分の内側から訪れるというより、ある日他人によって突然知らされるものなのだ。これまでは「年のワリには若いよねー」などとお世辞をいわれてその気になっていたが、それはおおいなる幻想で、人は放っておくと自分がトシをとったとは本気で思いたくないのかもしれない。それは、小さな子が自分の死を考えることがないのと同じである。
 しかし否応なしに、このところ自分の老いを感じざるを得ない身体的なトラブルが起こるようになってきた。父母から受け継いだ軽量で細身の体形は、70歳過ぎの今でも20歳のころから変わっていない。成人病の人間ドックの検査でも、これという異常は皆無で、ほとんどの数値が正常の範囲内だ。少々体力気力の減退を感じる程度で、薬やサプリメントに頼ったこともない。これまで健康のことや食べ物のことを気にしたこともないし、体調や病気のことをあれこれ言う友達を少なからずバカにしてきた。

 しかし、敵は思いがけないところから攻めてきた。腰痛と肘痛である。腰痛は若い頃にも2、3回経験しているが、1、2週間もすると何もしないうちに治っている。ところが今回はなかなかすぐには治らない。そして、思いもかけず新たな左手の肘痛という敵も現れてきた。もう4、5か月になる。消炎鎮痛剤入りの湿布薬や塗り薬を試しても良くならない。整形外科でレントゲンを撮ってみても、骨には異常がない。考えられる原因は、左手でコントロールする大型犬二匹の散歩か、年間数十回のへぼゴルフのいずれかだ。その原因はともかく、要するに加齢による老化の故なのだ。加齢といえば聞こえはいいが、体の“劣化”である。そう考えると、あれこれ思い悩まずにこれらを受け入れうまく付き合わざるを得ないのだ。

 誰にでも訪れる老いに関し重要なのは自然体であること。70なら70、80なら80の年齢に応じ体力も筋力も衰える。それでいいんだと思えば割り切りもつく。いずれ訪れる死をどう受けいれるかは、宗教も絡むことかも知れないが、そこに至るまでの老いていく日々を謙虚に自然に受け入れる心を作りたいものだ。四季は巡って必ず春は来るが、人の四季は一巡したらジ・エンドだ。

        2014・12・20記 鈴木 奎三郎

 



 



暴く

小林康昭  20141220

 車は闇の中を、徐行しながら進んだ。夜更けの道路には、車も通行人の姿もなかった。街灯も、建物から洩れる明かりもない。隣の男が、頻りに外を気にした。彼が現地語で運転手にささやくと、車は静かに停まった。
 車が一台、通り過ぎた。テールランプが、先の角を曲がって消えた。「つけられていたのかも・・・。今夜は戻りましょう」 男は英語でささやいた。
                *  *  *
 2週間前のことだ。「直ぐに、R市に行ってくれ」 専務から唐突の命令である。B国の首都、R市の国際空港建設の国際入札に、約240億円で応札していた。社会主義国の常で、入札結果は公開されない。応札した会社が個別に呼ばれて、交渉に入る。多分、その交渉役を任されたのだろう、と勝手に合点する。
 現地に一人で、乗り込むことになった。国際線を乗り継ぎ、夜更けにR空港に着いた。B国唯一の国際空港。だが、貧相な空港だった。B国は、国際金融機構の融資で、ここを近代的な空港に作りかえる。
 指定されたホテルに、チェックインする。ほどなく、M社の支店長がやってきた。M社は、我社の現地代理店である。彼の指図に従うこと、が専務の命令だった。荷を解く間もなく、現地人の服装に着替えさせられた。見る間に、貧相な現地人姿に変身する。“彼”に伴われてホテルを出た。
 走り出した車の中で、“彼”は「ホテルの部屋は、盗聴されているので」、と前置きして、事情を語った。社会主義の国には、特有の不気味さがある。
                *  *  *
 しもた屋風の民家で、現地の男たちが待っていた。テーブルの上に、書類が載っている。S社の入札書類だった。一人が書類を叩きながら「コイツのアラを見つけてくれ」と叫んだ。
 ドキリとした。(これは犯罪では? 入札書類は政府機関の奥深く厳重に保管されるのだろう? 話が違うではないか!)  “彼”が、目くばせをした。
 この国では、外貨融資の事業に、高位高官が介入する。そして、目星をつけた応札会社を籠絡する。その会社の入札価格が最低ではない場合、入札価格の低い会社の入札書類に、難癖をつける。交渉の場で入札書類をあげつらって、その会社の入札価格を、目星をつけた会社よりも高く吊り上げる。この類の裏工作は法律の外だ、というのである。
 我社は目をつけられ、S社は邪魔になった。私は、裏工作の修羅場に投じられたのだ。S社の入札価格を、我社よりも高くすること。これが、任務である。S社を出し抜ければ、契約にありつけるのだ。「目立たないように」と言い置いて、“彼”は帰って行った。
                *  *  *
 S社の入札価格は、現地のB国通貨と、S社の本国の通貨と、米国ドルの、3種類で成っている。B国通貨は、現地で調達する資材や現地人雇用の賃金に充てられる。S社の本国の通貨は、S社の本国国籍の従業員の給与やS社の本社経費に充てられる。米国ドルは国際通貨として、B国内で手に入らない資材や機械の国際調達に充てられる。
 そもそも、この国は、社会主義国の常として、外貨の両替も、資材や機械の輸入も、政府の厳しい管理下にある。すべての物流が、配給で規制されている。だから、入札時点で必ず、工事に必要な通貨や外国で調達する資材や機械を正確に申告して、政府機関の承認をとりつける必要がある。窮屈で極まりない規制が、逆に、うまみを吸う輩の、暗躍につながっている。
 S社の入札価格を、円換算すると、我社よりも5千万円低かった。S社の金額を5千万円以上高く、釣り上げる必要がある。
                *  *  *
 我社に較べて、S社のB国通貨が異常に少ない。そして、米国ドルが多い。同じ工事をする我社とS社の間で、大きな違いは不自然である。その理由を考えてみる。
 米国ドルの、使い道がミソである。S社と我社の、米国ドルの差額をB国通貨に換算してみる。正規の換算レートでは、両社の差額は変わらない。だが巷では、正規のレートで両替するバカ者はいない、という。
 闇のレートは、正規のレートの2倍。つまり、B国で1ドルを闇で両替すると、正規で両替する2倍のB国通貨が手に入る。闇の換算レートで計算してみる。
 すると、3千万円の含みが出た。S社は、米国ドルを余分に確保して、それを闇で、B国通貨に両替して利ザヤを稼ぐ、と勘繰ってみる。闇の通貨操作は、B国では犯罪である。S社は否定するだろう。だが、事実でなくても、言いがかりを付けられれば、目的達成である。それには、出来るだけ沢山の尻尾を掴みたい。
 用済みになった書類を返すと、次の書類が渡される。一度に全部の書類を、持ち出せないのだ。しかも、一冊ごとに作業場所が変わる。男たちは、暴露されることを、怖れている。
 工事完成までの5年間の、両社の請求金額の予定を、較べてみた。書類をひっくり返して、検算を繰り返す。S社は我社よりも、工事開始直後の前半に、請求金額が集中していた。工事金額の請求を前倒しして、早めに入金しようとする意図がある。早めに支払いを受けられると、資金繰りが楽になって、金利の負担が減る。その分だけ、入札価格を安くできる。
 我社の請求予定に合わせてみる。その差額、2千万円。S社の金利稼ぎの魂胆が分かった。これで、あわせて5千万円。問題の差額は、埋まった!
 折から交渉の場に、S社が呼ばれたようだ。連日、知恵を絞った成果が、追及のネタになっている。S社は、追及をかわしている、との噂だ。S社を推す勢力が逆襲に出て、返り討ちに遭わないように、まだまだ、手を緩められない。
                *  *  *
 S社が申請するセメントの量は、我社より2割も多かった。2割も差が出るのはおかしい。B国では、公定の配給以外に、セメントを手に入れる手段はない。だから、巷では、セメントは貴重品なのだ。S社は、この2割のセメントを、闇に流すつもりかもしれない。
 闇の値段は、公定の1.5倍。公定価格で手に入れたセメントを、1.5倍の値段で闇に流す。その収入で、入札価格を安くできる。思惑に添って、計算してみる。差額が3千万円。
 その手で、石油、採石、木材、煉瓦・・・、添付された配給申請書を、嗅ぎまわる。次の書類が運びこまれる別の家に、夜更けになって移動する。隠密行が、2週間以上も続いた。
                *  *  *
 次の作業に取り組もうとする矢先、“彼”が現れた。「すぐ、帰国してください」 慌ただしく片付けて、空港に駆け付ける。
 搭乗機が離陸すると、途端に緊張が解けた。客室乗務員に、肩を叩かれて目が覚めると、機内には自分だけが残っていた。
 数週間後、専務が営業担当役員を伴って、R市へ赴いた。契約調印のためである。

                                     


 



経済成長は限りない

田原 亞彦
 
 世の中には二律背反することが多い。経済の成長・拡大と環境の悪化・資源の枯渇の問題もその一つだろう。。正しい解決策があれば、ノーベル賞ものではないか。経済が低迷すると、政治も不安定になる。誰もがより豊かになりたいと思っている。その反面環境や資源など自然が破壊されてきた。特に20世紀以降、世界の人口は4倍、総生産は2006年で24倍に急増している。日本の人口は19世紀末に約3100万、20世紀初めは約4400万人である。日本の総生産は同じ期間で55倍、一人当たりの総所得は19倍である。
 人間の欲望には限りがない、更に上を求めて行き着くところがない。経済力のある人・民族・国は大きな力を武器に他を威圧し、物事を正当化・正義化してきた。戦争はその一面である。国力イコール経済力が現実である。日本はバブル以降GNPはほぼ横ばいではあるが、世界的にみればある程度の、ほどほどの豊かさの水準に達したのではないか。
 ただ、人・国の競争心は如何ともしがたい。油断すると何が起こるか解らないのが現実である。常に上昇・拡大していないと安心出来ない。心理的にも健康的にも暗いよりも明るく、不安定より安定が望まれる。生き物の定めかもしれない。
 環境・省資源には、LEDの発明のような素材開発や製造過程の省エネルギー化などが更に期待される。西洋文化はキリスト教の教えもあってか、自然に対して対抗的・改革的・効率的に開発・対応してきた。物(畜産物も含んで)に対する姿勢・マインドがわれわれ東洋人とは大分違うように思われる。消費が需要の過半を占める米国では、景気浮揚のために過剰消費するなどはその典型ではないか。物を大切にしない使い捨て文化である。
 今、廃棄物やゴミからの再生技術は様々なコストの問題は有るが、向上が望まれている。新しい資源を求めての深海底探査や、はては宇宙開発に資金を使うのもよいが資源のリサイクルも重要ではないか。
 東洋人は自然を重んじ、自然と共生しているように思う。木材から住居や身近な生活用品をつくり、漆で仕上げて長持ちさせたり、再加工などして、物を非常に大切に用いているように思える。東洋的・日本的な自然や物に対する見方や接し方がもつと世界に広がれば少しは良い影響がありはしないだろうか。
 「文明の研究」(村山 節著)によると、世界の文明は8世紀のサイクルでその覇権が変遷しており、21世紀以降はアジアがその中心になるとしている。
 精神面でも東洋的なものが世界に広がっても良いのではないか。「足るを知る」精神。ものに対する感謝の精神。物よりも精神面の満足感を求める考え方である。また芸術は今後ますます豊かな文化形成に役立つことだろう。
                    2014・12・20

                                     


 



忍び寄る影におびえる

谷川 亘  2014年12月20日
 
 今更、鏡に映る自分の顔にうっとり惚れ込む。なあんてあろう筈もなく、ただただ見苦しく、思わず、手で払い除けたくなるようなシミや黒点が散在する。
まあ、後期高齢者なのだから仕方ないとしてこの類の崩れは我慢しよう。
「桑原、桑原」。しかじか左様で、我が脳味噌の表面にだってこの手の異物が付着しているであろうことは容易に察しがつく。
 認知症、中でもアルツファイマー型のそれは、加齢に伴ってひたすら増え続けていると聞く。専門的には、βアミロイドなる蛋白質のならず者が脳細胞に蓄積し、神経が破壊されて脳が委縮することにより脳機能が低下するのだと言う。
気掛かりなのは、この“悪玉菌”は長年にわたって徐々に蓄積するらしく、進行に個人差はあっても後の祭り。今更手の打ちようのない宿命的現象であると言う事らしい。

 数年間遡った辺りから、どうも固有名詞、花鳥の部類や会った人物の名前がスッポ~ンと抜ける。意識すればする程思い出せない場面が増えてきているような気がする。人ごみで旧知の方とバッタリ。脳中の血液を海馬に集中させても出てこない。思わず「どちらさんでしたっけ?」。「〇〇です」。「いや~、苗字じゃなくでお名前ですよ・・・」。
 ウォーキング途中、池の端でお目にかかった三角錐のかっこよい大木。看板に「メタセコイア」。帰宅するまで覚えていられるかなあ?と懸念したものの、戻ればスッコーン。哀れと思うより悔しい。臆面もなく公園に電話して樹木の名前を聞く。ご親切にも、似て非なる樹木に「ラクウショウ(落羽松)」と言うのもあることを教わる。聞くは一時の恥。読者諸兄姉はこの違いについてご存知でしょうか?
 飲酒に及ぶとアルツ・ジンジは絶好調。どこをハシゴしたのか思い出す余地すらなく瞬時にして熟睡の彼方。夢でまで人の名前を忘れる。「君の名は?」。眼前に浮かぶ笑顔が話しかけてくるのだが誰か分からない。目覚めて正気に戻り、それからが大変。
未明のパソコン起動。いうなれば日記帳。「行動の記録」と銘打って、十数年来公私にわたる行動記録が項目に区分けしてびっしり保存されている。キー項目№とヒントを与えて検索すると瞬時にして一目瞭然。「してやったり」。なぁんて胸なでおろしつつも、もうひと寝入りは叶わず既に起床時間。
私は仕事人生卒業が十年遅れてしまい気付けば古稀。第二の人生を謳歌せんと飛びついたのは母校の生涯学習。しかも「文学の心・奥の細道の世界を楽しむ」なる講座。
「奥の細道」は高一の時に「文藝」で一年間学んだ青春真っ只中。「門前の小僧」云々ではないがこの年になってもすらすら復唱できる。
その折、漢検準一級を誇る一回り位年下の同級生に、(この勢いを駆って)中国語を始めようと思うと話したら、「失礼ながら、このお歳になって始めるなんて暴挙に等しい。この私が進言するのだからお聞きください」。と言われてしまった。その時は頭脳細胞の減少なんて気付く余地こそなかったが、今にして分かったのは、その時ですら“既に遅し”の年齢だったのです。「少年老い易く学成り難し・・・」。脳味噌柔軟にして輝く青春時代に、“築いておくべき”知力の基礎構築をかまけ遊びまくった咎なのです。
70にしてさえ“狂い咲き”を期待したところで叶う筈もないのに、ましてや喜寿に至って希求するとは、“呆れてものが言えない”とはこの事です。

同じ物忘れでも老化現象であれば加齢現象で病気とまでは言えないが、アルツファイマーと診断されればれっきとした病。余計判断に悩むのは、初期段階で軽度認知障害(MCI)と言うステップがあるらしい。人間誰しも虚勢を張って「俺は痴呆の病だ」何て言う御仁は皆無だろうから、医者の方が、(立派な認知症)の患者にまやかされるケースもあろうし、ましてや、自ら、自分の認知具合は、果たして“年のせい”なのか、本物の認知症なのかを、“うすらボケた”思考力の中で悩む老君もおいでになる筈だ。
私の場合だと、やや神経質な性格から、血圧測定の時も“白衣恐怖症”なるものが災いして、「今回は上がるな」と思うと必ず高目。しかじか左様で、初めて目にする花の名でも、「これは覚えていられないな」と自己暗示掛けると“スッコーン”。
何れにしても、馬齢重ねるごとにアルツであろうがなかろうが認知力が低下するのは致し方ない。
そこで、ご参考までに、老化防止、と言うよりは、老化の進行に抵抗するために私の心がけていることは、この拙文同様に、我なりに頭脳に血流を集中させて、月一のホームページ作成に打ち込むこと。それに加えて、一日一万歩励行によって歩行振動を脳に与え、脳流のうっ血を解消する事が挙げられます。
これらは、心身ともにリフレッシュ効果があると同時に、歩行のリズムが脳への刺激となって、“一石三鳥”的効果があるようです。
お試しになったらいかがでしょうか?

                                     


 



金婚式

田村公雄

我々夫婦は1964年東京オリンピックの年に結婚し、今年金婚式を迎えた。思い起こせば結婚式の後、その年に開業したホテルニューオータニに宿泊し、開通したばかりの新幹線に乗って京都に新婚旅行に行った。「新婚旅行に京都?小学生の修学旅行みたい!」と娘たちに笑われたものだ。結婚した時、私が27歳で、ばーばが20歳だったから、お互いに今年喜寿と古希を迎えた。不思議なもので、ちゃんと計算が合う。
私は1961年銀座に在った小さな貿易会社に入社した。もう一社、初任給もはるかに高い著名な会社にも合格していたが、そこを蹴って無名の会社に入社した。理由は将来独立して自分の貿易会社を持ちたいという願いがあったからである。小さい会社の方が、種まきから刈り取りまで全工程を体験し易いと思ったからだ。親からは「安い初任給で無名の零細企業をわざわざ選ぶために、大学に行かせたわけではない」と大反発をくらった。「自分の将来は自分で決める」と自分の判断を通させてもらった。「鶏頭となるも、牛後となるなかれ」と教えてくれたのは親父だったのだ。
その翌年に、ばーばがその会社に入社してきた。もし私が常識的な選択をしていたら、ばーばとの出会いもなく、三人の娘も生まれていないわけで、当然7人の孫も生まれていない。何という奇跡的な天の配剤であろうか。
結婚して10年後、1974年にその会社は倒産した。娘たちが8歳、6歳、4歳の時である。蓄えはなく、明日からの収入の道が途絶えたわけである。パニックになってもおかしくない状況である。しかし私には黄金のチャンスと思えた。好条件で誘ってくれる取引先もあったが、お断りして一気に会社を設立した。「平凡でも安定した生活を」と望むばーばの手を引っ張って「黙って俺についてこい」と叱咤した。
こうなれば女は強いものだ。家事・育児も怠ることなく、よく会社を守り支えてくれた。銃後の守りがしっかりしているので、国内営業や海外出張にも安心して飛び回れた。厳しいアップダウンもあったが37年間、よくぞしのぎ切ってくれたものである。後半は無借金経営で業界一の優良会社になった。業界の輸入協会を設立し初代会長を務めたり、JETROより輸入促進貢献企業として表彰されたりもした。
2011年に会社を取引先と合併させ、経営権を譲渡してハッピーリタイアメントを果たした。非常に喜ばしいことは、誰にも迷惑を掛けない引退だったことである。従業員、取引先、仕入先、提携先、わが社の五方がハッピーだったことである。なかなか例を見ない見事な引退劇だったと思う。
それにしても人生の重大な岐路での決断は自分で責任をもって行うべきだ。親の意見、世間体、面子、企業の大小、金銭の多少等で決めると後悔することになる。私は就職、結婚、会社設立、引退等で、何ら後悔することはなく、納得しており、幸せだと思っている。中でも最も幸せと思っていることは「千年に一人の日本女性を女房に持ったことである」 以上                  (2014/12/14)

                                     


 



エッセイに書いたことのその後

岡本龍蔵   2014.12.20

 玄関先の寒暖計は4℃と冷え込み、散歩で出た早朝の石神井公園草地広場は、一面霜で覆われていた。地上1.5mの気温が4℃くらいになると、地表面はもっと冷えて霜が降りると気象予報士が言っていた。気象庁はこの12月2日、東京大手町の気象観測点を大手町から北の丸公園へ移したと報じた。ビルに囲まれた大手町から風通しの良い北の丸公園に移すことにより、最低気温で年平均1.4℃下がる見込みだという。これは2年前から両地で同時に観測した結果という。
 ところが、3年前の12月26日、「練馬」の気象観測点を「武蔵大学」から旧日銀グランドの「石神井」松の風文化公園に移したときは、両地の同時観測をせずいきなり石神井に移したので、観測値の継続性が確保されなかった。
 そのため、武蔵大学から石神井に移ってどれだけ違いが出たのかを、気象庁の公表データから調べた。大手町の猛暑発生日数を分母に、移転前の武蔵大学の二夏の猛暑発生日数で割り、一方、移転後の石神井 の昨夏の猛暑発生日数を大手町の同発生日数で割り、大手町に比べて武蔵大学の猛暑日発生比は石神井のおよそ2倍となった。やはり三宝寺池周辺のクールアイランドの石神井は武蔵大学より涼しいことが分かった。しかし、石神井に移っても大手町に比べて夏は暑く、熊谷ほどではないが内陸性気候のため夏の暑さは厳しい。
 ところで、石神井の観測点は大相撲の土俵のように1.5m盛り土して、そこに観測装置を設置して、さらに1.5m上の気温を測定している。地表上3mで観測していることになる。夏は地表が灼熱になるから、3mも上空の低い気温を測定するのは誤りである。
 このことを南田中にお住まいの気象学者、谷治先生(横浜国大名誉教授、柳先生の知人)に尋ねた。「大手町から移転した北の丸公園も周辺より2mの盛り土があり、気象庁は盛り土がお好きのようだ」と批判された。さらに驚いたことには、「八王子」の風向風速計は市庁舎の屋上49.8mに設置されているという。「羽田」の航空気象観測所でもあるまいし、気象庁ではこんなことがまかり通っている。
 次のテーマは、石神井公園駅北側の光和小学校の壁面横文字だ。校舎玄関口の壁面に「KOUWA ELEMENTARY SCHOOL」の文字があたりを圧している。小学校で習うローマ字教育では、「KOUWA」は「KOWA」が正しいのではないか。去年の防災訓練で副校長先生に質すと、ワープロ変換ではkouwaと入力するから、それに因るのだろう」だった。変換を正しく行うために、まだるっこい入力をしているので、見た目は読みにくい。あきれてものが言えない。ところが、今年4月、星美登里副校長が着任してきたので同じことを質した。
「私も赴任して直ぐにそれに気付きヘンだと思った。父兄に指摘されて意を強くした」と。我が意を得たり。銀座の和光はWAKOだし、東京大学は「TOUKYOU UNIV.」でなく「TOKYO UNIV.」だ。パスポートだって東京太郎は「TAROU」でなく「TARO」になっている。光和小は校舎改築以来10年間、誰も疑問に思わなかったのだ。
 エッセイに書いていないが、11月に横須賀ウオークをした。人気の「軍港めぐり」ツアーに加わり、索敵、情報収集に優れたイージス艦の説明などを受けた。軍港めぐりというから、江田島軍港にも行くのかと尋ねたくもなる。これは「軍港内めぐり」が正しい。ところで、横須賀は海軍の町で、街の看板は横文字が多い。不動産屋の店頭の「We have many houses.」にびっくりした。この不動産屋は所有権をもってあまたの家を所有し、賃貸しているのだろうか。
 英語学の広瀬先生(研究社の辞典編纂者)に撮った写真を見せた。「深読みだ。これで貸家ありが十分伝わるのでこれでよい」といわれてしまった。「それより、For Military & Foreignersが気になる」なぜなら「militaryは形容詞だから…」。辞書を見ると形容詞が先で、後ろに隠れるように名詞の軍人があった。この語は本来形容詞が主だからと思われる。
 さて来年は1,2月の避寒マレーシア旅行(手足の霜焼け対策)、4月のバーゼルワールド(スイス時計見本市)、5月のインドネシア親善テニス大会を予定している。不思議発見の旅としたい。
 
                                     


 



大正期――服装教育の実像その1――

柳洋子  14.10.18

 大正という時代に大きく貢献したと恩えるのが「服装教育」であろう。外国スタイルを導入というだけでは、目本人の体型に適応しない。それこそ自前のスタイルを自前の技術でという風潮が惹起され、それは「教育」という基本理念を土台にしなくてはならないということも判然としたのが大正時代であろう。もっともその先鞭は明治期にあった。黒田清隆(北海道開拓次官)と福沢諭吉の存在である。黒田は欧米調査旅行の成果土産に東京芝増上寺内に開拓学校を開設したのが、1871・明4年であった。その開拓学校に「女学校」を併設する。ここで札幌近在住の13歳~16歳までの婦女子50名を集めて入学させ、オランダより2名の女性を招聘して教育にあたらせた。漢学、英学、習字、数学、裁縫が主科目であった。つまり、将来北海道の開拓にあたる人物の内助の功として、洋服の裁断・縫製技術を習得させることが目的であった。この教育方針は1875・明8年の札幌学校で十二分に開花したのである。往時の北海道は陸路で30目はかかり、横浜との間に外国の帆走船、蒸気船に便乗して荷物運送もやっとという状況であったために羅紗を売っても、これを仕立てる洋服職人は皆無で、東京からミシンと共に洋服職人も連れて行く必要があったという。靴も靴職人が居ないので修理不能であった。黒田の偉業に触発されたかのように、メソジスト派婦人外国伝道協会の遺愛女学校が1882・明15年に創設され、続いて1884・明17年に私立正教学校内に裁縫教授所(通称ロシア館裁縫所)、1885・明18年に23坪2室の広壮堅牢な西洋裁縫教室の開設と続いたといわれた。
 福沢諭吉は1872・明5年に慶応義塾内の出版局内に、衣服仕立局を設置している。そこで諭吉の家族、塾の職員、三田の邸内に居住する全ての婦女子に、輸入したミシン2台を駆使して洋服の仕立てを実践させたのである。本来31両の学生服を10両程度で仕立てたといわれている。仕立て局主任の高橋岩路(1835・天保5)は中津の臭平藩の士族の子として誕生するが、成年に達し徴兵免除の目的から、洋服仕立職高橋藤之助の養子となった人物である。1872・明5に丸屋の東京売り場の一つとして丸屋仕立店が営業開始したと同時に入社。丸屋は後の「丸善」で、丸善裁縫店となり1873・明6年には和洋の衣服仕立てを行つた。これは塾の敷地内の福沢の旧邸、いまの慶応義塾大学三岡本塾図書館の場所に当たるとされている。やがて高橋は丸善より離れて、高橋個人の経営に当たる。長男は父に仕込まれ、三越洋服部部長として大礼服の腕は抜群と評価された。

 黒田と福沢による服装教育は奇しくも、北海道と東京という地の理を活かした形で、服装教育の実利的側面から本格化するのであるが、触発されて多くの服装教育の場が次々と排出されたのも、大正デモクラシーの文化的側面と考えられるように思う。

                                     


 



農業問題

内藤雄幹  【2014,10,18】

 環太平洋経済連携協定(TPP)は関税ゼロを狙った自由貿易協定であり、参加国は
環太平洋諸国であるが、将来の対象はアジア太平洋市場である。アジアの国々は今後の
経済発展に大きな期待が持たれ、豊かになっていくと予測されている。
 我が国はTPPに乗り遅れると、目本経済の近未来に大きな禍根を残すと云われてい
る。ところが、農林畜産業界は強い反対意見を表明して、政府に対する圧力団体となっ
ている。
 そこで、近代に於ける農村・農業問題の進展の歴史をみてみる。

            * 明治維新に於ける農業
 明治維新を決行し成功させた勢力は、武士階級であった。それも、下級武士達であった。江戸時代の封建制度は廃止され、「士農工商」の身分階級も無くなった。貴族制度は新たに制定されたものの、国民平等の社会が出現した。
 欧米に比肩できる統一国家建設を目標として、さまざまな改革が実行されたが、その内主たるものは、国民皆兵による軍事力強化と財閥育成による工業力強化であった。
 先進国をめざして国力向上の国策が進展する一方、農村と農業の近代化は事実上捨ておかれた。その為、維新を過ぎ昭和の初めになってからも、農村恐慌は発生した。農家の二男・三男が多かった陸軍では、兵隊の故郷の家族の苦悩を知った下士官達が目本を変えようとして反乱を起す事件が発生したが、いずれも鎮圧されてしまった。
 それ以来、農村改革(恐慌回避)や農業改善(生産性向上)は国家からも農民自身からも手を付けられることは無かった。

            * 他力維新の農村改革
一九四五年、敗戦により連合国軍が進駐して来た。
 GHQの行った目本改造計画は徹底していた。目本歴史を通じて最大・最強の改革とも云えるものである。目本民族自身が行った改革ではなく、占領政策として他国によって成し遂げられたものなので、私は「他力維新」とよんでいる。
 GHQが行った占領政策の内、革命的改革の一つはr農地解放」であったと思う。
明治政府ですら手がつけられなかった農村改革であり、それが農民の手によらず、天からの慈雨のごとく与えられたのである。
 農地を所有していた地主は、自作地を除きすべて小作人に開放しなければならなかった。小作人は、敗戦を境にして一転して自作農になったのである。
 当時(敗戦後)の目本は、極端な食糧不足に喘いでいた。
 政府は米の増産を狙い、農家を大切にした。むしろ甘やかした。
ラジオ放送でも「農村におくる夕ベ」特集し、毎週夜放送し、流行歌を流した。
“農家の皆さんこんばんは、一日お仕事ご苦労さん、・・・・・・・・“
のメロデイーが国内全国に流され、農家を元気づけ、その一方、他の国民(工商)をくさらせた。
 農民は米作を奨励され、供出と自家消費に当てられたが、実際は自家用として消費しても余る分は、闇米として都会地へ流れた。闇米流通の役割を担ったのは、「担ぎ屋」と云われたブローカー達であった。闇米は売る方も買う方も罰せられることは無かったが、担ぎ屋は食糧管理法違反として取り締まられ、見つかった場合は現物(米)をとりあげられた。
 東京在住の某検事は、法治国家の下、「法を守る者としては闇米を買わず」と宣言して餓死を選び、大きな反響をよんだ。幸い、家族を巻き添えにはしなかったので、配給米は息子達家族に与えたのであろう。
 農村恐慌は、自作農となった農民には、農協の指導もあって無縁のものとなった。
 農民社会は安定したが、日本の農業を強くし海外農業に対抗し得るだけの改善をしようとする意気込みは農民の間には生まれなかった。太った豚は現状に満足し、国家再建などの才覚は生ずるわけがなかった。
 戦後の社会を復興させ、世界第二の経済大国に立ち上げたのはr工・商」の層であり、「農」はほとんど貢献しなかったと云える。せいぜい「工」がつくった製品を買うことによって、結果的に貢献したとは云えるであろう。

            * TPP交渉と農業問題(畜産を含む)
 TPP交渉において参加国の関税がゼロになると我が国の農業・畜産は壊滅的被害を受けるであろうと云われている。エネルギーばかりでなく食糧までも他国に押さえられてしまうのは、近未来の目本の姿としては好ましいものではない。先進国とは云いながら、自国の防衛ですら自力では確保出来ない状況では、独立国とは云えないのではないか。
 農家と農協が補助金よって保護されているという現状は、既得権でもある。農家は保護されなければ生きていけない弱者なのかどうか。
 農協は国内農業の将来展望についてどれだけ指導力を発揮出来るかどうか、疑問である。農業界は智恵と努力によって自らを体質改善し、農業の将来を構築していかなければならない。複数の識者が、規模(コスト)、品質、安全等についてさまざまの提案をしている。TPPに加入しても、関税ゼロまでには猶予期間がある。
 その間にどれだけ改善し、競争力をつけるかにかかっている。
 TPPの課題は農業問題だけではない。
 1.医療の自由化と国民皆保険制度の堅持
 2.労働の自由化と外国人労働者大量移入問題
 いずれも目本の将来に大きく拘わってくる問題なので、政府が自ら国民の声に謙虚に耳を傾け、交渉すべき課題である。〔了〕

                                     


 



道徳心

華岡正泰  26-10-18

 月に1~2度は担ぎ手として家内の買物に同行する。家内がゴロゴロ引張るキャリーバックを持ち出した時は心構えが必要となる。バックに入り切れないものを持っくらい何でもないのだが、間題は買物の時間である。幾らでもないものを買うのに値段を気にするのか容量、賞味期限、原産地か、手に取ったり離したり、まるでそれを楽しんでいるかの様である。全ての買物でそれをやられたら堪ったものではない。腰痛の心配もある。申し出て入口のベンチで待つこととする。実は、そこには楽しい眺めがあるのだ。
 大方の店でベンチは店に入って右か左、エレベーター前の広場あたりに置かれており、そこには食品トレー、牛乳パック、アルミ缶、ペットボトル等に分類された大きなゴミ箱も備えられている。家内もそうだが店に来る殆どの客は家に溜ったゴミを持参し、それを見事な手順、手捌きで大きなゴミ箱に分け入れる。それが外国人には目本人の高モラル、キレイ好きと映るらしい。面白いのはアルミ缶を持つてくる人達だ。6~7ヶのビールの空き缶、恐らく旦那の晩酌はたった1日1缶だけなのだろう。然しそれが365目となると大蔵省は大変かも知れぬ。不思議なのは備え付けの缶潰しを使おうとしないこと。ひ弱なご婦人が自分の足で踏み潰す。これが完璧主義か、その形相が面白い。
 家庭のゴミ出しも定められた通りキチント行はれている。タバコのポイ捨てもなくなった。然し、それがである。今でも車道の分離帯は空缶の山。絶景の箱根の山でも冷蔵庫やテレビが捨てられている。富士山の文化遺産登録が遅れたのもゴミが原因だった。まだまだ目本人は人の目につかないところでは横暴を極めているのだ。同じ目本人にどうしてこんな違いが出るのか、私は教育の問題だとと思う。幼い頃に教え込まれたことは生涯忘れるものではない。良いこと悪いこと、正しいこと正しくないことである。確かに物事には色んな見方はある。然しそれは議論を尽くして緒論を出せば良い。これまで教育界はこの問題から逃げていたように思へてならない。戦時中の「修身」「道徳」教育は高圧的、一方的で議論を排除したところに問題があったのだ。
 最近、中央教育審議会(中教審)なるものが、これまで副読本などを使って教科外活動として教えていたr道徳」を教科に格上げし、指導内容を正直、誠実、公正公平、正義とすることを検討しているそうである。ただ評価については「数値」はなじまないので「指導要録」に記述欄を設けるのだそうだ。戦時中の教育は間違いだらけだったというが、その中からでも身につけた沢山の正しいものがあったと私は思っている。
 私には中教審の考えはまだ生温い感はするが、結果は後になって出て来るもの、遅きに失することのないよう、直ちに取にかかることを願いたい。    おわり
 
                                     


 



墓じまい

寺村久義  平成26年10月18日

 今年のお盆やお彼岸は多くのテレビや雑誌などで、お墓や葬儀のことが取り上げられ、当社も度々取材を受けました。印象的だったのは、改葬やお墓の引っ越しなど、言い方はそれぞれですが、結局は墓を無くすことから、新語「墓仕舞い(はかじまい)」が生まれ、何時しかブーム化し、いくつもの特集が組まれていたことです。特に団塊世代の人たちの大半がリタイアし、「さて田舎のお墓をどうする」と考えた時、ご先祖が眠っているお墓ですから、自宅の引っ越しの様には参らないのです。
 私も、故郷である滋賀県を離れ50年以上が経ち、同じように東京や京阪神へ出た同級生たちの多くも、そのまま都会で生活しています。そんな友人たちからrお墓の引っ越しをしたい」という相談を受けることがあります。というのも、お墓の引っ越しは墓地の管理者(寺院墓地ですと住職)から埋蔵証明書をもらい、役所に提出し……と手続きが少々面倒なのです。自分のご先祖様だからといって、勝手に遺骨を取り出して、墓石をトラックで運んだりしては犯罪になり兼ねません。お寺の境内にある墓地ですと、墓地の所有者はお寺で、使用者が檀家となります。「墓地じまい」となると、田舎の事ゆえ少ない檀家がまた一軒減ることになるので、簡単には承諾してくれません。俗世間では理屈に合わない「離檀料」を請求されることがあります。言ってみれば手切れ金です。強欲な坊さんの場合、数百万円を吹っ掛けられることもあります。穏便に済ますためには、長い間お世話になった(供養をしてもらった)のですから、数十万円のお布施を差し出し、改葬を申し出るのが良いようです。
 お墓の引っ越しをしたいという理由の多くは、「田舎へお墓参りに行くのが辛くなったので、住まいの近くに移したい。」、「子供たちに遠くのお墓まで行ってもらうのは心苦しい。」、「子供がいないので、近くの永代供養墓に移したい。」というものです。都会への人口集中はもう聞きなれた言葉ですが、お墓も都会への集中が起きているというわけです。昔ならお墓を引っ越すとは考えもしなかったことですが、厚生労働省の調査によれば、ここ数年、毎年8万人弱もの人が改葬をしているそうです。
 しかし、都心部での霊園開発はとても難しくなっています。最近では、近隣の住民の方との摩擦を防ぐ意味から、敷地に占める緑地面積や、駐車場の台数までが厳しく規定されています。結局、総面積の2割から3割程度しか墓地にできません。家の近くに霊園が出来るのは反対だ。一方で、家の近くにお墓を移したいと言うニ一ズ。霊園造りは一筋縄ではいかない状況なのです。
 お墓をお参りしやすい場所へ移したいということは、お墓に手を合わせてご先祖様に家族や自分のことを報告したい、大切な人に会いに行きたいといった気持ちが失われていないということです。お寺離れが叫ばれて久しいが、供養の心は失われていないことが感じられます。
 先日、船から遺骨を海に撒く散骨船に同乗しましたが、殆どの方が、お骨を全部撒かず一部は陸上のお墓なり、納骨堂に納め、手を合わせる対象として残しているようでした。

                                     


 



保養活動から見えてきた福島のこと

竹内尚代   2014・10・18

 原発事故から3年7ヵ月がたった。今私は福島の子ども達の保養活動をしている。こんなに長く続き、おまけに会をNPO法人にするとは自分でも思っていなかった。
 「保養」というのは放射能の高線量地域を出て低線量地域で過ごすことによって、体内のセシウムを軽減させる取り組みで、チェルノブイリ原発事故のあと、ウクライナやベラルーシでは子ども達を1年に1ヵ月は低線量地域の学校に移動させている。1ヵ月低線量の地域に暮らせば体内のセシウムがなくなると医学的に証明されているという。
 私は福島第一原発事故の直後、子育て仲間と一緒に「福島こども保養プロジェクト@練馬」を立ち上げ、2011年7月には保養キャンプを実施した。この時には寺村さんのご尽カも頂いたが、丁度軽井沢は高線量になっていたので断念して、埼玉県の山荘で保養キャンプを実施した。
 働きながら活動している人が多い私達のキャンプは、1ヵ月も実施することはできないので、1週間や4泊5目を2回。これで意味があるのだろうかという私達に、チェルノブイリ事故の時にベラルーシの子ども達を練馬に呼んだ人からrたとえ短期間でも自分たちはひとりぼっちではない、と感じることが大切だ」と聞いて、短期間でも実施しようと決めた。
 こじんまりした山荘に大きく広がる庭。福島から来た子ども達はバスから降りたとたん、歓声をあげて庭で転がるように跳ねまわる。草花・昆虫・トンボを取るのに大騒ぎ。福島ではこんな普通の生活が奪われている。花や昆虫を「触らないの!」と言わなくてもいい「幸せ」をお母さん達はいう。
 メインイベントの川遊び。子ども一人に大人一人がつくバディを組み、監視人も配置して、今年の雨で増量した川での遊びも安全に終えた。地域の行政や自然保護団体のご協力も得て色んなイベントを組んでいる。今年はホットスポットである栃木県の太田原市の親子も参加した。6歳の子供とまだ1歳にならない赤ちゃんを抱えたお母さんは、「ここで過ごして何年かぶりに心から笑えました」と言ってくれて、スタッフはキャンプを続けて良かったと胸が一杯になった。
 就学前の親子を対象に個人の山荘をお借りしてやるキャンプ、沢山の人を呼べないのが残念だが、毎年4泊5日で郡山などの中通りからと、いわきなどの浜通りからの2チームに分けてお招きしている。平均して福島からの参加者は親子で30名余、ボランティアは7・80名になる。
 3回のキャンプを経てキャンプだけでは目程上来られない方もいるので、練馬区大泉学園町に一軒家をお借りしていつでも来られるr保養ハウス」をオープンした。これも篤志家の方が無料で貸して下さる。夏休みは満杯状態。キャンプに行くフタッフとは別に世話人を募り運営した。ロコミやネットで広がり、連休や土日は申し込みが多い。東京観光を兼ねてでも外に出てもらうことが狙いだ。

 キャンプや保養ハウスヘの案内のために、福島へ年2・3回は足を運ぶ。こうして福島の人々、キャンプに来た親子や福島の相談会で出会う親達との話しで、福島の変化が分かる気がする。
 2011年の事故直後は当然ながら皆パニックになっていて、保養キャンプのネットでの募集はあっという間に埋まってしまって、キャンセル待ちもでた。参加した福島のお母さん達は涙ながらに原発事故の不安と怖れを語った。避難できなかったことを悔いたり、これから転勤など高線量地域から出ることも考えている人もいた。このキャンプに参加できてよかったと、必死の思いがひしひしと伝わってきた。
 2012年はリピーターもいたが、中には家族親戚が福島だったり、または夫の仕事上で福島を離れられない。食べ物も親戚が作っている畑のものを貰って、困っている。子どもには食べさせないで自分が食べているなど、事故の収東宣言によって、子どもを抱えている人とお年寄りとの放射能への対処の落差が出てきていると感じた。それでも除染もやってもらえるだろうし、国や行政に期待するところはまだあったと思う。
 2013年のキャンプヘの応募は初めの頃は少なかった。次第に除染も進んだからだろうが、幼稚園や学校で外遊びが制限されなくなり、中学校の部活も復活して、表面上は普通の生活がもどってきたという。その中で、放射能への不安を口に出すことは孤立してしまうことだという。そういう状況のなかで保養キャンプヘ参加するということも周囲に言えないで参加したという人がとても多くなった。夏休みギリギリになって定員は埋まったが、福島の親のなかでは分断が進んでいるという印象を持った。参加した人も周囲との軋礫を多く語ったし、また一方で極端に放射能を体内から出すという健康食品を信奉する人もいた。相談会では放射能への不安を言うとモンスターママ扱いされると泣きながら訴える人もいた。
 2014年、今年のキャンプは募集開始ですぐ埋まった。リピーターの中には早くからキャンプの目程を聞いて来る人もいた。山荘のキャパの関係からリピーターは2回までにして頂いて、なるべく新しい人に保養に来てもらいたいと考えている。今回は赤ちゃんを始め小さい子供が多かった。事故以降生まれた子供もいる。保養が必要とされているのは、除染がまだ進まず、おまけに除染の基準が上がるということも新聞に出ていたことも無関係ではないだろう。すでに3年すぎ、白河の人の家は除染対象になっているのに、まだ除染されていないと不安を語る。
 また保養ハウスに来る人からも、子どもへの放射能被曝の不安をよく聞く。小さな子供を持つ人にとっては、進まない除染や子どもの健康結果(発表されている子どもの甲状腺がんの数)に不安を持つ人が少なくない。定期的な健康診断や親の不安をなくす対策が講じられていないせいだと思う。
 色々な問題点はあるが、とりあえず福島の親子が不安を口に出すことができ、それに真撃に対応する制度や機関が整備されたらいいなと思う。
 本当なら被害者である筈の福島の人々が何故分断され、攻撃し合わなければならないのか、とても悲しいことだと思う。今回触れることはできないが、家族の中でもきしみが出てきている。夫や親の無理解のなかで、苦しんでいる母親も多い。実家に来たように寛げるという小さな試みの保養キャンプ、そこがせめてお母さんのストレス解消の場であったら嬉しい。
 安心して普通に暮らすことができるようになるまで、福島の親子のそれぞれの生き方の選択を認めながら、不安に寄りそい、親子の免疫力を高めることができるように、保養キャンプを続けたい。
                            了

                                     


 



66才の挑戦

加藤 裕明   2014.10.18

約30年ぶりに自動車専門誌を自費で購入した。自動車も嫌いではないのになぜ30年も自費で買わなかったのかと言えぱ、今までの会杜勤めの環境が自動車専門誌や男性誌がその辺にゴロゴロしており業界との直接のお付き合いもあった関係でわざわざ自費で騰入する意味がなかったのが主な理由。会杜を退いてからは意識的に自動車やモータースポーツから遠ざかりオーディオやゴルフ、そして自転車やサヅカー観戦にうちこんできておりモータージャーナリズムの編集長や評論家さん達、レーンングドライバーやチーム監督さん達との内輪のお付き合いを含めた、つまり仕事そのものを思い出させる契機になる自動車雑誌を手に取る意欲が今一つ働かなかった事が従の理由だろうか。、

買い求めたのは1962年創刊の老舗カー雑誌“CARGRAPHIC''。購入動機はたまたま会った同誌編集長からS氏執筆の短期連載をスタートさせるとの一言。しかも内容がアメリカのルート66を辿るドキュメントだそう一だ。S氏との付き合いはかれこれ25年。トヨタの広報代理店を興されそれこそ寝食を忘れてトヨタの、そして私の広報活動を全面的にバックアップして頂いた人物だ。私より一歳年下でそう言えば66才になったら趣味でルート66をドライブしたいと言っておられたことはかすかに覚えていたが、まさか実際に挑戦されしかもその旅行記が自動車雑誌界随一のクオリテイ誌に掲載されるとは…!!早速本人に電話すると恥ずかしそうに“イヤー、66才でルート66走破するなんてダジャレをやっちゃってさ、しかも記事化されるなんて大それた事になっちゃってサー、汗顔の至りですよ!(急に小声になって)でもカトチャン、チョット読んでみてよ"との返事。これは早遠購入、一読しかないですよネー…

US Route66は1926年連邦最初の国道の一つで(連邦国道は道路番号60番台からスタートした)初の大陸横断国道。全米で最初に舗装化された国道としても有名だ。イリノイ州シカゴからカリフォルニア州ロスアンジェルスを経てサンタモニカまで全長3755km。合衆国南西部の経済、産業の発展に大きく寄与してきた国道でその後州際国防道路網の発達により1985年に廃線となり州道,郡道、市町村道や私道に転用され現在では総延長の80%位しか車では走破できなくなっているそうだ。また、60年代のテレビドラマや最近の映画"カーズ"などの主要舞台となる他、何と言ってもジャズのスタンダードナンバー"ルート66"は大変有名でキングコールほか著名なジャズシンガーによって唄われている等アメリカのカルチュアにもしっかりと織り込まれている道路だ。我々ベビーブーマーにとっても・アイビールックのボストン、フォークソングのグリニッジビレッジと共にマスタングやコルベットのルート66と当時のアメリカンカルチュアのアイコンとして記憶されている場所だ。

S氏は現地で多分1960年式の1.8Lのボルボを購入し(彼は無類のクラシックボルボ愛好者)なにせ50年も前の車ゆえ目当たり300kの走行がやっとだったらしいが二〇目位かけて4000km弱の行程を走破したらしい。
若い目の憧れの道や場所を4~50年経って走ったり訪れてみる、これこそ60歳代になった我々の人生の楽しみ方の一つのモデルケースだ。しかもその紀行文を趣味の雑誌に寄稿し掲載されるのはえらくオシャレなことだし、S氏にはよくチャレンジしてくれたと大いなるエールを贈りたいと思う。余りのカッコよさにやや嫉妬し編集長にはS氏には原稿料なんか払わなくてもいいぞ!と言っておいたが?
これから何号かは毎月カーグラフィックを買い求める事になりそうだ、いやはやです。
終わり

                                     


 



ドイツ旅行と中野国際学生寮と英語力

岡本龍蔵   2014.10.18

 今年はドイツの友人を訪ねようと思い立った。私のパソコンのマウス台に、アーヘン工科大学の赤い建物とAACHEN UNIVERSITYが印刷されている。目付のサインから10年も経っていた。レジーナ・エルテルさんがくれたもので、彼女はアーヘン工科大学の先生をしている。彼女はベルリンのフンボルト大学、ハルトマンさんと交代で目本へ講義に来ていた。ハルトマンさんは3年前に訪ねた。ブランデンブルグ門近くで寄ったレストランは各国の要人が寄る店で、麻生元総理の写真が載った小冊子を貰い受け、総理本人に送ったら、「プラハでの首脳会議の後に寄った。懐かしい思い出です」と礼状が届いた。これは前にエッセイに書いた。
 今回のドイツ旅行はアーヘンのレジーナさんを訪ねるのが目的だった。彼女は当時はオランダに住み、3kmほど離れたドイツのアーヘン工科大学へ自転車で通っていた。「オランダは税金が安いから」と笑っていた。息子さんから頼まれたまんが本を探して、渋谷の書店まで行ったこともあった。その息子さんは大学を出て就職しベルリンにいる。
 さて、今度の旅行は、阪急交通杜「ドイツ・オーストリア周遊8目間」で行き、1日ツアーから離脱して列車でアーへンヘ行く計画だった。
 ツアーの目程では、夕刻フランクフルトに着きここで2日連泊するので、2日目が唯一のチャンス日だった。フランクフルトからケルン駅で乗り換えてアーヘンヘは3時間、トーマスクックの時刻表で調べた。ところが、この目は何とも彼女の都合がつかず、代案出発日でも目程調整がつかなかった。旅行の主目的が消え迷ったが、代金済みで予定通りツアーに参加した。
 ドイツはオクトーバーフェストの真最中で、ビールとソーセージの旅になった。10月3目金曜は「ドイツ統一の日」で土日と合わせ3連休だった。これに中国の国慶節1目~7目の大観光団が加わり、先々で交通渋滞に巻き込まれた。
 我がツアーは定年夫妻中心の26名だった。レストラン従業員は日本人慣れしているので、ビールや飲料の注文は日本が通じる。一方、韓国や台湾からのツアー客は最近増えたので、レストラン従業員は中国語や韓国語修得に追いつけない。どうするのか興味があった。目本と違って若い人が多いせいもあるのか、何と!注文は英語でやり取りしていた。
 これに関連したことだが、日本を発つ4目前、大隈講堂で全国代議員会が開催され出席した。
 代議員の質問:「4月にオープンした中野国際学生寮は、地方学生500人に対して留学生196人、ほとんどが韓国や中国からの留学生で欧米からは少ない。これで「ビジョン150」の『ともに世界へともに未来へ』の国際人が育つのか」
 鎌田総長:「もともと欧米からの目本への留学生は少なく、中国や韓国からの学生が多い。しかし、彼らの英語は日本の学生よりだいぶ上手だ」(代議員会の内容は各地区に持ち帰って話すよう要請されているが、ここでは触れない)
 振り返って、我がツアーで英語が「流暢に」話せたのは、海外に駐在経験のある紳士一人、帰国便で隣の米国人と会話が弾んでいた。隣の奥さんは黙って笑っていた。参考として、ドイツ語会話は添乗員を含め皆無。
 さて、ドイツ、オーストリア1200km周遊の一夜、ウィーンのシェーンブルン宮殿コンサートヘ行った。定番の美しき青きドナウやラデツキー行進曲でウキウキ気分になった。町中にラデツキー将軍を讃えた鋼像が建っていた。この旅行のハブニング、「中国人ツアー客の迷子になった老女」ほかの道中記は書ききれない。

                                     


 



四季の記憶30「ぼくのシネマ遍歴」

鈴木 奎三郎

 旧暦10月の節気は立冬で、現行歴の11月7目頃である。ここから来春の節分まで、暦の上では冬の期間となる。この頃の空は青く澄んで、白い雲が上空の速い風に流されて過ぎていく。真夏目の記録や頻発した台風はいつの間にか過去のものとなってしまった。江戸中期の俳人凡兆はその風景を「上行くと下くる雲や秋の天」と詠んだ。まさに季節の風景であり、秋の風の肌触りが描かれている。
 ここ数年、石神井公園界隈ではあまり見かけなくなってしまったが、空と雲を借景に赤トンボが飛ぶようになるとまさに秋を実感する。虫の音もいつしか聞こえなくなり、散歩遺のすすきが風に揺れて、公園のタイサンボクの巨大で厚い葉が、パサリパサリと落ちてくる。
 この木は紅葉はしない代わりに、黄褐色や褐色に変わった葉には、葉のなかを喰った何かの幼虫の食痕が見える。その偶然のデザインはまるでピカソやマチスの前衛画家の作品を見るようでもある。自然の造化の妙には思わず息をのむ思いだ。

 早いもので今年もあっという間に残り2ヵ月。この先はいろいろな催事や集まりが行われ、年末年始に向けての季節感が一気に加遠する。仕事をしていた頃は、この時期が一番多忙で目々の体調管理や目程調整に苦労したものだ。とは書いながら、忙しいさなかに時間をやりくりして、会杜近くの有楽町のシネコンに月に1,2回行くのがひそかな楽しみだった。
 映画を初めてみた記憾は、早世した父に遠れられて行ったr銀嶺の果て」という三船敏郎のデビュー作だった。調べてみると1947年の作品というから、ぼくは6才のことである。病弱だった父との数少ない記億は、善光寺に散歩に行ったことと、どういうわけかこの映画のことである。長ずるに及んで、映画好きが嵩じ高校大学と何本の映画を見てきただろう。「映画ノート」なるものを書いたりして一端の一映画評論家を気取って、大学の映画サークルに籍を置いたこともある。

 仕事を離れてからは、ヒマに任せて月に4,5本は見るようになった。自宅近くに車で10分のところにシネコンがあり重宝しているが、1100円で2時間を楽しめる映画はゴノレフや読書とは遼った楽しさがある。
 記億を辿れば、「翼よ1あれが巴里の灯だ」(`57年)、「ウエストサイド物語(`61年)、「バルジ大作戦」(`65年)、「2001年宇宙の旅j(`68年)、地獄の黙示録」(`01年)など、いずれも映画史に輝く不朽の名作であり、これらの映画は一度では物足りずリバイバル上映も含めて何度となく足を運んだ。
 最近では2回観た映画に「ジャージー・ボーイズ」がある。これは同名のブロードウェイミューカルでニューヨークでヒットしたものを、クリント・イーストウッドが音楽映画として製作監督したものである。1960年代中頃に、ビートルズの少し前に世界的規模で成功したロックとポップスの四人組のグループ「ザ・フォーシーズンズ」の物語であり、正調の音楽映画である。

 マフィアが仕切るニュージャージーの小さな町に、美しいファルセットの声を持って生まれたボーカル、フランキー・ヴァリを演じるのがジョン・ロイド・ヤング。そのほかの配役も舞台で同じ役を演じた歌える俳優たちである。映画の世界では無名だけれど、歌唱力抜群のメンバーである。
 物語は、貧しい地区に生まれ成功から一番遠い場所にいた4人の著者が、自分たちの音楽だけで掴み取った栄光の軌跡、その後に起こる裏切りと挫折、別離、家族との軋轢・・などが描かれた秀作である。代表曲「シェリー」を始め「君の瞳に恋してる」「グリース」などビルボードの一位を連続で独占した。このオールディーズは、いまCDで聴いてもぼくの青春時代の記憶と重なり感傷的になるのだ。

 昨年2月亡くなるまで、国際女性映画祭」のゼネラルプロデューサーとして活躍した元岩波ホール総支配人の高野悦子さん。以前頂いたサイン入りの「私のシネマ宣言」でも再読することとしよう。時は映画と読書の季節でもある。
2014・11・1記

                                     


 



方寸の空

照山 忠利  2014.10.18

 先日の新聞で
   孑孑(ぼうふら)に方寸の空暮れにけり
という句を目にした。俳句には何の知見もない私にも「おや」と思わせるものがあった。作家で俳人の眉村 卓さんの解説によれば次のような意味だそうだ。

 方寸とは一寸四方、転じてごくせまいことをいう。浮いたり沈んだりをくりかえしているぼうふらが見ることができる空はごく限られている。その空が暮れていくのである。「井の中の蛙大海を知らず」とのことわざは、視野の狭い者を嘲っている表現だが、この句のぼうふらは自身でそのことが分かっている。人間、いかに博学多識であってもあらゆることに通じるのは不可能であり、限界がある。懸命に努力を重ねながらも、いつかそのことをわきまえるようになってくる。自分が見ているのは方寸の空にすぎないのだと、悟りながら生きていくほかはなく、やがてはおのれの日暮れがやってくる。それを自覚しての句である、と。

 まことに謙虚な人生観といおうか、市井に生きる一人の人間としての誠実さが伝わってくるようだ。だが現実の世界を眺めてみれば、この対極にあるような人間や事象がやたらと目につく。自分にどれだけの学識や才能があるのか知らないが、何でもわかっているような物言いをする人士がいかに多いことか。私のような小心者はよくわからぬことに口を出すのは憚られるものだが、専門外のことや経験の乏しいことでも平気で得々と話す人がいる。困ったことである。
 かつて勤めていた会社には著名な評論家が社外取締役についていた。彼は民主党が政権を奪取したとき調子に乗って「これで少なくとも20年は自民党が政権に戻ることはありませんな」と、なんと全役員列席の公の場で断言したのだ。これを聴いたとき、えっ何を根拠にそんなことをいうのかと訝しく思ったものの、著名人がいうのだからそうなのかなと無理やり飲み込んでみたが、その後の成り行きは周知のとおり。所詮その程度の人間なのである。
 一私企業の中でのことなら、まあ笑い話ですまされるかもしれぬが、公共の電波を使うテレビ局がこの類のことをするのは許されない。民放は視聴率いのち、大衆受けするなら誰に何をしゃべらせてもいいと思っている節がある。多くの人たちがみる日曜日の朝の報道番組は出席者にいろいろなテーマについて感想や意見を述べさせる。でもスポーツ評論家にエネルギーや安全保障といった国政の重要課題についてコメントさせるのはいかがなものか。尋ねる方もしゃべる方もまるで無責任。人が「事理弁識能力」を欠けば認知症となるが、すでに番組そのものが認知症になっている。
 新聞は朝日の従軍慰安婦の誤報問題を契機に各社間の販売のせめぎ合いが激烈になっていると聞く。でも新聞全体では年間100万部の単位で部数が減っているそうな。世論形成への新聞の影響力がそれだけ落ちている中で、テレビの感情的ワンフレーズ報道が幅を利かせて来ていることには危うさを感じる。ましてこれからさらにネット社会が進むと、テレビすら置いていかれることになるかもしれない。
 まさに「方寸の空」をわきまえないぼうふらは、金魚の餌にでもなってもらうほかはないだろう。
                                                               (了)
                                     


 



再生への覚悟に期待する

大野 力  2014・10・10
 
 吉田証言と吉田調書問題は、朝日新聞に弁解の余地はない。不細工にもいったん見送られて掲載された池上彰氏の「新聞ななめ読み」での発言が冷静で当をえていると思っている。対する社長の会見発言と一連の対応には弁解がましさが感じられがっかりしている。それにつけても他メディアの朝日批判はものすごく、始めのうちは有益なもの、考えさせるものも多くあり、まあその通りだと思っていたが、あそこまでの文春新潮、産経はもとより読売とその系列のテレビまでが同調してのバッシングと興奮ぶりは、グロテスクささえ感じさせ辟易としている。朝日は問題について、弁護士や学者有識者7人による第三者委員会の検討と忠言を得て対応する、というから期待して待つしかない。朝日は編集委員や記者が思いを書いているが、理念的な弁明を感じさせ、いま云うべきことの区別ができていない。読者一般とのズレを感じてしまう。私は曽我豪氏の「独善の弊払拭への覚悟」に共感している。緒方竹虎の朝日の白虹事件の際の言葉を紹介している、「新聞は大学の講壇でなく、社会の木鐸たる所以は実生活の指針たるところにあり、世の中の期待もそこにある」。緒方は正義正論が陥りやすい弊への注意の必要を語ったのであろう。 私は以前より、社説や主張がしばしば独善的で、理念的な正義がその上流にあるのが鼻に付くこともあったが・・魅力的でもあるのだが、この緒方の言葉は、正義正論が事実の集合である現実から「際立った遊離」をする危険、を戒めているのだと共感する。曽我氏は新人記者のときの、先輩のデスクの言葉があの世から聞こえると書いている。「おまえのつまらん大学出のプライドがサツ官の心を開かせんのじゃ。朝日のシンパなんて、甘えるな。おまえだから話す自前のシンパしか、いらん」記者としての自立を求めているのだろう。そして曽我氏は自身の決意を述べている。「(白虹事件より)100年がたち、30年がたって、また最初からやり直すことになった。今日もまた、時代の大きな転換点である。決してミネルバのふくろうではなく、炭鉱のカナリアとして、成功と失敗の兆しを指し示す、報道機関の権力監視の責務は変わらず重いはずだ。迎合はもちろん、事実究明を欠いた空論を自戒する。それにはもう一度、取材の最前線に立ち戻って、常に世間の厳しい風に吹かれるよりほかない」。今の朝日の課題だ。白虹事件で朝日はあわや廃刊に追い込まれた。その後の新聞は権力に迎合するようになり昭和の戦争への旗振り役を演じて行った。今回も朝日の廃刊や国会召喚を云う保守政治家やジャーナリスト知識人がいる。ジャーナリズムの本文をどう考えるのか。己の主張が時の政権と同じであるからと云って、連んで朝日を叩くのはいかがなものか。彼らにとって、朝日は邪魔なのか。権力に対するジャーナリズムの自立、本分をどう考えているのか。困ったことだ。ジャーナリズムは自己省察に努めて欲しい。事実の背後の真実を捜して欲しい。朝日人よ頑張って欲しい。
前から感じていたことだが、新聞界は主義主張のめんで、朝日毎日東京新聞と読売産経日経新聞とに二分の傾向が、第二次安倍政権いらいはっきりしてきたと感じている。憲法九条、集団的自衛権、特定秘密法対中対韓、原発問題等に対する姿勢がこの二分化をはっきり示している。民放局も親会社ともいえる新聞の色分けに概ね二分されているようだ。メディアが主義主張を持つのはいいが、権力との距離感が重要だ。共同謀議者であってはこまる。飲み込まれてしまい取り返しがつかなくなる。

                                     


 



陶の薪焼成は究極のエコか

田原 亞彦
 
 薪は化石燃料でなく間伐材を使うので、エコであるとの主張がある。間伐材を山から運び出すことで森林の育成に役立つとの意見である。間伐材の処理・運搬費を売却金で賄い山の環境を維持し、焼却によって又置き場を確保出来るからである。 しかし、私は、化石燃料の利用よりは相対的にはエコだが全面的には賛成しない。なぜなら、薪の焼成は不完全燃焼で発生する炭素やタール分を含む煤煙や微細な液体・固体の粒子であるエアロゾル等の大気汚染物質を出し,生活環境に多大の悪影響をもたらすからである。昨今の中国の実情をみると明らかである。
 薪窯で煤煙脱硫などの装置をつけるところは、経費上からも皆無ではないか。地域によっては薪窯の設置を規制する処も多い。また、大気中に浮遊するエアロゾルは次第に北極圏に集積して上空のオゾン層に悪影響を及ぼすらしい。オゾンは生物体を紫外線から保護し、大気中で消臭・除菌など自浄作用の後時間と共に安定した酸素に戻り残留物のない優れものである。
 煤煙やエアロゾルはそれだけで地球温暖化の原因であるが、温室効果ガスの生成要因としては、CO2(二酸化炭素)が最大で化石燃料によるのが65%,森林減少や土地の用途変更による緑の削減が10%であり、枯れた植物の分解や他に天然ガスの採掘時に生ずるメタンガスやフロンなどがある。
 薪は、松材を30cmぐらいに割った大割りや細い小割り、丸太から角材を製材した残りの1mぐらいに切った切端(セッパ)が用いられる。これらは燃やす以外にあまり用途はないからその意味では有効利用であり森の再生にも寄与していると言える。
 植物は燃焼するとCO2を出すが、そのまま枯れると土壌生物や微生物により分解される過程で約50%からなる炭素を放出する。いずれにしても炭素を出すのであるから、その意味では焼く方が人の役に立っている。
 植物は光合成で、炭素と水からでんぷん(炭水化物・ブドウ糖)と大気の20%を占める酸素を作り出す。最近人工光合成法が開発されてはいるが、量的には植物が唯一の供給者である。大気の0.03%をCO2が占めるが、動物は無論植物も酸素を取り入れCO2を出す呼吸をしている。CO2は燃焼と生物体の呼吸で発生している。自然界では酸素と炭素のバランスのとれた循環があるが、加えて人が化石燃料の眠れるCO2を大気に放出しているのが問題となっている。
 植物は、光をもたらす太陽は無論大事だが、唯一の酸素供給者であり、土の中からいろいろな無機化合物を取り入れて有益な薬剤ともなり、何よりも動物の生命を維持し、木材、繊維なども生み出す貴重な存在である。緑を大切にしたい。
 陶器は、自然の再生可能エネルギーからの生じた電気焼成が望ましいが原子力は問題がのこる。水素の利用か、焼かないで出来る陶器の開発か、でも熱源はやはり必要だろう。環境とコスト(技術革新)の問題である。 2014・10・18

                                     


 



我が懐かしの柴又界隈

谷川 亘  2014年10月18日
 
 我がOB会には「歴史ウォーキング」部会なるものがありまして、冠の二文字が示すように、遺跡、社寺仏閣、城跡巡りは言うに及ばず、正月はめでためでたの七福神・・・。
 会員の中には薀蓄の深いプロ級の講師もいらっしゃいまして、体と脳のリフレッシュ同時進行と相成っております。
 たまたま9月19日には柴又散策がありまして、「日本の音風景」に指定された矢切の渡しでは、船頭手漕ぎの櫓のギーコギーコの音紋が放散する、水辺の“音風景”を楽しみ、帝釈天界隈をそぞろ歩き。寅さん人気にあやかって寅さん記念館で昔日を偲びました。
  「私、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と申します・・・・」。昭和44年、第一作の「男はつらいよ」が初作なら、最終作の「男はつらいよ・寅次郎紅の花」は平成7年で48作目。
 恥ずかしながら、この私目、森繁久弥、伴淳演ずる「駅前シリーズ」とか「寅さんシリーズ」を愛で、とりわけ、寅さんが“おきにいり”でして、60を過ぎた頃、仕事の終着駅に着いてから思う存分堪能しようと、48作全部を網羅した「男はつらいよDVDパーフェクトBOX」なるものまで確保してあったのですが、幸か不幸か?それからの仕事人生いろいろありまして、第三の人生までの距離が意外に長く、封を切ったのは未だに3~4巻。
 これから先、ゆっくり全作見終った頃“お迎え”が来るのではないかと思っています。
 話続いて、柴又風情。
 今でこそ寅さん人気との相乗効果で歓楽地化したようですが、私なりの記憶をたどれば、柴又と言えば帝釈天。片田舎乍ら料亭がいくつかあって、戦後の金偏成金の大先生(失礼、腐っても上場会社です)の鞄持ちと言うか書生役を不承不承ながら演じ、日本伝来の歌舞音曲に無理やり引き込まれたことでしょうか?
 端唄「奴さん」の、「ハア コリャコリャ エー 奴さ~ん どちら行く・・・」ではないが、それこそ、次の歌詞の「お供はつらいね~」・・・。番外編を地で行ったのです。
 花柳界の権威の度合いは詳らかでないのですが、この世界とのお付き合いにも“企業間格差”があるのでしょうか?くだんの旦那がお出ましになるのは“カワムコウ”。
 つまり、隅田川添いとかその下町側の、向島を始めとする、亀戸、柴又あたり。
 「奴さ~ん」や端唄はまだ良しとして、大社長の常磐津文字兵衛には辟易したものです。
 「ばばあ芸者の厚化粧」と言いますが、それこそ地で行ってまして、立方はとも角、座敷端で正座する私の真ん前、舞台の左奥に鎮座する、地方、おしゃみの姐さんなんて、一旦三味線構えると首筋ピーンで天突く大だみ声。寅さん流に言うと。「こりゃあ、てえしたもんだ・・・」。艶っぽいのか、婀娜っぽいのか?両者共存してごちゃまぜの風情でした。
 しかし、弾き終えると猫背あらわに首が前かがみになって、暇あれば襟元左手でたくし上げ、よだれたらさんばかり。なんと、その婆さんから、たっての願いの“ご返杯”。
 話がそれてしまいました。もうこんな話止めにしましょう。

                                     


 



謀る

小林康昭  20141018
 
 みんな、黙りこんでいる。上座の日本大使は、苦り切っていた。窓の外からは、シュプレヒコールが聞こえてくる。やっぱり、こんなことになるんじゃないかと思っていた、とBさんも苦り切っている。
                *  *  *
 Bさんがこの地に赴任したのは2年前である。早速、現地の日本大使を表敬訪問する。担当する事業は、日本政府がこの国につける経済援助の予算の大半を占める。責任者として、お上の要路を軽視してはならないのである。大使に「一度、お出で願えませんか」と懇願する。即座に大使は「イヤ、業者さんには行かないことにしているので」と応えた。「でも、日本政府のお金でやっている事業ですので・・・」と重ねると「イヤ、それはもう・・・」と掌を振る。取りつくしまがなかった。
 活気がある現場には、毎日、見物人がフェンスにとりついた。各国の在外公館からも見学にやってきた。だが、日本大使は現れない。その最中、この国の宗主国だったY国から、王女が国賓で来訪した。王女主賓の晩餐会に、従業員の一人、Y国籍のMr.Uも招かれた。晩餐会から戻ったMr.Uは、Y国大使館の参事官が漏らした一言を、Bさんに耳打ちした。「内乱が起きそうだ」
 案の定、些細なきっかけで、火が付いた。群衆が巷にあふれ、デモ隊が市街を埋めた。兵士が、銃を向ける。治安が急速に悪化した。外国人たちが国外に逃避を始めた。
                *  *  *
 Bさんは、往時のメディアが伝えていた風聞に、記憶をよみがえらせる。
 例えば、インドネシア。スカルノ失脚のクーデターで治安が悪化した。日本人会が、現地の日本大使に救援の日航機の派遣を要請した。大使は「現地政府が平穏と言っている」と要請を蹴った。日本人会は独自に、日航本社に交渉した。日航本社は大型機を一機、首都の空港に駐機した。耳にした大使館員が深夜、日本人会会長宅の扉をたたいた。「大使館員もよろしく・・・」
 例えば、イラン。革命のさなか、イラン全土の空路の便が途絶した。日本人駐在員たちは、救援機を求め、陸路を数日かけてテヘランにたどり着いた。だが、彼らに大使は「治安が悪いとは反体制派が流すデマ」との現地政府の言明を楯に、求めを断った。そして「仕事に戻れ」と追い帰した。
 だが、事態は更に悪化した。数ヵ月後に再び、テヘランに向かうと、日本大使館は既に閉鎖され、全館員は帰国していた。置き去りにされた日本人は、トルコやドイツの手を借りて帰国した・・・。
                *  *  *
 轍を踏んではならない。それには・・・、思案を重ねる。Mr.Uを使って、Y国大使館から情報をとる。すると、Y国は民間人どころか、大使館員の家族も現地から退去させていた。
 一方、日本大使は「この国の政府は、治安を保証している」として、民間の日本人に退去勧告を出さない。勧告なしに国外退去すると、職場放棄になって、契約違反を問われるのである。
 国内は更に混乱した。暴徒の占拠を恐れて、放送局は閉鎖された。国際空港も閉鎖された。空港職員は逃亡した。飛行機は飛んでこなくなった。猶予はならない。
 再び, Mr.Uの力を借りる。彼が接触するY国大使館の参事官は、偶々、K国大使の姻戚だった。K国大使館では、このとき、まだ、館員の家族を残していた。それで、大使館員の家族の退去のタイミングを図っていたそうだ。そして、遂にその退去を決めた、という。
 その時点で、日本大使館の館員の家族どころか、多くの民間の日本人も残っている。
 K国大使は、国境を接する隣国の航空会社に、救援機の派遣を要請していた。だが、交渉は難渋していた。理由は、退去者数と先方が用意する機種にあった。人数が定員の4分の一に満たない。K国大使の要求に、先方は機種の変更を渋っている。
 BさんはMr.Uに、秘策を打ち明けた。彼はうなずいた。そして、片目をつぶってみせた。
                *  *  *
 日本大使館の一等書記官が、前触れもなく現場にやってきた。
 早朝、K国大使から、日本大使に電話が入った。救援機を共同で要請する打診だった。両国の退去者を合わせて、予定の機種の定員が埋まる。K国の打診を受ける形で、日本大使は要請に同意した。後日、現地政府に誹られても、K国から打診を受けたから、と弁明が出来る。
 大使は、日本人会に退去者の招集を指示した。同時に、現場に下僚を送って、搭乗の支援を指示してきたのである。
 指示を受けてBさんは、男たちを空港に走らせた。ターミナルビルの扉を開ける。無人の広いロビーの照明をつける。空港事務所の通信機にスイッチを入れる。K国大使がマイクを握って、隣国の航空会社を呼び出した。現場から持ちこんだ材料で、駐機場に搭乗階段を急ごしらえする。
 女子供を中心に退去者たちの一群が到着した。
 二つの国の大使館員が、仮設のカウンターで、出国手続きを始める。準備は整った。
 だが、救援機は来ない。
 空港事務所に居座っていたK国大使から、連絡が入った。「直ぐに来てくれ」
 隣国の航空会社は、逡巡していた。安全に、着陸できるのか? 着陸後、群衆の狼藉に逢わないか? 搭乗員たちの安全に確証がなければ、離陸させない、と言っている。
 促されてBさんは、マイクをつかんだ。「準備は整っている、安心して飛んできてくれ」「おまえは誰だ?」 社名を名乗った。「どこの会社だ?」「日本の会社だ」
 途端に,相手の口ぶりが変わった。
 「今、こちらの空港も,日本の会社が工事をしている・・・、分かった。離陸させよう!」
                *  *  *
 通話が終わった。K国大使は、ロビーを見おろす広い階段の上に立った。
 「May I have your attention please!」
 ロビーを埋め尽くす人々が、静まりかえった。そして、一斉に階段の上を見上げた。
 大使は、声を張り上げた。
 「飛行機は来るゾ!」
 途端に歓声、そして、拍手が湧き起こった。
 遅れて救援機は、着陸した。
 夕闇の駐機場に、機体はゆっくりと、入ってきた。皆が凝視するなか、警戒してか、飛行機は扉を開けない。コックピットの下から,太い柱が降りてきた。それを伝って機長が,地上に降り立った。
 二つの国の大使が歩み寄って、機長と握手を交わした。
                *  *  *
 「あのとき、K国との共同は良かったね」
 「本当に。幸運でした」

                                     


 



古代史探訪 大和

田原亜彦  2014・6・21

 古代の大和盆地は中央部に湖水がある湿地の多いところだつた。大和川は今の柏原あたりから北方に流れていたのを西方の住吉の方に直線化して排水を良くしたらしい。河川改修は古墳造成とともに、大陸からの大量の渡来人の存在と結びついている。
 邪馬台国は九州か大和かの論争はさておいて、神武東遷頃の大和側での重要人物は、素佐之男に連れられて来ていたニギハヤヒ、長髄彦、三島溝咋である。
 素佐之男は次男の五十猛と各地を訪れているが、紀伊半島に来た時、ニギハヤヒを大和に残して去つた。ニギハヤヒは、生駒山一帯を治める鳥見長髄彦の妹・三炊屋姫(みかしぎ)の通い婿になったらしい。宇摩志麻冶尊(物部氏の祖)、高倉下尊が子孫である。長髄彦は元来はインドとビルマ間のナーガランドの山岳の出自で蛇族の説もある。長い脛から駒族か兎とも言われる。飛鳥三山の北の耳成山は兎族の祭地と言われるが、神武に敵、対し娘も后になれなかったこともあり、兄の安日彦と東北に去り、安倍氏となって後世朝廷軍に反抗したといわれる。耳成山は耳は長を示し、成しは無し、失くす意味であろう。
 三島溝咋は淀川北岸の三島一帯を支配していた、製鉄、ゼネコン、運輸物流の実力者で財力もあった。鳥・鴨族で三山の西方畝傍山が祭祀拠点である。ちなみに、物部氏はソつまり牛であり製鉄、金属、土木に強い、香具山が祭地である。三島の地名は摂津のほか瀬戸内海の大三島、伊予三島、越後、駿河などに残されている。いずれも大山ズミという縄文の神を祭つている。話はそれるが、焼き物で三島手という象嵌の手法があるが、これは東海の三島神杜の暦の文体がよく似ているので命名されている。
 ニギハヤヒはあろうことか、三島溝咋の娘に恋慕して姫多々良伊須気余理姫が生まれてしまった。神武の后になる人物である。(このところは記紀で記述の相違がある)。元々対抗する勢力の間で、娘を介して更に敵対が激しくなった。
 少し、山辺の道のあたりを見学してみよう。
 596年創建とされる飛鳥寺と目本最古佛の飛鳥大仏、その脇にある蘇我馬子の墓、このあたりは最も奈良らしいと感じられる。
 大三輪神杜は大巳貴命(大国主)が大物主・ニギハヤヒを祀った神社で、立ち入り禁止の三輪山自体がご神体である。摂杜の桧原神社には天照大御神が祭られており、伊勢に移される前の元伊勢宮である。
 石上神宮は、素佐之男(布都斯御魂)、ニギハヤヒ(布留御魂)を祭り、物部氏が信奉し、元々は神殿はなく三輪神杜と同じく山そのものがご神体であった。武器の出土も多いが、特に注目されるのは、百済の近肖古王が、大和朝廷に贈られたとされる「七支刀」の存在である。369年の製作とされる。
 朝鮮の「三国史記」に記されるように、百済、敵対しする高句麗と、新羅の三国が存在し、当時から朝鮮半島と倭国が軍事面も含めて種々の関係があったのである。

                                     


 



鱧の骨切り

内藤雄幹  2014.6.21

 六月八目、二十一時、テレビ朝日で久しぶりに面白いドラマを観た。「みをつくし料理帖」である。高田郁の時代小説、江戸の天才女料理人・澪のドラマ化であり、主演は北川景子であった。彼女の魅力を十二分に引き出した好演であった。
 ドラマでの見せ場は東西料理人による鱧料理対決である。

 鱧は関西にあって江戸にはない。特に京料理において人気のある絶品と云える。鱧そのものは関西の海では沢山捕れるが、関東では採れない。美味しい魚であるが、小骨が多く調理が難しい。関東の料理人には苦手の代物である。関西では特別の食べ物ではなく、目常的に一般家庭でも食べられていた。初夏を過ぎると、夏の食べ物として「鰻ちり」などにして梅肉などと共に普及している。
 このドラマでは吉原の花魁に、酔狂な客が鱒を関西から生きたまま取り寄せて食べさせようとしたもので、主催は吉原廓の翁屋の楼主である。二人の料理人による対決となったが、相手は鰻を見たこともなく、澪は大坂での修行経験があった。結果は相手の板長が鰻や穴子と同じにみて扱いを誤り、澪の絶妙の技量を楼主が認めて決着した。

 鱧の身の中には小枝のように張り巡らされた小骨があり、これを口に触らないようにする作業が一骨切り」であり、極めて熟練を要する技量である。
 澪は腹から包丁を入れてわたを抜き綺麗に開く。それを皮一枚のみ残して
幾筋もの筋を入れていく。ここがハイライトであるが、今の大阪・本場の料理人は開いた半身にまず筋をいれていく。一寸の身に二十五、六もの筋をたんたんといれていく。次ぎに残りの半身にも筋を入れていく。これがリズミカルで早いのである。テレビドラマでは、主役の手さばきはゆっくりしていた。
 画面上の骨切りはそれほど絶妙とは思わなかったが、北川景子の絶妙の演技にすっかり惹きつけられた。
 好みのタレントが又一名増える結果となった。

                                     


 



楢山節考

田村公雄

我が家の近くの大泉図書館で毎月開催される「名作を読む会」に参加して4年目になる、日本文学と外国文学を隔月に読む。この会に入っていなければ一生涯読まなかったであろう本を読めることは、新しい刺激を受けたり、世界が広がったりで楽しいものである。
五月の作品は深沢七郎の楢山節考であった。70歳になった親を、口減らしの為に楢山に棄てに行く物講である。これは村の厳しい掟でもある。主人公のおりんは69歳で楢山行の準備にいそしんでいる。長男・辰平の妻は昨年事故で亡くなっている、後妻を手当てして安心して楢山に行きたい。息子の辰平には16歳のけさ吉をはじめ4人の子供がいる。辰平の後妻・玉やんが決まったが、孫の近くの末やんを孕ませてしまったので結婚することになる。悪いことに、その松やんが大食漢なのである。育ち盛りの4人の子供たちに後妻と大食漢が加わり、おりんはせき立てられる感じである。振舞酒や山で敷くむしろは3年前から用意できているが、一つだけ用意出来てないことがある。おりんの歯がきれいに全部揃っていることである。そのことは恥ずかしいことであった。歯の抜けた老婆として山に行きたいと思い、密かに火打ち石で歯を叩いては壊そうとするがうまくいかない。ついに思い切りよく石臼のかどに歯をぶちつけた。二本前歯が欠けてうれしくなった。血だらけの下唇を噛んで上の歯が抜け落ちたのを見せようとすると鬼婆と書われた。これで肩身が広くなった、全ての準備は終わっだと思った。後はいつ山に行くかである。
この村では、四世代目のひ孫を持っだ老婆は、ひきずり女という悪名を頂戴する。だらしのない女・淫乱な女という意味である。食糧事情の悪い時に思慮のない多産な女と辱められた。孫・けさ吉が孕ませたひ孫は年明け早々に生まれそうである。ひ孫の顔を見てからにすればよいのに、家族に汚名を残さぬために、年末に出に行くことにする。そして敢然と実行に移すのである。おりんの隣に住む又やんはもう70歳になっていたが、どうしても山に行きたがらない。息子が背板に縛りつけて行こうとするが、縄を食いちぎって逃げ回る。おりんに笑われる。それにしても、おりんの勇敢さ、肝のすわった度胸の良さは見上げたものである。じたばたせずに従容と腹を切る武士の潔さを感じる。人里離れた、山あいの寒村の老婆にである。作者の表現法も考えられている。淡々としているのである。悲壮感や悲惨さをじめじめと書かずに、からっと乾いた描写に終始しているので、かえってこの習慣のそら恐ろしさを感じさせる。
私は十数前徘徊したり異常行動をとる認知症の母を介護施設に入れたことを悔いている。夫婦共働きで充労面倒を見ることが出来なかったのもその理由の一つであった。介護施設は体のよい楢山だったのである。以上

                                     


 



"老い楽園"での焦り

谷川亘  2014年6月21日

 5月に入って区役所の方から、「高齢者実態調査」実施の通知があり、その“適否?"の問い合わせと、別便では「健康長寿チェックシート」なるものも送付されて来ました。
 確かに昨年は75才に至り、四分の三世紀を怠惰にも生き延びて“後期高齢者"の括りに否応なく入ったのですから、いくら、俺は“光輝壮令者"と枠がっても、所詮、有無を言わさぬ御上の決め事。無駄な抵抗をするつもりはありません。
 最近の苦悩はただ一つ。喜寿目前。
 観念して「老いることは認容しても、老いを克服する人生」を、如何にしたら完遂出来るのか?
 これに尽きます。
 私の場合、以下の事情で“老い楽園"入りがひと回り遅れてしまいました。
 二代目として家業を継ぎ、アルミに生涯を賭けて、成長期から安定成熟期へと曲がりなりにも順風満帆?そろそろ引退の二文字を目前にして遭遇したのがリーマンショック。何としても有終の美を飾らんと“俺は不死鳥、別格なのだ"なんて自らに言い聞かせ、老骨に鞭打って乗り切り、会社の“元気印"を復活させたものの、“杜長さん''は馬齢重ねて既に七十の大台越え。辛くて厳しかった、経営実務の終着駅に到達したのです。
  「仕事冥利に尽きた」なんて強がっては見たものの、これを以て``老いの突っ張り"と云います。疲労感が募り心身ともにボ~ロボロ。老いに向かっての健康づくりも、“黄昏楽園"入園に向けての備えもそっちのけでした。
 この間、もっとゆとりある老後への助走ができたのに、遅きに失したのです。
 結構焦ったのですよ。
 遅れを取り戻すべく、不義理してきたOB会にも積極的に顔を出しては仲間を求め、体力づくりと健康増進のために、「山歩き会」に名を連ねては、近隣の秩父、奥多摩の目帰り山行を重ね、一昨年は富士登山、昨年は谷川岳を制覇し、身体鍛錬の一助と致しました。それまでは、最低の義務として課した、単独での、年一度(我が祖先ともいえる)夏のゴンドラ付谷川岳と、月一目標の奥多摩御嶽山だけでしたから大いなる進歩です。
 仲間と行くのは、単独では味わえない別の楽しみがあります。
 写真クラブに入って、一枚にあれもこれもと凝縮した写真に、「何を写したいの?」と揶揄されたと思えば、大写しした一輸の花に、にれ日の丸」写法って言うんだよねえ…。新入りのくせに顔真っ赤に口角泡飛ばして評価し合うのが快適で痛快。この道でのセミプロ並みの仲間を得る事も出来ました。
 また、「酒楽会」では、現役時代に培われた、“飲んでも酔わない"特技を生かして、事務局を拝命いたしました。
 てなことで、中身の濃い数年間を過ごせたかに見えましたが、今春も恒例の、初日の出に輝く職場近くの東京ゲートブリッジを写すべく、朝一の電車ものかわ11度も出勤を重ねたのですが、pm2.5のお蔭?で出来の方も総じて薄ぼんやり。.
 不運の倍返しとはこの事。医者もビックリ、橋上の冷風に晒されて急性なんたら炎に罹患してしまいました。
 出足にっまずくと、次は、持病である腰痛は重々承知していながらの雪掻き。拙宅が信号付き角地故に止むなく勤労奉仕したのですが、思った通りのぎっくり腰。そうそ、雪審と言えば、アイスバーンの道路で転倒して手指捻挫のオマケまでついたのですから何をかいわんやです。
 春先には、数年前までは無縁であった花粉症。杉にとどまらずヒノキ?まで。こんなに難渋したのは老いて抵抗力の弱まった証拠と観念しています。
 従って、今年に入って仲間との山行は不義理のしっぱなし。
 足早に迫りくる老いに立ち向かい、空白取り戻すべく、気は焦れども本体が言いうこと聞かないのです。

 故事ことわざの類に、「慌てる乞食は貰いが少ない」とあります。
 「急いては事を仕損じる」とも、「慌てるな!!そんなに急いでどこに行く」とも言います。
 しとしと雨降りしきる梅雨の闇空の中に、我が人生の終着駅の明かりがチラチラ垣間見.える今、三途の川の対岸に泳ぎ切れる体力と気力を、決して多くはない“賞味期限"のうちに、温存しておかねばならないのです。
 それでも、「焦りは禁物、急いでいる分だけ落ち着け」とおっしゃいますか?

                                     


 



頑張れニッポン!!

加藤裕明   14,06,21

世の中サッカーワールドカップー色だ。サッカーフリークの一人として大いに喜ばしいことだ。集団的自衛権やイラク、ウクライナ情勢、、隣国との関係など一一市民として考えなくてはならない間題は多々あるものの、せめて1か月のワールドカップ開催期間、目一杯純粋に楽しみましょう!思い起こせば中学入学時クラブ活動でサッカー部を選んだら、あんな不良の集まりの部には入部するな.と先輩から忠告された事もあった。50年以上前の区立中学校では野球部、テニス部はエリート、サッカー部は不良の巣窟のイメージがあったのです。
親父の転勤で転校した福岡市の中学3年の時ウイングで県大会に出場したが3対1で一回戦敗退。都立高校では遊びまくりで球に触れず、早稲田の同好会に入ったが高校時代からの喫煙と同好会とは言え当時のサッカー全盛期の母校は極めて高いレペルで全くついていけず半年で脱落退会。それでも東伏見のグラウンドでへたり込んでいた時の挨っぽい土の匂いをたまには思い出す。当時は芝のピッチなど夢物語でした。競技者としては落伍者だがそれでも観戦者としてはいっぱしのキャリアを誇っていいかもと自負している。高2の東京五輪の駒沢競技場の対アルゼンチン戦の勝利を観戦の嚆矢として、大学では国立での数回に亘る目韓定期戦、Jリーグでは最層のチームウェアを3人の子供たちに着せ国立や等々カで応援。クラブ世界一決定戦のトヨタカップは役得で。2002目韓W杯だけは仕事が超多忙で観戦出来なかったことが一生の痛恨事だ。

それにしても中1の時の55年前、目本でW杯なるものがある事を知っていた人が何人いただろう。今の周本の盛り上がりを見るにつけサッカー一後進国から急速に有肩上がりで先進国の仲間入りができたこの50年の興隆を実体験出来ていることはとても幸せだ。本当に25年前までは極めてマイナーなスポーツだっだ訳で、丁度戦後の敗戦国から高度経済成長期を体験していらした半世代前の諾先輩方の達成感や充実感と同様に、と言ったら言い過ぎか。しかし経済や国力が踊り場を迎えたようにサッカーもいつまでも右肩上がりとは行くまい。実際Jリーグも開設20年を迎え観客動員数がここ…、二年減少傾向にあると聞く。モータースポーツ業界に10年弱奉職しその活性化や将来図を考えざるを得なかった私としては趣味の世界とは言え肩本のサッカーの将来展望もお節介ながら気に病んでしまう。
サッカーは最も単純な球技だけに人の要素が全てだ。そこでヘースとなる選手人口を調べてみた。まず、各国の協会に登録されている小学生からの選手人口は世界で2億7千万人、目本は約100万人。人口比率では世界72億人、目本1億2千万人として世界3.8%、目本0.8%、約5分の1の比率だ。因みにW杯の優勝候補のドイツ8000万人に対し650万人、なんと目本の6倍8%の高率だ。選手育成システムの優劣が同等と仮定しても優秀な選手が6倍の比率で輩出する事になる。ただし選手人口をドイツ並に向上させようとしても人口減少のみぎり不可能に思える。唯一つ可能性はある。それはプロスポーツの雌、野球の選手人口150万人の存在だ。ある調査では2015年高校の野球、サッカーの選手比率が逆転すると言われている。全部とは書わずせめて50万人ほどサッカー界にお越し願えれば人口比1パーセント越えが達成される。野球ファンには何と言う不逞の想像かと厳しい叱責を頂く事間違いないが、コートジボアール戦を見ても瞭然日本は本岡以外は極めてひ弱な体格だ。しかもスペインがオランダに惨敗したように今の胃本の目標である小柄だが技術と敏捷性で優位に立つていたスペインサヅカーがピークを過ぎたと懸念される現在、野球界に流れている強靭な体躯の人材を取り込むより方策はない。考えてもみてください。清原や阿部クラスのセンターバック、松井や秋山のミッドフィルダー、マー君やダルビッシュレベルのフォワードなんて想像するだけでウキウキするではないですか!!今回のW杯はその為にも何とかグループステージを突破してほしい。いつの目にかW杯での目本優勝をこの目で見届けたいと言うのが連日の睡眠不足と名勝負に半ばうなされている私の妄想エッセイのテーマです。頑張れニッポン!! 以上

                                     


 



崖っぷちに立つ小保方さん

石岡荘十   2014/6/21

 「STAP細胞」で一撃時の人となった理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)の小保方晴子さんが、崖っぷちに追い詰められている。かつて実験成功の喜びを分かち合い、ネイチャーの掲載論文の共同執筆者でもあった若山照彦・山梨大教授(47)が十六目記者会見し、「夢の万能細胞の存在を裏付けるデータは、ついに出てこなかった。予想していた中で最悪の結果だった」とSTAP幹細胞の細胞解析の結論を明らかにしたからだ。

 若山氏は2時間半に及ぶ記者会見で、「(STAP細胞が)あったらいいなという夢があった」と、何度かSTAP細胞への思いを口にした。だが、素晴らしい成果と信じていた論文には次々と疑義が浮かび、今年3月には撤回を呼びかけることになった。「論文の撤回はつらい判断。絶対やりたくないことだが、そうしない限り自分が研究者として生きていけないかもしれないと思った」と苦渋の決断だったことを明かした。「僕はできる限りのことをしてきた。小保方さんはあとは自身で間題解決に向けて行動してほしい」と呼びかけた。小保方氏や、論文の責任著者を共に務めた笹井芳樹・CDB副センター長が、4月の記者会見などで若山氏に責任を転とだが、そうしない限り自分が研究者として生きていけないかもしれないと思った」と苦渋の決断だったことを明かした。「僕はできる限りのことをしてきた。小保方さんはあとは自身で問題解決に向けて行動してほしい」と呼びかけた。小保方氏や、論文の責任箸者を共に務めた笹井芳樹・CDB副センター長が、4月の記者会見などで若山氏に責任を転嫁するかのような発言を繰り返したことに、若山民は「僕に全部責任を押しつけられるんじゃないかという現稀感があった」と振り返り、自らの潔白を証明する気持ちから、今回のSTAP細胞の解析を第三者に依頼したことを明かした。

 しかしその一方で、小保方さんの実験のずさんさをチェックできなかったことは、「僕が最初にSTAP細胞が何かということを確認し、うのみにせずに実験ノートを確認していれば防げたと思う」と後悔の言葉を繰り返した。小保方氏を「チャールズ・バカンティ米ハーバード大教授の右腕という触れ込み」で紹介されたことなどから、「ノートを見せなさいとは言えなかった」と書い訳した。公開された小保方氏の実験ノートの感想を間われると、「実験ノートは研究者にとって命の次に大事なもの。細かい情報が書かれていないのは信じられない」と不信感をあらわにした。また小保方さんがSTAP細胞を「200回作った」と発言したことについては「200回やるなら、マウスが1000匹くらい必要だが、僕の研究室で提供できる数ではなかった。小保方さんはマウスに詳しくなかったので、そういう発言をしたのだと思う」と分析した。これに対して小保方さん側は、STAP幹細胞の作製で使われたマウスについて、若山教授の研究室以外から入手したことはないとのコメントを発表し、若山氏の見解を全面否定した。その上で、それでもなお小保方さんは、「STAP細胞の存在を証明したい」と反論している。

 この騒動の真実はどこにあるのか、未だ藪の中である。かくなる上は、小保方さんが、信頼できる第三者の目の前でSTAP細胞を作つて見せる、再現実験を成功させる以外に方法はないのだが、その可能性は大きいとはいえなさそうだ。だが万が一、彼女が言う「コツとレシピ」を駆使して「ほら、これがSTAPですよ」と言う結果を出したら、彼女はあのマリ・キューリー夫人以来の女性化学者として、その名を歴史に残すことになるかもしれない。

                                     


 




人間ドックと内視鏡検査

岡本龍蔵   2014.6.21

「今日は死ぬ思いで来ました」「内視鏡検査で死んだ人はいません」
 人間ドックが卓くなり、夜中に目が覚めると内視鏡検査が気になり眠れなくなるが、ついに検査日が来た。
 聖路加国際病院の人間ドックは、70歳前までは胃の内視鏡検査に弱い人に対して全身麻酔を行っている。それを過ぎると、全身麻酔はリスクが大きいため、この病院では局部麻酔だけになる。
 データによると、胃カメラで全く苦しくなかった人は90.6%、少し苦しかったは5.7%で、苦しかったは37%だった。少数者だが嫌う人はいる。
 病院によって経鼻内視鏡検査法(鼻から挿入する方法)をやっているが、聖路加では管径が細く検出力が劣ることから採用していない。
 これまでは嘔吐の苦しみがひどく全身麻酔だったが、70歳になり咽喉部の局部麻酔だけだからたまらない。
 余りのつらさから、翌々年は検査目直前にバリュウムのX線検査に変更した。検出力より、、何よりも、これに限る。
 しかし、検査後の面談で、医師から胃内視鏡検査のベテラン医を紹介するからと勧められ、内視鏡検査に再チャレンジした。経験豊富な医師ならと検査に臨んだ。恐怖心は和らいで臨んだが、結果はつらかった。
 そうして1年経ち、その目が来た。内視鏡検査で苦しむくらいなら、胃がんの早期発見など放棄してもいいくらいだ。
 私は人一倍、痛みや苦痛に耐えられない。
 軽井沢テニス合宿で、下腹部がぐるぐるする激しい便意に襲われた。肛門付近の便がカチカチに固くなり、それが止め栓になって激しい便意を催すが排便できない。いてもたって居られず、早朝無我夢中で合宿所を飛び出した。唐松林の中を駆けずり回った。周期的に来る下腹部の痙撃に林にしゃがみ込んだ。毒があればあおって死んでしまいたい。また、四十肩の夜間痛に耐えらずに、恐怖の夜を過ごしたこともある。痛みや苦痛はごめんだ。

 紹介されたベテラン医は、聖路加病院の「人間ドック」の総責任者であることも告げられた。先生は私の検査カルテから内視鏡検査の拒否反応を読み取り、「それでは私の責任で静脈麻酔をしましょう」と。あっけなく光明がさした。
 麻酔から覚めると、「終わりましたよ、どうですか」と。
 咽喉の嘔吐反応はメンタルな面が強いので、「麻酔をしたので、ゲーゲーはなかったですか」と尋ねた。
 麻酔をしても「あった」と言われ意外な気がした。
 身体年齢が若いので起きるので、普通の人は年をとると敏感でなくなるので、ゲーゲーは起きないといわれた。私は若いと「褒められた」のだと受け止めた。
 これで当分の間、毎年「自分の寿命」と「内視鏡検査」とのイタチごっこが続くことになる。

                                     


 



白金台の八芳園

江蔵忠道

 私は、公益社団法人目本不動産鑑定士協会連合会という団体に所属していて例年、白金台の八芳園で総会が開かれる。北は北海道から、南は沖縄までの理事や代議員による総会で、私のような平杜員は、傍聴席で、議決権はない。
 しかし、いろんな情報が得られるのと豪華な立食パーテーがあるので、毎年出席している。会員だから、入場料はいらない。
 今年もいろんな議論が交わされたが、協会として目立った業績は、今年から不動産鑑定士が収集した取引事例が、協会のコンピューターを通じて全国どこでも検索できるようになったことだ。決算や予算の審議も無事に終了して総会は終わった。懇親会のパーテーは五時からということで、一時間半も間が空いた。
 それでは名園でも探索して見ようかという気になった。時は新緑の季節で庭が一番美しい時期とのこと。庭石を伝って歩いていると、夢庵(むあん)という茶室に出会った。僅かな料金で、お茶を点ててくれるという。和服姿の綺麗な令嬢が一服出してくれた。茶室を眺めながら、利休の心を感じて、お茶を愛でた。
 後でパンフレットを見て分かった事だが、この園の由来は、天下のご意見番として知られる徳川将軍の旗本、大久保彦左衛門の屋敷だつたとのこと。道理で立派な庭園だ。そしてその茶室は明治時代横浜の生糸貿易商田中平八が建てた茶室を移築したものという。
 庭の中心に大きな池があり、錦鯉が何十匹も悠々と泳いでいた。係りの人に聞くと新潟の産地から輸送されたもので、時価は最低一匹二十万円はするとのこと。
 庭のやや高台の所に、独立してチャペルが建っており、誰でも見学できる。厳かな雰囲気が漂う。絨毯を敷き詰めた広い廊下を進むと、左手に空色のランプが灯った尊厳な教会風な礼拝堂が二室あった。八芳園は緒婚式場としても有名だ。若いカップルが見たら、ぐっとくるだろう。受付の人は、神前挙式場も見れますというので、4Fに行った。親族控室、列席控室、美容室等も豪華そのもの、挙式場は神社そのものだった。下見に来る人のためにも開放されているのだろう。因みに料金はと聞いたら、五十人程度で、三百万円位からとのこと。天井は切がないということか。
 五十数年前、区民館の二階で、かまぼこだけの引き出物で済ました自分達の結婚式を思い出す。前例を知らなかったことも原因の一つ。でも土地付きの一戸建てをローンも無しに用意してくれた両家の両親には感謝だ。

                                     


 



ネクタイ ―雑感―

華岡正泰  26-6-21

 ネクタイを締めなくなって随分と時が経つ。今では年数回の葬式と会社のOB会、それに正月のワセオケの時くらいか。ワセオケで家内は、正装姿の練稲諸氏を見て、「普段とは違った素敵な人バかり」と舌を巻く。そして私は「当り前だ。皆、何十年もその道を立派に過してきた人達なんだから」と胸を張る。確かにネクタイを締めるか締めないかで、醸し出す雰囲気が違ってくる。
 
 このところ夏場のクールビズが定着している。高温多湿のわが国ではそれが当然。しかし、それに走り過ぎてはいまいか。冷房完備の国会内での閣僚、議員の恰好には目を背けたくなるものがある。それも5月からでは早過ぎる。民間ではありえない姿である。

 ネクタイの締め方を教ったのは、宇野政男教授のゼミ“マーケッテング"の時間で「ベルトのバックルが見え隠れする程の長さに」と言うのであった。全員が学生服、場違いな感じの中での余談だったが、今でもそれを覚え、実行している。ゼミでは
◎ある特定の柄のネクタイの売り上げを伸ばすにはどうすればいいか?その柄だけを店頭に置くのではなく、平凡な柄の中からそれを選ばせる、それを目立たせる陳列が必要。
◎特定な柄の決め方は?
◎売上が期待出来ない平凡な柄との製造割合、採算のとり方は?等が討議された。
デパートでは店内一番の美人をネクタイ売り場に配するのだそうである。しかし私は美人に声を掛けられるのが嫌で恥ずかしく、ごく稀に求めるにしても決って衝動買だ。自分で買ったものはお気に入りだから、当然それを多用することになってしまう。ネクタイなるもの須らく女房殿以外の他人様から頂戴すべし・・となる。女房殿のタイが気に入らないと大変なことになるからである。

 身の回りのものを整理しようとネクタイを子供達に分け与えた。余り正装をしない長男には2本あったワセダ・タイの1本を、残りは次男がゴッソリ持って行った。たまにではあるが子供達がそのネクタイを締めてやってくると、休日に見るのとは違って、我が子ながら凛々しく見えて嬉しいものである。
 
 ネクタイは太さ、長さ、柄など流行が激しい。新しいものを必要としない現在ではあるが、せめて2~3年に1本くらいは買い求め、それを締めて何処かへ出掛けるような、その様な暮しがしたいものである。 おわり
                                     


 



大正デクラシーと服装界

柳洋子  14.6.21

 天皇行事関係の一方に大正デモクラシーといわれた民主主義的風潮が、社会を席巻したのが大正期の時代性である。船舶一隻で神戸の汽船会社を設立、折りからの戦争景気に呼応して1916・大5年に16隻を運航、株式配当60割という話題、鉱山、貿易、船舶成金続出。一方では「ぶらぶら節(衣服がボロになり紙に紙は金に、金は資本家の妾の頭を飾るダイヤに…)」に表象される庶民生活がある。
 そこで、労働が1911・大元年、鈴木文治主導の友愛会に始まる。目本最初の社会政策立法といわれる「工場法」の実施。友愛会婦人部の設立(1911・明44年の青鞜運動に萌芽があった)などの活動が続いた。1920・大9年に友愛会は大同本労働組合総同盟となり、やがて、目本労働総同盟へと改組されたのである。
 その一方で同常生活、それも「米」が同本中を席巻したといっても過言ではない「女房一揆」・「米騒動」が起こる。もともと米自体は1918・大7年の暴利取締令による最初の公的戒告が農商務相により津市の岡半右衛門に出され、続いて各地の米穀取引所休業はあった。農商務省が外米輸入商を指定(三井物産、鈴木・湯浅・岩井商店)、さらに大坂の堂島米穀取引所の立会停止、続いて東京、神戸、熊本の取引所も立会停止、内地米10石以上所有者の所有数量の強制調査を地方長官に通告。その一方で、宮山県下新川郡魚津町の漁民の妻達が「米価高騰防止のため、米の県外への船税中止を荷主の要求しようと海岸に集合」し世にいう「米騒動」が始まった。米価は天井知らずの勢いで高騰(1918・大7年初め1升24銭が7月に10僕以上に値上がり)しこの状態はたちまち全国に波及し、7月から9月中旬の50目間にわたり全国に。38市、153町、173村、計369カ所。全国参加人員1千万人といわれ、東京では同比谷公園に集結した。一方、軍隊はビーク時2万2千人、延ベ5万7千余人という規模であった。
 そのような大規模騒動に触発されたかのように、上田製糸時岡館の女工スト、富士ガス紡績本所ストというように女性労働者のストライキが頻発するようになった。
 しかし、1912・大元年、ストックホルム・オリンピックに同本が初参加することで、ユニホームが必要となり、続く第'回全国中等学校野球大会、アメリカ式ポーイスカウト組織、青年団服、ボーイスカウト服が必要になり、当時は小倉木綿ではあったものの、ユニホーム作成の運動具店の出現となったのである。
 天皇関係行事、クリミア戦争の決着がつかず、第一次世界大戦へ、労働運動、米騒動と喧噪に大衆が巻きこまれたのが、大衆デモクラシーであり、一方では青少年世代のオリンピック、野球大会、ボーイスカウト活動がユニホームを登場させたのも大正時代である。
                                     


 



家族葬

寺村久義  2014.06

 最近、「家族葬」という言葉をよく耳にします。今回は葬儀社の社長として、家族葬について書いてみたいと思います。ところで多くの人が、葬儀も告別式も、同じ意味と勘違いしています。葬儀は「葬送儀礼」の略です。ここではご遺体への対応(現代では火葬)と、故人の魂への対応がなされます。日本では、魂への対応は、葬儀の9割近くが、主に仏教による『宗教儀礼』(鎮魂)として営まれています。それに対して、告別式は「儀礼」ではなく、故人や遺族との社会的な関係性の中で施行される『式典』なのです。そのため、告別式は本来、宗教的なものではなく、家族・親族のみならず、むしろ職場や、個人的な友人・学友なども含めた、故人と関わりのあった人々に向けて行われるものなのです。
 したがって、葬儀と告別式は、その『目的』が全く異なるにもかかわらず、通夜も葬儀も、それぞれ1時間以内という制約(多分に慣例とか斎場・火葬場のスケジュールの都合)からか、故人の鎮魂の為に行われている「葬儀」の読経中に、参列者が焼香をしながら、故人との「告別」をするということが、同時進行で行われているのが実態です。
 さて、去る日、大学サークルの64歳になる後輩が癌で亡くなりました。彼は、息をするのも苦しい中、家族への感謝と、"葬式は家族葬でやってくれ"という言葉をしたためた遺書を残しました。ご家族は、これに従って、彼の葬儀は家族と親族だけで、大阪の実家で営まれたようです。既に大手新聞社をリタイアしているとは言え、支局長や部長を務め、人望も厚かった男であったため、後日、誰言うとも無く、大阪では高校の同輩を中心に、東京では大学の同輩を中心に、それぞれ集まって「偲ぶ会」が開かれました。私は東京における30人ほどの偲ぶ会(会費制)に参列しましたが、気のおけない親友が集まっての偲ぶ会は、故人との関わりや思い出を語る、文字通りの「偲ぶ会」でした。
 今では、「家族葬」と言う言葉が独り歩きして、これを簡素なお葬式と誤解している人が多いのですが、本来、お葬式は故人に対する家族の想いが、最も大切にされなければなりません。従来の慣例的なお葬式で思うことは、会葬者が多ければ多いほど、遺族は会葬者に対する応対や答礼などに気を遣わねばならず、到底、懇ろなお別れの時間を持てないことです。
 人間はこの世に生まれて以来、色々な人たちとの関わりの中で生きてきました。誰もが支え、支えられてきた筈です。そのため、人の死は決して個人的なものではなく、社会の中での公のこととしての側面も持っているのです。従って、多くの場合、家族だけでゆっくりとお別れをしたいが、関わりを持った人が多いので、家族葬では済みそうにない、というのが実情です。
 ところで最近は、ネットで集客する業者が多数現れ、問題も生じています。葬儀の中身(アイテム)やその品質、およびサービスの質(多分にDrの質)はネット上の表示では分かりませんので、お客様を引き付けるのは価格だけとなります。ところが、葬儀は病院などで、身内がお亡くなりになると、直ぐ引き取らねばなりません。その時、葬儀社を呼ぶことになります。葬儀社との契約から、葬儀終了までの期間が短い上に、使った棺等は全て燃やしてしまっており、終った時、物的証拠が何も残っていないことが問題を生じさせるのです。葬儀は究極のサービス業と言われます。葬儀社の質と信用が一等大事な業種です。悪徳葬儀社は「お任せします」の言葉を待っていますから、これだけは喪主の禁句です。

                                     


 



父の日

古内啓毅  2014.6.21

 先週の日曜日、6月15日、父の日。娘たちから、どうする、と。こちらに尋ねてくるのもどうかと思いながら、月末に皆で集まる予定があるから何にもしなくていいよ、と伝える。が、娘たちで話し合ったようで、何かしら持ちよって、夕方、そっち(実家)に行くことにした、という。我が家で父の日パーテイか、しようがない、何か作るか、と女房と話す
 これまで我々夫婦、娘たち二人のそれぞれの誕生日、母の日、父の日などの折々に、外メシだったり我が家での小宴だったりで皆で寄りあってきている。最近は娘たちの連れ合いも加わり、集う回数が増え賑わいも増えてきた。家族の絆を確認するいい機会であり楽しみでもある。
 父の日は1916年にアメリカで認知され、日本で知られるようになったのは1950年代という。父の日はこのごろでは定着してきているが、明治生まれの父が存命中に父の日を祝った記憶はない。まあ、こんな日に父のことをちょっぴり思い出しながら集うのもささやかな供養になるか。
 いま、集団的自衛権をめぐって自公間でせめぎあっている。集団的自衛権の行使を容認すると戦争に参加することが可能になると明言する識者がいる。にわかに戦争が現実化するとも思えないが、これまでの我が国の戦争との関わりを振り返ってみると、明治27年(1894年)8月、清国へ宣戦布告し日清戦争へ、明治37年(1904年)2月にはロシアと国交断絶し、日露戦争へ突入。これらの戦いに勝利するが、以降、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦、太平洋戦争と戦局は拡大して行く。しかし次第に敗色濃厚になって行き、ついには昭和20年(1945年)8月の全面降伏という無残な敗戦を迎えることになる。日清戦争から敗戦までのおよそ50年余り、戦火止むことのない誠に不幸な時代を送ることになる。
 父は日露戦争が勃発した明治37年(1904年)12月の生まれであるが、昭和12年(1937年)7月の日中戦争が起こった時は、33歳で4人の子供をもつ父親。その父親が召集され中支(中国)に向かう。が、行って間もなく赤痢にり患し、内地へ強制送還となり地元、仙台の陸軍病院に隔離される。同じ病で強制送還され隔離された同僚がいたが病院で亡くなったという。父は幸いにも一命を取り留め無事に回復し自宅に戻りそのまま除隊となり、以後、兵役に就くことはなかった。辛い時期であったろうと思う。除隊後、産めよ増やせよの国策に貢献する結果になったが、私を含め3人の子供が生まれ合計7人の子持ちとなる。両親はすでにいないが、7人は現在も健在で。子育てに奮闘した我が両親は大いに称賛ものである。
 私は1940年生まれで敗戦の時は5歳。あの日、1945年8月15日は朝から快晴で、宮城県北部のわが故郷に駐留していた仙台幼年学校の兵隊さんたちが、正午ごろ空っぽの米倉庫に集まりワンワン泣いている姿や集会後に車列を組んで引き上げて行く光景をいまでも鮮明に覚えている。そして子供ながらこれで戦争は終わったんだ、ととっても幸せな気分になったものだ。
 が、1950年6月、朝鮮戦争勃発。もう二度と戦争はないんだと思っていたのに、すぐ近くのところで戦争が始まった。またぞろ日本が戦争に巻き込まれるのではないか、と大変なショックを受けた。その後、米国のベトナム北爆、ソ連軍のアフガニスタン侵攻、イラン・イラク戦争、湾岸戦争など紛争は止むことなく続発。死傷者も大変な数に上る。どうして戦争は無くならないのだろうか。戦争はいつの時代も犠牲になるのは民衆であり悲惨だ。
 我が国は、今年は敗戦後69年。この時間は日清戦争から敗戦までの戦時体制にあった50年余りを大きく上回る。戦争に加担することなく一人の人間を殺すことも殺されることもなく誠に素晴らしい時を過ごしてきている。
 ところが、前述の通り、政権は国民に問うことなく憲法の解釈でもって集団的自衛権の行使容認に向け突き進んでいる。昔の不幸な時代に立ち戻るのだろうか。いうまでもなくそうあってはならない。
 父の日は美味しい手作り料理とお酒で、無事にお開きとなった。これからも家族のつながりを大事にし、平穏な生活がいつまでも続くよう努めて参りたい。

                                     


 



脊柱管狭窄症とのつきあい

本田はじめ  2014.8.16

 平成25年5月2日、朝、目覚めたら腰が痛くて起き上れない。うっ!どうしたんだろう?何がなんだか判らない。前日まで何事もなかった。思い当たることは何も無い。仕方がない。暫らくじっとしているほかない。動こうとすると激痛が左足に走る。左足が痺れている。昼が過ぎ、用も足したいので痛みを堪えて、少しずつ起き上がり、そろりそろりと動き始めた。独り暮らしで、武蔵関駅や東伏見駅近くには、長男宅や次男宅はあるが、勤めがあり、子供たちは皆、学校だ。自分で何とかしよう。室内は這ったり、掴まり立ちして冷蔵庫に、流しに辿り着いた。幸い飲物も食べ物も残っている。留守電に電話を入れておいたが、いつ気付いてくれるかだ。痛いのを、我慢して動いているうちに、しこりは、残るが、なんとか動けるので、こうして救援を待つことにした。娘は静岡に住むので、急場には間に合わない。電話の受話器は、子器を枕元に置いているので、掛かればすぐ取れる。午後、遅くやっと次男が気がついて、車でとんで来た。「お父さん!連休の始まりに痛み出したとは、間が悪かったな。でも話は出来るし、脳溢血とか心筋梗塞とかではなくて良かったよ。腰の痛みの薬、まだ薬局がやっているから買ってこよう。」そう言って、息子が薬局へ行って「薬局の人が、これがいい。」と言ったと「芍薬」を買ってきた。私が、常日頃漢方薬が良いそうだと言っていたのを思い出したのだろう。感謝して飲んだら、あれっ!不思議!しびれが治まって痛みが無くなった。漢方薬ってジワジワ治るもので、即効性なんて無いと思っていたのが、すぐに効きだしたのでびっくりした。入れ替りで静岡の娘一家が飛んできた。5月3日娘は、私の痛みが治まったとというので、それじゃあと後楽園に子供達を連れて、巨人・広島戦を観に行ってしまった。半信半疑の態で、夕方には帰ってきたが、私が動けるようになったので、安心して、4日は、子供達を連れて、午前中は海岸豊洲のキッザニアという職業体験館や午後は劇団四季のお芝居を観に連れて行ってしまった。5月4日ももう一晩様子を見て帰るという。5月5日は、子供達を連れてスカイツリー見学へ行ってしまった。私は、痛みも治まってきたので、せっせと芍薬を飲んでゴールデン週間の終るのを待った。5月6日も振替休日である。この間、町内の建具屋さんが腰を痛めて方々医者通いしていると聞いていたので、電話して聞いたら、「南蔵院のお寺の傍にも整形外科はあるが、あのお医者は、朝、株屋が来ると患者は放っておいて、奥で株買いの相談ばかりしている、あそこはよした方がいい。中村西の方のI整形外科は、患者を大事にしてくれる。」と教わった。彼はその後このお医者の診断で1年ほど治療して、最後は、平成26年6月手術をしたら、腰痛が治ってしまって、8月の盆踊りに出るくらいに元気になった。手術後はまだ経過観察中なので、どの程度長持ちするのか目下様子見である。
 建具屋さんの話を聞いたので、5月7日連休明けを待って、I整形外科を訪ねた。成程親切なお医者さんだ。丁寧に診察して、台の上で痛む所を調べて、レントゲンを撮って、写真を見せながら、「『脊柱管狭窄』ですね、痛みが激しい時は手術ということも考えますが、今のところ薬で対応してみましょう。」とカラー刷りの解説書を下さって、1週間分の薬の処方で終った。4週間ほど毎週様子を観て、以後症状により対応を考えますとのこと。痛み止めは、ロブ錠60mg、血栓が出来るのを抑え、血行改善と下肢の痛み・しびれを改善するというリマルモン錠5ミリグラム入り、消化管の粘膜を保護するレパミビド錠100ミリグラム入りの3種類の薬の処方だった。
 こうして、毎週1回診察に通ったら、「症状が安定したようですね。今度は、60日分のお薬で様子を観ましょう。」となった。外出は出来るが足もとが覚束無い。いよいよ三本足の老人の仲間入りだと言ったら、娘の婿さんが手頃な杖を買ってきて呉れた。折り畳み出来る便利なもの。痛みは無くなって、左足のしびれが残るだけ。それも次第に軽くなるような感じだ。
 9月に貰ったリマルモン錠は、飲み忘れることが多くなった。痛みは無いのでロブも忘れ、レパミドも忘れるほどになったので、薬に頼らず、自然治癒力を伸ばそうと遂に通院をやめた。
 私の身長は、4センチメートルも減った。脊柱管と脊柱管のつなぎの軟骨が縮んだのだろうと言われて、毎日小魚・雑魚を酢漬けにして食べることにした。焼鳥も軟骨を意識して買っている。肥満を防ぐため澱粉質を減らし、野菜で腹を満たす工夫で、丼一杯レタスを食べることにした。基本は、保健婦さんの指導どおり1日30品目の食事で、朝・夕二食を幕の内弁当のように大てい20品目食べている。青魚は鯵でも秋刀魚でも頭からがりがり食べてしまう。鶏肉も骨付き肉が多い。軟骨がついているからだ。娘が「年寄りは、痩せて貧弱にならないように」と、明治だったかのコラーゲン缶を買ってくれたので、朝夕牛乳に小匙一杯ずつ入れて飲んでいる。これに加えて摺り胡麻と黄粉も常備品だ。小太りが良いのだそうだ。筋肉の衰えを防ぐ必要もあるというので、一日七千歩以上歩くことにした。調子の良い日は一万歩を越す日もある。
 ところが油断大敵。平成26年6月、またぞろ脊柱管狭窄症が再発した。芍薬を飲むのまで忘れていたのである。仕方がないI整形外科へ又通う破目になった。原因を考えてみると睡眠中の姿勢が犯人のようだ。蒲団屋さんで抱き枕(1メートル位の長さ)を買ってみたが、同じ太さだとぴったりしない。探したら、片方は太いがもう一方は細くなったものを売っていた。早速これを買ったら至極ぴったりだ。お陰で朝起き時の痛みは防げるようになった。枕を買い換えてみても姿勢が悪いとやはり狭窄症は出てくる。寝相が悪くならないように横枕・膝下枕と買い足して、予防枕に囲まれて暮す破目になった。
 再び杖突き翁になって思ったことは、iPS細胞の活用で、この脊柱管軟骨を再生することを誰か発明してくれないかなという夢である。
 小保方さんが発表したSTAP細胞だって構わないのだ。
 私のかつての部下に交通事故で下肢への神経が切断され、車椅子生活者になってしまった人がいた。よく話していたのは神経の切れた末端が、自分で伸びて、成長して足が動くようにならないかなということだった。今やこの夢が報道によると実現されそうな研究が進んでいるというのだ。彼は、身体障害者になったせいか、大変思慮深く、しかも車椅子でバスケットボールをする位運動感覚にも勝れ、結婚してくれる女性がいて、世帯も持てた。彼のような人々の為にも、神経細胞の再生は切望されている。そして次に期待されているのが、加齢による痛みの発生や認知症の発生の予防である。軟骨の再生はスポーツ選手をはじめ高齢者の痛み苦しみをどれほど救ってくれるか量り知れない幸福をもたらす。
 人類の知恵は幾何級数的に発展している。未来を予言したトフラーの考えていた以上に次々と花を開くであろう。脊柱管狭窄症の克服などは明日にでも出来そうだが、せめて私が生きて元気でいるうちに実現してもらいたいものである。   (おわり)

                                     


 



それでもSTAP細胞の存在を信じて

石岡荘十  2014.8.16

 「限界を超えた。精神的に疲れました」と断ったうえで「小保方さんをおいてすべてを投げ出すことを許してください」「こんな形になって本当に残念。小保方さんのせいではない」と小保方氏をかばう言葉が綴られていた。末尾には「絶対にSTAP細胞を再現してください」と検証実験への期待を込め、「実験を成功させ、新しい人生を歩んでください」と励まし、「今日、あの世に旅立ちます」と締めくくっている。

 これは5日、自殺しているのが見つかった理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(CDB)の笹井芳樹副センター長(52)の自殺現場で見つかづた遺書3通のうちの1通で、STAP論文を共同執筆した理研の小保方晴子研究ユニットリーダー(30)に宛てたものだ。

 兵庫県警によると、笹井氏はCDBに隣接する先端医療センター内で首をつっていた。自殺現場付近に置かれたカバンの中から3通の遺書が見つかった。遺書はパソコンで作成され、封筒に入っていたという。東京都内で会見した加賀屋悟・理研広報室長によると、同センター内にある笹井氏の研究室には、秘書の机の上に理研神戸事業所の総務課長と人事課長宛ての書類が置かれていた。文末には直筆とみられる署名があり、それぞれ封筒に入れられていた。

 CDBの竹市雅俊センター長は笹井氏が今年3月の時点で辞意を示していたことを明らかにしたうえで、懲戒処分の対象となって辞められない中「職にとどまることを批判され、責任を感じていた」「マスコミなどからの不当なバッシング、理研や研究室への責任から疲れ切ってしまった」との趣旨の記述があったという。一方、竹市センター長は笹井氏の体調に関し、「研究室関係者から十日ほど前、体調が悪そうなのでケアしてあげる必要があると聞いていた」とも明かした。「家族と連絡を取り、休養や治療について相談していたところだった」と述べた。

 笹井氏自殺の報を小保方さんはどのように受け取ったかは伝えられていないが、大きな衝撃を受けたであろうことは容易に想像できる。一連の騒動で一番心配されていたのは、崖っぷちまで追い詰められた小保方さんの死―自死だった。その恐れはまだ消えたわけでなく、理研は女性の研究者と看護師を24時間、彼女につけていると明らかにした。

 それにしても、笹井氏の遺言をどう読み解くか。「絶対にSTAP細胞を再現してください」「実験を成功させ、新しい人生を歩んでください」という言葉は、再生医療・研究の世界的な権威であった笹井氏が、STAP細胞の存在を信じていた証ではないのか。理研は、小保方氏と共に、CDBの研究者が検証実験を開始し、今月中に中間報告が出る。9月からは小保方さん本人が実験に取り組む。論文をめぐるイザコザはあったにしてもこの実験の中で「ほら、これがSTAPよ」という結果が出れば、そのとき、一番最初に報告をしたかったのが笹井氏だったはずだ。ドラマはハッピーエンドで幕を閉じることになるはずだ。今、彼女に対する評価は、必ずしも有利なものではない。というより、きわめて不利な状況だ。STAP細胞論文の共著者であるチヤールズ・バカンティ米ハーバード大教授もネイチャー論文の取り下げに応じている。その上で、所属する米ブリガム・アンド・ウィメンズ病院の麻酔科長を9月1日付で退任する。

 こんな中でどんでん返しはあるのか。目が離せない。
                                     


 



四国旅行とひまわりと沈下橋

岡本龍蔵  2014.8.16

 JTBの人気コース「四国たっぶり20景めぐり3日間」に参加した。四国へ渡ったのは、宇高連絡船の時代と鳴門大橋から大塚国際美術館(複製品専門)を訪れた2回だけで、私には未知の国だ。
 旅の初日は大相撲名古屋場所の千秋楽で、観光バスが道後温泉に着くとテレビに直行した。結びの一番、白鵬━日馬富士戦だった。期待した優勝決定戦はなく、白鵬━日馬富士戦に勝って白鵬が優勝した。四国は相撲が盛んなようで、あれが朝青龍や朝赤龍の出た明徳義塾と土佐市で紹介された。今夏、明徳義塾は高校野球でも活躍している。野球の正選手は県外出身だという。
 四国名物のお遍路さんは88霊場、400kmを巡ると4、50日かかる。
ガイドさんによると、お遍路さんは1泊2食付で6,500円ほどなので、50日で約30万円、数回に分けて巡ると結願までに80万円ほどかかる。自装東は江戸時代の過酷な旅の心構え、覚悟だという。ツアーでは足摺岬の金剛福寺(38番札所)だけ立ち寄っただけだ。
 3日間のコースは、羽田からフライトで1時間20分、徳島空港から観光バスで、金毘羅さま━道後温泉━内子━四万十川と遊覧船一足摺岬とジョン万次郎像━はりまや橋━桂浜と坂本龍馬像━大歩危━高松空港まで総距離は何と1,600km(ガイドの話)4県を巡った。バスの1日制限走行距離が670kmだから3日で1,600kmは上限に近い。東京━鹿児島間の1,200kmを超えて安全に走ったものだ。
 四国は流通網が未整備でコンビニはないと聞いていた。「これがセブンイレブン第1号店」とガイドさん。四国ではこの3月愛媛にオーブンした。
 その後進性からか足摺岬のホテルにウオッシュレットがなかった。海外旅行用に揃えたのだが、四国旅行に持ってきた携帯型が役立った。

 旅のメモから、
1) 足摺岬の灯台へ向かう樹林道の大岩に「南無阿弥陀仏」と彫られている。「弘法大師の爪書き石」といわれ、のっべりした岩へ大師が爪で彫ったとされる。翌朝、足摺岬のホテルから浜へ下りた。傍らに苔むす岩があった。これだと思った。大師は爪を使って石面でなく苔面に描いたのだ…
2) ホテルは切り詰めて髭剃りも置いてない。部屋の浴衣は「大」だけで中小はない。やむなくこれを着たが、あとで棚の奥に「中」を発見し着替えた。初めから大中小を揃えておけば出費を抑えられたのに。ほかにもコスト削減法はあるだろう、まだ甘い。
3) 山間の一区画の畑にひまわりが咲いていた。妙なことに、花の南北の向きと仰角、丈、花や葉の大きさ、色が「一糸乱れ」ていない。ガイドさんは淡々と皆同じ方向を向いて咲いています、と紹介した。あれは「造花」だったのではないか。
 帰ってから「ひまわりネット」を調べたが、畑一面の造花は見当たらなかった。それにしても、一方向に揃い過ぎている。その目的は何か、何とも不思議な体験だった。
4)次はクイズです。四国の道路は車の交通量が少なく、主要道路はたいがい青信号で通過できる。押しボタン式なのだ。
 間題:主要道路に入る車は、交差点で降りて押しボタンを押す必要があるか。(道交法)
 答え;否(ノー) 押しボタンを押さないでよい。車が来ないことを確認して進めばよい。歩行者用押しボタンのようだ。(ガイドさんへの質問の答え)
 3日間の旅を終えた。四国はその直後から集中豪雨に見舞われ、台風11号も襲った。
 四万十川沿いの崖面に過去の台風による氾濫水位が刻まれていた。10mもの見上げる高さだ。
 四万十川の沈下橋は水没に備えて欄干がない。夏休みの裸の子供たちが橋から飛び降りて船客を喜ばせた。この子供たちは無事で、今日も泳いでいることだろう。
                                     


 



冗談は下心の表出なのか

大野 力  2014.8.16

 小森さんは六年ほど入社の先輩で、大学の先輩でもあって、いろいろとお世話になった。同じ職場で十年程一緒であったが、特に三年間は直接の上司で、今は楽しかったことだけが思い出される。小森さんは周囲に気を遺う人で、明るい雰囲気を創るためなのか、よくしゃべる楽しい人だった。周りには笑い声がよく聞こえた。酒はさほど飲まなかったが麻雀をよくした。仕事が好きで創り心の強い人であった。人間関係に気を遣う繊細な人であった。デスクに座って独りのときに、難しい表情を見せることがしぱしばであったが、強い印象として残っている。それに人気者の小森さんにまつわる逸話は、他人伝に聞いた面白い話を含めて多くあったけれど、今でもときどき想い出す話があるが、直接本人から聞いた話であるからそうなのかもしれない。
 小森さんが森永製菓のひとと打ち合わせが終わて、お茶を飲みながらの雑談となった時のことだそうだ。小森さんはなぜ電通に入ったのかと聞かれたので、ちょっとお時間を拝借してと断ってから話したという。「それはある広告との出会いです、その出会いで広告に興味を持つようになったのです。出会いの経緯はこうです。昭和27年のことです、早稲田の入試のために山形から上京する前の晩、母親が必要な金を呉れましたが、清治おまえは東京は初めてだから言っておくが、東京の人は嘘つきだから気を付けな、一と心配そうに云っていました。上野駅に着いて、宿をとってある高田馬場に行こうと山手線のホームに行きました。高田馬場へ行くのはここでいいんですかと聞いたら、違います、あっちですと教えてくれました。待てよ、東京の人は嘘つきだから気をつけろ、との母の言葉を思い出して、他の人に聞き直しました。違います、こちらです、と云うんです。やはり東京の人は嘘つきなのかなと、ちょっと混乱しました。気持ちを落ち着かせようと駅の外に出ました。足の向くままに上野公園に行き、ベンチに腰を下ろし暫しぼんやりしていました。背もたれにもたれていると、落ち着きを取り戻し、優しく抱かれているような気分がしてきました。振り返ると背もたれに広告がありました。よく目にする広告でしたけれど、その時、その広告が私に特別な感じをあたえたようです。初めて広告に出会った、との思いがしました。これが広告の仕事への入り口であったのかも知れません」。というような話をしたらその人は興味をもって聞いてくれたようで、その広告はどこの広告でしたか、と聞かれた。俺は照れ臭いと思いながら、森永キャラメルです、と答えると、その人ぱ笑いながら、そうでしたか、と愉しそうであった。俺はその人の反応に嬉しさをかんじたよ」と云っていた。僕は面白く聞いていたが、どこまでほんとなのかとの疑いは残っていた。後日暫らくたって小森さんがこう云った。「この前、某広告主と会つたときに、例のあの話をしたら乗ってきたので、俺も調子に乗って、その広告は御社のあの商品でした、と云ったら、その人はちょっと考えて、それはその次期に発売していたかな、と小首を傾げられたのにはまいったよ」と笑っていた。如何にも作り話の冗談と思われる話を、わざわざ付け足しのように話したのは、小森さんは私の疑いを気にしていたのだるうと思われる。上野駅までの話は肯けても、上野公園以下の話は創作に違いないと思っていた。作り話と思わせるこの話を付け加えることによって、二れまでの話は冗談だよと云っているのだ、と私は理解することにしている。
 常陸宮と津軽華子さんの婚約が発表されたときだった。「営業の南部君を知っているだろう、営業の。彼は以前、津軽華子さんとの見合い話があったが、家格に会わないと断ったそうだ。ほら常陸宮と結婚する津軽華子さんとだよ。」僕は南部さんは藩主の直系とのことだから有りそうな話だなと思ってはいたが、暫らくして南部さんと仕事で会ったとき、それとなしに本人に聞いてみたが、南部さんは、「小森さんが云ってるんだろう」と答えていた。肯定、否定の記憶はないが、ただ、静かににやり笑っていたが、意味ありげな顔の記憶が残っている。いまでも本当かどうかは分からない。南部さんはその後、兄の死去により会社を退職して郷里の岩手に帰り、資産管理の家業を引き継いだ。晩年は靖国神社の宮司を務めた。それは、明治天皇、明治政府と、東北との間に残されていたしこりが、百年を超えて解消したことになるのでは、と話題になったと記憶しているが、いまは故人となっている。
 「会津藩主松平容保は徳川幕府の命とはいえ、孝明天皇守護のため、京都守護職として全力をかたむけていたにもかかわらず、孝明天皇が死去するや、明治天皇を押し立てた岩倉具視・薩長らによって朝敵にされた。それからの会津東北は虐待されたと云ってもいいほどだ。明治天皇の即位だって勘ぐればいろいろある、孝明天皇、睦仁親王暗殺説だってあるくらいだ」と小森さんは時おり言っていたが、それは権威と権力を、距離を持って冷やかに見ていたのでは、と感じさせる。「東京の人は嘘つきだ」と云ったのも、東京と云う権力に不信感を持っていたのだろう。南部さんとは家格に合わないと云った、津軽華子さんと常陸宮との結婚話をしたのも、皇室と云う権威に冷淡であったからなのか、それとも、権威への疑り心がこの冗談紛いの話を語らせたのだろうか、と思ったりもする。
 小森さんが亡くなって二十年になる。昔の思いの断片が、いろいろと前触れもなく突然表れたりする。「過去は永久に静かに立っている」とのシラーの言葉を実感する。自分の老いの深まりの証なのかもしれない。

                                     


 



神田沙也加さんという女優

江蔵忠道

 机に向かって、さあ書きだそうと思ったら、私の携帯電話の帯に、台風十一号の天気報と同じ列で、[神田沙也加の歌声が美しすぎる]というテロップが入ってきた。私の心が、誰かに見透かされているようで、出鼻を挫かれたようだ。でもここ数週間考えていたテーマが、天にも通じたという事かと嬉しくも思われた。今、話題の時の人だからね。
 彼女はご存知のとおり、神田正輝と松田聖子の娘として、この世に生を得た芸能押すラブレットである。私が初めて彼女を見たのは、二十数年前の大宮ソニックシティで、幼稚園児ぐらいのときである。マスコミから完全にガードされていて、週刊誌にも顔写真はなかった。その日は、私も初めて聴く聖子ちゃんの歌謡ショーである。歌の前に、客席の中央に父親の神田正輝に抱かれた沙也加ちゃんが、突然現れたのだ。にこにこ笑っているあどけない彼女を見て会場は騒然となった。全く予期せぬ宝物を見たようなどよめきであった。
 松田聖子さんは女性の間でも、人気が非常に高い。歌の才能があって、人生を奔放に生きているからである。かつてはアメリカの医師との恋沙汰もあり嫌いな女性もいることだろう。私はひょんな事から、知ることとなる。私は、四十歳の時、好きな営業の会社を辞めて、不動産鑑定士の世界に転職した。第二次試験に合格していたので将来の夢はあったが、見習からのスタートで、鑑定士事務所(無給)と不動産会社の掛持ちだった。練馬の事務所と上尾の不動産会社に通い、数年は無休だった。社長は私より、年下だったが、事業力の旺盛な人で、セブンイレブンの講習会を受けてきて、フランチャイズチェーンになるという。私に任せるとの事。土地と建物はお手の物。採用した店長は出勤しないし,大みそかのパートは出ないし。私はよく知らないくせに、当時十七歳で歌手デビュウした聖子さんの一部千円するカレンダーを5部仕入れた。誰も買ってくれなかった。返品はきかない。責任上自分で買って家に引き取った。家内は何も言わなかった。
 6年前、下赤塚の駅から一つ池袋寄りの東武練馬のマンションに引っ越した。早速、近くに飲み屋を決めた。バイトのいうには、近くの2階のスナックにさやかという子がいるよとのこと。確かにその名の子はいたが店にはかよっていない。
 その後の神田沙也加さんはテレビにも出演しているし、アナと雪の女王の映画のアナ役で感動した。色彩や音楽も素晴らしく、ヒットする訳に納得。
 10月30日日本青年館大ホールで「タンガンロンパ the stage」という芝居があり、内容がわからないままチケットを二枚買った。沙也加さんの演技と生のセリフが聴けるというものだ。
                                     


 



お遍路

寺村久義 平成26年8月16日

 四国の人には悪いが、四由は「死国」と読み変えることも出来る。何故ならお遍路さんは白装束に身を包んで、死んだ気になって、四国八十八か所の札所(寺院)を巡る旅をする。白装束とは「死に装束」なのです。
 旅の全行程は1200キロメートル。平均時速4キロで1日6時間24キロ歩いたとして、50日かかる計算になります。忙しい現代人が2か月間も継続して歩けないのが普通ですから、1週間~10日単位くらいで挑戦するようです。東京からだと移動に1日見て、1回6日間の行程は144キロ。それでも8回往復しないと満願成就しないことになります。お遍路の道は、険しい山あり、黒潮洗う海辺あり、クマ笹が覆う道なき道であったりします。日の出に起き、日が暮れるまで、寺から寺へ巡る過酷な歩き旅です。お寺では経を読み、納経する。ところが陽暮れて宿に着いた時、得も言われぬ安堵感が疲れた体を覆うのです。
 こんな過酪な旅であるのに、お遍路する人たちが増え続けているのは何故でしょうか。何か功徳があるはずです。聞くところによると、歩いているときは浮世のことを一切忘れ、ストレスから解放され、心の病からも解放されるそうです。それは、お遍路さんが携える杖が「同行二人」と言われる由縁を知れば納得します。
 その杖のことを「金剛杖」と言います。金剛杖とは弘法大師空海そのものです。「何も心配することはない、私(空海)と二人三脚のお遍路であるぞよ、お前の傍にいて、悩み事は何でも聞いてあげるぞ」と約束されたのです。金剛杖をひたすら大師と思い、一人ではない、大師と二人旅なのだと、ひたすら大師を信じ、大師にすがって、大師が開いた八十八か所を一から順番に巡るのです。
 当社の社外監査役63歳が、先日四国八十八か所、歩き遍路を成就しました。3年前、大手公認会計士事務所を定年退職し、一念発起し、奥様同伴で5回で達成したと言う。歩き遍路は体力、気カ、財力が必要です。ただ、何時までに完走しなけれぱならないという決まりはないので、死ぬまでお遍路の途中と言えますが、自分のぺ一スで歩けばよいのです。また野宿しない限り、1日1万円は必要ですから、飛行機代を除いても50万円は必要になります。
 お遍路は、頭をからっぽにして、大自然の中、寺から寺へ進む度に、88の煩悩を一つずつ取り去る修行の旅。私は10年ほど前、3泊4日のお遍路バスというツアーで要領よく、香川・愛媛・高知・徳鳥と4県を巡りました。勿論、十数ケ寺なので遍路のへの字も名乗れませんが、きつ過ぎて歩いて巡るなど夢想だにできません。ところが、前記監査役はいま、また2巡目を歩いています。大師様の魅力に憑りつかれたのでしょうか。宿坊をスタートする人は毎日20人位いるらしいのですが、最近の傾向として、欧米系の人が混じるようになったとか。元気なうちにあなたも挑戦してみませんか。
 あなたも如何ですか。10月から11月がいいようです。
                                     


 



男性も80歳超え、だが

古内啓毅 2014.08.16

 このごろ出かけることが億劫になってきている。高齢になってきたせいか。昔手術した首、腰の後遺症による手・足のしびれ、感覚鈍麻などの症状が進行し、歩行にも少々の支障が出てきているせいか。
 日常の生活面では、相変わらず朝は早い。4時頃には起き、新聞に目を通し、ラジオの英語講座に耳を傾け、ストレッチ、ウオーキングなどのお定まりの日課をこなし、8時頃に朝食という流れはこれまでと変わらない。あとは本を読んだりテレビで映画やMLB、ゴルフ、日本のプロ野球などスポーツ観戦に時を費やし一日が終わる。こんななんの変哲もない日常が繰り返されることのお陰で毎日を安泰に過ごせる。
 新聞は1面から終面まで目を通す。とりわけ社会面の訃報記事は欠かさずチエックする。知った方が亡くなっていないか、ということだけではなく亡くなった方の死因、年齢、経歴などに思いを馳せる。死因は圧倒的にガンが多い、死亡年齢は高齢化している、葬儀は近親者で執り行う、あるいは行った、というのが最近の特徴だ。
 この8月5日付け朝刊で、拉致被害者・市川修一さんの父の写真入り記事と合わせ6人といういつもより多い方々の訃報が掲載。死亡年齢を見ると、なんと6人中5人の方が90歳、91歳、92歳、95歳、99歳と90歳を超えている。
 厚労省が毎年1回、各年齢の人が平均してあと何年生きられるかを表す「平均余命」の見込みを計算していて、そのうち0歳の平均余命が平均寿命となる。7月31日に2013年の数値が発表され、日本人男性の平均寿命が前年を0.27歳上回り、80.21歳となり初めて80歳を超えたことが分かった。女性は前年より0.2歳上がって過去最高の86.61歳となり、2年連続の世界一だ。
 厚労省の担当者は、平均寿命が延びたのは、各年齢でがんや心疾患、脳血管疾患、肺炎の死亡状況が改善したためという。そして、日本は男女ともに「人生80年時代」に入ったことになるが「医療技術の進展により、平均寿命はまだ延びる余地がある」と話す。
 8月5日付の天声人語によると、「日本人の人生の持ち時間は、ずいぶん長くなった。昨今は「健康寿命」が関心を呼んでいる。日常生活を支障なく送れる平均年齢をいい、男性が70歳、女性は73歳だから平均寿命よりだいぶ短い。差し引きの歳月は、介護や入院が必要な期間ということになる」と。
 少子高齢化が叫ばれ、人口減社会が進むと予測され、我が国の近未来の暮らしはどうなるのだろうか。最近の役人や専門家の試算によると、26年後の2040年には、医療や介護は今の水準を維持できず、現役世代の税や保険料負担が重くなる。今の税・社会保障制度のままでは、国の借金は約4倍の4千兆円超に膨らむ。財政破綻が避けられない。消費税は25%まで上がり、年金がもらえるのは69歳から。平均的な会社員世帯では給料の30%を社会保険料、10%を所得税などで負担しなければならない、という。ちょっと甘い見通しのようにも思うが、なんとも恐ろしい予測だ。平均寿命が男性も80歳を超えたといって素直に喜ぶわけにはまいらない。多くは言いたくはないが、集団的自衛権よりなにより取り組むべき課題はいっぱいありますよ、アベどの、といいたい。財政破綻になったらおしまいだ。まあ国の財政が破綻するより前にわが身の破綻が早く来ると思うが、それまでに残された時間、ささやかでも平穏な日々を過ごして行きたいものだ。
                                     


 



大正期‐服装界の実動開始‐

柳洋子 14.8.16

 大正デモクラシーの嵐の申で服装界は、紳士物を中心に米国の学校で製図、裁断をマスターし日本で実践を学校というシステムで普及しようとした人物、ドイツ、フランスなどの方式を導入する人物もいたが、日本人体型にはどれも不向きであった。
1925・大14年になると、英国ロンドンのスタイルが輸入され、いわゆる「モ・ボ(モダンボーイ)」に着用された。淡い藍色の無地か縦じまで無地、肩幅は広く、腰回りでしぼり、2つか3つボタンの上着、ズボンは太くて長いという特徴のものであった。
 つまり、外国からのスタイルの輸入が多くなる傾向に対応した業界は組合によって、対応策を立てないとという意向が強くなっては来たが、東京洋服商工同業組合という名称はすでにあったものの、「神田洋服商工組合」という神田区部のみが健在という実状であった。
この神田区部はもともと、アメリカからミシンを母の土産にもちかえった中浜万次郎(ジョン万次郎)のものを法外な値段で買い取り、それを機会に幕府の御艦手役の村垣淡路守との縁で船上作業衣の作製依頼を受け、それ以降海軍服の調整を一手に受けていた植村久五郎が指導格であったために着実に活動していたと考えられる。
 一方、1915・大4年10月10日の大正天皇即位式が11月8日に日比谷公園で行われるが、麻布提灯行列、ご大典奉祝行列などのために「大礼服」の需要が急増する事態となったことも、業界活動の必要性を大きくした。そのために、業界としては「技術大会を企両するという案が浮上する。本来、洋服裁断・裁縫の技術は「秘密主義・非公開」が原則であったが、諸大家洋服技術大会となると、業界紙、雑誌が日本毛織物新報や流行の世界のために集散するであろうから、あくまでも「実技(縫製)は非公開」ということで、開催にこぎつける。その第一回が神田で1916・大5年8月15貝から3日間行われた。
ただし、実技は非公開という条件であった。
この第一回の内容は、裁断法・製図・採寸・怒り肩、撫で肩の比較というものであり、盛況であったといわれている。とくに、撫で肩は日本人の体型の特徴であり、衆目を浴ぴたと思う。しかし、一口に撫で肩といっても左右の違い、とくに背広では芯地、パッと材、表地との関係、裏地との関係があり、これらは全て非公開の「縫製(実技)」に重点があるわけである。第二回は1917・大6年に一千名収容の赤坂三会堂で、裁断競技、裁縫品評、裁断講演・実演があり、金・銀・鋼牌による表彰もあった。

 日本の職人気質は、個人技であり徒弟制度による伝承ということに、特徴があった。服装についても同じであって、公開という技術伝達は大正期に入り、服装が普及してもなお実技非公開という状態であったことに注目し、日本の技術を知る上で留意点ともいえよう。
                                     


 



プラチナ世代とフレイル層

内藤雄幹 【2014,8,16】
 
 渡辺淳一が4月30日、八十歳で亡くなった。
 彼については、著書・「熟年革命」を読んだだけなので、文学者としての業績はもとより、他の作品についても全く知らない。彼が提唱した「プラチナ世代」の言葉は熟年世代をよく言い当ていて、気に入っている。 ゴールドほど派手ではないし、シルバーほど地味でもない。ケバケバしくないが、底光りする世代がプラチナ世代だと云っている。
 シルバーよりは新鮮な感じがして、いくつかの会合で使ってみたが、誰も知らない。流行語にはならなかったようだ。
彼の提言を要約すると
 「“もう年だから”などと考えず、世間体などに拘らず、常に好奇心一杯で、好きなものを追いかけ、お洒落で素敵な不良になり、人生の輝く時代を謳歌すること」である。      
彼の告別式で、数人の有名人がテレビのインタビューを受けていた。その中で、彼の作品の映画化に際して、主演女優となった“黒木瞳”は「最期まで格好良い紳士であった」と評している。
 プラチナ世代の生き方をあと10年は実践してみせてくれていたら、世界のシニア層に大きな生きる自信と喜びを与えてくれたであろうと惜しまれる。
 もっとも我が国では、死ぬと誰でも誉められる。そして惜しまれる。悪く云われる人はまず居ない。悪評があるとすれば、それは一部の歴史上の人物だけである。

5月8日、朝日新聞によると、日本老年医学会が、高齢になって筋力や活力が衰える段階を「フレイル」と名付け、予防に取り組むとする提言を行った。
定年を過ぎて高齢層に入り、持病はあったとしても息災な人達が社会的に様々な活躍をしている。フレイルとはこの層に当たると思われる。この時期を過ぎ、要介護状態に陥る人達は、時期に極めて個人差があり、年齢による線引きはできないが、 敢えて云えば人生の終末期に入ったと云うことであろう。
当医学会は、フレイル層が適当な食事・運動等による対応をとれば、心身のよい状態を長く保つことが出来るとしている。

私はこの提案を歓迎し、賛成であるが、一方において、国家がこの層に行政面で更に光を当てるべきだと思っている。課税、年金、健康保険、介護保険等々において、このフレイル層は年毎に冷たく扱われて来ている。今年に入り、消費税は上がり、物価は相次ぐ値上げである。それと共に、給与所得者(公務員・会社員等)のボーナスアップも報道されている。株価も上昇基調であり、アベノミクスの成長戦略は結構であるが、年金生活者が皆、有価証券保有者であるとは限らない。フレイル傷めの行政が続けば、近い将来、深刻な社会不安を惹起しかねない事を懸念している。 〈了〉
                                     


 



リケジョ

照山忠利 2014.8.16

 うちの家内は大学で生物学を専攻し、今は中学校の理科の教員として最後のご奉公に精を出している。生物学科を出たからカエルの解剖はできるが、魚を下ろすのは苦手で、刺身を作ろうとしても切身になってしまう。下ろされる魚が可哀想だ。
 娘は歯学博士の学位を持ち、新宿駅前歯科の院長をしている。婚活継続中ではあるが、適齢期オーバーで伴侶に恵まれる兆しはない。本業の歯科医の傍ら「エン女医会」なる団体を作り東北の被災地支援に行ったり、そうかと思えばテレビのジョブチューンとかいう娯楽番組に出たりしながら、親と同居のパラサイト生活を決め込んでいる。
 彼女らはいわば「リケジョ」の端くれである。このほかに二匹の雌のチワワが同居しているので、我が家は気がつけばハーレム状態になっている。その彼女らが先日、女子会を結成したと通告してきた。月に一度、週末に賄いは男手(つまり私)に任せて美食を楽しむことにしたというのだ。美食なら外でしたらというと、犬が一緒では店に入れないという。小生は学生時代の下宿生活や会社での単身赴任を経験したので、ある程度腕に覚えはある。特に鮮魚を捌くことに関しては他の追随を許さない(といっても前記のごとく競争相手がいない)。これまで特に自慢したことはないのだが、一応の調理の技は持っていると見抜かれてしまったようだ。多少お金をかけて高級食材を調達し、多少の我慢をすれば何とか食事にありつけると判断したらしい。当方も月に一度くらいはサービスしてやってもいいとは思うが、問題はエッセイ同好会の例会の日にリクエストされたらどうするかである。もちろんその時は決然として拒否権を行使するまでと覚悟を決めてはいるものの、多少の波風も覚悟しておかねばならないだろう。
 ところでリケジョの星と仰がれた小保方晴子さん。STAP細胞の研究論文の不正を指摘され、ネイチャー誌の掲載を撤回させられた上、後ろ盾となっていた理研の笹井副センター長に自殺されて窮地に陥っている。
 その小保方さんが3年前に早稲田大学に提出した博士論文につき、大学の調査委員会(小林英明委員長)はコピペの部分が11か所あり論文全体では20%を占めていることを認めながら、博士号の取り消しには当たらないとの結論を出したという。コピペはカンニング行為と同様不正行為であると指導しておきながら、なぜ取り消しにならないのか。「今後は国の内外でワセダで博士号を取得したという人は疑いの目でみられる。国際的にこれほどワセダの信用を失墜させる行為はない」と池上彰氏(慶大卒、NHKから東工大教授)は厳しく指弾している。(ちなみにこの指弾は笹井氏の自殺前になされた。)
 うちのリケジョたちは概して小保方さんに批判的だが、理非曲直は別として彼女の心中を察すると心配でならない。笹井氏の後を追うようなことだけは絶対にさせてはならない。信用を失った理研ではあるが、このことだけは組織の全力をあげて守ってもらいたいものである。 (了)

                                     


 



道教

田原亞彦

 仏教は中国経由で日本に伝わったから、中国は当然仏教国だと以前は思っていた。しかし、古代史の話の中で、今の中国には仏教の寺よりも道教の観(仏教で言う寺)、廟、山、祠、宮などの方がはるかに多いと聞いた。今日では西安の仏教僧が逆に日本に学びに来るとも聞く。大多数の中国人は仏教徒だが道教との混同が甚だしいらしい。「宗教は何であれ、今の生活の安定と、命の保障をしてくれるなら何でもいい、教養や縁起担ぎの為にあり身を奉げるものではない」との認識である。道教は「保存自己」にあり、「福・禄・寿」の現世利益の追求よりも自分の肉体、霊魂、影響力、名声を長く保持する為の方策と考えている。対象は、山、水などの自然神、天界神、教祖神、偉人・英雄、郷土神、民間神など多様である。 関羽を祭る「関帝」、福建省の航海神のマ姐神は有名である。マ姐信仰は長崎の彼杵郡野母町(そのき、のも)、鹿児島県野間半島笠沙、坊津などに痕跡がある。
  道教は無為を重んじた老荘思想をベースにして、易、陰陽、五行説、神仙思想などと融合し教団化してゆき、更に、 以前からの、仁・義・礼・智・信の五倫五常を説く孔孟の儒教や、紀元前後に伝来した仏教と習合して新教団が生まれ、唐の時代には多くの楼観が建てられた。
 日本人も大多数は無信教ではないが、神も仏も信じる重層信仰(シンクレティズム)である。温暖多湿な自然環境の影響であろう。道教では太陽にはカラスが、月にはビキ(かえる)がいるとされる。日中は同じく北半球に位置し北極星信仰もあり、なにか同質的なものを感じる。
 仏教は日本に500年台前半に伝わり、8世紀の奈良仏教は国の鎮護が主な目的であり、800年始めの最澄・天台宗、空海・真言宗の密教は、国や貴族社会との関係が密であった。
 役の行者(634年~701)は、伝えれた道教から神道と修験道を編み出し、修験道の創設者として吉野山の金峯山寺に蔵王権現を祭った。後の光格天皇から「神変大菩薩」の諡号を受けている。修験道は加持祈祷、呪法を行い、役小角の後継は 行基、密教の空海である。修験道は天台の本山派、真言の当山派に分かれ、明治以降はそれぞれ両密教に統合された。 
 律令時代には、神祇官がおかれ、天皇、朝廷や神社の祭礼儀式を統括した。暦の伝播により、合わせて年中行事や様々なしきたりが取り入れられた。無論道教の影響を多大に受けている。 又、制度の中に陰陽寮が設けられ、天文・暦・陰陽を管轄した。陰陽部門は祭祀的傾向を強め密教と結び陰陽道が成立し、平安時代になると、神祇官に代わり神事作法を仕切った。10世紀の安倍清明は有名である。
 いずれにしても、仏教にしろ諸々のしきたりや行事は朝廷や貴族などの世界のことで、庶民の手に届くのは鎌倉以降である。やっと、この時代から外来のものが日本的なものに消化されていった。そして今日的な元旦、節句等多くの風習・習慣・年中行事は江戸期に出来上がった。奇数や重畳表現(3月3日、5月5日など)が多いのは中国人好みである。  2014、8、16

                                     


 



夏のひととき

田村公雄

長女の娘夫妻と孫娘が二泊三日(8月4日~6日)の草津温泉旅行を申し込んでいたが、婿殿の都合がつかなくなった。急遽、じーじ・ばーばが婿殿のピンチヒッターとして参加する話がきた。しかし、解決しなければならない問題がある。飼っている二匹の猫をどうするかである。
元来私はペットを飼うのは好きではない。人間中心の生活であるべきだし、したいことは何物にも煩わされずに自由に出来ること、行きたいところにはどこにでも何時でも行ける状態であるべきこと、と思っている。特に余生においてはそういう状態でいたい、二人揃って。従って家内には「ペットを飼ったら離婚するぞ!」と宣言しておいたが、ペット好きの家内には馬耳東風。3年前から二匹の猫を飼い始めた。ツーリストクラブのメンバーになったり、小百合クラブ(大人の休日クラブ)のメンバーになったり、準備万端であったがすべては無用の長物。以来三年間、旅行無し生活が続き、旅行飢餓状態だったので、今回の話は何としても実現したかった。
近くに住む次女に頼んで朝夕の餌やり、猫トイレの始末、部屋の温度管理、庭の水やり等をしてもらうことになった。勇躍、東京駅から出る直行バスで現地へ。宿泊するホテルヴィレッジは草津高原の広大な森の中に存在し、スポーツ&レジャー施設がオールラウンドに揃っている。ゴルフ、プール、アーチェリー、フォレスト・ステージ、草スキー、テニス、釣り堀、パターコース、ボーリング、ビリヤード、卓球、森の迷路等三日間ではこなしきれない。
一番エキサイティングだったのはフォレスト・ステージの初体験であった。これはフランス山岳救助チームのトレーニングから生まれたエアートレッキングである。高い木と木の間に張ってあるロープや、長い丸太棒や、太いロープの網や、数多くのブランコ、吊り輪など14種類の不安定な障害を踏破しなければならない。勿論、命綱は付けているが高さに恐怖を覚える。最後は滑車が付いている命綱にぶら下がって10数メートル先の終着点に向う。まるで落ちていくような感覚である。二日日早朝の森林浴散策も都会では味わえない体験だった。一時間半の散策後のバイキング朝食は存分に食べられた。
白根山にも登った。登ったといってもロープウエイやリフトを乗り継いで、出来るだけ火山口まで行こうとしたがガスの発生で通行止めになった。高山花のコマクサが見れた。
パターゴルフ、卓球、森の迷路、プールも楽しんだ。小学四年生の孫娘はフォレスト・ステージも含め全てにチャレンジした。バレエをしているので足腰にバネがあり、バランス感覚も良い。最後に花火をして草津の夜を惜しんだ。星がたくさん見えた。頭も心も空っぽにして童心に帰ってリフレッシュできた。素晴らしい夏のひとときであった。 以上 (2014/8/16)
                                     


 



辞書を編む

小林康昭  20140621 上石神井南町

 昨年、公開された邦画「舟を編む」は、老骨に鞭打って辞書作りに身を捧げる文学者を、出版社の若き編集社員が支える姿を描いている。老文学者にとって辞書作りは、人生を賭けた、まさに寿命との競争で、完成を目の前にして、加藤剛扮する文学者は亡くなるのである。編集社員に扮する松田竜平が好評で、作品は国内の数多の賞を総なめにした。
                    *  *  *
 1984年の春のことである。海外土木部のI氏が、声をかけてきた。「土木の辞書を、一緒に作らないか」というのである。当時、土木用語の英語辞典がなかった。だから、いずこの海外現場も、英語で苦労していた。どこの会社にも、作ろうとする御仁は現れない。暇もないし、能もないし、才覚もない。
 そこに目を付けた出版社が、I氏に話を持ちかけた。安請け合いしたものの、彼の手に余った。それで、助け船を探していたのだ。出版社の社長に引きあわされた。社長の要求は、A5版で300ページの和英形式、収録数は1万5千語。相談の末、H氏、K氏、O氏を加えた5人の協働作業、ということになった。折しも、ビルマのラングーン所長への辞令が出た。現地で果報を待つことに。3カ月、6カ月・・・。だが、国内のI氏たちに動きがない。社長は焦れた。
                    *  *  *
 転勤を機に、一人で始めることにした。所長住宅の一室で、収録語の収集を開始。収集源は、用語を書き溜めた手作りのノート、各種の土木工学の教科書、自然科学の数々の学術用語集、様々な産業分野のハンドブックや便覧、そして、公刊の辞典類。カード一枚ごとに、見出し語(日本語)と語釈(英語)を、一組ずつ書き込んでいく。
 5時半起床。鶏が鬨を告げ、木立が靄に包まれている。直ちに作業に入って8時に朝食。9時前に事務所に入って、執務につく。夕方、5時半に帰宅。直ちに作業を始めて8時半夕食。その後、その日の作業を見直して11時就床。規則的な生活になった。作業が進むと、原文に当たる必要が出てきた。オクスフォード、ウェブスター、ランダムハウスの辞典類、英米の規格や規約や指針を取り寄せる。室内に、和文の文献56種、英米文の文献29種が積み上がった。
                    *  *  *
 1年半で、見出し語の収集が、一応終わった。だが、そのまま収録するわけにはいかない。収録するには、統一した基準が必要である。例えば、ケンブリッジを収録したら、オクスフォード、ハーバード、スタンフォードを無視できない。玄武岩や石灰岩を収録したら、凝灰岩、安山岩も対象になる。思いつくままに収集しただけでは、辞書にはならないのである。漏れた用語を拾わなければならないが、何が漏れているのか見当がつかないこともある。思いつくたびに、文献を漁った。見出し語が、夢に出てきたこともある。夢から覚めると、直ぐにメモに書きつけた。
 その頃、現地は、政情不穏に陥っていた。市中で治安部隊とデモ隊が衝突した。怒声や嬌声が飛び交い、治安部隊が威嚇して発砲する。悲鳴があがった。夜になると、活動家の家宅が襲われる。犬がけたたましく吠え、夜陰に紛れて逃げまどう足音が、軒下を走った。石が投げこまれ、机の前の窓ガラスが音を立てて割れた。冷たい夜気が入ってきた。
                   *  *  *
 その1年後、ようやく目論んだ見出し語の収集が終わった。3万語になっていた。苦労して収集したものを捨てるのは忍びなかったが、1万2千語を捨てて、1万8千語を収録した。着手してから2年半が過ぎていた。
 この1万8千語の日本語の表現を、専門用語として正しいか確かめなければならない。カード1枚ごとに目を通す。添削するだけで、また半年かかった。それから、語釈の英語のチェックにとりかかる。英語の正確さが、この辞書の生命である。語釈が、俗語や口語や会話用語では拙い。例えば、開始はstartをcommencementに、規則はruleをregulationに、権利はrightをentitlementに改める。同時にスぺルをチェックする。意外に間違いが多かった。
 出版社の社長から「出来た分からさぁ、日本に持ってきてヨ」と急かされる。ビルマに置いとくと火事に遭ったり、一度に全部を運ぶと途中で航空機事故に遭って、全部が失われるかもしれない。「あんたが死んでもさぁ、誰かに代わって貰えるじゃねぇか!」 チェックの済んだカードを、段ボール箱に詰め込んで日本に運ぶ。最後のカードを社長に渡したのは、1988年の暮れ。着手して4年が過ぎていた。それから、初校、2校、3校と校正を繰り返して、最後に「まえがき」を出版社に渡したのが、1989年6月だった。
 この辞書が、1万8千語収録の「土木和英辞典」と銘打って店頭に並んだのは、1989年11月である。この5年間、この辞書作りに、私的な時間をすべて割いてきたわけである。
                    *  *  *
 辞書は爆発的に売れた。社長は気を良くして「英和辞典も作ってヨ」と言う。「退職して暇になったら・・・」と応えると、「それまで待てねェヨ、その頃、俺、死んじまってるゼ」とのたまう。19歳年上の社長は、当時68歳。
 パソコン処理の時代になっていた。社長は「簡単だヨ!」と迫った。その時、米国の子会社の副社長の内示が出た。1990年8月、米国の地で、英和辞典に着手した。フロッピーに打ち込んだそばから、日本に送る。間違いは、自動的に訂正出来る。作業は簡単になったが、容易には終わらなかった。目標は大きく、4万語。収集に4年かかった。
(今、ここで死んだら、この辞書は陽の目を見ないな・・・)と思うことがあった。辞書は、原稿が完成してこそ、実現を見る。中途半端では、ゼロなのである。平日は早朝と夜、祝祭日は終日、辞書作りのために宿舎に閉じこもる。着手から6年、1996年12月に「土木英和辞典」が、4万4千語収録と銘打って上梓された。
 社長は、2年前に亡くなっていた。「まえがき」に追悼を記した。今の時代、土木の出版業界では、1千部売れれば、出版社は元が取れる、という。この和英辞典と英和辞典は、合わせて1万2千部を売った。今もこの時間に、外国のどこかの現場で、技術者がこの辞書を開いているに違いない。
 4カ月後の1997年3月末、34年の技術者人生に幕を引いた。うち海外に27年。そして、大学の教授に転じた。

                                     


 



パン食

華岡正泰  26-8-16

 きちんと朝食をとる様になったのは現役を退いてからで、それもパン食である。現役時代は夜遅くまで働いていたから疲れ果てて朝食どころではなく、時間もなかった。
 今の人達はパン食を気にしない様だが、私は未だにパンが好きになれないし、美味しいと思ったこともない。それでも朝パン食にするのは、米飯よりは楽だろうとの女房思いの気持ちからなのである。
 私が子供の頃、九州ではパン屋や蕎麦屋は珍しかったから、パンを食べる様になったのは戦後の昭和23年、中学を卒業して上京してからである。当時、主食の米は毎月の配給で、外食するにはその一部を外食券に換え、それを使って外食券食堂や蕎麦屋で食事をとったりパンを買う必要があった。米飯は値も高く、米不足からの売り切れも多かったから勢い麺類やパン食となったが、それは同郷の友人達も同じで、蕎麦を食べたことがなかった私達の中では“もりそば”の上に“つゆ”をかけてしまったという本当の話もあったのだった。ひと月の生活が配給だけで足りる筈はなく、アルバイトで小銭を稼いではヤミ米を買ったり、新宿駅東口か南口坂下の路上でオマワリの目を盗んではヤミ屋から外食券を仕入て補っていた。
 そんな時代、週に一度、法学部地下で外食券なしでも買へる“コッペパン売り出し”の日があった。一人一個に限られてはいたが有難かった。その日ばかりは講義をサボって列に並んだ。旨いもまずいもなかった。教室の片隅で齧りついていた。今の私の朝食のパンはDONQのフランスパン“バタール”の小サイズに決めている。硬いパンが何時まで食べられるか、それへの挑戦もあるが、その姿かたちが法学部地下のあのコッペに似ているとの思いが繋がっているのも事実である。
 米飯はそれ自体美味しいものだが、種類や産地によっても違った美味しさを味わうことが出来等る。しかしパンの美味しさは一瞬の歯ざわり、舌触り、香りだけである。私の朝のフランスパンも美味しくはないが「まずくはない」と言ったところか。最近、銀座で一個5~6千円もするパンが売り出され行列が出来ていると聞く。どんなパンなのか想像も出来ないが「高かろう、旨かろう」との金持ちの心を満たすだけのものに違いない。
 又、パンにはカロリーの問題もある。米飯が茶碗7~8分目で1単位に対し、パンはたった食パン半分がそれに当たる。それにパンにはバターやジャムをつけるのが普通で、益々高カロリーになってしまう。だから私達はバター抜き、ジャムは女房だけとなる。私のパンへの願いは美味しい小麦作りと低カロリーのパン作りだ。女房孝行での朝のパン食を続けるためにも。  おわり

                                     


 



余計なお節介ですが・・・
へそ曲がりの仮説


谷川 亘  2014年8月16日

 7月初旬、新聞報道で川端康成の若き日の恋文が見つかったとの記事に接しました。
 しかも、自筆の、全文のコピー付。700文字を以てなる連綿と続く愛の告白。
 度肝を抜かれたのは私だけではありますまい。何故ならば、ノーベル文学賞まで受賞した権威ある、尊敬すべき御仁だったのに、いくら青春真っ只中の一幕であったにしても、白日の下に晒されるなんて・・・。
 「晒す」とは、公開されていない情報を、本人の意思に背いて広く公開する、一種の“犯罪”的行為であると解釈すれば、さぞかし、ご本人も石室の中で壁叩き、地団駄踏んでいらっしゃることでしょう。
 余計なお世話でしょうが、私も、憤りを感じるひとりであります。

 でも、愉快ではないですか。天下の重鎮川端康成も、言うなれば若年の砌は只の人。
 恥ずかしげもなく、「何にも手につかない」、「夜も眠れない」ですって・・・。
 全く理由は異なりますが、このところの熱帯夜続き。私目も夜な夜な不眠と二人連れ。
 恋を肥やしにして、熱烈な恋愛感情が端緒となって、物書き人生まっしぐら。
 人生街道の折り目、折り目に“為しておくべき”体験は、その熱烈さ加減に濃淡の差こそあれ、しておくべきだったのだと反省しきりです。学生の頃はやった、「若い時キャ二度ない、惚れられろ~」なんて歌詞が、ゆ~らゆ~ら眼前をよぎりました。
 「伊豆の踊子」を始め、伊藤初代さんとの愛の顛末を含め、彼女との恋路の一部始終が、その後の執筆活動、少なくとも初期の作品の下敷きになっていると伺いました。

 いささか話がそれます。
 私目、付属高校に通っていたのですが、エスカレーターに似て、受験に追われることなく、教師も生徒も、良くも悪しくも自由闊達。好きなことをやってまして、「国語」とか「文法」に相当する、五段とか四段活用だの、面倒で難解な授業は一切なし。「文藝」と称して、伊豆の踊子や漢詩の朗読があると思えば、「文藝」担当の先生の好き勝手。一年を通して奥の細道、川端康成あり、太宰治、そして横光利一ありで、伊豆の踊子を朗読したM君のしてやったり的光景が、走馬灯のように蘇りました。
 彼は、外見はひ弱な感じで控え目。黒縁のマン丸メガネかけてきちっと詰襟制服着こなし、どこから見ても世田谷の良家のお坊ちゃまでして、その彼が「伊豆の踊子」のクライマックス。
 純情青年の、踊り子との実る事なき“交感愛情”を、隣りまで届くような大声出して滔々とまくし立てたのだから、一瞬、教室中の呼吸が止まり、ド肝を抜かれたものでした。
 一高生川島も、若かりし多感な世代で丁度二十歳前後。小説が同世代の我らに“乗り移った”疑似体験。貴重な青春時代の一コマだったのです。
 話し戻します。
 人間誰しも一生涯の中には転機となるような、体験の積み重ねがあるものなのですが、文藝春秋に寄稿された、康成の娘婿である川端香男里著「川端康成と永遠の少女」によると、「伊豆の踊子」の原点ともなる初代さんとの出会いは、本郷のカフェ・エランであり、彼女はそこのマダムに養女のごと“大切に”育てられていたとあるし、当該カフェとは文人、芸術家相集い多士済々議論して酒酌み交わしては芸術論が盛り上がっていたとは言え、所詮、隣に侍るは“女給”さんであり、今流にいうコンパニオン。
 初々しい恋路を邪魔する下心は微塵もないが、どうも“気になって”仕方がない。
 「カフェ」の語感が悪い。カフェって何なの?コーヒーの語源、あるいはコーヒー店を指すともあり、西欧にある、これ見よがしのカフェテラス付のレストランもカフェ。日本では、大正末期から昭和の始めころには、女給の接待する、洋酒類を提供する西洋かぶれ酒場をカフェとも称したようですね。「モボ」とか「モガ」の流行った時代だったのかもしれません。
 呼び名の変遷はあったものの、今流に言えば、「バー」。つまり往時の女給は今のホステスに該当し、どう見ても“清純な恋”との語感の間には乖離がある。
 川端青年は、立ち居振る舞いは13才に違いないが、“中身”は、ほんのちょっとだけ大人びた“悪女”の魔法の虜になったなんてふしだらな考え持つのは、川端康成とノーベル賞の威厳に墨を塗るようなものですよね。
 「以て侮辱罪で厳罰に処する」。
 お断りしておきますが、女給、ホステス、コンパニオン。呼び名の如何を問わず、この手の接客は無くてはならない、女性特有の立派な職務なのであります。

 次に、初代さんからの一方的に別れを告げる手紙にある「ある非常」の二文字。これはのちの短編「非常」で、この文言がそっくり引用されているそうですが、初代さんは尋常小学校三年までしか読み書きを習えなかった由ですから、誤字脱字も無い訳ではないでしょうし、昨今、我々でさえワープロの類では同音異義語の類や当て字の大通り。
 「非常」とは、切羽詰まった普通でない状態を意味しますが、仮に、これを「事情」と書き換えれば、そんな逼迫感を覚えることなく、「非常。非常。非常とは何だ。常に非ず?我が常の如く非ず?世の常の事に非ず?」なんて狼狽せずに、「あっそう。そんな事情もあったんだよね~」。と、熱烈な恋路の幕を冷静に引けたかもしれないし、それよりも、伊藤初代さんからの手紙を再現した、川端康成著短編「非常」自体も日の目を見ることはなかったのではないだろうか?
 なんていぶかるのは私だけですよね。
 字体が似ていて間違いやすいことを、「魯魚の誤り」と言うそうですが、「非」と「事」もそれに該当するとしたら、初代さんの縁切り状は“罪つくり”。
 逆に、思わず失笑を買うのは石坂洋次郎著「青い山脈」。曰く、「変しい、変しい、私の変人、新子様」・・・・。
 
 私のアイロニカル風“文学的心”なんて所詮ここまで。


                                     


 



四季の記憶29「アルジャーノンに花束を」

鈴木 奎三郎

 暦のうえでは立秋も過ぎ処暑も超えたが、この暑さはいかにも耐え難い。細身で軽量ゆえ、以前から夏の暑さには絶対的な自信のようなものがあったが、トシとともに体力気力の減退は如何ともしがたいものがある。要するに何をするにも面倒で億劫なのだ。そのうえ、8月初めに起こった腰痛は、良くなるのにひと月もかかった。いったん発症すると治療院に行っても、湿布薬、塗り薬、飲み薬など何をしてもダメで、ただひたすら時間の経過を待つより方法がない。
 この夏80才になった長野の長兄は、以前「トシには70才、75才という壁があるよ。この壁をいかにうまく超えていくかが大事で、トシも考えずにスポーツジムで筋トレをしたり、ジョギングしたりは、ロクなことがないぞ・・。要するに頑張らないことが長生きする秘訣だよ・・」などといっていた。
 
 老人の思い込みと聞き流していたが、いまや現実の問題としてわが身にその壁が立ち塞がってきたのだ。
 犬と猫を比べても、犬が人間並みに暑さに耐性がないのに、気が付いてみたら猫は犬のように舌を出してハーハーすることもない。モノの本によると、いま人間と一緒に生きている猫は、そもそもアフリカ、中近東、インドにかけて生息するリビア山猫が祖先だそうだ。この猫は5千年ほど前にエジプトで大事にされ、欧州やアジアにも渡っていったのだ。犬と同じ毛皮を着ているのに、暑さには比較的平気なのは生得の性質なのだ。愛犬もこの時期は家の周りを、二回りほどすると足を踏ん張って、もう帰る・・と催促する。

 さて、暑さ対策のひとつとして、ぼくの消夏法はここのところ読書である。適度にエアコンの効いたわが家や、近くのケーキ屋で過ごすひと時は何ものにも代えがたい。仕事をしていた頃は、時間に追われ、仕事がらあらゆるメディアに目を通さざるを得ず、読書の時間をいかにひねり出すかに苦労した。一日一時間の読書時間を確保するのが精いっぱいだったが、いまや時間には恵まれている。それに、欲しい本はアマゾンで注文すれば翌日には手に入る。近くの書店に行く手間ひまや、注文しても一週間はかかることを考えれば、この物流の正確さと速さには驚嘆する。残念ながら街中の書店が衰退するのも、時代の趨勢か。
 さて、この夏は、以前から気になっていた2冊のお気に入りの本を再読した。ひとつは、6月に亡くなったアメリカのSF作家、ダニエル・キイスの代表作「アルジャーノンに花束を」である。SFものは若い頃から、早川書房の「SFマガジン」を定期購読したりで親しんでいたが、この夏は同書を懐かしく読んだ。

 この長編(早川書房)は1978年に翻訳刊行されて以来、45刷りを超える文字通りのロングセラーでありベストセラーだ。見損なったが、これまで3度も映画化、ドラマ化、舞台化されたりしているそうだ。ストーリーはこうだ。 文芸評論家の風間賢二さんが朝日新聞に寄せた書評を引用させていただく。
 「知的障害の青年が脳手術の実験で天才へと変貌するが、やがて再び知能が低下し始め、最終的には・・といった悲劇的な展開の涙なくしては通読できない感動作。若いうちに読むと、他人を思いやる心、他人を信頼する勇気に心底目覚めさせられるが、年老いてから再読すると、知と情をめぐる人間の一生をそのままなぞった深淵な書であることがしみじみわかる名作だ・・」
 32才になっても、幼児の知能しかないパン屋の店員チャーリー・ゴードンが、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に連日検査を受け、やがて手術により超知能を手に入れたが、やがてまた退行が始まる・・という、青年の愛と憎しみ、喜びと孤独を語り、うまく言えないが現代の聖書のような一冊であり、ぼくの聖書でもある。

 不覚にも読み進めるうちに目頭が熱くなった。若い頃に読んだ感動がよみがえり、また改めて感傷に浸った夏の夜であった。キイスのもう一つの代表作は「24人のビリー・ミリガン」。日本にも多重人格(解離性同一性障害)ブームを巻き起こしたノンフィクションである。確か映画化もされたと思うが、紹介するには紙数が尽きた。
 夏の夜は、ビールにナイターもいいが、万巻の書といわないまでも好きな本を読む楽しみも悪くない。

2014・9・1 鈴木 奎三郎記



 



四季の記憶28「無用になったタキシード」

鈴木 奎三郎

 いよいよ夏の盛りがやってくる。しばらくの間忘れていたあの“酷暑”の季節を迎え撃つ覚悟が必要だ。ぼくたちの多くが住む日本列島の中部はモンスーンの吹く温帯気候なのに、ここ数年はどうも亜熱帯地域のような高温で蒸し暑いシーズンとなる。日本は緯度的にも、周囲を大洋で囲まれた地理的条件からも、四季の季節ごとの温度や景色の変化にメリハリがあって、すべての生き物はそれぞれの季節の変化に対応し、さらに人間はその変化を肌と五感で感じ、味わい、楽しんできた。
 10年以上前から始まった“クールビズ”はすっかり定着してきた。公的な場でのノーネクタイにも違和感は無くなってきて、当初のようなネクタイを外しただけ・・というようなスタイルの人も見かけなくなり、総じてファッショナブルになってきた。これと対照的に、ユニフォームというものはややもすれば着にくく、個性を失わせる面もあるのだが、その制約が却って人を美しく輝かすことにもなるのだ・・ということを以前三宅一生さんから聞いた。その典型が、バッキンガム宮殿の衛兵のあの制服だろうか。
 
 ここ数年はネクタイをする機会がめっきり減って、考えてみたら月に一、二回、年にせいぜい十数回だろうか。ということは、必然的にスーツを着る機会も激減しているわけである。いただいたり買ったりして300本近く持っていたネクタイは、お気に入りの30本を残してあとはすべて処分した。ネクタイをほぐして、キルティングに仕立て直すかたもいるそうだが、息子にも「チョッとセンスが違うね・・」と見向きもされない。そこで気が付いたことは、ネクタイほど転用の利かない代物は無いという事実である。愛犬の首に巻きつけて写真を撮ってみたりしたが、嫌がってあっという間に首をふるって外してしまう。
 かたやクローゼットのなかには、いまだに処分するに忍びないスーツが20着超仕舞い込んだままである。来し方の日々への未練であろうか。なかでも、この先まず着ることはないであろうタキシードまでしまってある。

 これはもうずいぶん前のことになるが、森英恵さんのドレスコードのあるオートクチュールのファッションショーと、そのあとのフレンチレストラン「オランジェリー」でのディナーのために誂えたものだ。夜の八時過ぎから各界のお歴々に混じって、ブラックタイにカマーバンドのスタイルでいただくフルコースは、仕事とはいえ決して楽しいものではなかった。幾度となく通った表参道の白亜の森ビルも、レストランも今はもうない。    
 タキシードを着用に及んだのは、この数回のファションショーと、勤めていた会社が協賛したニューヨーク・メトロポリタン美術館での美術展のオープニングパーティぐらいのものだ。一回当たりのコストは、おそらく数万円になったのではないか。

 さて今年も半ばを過ぎ、いろいろなことが起って、それが夢かうたかたの如く消え去っていく。なかでも「うそ」「架空」という言葉にまつわることがとりわけ多く話題になったような気がするのだ。その一つが佐村河内守の会見、小保方晴子と理研の会見、片山裕輔被告のネット犯罪、ビットコインの理解不能な問題などである。他にもいろいろあったような気がするが、いずれのことも真偽のほどは定かではないし、個人の利害とは無関係なのでさほど興味のあることでもないが、これらのことを漢字に当てはめれば「虚構」「虚飾」ということになるのだろうか。
 もっとも考えてみたら、この世の中の成り立ち、仕組み、価値観はその都度変化していって、けっこうあやふやなことが多いのではないだろうか。必ずしもまっとうなこと、正しいことがキチンと伝えられ評価されるとは限らない。それが人間社会の歴史であり原罪であるのかもしれない。
これに比べたら、自然の摂理、季節の変化はまずぼくたちを裏切ることはしない。暑い、寒いと嘆かずに四季を楽しむ余裕が欲しいものだ。

2014・7・1 鈴木 奎三郎記



 



学位論文の審査事情

小林康昭  20140816 上石神井南町

 外部には明らかにされませんが、大学では、業績と資格による大学教授のヒエラルキーが制度化されています。下から学部の授業担当、指導担当、修士課程の授業担当、指導担当、博士課程の授業担当、指導担当で構成され、年功と業績を重ねながら登っていきます。指導担当の教員に、卒業論文、修士論文、博士論文の指導資格が与えられ、各学位の授与判定に関わることが許されます。授業担当教員は、定められた授業で講義を行い、学生の履修成績を評価する義務があります。
 採用にあたっては、学歴とその時点の業績によって、該当する資格の教員に任用されます。採用後、権威のある論文集に論文を発表した実績で、一段階上の資格を得ます。この資格を得た者が更に実績を重ねて、更にもう一段階上の資格を得ます。途中で挫折する者も、少なくありません。
 文部科学省傘下の学位授与機構に報告される教員名簿の、修士課程指導担当教員には合格の「合」、博士課程指導担当教員には「○合」(○の中に合の文字)のゴム印が、各氏名の頭に押されます。「合」「○合」は全国共通なので、専門分野の指導教員を欠く他の大学で論文審査をすることもあります。大学院教授とは、「○合」の博士課程指導担当教員のメディア向けの誇示に他なりません。一時期、私もそのような肩書を名乗っていたことがあります。ちなみに、学部の教養課程の教員は、概ね、学部授業担当教員です。
                    *  *  *
 日本には、論文博士の制度があります。学歴不問で、博士号の学位授与権を持つ大学(正確には後期博士課程の大学院)に申請し、論文審査に合格したら博士号の学位が得られる制度です。実際は、様々な制約があります。まず、「○合」の博士論文指導教員の特定が必要です。次いで、博士論文の執筆に値する実績が必要です。査読付き論文の発表実績があれば、文句は出ないでしょう。提出した論文は、指導教員が務める主査と複数の副査による審査を受けます。
 申請の受理から学位授与まで、大学ごとに内規を設けています。経験した三大学四学科から、二つを比較例示します。A大学は、専門分野で最も権威がある国内の論文集に査読付き論文を二編、さらに同等の権威の論文集に数編、いずれも筆頭執筆者で登載されることが申請を受理する要件です。申請したければ論文集に出せ、しなければ受理しない、ということです。申請が受理されると、論文執筆に入ります。執筆中に指導担当教員から、論文のチェック、指導、訂正の指示などはありません。書き上げて提出すると、審査会で主査と副査を前にして発表です。主査は無言で聞いています。副査に意見を求めません。副査も無言で聞いています。発表が終わるとお終いです。
 B大学は、申請前の要件はありません。だが、「○合」の教員から本人が「論文を書いて出しませんか」と言われないと申請は許されません。論文執筆の途中で指導教員から指摘を受け、書き上がってからも訂正させられ、審査会後に主査と副査が協議して指摘が出ます。指摘に対応して合格です。
 AとBの両大学の違いは、まず、申請者に対する能力判定の仕方にあります。A大学では、外部の権威が認めれば、「○合」の教員が見知らぬ人物でも申請可能な制度です。B大学では、審査する「○合」の教員自身が認める人物に申請させる制度です。当然、見知らぬ人物の申請は受け付けません。
 執筆する論文に対する評価にも、大きな違いがあります。A大学では、申請者は外部の高い権威をパスした人物だから、今更、ケチをつけるまでもない、とセレモニー化した審査会は殆ど形骸化しています。B大学では、外部の権威である学会論文集の査読委員よりも自分たち自身のほうが優れている、だから自身の目で学位授与の是非を判断するのだ、との自負の念が伝わってきます。
                    *  *  *
 世間ではA大学は開放的だが学位取得は難しい、B大学は閉鎖的だが学位取得は易しい、との風評があります。手続き上は風評の通りです。だが、論文の完成度に大きな差があります。博士論文は、所定の様式で製本されて、国会図書館に永久保管されます。目を通すに違いない、後世の学徒、研究者、学者から鼎の軽重を問われるのは、A、Bどちらの大学か、問われずとも答えは既に出ています。審査眼に自信がないから外部の権威のお墨付きに頼るのだ、との批判は的を得ています。その証拠に、アメリカで権威ある論文集に登載実績があったので、論文審査を殆ど素通りさせた結果、学位授与後、その論文で欠陥が指摘されたような無様な失態を露呈した事実で、明らかですね。



 



三遊亭圓窓師匠

小林大輔  8月16日

 かつて私に朗読を指南してくれた大学の先輩、俳優座の故・北村和夫さんは、雑談の折、口ぐせのようにこう言っていた。
「小林君、落語という芸を甘く見ちゃいけないよ。あの芸は、新劇なんて足元にも及ばない深い芸なんだ。 
 もちろん、高座に上る人は本なんか持たない。その上、1人で何人もの人物を演じ分けるだろう。
 八っつあん、熊さん、ご隠居さん、その奥さんのばあさん。長屋のおかみさん。子供だって、犬だって平気でやっちゃうんだ。
 よく聞いてごらん、人物が変わったからと言って、声のトーンは変えていないだろう。同じ声音(こわね)で口調を変えるだけ。これで何人もの人物を演じ分けるんだよ・・・。さすがに伝統芸能だね。」
 北村さんは、我々が、あはは・・・と笑って見すごしてしまう落語を、畏敬の念をこめてそう言った。

 豊島区の区民ひろば千早の所長 城寿子さんに「小林さん、落語家の三遊亭圓窓師匠に会ってみませんか?」と言われた時、「ええ、是非会わせて下さい」と、二つ返事でヒザを乗り出した。

 真打の圓窓師匠は、気軽なポロシャツ姿であらわれた。
 師匠の書き直した上方落語の「ぞろぞろ」が、小学生の教科書にも載っている。

 私は以前、詩人金子みすずが、自殺する当日の模様を、生のピアノの演奏と共に師匠が語りで聞かせたのを覚えている。落語のワクを越えていた。
 お年を聞いてみると、73才という。72才の私と同世代。ウマが合う。私以上に張りのある大きな声だ。
 私は落語家の「声」から、インタビューを始めた。

「ええ、落語家は、おしなべて声が大きいんです。
 内弟子に入った若い頃から師匠に大きな声を出せと言われていますね。でも落語家は、特有の発声法というのは一切ありません。日常の会話から大きな声を出せ、と師匠が教えるものですから、自然に大きな声になるんですがね。
 しかし高座に上って、この大きな声が、目の前にお客を置いた時に利くんですねェ・・・。これは、朗読も同じでしょう。
 落語は、庶民の喜怒哀楽を表現すると言いますが、この4つの中で笑いがあるのは、最初と最後の「喜」と「楽」ですよ。つまり5割、半分は笑いですね。これは、日常の会話も同じですよ。
 人に話す時、深刻な話ばかりじゃ、相手がイヤになりますよ。とくに、高座に上って落語をやる時は、そうですね。落語は日常の会話の延長ですよ。
 落語は、冒頭の「マクラ」から入りますね。「マクラ」の部分で、指定された時間の長短に柔軟に対応します。そして演者のキャラクターを、素顔を、しっかりとアドリブでお客さんに見せる。
 「本題」だけの落語って、あり得ませんよ。朗読はいかがですか。
 ええッ、出て来るなり、いきなり本文を朗読?そうですかねえ・・・?
 じゃ、出演者である朗読者のキャラクターや素顔は、お客様にどう見せるんでしょうかね。
 本文も大切ですが、もっと重要なのは、この演者がどういうキャラクターの持ち主か、という「人物」でしょう。」

 やはり、落語に学ぶことは多い。
 師匠に伺った話は、私は必ずや、朗読のステージにフィード・バックするつもりだ。

                                       


 



NPOの旗を立て

照山忠利 2014.6.21

 「こないだうちの婆さん(妻の母)がオレオレ詐欺で1200万取られちゃってね」。西荻窪の焼肉屋で生ビールを飲みながら知人が言った。「ええーなんで、どうしてさ」。一同は唖然とする。横浜の生糸商の家に生まれたのでお金は持っているらしいが、それにしてもである。高齢ではあるが認知症ではないらしい。
 国民生活センターによると昨年度、全国の消費生活センターに寄せられた相談のうち、認知症や知的障害のある高齢者が被害者となった例は約1万600件で10年前に比べて倍増しているという。内容的には、注文していない健康食品などを勝手に送り代金を支払わせる「送りつけ商法」が目立つが、投資や土地取引、住宅リフォーム工事で多額の金を支払わされたケースもあった。「地域の見守りや成年後見制度の利用で未然に防いでほしい」と同センターは呼びかけている。
 一方、その成年後見制度だが、利用者は昨年末時点で17万人余に上ったことが最高裁の調査で分かった。前年より1万人増え、近年では最多となったという。内容別では「預貯金の管理・解約」がトップで「介護サービスの契約」が続いた。物事の判断が十分にできず不利益を被る恐れのある人を守るこの制度がスタートしたのは00年。その年に配偶者や子など親族が後見人になる割合は91%を占めていたが、これが年々低下し13年は42%となった。他方弁護士や司法書士など親族以外が後見人になるケースは逐年増加し、13年は58%となっている。1人暮らしや高齢夫婦など、身近に対応できる親族がいないケースが増えているからで、今後は一定の研修を受けた一般市民が担う「市民後見人」をさらに広げる必要があると指摘されている。

 市民後見人をめざしてNPOの旗を上げて半年。高齢化が進む光が丘地区を中心にボツボツと相談が寄せられるようになった。先週は12日(木)、雨の中を旭町の楽膳倶楽部というところに成年後見制度の説明に行った。集まったのは高齢男女14人。手作りの昼食会を毎週木曜日に開いている。そこに加わって1時間半、昼食をとりながら懇談した。「後見人は誰が申し立てるの」、「誰がなるの」、「どういうことをするの」、「お金がないとできないの」、「どんな利点があるの」と質問が次々と寄せられる。高齢者は近い将来に不安を抱えているから切実だ。蒸し暑い中、汗を拭いながら応答する。
 今度、楽膳倶楽部は練馬区が後援する「相談情報ひろば」の9番目として名乗りを上げた。このひろばは区の福祉部と社会福祉協議会がバックとなって地域の多様な活動の拠点となるものだ。我々もここに成年後見制度の相談所を開設し、ささやかな一歩を踏み出したいと考えている。認知症予防活動の一環としての取り組みは、もちろん自らが認知症にならないための活動でもある。  (了)

                                     


 



練馬稲門会 エッセイ同好会について

悠々と朗読・昔は「音読」だった
決して「文章教室」では有りません。
自分の作品を持ら寄って発表するスタイルの活動、稲門出身者は皆さん文章に巧み。ことさら取り決めもなく自由な雰囲気があります。
随筆・論文集・小説・自分史など何でもよく、発表方法は「音読」。会員が増えても黙読とか事前配布はしないのが決まり。
「声」にして読むことを大切にしている、この発表形式は日本の古来の伝統です。
それだけに作品発表に時間がかかり、もはや満員盛況の状態。「欠員待ち」のうわさも飛んでいる。
皆さんも「書く」喜びと「音読」の楽しみを知ってください。書いて、読んで青春を取り戻そう!
(稲門PRESS 創刊特別1号 4/30発行より)

会場
(株)ニチリョク高田馬場オフィス 会議室 
新宿区高田馬場2-16-11 高田馬場216ビル7F

会費
年会費のみ 1,000円 ただし、懇親会は実費

問合せ先                                       
内藤雄幹 電話&FAX:03-6760-2815  E-mail:naito-t@jcom.home.ne.jp