練馬稲門会 小史 その1
                                             

はじめに

 2015年で創立37年となる練馬稲門会は、現在早稲田大学校友会東京23区支部のなかでも、その歴史、規模と活動実績で3本の指に入る屈指の校友会のひとつとして遍く知られるようになった。“ワセダを心から愛する・・”という一点で結集した創立の頃から、400名を超える会員を擁する今日に至るまでの足跡をこの辺でまとめておくことは喫緊のことであり、今後の当会の道しるべになることではないか・・という点で意見が一致した。
唐詩選の「歳歳年年人同じからず・・」の名詞のごとく、年月の経過とともにメンバーは入れ替わって新陳代謝していく。我々の後に続く後輩の皆さんのためにも、簡単な「小史」を記すことになった。

 幸い、事務局には完全とは言えないまでも、時系列に整理された資料や記録写真が残されている。これを辿って創立の頃から今日に至るまでの経緯をたどりながら、それがこれからの当会のさらなる発展を考える一助になれば幸いである。これまでの歴史を記録に留めることは未来への羅針盤にもなり、それが幾星霜を経ていけば当会の“文化”にもなっていくはずだ。
 企業は社会の要請に応えながら歩みを重ね、それぞれの特色を持った知的・感性的価値を生む。それが企業文化だ。それと同様にどんな団体でも過去の歴史をキチンと記録していくことは重要なことであり、いつの日かそれがひとつの“練稲文化”になっていくのではないだろうか。


校友会 
 さて、早稲田大学校友会会員は、2014年4月現在で海外も含めて現在約60万弱を数える。これには物故された方は含んでいない。男女別では、男性49万、女性11万で、おそらく全国の大学のなかでトップクラスの校友会であろう。
 校友会は大学の設立に遅れること3年、1885年に発足。2010年12月に設立125周年を迎えているから、今年で129年の歴史を刻んできたわけだ。
 2014年4月現在、校友会は総計で1,411団体を数える。
その内訳は以下のとおりである。

地域稲門会 399団体
海外稲門会 67団体
職域稲門会 351団体
年次稲門会 328団体
学部学科・ゼミ・体育各部・サークル・有志 266団体

 これだけの多くの校友会を擁するに至る道のりは2010年に編纂された「早稲田大学校友会125年小史」に詳細が記されている。本書を開くと、近年では「校友大会」「全国支部長会」「ホームカミングデー」などの発端、「代議員会」「稲門祭」などの成り立ちを知ることができる。特に、校友の祭典である稲門祭は時代の姿を反映、基本コンセプト、キャッチフレーズから始まり、各種行事がアイデア豊かに手づくりで実施されていく様子が時系列で知ることができる。


練馬区
 さて、当会が立地する練馬区の戦後の成り立ちを簡単に記しておきたい。これは知っているようで、キチンと知っている人は少ないのではないだろうか。
練馬区は1947年に板橋区から分離独立して誕生した、23区のなかで最も新しい区である。それまでは板橋区の一部であった練馬村、上練馬村、中新井村、石神井村、大泉村の区域が板橋区に含まれていた。しかし、当時広大な板橋区の区役所までの経路が著しく不便であったことなどから分離独立に至ったそうである。
 現在の練馬区の総人口は約72万人。これは世田谷区に次いで多い人口であり、練馬区より人口の多い市は日本に19市だけである。巨大なエリアと人口を擁した行政区域である。
ご存知の練馬区の区章は、カタカナの「ネ」に馬のひずめをデザインしたものだが、“区歌”があるのをご存知だろうか。「練馬区の歌」は1989年に一般公募で作られたそうだが、この歌詞には練馬区の素朴で四季の変化に富む風土が描かれている。公募による作詞は区民の久野幸子さん、作曲は区在住の作曲家川崎祥悦さん。1番の歌詞は・・
 
“花と緑につつまれて
  わが街・練馬をあるいてごらん
  春がきたよとこぶし咲き
  梅の香りが漂うなかで
  きっと元気が出るでしょう“

 四季折々の変化と美しさが詠いこまれた素朴で牧歌的な歌詞である。どんな歌なのか聴いてみたいと思い、区役所の広報室に問い合わせたところ、窓口の方は「区の朝礼の時に館内放送で流れています。これに合わせて、健康いきいき体操をやっている人もいるようです。ただ皆さんに広く知られているということはないようです・・」とのことであった。
我らが母校の「都の西北」は、おそらく大学の校歌としては知らない人はないくらいの名曲だが、それに比べていささか気の毒な存在である。ちなみに区の木はコブシ、区の花はツツジである。


設立の頃
 練馬稲門会は1978年3月18日、豊島園において第一回設立総会が開かれ発足した。これに至るまでには1977年10月に第一回目の発起人会が開かれ、以後5回の発起人会、4回の発起人幹事会を経て設立への道が創られていった。
 設立時の役員の顔ぶれは、以下のとおりであった。物故された方も多いとおもうが、多くの方のワセダへの思いと情熱が当会の原型を創っていった。

顧問:西海図至夫、高木純一
会長:荻野優
副会長:飯島武、伊達康一、斉藤七郎、長島健
幹事長:山根敬三
常任幹事:村上謙二、伊藤薫、林毅、木内宗雄、荻野隆義、柳沢昭晃
幹事:糟谷正郎、本田久夫、青木彬、倉橋一郎、宿谷彰彦、矢沢酉二
   浜島博、長谷川清、志田三男


初代会長 荻野優
 会長に選任された荻野優(まさる)は、1994年7月に逝去するまで16年にわたり会長を務めたが、名実ともに当会の創立者の一人であり、その発展に多大な貢献をしたことは誰しもが認めるところである。こよなく“ワセダ”を愛し、同時に練稲の発展に精魂を傾けた“情熱の男”であった。
1913年に東京で生まれた優は、早稲田中学、第二高等学院、商学部を卒業。弓道部で小笠原流の射手として活躍したスポーツマンであった。社会に出てからは、いくつかの自動車関係の会社を経て、
その業績を飛躍的に発展させたそうである。
 その厳しくも温厚で折り目正しい人柄と精力的な仕事ぶりは、1997年に編纂された「ありし日の荻野優を偲んで」(発行・荻野隆義・現練稲会長)に紹介されている。練馬区在住の小山宙丸総長など17名の方が寄稿している。「荻野優君の追憶」と題する献辞は少々長いが引用させていただく。寄稿は元参議院議員の斉藤栄三郎である。

 「荻野優君とは、早稲田大学商学部を昭和十一年に一緒に卒業したが、彼は早大体育部の中の弓道部の選手であった。弓道部は日置流で選手になかなか成れなかった。私は補欠選手で、彼の足元にも及ばなかった。彼の弓を引く姿は、まことに美しく丹頂鶴のようなイメージであった。
 彼は卒業すると、すぐに、日産自動車販売に入社した。父君が自動車畑で苦労した人であったから、彼は父君の仕事を継承したことになる。卒業アルバムの記念写真のなかで、荻野君はグループの“本橋冶武君のこと”と題して、“自動車を持たせたら、グループの中で大家であり外観はスマートでありながら、空手という物凄い秘法を会得した体育会の一員である”と書いている。
 荻野君は自動車産業の発展期に社会人となり、メキメキとその手腕を発揮して、副社長になった。
 彼はその名の示す通り優しい人で友情に厚く、良く友人の世話をした。早大の学友である岩瀬良二君が警備会社を創立すると、直ちに東京日産自動車販売の警備保障の仕事を任せた。私との関係では、彼の依頼で毎月東京日産自動車販売に講演に行ったし、昭和四十九年に私が参議院選挙に立候補したときには、早速お手のものの自動車を貸してくれたし私は大変助かった。
 早大弓道部の後輩の世話もよくしたし、母校の発展のために尽力し、商議員の仕事をまじめに実行したし、これを誇りとしていた。典型的なワセダマンであった。
 私は貧乏ヒマなしの生活であったが、彼は私の参議院会館によく遊びに来て家庭のこと会社のこと等をよく話した。
 若い頃から糖尿病を患い、私に向かって糖尿病は一旦かかると根治は難しいと語り、くれぐれも注意するようにと、アドバイスをしてくれた。非常に神経質なくらいに闘病をしていたのに病魔には勝てなかったのは残念だ。なんでもできる男であったが、病気との闘争では敗れた。
 しかしお子様方が立派に父親の仕事を継承し、ますます発展しているので、荻野君としては人生設計通りに生きたのだと考えている。荻野君の魂よ安らけく休み給え」
 
 現会長の荻野隆義は、そんな父の思い出を次のように語っている。

「父はワセダへの愛校心が人一倍強く、創立百周年の募金に際しては当時の西原総長を連れて、寸暇を惜しんで企業廻りを行うなど献身的な母校愛を持っていました。仕事とワセダと、そして人一倍面倒見のいい性格ゆえ、日々が多忙を極め、父と接する時間はほとんどなく、子供心にも寂しさを感じたこともありました。しかし、折からブームが到来したゴルフの手ほどきを受けたり、会員権を貰ったり、私の兄弟三人はゴルフにのめりこんでいきました。そういう点では子煩悩な父であったと思います。・・・」


荻野優初代会長

設立総会
 1978年3月18日に豊島園の“それいゆ”で午後3時から開かれた第一回総会には、約180名が出席した。これには、村井資長総長、田端健介練馬区長らが出席。規約の審議、役員の選出などが満場一致で可決され、懇親会も和気あいあいのなかに成功裏に終了した。練馬稲門会の輝かしい船出である。記録写真を見ると、スタートにふさわしい盛大で華やかな席であったことがわかる。女性の参加者が多いところをみると、多分奥様同伴の方が結構多かったようである。参加者の皆さんはほとんどがキチンとしたスーツ姿である。
総会参加費は3,000円、同時に今の年会費にあたるものとして、2,000円が“募金”という形で設定された。





2015・1  広報・ICTチーム 鈴木奎三郎 記





 



練馬稲門会 小史 その2
                                             

スタートの頃から20周年まで

 1978年3月に産声をあげた当会は、以降年1回春~夏にかけて、会場を変えながら総会を開いてきた。現在のようにサークルもなく、年1回の総会を開くことが唯一の目標であり活動であったようだ。初期の頃は「会報」も作っていなかったようで、初めて作られたのは1996年の18回総会のときである。記録のある主な総会の模様はデータや資料から拾うと以下のとおりである。
 
第1回の設立総会は、1978年豊島園にて200名が参加。村井資長総長、田端健介練馬区長が来賓として出席。会員登録されたのは約400名弱であった。

第5回は1982年5月に豊島園で開かれ、ご家族を含めて100名の参加。


第10回
は、1988年池袋のサンシャインプリンスホテルに220名が参加、アトラクションとしてボニージャックスが出演。

第16回は、1994年リーガロイヤルホテルに200名が参加。会に先立ち、新設された総合学術総合センターの国際会議場、図書館の見学会を実施。総会では、小山宙丸総長、大学常務理事矢澤酉二、校友会代表幹事石黒眞一が祝辞を述べた。この年に初めて「サークル活動」が提唱され、それが今日の活動の嚆矢となっている。

 この年の7月7日、名実ともに当会の創立者であり、その発展に尽力した荻野優会長が逝去、享年80才。2代会長として荻野隆義が選出された。

第17回は、1995年大隈会館で、参加者は前回同様200名程度。阪神大震災で被災した校友のため、落語家柳家喜多八師匠司会によるチャリテイービンゴゲームなどが行われた。

第18回は、1996年練馬産業会館において開かれ120名が参加。奥島孝康総長の祝辞、桂小文の落語、稲門グリークラブのコーラスなどが行われた。この時に初めて第1号の「会報」が作られて、これは現在発行されている「会報」の創刊号である。
 
2代会長に荻野隆義就任
第18回の総会で2代目の会長となった荻野隆義は“楽しく意義ある練馬稲門会”の未来を提唱している。

 「早いもので練馬稲門会も創立以来18年を経て都内稲門会のなかでも古参のひとつとなっております。去る5月17日仮称“東京稲門会”=東京23区稲門連合会の結成大会が開催され、16の都内稲門会が一堂に会し、従来よりあった各道府県校友会支部と、ある意味で同一歩調をとることと相成りました。残る7区の稲門会は、本年中に結成相成るとのことです。・・・」
と述べているように、各地域の稲門会は年度の前後はあるものの、この頃に校友会組織としての枠組みが出来あがってきたようだ。
 記録を見ると、この時の会員数は152名、年会費は2,000円、年間予算規模は140万円であった。会員数は設立当初よりも減少している。
 
 また同年、荻野隆義会長の発意で、稲門会の事務所が現在の豊玉南の国産自動車事務所内に設けられ、事務作業の拡充が可能となった。

創立20周年記念大会は、1998年6月に池袋サンシャイン「プリンスホテル天覧の間」において行われた。400名の参加を目指しファミリー会員券を発売したが、結果は300名ほどでであった。
 来賓として奥島孝康総長が出席、「21世紀の早稲田」をテーマに講演を行った。懇親会に先立ち、校友である小沢昭一の講演「明日のこころ」も好評であった。


荻野隆義会長


創立25周年記念となる第25回は、2003年6月第一ホテル光が丘で行われた。白井克彦総長、小林栄一郎校友会代表幹事始め、近隣稲門会からの多くの来賓を迎えた。
 特別イベントとして、稲門出身の落語家6人による“大喜利大会”を催すなど、25周年を共に祝う会となった。年会費は3,000円に設定された。

サークルのスタート
 創立以降、年一回の総会という出会いの場だけでは横のつながりもできるわけがなく、会の活動も限定的で会員も増えず、スタートから十数年を経てじり貧の状況に陥ってきた。スタートの頃の400名弱の会員は、2003年には150名と落ち込んでいる。形を作っても、会員相互の出会いの場やいろいろな活動の内実が伴わないと、魅力の薄れる会となっていく。

 1994年に、柳沢照晃幹事長の後を受けて、4代目の幹事長となった塩田典男(1996年に事務総長)はこの状況に対応するため三つの方策を考えた。

(1) 会員相互の親睦と連帯感の醸成を図るため、趣味やスポーツのサークルを立ち上げる。
(2) 校友会から入手した練馬在住の名簿にもとづき、約7,000名の校友に入会案内を送付する。
(3) 会員を地区ごとに分け、個別に訪問してサークルへの参加を呼びかける。

(1) については、1994年の総会案内に、以下のようなサークルの立ち上げを提唱した。
1.ゴルフ 2.テニス 3.釣り 4.旅行・ハイキング 5.囲碁・将棋 6.麻雀 7.ダンス 8.小唄・謡曲・茶道 9.うまいもの食べ歩き 10.スポーツ観戦 11.女性の会 12.その他
 
 サークルの案内にはすぐに入会希望者が出てきた。会員の皆さんが、趣味を同じくして定期的に会える機会を待ち望んでいたともいえる。 
 真っ先に出来たサークルは、ゴルフ、旅行・ハイキング、うまいもの食べ歩き、スポーツ観戦など。以降、テニス、釣り、囲碁・将棋、ダンス、小唄・謡曲・茶道などが続き、現在では無くなったものもあるが新規にできたものもあり、それが今日のサークル活動の発展へと繫がっている。
 組織としてのタテ糸に、サークルというヨコ糸が通されたわけである。会員にとっても、年1回の総会以外に趣味を同じくする同好の士が集まるインフラができてきたわけであり、同時に女性会員、奥様の参加の機会も作られたわけである。  

旅行部会
 サークルの中でも、初期のころから活発な活動を行ったのは「旅行・ハイキング部会」である。当初は海外旅行を中心に行われ、2000年前後から2008年ころまで、数回の海外旅行を行っている。ハワイ、オーストラリア、タイ、ベトナム、済州島など、いずれも20数名を超える規模のツアーとなった。

 2000年3月の「ハワイ・オアフ島7日間の旅」には奥様を含む30名を超える参加者があり、当地のハワイ稲門会とともに“環太平洋稲門会準備会”の設立総会を開いた。



 また2002年9月の「オーストラリア・ゴールドコースト6日間の旅」には、奥様も含め31名のツアーとなった。
 旅行部長手塚康博は、その思い出を2003年の「会報」に「我が一行31名を迎えてくれたのは、清澄なジエーテルと強烈な紫外線だった。当会はここ数年の間に、ハワイ、タイ、そしてオーストラリアへと、グローバル化の波に乗り切り、この一年の準備も流星の如しであった。・・宿泊ホテルのANA内の和食レストランでは、日本酒、ビール、ワインを痛飲し、大いに気勢をあげ、その賑々しさは耳を聾するばかりにもりあがった・・」と寄稿している。
 帰路の航空機は手違いがあり、リーダーの手塚もいろいろ苦労をしたようだが、手塚の企画力、強力な推進力、温厚な人柄が旅行部の基礎を作りそれが今日へとつながっている。



 国内旅行も、1995年前後から年1~2回各地のツアーが実施されており、2000年6月の東電刈場原発ツアーは50名を超える盛況となった。

ゴルフ部


 現在100名を超える最大のサークルであるゴルフ部は、1995年頃のスタートから昨年まで、その拡大、活性化に尽力したのは永らくゴルフ部長を務めた中島晴喜である。年に8回程度の定例会を継続し、125回記念大会、150回記念大会を成功に導いた。
 150回の記念大会は、2014年10月、高坂カントリークラブにおいて総勢132名の参加を得て開催された。参加者は練馬から54名、近隣19の稲門会から78名という盛況となった。これも手塚同様、中島のひたむきなゴルフに賭ける思いが結集した賜といえる。



 2000年前後から、歴史ハイキング、麻雀、囲碁、テニス、エッセーなどのサークルが続々と活動を始めた。入会希望者も増え、会としての横糸が次第に作られ強固なものとなっていった。それぞれのサークルの部長の情熱と事務局のバックアップが実を結んで行った。

 塩田が取り組んだ(2)については、1994年校友会事務局から入手した約7,000名の名簿をもとに、入会案内の勧誘を行った。約3割の校友から返信があったが、入会は30名ほどにとどまった。校友によって、稲門会にお対する温度差が浮き彫りとなった時期である。

 (3)については、ちょうどサークル立ちあげの時期と重なったこともあり、サークルへの勧誘を図るべく会員を地区ごとに分け戸別訪問を行った。正確なデータはないが、これによりサークルへの入会者が徐々に増え、今日の活況の基礎となっていった。仕事の合間を縫ってこれを進めたのは幹事長の塩田典男で、会員拡大、サークル活動の発展に果たした役割は大きい。

2015・3  広報・ICTチーム 鈴木奎三郎 記




 



練馬稲門会 小史 その3
                                             

ニューイヤーコンサートのスタート

1. 前号でサークル活動のスタートと展開により、当会に縦糸、横糸が通され、会の活性化と組織化が図られてきたことを記したが、何かもうひとつサークルの枠を超えて会員が総力を挙げて取り組むシンボリックな催事を立上げたいという機運が高まってきた。それは2007年に当会は創立30周年という節目とも重なるものであった。

2. 時あたかも2006年春、そのような状況の中で荻野隆義会長から早稲田大学交響楽団のコンサートを当会で主催・開催してはどうか・・いう提案が出された。大学当局からも、稲門会の地域社会への貢献という命題も打出された主旨にも合致するものであり、同時に会の組織化、会員の新規拡大にもつながる催事として位置つけることができるものと期待された。

3. その是非について、役員会で何度か熱心な論議が行われた。当初は「親睦組織としての当会にとって、これはひとつの興行でありそれに伴うリスクが大きい」「チケット代が高すぎる」「果たしてチケットは売れるのか、どうやって売るのか、赤字になったらどうするのか」「準備期間もなく唐突だ」など、いろいろ異論、反論が出た。

4. 荻野隆義は、それらの意見に真摯に耳を傾けながら、興行にリスクは付き物であるが、これを実施することによって「大学に貢献する、地域社会の文化に少しでも貢献する、当会の今後の発展の礎にする・・」などを粘り強く語り、結果大方の賛同を得ることとなった。2007年は大学125周年という節目にも当たり、また練馬区は板橋区から分離独立して区制60年というタイミングでもある。

(ちなみに、2007年には大学創立125周年記念事業募金に対し、当会から692万円の寄付を行っている。累計では1,512万円の寄付を行っている)

5. この実現に向けて、2006年7月から10回に及ぶ打合せが持たれた。これに初期から関わったのは、荻野隆義、柳洋子、冨塚辰雄、小松袈伴、菅野純範であった。その結果、2007年1月20日に練馬文化センター大ホールにて「練馬稲門会主催・早稲田大学交響楽団二ューイヤーコンサート 」として第一回を実施することが決定した。 

夏から冬にかけ、ワセオケ事務局との打ち合わせと選曲、練馬区との折衝、会場の選定、会員への周知など山ほどの課題に取り組む傍ら、区内の主要な団体、企業を60以上巡回し、協力の要請を行った。これに主体的に関わったのは、柳洋子、華岡正泰であった。
 
6. 第1回の実行委員長は、当初からこれに関わってきた柳洋子が担当となり、チケット担当、広報担当、受付係り・・などの各担当もキメ細かく組織化され、総力で臨む態勢が整った。実行委員長は、第2回は冨塚辰雄、3回以降は小松袈伴が就いている。
 
第1回のコンサート~第9回まで、そして第10回へ
1. 第1回は大学の125周年にも当たり、同時に地域社会に貢献するという趣旨を実現するため、練馬区の緑化率30パーセントを目指す「みどりを育む基金」(後の練馬みどりの葉っぴー基金)への寄付を行うこととなった。これは現在まで継続している。
 
2. 役員始め全会員の力により、1,384席は年末にはほとんど完売となった。指定席は3,500円、自由席は2,000円に設定された。この入場料はワセオケの定期演奏会の料金をベースとしたものだ。
チケットの販売は、役員、幹事が中心的に行った。同時に校友会事務局から入手した練馬区在住の約7.000名のOB名簿をもとに、コンサート開催を知らせる案内と当会への入会を呼びかけるDMを発送した。有志が何日かに分けて事務局に集まり、宛名書きなど黙々と作業に取り組んだ。延べ数にすると優に100名を超える会員が作業にあたった。

3. 1月20日(土) 18:00に開演したコンサートには、続々と来場者が詰めかけ開始前から熱気あふれる会場と なった。開演に先立ち、荻野会長から志村豊志郎練馬区長に「練馬みどりの葉っぴー基金」への寄付金の贈呈が行われた。練馬区は当初協賛という立場であったが、2回からは後援になった。

 曽我大介指揮による演目は、ヴエルディ、ベルリオーズ、R・シュトラウスなどなじみのあるクラッシックの名曲が2時間にわたり演奏された。最後には「都の西北」が演奏され、それに合わせて会場も一体となって合唱し、感動の一夜は成功裏に終了した。当初はこの実現に危惧を抱いていた人も多かったが、この会場の熱気はそんな不安を吹き飛ばして余りあるものがあった。いわば、会員全員が待ち望んでいたイベントであり、当会の団結力が試された結果でもある。
当日配布されたパンフレットには、資生堂、損保ジャパン、J:COM、東京トヨペットなど各社が広告出稿で協力している。




4. 第2回目となる2008年以降のコンサートは以下の通りである。
第2回 2008年1月19日(土) 17時~
 指揮 田中雅彦 演目:ワーグナー、エルガー、J.シュトラウスⅠ世、Ⅱ世など
第3回 2009年1月17日(土) 17時~
 指揮 田中雅彦 演目:ウエーバー、R.シュトラウス、レハール、J.シュトラウスなど
第4回 2010年1月16日(土) 17時~
 指揮 田中 雅彦 演目:チャイコフスキー、ワルトトイフェル、J.シュトラウスⅡ世など
 

第5回 2011年1月22日(土) 17時~
 指揮 曽我大介 演目:べートーベン、メンデルスゾーン、J.シュトラウスⅡ世など


第6回 2012年1月21日(土) 17時~
 指揮 田中雅彦 演目:ワーグナー、ドボルザーク、油谷一幾・和太鼓と管弦楽、戸山雄三・管弦楽のためのラプソディなど
第7回 2013年1月19日(土) 17時~
 指揮 寺岡清高 演目:R.シュトラウス、J.シュトラウス、シュトラウスⅡ世など








第8回 2014年1月18日(土) 17時~
 指揮 寺岡清高 演目:ベートーベン、J.シュトラウスⅡ世
第9回 2015年1月17日(土) 17時~
 指揮 曽我大介 演目:チャイコフスキー、J.シュトラウスⅡ世




第10回を迎えて・・「継続は力である」
 第9回まで当会が総力を挙げて取り組んできたコンサートも、2016年で10回を迎えることとなった。当初はいろいろな不安
や危惧があったが「継続は力となる」という荻野隆義の言葉通り、いまや当会のシンボリックな催事として定着してきた。これを継続してきたことにより、会としての組織力、求心力が高まり、同時に毎回7,000名に及ぶ校友OBにダイレクトメールを出すことにより、新規会員の獲得にも大きな成果があった。大学に、地域社会に、校友OBに貢献するという意図は一応の成果をあげたといえる。

 迎える第10回は、2016年2月11日(木・祝日)、練馬区と共催という形で行われることが決定した。10回という節目となるが、これから先20年、30年先まで継続できるかどうかは、今後の課題として当会の力量が測られることでもある。

2015・4  広報・ICTチーム 鈴木奎三郎 記




 



練馬稲門会 小史 その4
                                             

当会の現在~組織化へ向けて
1. 2015年4月現在、登録されている会員総数は453名で、これは当会が設立されてから最大である。会員数が150名と低迷した20年程前と比べると、大きく前進したことになる。男女別、年齢別のデータはないが、総数だけでいえば東京23区支部稲門会のなかで杉並、世田谷に続く第3位であり、全国有数の稲門会といえる。
毎年40~50名に及ぶ新会員が入会し、同時に退会会員も毎年少なからず出てくるのが現状である。

2. 会員数がここ数年飛躍的に増加した原因は、およそ三つの要因が考えられる。ひとつは、サークル活動の活性化である。ふたつは、ニューイヤーコンサートのお知らせに当会への入会案内を同封し、約7,000名の校友に過去9年間出し続けたことである。三つ目は、サークルやNYコンサートの展開を裏方として支えてきた事務局スタッフの存在である。

3. 会員数が数的に増加した半面、サークル未加入の会員も半数近く存在し、年会費を払っているだけの休眠会員が数多く存在するのが現在の姿である。また同時に、一向に若手会員、女性会員が増えてこないという実情もある。

4. これらの課題を解決しさらなる前進を図るために、2014年5月に4つのチームを編成し、将来的に当会の発展をめざすために「組織化」を図ることとした。要は、これまでの親しい仲間による親睦組織を脱却し、機動的で前向きな組織としての活動を目指すものである。同時に、会員としての意識づけをいかに高めていくかも視野に入れるものである。2年程度の期間を一応のメドとしている。

4つのチームは以下のとおりである
・会員活性化チーム
会員の親睦を深め、サークル間の意思疎通を図る横グシの機能を果たしていく。サークル活動のさらなる充実、休眠会員の掘り起しなどを進めるため、サークル部長を中心とした打ち合わせ会を行っている。担当リーダーは富岡晃、サブリーダーに小島忠夫、石井弘美が就いている。

・地域貢献チーム
練馬区への貢献を果たすひとつとして、10回目を迎えるニューイヤーコンサートの開催を中心的な業務とし、同時に高齢者に対する何らかのサポートを視野に入れる。担当リーダーは荻野隆義、サブリーダーは小松袈伴、仲山典美である。

・大学・23区支部チーム
大学、校友会へのさまざまな協力、23区支部との連携、稲門祭への対応、ワセダグッズの頒布などに関わることを担当する。担当リーダーは松本誠。

・広報・ICTチーム(ICT=情報通信技術)
会員への定期的な情報紙「練稲PRESS」の作成・配布、「練馬稲門会小史」の作成、ホームページの作成・更新、総会時に配布する「会報」の作成などを行う。これにより、会員の活性化を図る。また、会員名簿を日常的に更新、管理、同時に会員のネット利用を促進する。また、大学のQUONNET(クオンネット)を活用し、新入会員の募集、ホームページのPRを図る。担当リーダーは鈴木奎三郎、サブリーダーは山田興太郎、照山忠利である。

事務局の機能
4つのチームを補佐し、総会の開催や会全体としての行事、特命的な業務を進めるために、当面事務局体制を維持する。総会、お花見会、納涼祭、稲門祭、新年会など共通行事を担う。当会の「規約」も今日の実情に合わせて改定する。リーダーは幹事長・会長代行の関博之が務める。将来的には、総務チームとして独立を視野に入れる。

会員の区分と年会費
2015年1月の役員会で会員の区分を以下の通りとした。
●正会員(早稲田大学卒業生は個人会員、その家族はファミリー会員)。
年会費は個人会員3,000円、ファミリー  会員2,000円。
●準会員(早稲田大学現役学生) 年会費無料
●賛助会員(卒業生でない入会希望者。役員2名の推薦が必要。年会費3,000円)
なお、年会費3年未納者は会員資格を失うものとする。

サークルの現在 
1. 2015年4月現在、登録されているサークルは21に及ぶ。活発な活動を行っているサークルがある反面、なかには準備中ものもあり、サークルよってその活動は温度差がある。しかし、サークルに入って好きなことを気の合う仲間と時間を共有する・・という本来の当会の目的からすれば、一応の目的は達成されている。

2. 4月1日現在のサークルの現状と責任者は以下の通りである。
  →サークル連絡表50kB

これまで、そしてこれから
大学の校友会本部が認定する稲門会は、初めに記したように1,400を超える。そのひとつである当会は、練馬区という地域社会をベースに構成されている。その練馬区には、物故者を除き少なくとも約8,000名の卒業生がいる。
そのなかにあって、当会の450名という現在の会員数はわずか6パーセント弱にすぎない。これが多いのか少ないのかはいろいろと意見が分かれるところだが、“ワセダ”というひとつの縁で結ばれた当会は、これからも世代交代を繰り返しながら、会員の現在、そして老後の豊かな生活や生きがいの一助になっていくことが求められている。創立37年となる練馬稲門会。これからもご一緒に楽しく豊かな会にしていこうではありませんか。

2015年4月 広報・ICTチーム編集 構成・文:鈴木奎三郎 写真編集:岡田吉郎
編集協力:山田興太郎 照山忠利 小澤由喜雄 築山哲 石村毅 塩出重弘